瀋陽日本人教師の会ホーム

 

 

日本語クラブ20号 目次

2004年度第3号 (2005年6月発行)通巻20号

タイトルをクリックすれば本文に飛びます

Webに載せるにあたって二部に分けています

第二部では改めて目次のタイトルをクリックしてください

ここは第一部です

 

中国暮らしの中から・・・・・・・・・・・

・・ 鍵事件 ・・・・・・・・・・・ 金丸恵美
0から1へ 丸山羽衣
1枚の写真 大甘密
「車を打た」ないで 峰村洋
瀋陽良いとこ、一度はおいで

ゴールデンウイークに訪れる皇寺の縁日

山形達也
中国のからすはグアと鳴く 山形貞子
旅は列車が一番 南本卓郎
瀋陽に暮らして 高山敬子
瀋陽に来て 池本千恵
高齢者に狭き門 石井康男
わたしの癒し系 市原純子
公園の風景 竹林和美
中国に暮らして 渡辺文江
「鉄(テツ)」の戯言 宇野浩司
東北旅行 長澤裕美
小さな国際交流 中道恵津
忘れ得ぬ小説「グウドル氏の手套」 中道秀毅
異国の中の異郷 南本みどり
中国東北部の旅行 前田節子
瀋陽に滞在11ヶ月の思い 沢野美由紀
もうちょっと中国にいよう 山崎えり子
瀋陽の古い映画館を訪ね歩く 加藤正宏
わたしのお気に入り 斉藤明子
瀋陽の一年 小林豊朗
瀋陽に暮らして 児崎静佳
人工知能ゲームと名詞の体系 岡沢成俊
ありがとう、さようなら、瀋陽 中原麻実
チベット旅行記 鳴海佳恵
北の大地の女流文人「蕭紅(シアホン)」 多田敬司
寄稿・・・・・・・・・・・
違う自分 丸山羽衣
教師一年生 呉麗艶
正月も休まなかった張さん 中道恵津
手紙 中道秀毅

 

 

鍵事件

               金丸恵美

(本渓市衛生学校)

 最近、鍵に悩まされることが多い。中国へ来て、自分の管理する鍵の数が一気に増えた。だから、わたしのズボンのポケットはいつもぱんぱんだ。よく小銭をポケットに入れている中国人から見たら、わたしは「有銭的人」に見えるだろう。中身はお金より鍵の方が多いんだけど、、、。

わたしの家はオートロックになっている。そういうと聞こえはいいが、単に取っ手がないだけでドアを閉めると開けられないしくみになっているだけなんだけど。まあこの際、「オートロック」ということにしよう!来た当時はこれならわざわざ鍵を閉める必要もないし、これを考えた中国人はなんて頭がいいんだろうと感激していた。日本から精巧の南京錠をたくさん持ってきたわたしは、なんだ、必要なかったじゃん(中国でも売っているし)と半ばがっかりしていた。しかしその考えはやっぱり甘かった。事件はそんな風に油断している時に起きた。わたしはなんと鍵を家の中に置いたままドアを閉めてしまったのである。これは日本ではなんでもないことで済まされるが中国では大変なことなのだ。つまり、今までドアをロックするという役割のほかに玄関の取っ手の役割も果たしていた鍵が家の中に残されているということは、ドアを開ける方法が断たれたということなのだ。わたしはかなり焦った。しかしわたしの家へ遊びに来た中国人は落ち着いていた。わたしが他の鍵で開けようと無駄な努力をしている間に鍵屋に電話をかけてくれた。鍵屋は5分も経たないうちに駆けつけて来た。そしてものの1分でドアは開いた。(50元かかった!)わたしは鍵屋の超人的な技に感心すると共に一種の恐怖に慄いた。今まで安全だと安心して信じていた者に裏切られた思いだった。その後、わたしが日本から持ってきた南京錠を家主の反対を押し切って取り付けたのは言うまでもない。

事務所のドアも中国式オートロックになっている。もちろんここでも事件が起きた。しかし今回はわたしは慌てなかった。なぜなら合鍵を持っている上司がいるからだ。すぐさま上司に電話をかけた。でも、「明日講義の前に鍵を開けておくから。」と冷たい返事が返ってきた。わたしは「家の鍵も中にあるんだよ。どうするんだよ。」という言葉をぐっと飲み込んだ。その間、学生は健気にドアの隙間に紙を挟んで開けようとしていた。わたしはまた50元払って鍵屋を呼ぶかと電話をかけようとしたとした時、「先生、わたしが開けますよ」と後ろから声が聞こえた。振返ると日本語班では数少ない貴重な男子学生が立っていた。きっと学生の誰かが呼んでくれたのだろう。しかし、どうやって開けるのかと聞くと窓から中に入って開けると言う。 

確か事務所は2階にあったはずとわたしが考えているうちに、男子学生は校舎の裏側にまわりどこからか長いはしごを借りて来て、するすると上に登っていった。あの学生は上海雑技団から来たんだろうかなどと、わたしは呆気に取られて見ていることしかできなかった。間もなく男子学生は内側から事務所のドアを開けてくれた。わたしは喚声を上げ、机の引き出しに入っている日本のお菓子を彼に全部あげて何度もお礼を言った。しかしそんな喜びもつかの間で、学生たちが去った後つくりかけの小テストを机の上に出しっぱなしだったことに気がつき、もし期末試験だったらと思うと冷や汗が出た。その後期末試験はできるだけ家でつくるようにし、鍵がかかる戸棚にしまうことを堅く心に決めた。

最後の事件は学校のトイレの中で起きた。ズボンを勢いよく下げてしまったために、ポケットに入っていた鍵束はどどどと音を立てて(注:大便ではない)便器の底へ真っ逆さまに落ちていった。その一部始終を見ていたわたしはもう声が出なかった。学校のトイレはもちろんぼっとん便所である。底を見て確認する勇気もなくて、わたしは真っ青になりながらトイレを出た。しかし、ちょうどトイレにいたクリーニングレディがわたしの異変に気づき、すぐさま便器の底を見て全てを悟った。そして、なんと便器の底へ素手を突っ込みわたしの鍵束を拾ってくれた。わたしはハンカチの上にそれを受け取り、一時放心状態に陥った。そのため、お礼を言うのも忘れていた。その後わたしは鍵を何度も洗って消毒し、1週間ぐらい手袋の上からしか触れなかった。

以上の3つの事件はわたしにとって、中国で暮らしていくために不可欠な教訓になった。まず中国へ来て1年が経って、自分自身日々の生活の中でかなり油断していることに気づかされた。慣れから来る些細な油断が大きな事件を引き起こす引き金になる事を実感した。再度初心に戻り、自分は海外に一人で住んでいるのだと自覚する必要があると強く思った。それから、これまでドジを踏みながらも1年間やってこれたのは、少なからずも自分の周りの中国人がいつも暖かい手を差し伸べてくれたからではないかと感じた。あまりにもさりげなくて、あまりにも当たり前になっていて、感謝するのを忘れていたことを深く反省した。そして同時に日本の常識と照らし合わせて、中国人を非難することしかしてこなかった自分が恥ずかしくなった。今後はこの2つの教訓を胸に刻み、中国生活を満喫していきたい。

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0から1へ

丸山羽衣

(瀋陽大学)

 昨年8月、生まれて初めて中国へ来た。まず中国へ来る飛行機に驚いた。「コレ、ホントニトブノ?」。

着いてからは街、建築物、人、見るもの全てに圧倒されっぱなしだった。本当にここでやっていけるのだろうか、今だったら引き返せるかもしれない。という思いでいっぱいだった。挙句の果てには、帰ってしまえ!とまで本気で考えてしまった。

自宅にて餃子作り:3年生    

 寮で一人で生活を始めて、初めて食事をする苦労をした。一人暮らしの経験はある、しかしここは中国。右も左も分からない、文化も習慣も言葉も分からない、全てが分からない。おなかがすいた…でもどこで何を食べたらいいの?どこで何を売っているの?どうやって買うの?こんなにも食事をするのが大変だとは思ってもみなかった。                       

 タクシーに乗るときは必ずメモ帳とペンと電子辞書を持っていた。漢字は書ける。しかし読み方が分からない。カルフールに行くのさえやっとだった。メモ帳に「家楽福」と書いて運転手に渡す、運転手が「jialefu」と、言う。その発音を聞き逃さないようダンボの耳にしてじっと聞く。毎回毎回どこへいってもその繰り返しだった。テレビを見てもさっぱり分からない。字幕があるものの理解できない。生徒が簡単な言葉を教えてくれても耳に入ってこない。私、やっぱり向いてないのかも…とマイナス思考になるのを途中で、いやいやこれからこれからと打ち消して、またペンを持ち、  ひたすら書いて発音を聞いた。休日は一人でふらふら出歩いて、地図を買って地名を確認した。

そう、何をするにも一人でやらなければならない。管理人と話をするのも通訳なし。言えないのなら、書けばいい。

私は幸いにも漢字のある日本で生まれ育った日本人、中国の漢字とは少し違っても書くことだけはできる。しかし、時には思いがけないハプニングも起きてしまうことがある。学校に着くまで運転手と単語レベルで話したり書いたりしていた。だが、到着しても下ろしてくれない。何事??運転 

手はメモ帳に「北陵公園に行こう。遊ぼう。」と、書いてきた。困った私は思わず日本語で「今度」と書いた。すると「今晩?」という返事が。違うっ!違うっっ!!もがきにもがいて何とか分かってもらって無事に下車。恐るべし、漢字。その後、他の留学生がその運転手に会ったという。「先生のこと友達って言ってましたよ。」と、教えてくれた。あぁ…。そんなこともありつつ私のメモ帳は、タクシーの運転手とのやり取り、店員とのやり取りでいっぱいになった。

