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瀋陽日本人教師の会ホーム

日本語クラブ18号 

(2004年11月13日発行、2004年度第1号)

会員寄稿目次

日本語・中国語混合言葉

       宇野 浩司   沈陽市外国語学校
外国人専家と留学生以外の使用を禁ず 加藤 正宏 瀋陽薬科大学

いわせてもらお 中国版

山形 達也 瀋陽薬科大学

「在日本的学生,在中国的学生」

森林 久恵 東北育才外語学校

新校舎・宿舎の七不思議

石井 康男 遼寧大学外国語学院

思いつくままに

中道 秀毅 瀋陽師範大学
九月は心の晴れない記念日が続く 中道 恵津 瀋陽師範大学

学生の感想文1

李艶秋
韓艶飛
劉芳芳
李佳
斉暁波
安容実

「日本語」おちこぼれあれこれ

シラえもんこと峰村 洋   瀋陽薬科大学

 

 

日本語・中国語混合言葉

宇野 浩司 (沈陽市外国語学校)

去年の4月半ばから5月半ばにかけての、「非典型肺炎」いわゆる「SARS」の猛攻によって学校のメーデー休みが通常よりも長くなり、なにもやる事がないときに、ふとした事から「日本語・中国語混合言葉遊び」をするようになりました。その後も時々するようになりました。

 以下に今まで考えついた中から15個紹介致します。

1.         看電視(カンディエンシィー)で感電死

2.         餃子(ジャオズー)、上手

3.         燕京(イェンジン)飲んでエンジンかける(「燕京」とは有名な北京のビール)

4.         岩塩で肝炎(ガンイェン)

5.         氷箱(ビンシャン)、ビシャン

6.         毛衣(マオイー)、もういい

7.         雨傘(ユ−サン)持って、物見遊山

8.         月餅(ユエビン)郵便

9.         アンパイヤ、「そんな安排(アンパイ)、いや」

10.     ぬあんちって(ぬあんちゃって)暖気(ヌアンチ)

11.     機場(ジーチャン)に爺ちゃん

12.     九点(ジュ−ディエン)に充電

13.     神社に警察(ジンチャ−)

14.     塩素で顔色(イェンソ)落ち

15.     磁帯(ヅーダイ)、ヅーダイ(チョウダイ)

 以上ですが、まだまだ考え中です。皆様もよかったらやってみてください。いい生き抜きになると思います。なりすぎますか?

私が持っているパソコンの都合で、漢字は全て日本の漢字を使用しました。

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外国人専家と留学生以外の使用を禁ず

                    加藤 正宏 (瀋陽薬科大学)         

朝8時前に、1階の入り口にある守衛さんの隣の部屋、そこにある洗濯機に汚れ物を持って行って、洗おうとしたところ、先着があり、回っている洗濯機の横にはまだ洗濯機に投げ入れていない一山の洗濯物が置いてあった。それは一見して、外国人教師や留学生の衣服ではなかった。そこで、すぐ見当がついた。昼間の守衛さんで、自家用車で乗りつけ、その自動車を磨くか、テレビを見ているか、寝不足で朝早くから夜勤の守衛さんが横になるベッドで寝ていることが多い、その人物が自分の私的な洗濯物を毎日のように持って来ては、私たち外人専用に用意された、たった1台の洗濯機で洗濯しているのを見かけていたからである。公私混同に苦々しくは思ったが、洗濯時間がかち合うことも無かったこともあり、その時はこれも中国的な日常ごとだと思い、口に出すこともなかった。

かの守衛さんに、誰が洗濯しているのかと声を掛けてみた。見当をつけていた当人は悪びれもせず、自分のだという。1時間で終わるのかと重ねて問うたところ、10時半に来なよとの答えが返ってきた。この洗濯機は、汚れ物を一度入れて回すと、1時間弱で回る。だから、今入れているのだけは仕方が無いと考えて、1時間で終わるのかと問うたのである。ところが、2時間半後に来いというのだ。汚れ物を入れたバケツをそこに置いておくわけにもいかず、1度は部屋に持ち帰った。しかし、同僚も洗えずに黙って持ち帰ってきたという話を聞くに及んで、これはほって置けないと考えた。このことは遠慮するべきことではない。外人教師と留学生用に用意された電機洗濯機である。我々が不便を我慢することはない。同僚を伴って、掛け合いに出向いた。「この仕事場で汚れた物だったら、それを洗うのに、この洗濯機を使うのはかまわない。しかし、この洗濯機で洗うために、家庭の汚れ物を持ってくるのはやめろ。」と強い語気で率直に彼に告げたところ、「休暇になっているのだから、この洗濯機も使われないんだから、使ってなぜ悪い。」というような答えにもならない反論を大声でしてきたので、私も語気を荒げて、今日だけでなく何日も前から私用の汚れ物をこの洗濯機を使って洗い、干しているのを見かけていると応酬し、「今日のところは外事処には言わないが、以後も私物を持ってくるなら、きっちり報告する。分かったか。」と述べ、守衛室を出て予定をしていた北陵(昭陵)の観光に出かけた。

3時半に帰ってきて、部屋に戻ったところ、電気がつかない、近頃には珍しい停電かと思ったが、同僚の部屋は停電ではなく、この建物のどの部屋も停電にはなっていない。ぴんと来たのは、配電盤が守衛室にあるはずだということであった。言い争った守衛がいる部屋だ。意趣返しの可能性が高い。でも、そこに配電盤があるかどうか、不確かである。そこで、外国人教師の住居になっているもう1つの建物の招待所を訪ねてみた。ここでは配電盤は守衛室になく、各階の廊下に据え付けられていた。だが、我々の建物のそれぞれの階の壁にはそれらしい物が見当らない。

かの守衛が夜勤の守衛さんと交代するのを待って、守衛室にお邪魔し、見てみると、やはり大きな配電盤があり、各部屋の電気のメーターは少しずつ動いているのに、我が部屋のメーターはまったく動いていない。でも表面から見る限り、配線もスイッチも他の部屋と変わりがない。単純なスイッチの切り替えではないようだ。そこで、我が部屋だけが停電になっていることと、今朝の出来事を、夜勤の守衛さんに話してみた。彼は、すぐに電気工事担当の者を呼んでくれた。担当者はしばらく首を傾げながらあちこち調べていたが、最後に配電盤の裏を見て、線が断たれているのを発見し、繋いでくれた。メーターは動き始めた。停電は解消された。やはり線は人為的に断たれたものだったのだ。

翌朝、昼の守衛が出勤して来るのを待って、やって来るや、昨日勤務中にこの部屋に誰も入れなかったのかを問い、確認した上で、この部屋の配電盤のうち一つの部屋だけが、配電盤の裏で線が切られていて、電気がつかなかったこと、この切断は故意にした人為的なものであること、部屋に居るか、入ってきた者以外は切断できないこと、入ってきた者が居たんだったら、あんたは守衛としての職務を果たしていないんだと言い切っておいて、再度確認した。そして、誰も入っていないのなら、切断したのはあなたしか考えられないと問いつめた。そんなことは知らない知るものか、自分でやっておいて俺に嫌疑をなすり付けようとするのかと大声で反駁してくる彼に、こちらも大声で応酬した。自分の部屋を停電にする必要がなぜあるんだ、誰がそんなことするか、そんなことをする者はどこにも居ないと、こんなやり取りを大声で数回続けたが、状況証拠しかないため、それ以上はらちがあかず、そこまでとなった。私としては、再度やられないためにも、やられっぱなしで黙っている人間じゃないことを伝えておきたかったのが、今回の行動だったので、その意図は十分果たし終えた。

勿論、ここに書いたような言葉そのものを中国語でスムースに話せたわけではない。しかし、会話文にできない時でも、動作をまじえ単語をつなぎあわせ、このような内容をとにかく伝えることができた。

10月2日その日のうちに、外事処の張り紙が洗濯機の後ろの壁に取り付けられた。外国人専家と留学生以外は一律洗濯機の使用を禁止するという内容のものだ。私が直訴したからではない。私の部屋だけが停電になった状況とその背景を、夜勤の守衛さんが外事処に伝えてくれたからだ。

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いわせてもらお 中国版

                   山形 達也 (瀋陽薬科大学)

あなた達日本人は、中国に来てどうして私たちをパンダみたいに眺めて、ああだ、こうだ言っているのですか。お互い同じ人間じゃないですか。すること為すこと、大して違わないでしょ?

