日本語クラブ20号 目次
2004年度第3号 (2005年6月発行)通巻20号
Webに載せる都合で二部に分かれています
このページは第二部です
16.小さな国際交流・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中道恵津
17.忘れ得ぬ小説「グウドル氏の手套」・・・・・・・・・・・・中道秀毅
18.異国の中の異郷・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・南本みどり
19.中国東北部の旅行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前田節子
20.瀋陽に滞在11ヶ月の思い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・沢野美由紀
21.もうちょっと中国にいよう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山崎えり子
22.瀋陽の古い映画館を訪ね歩く・・・・・・・・・・・・・・・・・・加藤正宏
23. わたしのお気に入り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・斉藤明子
24.瀋陽の一年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・小林豊朗
25.瀋陽に暮らして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・児崎静佳
26.人工知能ゲームと名詞の体系・・・・・・・・・・・・・・・・・・岡沢成俊
27.ありがとう、さようなら、瀋陽・・・・・・・・・・・・・・・・中原麻実
28.チベット旅行記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鳴海佳恵
29.北の大地の女流文人「蕭紅(シアホン)」・・・・・・多田敬司
会員寄稿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.違う自分 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸山羽衣
2. 教師一年生 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・呉 麗艶
3. 正月も休まなかった張さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中道恵津
4. 手紙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中道秀毅
中国暮らしの中から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1.鍵事件 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金丸恵美
2.0から1へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・丸山羽衣
3.1枚の写真・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大甘 密
4.「車を打た」ないで・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・峰村 洋
5.瀋陽良いとこ、一度はおいで(皇寺の縁日)・・・・山形達也
6.中国のからすはグアと鳴く・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山形貞子
7.旅は列車が一番・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・南本卓郎
8.瀋陽に暮らして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高山敬子
9.瀋陽に来て・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・池本千恵
10.高齢者に狭き門・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石井康男
11.わたしの癒し系・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市原純子
12.公園の風景・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹林和美
13.中国に暮らして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・渡辺文江
14.「鉄(テツ)」の戯言・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宇野浩司
15.東北旅行 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長澤裕美
中道恵津
(瀋陽師範大学)
4月以来の反日デモの影響で日本から中国への観光客が激減したそうな。NHKラジオは連日反日デモがらみのニュースを流している。日本の家族や知人たちもずいぶん心配してくれているようだ。ところで、こういう事態はあっても、私たちの日常生活はいたって平穏だ。日本人に対する嫌がらせなど何も起こらない。バスの中では相変わらず席を譲ってくれる。この五一節には、長春の友人と私たち夫婦の3人でハルビン、満州里へと8日間の旅行をしたが、老人(!)3人の旅を不愉快にする中国人は一人もいなかった。いや1回だけこんなことがあった。
それはハルビンの博物館の中だった。ここには巨大な恐竜とマンモスの骨格の化石がある。静かな館内の展示品を見て歩いていたとき、私たちを日本人と見たのだろう、一人の若い男性が話しかけてきた。
「旅行ですか。」「ええ」「どこから来たのですか。」「私たちは今長春や瀋陽で働いています。」こんな会話の後すぐ、「あなた方はピンファンに行きましたか。」ときた。突然のことでこの人は何を言っているのかすぐに理解できなかったが、聞き返してみてわかった。“ピンファン(平房)”とは、ハルビンの郊外にある地名で、かつて日本軍の731部隊が細菌戦の研究をしていたところだ。中国人の捕虜に対して過酷な生体実験を行ったところとして知られ、、森村誠一が「悪魔の飽食」にその実態をつぶさに描いている。
私たちがもうずっと前に行ったことがあると答えると、今度は小泉首相の靖国神社参拝を話題にしてきた。私が「首相の考えは不好。私たちは彼のやり方に賛成できない。」というと、今度は「安利」を知ってますか。」と話題が急転換した。私たちが怪訝な顔で「あんり?」と聞きただすと、[アムウエー]という。「あ、AMWAYね。あれは、中国人にとっては値段が高すぎるでしょう。売れるのですか。」「まあまあです。」こんな会話の後、彼はAMWAY製品の宣伝を始めたり、AMWAY関係者らしい日本人の名刺を出して知ってるかなど、話題はもっぱら自社のことに向けられた。静かで穏やかな口の利き方は嫌味がなかったが、面倒になって適当に挨拶して離れた。
満州里から瀋陽に戻ってくる20時間近い汽車の旅では、中国の青年たちと親しく交流ができ、時間を忘れた。
私たちの上のベッドの二人の若者は会社の同僚同士で31歳、見るからに人がよさそうな青年たちだ。一人は陽気で、あと一人は口数が少ない。陽気な方が携帯電話にいれてある5歳の子供の写真をうれしそうに見せてくれた。彼らは今二ヶ月にわたる長期出張から吉林省の家に帰るところだという。
「満州里ではどんな仕事をしているの?」と聞くと、ロシアから輸入した木材を加工して大阪や神戸に売る仕事で、会社は15年の歴史があるそうだ。道理で彼らは木に詳しい。窓外に見える木の名前も楡などと教えてくれる。