 11月頃から、留学生とよく遊ぶようになった。コミュニケーションをとるには中国語が絶対必要なものとなった。簡単な単語を並べて、時には書いて話をした。その頃から自然と中国語が耳に入ってくるようになった。今まで何故入ってこなかったのか。それは、自分で拒否していたのだ。あれだけ書きまくってもテレビを見ても覚えられないことがたくさんあった。中国という国を心から受け入れられていなかったのだ。生徒とも距離を置いていたように思う。

今、よく生徒たちと話をする。今までのようにゆっくりペースではなく友達と話すように自然なペースで話をする。彼らも普通に私と話す。「先生ともっと話したり遊びたいよ。」ああ、そうか、彼らはずっとそう思っていたんだ。それを私が自然と拒否していたんだ。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。何故もっと早く気づかなかったんだろう、上辺だけで付き合っていたのは私の方じゃないか。以後、時間があるときは生徒と食事をしたり蹴羽根をし

   弁論大会お疲れ様会にて

て遊んでいる。その中でまた自然と言葉を覚えていく。毎日がとても楽しい。「先生、今度はバスに乗りましょうね。」「はい、頑張ります。」どちらが生徒だか分からない。でも、お陰で今頃になってようやく一人でバスに乗れるようになってきた。込んでいるときは相変わらず嫌だけど、意外と綺麗で快適だったりすることもあるということに気づいた。

 未だに掃除のおばさんに「あんたいつまで経っても中国語上手くならないね。」と、言われつつも何となく聞き取れてる自分に自画自賛。「もっと勉強しなさいよ。」「何言ってるか分からない。」

と、言いながらもこっちが理解するまでじっくり話してくれるみんなに感謝している。意外と恵まれた環境でトラブルもなく生活できていること、日々の小さなことに「ありがとう」。その気持ちをずっと忘れていた。

0から1へ。そして0ではなく1。マイナスになることは何もない。小さいようで大きな数、それが1。ここでの生活は、私にとって本当に大きな1となった。みんなにありがとう。そして中国にありがとう。

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一枚の写真

大甘 密

 一枚の古い白黒写真がある。大きさは葉書より一回り小さい。

おかっぱ頭の3歳の私は、ピンクの濃淡の水玉模様のノースリーブのワンピースを着て正座し、目の下60センチは優にある、生きた鯉を両腕で抱えて膝に乗せ、二重まぶたの鈴を張ったような目でこちらを見ている。

これを瀋陽(奉天)市の写真館で撮った日のことは記憶にはないが、ワンピースの材質や着心地や色などは今でもはっきり覚えている。私のお気に入りの一着だったからだ。

 写真の裏には、「黒龍江支流にて」と黒インクで書かれている。黒龍江のどの支流で釣ったのだろう。

地図を見ると、黒龍江はシベリアから間宮海峡まで延々とのびる大河だ。何本もの大きな支流を持っている。釣り好きの父は、遼寧省はおろか吉林省、黒龍江省へも度々遠出していたというから、もしかしたら、この冬、私が歩いて渡った松花江の近くだったかもしれない。

「釣った魚は食べずに、魚拓にとったり、逃がしてやったりしていたから、生きたまま持ち帰ったのはよほど嬉しかったに違いない。」と後日、母は写真を見ながら話してくれた。

 この写真が撮られた次の年の秋、父は出征した。そして、戦闘に加わることもなくシベリアに抑留され、強制労働を科せられた。「劣悪な環境・待遇の中、多くの仲間が衰弱や腸チフスなどで次々と死んで行き、自分ももうすぐだ、と思う日々だった。」と言葉少なに語ったことがあった。

 黒龍江支流を遡った上流はロシア領だ。黒龍江はアムール川と名を変え、その地はシベリアである。この見事な鯉を釣り上げた日、同じ川の上流の地で、生死を境にするような日々が待っていようなどと誰が想像できただろうか。

最極寒の地で、明日は必ず死ぬとわかっている友の隣のベッドに横たわりながら、父は何を思っていただろうか。

両親の存命中に、もっとこちらでのことなどを聞いておけばよかったと、瀋陽に帰って来た現在つくづく思う。

この写真を40年ほど前、特注してB4判大にしてもらった。日本の自宅にある、あまり使わない部屋の本箱の中に立てかけてある。

たまに目にすると、幸せだった幼い頃のこと、季節ごとの瀋陽の街並、日本人の暮らしなどの思い出の断片が、折々に鮮やかに浮かんで来る。

幼い私は、自分が抱えている鯉が泳いでいた一本の川が、人の幸と不幸を繋いでいたことも、数十年後の瀋陽のことも、自分自身の将来のことも、何も知らずに本箱のガラスの向こうから、大きな瞳でやっぱりこちらを見ている。

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「車を打た」ないで!

峰村洋

        (瀋陽薬科大学)

1.「打車」

「中国語」の中にこの二文字を見つけると、我々日本人はたいてい「車を打つ」、すなわち、車に打撃を与えて壊してしまうことかな、と考えるだろう。否、アメリカでの「日本タタキ」のように憎しみをあらわにして日本製の車を叩き壊して燃すところまでエキサイトしないまでも、「トントン」と軽くノックして、中に乗っている人に何かを伝えるために気付かせようとする時に使う言葉かな、或いは車中で寝ている人を起こそうと少し強く「ドンドン」と叩く時の言葉かなと考えるかもしれない。「打」字の意味の主な使われ方は、何か物を「打つ・叩く」だからそう考えるのは当然のことである。

もちろん中国語の「打」の字には、日本語と同じ様に、「打つ」の意味で使われる場面は、たくさんある。

例:人を打つ(打人)。戸を打つ(打門)。時を打つ(打点)。タイプを打つ(打字)。句読点を打つ(打?)。鉄を打つ(打?)。電報を打つ(打??)。番号を打つ(打号?)。太鼓を叩く(打鼓)、等々。

 しかし、上記の中国語「打車」の場合、「打」の字には「打つ」意味はなく、「打車」で「車に乗る」という意味である。専ら「タクシー」などの類のお金を払って乗車する際に使われる言葉のようだ。また、同じく「打的」ともいう。ここでの「的」の字は、「タクシー」の音訳「的士」の「的」を「車」の代わりに使ったもので、香港方面から数年前に本国へやって来た言葉と聞く。いずれも一般の辞典にはまだ登場しない。

もっとも、「タクシーに乗る」は、「打車」や「打的」という具合に動詞「打」だけをいつも使うかというと、そうではない。バスとか電車とかいった他の乗り物一般に乗る時と同じ様に、「坐車」「上車」「乗車」などのようにいろいろな動詞が使われる。「タクシーを拾う」場合には、「叫車」と言い、「叫」という動詞も用いる。この「叫」という字は、中国語では「叫ぶ」でなく「呼ぶ」の意味だ。もっとも、遠くの方にいるタクシーを手招きする場合は、大声を発して「叫ぶ」の方がふさわしいようにも思われるが、理屈どおりに行かないのが言葉の面白いところだ。

他に、「乗る」意味で用いられる「打」には、「打秋千」(ぶらんこに乗る)などもあって興味深い。因みに「秋千」の両文字は、革偏の漢字「鞦韆(シュウセン)」とも書かれ、蘇軾の漢詩「春夜」の一節「鞦韆院落夜沈沈」などにも出て来るが、一説によると、漢武帝の長寿を祈って始められた「千秋万寿」の意を込めた遊びの一種で、女官や子供達の遊び道具だったようだ。その「千年も万年も長くあって欲しい」と願う「千秋」が「秋千」と語順が逆転したという。(小学館『日中辞典』等)(こういった「漢字の逆転現象」については、また改めて1項書きたい)

さて、動詞「打」に話を戻そう。いったいこの字は、「打つ」「乗る」の意味の外にどんな使われ方があるのだろうか。限られた一部の地方でしか用いられない語、あるいは口語のみでしか使われない語も含めて、以下50ほど「打」の付いた、日本人が「おやっ?」と思いそうな熟語を集めてみた。無論これらの中には、使用頻度がそれほど多くない語、やはり辞書で見つけにくい言葉もある。

2.打傘(傘をさす)

ぱっと、開く感じがしますが、どうでしょう。色鮮やかなパラソルなどだといっそう華やかな感じがしますね。「今日は、相合傘を打って行きましょうか」などと洒落るのも、粋な感じが出ましょうか。

3.打包 (物を包む、荷物を梱包する)

食堂で食べた余り物を「打包」してもらって持ち帰る中国の習慣にもだいぶ慣れてきました。

4.打球(球技をする)

例:打??. 打排球、打?球、 打高?球等。「ビリヤードをする」にも「打台球」と「打」を使うが、同じ球技でもサッカーの場合は「?(蹴る意)足球」と言うことに注意。

5.打電話(電話をかける)

中国の携帯電話(小機)普及率のスピードはものすごく、その数は今や1億以上と、これまた日本(約8600万個)を抜いて世界一の坐にのし上がった。広大な中国全土に電話線を張るのは不可能と思われたが、「ケータイ」は、正に中国向きの産品だったと言えるかも。

ところで、「小霊通 打号」という標識(看板?)を街で見つけました。

 

これは、主に携帯電話の番号をできるだけ縁起の良いもの、覚えやすい物にするために、「番号」を商品化して売っているものです。「小霊通」は、地元(瀋陽市内)でのみ使われる携帯電話の商標で、「号」は、「番号」のことです。どんな番号がいくらくらいするのかちょっと試しにのぞいてみたら、だいたい140元から高いものでは450元、更に600元などという番号もありました。「その価格表をくれないか」と言ったら「一枚しかないからダメ」とすげなく断られました。やはりタダではだめそうです。次回は少し作戦を練ってから挑戦したいものです。

6.打毛衣(セーターを編む)

「砧を打つ」ならなんとなく分かりますが、「セーターを打つ」となると、小生のように生来がさつな人間はつい編み目の粗い物を連想してしまいます。「網を編む」も「打網」と言うそうな。

7.打鞋油(靴を磨く)