えっ、『違う』ですって?『することが違うから面白いんです』って?違っているから、あれこれ観察してエッセイや本に書きまくり、「直ぐ隣の国ではこんなに人のやることが違う。違いは何に起因するか?」なんて本を出しているのですか?それが『比較文化人類学なんです』って?

冗談じゃないですよ。やめて下さいよ、そんなこと。私たちのやることがそんなに珍しいのですか。私たち、当たり前の生き方をしているに過ぎないのですよ。

『だから、それがどうして起こったのかが学問の対象と。。。』

それが、学問になるんですか? 単なる興味じゃないですか? あなたの隣のうちに真昼間ハンサムな男が訊ねて来たままシンとしていたら、「あら、お隣の家庭の平和が心配」とか何とか言いながら、一所懸命のぞき込んで、友達に尾ひれを付けて言いふらすんでしょ。それと同じ、下司根性丸出しで、私たちを見ているのですよ、口では尤もらしいことを言いながらね。

『だって、道につばを吐いたり、痰を吐いたり、挙げ句には器用に手鼻をかむけど、あんなこと日本では考えられないわ。大体不潔じゃない?』

そうかも知れないませんね。不潔と思ったことはないですけどね。中街の通りみたいに法律で禁止されれば、しないで済ませられるのですよ。だけど、ここは私たちの国の、私たちの道路でしょ。それをどう使ったって、よその国の人が文句言う筋合いのものじゃないでしょ?

大体ここは埃の多いところでね。埃が多けりゃどうしても痰が出ますよね。それを外にはき出すのはごく自然なことじゃないですか? それを我慢しろって言うのですか?

あなただったら、そういうときどうしますか?えっ、『飲み込む』?汚いねえ。痰は吸った空気の中の汚いものを気管の粘液にくっ付けて排泄しているんですよ。ご存じでしょう?どんな汚いものが含まれているか分かったもんじゃないのに、飲み込んで身体の中に入れるのですか?その方がよほど不潔じゃないですか。

あなたは『ティッシュペーパーに痰を取る』って?なるほど、そりゃ結構。だけどこの埃の中でそのたびにティッシュを使っていたら、どれだけ紙が要るか分かりませんよ。私たちは手鼻をかむから汚いって言うけれど、ティッシュを使えば金がかかるし、第一、お偉いさんが言っていたけれど、私たち中国の国民全部が日本並みにティッシュを使ったら、世界中の木が裸になるといいますよね。それを知ったうえで、批判しているのですか?

なんですって?『理由は分かった。』そうですか。『だけど、道がつばや痰だらけで汚い』って?『乾いたら埃になって、また鼻から入って来て、汚いからやめなさい』だって?

不衛生だって言うのですね。そうかも知れませんね。ですけどね。糞便を船に積んで太平洋の沖合に捨てている国が良く言いますね。私じゃありませんよ、船に乗ったことはないですからね。だけど私の遠い親戚が船に乗ったときにこれに出合ったことがあると言っていました。太平洋の黒い潮に乗って黄色の帯がずっと続いているってことですよ。あなたたちは、自分の出したものをそのまま海に垂れ流しているってことですよ。これが汚くないって言うのですか? 道につばを吐くから非衛生的だって言うけれど、あなた達は他国の人の環境まで汚しているのですよ。中国では糞便の海洋投棄なんてひどいことはやっていませんからね。日本のやっていることは、五十歩百歩どころか、もっと悪いじゃありませんか。

目くそ、鼻くそを笑うって、こういうことを言うんじゃないでしょうかね?人を批判するときは、自分が何をしているかも振り返って見て下さいよ。

なんですって?『中国ではバスに乗るとき並ばない』?『汽車の切符を買うとき並ばないで、我がちに窓口に押し寄せる』?『公共トイレには仕切りやドアがないから、恥ずかしくって中国ではトイレに行けない』?

ははア、敵わないと見て別の搦め手から来たのですね。いいでしょう、トイレの個室にドアがないかも知れないけれど、元々ないところで育ったのだから、私たちはそんなことを気にしていないですよ。

大体、トイレに入るのは排便のためでしょう?みんな誰でも同じ格好、することも同じですよ。どうして恥ずかしいことがあるのですか。男と女は完全に別々なのですから、構わないじゃありませんか。

トイレで金勘定をしたい? トイレで着替えて夜の遊びに行く?トイレは元々そんなことのために作られているんじゃありませんよ。そのためにドアを付けろというのは、無理ってもんですね。大体、境がないから、紙の足りないときには人から簡単に借りられると言う利点だってありますよ。日本じゃどうするのですか? 紙がないときはほんとに困るでしょ?

それに、仕切がないから用を足しながら隣とおしゃべりが出来ますよ。あなたたちはトイレで沈思黙考すると言っているけれど、隣りとカミさんの悪口を言いながらぐっと腹に力を入れてポッと出たときは、この上ない快感ですよ。こういう楽しみを知らないで、何で文句を垂れるのですか?

さらに、私たちが窓口で並ばないって非難していますね。確かに私たちは並んで順番を待つなんてことはしませんね。早い者勝ちです。でも、用のある人が殺到すれば、要求度の高い人、意志の強い人が自然に勝つに決まっていますよね。要求度の高い方から順に満たされるということは、自然の理に適っているでしょう? けれど、『体の弱い人はどうする』って? 

確かにそれは問題ですね。私たちも何時までも若いわけではないってことに気付いてきたし、4年後には北京でオリンピックも開かれるから、この頃は窓口で並ぶ習慣もできて来ました。ま、悪いことではないですね。しかし、人と競り合って逞しく生きて来た中国人の伝統が、こういうところで傷つきそうで心配です。ね、この間のアテネオリンピックでは中国はアメリカに次いで二番目に金メダルの数が多かったでしょ。「弱者をいたわり、整然と並ぼう」なんて言うのは、私たちのバイタリティーを削いで、次のオリンピックで中国に金メダルを一番多く取らせないための、どこかの国の陰謀に違いないですよ。

それから、何が問題ですか?『どうして誰もが平気で道路にゴミを捨てるのか』って?『アパートだって、自分のうちの中のゴミを廊下や階段にバンバン捨てていて、これでオリンピックが出来るのか』という質問ですか。質問じゃなくて、これは詰問ですね。

でもね、中国で今は労働力が余っているのですよ。朝早く道路を見たことがありますか? 夏だと朝5時から黄色と赤の目立つジャケットを着た人が道に出て道を綺麗にしているでしょ? 市が彼らを雇って道を綺麗にしているのですよ。アパートだって管理人がいるでしょ? 道が綺麗になって彼らの仕事がなくなったら、彼らにどうやって生きていけというんですか? 