会社は以前、中国の長白山の木材を輸出していたが、資源枯渇で今は全部ロシアからの輸入原木に頼っているという。実際、満州里で何度も見たロシアからの国際貨物列車はすべて原木を積んでいた。長い汽車の旅は退屈だから、誰もたくさんの食べ物を持ち込んでいるが、彼らの持ち込んだビニール袋はひときわ膨れあがっていた。その中から缶ビールやフルーツなど気前よく私たちに振舞う。面白いことに私が質問すると、陽気な方は、静かな方を促す。すると「静か君」のほうは、話すのでなくメモ用紙にいろいろ書いてくる。まさに一生懸命に書くのである。だから今振り返って彼の声がどうだったかというと、印象が薄い。「静か君」は、「私の家は中国の東方にあるので、日本民族に対してはとても尊重の気持ちを持っています。あなた方の旅行が愉快でありますように。」と、まず長老!への礼儀をわきまえている。「両民族にとって一番重要なことは生活方式や習慣が違うことではなく、意思疎通と交流です。」
彼らとの会話は、お決まりの「満州里へは旅行?」ということから始まった。私の大学の先生たちをはじめ中国人の多くは、なぜそんなところへいくのか、何も見るべきもののない、そんなつまらないところへ、というのが定番である。「辺境とか国境とかにはいろいろな故事、ロマンがあるし、興味があるんです。以前吉林省のトーメンから防川という、中国、ロシア、北朝鮮三国の接している国境地帯にも行ったんだけど、とても興味深かった。延辺大学農学院に泊まってね。」すると、彼らは俄然ひざを乗り出してきて、私たちの家は吉林省の安図というところで、長白山は自分たちの県内にある美しい山だという。長白山というのは彼らの話し振りから、日本人の富士山みたいな存在なんだなあと思った。私は持参の地図を出して、彼らの町や長白山を共に確認しあった。
「静か君」の質問に「??喜?佛??宗教怎?看?」というのがあった。「佛とは佛教?」と聴き返すと、うなずき、二人とも手首におそろいの木製の数珠をブレスレットのように巻いているのを見せる。これは何?と言うと「?自己的一??束。」ウーン哲学的になってきたぞ。日本人にとって仏教は伝統的な宗教で、その影響でどの家も祖先を大切にする、などと言ってはみたが、ここで仏教とはあまりに意外だったので、「あなた方は朝鮮族?」と聞いてみる。彼らは首を振って漢民族だと答えた。「??年?人?宗教感?趣、我很感到意外的。」「?并不是形式,而是内心的。」
夫も去年揚州で鑑真和上の寺を訪ねたことを話題にする。「静か君」は、「日本人の性格や民族の尊厳が好きです。でも日本のほかの国家に対するやり方は好きではありません。我不??!」「民族感情などは同じでも、政治は同じではありません。」と続ける。
夫は一生懸命に「政治権力者は保守的。資本主義的支配、利益優先。日本人民、友好信頼、平和尊重」などと単語を並べるが、日本語にも中国語にもなっていない。「静か君」は「結局のところ(?根?底),庶民の生活がいいことが一番大切です。形式や政治は決して重要じゃない。」 とまとめてくれる。 こんな具合で彼らはとにかくまじめなんだ。
こんな私たちのやりとりを見て、一番上のベッドの青年も話しに加わりだしたり、ほかのボックスからも覗きにやってくる。夫がいろいろなことを彼に質問する。私が下手な中国語で通訳し、その30代の青年が答えると、その答えにみんなが笑う。いい雰囲気だった。これらの若者たちは、会社は違うが、ほとんど木材の加工と対日輸出関係の仕事に関わっているらしい。ある一人は、天津と満州里を時々往復しているという。今回は満州里には10日の出張だったそうだ。
夫の質問のひとつに、「尊敬する偉人は?」というのがあって、私が、「毛沢東?」とふざけたら、天津の青年が「林彪」などとまぜっかえして、その答えにみんな笑った。笑いが収まったころ、「静か君」は、「ケ小平」と答えた。夫は、「僕は劉少奇と朱徳が好きです。劉少奇は本当にかわいそうな死に方をして・・。」彼は、「中国の歴史をよく知っていますね。」って。
満州里から内モンゴルの草原を北京に向かってひた走る列車の中は和やかな雰囲気に満ちていたが、窓外は雪だ。雪は満州里出発の朝からちらちら降っていたが、だんだん激しくなる。右の窓からも左の窓からも一直線の地平線が見えるが、どこまでも見晴るかす彼方まで遮るもののない大地は、すでに真っ白な雪原と化している。草原を過ぎたあたり大興安麓に差し掛かると樹木が多くなり、それがなんと見事に美しい樹氷となっている。5月になって樹氷が見られるとは思わなかった。
国境の町、満州里に行く
北京からモスクワまで走る国際列車には、瀋陽、長春、ハルビン、ハイラルと大きく東北地方に迂回しながら満州里からロシア領に入るコースと、北京から張家口を通ってまっすぐ北上し、二連浩特というところからモンゴル国に入りウランバートルを経由してロシア領に入っていくコースの2本がある。
私たちは長春の友達のところから満州里まで行こうとしている。時刻表で調べたこの国際列車が時間的にもちょうどいいということになって、友人は学生を連れて数日前に長春駅に切符を買いにいってくれた。ところが駅では売らないから旅行者へ行けと言われた。友人は、なぜなの?と疑問を持ちながらも指定された旅行社を苦労して探し出したところが、一週間先のしか売らないと言われたそうな。一週間に一度しか出ていない汽車だとか、国際列車だから特別の扱いだとかいう知識は、行動しながらようやくわかっていくという、いつものことながら何も知らない私たちの危なげな旅はこうして始まったのである。
というわけで、長春一泊、ハルビンに2泊した後、ハルビン発19時50分満州里行きの夜行列車で満州里に向かった。14時間半の動くホテルは目覚めたら目的地というわけで便利だ。このごろはこういうパターンの汽車の旅が多く、慣れたのか苦にならない。友人と積もる話もできて、夜は9時半には消灯だからゆっくりと休める。満州里着は明くる朝10時14分、予定通りの到着だ。
美しい町、満州里
北緯49度東経117度。やはり寒い。満州里のことは何しろ一般のガイドブックにはほとんど触れていないから、事前の知識は「国境の町」ということだけだ。
まずいつもの方式で町の地図を買う。それから汽車の中で知り合った人の情報を頼りに、教えてもらった幾つかのホテルを探す。始めのホテルは見学だけして、もうひとつのホテルに行く。エレベーターがなく、シャワーだけだが、疲れをほぐすために外のサウナとかマッサージに行こうという魂胆があるから、問題ない。3人部屋はゆったりと広く明るいのが気に入って決める。3人で199元だ。
人口11万人程度の満州里の町並みはこじんまりと小さく、わかりやすい。そして何よりもきれいなのには驚いた。ビルも高さが大体そろっているし、どの建物も造りがすべてロシア風でおしゃれなのである。中国の田舎の薄汚れた町とはぜんぜん違う。
町の一角には、戸口や窓枠に切込み模様の飾りをつけたロシア民家風の木造の家が観光拠点としていくつも残されている。
現地の書店で求めた「満州里旅遊」と、広辞苑によれば、ここは1901年、ロシアが東清鉄道を建設した際に原野の中に建設した町だ。東清鉄道は満州事変後に満州国へ譲渡、売却され、日本の敗戦とともにソ連に移管。1952年ソ連から中国に返還されている。
鉄道のこのような所有権の変遷を知るとき、鉄道と町というように事情は異なるが、ドイツとフランスの国境の町アルザスーロレーヌの歴史を彷彿とさせる。独仏両国間の戦争のたびにその帰属が何度となく変わった。アルフォンス・ドーデの短編集「風車小屋便り」の一篇「最後の授業」でよく知られている。
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| 満州里国際商貿中心 |
町の中でロシア人を時々見かけた。居住しているロシア人もいるのかもしれないが、彼らの多くは、商品の仕入れのために来ているのだろう。そういう彼らのための国際商貿中心は、ビルの屋上の四隅にはロシア風の丸屋根を持ったかわいい塔が乗っていて、外観がひときわ美しい。内部は無数の小さなブースに区切られているが、やはり客はロシア人だけらしい。道理で中国人の店員はみなロシア語を話すし、吊り下げられている衣類はどれも特大だ。セーターもジーンズも私が二人はいっても余りそうな超デカサイズなのだ。
満州里の本屋で立ち読みしていると、店員が私たちを日本人と見て、「日本語が話せる人が来ていますよ。」と、一人の老人に引き合わせた。静かな話し振りの上品な老人だった。80歳だという。「尋常高等学校で日本語を勉強しました。」と言いながら、かばんの中から「標準日本語」の初級を取り出して見せる。本はもうすっかり手垢で汚れていた。もう忘れましたといいながらも、本をめくって私たちの前で朗読して見せた。きれいな発音の日本語だった。