靴の手入れをして、皮革油など塗ってくれるいわゆる「靴磨き」は、どの国の路上でも見られそうですが、「擦」の代わりの「打」はとんと見かけませんね。

「靴」と「擦る」が出てくれば「「靴擦れ」を連想しますが、その「靴擦れ」は中国語ではなんと「打脚」と来ます。「御御足」(おみあし)を「打たれる」より「擦れた」方がまだ我慢できそう。そして、「磨き上げる」意は「打磨」。

8.打?糊(糊を作る)

このように「〜をつくる」の意で「打」字が使われる例はまだありそうです。

9.打禅、打坐(座禅を組む)

なんだか「打」の方が単に「組む」より、荘厳さが感じられませんか。

10.打飯(食べ物を渡す)

食堂などで代金と引き換えに食べ物を渡す、あるいは受け取る時に使われるようです。

11.打水(水やお湯を汲む)

日本の茶の湯では、“露地”と呼ばれる茶庭の飛び石などに「水を撒く」ことを「水を打つ」などと言いますが、「撒く」と「汲む」では逆の意味の感じがしますね。また、「水を打ったような静かさ」とも関係なさそうですね。「打道」は、「露払いをする」意。

そうそう、中国の大学の寮生達が“魔法瓶”を持ってわいわいがやがやと水(いや、お湯でしたネ)を汲む日課は、かなりにぎやかなものです。聞いてみると一日に2本必要な女子学生もいるようです。代金は魔法瓶一本1角くらいといいます。最近お小遣いを節約してか、教室のコンセントから電熱器で湯を沸かす学生が多くなりました。「水はどこから汲むの?」と聞くと、「トイレからです。」店で容器に油を売ってもらうのも「打油」。そして、同じ様に、

店で容器に油を売ってもらうのも「打油」。そして、同じ様に、「打薬」は、「(漢方)薬を買う」こと。

こうしてみると、前述の「打号」や前項の「打飯」もそうですが、「打」にはどうやら「買う」とか「売る」意味での使われ方がありそうです。

12.打架(喧嘩する)

これは、「殴り合い」の喧嘩にふさわしい言葉で分かりやすいですね。外に、「打太極拳」など、武術をするときにも「打」が使われますが「少林寺拳法」などには、いかにもマッチしますね。「打出手」は、文字通り「手を出して殴り合いをする」でわかりますが、「打平手」は、「平手でぴんたを張る」かと思いきや「試合の決着がつかない」意というから驚き。「びんたを食らわす」は、「打耳光」と言うんだそうで、耳の鼓膜が心配です。また、「打嘴」も「ぴんたを張る」意で、「嘴(口)を叩く」ではないそうです。

ところで、「口喧嘩」には、「?架」と口偏の字が使われます。街中でやっているすごい剣幕の女性たちの姿が思い浮かびます。男性はすごすごと早めに退散すべし。同じ口偏でも「ひそひそばなしをする」は、「打??」。

13.打賭(賭けをする)

「博打打ち」などの言葉と合いますね。

14.打柴(柴を刈る、薪をとる)  「昔むかし...おじいさんは柴打ちに...」

15.打魚(魚を捕る)

網を打って魚(または鳥など)を捕る感じが出ていますが、案外その昔、棒のような物で本当に魚を「打って」捕らえた漁法があったかもしれません。熊は鮭を手で打ってから口に咥えるといいますが。

16.打皮(皮を剥く)

ちょっと乱暴な感じがしますが、うまく剥けそうですね。

17.打動(感動を与える)

心に感動を与えるような日本語の授業は未だできません。

18.打針(注射を打つ)

これは、注射の針を打つわけですから、日本語と違和感が余りありませんね。「鍼・灸」で使う鍼は、正に「針を打っ」ていますね。

20.打印(捺印する。タイプ印刷する)

「印」の字は、文字通り「印。判。はんこ。印章(中国語でも印章)」をさし、「打印台」は「スタンプ台」のこと。

ほかに、「印刷」の「印」としても使います。「打字」は「タイプライターを打つ」で、「打字機」は「タイプライター」をいいますが、ここの「打印」の機器は、「打印機」(タイプ印刷機)というそうです。

21.打叉(Xバツ印をつける) 学生時代成績の悪かった小生には、バツを付けられて叱られた(ぶたれた)思いが先に過ぎります。「○印をつける」は、「画圏」。

22.打奔儿(つまずく、とちる)「東奔西走」の「走り回る」とは逆の感じですね。

23.打折扣(値段など割り引く) 中国の店では「打价」(値切る)のは、当たり前。「叩き売り」などという言葉もありましたね。

24.打招乎(挨拶する)

これも、思いつかないですね。「打?腔」(相槌を打つ)ならまだ分かりますが。

25.打扇(人に団扇で風を送る)パタパタ、パタパタ。「寝ていても団扇の動く...」うーん。一句が浮かびそうですね。

26.打?嚏(くしゃみをする)勢い余って口角の泡や鼻汁がこちらまで飛び散って来そうです。

27.打拍子(タクトを振る、拍子をとる)

「手拍子を打つ」と言いますから、なんとなくわかりやすいですね。そういえば、合奏などで演奏がうまく行かないとき指揮者が思わずタクトで机を2、3回打って止めさせることがありますね。でも、ここは、失敗作ではないようです。「手を打って喜ぶ」時は、「打手」でなく、「拍手」というのは日本語と同じです。「打手」という中国語もありますが、これは「用心棒、手下」のことを意味するそうで、「拍手」(はくしゅ)や「拍子を取る」とは縁がなさそうです。

28.打通宵(夜なべ、徹夜する)「徹夜で勉強や仕事をすること」と同じ意味の言葉に「打夜作」があります。「与作」の歌ではないですが、この方が分かり易いかも。また、「開夜車」とも言います。こちらは、「夜汽車を運転する」ではありません。

29.打気(タイヤなどに空気を入れる。激励する)

「合気道」などで「気合を入れる」かと思ったら、予想が見事に外れてしまいました。

30.打銭(観衆に見物料を求める)

これも、「有り金を叩く」ではありませんでした。

31.打稿(草稿の下書きをする)日本語の「脱稿」に当たりましょうか。単に音が似ているだけでしょうか。

32.打点(贈り物や、旅装など整える.賄賂を使う)

先述した「時を告げる」意以外に、いろいろな場面で使われそうですが、大リーグで活躍中の松井選手が「打点を稼ぐ」のとは無関係。

33.打工(仕事をする)

街の通りの角などでおおぜい人が「打工」の札を首にぶら下げて仕事を探している光景を見かけませんか。「工」が、「工事」ではなく、「工作」(仕事)の意。

34.「打頭」(ピンハネをする。先駆けする)

てっきり「叩頭の礼」と思ったが....。「打回頭」は、「逆戻りする.体の向きを変える」意。

35.打牌(カルタ、トランプ、麻雀などする)

かるたやトランプの持ち札を「打つ」ように勢い良く音を立てて場へ投げ出す感じが出ています。

日本で見かける「麻雀」は普通「スズメ」のことを指し、「麻将」と言わないと笑われることも。

「囲碁を打つ」「将棋を指す」と言うが、これらの中国語の動詞は「打」でなく、「下?棋」「下象棋」と「下」を使う。

36.打下手(下働きをする)

「打上手」という語はありません。

37.「打火」(火打石で火をきる)「打火機」は、文字通り「ライター」。

38.「打哈欠」(あくびをする)どんなに可愛い優秀な女子学生でも、これだけはいただけません。ほんとに「大あくび」を面と向かってやるんだから、もう。「お嫁にいけないよ」などと脅かしても一向に効き目なし。

39.「打鼾」(鼾をかく)

これもそうとう大きな鼾が聞こえてきそうです。

40.「打哈哈」(冗談を言う)

「わはは、あはは」という笑い声の形容は、万国共通とみえます。文字の標記は、英語では“ha−ha”などと書かれるが、中国語では「娃哈哈」となる。

 これは、飲料水の商標でもおなじみの語。

41.打?(居眠りする)

授業中、うとうととしてこっくりするうちに頭を机に打った経験はないですか。 

42.打包票、打保票(保証する) 「票」の字は、乗り物の切符:「車票」(「飛機票など」のほか、領収書(開票)、入場券(門票)などいろいろに使われます。

43.打交道(付き合う)

一般にお付き合いがうまい人は、みんなと仲良く交じ合うことができ、誰からも好かれますね。

44.打開(窓や本などを開く)あまり勢いをつけなくてもいいですからね。壊さないようにしましょ。

45.打聴(ものを尋ねる)

「打問」とも言う。これは、なかなかいい言葉だと思いますが。

46.打算(〜するつもりだ。企てる)

ある時は「打算的」に考えないとこのお国ではやっていけないのかしら。

47.打掃(掃除をする)

同じく、「打整」(掃除して整える)。「(ゴミを)捨てる人あれば、掃く人あり」と目下のところ連携プレイがうまくいっているのであまり目くじらを立てないでくださいな。

48.打鳴(鶏が時を告げる)

去年赴任したばかりの時、ニワトリ君に大分痛めつけられ、不眠が続きました。

49.打比方(例える)

「例えば〜」は、「比方説〜」「比如説〜」と表現します。

50.打雷(雷が鳴る)

ごろごろ、ごろごろ、ドスン。

 

以上の語例の文字構成を大まかに見てみると、1〜40までの「打」字は、他動詞的な用法で、目的語となる名詞形を後ろに置いており、使用される数も多い。それに対し、41〜49は動詞を二つ並べた複合動詞となっており、「打」は、日本語でいう接頭辞的用法(「打ち比べる」「打ち開く」などの「うち〜」)と同じ使い方とも考えられよう。もっとも、中国語の単語は、日本語のそれに比し、動詞と名詞兼用の語が多いので、断定的に品詞を規定しがたいが。