それから何ですか?えっ、もう質問はないのですか?それならこっちからも言わせて貰いましょ。私たちから見ると、日本人にも結構おかしなことがあるんですよ。

日本には温泉があちこちに沢山あって、男女が裸で一緒に入る混浴があるのですって?

あなた達日本人は、このおかしな習慣を何とも思っていないのでしょうか?恥ずかしくないのですか?『風呂にはいるときゃ、みな裸だから恥ずかしくない』って?そんなこと言ってるんじゃないですよ。男女が一緒に裸になっているってことを言っているんですよ。中国では男女が混浴するなんて、とんでもない。この国じゃ、そんな非道徳的なことは全く考えられませんね。

いいですか。中国生まれの私たちには、混浴とは非常識であり得ない存在なのですよ。あなたたちには当たり前のことが、こっちには驚天動地の驚きなのですね。これで少しは分かるでしょう? 中国で、あなたたちが驚き呆れて皆に触れ回っていることは、ただ自分たちの尺度から見ての話だってことが。

立場を変えれば、あなたたちも珍しいパンダと同じことですよ。そこまで分かったうえで、あれこれ私たちのことを言っているのですか?

どうです?一緒にそこの飯店で飲みながら、もう一寸お話ししませんか。お互いあら探しをするんじゃなくて、互いの違いを良く理解しましょうよ。

おっとっと。誘ったのは私なんですから、私に勘定は払わせて下さい。そんな、割り勘だなんて、私が払えないみたいなこと言って、私の面子を潰しちゃいけませんよ。だめだめ、断じて私が払います。

それでは、再見。

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「在日本的学生,在中国的学生」

森林 久恵 (東北育才外語学校)

私は3年間京都の日本語学校で専任講師をしていました。この学校は他の日本語学校と比べて特に大学受験のための予備教育を行うという要素が強く、ほぼ100%の学生が大学などに進学します。また、現在の職場である東北育才外国語学校の日本語学習者の目的も日本の大学への進学です。両者は最終的な目的が同じでありながら、全く性質が異なります。この2つの質の違う日本語学習者を目にして、日本国内で日本語を学ぶ学習者と日本国外で日本語を学ぶ学習者との違いはどこから生まれてくるのか、という疑問を持ちました。

大学在学中にたまたま参加したセミナーで“Japanese as second language”  “Japanese as foreign language”という言葉を聞きましたが、私が興味を持ったのは学習者の違いというより正にこの日本語教育のあり方の違いなのだと思います。

日本で初級レベルから始める学生の場合、正にサバイバルな状況にあります。私たちが中国語ができなければ日常的に不利益を被る可能性が高いのと同じです。中国からのほとんどの学生はアルバイトをしますし、日本語を聞いたり発話したりする機会に恵まれていると思います。おそらくコミュニケーション能力を上げなければならないと肌で感じている学生が多いと思います。

では、現在私たちが担当しているような日本以外の国の日本語学習者は毎日どのような心理状況下で学習に取り組んでいるのか、と考えたとき、コミュニケーション能力を上げたいと考えている学生は少ないと言えると思います。日本語が使えなければ生きていけない環境にいるわけではないのですから当然です。試験で良い成績をとるために勉強している学生が多いのでしょう。これはもちろん学習動機として重要なことで、教師側としてもいい成績をとるために勉強してもらわなければなりません。確かに重要な動機のひとつですが、私が問題だと思うのは、これが唯一の動機である学生がけっこうたくさんいることです。日本の英語教育のように、学生に「試験でいい成績をとる」という動機しか与えられない外国語教育では運用能力が身につかないし、外国語を学ぶことによって何が得られたのか自分で気づくことができません。

この問題を解決するためには、教師の側からそれ以外の学習動機を提供することが重要です。私たちもこの問題を解決するべくカリキュラムの見直しを行ったり、公開授業を行ったりしています。また、外国語教育のように長期間モチベーションを引き上げることが要求される環境下では、教師が学習者に対して適切に満足感を与える作業を行い、適当な評価を行っていくことがとても重要になってくると思います。

私はずっと自分は指導者ではないと思ってきました。学生は本当にすばらしい能力を持っているので、とても私なんかが指導できるものではないからです。学生は自分で勉強できる力を持っているのだから、私は支援者であるべきだといつも思っています。学生がより持続的により質の高い学習を自ら行えるような環境を整備していきたいと思います。

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新校舎・宿舎の七不思議

                    石井 康男 (遼寧大学外国語学院)

1:聴解の授業のために視聴覚教室へ!

新築の立派な建物と教室と机などに似つかわしくない旧式の機材?

予算がないために外国語学院が使用する教室だけは元の校舎から旧式のLL機材を運び、設置したとのこと。あとで知ったことですが、他の学院が使う教室は最新式のLL設備である。

さて、3年生は遼陽から来たばかりの学生でまだ面識がない。挨拶を済ませ、まずは自己紹介から始めようとして名前を書くために振り向いて・・・唖然!

なんと黒板が無い。真っ白な壁ばかり・・・。白板ではない、念のため。

早速に管理担当者に聞きに行くと、どの教室にも黒板は無いとの返事。視聴覚教室だから黒板は要らないだろうとのこと。

確かにどの教室にも黒板が見当たらない・・・・。現在もまだ設置されていない。

2:新宿舎へ転居  

水桶かついで・・・・。

専家楼は留学生と共用の建物。同じ階に留学生401室があり、また外教用宿舎にも401室がある。その区別が表示されていないから混乱を招く。外部から来た人は東の端の401室から西の端の401室までうろうろと探し回る。436室の横にドアーがあり、そこを開けると外教の401室〜405室となっているが何の表示も無いから分かりにくい。 

八王子の鉱泉水のお兄さんは重たい水桶をかついで行ったり来たりしてやっと見つけ、早口で何か文句を言っていたが聞き取れなかった。配達人が変わると同様の事態が発生する可能性がある。

3:WC・バスルームの電灯のスイッチはどこ?

WCを使用する時、電気をつけようと入り口の内外を見てもスイッチが見つからない。この状況では無いと認識するが普通である。

しかし立派に有るのである。ただ出入り口ではなく、台所の離れた壁面の中央にWC専用のスイッチが立派に存在するのである。初めて来た人は探し出せないでしょう。WCのスイッチ探しクイズでもしようかと考えている。

4:コンセントはどこ?

台所・ダイニングにコンセントが無い。

IH式の調理器具のためのコンセントが一箇所あるが、ダイニングのどこの壁面にもコンセントが無い。冷蔵庫などの電源は隣室から延長コードを引いてきて使用することになった。コードをドアーの下をくぐらせるのでドアーの開閉に気を使う。電気の器具を使うときには蛸足配線になって気がかりである。

5:ネズミは電話線が好物?