歴史に登場する満州里
町の名前の由来は次のようである。ロシアがこの駅を建設したとき、満州駅(満州站)と名付けた。満州は満州族を指し、また満州族の発祥の地をも指す。<満州駅>のロシア語読みはマンチョウリア(?洲里?)だが、漢語に書き写すときロシア語の語尾音の“?”が脱落して“満州里”になったものという。
この100年の近代史の中でこの土地は何回か歴史の舞台に登場した。
私たちに知られている出来事だけ拾うと、まずいわゆるシベリア出兵のときだ。日本はロシア帝国と結んで中国進出政策を進めていたから、1917年のロシア11月革命はショックだった。そこで翌1918年、米英仏伊などとともにシベリアで捕虜になっていたチェコの軍隊を救援するという名目のもと、この史上初のソビエト政権と革命に干渉する目的で73000人もの兵士を満州里経由で東部シベリアに送り込んだ。他国が撤退した後も、日本は1922年まで単独駐留したが、革命派の軍隊や遊撃隊の抵抗にあって失敗。シベリア出兵は、10億円という戦費と、3000人の生命を犠牲にしてようやく終わった。1918年の日本国内では、米商人などが軍需用の米の需要を見越して米の買占め、売り惜しみを行ったた。このため米価が急騰し、70万人以上の人々が参加する米騒動へと発展した。この責任をとって寺内正毅内閣が総辞職した。シベリア出兵から米騒動へと歴史に残る大事件だった。
このとき満州里では、出兵に伴って日本人も増えつつあったので、はじめはハルビン領事館から人を派遣して業務をさせていたが、1918年11月にはチチハル領事館満州里出張所が開設、1922年には満州里日本領事館が正式に開設された。
満州事変の翌年、1932年9月27日には、領事や特務機関長らが抗日軍民に取り押さえられるという事件が起き、日本軍の肝を冷やしたらしい(満州里事件)。
関東軍が満州里を占領した後、ロシア軍の軍事施設と監獄だったところは関東軍がそのまま引き継ぎ、抗日中国人を迫害するところとして恐れられた。
次は1945年8月9日のことだろう。日本の敗戦まじかのこの日、日本の支配下にあった満州に一斉にソ連軍が侵攻してきた。
市内に紅軍烈士公園というのがあって、中央には高さ17米を超える高い塔が建っている。ロシア語だが、「栄光は永遠にソ連の栄誉と勝利のために犠牲となった英雄たちのものである。」と書いてあるらしい。これはそのとき日本との戦闘で犠牲になったソ連軍の兵士56名を称えるものという解説があった。公園内には、同じ時期の戦闘で命を落とした中国人を永遠に烈士として記念する墓がある。彼らは必死で満州を解放するために戦ったのだが、私はこのとき以後の日本人開拓団の人々の、筆舌に尽くしがたい逃避行をどうしても思い起こしてしまう。戦争の悲劇性を考えないわけにいかない場所だ。
5月の満州里はまだ萌え出る緑もなく、花の季節には程遠い。「満州里旅遊」によれば、市の東部の周辺部には、杏の里(杏?)と呼ばれる、花の季節にはそれは美しい場所に変わるところがあるという。“中日友好和平林”と呼ばれている。以前は誰も顧みない荒れた山坂だったところだが、日中遺族友好協会が、日本が戦争中、中国人民にもたらした苦しみを償うために、1996年以来の10年間、100万本を植樹し続けた。このための日本の投資は5000万円に及んだ。毎年、日中遺族友好協会によって、中日友好植樹訪中団が組織され、ここ満州里に木を植え続けてきた。こんな話はいいなあと思う。文字通り草の根の日中友好だ。
秘密ルート・命がけのソ連往復
さてもうひとつ書いておきたいことがある。
国境のすぐ近くの線路脇に、古びた荷車や大して高くない望楼などが展示してある一角があった。説明に<秘密交通?遺跡>とあった。
ロシア革命後、各国に共産党が成立した。中国では1921年に成立。その後東北地区にも党の組織が確立した。満州里はコミンテルンなどの国際共産主義運動組織と連絡を取るため同志たちがソ連に行き来するときの秘密ルートとして、組織的に整備されていった。もちろん中国はまだ国民党の勢力下にあったし、1931年以降の東北地区は事実上日本の占領下にあったときだから、ことは簡単ではない。ハルビンから来る同志をソ連に送るために、線路保安の工員や馬車を引く車夫たちが暗号を用いて連絡しあい、無事に国境を越えさせるまで連携しあった。とりわけ雑貨屋<普豊泰>という店は、中央から派遣された党員が夫婦を装いながら、同志たちの食住から具体的な護送手配一切を請け負う、秘密ルートの拠点であった。ここを“秘密交通駅”と呼んだ。このような“交通駅“組織は隣接地区のジャライノール(扎???)にもできていた。
こうして中ソ両国の共産党員たちの命がけの護送によってここを通過した指導者たちの中に、陳独秀や若き日の周恩来などの名前を見つけることができた。
“秘密交通駅”はその後、1937年になって、同志の裏切りや日本憲兵隊が同志を逮捕すなどの出来事が重なり、事実上破壊されてしまった。
満州里は朝鮮戦争やベトナム戦争のときもソ連の援軍または援助物資の輸送ルートとなった。
寒い一日、国境を見に行く
満州里の町の西方数十キロのところに事実上の中ソ国境線がある。北京からの国際列車は満州里駅を通過した後国境に向かい、地元の人が「国門」と呼ぶ大きな門をくぐってロシア領へと入る。私たちもタクシーをチャーターして国境を見に行く。途中、立派に舗装された道路の両脇には、さまざまな色彩のマトリョ―シカ(ロシアのこけし人形)が様々な表情で数メートルまたは数十メートルおきに立って、遠来の旅人を迎えるかのようだ。不思議なことに、この愛くるしい人形たちは必ず数体ずつ固まっていて立ち、傍には大抵大きな岩があるのだった。私は日本の道祖神を連想した。
「国門」は線路を跨いで中国側の領土のぎりぎりのところに立っている。門の長さ25米、高さ12.75米、幅8米。ロシアとの緩衝地帯を挟んで十数メートル先にも、「国門」と向かい合うようにロシア側のゲートが建っている。これらはいわゆる検査橋なのだ。私たちが見ている間にも、木材などを満載した長い貨物列車がやってきたし、また中国側からもタンク型の貨物列
車が通過していった。
近くには何もない平原の中に、巨大なビル群がある。ビル群といっても、茫々とした草原の中にぽつんぽつんという具合で、隣のビルとの距離があり過ぎる。一つに入ったらほかには行く気がしない。満州里中俄互市貿易区、土地の人が互貿区と呼んでいる一角である。域内は保税区として、貿易と加工業を中心とし、娯楽や飲食関係など各種の業種が見られる。ここでは中ロとも自由に銀行が設立でき、各国の通貨の兌換と流通も自由だ。
私が入ったビルの中はまさに“五愛市場”である。たくさんの雑貨や衣類、靴などを売る店がひしめいている。見かける客はロシア人ばかり、私たちのような異種の人間などめったに来ないのだろう、「どこから来たの?」「台湾人か香港人?」と何度聞かれたことだろう。
ロシア人たちはいずれも膨れ上がった大きな袋をぶら下げていた。1998年には中ロ両国政府の協議によってロシア人が互貿区に入る手続きが簡略化されたので、自由に中国商品の仕入れに来られるのだろう。
この地区にはまた旅券大楼、貨検大楼、兵営、特殊検査区などの施設が広大な敷地の中に作られていて、確かにここが中国北方最大の<陸路貿易港>だということがわかる。
国門から互貿区にかけてみやげ物店が点在している。それらの近くで夫がスケッチを始めたら、警備兵が飛んできて、有無を言わさずスケッチしかけた一枚を破り去った。カメラだったらフィルムを抜かれたかもしれない。
この日は5月4日。持ってきたありったけの衣類を着込んできたのだが、シベリア颪が身を切るように冷たい。手袋のない手先も冷え切っている。寒さに耐えかねて近くの土産物店に入ると、店員が夫に、ここで描くといいと言って、窓際にいすを置いてくれた。さっきの警備兵との様子を見ていたのだろう。
(2005年5月)
中道秀毅
(瀋陽師範大学)
ここ瀋陽で何気なく読んだのが、この作品である。日本の短編小説のべスト10をあげよといわれたら、ためらわずに選びたい。以下は評論家・臼井吉見氏の名解説です。