また、例50では、本来(日本語では)「主語+述語」であるべきと思われる語順が、「述語+主語」の表現となっている。これは、「雨や雪などが降る」の「下雨」「下雪」、「霜が降りる」の「下霜」の表現方法と同じく、天候に関した独特な語順の表現となっている例である。

このように見てくると、「打」字は、種種様様な場面で使われており、使用法にもそれほど厳密な法則性を持っているとも思われない。これは、「打」字の成立が比較的新しく、字義が固定しないうちに一人歩きをしてしまった面もあるといわれる。したがって、上記以外にも「打」の使用例はたくさんあるはずである。

また、「〜する」意の「做」や、「来」「試」のような代動詞的な用法とも少し異なるが、まだまだ造語が可能のように思われる。

2005.5.9「漢字のお話-そのD―」)

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瀋陽良いとこ、一度はおいで

   (ゴールデンウイーク皇寺の縁日

山形達也

(瀋陽薬科大学)

日本人教師の会の愉快な仲間たち

 瀋陽に来てたまたま誘われて覗いた瀋陽日本人教師の会に、私たちが入ってしまった顛末は先の19号に書いた。私たちは日本語の教師ではないので厳密に言うと参加資格はなかったけれど、厭な顔一つされなかったので、日本語クラブとホームページという自分の居場所を勝手に見つけて、教師の会に居着いてしまった。

 でも、この会に入ることが出来て、本当に良かった。有能多才、かつ多彩な人たちと知り合えたことが一番に挙げられる。何しろ同業者ではないから、今まで付き合ってきた研究者とは皆それぞれが違う。みんな違って、みんないい。みんな個性的で、みんな愉しい。

この会で知り合った先生たちの一人に、工藤先生がいる。工藤先生は昨年秋から瀋陽に赴任したので、瀋陽では新顔だけど中国暮らしは長く、中国語も自在に操れる。工藤先生は大変魅力的である。自分の世界をしっかりと持っているのが魅力なのだ。

 工藤先生は瀋陽薬科大学の新任の日本語教師の一人で、定年のあと昨年秋ここに来るまでは関西の公立高校で世界史の先生だった。今回の赴任が初めての中国ではないという話である。現役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らすなど、よほどのことがなければ踏み切れないし、たとえそう思ってもよほどのことがなければ周囲の事情が許さないであろう。工藤先生は、それを可能にした「よほどのことがある」先生なのだ。世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場で納得するまで自分の眼で見たいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。いまの工藤先生の週末の土日の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々な本、教科書、写真、地図、紙幣、証書、書類などの資料を見つけている。

 丁度、中国でも日本のゴールデンウイークと同じ時期に労働節一週間の休みがある。この時期に工藤先生の奥様は10日間の予定で日本から訪ねて来られたのだった。工藤夫人は史子さんと言う色白の美しい人で、以前は学校の先生だったけれど、工藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の工藤先生はここでは単身赴任である。

 史子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻ってしまうと言う。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいだろうにと思う。彼女に言わせると、工藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことらしい。

 

皇寺の縁日で食べるシシカバブ

 瀋陽市の市政府の西に清朝の菩提寺となっているラマ寺院が建てられている。連休で何をしようかと貞子と話しているときに、「清朝の菩提寺とその縁日を見に行きましょう」と言って工藤先生に誘われた。この寺の広場に新年、春秋に縁日が立ち、今年の連休の始まりの5月1日には十万人の人が訪れたと言う話だ。

 朝の8時半に大学傍のバス停で待ち合わせて265のバスに乗った。バスは市の西側のルートを走り、領事館の横を北上して市政府の建物の近くを通った。五月の風と日射しがバスの中に染みて心地よい。

 市政府の前で降りて建物に沿って西の方に1ブロック歩いていくと、高い石の中国門がそびえていて北市場と書いてあった。その下に赤い大看板があって、瀋陽和平“五一”皇寺廟会、5月1日?5月7日とある。ここまで来ると沢山の人たちが集まってきているのが見て取れる。子連れが多い。門をくぐって入ってみると、大きな広場に屋台が沢山並んでいた。どれも食べ物屋で、よい匂いを発散させている。看板は中国全国から集まったとおぼしく、香港、四川、広東、杭州、云々である。

 やや、こんなことなら朝ご飯を食べてくるのではなかった、と後悔が頭の隅をかすめる。工藤先生は「縁日が出ていてにぎやかですよ」とのことだったが、それが食べ物の屋台だとは聞いていなかった。何しろ、工藤先生は食べることにあまり関心がないようなので、これを私に事前に言うことなど思いも寄らなかったのだと思う。

 私は食べることが大好きである。「人は生きるために食べる」けれど、私は「食べるために生きている」ような気がすると何時もふざけて言っているが、工藤先生からは「いえ、そりゃあ先生間違っていますよ、人は生きるために食べるのです」という至極真面目な返事が返ってくる。

 「この人、美味しいものを作っても、美味しくなくても『うまい』だけで、まったく張り合いがないんやわ。うちの人、ちいとも味がわからへん。」というのは史子夫人の言である。史子夫人はどうもグルメ派のようだ。

 「せっかく来たのだから何か食べましょうよ」と私は連れを誘ってあちこち覗いてみる。「湖南紹興臭豆腐」には、くさやみたいな匂いの豆腐を置いているし、「椰島鮮椰」にはココナッツが沢山並んでいて、「天津一絶天津大麻花」はドーナッツのお化け。「杭州一絶香辣美容蟹」では、手のひらくらいの蟹が4匹串刺しになって天ぷらとなっている。この美容蟹には大いに興味があったけれど、残念ながら天ぷらを食べるほどはお腹が空いていない。香港何とかと屋号に書いてある店ではせいろの中で小龍包が湯気に包まれて良い匂いを放っていた。「美味しそう」と、思いは直ぐに学生の白さんが昨夏案内してくれた上海の豫園城隍廟の南翔饅頭店の小龍に飛んで、思わず口中に唾がわき上がった。一人一つずつ買って食べたけれど南翔饅頭店と違ってちっともジューシィではなく、がっかりだった。

 でも、こんなことでめげてはいけない。別の「西安羊肉泡謨(言偏の代わりに食偏)(ヤンロウパオモウ)」という店では工藤先生が「私は西安に二年暮らしましたがね。この汁にパンを浸す食べ物は美味しいのですよ」と言うことで、工藤先生と私の二人分を注文した。レタス菜風の野菜と羊肉、パンのちぎったもの、透明なうどんが一人分の椀に盛ってあって、それをかごに空けて沸騰した湯の中で暖めて、改めて汁を掛けて供された。工藤先生が「懐かしい」と言って食べ始める。食べてみたけれど味が薄くて美味しいという感じではない。工藤先生も申し訳なさそうに、「これ、一寸美味しくないですね。ホントはパンに沁みた汁の味が実に旨かったのですよ。」とのことだ。おそらく、工藤先生も本当は味は分かるけれど、周りへの思いやりのために口にしないだけなのだ。

 その隣の店の角の軒先には皮を剥いた羊が二頭逆さにつるしてある。店の上には新疆羊肉と書いてあって、店頭では長い炉の中に赤々と炭火が熾り、上に渡した肉の串刺しが炙られて垂れる脂が燃えてもうもうと青い煙を揚げていた。薬科大学の前の通りには小さな食い物屋が並んでいて、何時も夕方になると競い合って、店先で盛大に煙を揚げているのを思い出す。

 今は朝日の中の焼き肉で、揚がる煙が豪気でよい。「ここに新疆省のカシュガルと書いてあるでしょ。カシュガルに行ったことはないけれど、このシシカバブは美味しいですよ。ここで食べましょうよ」と云われて頬張る羊肉のシシカバブの美味さ。黄色い脂まで芳香を放っていて、その旨さは堪えられない。

 

清朝皇室の菩提寺である皇寺は瀋陽最大のラマ教寺院

 四人ともシシカバブを二本ずつ平らげて「それではお寺を見に行きましょう」と人混みをかき分けてこの広場の隣の寺に行った。一人3元の入場料だった。境内に音楽が鳴り響いていて、工藤先生の説明では「これはお経です。」 

 単調な音律の繰り返しなので、直ぐに覚えてしまって、一緒に口ずさむことが出来た。最初の建物の前で長い二本の火のついた線香を捧げ持ち、通り過ぎる私たちの方を向いて深くお辞儀をする人たちがいる。老人だけではなく若い人たちもいる。驚いてよく見ると、順番に東西南北に向かって深くお辞儀を繰り返している。

   ヌルハチ像の前で

 このお寺は清朝の二代目皇帝であるホンタイジが蒙古の一部族を攻め滅ぼしたとき、その部族長の林丹汗は、ラマ教の活仏と自分の母を帰順の印としてホンタイジに贈ることにした。その時伝国の宝である金で出来た大黒天、金字で書かれた教典、伝国の玉爾を白いラクダに乗せて清朝の都である奉天(瀋陽)に送った。ラクダは瀋陽の西3里(1.5q)のところまで来て力尽きて倒れて死んでしまった。ホンタイジはそのラクダを哀れんで、その地に大黒天を納めたラマ教の寺を1636年に建立し、実勝寺と名付けたのがこの寺の起源だと寺の案内板に書いてあった。この寺がラマ教なのは蒙古のその部族がラマ教を信じていたからである。

 清朝は二代目のホンタイジのあとの三代目の順治帝の時に、長城を山海関で破って中原を制覇し都を北京に定めたが、その後の康煕帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝などは瀋陽まで巡幸し、必ずこの実勝寺に詣でて仏を拝んだ。それで、この寺は清朝皇室の寺、略称して皇寺となったという。

 本殿の中心には釈迦像、右には普賢菩薩があってどれも金色ご極彩色に輝いている。どこがラマ教なのか、本物の仏教を知らないから違いも分からないが、僧侶の付けている赤紫の衣服がふわっとしていて、日本の僧侶のそれとは違っていることが珍しい。ラマ教はチベットと思っていたのに、「蒙古にも布教されていた」ことも新しい知識である。