書斎(居間)の電話2回線の差込みコンセントが2個あるが、どちらにも信号が来ていない。修理に来た担当者いわく、「この回線は途中でネズミが線をかじったので修理が出来ない。寝室の回線から延長してくるしかない」と。新築の部屋である。しかたが無いから延長線を購入してきて自分で配線をするしかない。しかも日本から持ってきているFAX付の電話機を使うと信号不調になるからと言って勝手にはずして帰ってしまった。

電話信号が不調の原因になるとは・・? 世界共通のはずだが・・・! 理解不能!!!

6:「水の怪坂」? 水は高所に流れる・・・?

バスルームに常に水が溜まっていて不潔な感じがする。点検をして見ると、バスタブの排水管から水漏れがある様子。シャワーを使うとバスタブの底のあたりから水が出てくる。その水が床に溜まってくる。床面を検査して見ると、なんと排水口が床面よりも高い・・・!一定の水量があれば排水口に流れていくが、水量が少なくなると溜まってしまう。

排水口を作る時に傾斜をつけることを考えていない。点検もしていない。

もしかすると中国では、水は高所に流れるのではないか。

「水の怪坂」版かも・・・・?

7:外教よりも留学生の安全確保?

留学生宿舎と外教宿舎との仕切りドアーに鍵をかけることが出来るようになっている。しかし、留学生宿舎側から手動式で鍵を掛けることが出来るようになっている。もしこれを留学生宿舎側から回して掛けると外教宿舎からは出入りが出来なくなる。合鍵がなければ開けられない。

本来は外教宿舎側から掛けて留学生側からは出入りが出来ないようにするのが一般的だと思われる。鍵のつけ方が反対になっていると考える。

もしかすると免費の外教よりも一日一人平均5ドルの宿舎費を支払う留学生の方が大切だと考えているのではないだろうか?

僻みかな?考え過ぎかな?と反省をしてみる。

設備・設計をする時、何を考えているのだろろうかというよりも、何も考えていないのではなかろうか。

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思いつくままに

中道 秀毅 (瀋陽師範大学)

1、ワインレッド

今、9月18日(土)昼前だが、安全地帯と言う60年代に人気を博したグループの演奏をNHK海外ワールド放送が流している。ワインレッドと言う曲は憶えていた。ソフトな都会的センスでボーカルの歌い上げる声に哀調がにじんでいる。

現職時代、一体何をめぐってきりきりしていたのかと、学校のあの忙しさが嘘のように思われる。安全地帯が風靡していたあの時代の曲を瀋陽師範大の宿舎で聴いている。「悲しみよさようなら」・・・あなたにさようなら・・・。青春の果てしない憧れ・・・。かなしみ・ため息が歌になって流れている。

2、「波浮の港」によせて

過日の教師会歓迎会の宴の賑わいにと「波浮の港」を歌いました。(お耳を煩わせました。)

野口雨情作詞・中山晋平作曲の昭和の名曲で、昭和2年ごろオペラの藤原義江が歌って大流行させました。小学生のころの私は名前から女だとばかり思っていたのでした。その後男と判って自嘲しました。世界的にも日本を代表する歌手です。学生時代に藤原歌劇団の「トスカ」と「ラ・ボエーム」を神田共立講堂で堪能しました。

あの日、下手な歌に加えて蛇足の解説をしてお笑いでした。昭和2年といえば芥川龍之介が自殺した年。もし死ななかったら漱石に継ぐ文豪になっていたのにと常々悔しい思いがあったので、「波浮の港」を歌ったとき、昭和2年からの連想でつい芥川のことに話しが飛んでしまいました。

かみさんが後で、「唐突に芥川が出てきて文学的にどうのと言ったって、聞き手は何のことかわからないでしょ。自殺した年がこの唄の流行った頃とか言わないと。」と言われてしまいました。自分の意識の中では話したつもりでしたが・・・。歓迎会を賑わわせる一興としてお見逃しください。

「波浮の港」には、昭和の初期の島の暮らしの厳しさや貧しさと共に健気な島の娘たちの純情がよく歌われています。

私事ですが、母は91歳でなくなりました。最後は脳血栓で一年間意識のないままでした。その前は音楽療法ということで、月に一遍はすてきな先生がおいでになり、おしゃべりしたり歌を歌ったりしてひと時を過ごしていました。母は歌が大好きで、レパートリーも広かったのでした。「次は何にしますか?」と先生が聞くのに、「波浮の港です。」「あら、いい歌ですね・・。」と、先生のメロディオンの伴奏で僕も入って3人で歌いました。

その頃もう退職していた僕は毎日母の面倒を見ていましたが、あの日母と「波浮の港」を歌い、しみじみとしたこの歌を母は好きなんだと心に残りました。

1999年3月に母は亡くなり、その年の8月に僕たちは山東省青島に来たわけです。同じ年の1月には娘の初出産で孫娘が生まれましたから、人生ってのは悲しみと喜びとが表裏一体なのだと痛感しました。

3、追悼、その晩の芥川龍之介のこと

芥川龍之介は、小説の神様と文学の世界では尊敬されている志賀直哉にも好意を持たれていたようです。芥川の短編小説は題材と変化に富んだ手法、その絶妙な文章が魅力的です。師範大の学生と小説「鼻」を読みました。

鼻の長い僧が悩む、その心理描写の面白さと落ち着いた文章を夏目漱石が激賞し文壇への登場となります。東京大学の学生であった芥川へ手紙で、このような作品を10作ほどお書きなさい、と。 

芥川の小説は誰もが一つか二つは読んだことのある懐かしい思い出をお持ちのことでしょう。身近な感じの親しめる作風の芥川が36歳の7月24日未明に自殺したのが、先ほどから問題の昭和2年だったのです。

教室で学生には話せなかったけれど、作家江口渙が面白いエピソードを書いています。彼は芥川と同級生だつたと思います。

大正8年頃、作家仲間が十日会というサロンをつくっていましたが、ある晩江口渙に連れられて初めて芥川が顔をだします。作家岡本かの子、夫で漫画家岡本一平(岡本太郎はその子供)もいました。江口はかの子と向きあった椅子にかけ、芥川も傍の椅子にいます。

その頃、かの子は江口に週に3回は手紙を寄こし返事が遅れると速達の催促がきたりする関係で、江口は少なからずいい気持ちになっていたらしいです。そこで彼は芥川に岡本かの子を紹介します。かの子はまだ小説は書かず明星派の歌人でしたが、芥川は彼女を知っていたそうです。     

かの子を相手に喋りまくる江口に、芥川は普段の彼に似ず殆ど口をきかないで,ただかの子の顔ばかりみつめています。以下少し長いですが、江口渙の文章を引用してみます。

<岡本かの子が席をたって他の人たちのところに行ってしまうと、彼女のうしろ姿をみていた芥川が初めて私に話しかけた。 

「きみ。岡本かの子って、アイヌみたいな顔をしている女だね」「なる程、そう言われればそうだねえ。」と同調した。やや迫ったようなふとい眉、角ばったあご。特に口紅をこくぬった部厚で平べったい唇は、口のまわりに入れ墨をしているアイヌ女を思わすものがある。これでもう少し鼻すじがとおっていればもっとアイヌ女らしいのだがなあと、私は思った。するとまた芥川がいった。「岡本かの子の肉体、実にいい肉体だね。たいした肉体だなあ。」なる程、乳房の申し分ない盛り上がりを思わす胸のふくらみ方や、でっぷりとした胴体のありさまは彼女の肉体の豊かさをあますところなく示している。芥川の言葉にはだから、誇張のあとはみられなかった。本気で感嘆しているのだった。だが、芥川が彼女の肉体にそんなにまで興味をもとうとは思ってもいなかったので私はいささかとまどった感じだった。 