「私」が長崎へ旅行して、維新の志士たちの遊興の場所と伝えられる某料亭の横額に、松本順の筆跡を目にしたこと、その翌日、坂本町の外人墓地で、E・グウドル氏の墓を見つけたこと。偶然目にした、この二つのことが、「私」をして、曾祖父の妾であつたおかの婆さんを偲ばせるきっかけになつた。幼いころの「私」の心に、松本順という名前をこの世で尊敬すべき人物として吹きこんだのは彼女だつたからである。グウドルさんの手套「てぶくろ」は、彼女が秘蔵していたもの、春秋二回の大掃除の時に、小学生の「私」は、それを手にするのが何よりの楽しみだつた。
おかの婆さんは、曾祖父の妾として、三十何年間を世間の白眼と戦い通した。「私」は少年時代、当時六十になつていた彼女の手で育てられた。彼女は「私」を自分の手に握つておきたかったからである。すでに曾祖父も、その本妻も亡く、家族の一員として、「私」の両親の仕送りで暮らしていた。
松本順は初代の軍医総監として活躍した人であるが、曾祖父が一生を捧げた師であつただけに、彼女にとっても、最も尊敬すべき人であつた。だが、それだけの理由ではない。松本順は彼女を、 ”奥さんや“と呼んでくれた唯一の人だつたらしい。そのときの感動は一生忘れることのできないものだったようである。
グウドル氏についても、同じようなことがあつた。おかの婆さんが、その手套をあれほど大切にした思い出が忘れがたかったからのようである。
この一篇は、“奥さんや”、と呼ばれただけのこと、寒い日に手套を貸してもらつただけのことが、生涯忘れ得ない感銘だつたということを通じて、一人の老女の悲しい人生行路を髣髴たらしめているのである。しかも、おかの婆さんなどのあずかり知らぬ、大きい人生をもつたはずの松本順やグウドル氏にしても、彼女の記憶のなかに、最も強烈に神聖なものとして生きていたかもしれない。そして彼女もまた「私」の記憶のなかでのみ、ある一つの美しい在り方で、生きているようだ、という一節――二つの記憶をかさねた結びは、この好短篇に、さらに好ましい深さと拡がりをもたらしているようである。
「補足」
1、「しろばんば」は、おかの婆さんと洪作(文中の「私」)との、郷里湯ヶ島での2人きりの暮らしを、自伝的な小説に描いたもの。
2、過日・岩波新書「新撰組」松浦玲著を読むに「池田屋事件」の功で名をあげた近藤勇が、江戸へ一年半振りに帰る。近藤が、「外国の事を聞きたい」と、上記の松本順を訪ねたと「蘭畴自伝」にあつた。松本が、西洋の外国侵略と植民地の不平等を説くと「多年の疑い」は晴れたと、挨拶したらしい。松本の話が近藤の「単純攘夷」に僅かの示唆になつたのか。松本32歳、近藤29歳ころ。
談話室での独り言
瀋陽日本人教師会の資料室の三階までの薄暗く、狭い階段を上がりきつて部屋に入ります。壁一面本棚の本達に囲まれ、真ん中に机があり、人が大勢で座る椅子がどれなのか判らなかつたのが初めての印象―――その時から、もう何回通つたでしよう。
ここ資料室の存在は人によつて、様々な評価が下されると思います。最近は係りの先生方が整理されて、きれいになりました。定例会はもちろん、教材のコピーやら、印刷やら、読みたい本を探したり、ビデオを借りたり・・。よく探すと、おもしろい良書、知的な文化、宝とも言えるものが沢山ありますね。05年度の弁論大会は残念な見送りとなって、文化活動や平和的な小さな集まりでさえも国と国の平和があってこそのものであることをしりました。やがて任期が来て還られる人、継続の人も、資料室は私たちの「談話室」であったことを、きっと忘れないと思います。代表の先生や諸先生のご苦労に感謝を申しあげます。
<以下の論文はなかなか面白いので、少し長いけれど引用しました。>
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| 盧溝橋にて |
「戦後60年をどうみるかーあまりに保守的な国・日本に、それでも期待すること」雑誌「世界」05年2月号より。崔相竜(チエ・サン・ヨン)元・駐日韓国大使
イ、国家の視点、1868年明治政府成立以来137年、その基調は一度も変わつたことがない。これは世界史のなかでも、まれなケースです。明治維新がレボリューション「革命」ではなく、レストレーション「王政復古」として行われたことが、日本の保守性を象徴しています。大正時代の立憲民主主義も、日本帝国主義にイデオロギー的な準備をした。戦後にしても、反共・冷戦体制をとり、保守の基調は根本的に変わつていない。冷戦後、村山連立政権になりますが、韓国でいう「水平的政権交代」ではなく、基本は自民党であり、野党一党で政権をとつた経験のない、これほど保守的な国は、世界のどこにも、とりわけ先進国にはありません。分析的にみて、変化より連続性を重んじる政治文化であるといえます。歴史というのは変化と連続性の限りない相互作用です。歴史の基盤としての連続性はどこの国でもありますし、革命政権においてすらある。しかし、その意味で理解しても、あまりにも日本には連続性が強いのです。
ロ、市民の視点では、戦後、約7年間の占領改革にもとずいた民主主義の遺産は大きかった。確かに与えられた民主主義でしたが、日本のリーダーに任せたら、あのような民主化はできなかつたのではないでしょうか。その民主化の延長線で、あまりにも保守的な体制のなかにおいても、市民の力量は大きくなり、成熟してきたと思います。だが、現在、その市民の潜在力はどれほどの力になっているか、私は悲観、楽観が半々です。明治以来の保守主義のなかで、戦後、民主主義を勝ち取ったというよりは、60年の長い学習過程をへて日本文化の中に根付かせたと思います。その意味で高く評価をし、その根も深いと思います。韓国は冷戦下の厳しい条件下で民主化運動の爆発的な盛り上がりで、民主主義を勝ち取つたということを、私は韓国民族として誇りにおもいます。
この後、崔さんは日本が冷戦体制が終わり15年たつけれど、政権も変わりはなく、イラクへの派兵・有事法制・歴史問題・憲法改正と保守性は強いといいます。崔さんは、日本人を3割が多元性を持ち、7割はそれに欠けるといいます。イラク派兵反対が7割あるのに、政権体制は支持されていると指摘し、市民中心の主張より、国家主張が増進すると悲観的に述べられました。
崔さんの、“日本についての稀有な存在”という指摘が興味深かったので紹介しました。平和憲法と日本の今後について、参考になる意見だと思いました。 (2005.5)
南本みどり
(瀋陽薬科大学)
それにしても中国はとてつもなく広いですね。部屋に会話練習に来る学生たちが、出身地を地図にマーキングして行きますが、チベットなどいくつかの省を除いてほとんど全国に印が付きます。土地が違えば気候も習慣も言葉も食べ物もみな異なり、瀋陽に来るまで雪を見たことの無い者、まだ一度も海を見たことの無い者と、ひとしきり故郷談義に花が咲きます。
長春時代の友人が今度日本へ国費留学することになり、今、大連で6ヶ月の日本語再教育を受けています。その彼が連休を利用して私たちに会いに来てくれました。彼はウイグル族です。私たちが新疆を旅行したときは、ホテルや切符の手配をしてくれたり、自宅へ招待してくれたり随分便宜を図ってくれました。
新疆は2時間の時差があります。また言葉はロシア語に似た響きを持ち、その文字は人民元のモンゴル語の下に印刷されているアラビア系文字で右から左に書きます。イスラム教を信じ、男は髭をたくわえ帽子をかぶり、女は足首までの美しい服を着、ベールをかぶっている人も珍しくありません。食べ物は豚肉はもちろんダメ、レストランによってはアルコールもご法度です。名前もメメットスディックとかアリビヤッティとかゾハラとか、カタカナで書いたほうが似合いそうだし、体格も顔つきも漢民族と明らかに違う、中国語が話せない中国人です。もっとも近年は高校から中国語を学び、いずれは小学校から中国語を学ぶようになるそうではありますが。
さて、友人は再会の挨拶が済むと、さっそく先日誕生した第二子のことを話してくれました。「次男の名前は、虎のように強くヒョウのように早い男という意味です。」そういえば彼の長男は「スーパーな男」でした。ン?日本語で言えば「卓越した男」、わが連れ合い「卓郎」と同じ名前ではありませんか。どうか長男が名前負けしませんように。
食事はもちろん新疆レストランで。彼が大連の馴染みの店長から紹介された店、北二馬路、中国医科大学正門を背に正面の道を200メートルばかり行った左手にある「老新疆飯店」へ行きました。従業員はみな新疆人で、懐かしい響きの言葉が飛び交っています。3年前旅行中に覚えた五つの新疆語、こんにちは(ヤクシムスズ)・さようなら(ハイルホーシ)・ありがとう(ラフメット)・美味しい(オホシャプト)・乾杯(ホシェー)を操って旺盛に食べるともう仲間扱いです。