 

若いときの姿に再会した老孔雀

 この寺の横の広場には屋台の縁日が出ているが、それとは別の一画に清朝の12人の皇帝の像が円形に並んでいる。右の端が初代皇帝ヌルハチ、次がホンタイジ、順に廻って左へ12番目の最後が溥儀の像だった。この溥儀は子供の頃退位したので、姿は子供である。西太后に操られて末期を迎えた清朝のことは、最近の浅田次郎の小説「蒼穹の昴」に詳しい。西太后を奥さんにした駄目皇帝は誰かと見て歩くと、どうも先入観のせいか全く覇気の感じられない容貌を持った像が、問題の9代咸豊帝だった。

 この清朝皇帝の像の円形広場を取り囲んでいる屋台は食べ物ではなくて、玉、篆刻、書画、ひょうたんの彫刻、卵の彫刻、切絵を売っている店など、一つ一つ見ていくと愉しい。貞子たちは卵の彫刻の店によって店主が卵に躍動感のある馬を彫るのに興じて見入っている。卵ののも考えもの殻に彫っても壊れやすい卵では買うだと思って、私は切り絵の店を覗いて歩いた。

 卵彫刻のとなりの切り絵の売り子さんは愛くるしい小柄な女性で、ほとんど買いそうになったけれど、三軒先におじいさんが店番をしている切り絵の店があったことを思い出した。その店には額があって、彼の写真と説明がある。正確には読みこなせないけれど、この岳文義さんは1931年生まれで、中国民間文芸家協会会員、中国剪紙学会副会長、遼寧省剪紙学会会長と書いてある。20歳代の時に独学で切り紙芸術に飛び込んで、今まで金賞、銀賞、受賞は数知れずと云う。店先には関羽、孔雀などいろいろの切り絵が置いてあった。「これらは貴方が作ったのか」と訊くと、そうだという。この際、可愛い子ちゃんよりも老芸術家に敬意を表したい。

 そう思って作品を見てみると、ここに飾ってある孔雀が一目で気に入ったのだった。濃い青い紙で作られていて、孔雀の広げた羽が全体として丸い絵となった切り絵である。孔雀にこだわったのには訳がある。

 研究室で女子大学院生の麦都さんに私は「老孔雀」呼ばわりされている。訪ねてくる若い女子学生を相手に丁寧に説明をしていると、あとで何時も「老孔雀開屏、自作多情」と言ってからかわれている。「雄の孔雀が歳を取ったことも忘れて、雌の前で尾羽根を広げているけれど、すり切れてみじめな尾羽根に、雌孔雀は目もくれない。」という意味である。先生にひどいことを言うものだが、この文義さんの作った孔雀は見事なものだ。値段を聞くと百二十元という。額がなければ30元だ。でも、額に入っていないとただの紙切れで扱いに困るので、額入りを百元にしてくれたのを機に買ってしまった。立派な額に入っていて重い。

この後これをずっと持って歩く羽目になってしまったが、研究室に戻って包みを開けていると、なんとちょうど部屋に入ってきた院生の麦都さんが着ている赤いブラウスには、丸く孔雀の模様が刺繍されているではないか。

 「やあ、雌の孔雀さん。」と彼女にこの孔雀の絵を突きつけて、孔雀に挨拶させた。「今日は。ほら、これは、ぼくの若いときの絵姿ですよ。」

 びっくりした麦都さんは、それでも「へえ。老孔雀も昔はこんなにハンサムだったんだ。」と話を合わせる。

 「これなら雌孔雀もついて行きますよ。先生、日本に行っているあいだ先生の椅子に飾っておいて下さいね。大事にしますから。」

 何だか、やっぱり言うことが憎らしいね。 

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中国のからすはグアと鳴く

山形貞子

(瀋陽薬科大学)

   加藤先生に案内して頂いて三好街の骨とう市に行った。先生が本を買っていらっしゃるのをみて私も何か1冊買いたいと思った。難しい物は読めないし何がいいかしらとためらっていたのだが、加藤先生が歌の本を買っていらっしゃるのを見てそれなら私にも分かるかなと“外国歌集第2集、人民音楽出版社1979年出版、0.56元”というのを2元で買ってみた。そしてもう1冊、最近漢詩を覚えようと思っているので“唐詩三百首、湖北人民出版社1993 年出版、4.8元”。これも2元だった。

 歌集の方は大分汚れているけれど 唐詩の方は割にきれいで、唐時代の詩人についての説明や言葉の注釈、詩の解説がついている。勿論全部中国語だけれど眺めていればそれなりに分かってくるような気がしている。唐詩は何種類かに分類されていて、私たちが知っているものは大体が五言絶句か七言絶句だが、他に五言、七言の古詩、楽府、律詩などがあるらしい。

何故最近、漢詩かといえば、先日私たちの研究室の一学生が朝いつもより遅く来て、先生寝坊をしてしまいました。と言ったことからなのだ。ああ春眠暁を覚えずね、から始まって次はなんでしたっけ? 処処、啼鳥を聞く、その次は?と言っているうちに日本にいるとき、NHKラジオの中国語講座でお琴の音をバックにこの五言絶句のすばらしい朗読を聞いたことを思い出した。その時にちゃんと覚えたはずなのにすらすらとは出てこない。よしそれなら覚え直そう、何度も繰り返せばなんとか覚えられるだろう、頭の訓練にもなるし、とごく最近勉強を(と言うほどのことではないけれど)始めたところなのだ。

敦煌では“葡萄美酒夜光杯”とうたわれた夜光杯を買ったし、蘇州ではかの有名な寒山寺にも行った。寒山寺はタクシーの運転手さんになぜ日本人は寒山寺が好きなんだろう?除夜の鐘をつきに日本人が列をなす、普段5元の鐘突き代がその時は800元にもなるなどと笑われ、お寺も予想していたのとは全然違っていたけれど、それでも知っていると思えば美しい詩にますます愛着がます。というわけで中国人ならばみんな小学校で習って知っているに違いない詩を覚えたいと思っているところなのだ。

 一方、歌の本。これがまた大変興味深い。まず、五線譜ではない。数字で音階が表されている。このような楽譜は私が子供の頃,叔母のものだったろうか、古い流行歌の本で見た記憶がある。去年教師節の時に薬科大学では、先生達のコーラスのコンクールがあった。どのように分けられているのか判らないけれど薬学院、中国薬学院、教務部などなど沢山のグループが参加した。私たちの研究室のドクターコースの学生は薬学院のティーチャーなのでその一員として参加した。その時に楽譜を見せて貰ったので数字で書かれている楽譜が、今も使われているのは知っていた。コーラスもその楽譜でやるらしい。

先生方のコンクールは楽しいものだった。私たちの所に実験にきていた先生は練習があるから来られないと言ってしばらく休んでいたし、ドクターコースのティーチャーも夕方になると練習に行っていた。どのグループも相当力を入れて練習していたように思う。コンクールの当日、私たちの学生が出る時間の少し前から聞きに行った。会場はクラブと呼ばれている講堂だった。大体20人から50人位の混声グループで、服装もみんなそろえていた。ジャケットやブラウスをそろえているグループが多かったが、お金持ちの学部は洋服から靴までそろえたとのこと、これもみんな各学院がお金を出したそうだ。すごい! そういえば、運動会の時も先生達は毎年学部ごとに新しく帽子や着るものをそろえている。歌は堂に入った指揮の下、元気に声をあわせるマーチ風のものが多かったが、中国風発声のソロの入ったもの、しっとりと歌いあげるものなどあって気持ちよく聞かせて貰った。

さて楽譜は1がド、2がレ、3がミである。これでは私のような絶対音感のない者ならいいけれど音が分かる人だと気持ちが悪いだろうなと思ってよく見ると、一番左上に“1 = B  4/4”のようにちゃんと音の高さが記されていた。 数字の上に点がついていたら1オクターブ上、下に付いていたら1オクターブ下、下に線が引いてあったら長さは半分、右に点がついていたら長さは1.5倍。ーは一拍のばすのだ。これらのことは眺めているうちにほぼ理解できた。学生に尋ねたら学校ではずっとこの数字の楽譜を使っていて五線譜は習わなかったと言っていた。

 韓国、英国、法国、徳国、美国、?????などいろいろの国の民謡やいわゆる名曲が載っている。勿論日本の歌もある。なにしろ全て漢字で書いてあるので日本の歌以外はなんの歌か分からないけれど、ふんふんと音をたどっていくとああこの歌かと分かってくる。丁度パズルを解くような楽しさだ。さらに歌だけでなく作曲家の名前などが分かると嬉しくなって声を上げてしまう。貝多芬、舒柏特、門徳尓松、肖邦、古諾、比捷,徳沃扎克など。分かりますか?モーツアルト、ヨハン・シュトラウス、チャイコフスキー、ヴェルディ、リムスキーコルサコフなどもあるし、オペラの題名がまた楽しい。“茶花娘”、“?門”、勿論“椿姫”と“カルメン”だ。そんなことを喜んでいるうちに、例えば日本語を習ったドイツ人がカタカナでベートーベンと書いてあるのを読んで、ええ?これ何? クイズを解くようだと言って喜んでいるかもしれない、ということに気が付いた。

 加藤先生が中国語訳の日本の歌の本を貸して下さった。その中にとっても気に入ったものがあった。日本語の歌は勿論いい歌だけれど中国語もとてもやさしくてかわいい。どうぞ歌ってみて下さい。  

七只小烏?

老烏鴉 在山?上 ??叫呱呱?

??里有了 七个可愛的小烏?

小烏? 多可愛? 老烏鴉不停地叫呱呱

小烏? 多可愛? 愉快地叫呱呱

請上山 看一看 烏??里有什?

?着圓圓的小眼晴 可愛的小烏?