やがて岡本かの子がまた、前の椅子にかえってきた。すると芥川はそれまでとは打って変わって、にわかに親しみぶかさを見せて話しかけた。そしていつか座談の上手な普段の芥川にかえって、もち前のウイットに富んだ話し方でしきりに彼女を笑わせた。

「岡本さん。その襟巻き。それなんです。」芥川はテーブルの上に置いた彼女の毛皮に眼をつけた。「これ、黒テンです。」「そのマッフルは。」「これもそうなんですの。」「ちよっと、それ、ぼくに貸してごらんなさい。」芥川は立ち上がって彼女の手から黒テンを四,五匹つないだ長い襟巻きをうけとると、たちまち、それで頭の周りにぐるぐると鉢巻をした。

「どうだい、江口君。こういうターバンもいいじゃないか。」なるほど黒い毛皮のターバンもいいなあと思った。とくに、細面の色の青白い芥川にそれはよく似合った。芥川はさらにマッフルを両手にはめ細長い体をややそり身にして肩を軽くゆすりながら彼女の傍をいったりきたりした。そしてときどき毛皮に鼻を埋めて彼女の匂いをかぎながら、やきつくような視線を、ちらりちらりと彼女の肉体に注ぐ。岡本かの子は岡本かの子で「あらまあ」「あらまあ」と言いながら、驚いたように芥川を見上げている。その眼の中ではいかにも嬉しそうに光が一ぱい溢れていた。

芥川は確か「或る阿呆の一生」の中で岡本かの子らしき女と人力車を連ねて温泉場に行くことを書いている。また岡本かの子も「鶴は病みき」という小説の中で芥川らしき男のことを書いた。

(中道注:かの子はこの作品で女流作家の地位を築いたと言うのも皮肉なことといえる。)

岡本かの子をしてあのような小説を書かせることになった素因は、私が初めて芥川に紹介した時、つまり大正9年1月10日の晩に、はやくも芥川の中に用意されていたのである。>

(「芥川龍之介読本」昭和29年12月・河出書房刊より、江口渙「十日会の晩」)

芥川のありし日の姿を教師会の先生方に参考までにご紹介しました。

「或る阿呆の一生」と「歯車」は彼が遺書のつもりで書いたもので,前者は死後「改造」十月に、後者もやはり死後に「文芸春秋」十月号に掲載されました。

先輩に当たる谷崎潤一郎の芥川を悼む文章も読ませます。谷崎の文章は次の機会に書きたいと思います。            

(2004年9月27日)

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九月は心の晴れない記念日が続く            

中道 恵津 (瀋陽師範大学)

防災訓練

大型地震、相次いで襲来する台風、浅間山の噴火などなど、夏以来の日本は穏やかでないニュースが続く。9月1日は防災の日。1923年のこの日関東大震災が起こった。

故郷静岡県では、東海大地震がいつ起こっても不思議ではないという状況の下、全国的な防災活動の一環として、学校では毎年の9月1日、学期始めのさまざまな仕事に最優先して災害発生を想定しての大々的な避難訓練や救助訓練などを行っている。

まず地震予知委員会から大規模地震発生の可能性ありとの発表があった、全員避難せよ、という放送とともに全クラスの生徒たちをグランドに避難させる。

避難訓練の総責任者はストップウォッチを手に全校の動きを把握する。人員確認、欠席者名を地域担当の係りに報告、全校生を居住地域ごとに組み替え、再度人員確認。欠席者を含めての全校の人数が在籍人数に一致するまで徹底する。全校800人もいると、残暑厳しいグランドでの面白くもないこういう作業は神経を使い、忍耐を要する。

各学校には防災倉庫が設置されている。中には災害発生時に必要とされる様々な機材や非常食などが入っている。

この日、学校では自治体や地域の防災担当者を中心にプールの水を浄化する機械で飲料水を作ったり、非常用食品の試食などと、各地で多彩な活動が組まれる。

当日はたぶん全国のどの学校でも似たような光景が見られるのではないだろうか。

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9.18事件

さて、日本の9月は地震記念日で始まるが、2001年以来、9・11が忘れられない日として人々の記憶に加わった。そして中国、とりわけ瀋陽に暮らすようになると、9・18がいやでも意識させられる。まさに9月は心軽やかにはなれない記念日が続く。

9月18日付けの「瀋陽晩報」によれば、瀋陽市は、夜9時18分に警鐘や防空警報を鳴らすほか、市内を走る自動車は一斉に停車してクラクションを鳴らすように呼びかけている。交差点の信号はこのときすべて赤にするという。

市交通警察がその活動の重点地域と定めたのが、市の中心地の九路十八街(9の道路と18の街)で、これを地図上に表すとかなり広範囲の街をかこむ井の字形になるらしい。

井の字の漢語発音はjing、警醒(世に警鐘を鳴らす)の警の字の漢語発音もjingで、こういうのを諧音というらしいが、発音が同じ文字を持ってきて意味付けする(寓意)などさすが漢字の国だと恐れ入るし、9・18の徹底振りにも驚かされる。

上記の記事はさらに次のように続く。

「73年前の今日、侵華日軍は瀋陽北大隊の駐留軍に武装攻撃を発動、続けて東北地区に大規模な武装侵略を行った。これこそが内外を震撼させた“九・十八事件”である。侵略日本軍の暴行はまさに怒り心頭に発するもので、この苦難の歴史は忘れることはできない。多くの市民が安穏に暮らしている今日、歴史を思い起こし、意識を喚起すべきだとの観点から、今年瀋陽市は、これまで関係部門によって行われてきた記念行事を基本に、さらに多くの市民の共同参加を呼びかけた。全市の自動車が停車して警笛を鳴らすやり方で、この九・十八事件を忘れず、国の恥を忘れないように市民の注意を呼び覚ますことにした。」

こんな記事を読みながら思うのは、日本で9月18日と聞いて、柳条湖事件、すなわち満州事変をすぐに思い浮かべる人がどのくらいいるだろうかということだ。かつて私は中学校の社会科教師として近代史には格別の注意を払って丁寧に扱ってきた覚えがあるが、あの当時の教え子たちは15年戦争の始まりとも言えるこの事件のことを記憶にとどめているだろうか。

この事件の15年後の終結が1945年8月15日だ。この間、私たちの国は侵略戦争を拡大し、日本人のすべてが否応なしに泥沼のような戦争に引きずり込まれて、塗炭の苦しみをなめてきたのではなかったか。

しかし今、大方の日本人にとっては、73年前なんてもう大昔のできごとで、教科書の中だけのつまらない知識にすぎないのではないか。

ちょっと前までは改憲派の憲法九条を見直そうなどという声は遠慮がちにしか出なかったが、情けないことに今は一国のリーダーたちが憚ることなく口にするようになった。防衛庁長官は武器輸出の解禁を堂々と説く。

中国は周知のように教育の現場で徹底して自国の侵略の歴史を教え、歴史の真実を意識的に子供たちに継承して行く努力を行っている。柳条湖事件の現場にも巨大な資金を投入して“九・十八紀念館”ができている。