一般的に新疆人は親日家が多く、旅行中もそうでしたが、このレストランでも心から寛げます。ハルピンではロシアを、通遼ではモンゴルを、延辺では朝鮮を感じましたが、一つの国の中で異郷を感じることが出来るのはやはりこの国が大きいからでしょう。
「老新疆飯店」ご利用の際には、薬科大・南本の名前を出されると、店長お勧めの、メニュー外の料理にありつけるかもしれません。異郷を体験したくなったときはどうぞ足をお運びください。
前田節子
(東北育才外国語学校)
5月1日は中国では国慶節、黄金週間が始まり学校も休みになった。
宿舎の同僚たちはそれぞれに旅行に出かけた。西安に行く人、広州に行く人、桂林に行く人、私は日本語教師の長澤先生、森林先生に同行させてもらって東北旅行に出かけた。
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| ソフィア寺院 |
1日目、瀋陽桃仙飛行場からハルピンへ向う。14:00発の予定が15:30発になった。
約1時間でハルピン空港到着、専用バスで街まで移動。ハルピンの繁華街中央大街を歩いた。すでに夜の雰囲気、人通りは多くにぎやか。ロシア風建築物が多い、その一つソフィア教会もライトアップされておりエメラルド色でどっしりとしている。露西亜料理店で夕食。ピロシキ、ボルシチ、ロールキャベツ、更にウォッカを注文。久しぶりの西洋食、なかでもピロシキはおいしかった。
(果戈賓舘泊)
二日目、文廟(孔子を祭っている)、中央大街、兆麟公園を散歩。老都一処餐庁で昼食。ここの名物三鮮餃子はとてもおいしかった。午後高速バスでチチハルに向う。移動の途中は延々とした平原、地平線が続く。この先に都会があるのか?不安になる。約4時間あまり、チチハル着。(白雲大厦泊)
三日目、タクシーを借り切って扎龍自然保護地区に向う。天気もよく空もとても 美しい。この広い草原(湿地帯)でそよ風に吹かれ地平線のかなたを眺め続けていたい気がした。龍沙公園、卜奎清真寺(イスラム教)を見学。午後高速バスでハルピンに向う。駅前の龍門ホテルにとまった。ここの貴賓楼は1901年に創建されたアールヌーボー建築で1937年から1946年までは日本人経営の大和ホテルだったそうだ・地球の歩き方)
(龍門大厦泊)
四日目、高速バスで長春に向う。約5時間、長春着。駅前の春誼賓舘(ここの旧館は満洲国時代の大和ホテルだそうだ・地球の歩き方)でチェックイン後偽満皇宮博物舘を見学。溥儀生活区、皇媛容生活区などを見ていると生々しい。
偽満洲国務院を見学、満洲国の最高行政機関だったそうで日本の国会議事堂風の建築。日本語で案内してくれた。満洲国時代のDVDを上映してくれたのでここで結構時間がかかった。長白山で採れたというニンジンの加工品を‘若返る’という宣伝文句にのせられ、100元で買った。旧関東軍司令部は日本の皇居を思わせる雰囲気の建物(現在は中国共産党吉林省委員会)。
偽満洲国軍事部、司法部、中央銀行など建物が多く残っている。医院とか大学、人民銀行などとして使われている。午後高速バスで瀋陽に向う。宿舎に帰り着いたのは夜9時近くになっていた。
(春誼賓舘泊)
沢野美由紀
(瀋陽薬科大学)
5月になって、何年ぶりかでひどい風邪をひいてしまいました。瀋陽に来たのは夏の終わり、秋から冬の初めにかけては冬に向かう速度が早いためか頭痛に悩まされ、冬の間は乾燥した空気と大気汚染のせいで目をひどく痛め、その他にも体のあちこちに思わぬ変調をきたしましたが、やはり気候の違いに体を慣らすのは大変なことだと実感しています。
瀋陽には、夫の赴任に伴い3年の滞在予定で来ていましたが、夫が予想外に早く帰任を命じられました。夫は既に帰国しましたが、私は7月の学期終了を待って、瀋陽滞在わずか1年足らずで日本に戻ることになってしまいました。帰国については、日本の家族や友人の誰もが「良かったじゃない!」と言うのですが、どうも返す言葉に詰まってしまいます。まだまだ瀋陽で過ごす時間は長いと思っていましたし、先日4歳になったばかりの子供を連れての外出はなかなかままなりませんので、私は自分が勤める大学とスーパー、たまに行くレストランなどを除くと、瀋陽の町がどうなっているかもよく知らず、実は市場すら行った事がないのです。冬は長く寒かったし、子供が突然「おしっこ!」と叫んでも外出先にトイレは少なく、またそのほとんどがとても清潔だとは言い難いので、トイレに連れて行くと子供はひるんでしまい「やっぱり出ない・・・」。こういう状況ですので仕方がないのかもしれませんが、市内に残る戦前の建物を回ってみたいという、ささやかな望みも叶わないままの帰国になりそうです。
また、もう一つ、私には中国がどんな国なのかこの目で確かめたいと言う長年の思いがありましたが、それに対しては不本意な答えしか出ていないような気がしています。私は子供の頃から歴史が好きで、中国という国に憧れを抱いていましたが、ある自治体の日中青少年交流事業に参加させていただき、念願の中国行きが決まったのは天安門事件の直前のことでした。1989年6月、背筋を凍らせながらテレビで見た事件の様子は今でもはっきり思い出すことができます。あの時中国行きが中止になって以来、中国に「背を向けて」いたような状態でしたが、縁あって瀋陽に来ることになり、中国が本当はどんな国なのか知りたいと思っていました。
が、今回の中国滞在で一番よく中国の状況がわかったのは、残念なことに3月から4月にかけて中国各地で起きた反日デモとその報道、またそれに対する大学や学生たちの様子を通してでした。反日デモについては、報道が規制されているため、いったいどこで何が起こっているのか学生たちは正確には知らないようでしたが、その状況について知りたい、私に直接聞きたいと思っているのはよくわかりました。私が教えている学生は、1995年の戦後50年を境に、より強化されたと言われる愛国教育を受けてきた世代です。しかも彼らは激烈としかいいようのない受験戦争を勝ち抜くため、高校時代は朝4時か5時に起き、朝7時から毎日夜9時まで学校で勉強したという学生が多く、暗記は得意ですが、物事を自分で考えるという経験は少ないのではないかと思われます。そういう学生たちに対し、私は日本についてどう説明すればいいのか、日本を理解してもらうためにまず埋めなければならない溝は、あまりにも深いように感じました。また、将来の仕事のために日本語を学ぶけれども、日本も日本人も大嫌いだと思っている学生がいることも、学生と話す中でわかりました。日本や日本人にとても興味があると言う学生ももちろんいるのですが、ある学生に「日本人の先生と親しくして、友人から漢奸と言われたことがあるんです」と言われて、学生に対する接し方にもそれなりに配慮が必要なのだと痛感しました。いったい自分がなぜ日本語教師をしているのか、今回ほど考えさせられたことはありません。
瀋陽で反日デモがあった4月17日、その日予定されていた日本語弁論大会には私の担当するクラスからも3名が出場するはずでした。が、前日16日の上海の大規模なデモが影響を及ぼしたのでしょうか、中止の連絡を受けたのは16日の昼過ぎのことでした。出場予定だった3人も毎日練習に励んでいましたので本当に落胆していて、彼女たちに会った時はお互いの顔を見て思わず涙を流してしまいました。なぜこういうことになるのか、いったい誰に、どこにこの無念さをぶつければいいのか、3人が私に「ごめんなさい」と謝っていたのですが、本当に悔しく残念でした。思えば、あのやり場のない怒りはこれで2度目、天安門事件のせいで中国行きが中止になった時に感じたのと同じものです。なぜ好きだった中国で再びこういう思いをしなければならないのでしょう。 ・・・こういう思いを抱いたままでの帰国は本当に心残りです。この中国という国はどこに向かうのか、日中関係はどうなるのか・・・もしまたいつか中国を訪れる機会があるとすれば、そのときこそ2度も味わったこんな思いをすることがなければと思います。
長々と書いてしまいました。1年足らずの滞在でしたが、瀋陽でお世話になった方々、学生たち、日本人の先生方にお礼を申し上げ、また、心配してくださった日本の友人、そして家族にお礼を言って終わりにしたいと思います。本当にありがとうございました。 再見、瀋陽!