中国ではからすは、“gua,gua”と鳴くくらしい。蛙の鳴き声もやはり“gua,gua”だとか。

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旅は列車が一番                         

南本卓郎

(瀋陽薬科大学)

01年9月から1年間長春で日本語教師をしていたが、その間北京、瀋陽、大連、ハルピン(以上それぞれ数回)、吉林、長白山、延吉、図們、琿春、通遼、昆明、大理、石林、麗江、玉龍雪山、桂林、西安、敦煌、烏魯木斉、吐魯番、喀什、カラクリ湖等を旅行した。瀋陽で生活し始めて約9ヶ月経つが、今のところ旅行した場所は撫順、本溪、長春と瀋陽近辺の僅か3箇所である。これには個人的な理由や反日感情等のせいもある。長春時代に瀋陽市内の主な所は観光したので、今回の労働節の休みは日帰りバスツアーと市内の東塔・西塔・南塔・北塔の4つの塔を見て廻っただけである。私は列車の旅が好きだ。日本では「トワイライトエクスプレス」号で札幌〜大阪間を3度ばかり乗車したことがあるが、せいぜい21時間あまりの旅であった。中国はさすが広大な国で、始発駅から終着駅まで1本の列車で一番長くかかるのは烏魯木斉から重慶までの約57時間である。チャンスがあればぜひ一度乗ってみたいものだ。そのうち喀什〜広州・福州、ハルピン〜昆明間などもっと長時間かかる列車ができないものかと期待している。にいるときには、あの大きくて分厚い時刻表を抱えては「青春18きっぷ」で遠くへ旅行したものだが、時刻表を眺め接続を調べながら、ある駅で突然下車し観光したりするのは大変楽しいものである。中国でも長い列車の旅では時刻表とにらめっこしながら停車時間の長い駅を探し、到着するとホームに降りて体操したり、地元の珍しい食べ物を買ったりしている。家でも暇なときは時刻表を眺めて楽しんでいるが、日本の時刻表は実によく出来ていると感心する。JRの列車の時刻が中心ではあるが、その他私鉄電車、長距離・夜行バス、フェリー、飛行機等全国津々浦々の交通機関はもちろん、国際便の飛行機まで掲載されていて、大変解かりやすい編集になっているからである。その上、各地の写真付き旅行案内や運賃・料金表、とくとくきっぷの案内や宿泊案内などの色付きページなどは大変役に立つし面白い。

瀋陽へ着任して真っ先に時刻表を購入した。ところが、4月18日からの新ダイヤの時刻表が最新版だと言う。日本のように毎月発行されないのだろうか。列車時刻しか載っていないので、頻繁なダイヤ改正が無ければこれですむのだろうが、季節列車や臨時列車などは無いのだろうか。     

  
瀋陽北塔

見慣れていないせいもあるが、日本と編集の仕方が異なるのでなかなか見づらい。しかし、よく眺めていると、中国の時刻表の編集の意図がだんだん分かってきた。今回の時刻表に直通特快列車「Z]ナンバー列車(Z○○車次)というのが最初のグラビアのようなところに載っている。但し始発駅と始発時刻、終着駅と到着時間が掲載されているだけで、どこ経由かが書いてない。たぶん途中駅には停車しないので、書いてないのではないかと思う。これは以前無かったので、新たに増設されたものだろう。今度日本に帰国した際、2001年の時刻表を持ってきてつぶさに内容を比較してみたいと思っているが、大都市間等は列車がかなり増発されていて便利になっていると思う。中国の列車の利用状況を考えるともう少し列車を増発しても良いのではないかと思うのは、私一人ではないと思うのだが・・・。

私は旅は列車が一番だと思っている。旅の途中の景色もさることながら、車中で楽しい出来事が次々生まれる。以前夏休みを

利用して長春から桂林、桂林から西安、敦煌、烏魯木斉、吐魯番等を経て喀什まで、往路はすべて列車で旅行した。行った先々で列車の切符が手に入るまで観光しながら滞在し、切符が手に入ったら次へ移動し、約1ヶ月間かけての旅行だった。その際も時刻表が大変役に立ったのを覚えている。

その旅行で一番印象に残っているのは、烏魯木斉から喀什までの天山山脈の麓やタクラマカン砂漠を突っ切る列車の旅である。車窓から見る雄大な景色は到底飛行機では味わうことの出来ないすばらしいものであった。出来たらもう一度この列車に乗って旅をしたいと思っている。

この列車の旅でいろいろな面白い体験をしたが、その中で印象に残っていることを2〜3紹介したい。

単線で列車と列車が行きかうときに駅でないところに長時間退避する場所があるが、そこに停車中の列車を目当てに物売りが集まってくる。長い竿の先の籠に果物を載せて乗客に売り、乗客は代金をその籠に入れて返すのである。

車掌に食べたラーメンの空き椀等のごみを渡すと、空調の無い列車だったので、開けてある窓からぽいと投げ捨てた。

西安から敦煌へ行く時、切符は敦煌行になっていたが、私の持っている旅行案内によると柳園駅(時刻表は敦煌駅に改称されていた)になっていて敦煌の街まではかなり離れていた(100Km以上離れていると思うのだが・・・)。列車の中で、地図を広げ、車掌にカタコトの言葉で尋ねるともう一人車掌を呼んできて二人で地図を見ながら、柳園から敦煌まで鉄道の線を書き込み、今は敦煌に列車が行っていると答えた。ところが敦煌駅についてから敦煌までバスで2時間以上かかった。車掌よ、勝手に地図上に線路を作らないで欲しい。

長い間列車に乗り合わせていると言葉は通じなくても親しくなれるものである。我々はまず、好奇心旺盛な子供たちと仲良しになる。ゲームを教えたり、トランプで遊んだりしていると、やがて親も仲間へ入ってくる。食べ物を交換したり、挨拶代わりの「使用済み切手」を手渡すころにはすっかり打ち解けてだんだん楽しい旅になってくる。

帰路は、お盆までに帰国しなければならないという制約もあり、教師の特権を利用して飛行機にしたが、冬や夏の休みに中国国内を旅行する場合、「外国専家証」を提示すれば、飛行機代が2割引になるというのをご存じない先生方が案外多いのではなかろうか。

先日、親戚を連れて長春へ旅行したとき、軟座の切符が購入できなかったので、仕方がなく大枚をはたいて硬臥の切符を買った。瀋陽発吉林行の「N111」次列車は昼間の、しかも全行程わずか5時間余りの列車なのになぜ寝台車がくっついているのだろうか、不思議だ。

事情が許せば、またぜひ時刻表を片手に長期間旅行したいものである。そして、一度は国際列車が発車している北京・ハルピン・フフホト・ウルムチまで行き、そこから発車する列車で外国へ旅行してみたいという夢を持っている。

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瀋陽に暮らして

高山敬子

(瀋陽薬科大学)

  瀋陽に暮らして、約2年になろうとしている、と言っても1年に4ヶ月の休みが入るので、実質は1年半だ。その中で身についた、というより身に染み付いてしまった習慣がある。

 それは道を歩く時、足元に目を落とし、注意深く歩かなければならない。別に物を拾うためではないが、さもなければ、マンホールのふたがずれていて、落ちるかもしれないし、道路工事の終わった後につき出ている鉄筋に足をとられるかもしれないし、吐いたばかりの痰を踏みつけるかもしれないからだ。何も考えず、ぼんやりとまわりの景色を見ながらふらふら、ふわふわ歩くのが好きなわたしにとっては、かなり緊張をしいられることになる。

 もう一つは横断歩道を渡る時、しっかり信号が青に変わるのを待ってから、慎重に左右をキョロキョロ確かめながら、渡らなければならない。かなりのスピードで突っ込んでくる右折車に注意しなければならないからだ。これも日本に帰った時、何気なくやっていて、友人に「いやだな。青信号なのに何をキョロキョロしているのよ。」と言われてしまった。

 道を歩くと、必ずと言っていいほど出くわす、幼い子供の物乞いの姿に、13億以上の人間が熾烈な生存競争を繰り広げている中国のすごさとこわさを感じる。そして、ぼんやり過ごすということは、この国では敗者を意味するのかもしれないと漠然と思う。

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瀋陽に来て・・・

池本千恵

(和亜久外国語培訓中心)

 瀋陽に来て1ヶ月半が過ぎた。この頃、中国人の知り合いに決まって聞かれることは「習慣了??」。中国語があまりできない私は、とりあえず「習慣了」と答えているが、本当は自分でも瀋陽の生活に慣れたのか、慣れていないのか、よく分からない。

 実は、私が瀋陽に来たのは今度で3度目である。もちろん、1ヶ月以上の海外生活は初めての経験だが、日々起こる出来事は、ある程度予想していたことだ。

 次から次とやってくる車を避けながら渡る大通り、やっと乗ったかと思うと急発進するバス、容赦なく飛んでくるおやじの痰、不親切な服務員、鍵のかからないトイレ、そして、そのドアを勝手にあけるおばさん等々・・・。特に驚くこともなかったし、もともと“気の長い”私はあまり腹を立てることもない。でも、それらのことに本当に“慣れた”のかどうかは疑問である。そして、これから先も“本当に慣れる”のかどうかもまた分からない。

しかし、10年前と比べると、瀋陽もずいぶん発展し、住みやすくなったと思う。以前も3月の終わりに来たことがあるが、ちょっと外に出ようものなら、コートは真っ黒、口の中はジャリジャリ、頭からも砂が出てくるような感じだった。確かに、瀋陽の春風は相変わらず強いが、以前と比べると衣服の汚れ方はずいぶん違う。道路もきれいに舗装されたところが多くなったし、走っている車も立派なものが目立つ。大きいスーパーも何軒もできて、店内には品物がずらっと並び、日本と同じようにカートを押しながら買い物できるようになった。街中にはお馴染みのファーストフード店が軒を連ね、あまり外国にいるということを感じさせない。高級マンションもあちらこちらに建っているし、街を歩く人たちのファッションもだいぶ垢抜けたと思う。