このような日本の侵略戦争を記念する施設は日中戦争の激戦地には必ず作られていて、特別の配慮のもとに「青少年教育基地」として位置づけられている。 

毎年九・十八記念日が近付くと、各地のマスコミは必ず関連記事や番組を登場させる。日本軍の蛮行を示す当時の写真や、抗日戦争の生き証人による証言、戦争ドラマなどだ。

瀋陽の九・十八記念館でも、国辱を忘れまいという記念行事が行われるので、その日はその近くには日本人は近付かないほうがいいと言われている。中国人の中には行き過ぎた行動に走る人もいるからだ。昨年の西安西北大学事件や重慶のサッカー会場での出来事は、水面下の中国人の日本への感情がちょっとしたことをきっかけに表に出たに過ぎない。

自衛隊のイラク派遣のニュースも中国人に警戒の念を持って受け止められた。この報道のときテレビの画面は自衛隊を紹介する資料映像として、静岡県東富士演習場での自衛隊の大規模演習の場面を流した。演習観覧用の大きな常設スタンドを画面で見たとき、東富士演習場だということはすぐにわかった。夏には御殿場市民の花火大会会場になる場所なので私も親戚に招待されて行ったことがあるからだ。

こうした中国での徹底振りを見るにつけ、中国に暮らす日本人の一人として私は、こうまでしなくてもいいじゃないか、これでは一般の中国人の反日感情は永久になくならないし、ひいては両国の真の友好関係を築く障害になるのではないかという感情にともすればとらわれるのであるが、こんなのは長い間侵略され徹底的に痛めつけられてきた側から言わせれば、甘い考えなのかもしれない。辛い歴史を繰り返させないために中国は過去から学ぼうとしているのであって、歴史を過去に引き戻そうというあらゆる勢力のあらゆる動きに警戒の念を持つのは当然なのだろう。

この点における日中両国人の温度差が、両国の間に様々の軋轢を生んでいることをとりわけ日本の政治家たちは考えるべきである。私たちは学校で子供たちにしばしば、「相手の立場になって考えなさい。」と言ってきた。この道理は国と国との関係にも成り立つはずだ。

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授業で戦争を扱う

最近日本語科の4年生の精読の授業で戦争をテーマにした文章を続けて扱った。

最初に扱ったのは水上勉の「水仙」だ。進駐軍の兵士に凌辱された福井越前岬の貧しい水仙売りの少女が主人公で、ある風の強い日に海に落ちて死ぬ。昭和22年の出来事である。彼女の死は自殺か事故死かと話題になるが、解剖の結果妊娠していることが明らかになると、警察署長は事故死として処理し、妊娠の事実も不問に付してしまう。敗戦後の占領時代の哀しい話である。

そのあと取り上げたのは野坂昭如の戦争童話「赤とんぼと油虫」だ。18歳の特攻隊員の少年が戦争末期の夏、赤とんぼと呼ばれる練習機で2度出撃するが敵に遭遇せずむなしくもどってくる。

最初は田舎の貧しい暮らしの中の母のために死ぬのだと気負った気持ちだったのが、上官や周囲の冷たい視線のなかで死と直面した少年の心に変化が起こっていく。自分たちのやっていることのむなしさ、戦争のむなしさが少年をやりきれなくさせていく。酒で憂さを晴らすには若すぎる少年は偶然布団に紛れ込んできた油虫を捕まえ餌などやって気持ちを晴らす。3回目の出撃のとき少年は油虫を連れて行く。

僚機からはぐれて南の小島に不時着した少年は油虫のために食べ残しの握り飯など用意してやり、自分はまっすぐ海に泳ぎだし、両手両足を大きく伸ばし、また縮め、ひたすら泳ぎ続ける。8月15日のことだった。

続けて米倉斉加年の「大人になれなかった弟たちに・・・」を扱った。

敗戦の直前にミルクもなく栄養失調で死んだ弟と、戦争に行った父に代わって家族を守るために自身の食べるものも削って必死だった母親の様子を小学校4年生の作者の目で描いていて胸を打つ。

小さな小さな棺に死んだ小さな弟を入れるとき、小さな弟だったのに棺が小さすぎて入らなかった。母が、大きくなっていたんだね、と弟のひざを曲げて入れた、「そのとき、母は初めて泣きました。」の部分を読むとき、私は母親の無念を思い、学生たちの前なのにこみ上げる思いをしばらく抑えることができなかった。

「赤とんぼと油虫」を読み終えたあと学生たちと、「少年はなぜ海に向かって泳ぎだしたのだろう。なぜ生きつづける努力をしなかったのだろうか。」というテーマで話し合いをした。そしてこの作品の読後感を書くことを課題にした。

その中から何人かの文を引用させてもらおうと思う。一般の中国人の一般的な日本人観が想像できるだけでなく、隣り合った国なのに、なんと互いを知らないでいることか窺い知ることができると思うからだ。

人は、人を知り、理解し、そこから友情や恋愛感情も生まれる。知ることは理解の始まりであり、相手を知り得ずして真の友好関係はありえない。すべては偏見なく互いを知るところから始まる。

この点から見ても中国で若者に接する私たち教師の使命は大きいと改めて思う。

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学生の感想文

1、李艶秋

私は小学校5年生のときから歴史の授業で中日戦争のことを習った。中国人の中では算数ができない人はいるかもしれないが、中日戦争のことを知らない人はいないと言える。今まで、中日戦争の中で、私はずっと日本のほうが加害者だと思っていた。「赤とんぼと油虫」という文章を習った後、私の中日戦争に対する考え方が変わった。中国人はもちろん被害者であるが、日本人の中で兵士は加害者だと思うが、日本の人民は中国の人民と同じく被害者だと思うようになった。戦争は両国の政府のことで、人民と全然関係がない。しかし、戦争の中で一番苦しくかわいそうな人は人民である。

今私はイラク戦争のことを思い出した。私は新聞であるお父さんが息子を抱いて目から涙を流しているという写真を見た。その写真を見たとき私は非常に感動した。何で政府は戦争を起こすのか、戦争は人民にどんな災難を与えるのか。政府は自分の利益のために他の国に戦争を起こす。人民のことをぜんぜん考えず、人民を塗炭の苦しみの中に置かせる。 

「赤とんぼと油虫」という文章を習っていろいろなことを考えた。私は今とても平和の社会に生活して、毎日十分の食糧を食べ、きれいな服を着、非常に幸せだと思っている。イラクの人と比べたら、北朝鮮の人と比べたら、私たちはどんなに富裕な生活をしているだろう。したがって私たちは生活を愛さない理由はないし、がんばらない口実も見つけられない。私は自分の今の生活を愛して、よく勉強して、いつでも頑張っていきたいと思う。

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2、韓艶飛

最初「赤とんぼと油虫」というテーマを目の前に置いたとき、動物に関する文章だと誤解していた。読み始めたら本当に驚いた。

周知のように、第2次世界大戦で中日両国間では不愉快なことがたくさんあった。中国は被害者という立場で、日本は加害者だった。その戦争のため中国人民はとても苦しかったと歴史の教科書で習った。勿論、日本軍国主義者たちが中国でやった悪いことも少し知っている。しかし、日本の庶民たちの状況についてはこれまであまり考えていなかった。「日本は侵略国だったから、その国の人々は必ず豊かな生活をしていた」と私はずっと思っていた。

「赤とんぼと油虫」という文章を読んだらすごくびっくりした。実は日本の庶民たちも同じく苦しんでいたと分かってきた。

昨日「炎の舞」という映画を見るチャンスがあった。その映画にも「赤紙」が何度も出てきた。「死亡」という知らせも何回も聞こえた。それを見ると、なんだか、目が涙で一杯になってしまった。