山崎えり子
(東北育才外国語学校)
私は中国に来て、もうすぐ6年になります。長い!と思いますが、実際に暮らしてみるとあっという間でした。もうすっかり中国人、みたいですが、もうちょっと中国にいようと思っています。
「実際に暮らしてみるとあっという間」だった主な理由は、赴任校がアルバイトも含めると4つになり、それぞれ教える対象や内容が違ったことです。1番目は天津で日本の温泉旅館に研修生として派遣される学生達の採用面接用の日本語で、ひたすら面接の練習ばかりしていました。2番目は日本と中国合作の小・中学校で教えましたが、「文法」等の抽象的概念がまだ十分発達していない小学校低・中学年が相手だったので、「幼稚園の先生」みたいなもので、思えばゲーム的な授業ばかりしていました。何しろ、品詞の概念がしっかりしていないので、「テレビを見ます」のて形を言いなさい、には結構な数の学生が「テレビってを見ます」と答えていました。「私は〜を食べます」の〜の部分をたくさん挙げた人が勝ち、というゲームには「人肉・猿肉・ねずみ肉・・・」と考え得る限りの「肉」の種類を挙げて(身近な具象物質の語彙だけは豊富なので)熱狂していました。日系企業でのアルバイトを経て瀋陽に来、今の高校で初めてある意味まともに日本語の先生をしたような気がします。この学校にも3年いたことになります。
「もうちょっと中国にいよう」の理由は、6年近くもいるのに中国語が十分じゃないことです。来期は瀋陽を離れ、大連のコンピューター企業で社員の日本語指導、ビジネス面における日本人との対応の仕方を教えながら、中国語を真剣に勉強しようと思います。大連までは約4時間。アパートを借りて暮らす予定ですので、ぜひ遊びに来てください。
最後になりましたが、瀋陽にいた間、弁論大会も含めいろいろな面で、ご指導、ご協力をいただきました。楽しい3年間でした。ありがとうございました。
加藤正宏
(瀋陽薬科大学)
陽が翳り始めた頃、大学の広いグラウンドに?子(とんず)などの椅子を持って、次から次へと人が集まって来る。グラウンドの一辺に白い大きな幕が張られている。幕の少し前から?子(とんず)に腰掛けた人達で埋まっていく。グラウンドに入りきれなくなった人たちは幕の後方にも広がり、グラウンド周辺は人、人、人で埋め尽くされいく。
1986年、西安の西北工業大学に勤めていた頃に目にした風景である。土曜日ごとに開かれていた映画会だ。映写が始まると、大きな画面に人物や風景が映し出されてゆき、大きな音声で、台詞や効果音が流れる。幕の後方から見ている観客には画面が逆になるのだが、気にすることもなく見ている。色も画像もはっきり見えているので、分るようだ。
娯楽の王様であった映画がその頂点にあったのは、中国では80年代の後半から90年代にかけてであったと思われる。テレビやビデオの普及で、それ以後少しずつ、観客は減り続け、映画館も寂れていったようだ。
現在、瀋陽でなお映画が上映されている映画館は日増しに少なくなってきているようだ。私の知っているところでは中街の光陸電影院、大舞台、南京南街の中華劇場、太原街の新東北影城それに文化路と三好街の交差するところにある南湖劇場ぐらいである。とは言え、瀋陽薬科大学では週末に大学内の劇場で映画が上映されている。勿論、グラウンドの劇場ではない。きちんとした建物である。「瀋陽市志」によれば、1987年、瀋陽市には903の映画を上映する単位があり、その中で市街区にある専門の映画館は22館、映画兼劇場12館、対外に開かれたクラブが23館、対内だけのクラブが201館であった。きっと、大学の劇場は最後の対内だけの部類に属し、この部類はまだまだ残っているのかも知れない。
しかし、市街地の映画館は上映を止めてしまったところも多い。そして、それらの多くがそれなりの歴史を有した映画館なのだが、正面は何とか映画館の体裁を保っている建物も、その後方を外部から見ると、古びた大きな倉庫のような姿にしか見えない物が多い。既に取り壊されて、このような姿も見られなくなってしまった建物もある。ますますその姿を消していくだろう。その形が消えてなくなってしまわないうちに、見てみたいものと、これら映画館の建物を尋ね歩いてみた。
市文化宮(旧・平安座)、解放電影院、東北電影院
瀋陽駅から民主路を太原街まで行き、民主広場(旧・平安広場)に到ると、そこに軍艦の形を真似たという、日本人が1942年に設計し建造物(平安座という劇場が入っていた)、現在の市文化宮が在る。今もここには劇場が在る。賑やかな太原街の南の端がここ民主広場であり、太原南街をこの広場から少し北に行くと解放電影院に到る。曲線の壁が優雅な建物だ。この映画館は1928年以来の伝統を持つが、87年に大型改造をし、91年にさらに改修をして、今は映画だけでなく総合娯楽場(ダンス、玉突き、カラオケ、ビデオなど)になっている。しかし、映画館の入口には内部改装による営業停止の貼紙あり、傍らに、次のような掲示があった。つまり「新東北影城 中興七楼 観映電影的観衆朋友 請到中興七楼新東北影城」と。中興ビルは中華路と太原街が交差する北西角の存在感ある大きなビルである。映画を見たい人は中興ビルの七階の新東北影城に行ってくれということだ。たぶん近いうちに、この解放電影院では映画は上映されなくなるのであろう。この太原街には、東北第一いや東アジア第一だと言われた、有名な東北電影院があったとされる。しかし、今は取り壊されてしまっている。中興ビルと太原南街を挟んで商貿飯店があり、この飯店の北側は現在工事中で、大きなビルが建ちつつある。そこが、2003年11月まで東北電影院があった場所なのだ。瀋陽でも最も早い時期に建てられた映画館が東北電影院(旧名、大陸劇場、南京大劇院、東方紅影院と時代に応じ名を変えてきた)である。太原街地域の地価が、この映画館を取り壊させたのであろう。中興ビルの新東北影城という名はきっとこの映画館の名を継承したものだ。それにしても、規模やその歴史からも、取り壊される前に一度見てみたかった建物である。
民族電影院と群衆電影院と北市場の人民電影院
和平区の北市場はかつて文化娯楽の密集した地域であった。ここには前後して、民族、群衆、人民そして解放後建てられた星光の4館の映画館があった。このうち、民族、群衆の両館は今も道路脇に建っていて、その姿を見ることができる。どちらも、南京北街(太原北街と並行して走る)と交差する道路を少し東に入った所に在る。民族電影院は市府大路沿いに、群衆電影院は皇寺路沿いに、交差するところから少し東に行けばよい。
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| 群衆電影院 |
民族電影院は道路に面した最上部にこの5文字が見られる以外、全面を広告で覆われていて、映画館だったとは思えないくらいだ。今はダンスホールとしても使われているのだろう「舞庁」と看板が見られる。この他にビリヤードやビデオ鑑賞の部屋になっているようだ。映画が上映されなくなってから、もう随分となるそうだ。もともと、この映画館は1910年に造られ、「奉天堂」と名付けられていた映画館兼劇場であった。瀋陽でも最も早い時期にできた映画館の一つで、日本が敗戦した1945年まで、ずっと日本人の経営下にあり、日本語の映画が上映され、日本語の演劇が上演されてきていた。ただ、建物は最初の建物(現在の和平大街辺りにあった)ではなく、1941年に失火消失した後に、この地に建てられたものである。当時を知っている人によると、座席は無く、地面に直に座って見るようになっていたのだそうだ。その地面には一条の分離帯があったそうで、これは当時の奉天警務処の規定により、男女を分けるためにも設けられた線であった。映画館の中で、男女が一緒に座ることが、当時は許されていなかったのだ。