2005年5月3日・千山・五竜宮にて

まあ、外国で生活する時、いろいろなことで不便を感じるのは当然のことで、私はそれを日々前向きに考えるようにしている。例えば、私のアパートはよく水が出なくなるのだが、水が出なくなると、今までいろいろなところに水をたくさん使っていたことに気づく。そして、「水って、ありがたいなあ。少し節約しなきゃ」と思う。だから、私は水が止まっている間は「水に感謝の時間」と名付けている。

 また、日本では当たり前にできていた「手紙を出す」とか、「銀行にお金を預ける」とか、「商店で買い物をする」とか、そんな日常の一つ一つも、言葉がうまくできない私には大冒険である。一生懸命覚えて行った言葉で話し掛けてみたら、予想外の答えが返ってきてどぎまぎしたり、服務員に冷たくあしらわれたりしながらも、何とか“任務”を達成できたときは、子供の「初めてのおつかい」のような気分だ。

 いろんな不便なことの裏には、いつも日本にいては味わえないような感動や感謝の気持ちがある。おかげさまで、現在は、周りの人たちにも恵まれて、それほど大したこともなく、毎日を過ごせている。(本人が“大したこと”に気がついていないだけかもしれないが・・・)これから、こちらでの生活が長くなれば、また新たな問題も起きるだろうし、自分ではどうすることもできない理不尽なことに遭うかもしれない。私は日本でたくさんの中国の人に出会った。どこの国の人でもいい人もいれば、よくないことをする人もいる。私をいつも支えているのは、私が出会ったすてきな人たちだ。もし、嫌なことがあっても、その人たちを思えば、中国のことを単純に嫌いだとは思わないんじゃないかと思っている。

 最後に、教師会の皆様、これからもよろしくお願い致します。

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高齢者に狭き門

石井康男

(遼寧大学)

 在瀋陽6年余、勝手気ままな言動で多くの日本人の方々にご迷惑をかけ、そろそろ箒を逆さまに立てられるようになったのでないかと、自覚をする毎日です。

 そこで70歳を迎えるにあたり、初心に帰って心機一転、新天地でがんばってみようと考え、昨年からいくつかの大学と折衝をしましたが、どこも年齢を理由に見送られ不調に終わりました。年末からお呼びがかかった寧波の学校から何度も下見にきて欲しいと要請があったので、思い切って14日に出発をする予定で、航空券を購入しましたが、前前日になって、先方から資金不足で外教が採用できないという理由で突然断りのFAXが来ました。実のところは年齢が高いというのが本当の理由でした。

教室で   

中国では、70歳といえばかなりの高齢者と思われ、教育に従事することなど不可能だという固定観念があるようです。日本では70歳や80歳でも現役で活躍をしている方々は多くいて、中には90歳・100歳を越えた方々もいます。社会のために貢献することが出来る人材であれば、年齢に関わり無く活躍の場が保障されています。私が大学生の時には当時90歳を越えた那智左伝先生が和服姿で凛とした声で、「左伝」や「中庸」の講義をされていました。しかも当時は学長という大任を担っていて、若者に負けない気迫で学校改革を論じあいました。津田沼から電車で通勤をされ、決して送迎自動車は使用せず、健康のためには通勤が最良だと実践されていました。単に数字としての年令から人間を判断することの愚かさを実感しました。私もまだまだ社会のために貢献が出来ると自負していましたから、軽いショックを受けました。精神年齢は若者以下ですから若いと言うのか適当なのか、「アホ」なのか分かりませんが・・・・・・・。

中国も間もなく高齢者時代に突入し、ましてや一人っ子政策の効果があらわれる時代がやってきます。その時に高齢者をどのように扱い、位置付けるのか、さらに持っている経験や技能・知識などなどを活用することを考えていかねばならない時代になる

と思います。その意味で、今回のような数字的な判断だけで遮断をするのは、社会にとってもったいないことになるだろうと感じました。

 日本の高齢社会のいい点を学ぶことで中国の次世代のあり方が明確になるのではないでしょうか。その意味で、私はまだままだ中国で活躍を継続して範となるようにがんばらねばと改めて決意を固め、意気を高めました。

現在のところ瀋陽に留まるか他の都市へ移動するのかは未定です。縁があれば異動もあるだろうし、遼寧大学との縁が強くて切れなければ、継続をして一層がんばらねばならないと考えています。

 年度末の挨拶としては中途半端ではっきりとしない状況ですが、皆様のご高察にお任せいたします。

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私の癒し系

市原純子

(東北育才学校)

中国を代表する動物と言えばパンダです。以前は、パンダが見られる!といっても、@動物園にポツリ一人ぼっちで、しかもいつも寝ている。A人気の動物なのでいつも人だかりができていてゆっくりじっくり見られない。B柵の近くには来てくれず遠巻きにしか見られないetc・・というイメージで、パンダが見られるからといってそんなに興奮するということはありませんでした。

5月の労働節、旅行で成都に立ち寄った際、パンダ繁育研究基地があるというので行ってみることにしました。そこは、巨大な敷地をパンダの生息地に似せて、自然に近い環境でパンダを研究しているというだけあって、緑豊かで、とても気持ちの良い場所でした。そこでは、どのコーナーに行ってもパンダが3,4匹はいるという状態で、そんなにたくさんのパンダを一度に、しかもそんなに間近で見たことがなかった私はとても興奮し、年甲斐もなくかなりキャーキャーはしゃいでしまいました。そして、なんと!そこではパンダ様(以下、本人の都合により敢えて“パンダ様”と呼ばせて戴きます)と一緒に記念撮影ができるとのこと。かなり高額でしたが、もうすっかりパンダ様の虜となった私は迷うことなくお支払い。撮影前には、まず、パンダ様に人間菌が移らないよう、手にはビニール手袋、靴にもビニールを被せてから、初めてパンダ様に近づけます。高まる気持ちを抑え、緊張しつつパンダ様の横に座ると、いきなり片足を私のひざの上にボテッとのせてきました。これがパンダ様以外なら、なんて失礼なっ!と思うところですが、この場合はパンダ様ですから、かわいい〜!となります。係の人からもらったリンゴをひたすら食べ続け、私には全く興味なし・・という感じでしたが、お近づきになれただけで大満足でした。旅行から帰った後も、パンダ様の写真を眺めては癒されている今日この頃なのです。

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公園の風景

竹林和美

(東北育才学校)

好きな場所はどこかと聞かれたら私は迷わず公園と答える。学校の目の前にも公園があるのでもちろん毎日足を運んでいる。公園の緑の中を軽く走ったり、歩いたりするのは本当に気持ちがいい。運動して汗をかくと体だけでなく気持ちもすっきりしてくる。心と体はつながっているのを実感する。季節の花を見て心を和ませたり、その香りを楽しんだりもできる。毎日公園で自然に触れることでその変化に敏感になる。冬の間あまりに寒いのでお休みしていたジョギングを再開したとき、春の訪れを本当にうれしく思った。瀋陽の冬は、今まで経験した中で最も寒い冬だったから、今年ほど春の訪れをうれしく思ったことはない。

 ところで中国の公園は日本に比べて活気があるように思う。来たばかりの時、朝の公園のにぎわいには驚かされた。人々が公園にくる目的は様々である。まず私のように運動をしに来る人たち。太極拳、リズム体操、社交ダンスなどのグループがたくさんある。毎朝時間を決めて集まってくるから同好会のような感じである。バドミントン、羽を蹴る遊び(何て言いましたか?)、ウォーキング、ギョギングの他、公園の健康器具にぶら下がったりして体をほぐしている人も大勢いる。変わりどころは木に体をこすりつけている人たち。木から気をもらうのでしょうか。私は「木健康法」と勝手に名付けている。他には「大声健康法」がある。これまた勝手な命名。とにかく大声で何かを叫んでいる人たち。お腹から思い切り声を出すので体に良さそうである。公園で運動している人たちは老若男女さまざまで、お年を召した方もたくさんいる。中国人の健康に対する意識の高さが垣間見える。

 運動の他に合唱のグループもある。私もその中のある合唱団に参加している。歌う時間は毎朝8時から9時半まで。レパートリーも豊富で本当に楽しい。学校の門番のおじさんがそこの一員で、誘われて行き始めた。その合唱団は来る人を拒まない。いつでもだれでもウェルカム。閉鎖的なところが全くなく、みんなふらりと集まって歌を共に楽しむ。そんなシンプルさがとてもいい。きっと太極拳や体操のグループもそんな感じだろうと思う。こんなところでも中国のおおらかさを感じる私。合唱の他に楽器を弾くグループもある。二胡や琵琶が中心で、そういう風景を見るとやっぱり中国らしいなと思う。

 公園は人との出会いの場でもある。合唱に行き始めたせいもあって顔見知りの人が増えた。なんとなく声をかけられたりしてお友達になった人たちもいる。みんな公園へ来るのは、運動や音楽を楽しんだりするのと同時に、友達に会うという目的もあると思う。そう、公園は中国の人たちにとって大切な社交の場なのである。

 といった公園の風景。中国の公園は本当に楽しい。私の公園通いはまだまだ続きそうである。いつか太極拳もやってみようかな。

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中国に暮らして

渡辺文江

(遼寧大學外国語学院)

私は、1985年に、中国の約10都市や中国の世界遺産を巡る大旅行を経験した。列車にも何十時間も乗って、黄色い大地を這うようにつぶさにこの国を見た。最も驚いたことは、都市や農村の大群衆の暖かい目であった。老若男女、誰も私達20人ばかりの集団をおおらかに、暖かく眺めてくれた。奇異な目、刺す様な目に会うことは皆無であった。