最後に言いたいことがある。戦争というものは残酷だ。世界人民は平和の環境をほしがっているものだ。地球上の人々はもともと家族だから、愛し合い、助け合うべきだ。   

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3、劉芳芳

命は誰にとっても一度しかないものだ。少年のような特攻隊員にしても普通の軍人にしても皆ただ統治者の碁石のひとつだ。自由もないし、奮闘する目標もないし、命まで嘘のようなスローガンにだまされていつ死ぬかわからない。

普通の作品の大部分は民族という立場に立って軍人の勇気と勢いを表現するが、この作品は違って、人性という角度から見て、軍人、特に特攻隊員が死に近づくまでの本当の真理を描くものだ。 

特攻隊員の死は戦争中一般的な突然的な死亡じゃなくて、計画に従って死にに行くことだ。

特攻隊員は他の人の目から見れば、勇気いっぱいだが、実は彼らも母親の子供で、妻の夫で、子供の父親である。人として生まれながらの死に対する恐怖感も持っている。死に近付く間に少年の心理は代表的なものになった。すなわち人間として、どんな高い理想を持ってもどんな偉い人であっても、そしてまもなく来る死がどんなに価値があっても、心からの危惧及び本能として生きることを懐かしむのをどうしても抑えられないものだ。

油虫に対する態度は少年が命に熱情を持っているとともに、戦争の残酷をよく表わしている。(後略)

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4、李佳

先日、精読の授業で「赤とんぼと油虫」という文章を読み終わりました。読んだ後、気持ちがどうしても治まりませんでした。戦争の厳しさ、特攻隊員のかなしさ、走馬灯のように私の頭に浮かんできました。本当に戦争の時代を反映する物語ですが、読んだ後、その時代に対してもっと理解するようになりました。

今の私たちは特攻隊の少年と比べるとどんなに幸せでしょう。親に甘えることもできるし、自分の人生を選ぶこともできます。しかし、特攻隊の少年の人生は自分で決められることではありません。戦争のせいで自分のすきな人生を楽しむより、国家の利益が最優先です。自分の生命にしても、親にしても、恋人にしても一切後にしなければなりません。そして、よく死に直面しなければなりません。これは軍国主義を盲目的に信奉した結果といっていいでしょう。外の国に戦争を起こすことは正しいかどうかも考えないで、ただ天皇からの命令に従うことで敗戦の結果になったといっていいでしょう。(後略)

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5、斉暁波

この文章を読み終わった時、私の胸は痛かったです。感想がたくさんありました。

戦争の時代にその少年は特攻隊員として誇りを持って戦争に出ることになりました。戦争というと死のことを意味しています。なぜその時代の日本国内の少年たち、あるいは青年たちは進んで軍隊に入りたいですか。私からみればそれは日本の軍国主義教育が役割を果たしているからです。ある種類の精神に支配されています。日本が起こした戦争は他国への侵略戦争でありながら、日本の国民には聖戦であると思うかもしれません。戦争を起こしたのは日本政府であり、国民じゃなくて、国民は被害者と言えます。戦争が始まると、たくさんの人が日本政府に無理して戦場に出されたのです。私はそんな人の運命には同情の気持ちがあります.。

例えばこの少年は死ぬまで無邪気でした。自分は特攻隊員になれば親孝行もできるし、七生報国もできるなどの考えも持っていました。最後は海へ力いっぱい泳ぎだして海におぼれて死んでしまいます。その少年自身から見れば自分が死ぬのは悲劇であるかもしれません。以前思ったことは何にも実現できませんでした。

ここで私が一番言いたいのは日本軍国主義勢力がすべての責任者であり、侵略戦争を起こして一番被害を受けたのは中国であり、自分の国にも災難をもたらしました。この少年はただ一人だけの代表にすぎず、このような人は数えられないほどいると思います。

平和の下の私たちは、今の平和を保ち続けることができるよう祈ります。世界をいつでも戦争がない世界にするのに人間は努力すべきです。                                        

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6、安容実

1945年8月15日、第2次世界大戦は日本の失敗で終わった。この文章は戦争が終わるころ、ある日本の少年の悲惨な運命を描いた文章である。

実はこの文章の中の主人公のような悲劇は数え切れないほどある。私はこの文章を読んだ後、少年の悲惨な運命に残念な気持ちを禁じえなかった。

少年、あるいは少年のような人々をこのような悲惨な道を選ぶようにしたのは誰なのか。もちろん、戦争を起こした側は日本である。しかし、戦争を起こしたとしても、日本が期待した目標に達しなかった。外の国に大きな災難をもたらしただけでなく、自分の国の人々も毎日すごく貧しい不安な日々を送った。

いずれにせよ、戦争の被害者は普通の国民である。普通の国民が戦争の犠牲者となる。

私はこの文章を読むと今の情勢も考えられる。それは平和・発展が主流となった今日に至ってなお世界のいろいろなところで不安の要素が頭をもたげる。第3次世界大戦が起こるおそれがないとは言えないだろう。

2004年9月.20日)

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「日本語」おちこぼれ あれこれ

シラえもんこと 峰村 洋  (瀋陽薬科大学)

貴重なお水

さて、今日は「tang 」の発音について触れてみましょう。

その第一声。母音の“a”のところを高く平らに発音すると、“湯”の意味になります。ところが、これが曲者。意味は“おゆ”でなく“スープ”です。お風呂屋さんのお湯が全部スープになればこれまた良いのでしょうが、そうも行かないようです。 

では、飲む“お湯”は何て言うの?“開水”と言って、わざわざ“沸かした”、と言うわけです。なるほど。“熱湯”は、アッチッチとなりそうですね。中国語では“熱水”とも言います。英語でも“hot  water” とか。そういえば野次喜多道中にもありましたね。野次さんだったか喜多さんだったか、宿の主人が「お湯が沸きましたので、どうぞお静かにお入りください。」と言うと、べらめー調で「お湯が沸いたら熱くて入れねーじゃねーか。“水が沸きました”と言え。」と言って、足駄を履いて音を立てないように五右衛門風呂にそオっと入る話ね。

生活にはどうしてもなくてはならないもの、“水”が登場しました。小生、4ヵ月の瀋陽での生活で、ちょっと喉が痛かった時期がありました。学生が喉飴を持って来て、「先生、水をたくさん飲んでください。」

時は、秋も大分深まってゾクゾクする頃。冷水をたくさん飲むには勇気がいります。かえって風邪でも引いたらと、心配です。

再び辞書に頼ることにします。

中国語の“水”はH2O を表し、温度の概念は含まれていません。意味は日本語よりかなり幅広く使われます。すなわち、水、お、お河川と何でも“水”で表現します。しかし、単に“水”といえば、先述の“開水”(お湯)を指すことが多いようです。風邪を引いて喉が痛い時の薦めは、“冷水”でなく、“お湯”だったわけです。因みに“湯冷まし”は“涼開水”で、一度沸かした水をも一度冷ましたもの、となります。少し理屈っぽいですが、漢字っておもしろいですね。

