黒田家遺跡発掘 と播磨の旧記
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江戸中期、黒田家では播磨の先祖の墓の所在さえ知らなかった。それを発見したのが姫路心光寺の住職・入誉であった。その報告に応じて黒田家から役人が派遣され廟所を建設した。その折、福岡から播磨へやってきた役人の一人に普請役の山口武乕がいた。山口は役目のかたわら姫路とその近辺の旧記や伝承を収集した。さてその結果は――? 寛政から享和年間にいたる御着廟所建設事業のてんまつも加え、ここにはじめて播磨伝黒田家前史が明らかになる。
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播磨黒田氏とその系譜
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播州姫路の旧記によれば、黒田官兵衛は播磨国多可郡黒田村の産であり、父は黒田重隆である。そして官兵衛は姫路城主・小寺職隆の猶子(養子)となったとある。しかしそれ以上のことは知れなかった。しかるに、その多可郡黒田村に決定的な史料があった。それが荘厳寺本「黒田家略系図」である。この系図により播磨黒田氏の起源と歴史が明らかになった。これまでその存在さえ知られなかった播磨黒田氏に関する、前例のない先駆的研究とされる重要論文。
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貝原益軒の 筑前産黒田家前史
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黒田官兵衛の先祖は近江黒田氏であり、黒田家は備前経由で播磨へやってきたとするのが、現在通説となっている黒田家前史である。それは17世紀後期に貝原益軒が書き出したストーリーを典拠としている。しかし貝原益軒はどこからその筋書の着想を得たのか。貝原益軒は何を参照してその前史物語を書いたのか。それを徹底解明したのがこの論文である。これにより貝原益軒が何をどう操作して黒田家前史を作成したか、その物語の虚構性が明らかにされた。
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播磨黒田氏根本地考
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かつて多可郡黒田村と呼ばれたこの地は、播磨黒田氏の根本地である。そこにのこる黒田城址の遺構から、中世の山城・黒田城址の全貌を解明する。また江戸時代の黒田村の絵図とその口碑により、表門や構居、あるいは黒田氏菩提寺・円光寺の位置などが比定できる。さらにこれにより城下の基本構造が推測できることから、中世の黒田城下の復元を試みる。あわせて播磨国風土記の記事から古代黒田里の神話世界にも言及する。初の播磨黒田氏根本地論。
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キリシタン大名 小寺官兵衛
(準 備 中)
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貝原益軒の黒田家前史物語では、完全に抹殺された事実がある。その一つが、官兵衛がキリシタンだったことだ。官兵衛は播磨時代、高山右近らの導きによりキリシタンへ改宗した。その霊名はシメオン。官兵衛は最後まで棄教せず、キリシタンとして死んだ。彼の葬儀はキリスト教式であり、遺言により死後博多に教会に立派な教会が建設された。彼はどんなキリシタンだったのか、秀吉の掣肘をいかにかわしたのか、等々、イエズス会報告書等キリシタン文献の記事から、キリシタン大名・小寺官兵衛の実像を検証する。
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後藤又兵衛覚書
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後藤又兵衛。いわゆる黒田二十四騎の中でも最も興味深い人物である。その出自は播磨後藤氏。しかしその父・基国や又兵衛が黒田官兵衛麾下に入った時期などは、不明な点が多い。そのため筑前産の謬説をはじめ諸説跋扈の状態である。また又兵衛の兄弟・子女について松本多喜雄の先行研究があるが、若干補足訂正する点もあるようだ。キリシタン・後藤又兵衛という興味深い局面もある。それら現段階での問題点を整理し、後藤又兵衛新研究のための次の一歩を示す。又兵衛近習・長澤九郎兵衛の筆記録を附録。
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