 この体験が、後に私が中国で暮らすことになった理由のひとつである。

 治安が良好で、人々が温かい目をしている、こんな国なら、やっていけるのではないか、と考えたのである。

 1988年から3年、そして、2001年から現在まで、日中を往復しながら、教師生活を送っている。

 まず、日中の往復で思うことは、飛行機の乗客の様変わりである。80年代は働き盛りの男性ばかり、女性は数名、老人子供に会ったことはない。今は、汽車の乗客とほぼ同じで、誰も気楽に往復している。瀋陽―大阪の国際便は1630キロ、2時間と少しで往来できる。しかし、両国の風景は一変する。瀋陽空港に着くと、日本人の私は、中国の風景に見入り、乾いてひんやりした空気を吸い、臭いを嗅ぐ。この国独特の臭いを感じる、なぜか私は、臭いに敏感なのだ。国の臭いはきっと、どこにもあるように思う。自国だけは自分では感じないようにも思うが。それから、瀋陽から遼陽までの車窓の風景を春夏秋冬、眺める。広い空、広い大地、広い道路、田園風景など見ながら、これからの生活を思い描く。

 早寝早起きの私は、中国暮らしにぴったり合う。零下25度の厳寒期の早朝でも、人々は活動を開始している。学生や教職員がキャンパスの運動場で一年中、さまざまなスポーツを思い思いにやっている。私も気ままに朝の運動に参加する。こうして一日が始まる。快晴、まぶしい朝の太陽、新緑のみずみずしさなど、百花繚乱の5、6月は、中国東北地方の最もよい季節と言える。

 又、キャンパスの散歩は、一日の生活にメリハリを付けてくれる。私は、疲れた時、何か悩んだ時、何か考えたい時、困った時、寂しい時など、散歩をしているうちに、心が晴れるのである。名案が浮かぶこともあり、直ぐメモをとる。

 午後の休憩、夕方の散歩、夜のテレビ鑑賞などリズミカルに時間が流れ、一日が終わる。

 夜、中国のテレビを2時間位見る。よく見る番組は、天気予報、ニュース、社会問題、ドラマなど。中でも、連続ドラマのすばらしさに深く感動させられる。人々と人生、運命、社会模様の機微がよく表現され、人の心の喜怒哀楽が綾なす様に感動して、涙が流れることがある。

 私は健康法のひとつに気功按摩というのをやっている。按摩師の彼女は気功を取り入れて、全身を按摩してくれ、私の健康状態を熟知していてくれる。私の健康は彼女に預けているのである。3年余りやっているが、彼女曰く、「あなたの身体は3年前より若い」冗談だが、うれしい冗談である。

 私の毎日の暮らしの中で、繁華街に出ることは、一ヶ月に一、二度しかない。デパートもスーパーも道路も人、人、人。休日などは、家族づれであふれ、にぎやかで、和やかな光景である。

 大學の近くで毎朝、5時から9時まで朝市が開かれている。取れ取れ野菜、卵、豆腐、果物、肉、干物、花から日用品まで、100店ぐらいがずらりと。私はここへ買い物に行く。馴染みの店も出来ている。野菜の種類も豊富、新鮮さを見分け、旬の物を買う。野菜を多く食べ、肉食、油類を避ける、出来るだけ菜食に近づけるというのが、今の私の考えである。一方、レストランでは、蛙、犬、さそり、何でも美味しく頂き、中国料理は大好きである。

 医食同源と心得、腹八分目、夕食を少食にと、努力している昨今である。

 中国の暮らしを、ここまで書いて気がついたこと、それは、私が今では、中国人民の一人として、この広くて、黄色い大地に根付いているということである。以上                       

(2005・5・14)

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「鉄(テツ)」の戯言

宇野浩司

(瀋陽市外国語学校)

 私は鉄道が大好きです。山手線の内回りと外回りをそれぞれ何回かやったり、営団地下鉄(現東京メトロ)の一日乗車券を買って一日中乗りまわしたり、とにかく鉄道に関する事が好きでいろいろしてきました。もちろん犯罪行為はありません。「経済的鉄道利用」は致しましたが。

 大学生の時も、鉄道研究会に入っていました。そこはまさに「鉄道狂」達の巣窟でした。彼らの会話は、「〜線の〜番台が明日廃車回送になるらしい。是非とも撮りに行かなくては」や「クモヤ(「事業用」と言って旅客運用せず、作業に使う車両の事)が明日〜駅を〜時頃通過する」や「音を聞いただけで、〜線は何番代か分かるぞ」という会話がしょっちゅうでした。私はそのような環境にどっぷりと浸かっていました。

 「鉄道狂」、いわゆる鉄道マニアの事はよく、「鉄(テツ)」と呼ばれています。その度合いによって、「ド鉄」と「非鉄(ヒテツ)」という区別があります。私自身は後者の方だと思って言いました。しかし最近は、前者に傾きつつあるように思えてなりません。

 そんな私が言いたい事は、「何故中国には鉄道模型を売っている店がなかなかないのであろうか」ということです。ここでいう鉄道模型とは、Nゲージのようなものです。純粋な子供向けのものではありません。私は中国のあの重厚なフォルムをした、機関車及び客車の模型がほしくてなりません。一編成揃えたいです。あっても良さそうですがありません。車と飛行機はありますが、何故か鉄道がありません。北京あたりにあるようなことは聞いていますが。中国人には興味がある人間があまりいないらしいです。私としてはそうであったとしても寂しいです。

 もう一つは、「駅構内で鉄ッチャン活動がやりにくいかもしれない」ということです。

 宿舎の部屋から「ファ〜ン」という遠くからの警笛が聞こえると、時々「オォーッ」と叫んでいます。それで、日本の『鉄道ジャーナル』という雑誌を見ているうちに、「中国で何回か鉄道に乗ったことはあるが、そういえば、駅に鉄道だけを見に行ったことがない。鉄ッチャン活動をしていない。やらなければ」と思い立って、瀋陽駅に行きました。そこで入場券(ジャンタイピャオ)を買おうとして、窓口で「ください」と言っても、すぐには売ってくれませんでした。何か「どこに行く人間を見送るのか」というようなことを聞かれました。私は「列車がみたい」と言っても、それでもまだ売ってくれません。服務員も「もう仕方ないなあ」という感じで売ってくれました。そして、その券を持って改札口に行ったのですが、そこでふと思いました。「そう言えば、駅構内でカメラを持って鉄道を取っているような人間はいなかったような気がする。私は全く手ぶらでいるし、プラットホームで覗きこむように電車の隅々までみて、何時間もいたら怪しまれるのではないか。『なにやってるんだ』と聞かれて『鉄道が好きで見ているんだ』といってすぐに納得してもらえるだろうか。あまり言葉もできないし大変ではなかろうか」と。それに知っての通り、いつでも改札口を通れるわけではありません。中国は。ですので、気も小さいこともあって、改札口のところから引き返して、外に出て、出口の柵越しにしばらく鉄道を見ていました。それでも、まじかでなくても、やはり「鉄道はいいなあ」と思いました。あとで、いろいろな人に聞いたところでは、「友達が来るから迎えに来た」といえば、簡単に売ってくれるそうです。また、北駅の方が、発着する列車も多いので、迎えの人間も多く、簡単に売ってもらえるそうです。入場券を。

 中国にいる間にいつかは鉄ッチャン活動をしたい、と思っています。「友達を迎えにきた」といって構内に入って舐めまわすように列車を見る。これが当面の目標です。

 意外と簡単にできそうですが、どうでしょうか。誰か私と一緒に鉄ッチャン活動をしたいという方がいればいっしょにやりましょう。一人でやってもいいのですが、何人かいたら心強いですから。

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東北旅行

長澤裕美

(東北育才外国語学校)

今年の五・一の休みを利用して、同僚の先生とハルピンと長春を旅行しました。さすが最北の省だけあって、ハルピンでは持参した服を着重ねても寒く感じるほどでした。前日、 瀋陽では、汗ばむような陽気だったのに・・・。

東北地方は、今住んでいる 瀋陽も含めて、日本がかつて侵略をし、満州国を建てた地方。各都市に日本が建てた建築物が残っています。特に長春は満州国の軍事部、司法部などの国家機関があった建物が残っており、日本の軍国主義時代の色が一番残っている町といえるでしょう。残念ながらそれらの建築物は現在は病院や中国の国家機関として実際に使用されていて、中を参観することはできませんが、外から見るだけでも当時の雰囲気を感じられました。

どの建物も石造りのどっしりとした重厚な建物で、今の日本の建物がちゃちに感じられます。当時の日本政府がどんな構想、野望を持って、この中国に国をつくろうとしたのか、正直に言って私にはよくわかりません。それは、学校の歴史の授業のせいもあるでしょう。恐らく、私と同じ年代の方はみなそうだと思いますが、近現代の歴史が授業で取り上げられるのは学年末で、時間がなく、ただ教科書に目を通すぐらいでした。しかもその教科書に記載されている中国との戦争の部分はほんの少しだけです。だから、日本が中国に対してどんなことをしたのか、知らない人が多いのが現状だと思います。実際に長春の街に残された日本軍国主義の遺構を目にして、近現代の日中の歴史の本当のところを知りたいと思いました。長春で乗ったタクシーの運転手は皆、それらの建物を通り過ぎるとき、「これは、日本人が建てた建物だよ」と教えてくれます。また、今年4月中旬から各地で起こっている日本製品不買運動について話し始める運転手もいました。そういう時、私たちに対する敵意などを感じることはありません。このような話をするとき、この人たちはどんな気持ちなんだろう。屈辱的な歴史の残した建物をどんな気持ちで見ているのだろう。それがどうも私には察し切れません。新しい歴史教科書のことで、国内外で様々な意見が飛び交っています。私としては、事実をゆがめていない、本当の歴史を知りたいと思います。

事実をゆがめて、美化した教科書を勉強させられるとしたら、それはとても不幸なことだと思います。

そんなことを考えされられた東北旅行でした。

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