“香油”での味付け

今日のお話は、料理の時も少しでえらいことになった話です。

ある学生が「先生、私“香油”を持ってきました。」と得意そうに液体の入ったビンを見せてくれました。

「どうするの?」

「料理に入れるとおいしいんです。それに栄養もあります。山東省の特産です。」

少し変ですね。私たち日本人が“香油”といえば、ふつう女性が髪につける油のことを連想しませんか。それが中国へ来ると、髪だけでなく料理にも良い香りを漂わせようと調味料としても使っているなんて。果たして「さすが“食の国、中国”」となったでしょうか。

またまた辞書に当たってみました。“香油(xiangyou)”又は“芝麻(脂麻zhimaとも)油”とあります。意味は、なんと“ゴマ油”のことでした。それなら、いいですね。中華料理が得意な方も、日本の香油を料理に入れないでくださいネ。

皆で楽しく料理を頂戴している時、女学生“Sさん”の携帯電話が鳴り響きました。「(電話)誰からだった?」「母からです。」「何だって?」「私の作った料理がうまくいったかって。」先生様に食べていただく料理の味を娘の母親まで心配して電話してくれるなんて...。小生が出した「料理を作れるようにすること」との冬休みの宿題は、まずまず成功といったところです。   

2004年 閏229日 )                                                                        

ほろ苦しいお豆

新学期も始まって幾日かたったある日の夕方、電話が鳴る。「先生、私センセーにお菓子を作ってあげようと思うんですが、これからセンセーの部屋に伺ってもいいですか」

「それはありがたいね。どうぞ来てください。」

K嬢、去年は一度料理を作ってくれたので、今度は夏休みに「菓子作り」の修業をしてきたのだな、と気をよくしていると、彼女揚々とやってきた。早速台所に入った彼女何を始めるかと覗いて見たら、やおら紙袋から生の地豆を取り出し、フライパンで炒り始めた。なんだ、お菓子というからホットケーキか何かを期待していたのに。

居間でNHKを見ているうちに、香ばしい匂いが漂ってきた。「センセー、失敗してしまいましたヨ。」見てみると、強火で真っ黒く焼きすぎたらしい。「もう一度作りますから、センセー先に食べていてください。」と黒焦げを皿に入れてくれた。確かにこれでは、お世辞にもあまりいただけない。

2回目を待っていたら、

「センセー、これ友達に持っていってあげたいのですが、いいですか。」2回目のほうがまだましだったが、今度も火が強かったようで黒色が目立つ。どうやら彼女豆を炒るのは初めてだったようだ。いっしょに食べながら「ちょっと苦しいですね」「うん、これを食べるのは確かに苦しいね。」とつられて言葉を合わせた。   

いつも長居する彼女、

「センセー、今日はそろそろ失礼します。彼に持っていってやります。でも、彼はきっと“クルしい”と言うでしょうね。」

何だ、友達というのは、「彼」であって、「彼」のために「お菓子」を作ってあげたかったってわけか。どうも話がうますぎると思った。くわばらくわばら。中国にも、ちゃっかり娘もいたもんだ。苦笑。

小生、苦し紛れに「こういうの、“クルしい”じゃなくて“ニガい(苦い)”って言うんだよ」と言って、そそくさと帰る彼女を玄関まで見送ってやった。それ以来、彼女は顔を見せていない。 

(2004年 9月5日) 

お先生の日

お先生の日、おめでとうございます。わたしたちは先生を愛しています。」

9月9日、3年生の授業に行ったら、黒板にこう書かれて、教卓には赤い色の小包が置かれていた。9月10日は中国の「教師節」である。国中で、教師に感謝の意を表すのだそうだ。このことは、昨年の経験で知っていた。テレビのニュース番組でも、小学校はおろか幼稚園の様子までも映していた。

しかし、今年の10日当日は、小生の授業はないので、きっと静かだろうと思っていたら予想が外れた。

それにしても、彼等はどこで「先生」を調べてきたのだろう。まだ、彼等に「あいうえお」を教えてから2週間しかたっていないというのに。そういえば、もうはるか昔のことになってしまったが、新卒で山間地の高校へ赴任した頃、「先生様」という宛名の手紙をもらったこともあった。ともかく共にもったいない「おはなし」ではある。

「愛しています」にも、少しぎくっとした。だいたい「愛する」など言われると、すぐ胸の鼓動が高まってしまうからだ。この動詞「愛」は、日本語の「愛する」より、少し広い意味合いで使われるようだ。すなわち、単に「好き」くらいの意味でもよく使われるらしい。必ずしも男女間でつかう「愛し合う」「愛情」だけではなく、「映画が好きだ」くらいの場合でも「愛」を使う。小生など、“我愛?”即“ I  LOVE YOU.”ととってしまう。こういう単純作業は、とくに外国に来たら 厳に慎むべきであろう。

ところで、気になる小包を部屋へ帰って開けてみた。中小2枚の皿に絵が描かれていて、飾り紐でつなげてある。壁飾りの類だ。更に一番下には、紐で魚が二匹提げてある。「魚」は“yu”の2声で、「余」に通じるから、中国では縁起をかついだりするのに用いられる。また、2匹は偶数でやはり好まれる。財産が倍となって返ってくるのかもしれない。安月給の「お先生」に少しでもお金が余るようにとのせめてもの贈り物だった。

[もう、結構ですか]

小生のパソコンを使って自分たちが書いた作文を打ち終えた2人の学生NさんとSさんが、 

「先生、お昼を一緒に食べませんか。私たちがご馳走します。」という。

「どこへ行く?」

「先生は、??(ワンタン)がお好きですか。」 

「好きですよ。すぐそこにワンタンの店があるね。これから行きますか?」

「いえ、この部屋まで持って来てもらいます。いいですか?」と言って、ケータイを取り出す。中国語でぺらぺらぺらぺら。

「はい、注文終わりました。」 それほど高くない料理でも、無料で配達してくれるとは、ありがたい。

四方山話をしていると、ノックの音が3回する。

「はい、(中国人が)来たよ。」

果せるかな。Sさんが店員さんにお金を払っておしまい。なるほど方便ですね。

薄っぺらなポリのオワン三つにワンタンがいくつも入れてある。それに、熱湯が三つ?ナイロン袋に入ってきたには驚き。  

これだけでは物足りない。冷蔵庫を開けたら、トマトが入っていたので、食膳に添えた。

なんといっても小生の方が彼女たちより食べるのが速い。よく気のつくNさんは、心配そうに「先生、もう結構ですか。」と。「は、は、はい。もう、結構です。もうお腹がいっぱいですよ。」と答える。(にやり)。

現在使っている日本語の教材「標準日本語」初級の第14課 に、お茶は いかがですか。 

いただきます。  

けっこうです。(=お茶は要りません。)

というのがある。彼女は、ちょうど去年の今ごろ、勉強した箇所だ。「ケッコウ(結構)です」は、やや、あいまいな表現の一つだ。丁寧な断りの表現のみならず賛成の場合にも使われる。しかし、ご馳走してあげた目の前の相手に向かって「もう結構ですか」とは使わない。補注がないと、Nさんのように優秀な学生は、いかなる場面でも使ってしまうことになりかねない。

ちょっとはにかんで顔を赤らめたNさんに代わって、今度は、Sさん。

「先生、私たち、食器をお洗いします。」

「“お洗い”は、“お笑い”になっちゃうよ。」と言った小生の言葉に、彼女は首を傾げる。納得がいかないようだ。

「先生、どうしてダメですか。せっかく敬語を使ったのに。」

小生、説明の術を知らない。

2004年9月19日)

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