群衆電影院は1940年に修建され、43年に営業を開始した映画館で、当初の名前は保安電影院あった。営業から数年もせずして、満州国(中国での呼称は偽満州国)の崩壊、そして国民党を打ち破った共産党の東北解放によって、その統治下に入り、その文化娯楽を担う映画館として、大きな役割を果たした。60年代にいち早くカラーのシネマスコープの映画を上映したのもこの映画館であった。でも、現在この映画館には、映画の看板ではなく、東北三省で行われている演芸、「二人転(女形と道化が踊ったり歌ったりし、笑いと共感を呼ぶもの)」の看板の方が大きく掲げられている。演目は「老曲小調、幽黙小品、笑話戯曲、脱口秀等」とあり、日本の漫才や漫談に近いのではないだろうか。映画の方は半年も前の、10月の上映映画だとして、半分剥がれかけたポスターが8枚貼られたままである。まともに読めたのは、題名が「蜘蛛侠2(SPIDERMAN2)」「正義守望者(The Watcher)」「天羅地網」などであった。切符売り場の入り口には、手書きで「群衆劇場 ?業 内部装修 暫?業 開業時間?行通知 本劇場 3/3(?は停の略字か?)」と書かれた看板が立てかけられていたが、内部を改装補修している様子はまったく見られなかった。この映画館も近いうちに取り壊される運命にあるのだろう。
北市場街に人民電影院が在る。この外観3階建ての大きな長方形のような建物で、2階の角の部分に人民電影院と看板が取り付けてはあるが、それ以外に映画館らしいものはなく、映画館だと気づかずに通り過ぎてしまう。1988年に全面改装されてはいるものの、この映画館も1936年の満州国の時代にここに建てられた伝統を持つ建物なのだ。しかし、今はまったく映画館の機能を放棄し、その一部が住民の棲家となっているようだった。でも、入り口から入ったところには観客席に入るドアが今も左右対称に残されていた。
「皇姑影劇院」と「利群電影院」
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| 皇姑影劇院 |
瀋陽北駅から267路バスで「皇姑影劇院」行く、道路を挟んで皇姑区人民検察院の斜め北側に建物は在った。今は映画館の機能は果たして居らず、閉鎖されていて、その旧切符売り場の前で露天を開いていた人に聞いてみると、もう数年前から映画はやっていないとのことであった。昨年11月20日の「華商晨報」の記事によれば、2002年までは映画も上映されていたとのことだったのだが。正面は3階の建物に見えるが、劇場そのものは2階建て建築となっていて、正面の左右の壁には大型の壁画が一幅ずつ描かれている。京劇と地方劇の人物が描かれているというのだが、向かって右は定かではない。左は確かに人物を描いたものだと見て取れる。解放前後に建て直し、皇姑影劇院と名付けられた建物で、当時の流行であったソ連式風格を持っているとのことである。後部の観客席やスクリーンのあった建物の箱部分つまりその外郭は改築に当たってもそのまま残ったのではないだろうか。そんな思いでレンガ壁の大きな大きな倉庫のような建物を、周囲を回りながら写真を撮っていった。建て直し前の建物は「大寧劇場」と呼ばれ、日本人の出資による日本人経営の劇場で、1930年代に建てられた娯楽場所であった。新聞によれば、当時の建物を知る人の頭に残っているイメージとしては、瀋陽駅の風格に相当するような建物だったそうだ。少しオーバーな表現ではないかと私は思うが、壊され改築されてしまっているので、その真偽は確かめようがない。この劇場がある皇姑区華山路は鉄道線路と興工街の延長線上との間に挟まれた地域にあり、満鉄附属地或いはその拡大部分の中にあり、この道路の両側は日本人地区になっていた。
更に華山路を西に向かい、珠江街を越え、瀋陽市公安局皇姑分局の手前に在る小路を南に2ブロックほど行くと、「利群電影院」であった建物に辿り着く。ここは「瀋陽大戯棚(後、瀋陽大戯院と名を変更)」として1931年劇場が建てられたところだ。映画が盛んであった80年代前半に大改築して3階建ての建物になり、現代に到っているとのことだが、外見も内部もまったく映画館としてのイメージをなくしてしまっている。1、2階は正に生鮮市場である。3階に上ってみると、ダンスホールになっていた。入り口に立てかけた黒板に「早朝6時〜8時、5角。一日8時〜22時、1元。5月の定期、ダンス仲間の購入拡大を歓迎。」と書いてある。映画館がこのように変わったという証拠だと思い、写真を撮った。フラッシュが閃光し、入り口近くに居た大勢が一斉に私を訝しげに見遣った。その中から、大柄な男が出て来て、「何をしているんだ。何のために撮ったんだ。話を聞こう。」と気色ばんで言い、ホールに連れ込もうとする。慌てて、「利群電影院」と「皇姑影劇院」の名前と住所を書いたメモを見せ、「これらの映画館が現在どのようになっているか見てみたかったのだ。」と先ず述べ、「利群電影院」がこのようなダンスホールに変わってしまっていたので、写真に撮っていただけで、特別な意図はまったくなかったと弁明に努めた。なんとか分ってもらえたが、踊って行けと言われて、断るのにまた困った。昨今の日中関係から考えて、とにかく日本人とばれずに済んでほっとしたものだ。ところで、日本人より中国人の方が人生を楽しむ術を知っているんだなぁと、早朝のダンスで感じさせられた。
北陵電影院(審判日本戦犯法廷旧址)
1、2時限の講義を終えて、すぐに265路バスに乗り、北陵電影院に出かけた。日本の戦犯が裁かれた場所である。2002年に映画館としての役割を終え、今はこれといった用途のないままに、建物も荒れてきている感じだ。ほとんどの扉に鍵や鎖が掛けられていたが、一部のドアが押せば開いたので、中に入ってみた。このロビーには洋画のポスターが4、5枚貼られたままであった。「What Women Want」の題名に、「男人百分百」との中国語の題名を被せたポスターなども見られた。どうして、このような翻訳になるのか分らないが・・・、もしかすると、中国語の題名は英文題名の解答なのかもしれない、つまり、「完璧な男性」。
闖入者があったことに気づいて、人が出てきた。そこで、「審判日本戦犯法廷旧址」を参観させてもらいたい。「審判日本戦犯資料展室」もあるはずだと申し出てみた。その人は私を表に押し返しながら、「もう何もここには無い、九一八博物館に行け」と言って相手にしてくれず、外に追い出されてしまった。審判の行われたところだけでも見せてもらおうと再度交渉したが、まったく相手にしてくれない。仕方がないので、映画館の表に取り付けられた2枚の牌子を写真に収め、映画館の横手や裏側に回り、その概観を収める。1枚の牌子は瀋陽市の文物保護単位であることを明示するもので、もう1枚は「審判日本戦犯特別軍事法廷旧址」の説明である。訳してみると次のようになる。
審判日本戦犯特別軍事法廷旧址
1956年6月9日―7月20日
1956年4月の「拘留中の、日本が中国を侵略した戦争で罪を犯した、分子に関しての全国人民代表大会常務委員会の決定」により、1956年6月9日から7月20日にかけて、最高人民法院特別軍事法廷は瀋陽と太原の2箇所で別々に鈴木啓久、富永順太郎、城野宏、武部六蔵等の4つの案件45名の日本人戦犯の裁判を行った。1956年6月9日午前8時30分、瀋陽特別軍事法廷が正式に開廷され、日本の前陸軍中将師団長鈴木啓久など8名の主要な戦犯の裁判が行われた。これは中国人民が1840年のアヘン戦争以来、初めて、中国の国土で中国人が裁判官として、いかなる外来の妨げも受けずに、外国の侵略者を裁いたもので、中国の大地で起きたこのことは、当時、世界の注目を集めた大事であった。
瀋陽人民政府制定
一九九六年六月九日
文の最後の辺りには、半植民地でなくなった、独立国としての誇りが強く窺える。40周年を記念して、1996年には当時の法廷の姿が恢復され、人々の参観に供され、資料展示室も企画されたようだが、私に対応した人によれば、ここには何もなく、全ては九一八博物館に展示されているとのことである。
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| 後方から見た北陵電影院 |
この北陵電影院の場所は、瀋陽北駅の真北で、黒竜江街77である。バス停なら「北陵電影院」停留所になる。265、279、280、281、290、292の路線バスがここに停まる。
東北大学出版社出版「瀋陽名勝」の「審判日本戦犯法廷旧址」の項で、編者の李鳳民は最後に「前事不忘后事之師」と書き出し、我々は世界の人民に戒めて、日本帝国主義の中国侵略罪悪史をしっかり心に刻むことで、このような歴史を2度と起こさせぬようにせねばならない、と結んでいる。
この「北陵電影院」も早晩取り壊されてしまう運命にあるのではないだろうか。日本人としては、現代史の現場そのものとして見ておく価値のある場所だと、私は考えている。
それにしても、その時々の民衆に娯楽を提供してきた映画館が、戦争犯罪を裁く法廷でだけでなく、文化大革命の時期には吊るし上げの舞台の役割を担った現場であることも忘れてはならないことだと思う。今回取り上げた映画館劇場はどれも文革時代にはこのような歴史を刻んできている。
(2005年5月記)
斉藤明子
(実験中学)
瀋陽での生活も気が付けばもう一年が過ぎました。瀋陽生活にも慣れてきて、少しずつ私のお気に入りの場所も増えてきました。
お気に入りの場所の1つ目は、習い事教室。「バレエ・ヨガ・二胡」の教室は私にとってまさに癒しの空間です。元気をくれる場所。頑張ろうと思える場所。習い事教室は、今の私にとって瀋陽生活にかかせないお気に入りの場所です。
お気に入りの場所の2つ目は、顔なじみの服務員がいるお店。それは、カフェだったり、餃子のお店だったり。中国語が下手な私に、優しく丁寧に、そしてステキな笑顔で接客してくれる服務員がいるお店には何度も足を運びたくなってしまいます。久しぶりに顔を出すと、まるで仲のよいお友達のようにあったかく歓迎してくれます。そんな嬉しい対応をしてくれると、また食べに来よう、会いに来ようという気持ちになるのです。
そして、お気に入りの場所の3つ目。というより、なにより一番大事な、そして大好きな場所があります。それは、「日本語を勉強する学生がいる教室」です。日本語に対する学生のまっすぐな姿勢や日本や日本語に対する想いを学生との日本語の勉強を通して、そして学生とのおしゃべりを通して、とても強く感じてきました。「日本語の勉強が一番好きです」「いつか日本へ行きたいです」「将来日本語を使う仕事がしたいです」「日本人と友達になりたいです」「これからもずっとずっと日本語の勉強を続けようと思います」「先生のように外国人にことばを教える仕事がしたいです」などなど、学生にもらった言葉のプレゼントはたくさんあります。このような学生と日本語を勉強できることを本当に幸せに思います。学生にもらった言葉のプレゼントは、一生大切にしていこうと思います。学生がいるから、悲しいことにも耐えられたというのが正直な気持ちです。
お気に入りの場所のおかげで、今、瀋陽でとても楽しく過ごすことができています。今のお気に入りの場所や空間も大切にしていきながら、また新たにお気に入りの場所も増やしていけたらなと思っています。みなさまもきっとお気に入りの場所があると思います。もしよろしければ、みなさまのお気に入りの場所もぜひ教えてください!
小林豊朗
(遼寧大学外国語学院)
昨年の8月末に
1.遼寧大学
(遼寧大学キャンパス)
しかし、赴任前に先輩方に聞いた話と大きく違っていたのは、学生との深い関わりである。先輩方は入れ替わり立ち替わり学生が遊びに来たり、買い物などにもすぐに付き合ってくれたりすると言っていたのだが、遼寧大学は文系の学部が開発区の新キャンパスに移ってしまったので、入れ替わりどころか学生がまるで近くにいないのである。
学生も日本人の教員と話しをしたがっているし、私もそのために中国へ来たと思っているので、こうした状況は本当にやるせなかった。せめてもの思いで学生たちと一緒に昼食をとって会話の機会を作っているが、「之を如何せん、之を如何せん」と思いながらとうとう如何ともし難く、ここまで来てしまった。
2.サウナ
前号の日本語クラブに宇野先生が「浴池」について書いておられたが、私もサウナは大好きなので、時々出かける。私がよく行くサウナは、シャワーを浴び、サウナに入り、足裏マッサージをして30元くらいなので、物価から考えれば決して安くはないが、中国人はサウナが好きなのか客は多い。
ある時ふと浴槽を見ると、何かが浮いている。目を凝らして見ると、何とそれはウ○コであった。赤ん坊ならともかく、どうして浴槽の中でウ○コをする人がいるのだろうか。しかもそれを見たのは一度ではなく、そのつど服務員がお湯を抜いて浴槽を洗うのである。その後でも人々は平気で浴槽に入る。またすぐそばにトイレがあるにもかかわらず洗い場で放尿する人々がいる。それも入って来るなり豪快にするので、ハネが飛ぶのである。服務員も注意するどころか、同じように放尿している。サウナ室でもどこでもタンを吐くのは言うまでもない。私はこのような楽しいサウナが大好きである。
3.中国語
せっかく中国に来ているので、
少しは中国語を勉強しようと思い、個人的に中国語を教えてもらっているが、中国語の発音は本当にむずかしい。私は学生時代に第二外国語は中国語を選択したので、発音の練習は一生懸命したつもりだったのだが、間違えて覚えていた発音が多くて、まるでダメなのであった。どうもあの日本人の先生に教わった発音がよくなかったのではないかという気がする。間違えて覚えた発音はリハビリに相当な時間がかかる。語彙もきわめて少ないし、覚えてもすぐ忘れてしまう。
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| シェンマ恐怖症の寺 |
それにしても中国語はむずかしい。日本語にはない発音の仕方があるし、四声を間違えるとまるで通じない。以前ある寺で、尼さんにトイレの場所を訊ねたら、眉をつり上げて「シェンマ?シェンマ?」と言われ、思わず引いてしまった。ついでに生理的欲求も引いてしまった。その後しばらく「シェンマ恐怖症」に悩まされた。まあ中国語は難しいということがわかっただけでも収穫であったと思って、自分をなぐさめている。
4.食事
中国に来て、やはり楽しいのは食事である。外食もいいのだが、油がものすごいし、塩分も強く、また中国料理は人数がある程度そろわないと、いろいろ食べられないので、もっぱら自炊をして、たまに外で食べるようにしている。もともと料理は好きで、共働きなので日本にいる時もよく台所に立っていたし、弁当も自分で作っていたので、自炊 は全く苦にならない。とは言っても一人だし、日本のような道具もないので、時間のある時以外はあまり凝ったものは作らず、下ごしらえだけちゃんとして、後は素材を生かして簡単にやっている。冷凍食品もよく利用する。あまり凝ったりすると長続きしない。調味料も味噌やソース以外はだいたい中国のものを使っている。しかし普段はあまり感じなかったのだが、日本のソースというのはすばらしい調味料であると思う。
先日路上で狗を捌いているのを見た。狗の口につけた鉤を木に引っかけて捌くのだが、中国でも最近は路上で捌くのは珍しいらしく、大勢の中国人が取り囲んで見ていた。その顔は一様に興奮しており、中には舌なめずりしている人もいて面白かった。
5.最後に
自分の住んでいる土地の良さは、外から見るとよくわかると言われるが、本当にそうだと思う。中国に来てから、日本のことをいろいろ考えるようになり、いろいろな意味で日本に対する認識が深まったような気がする。それにしても中国は大きい。私は中国という巨象の一部を触って、これが象だと思っているのかもしれない。
学生が近くにおらず夜は静かなので、よく読書をした。特に古典をよく読んだ。「徒然草」「方丈記」「無名抄」「論語」などをじっくり読み返すと、十代、二十代の頃にはよくわからなかったところが何となく理解できるようになった。授業では最近の日本の小説もいろいろ紹介してきたのだが、ここ数時間は漢文を教えている。学生はむずかしいと悲鳴をあげているが、私は日本人の精神的な面を理解させるためには、古典を教えるのもよいのではないかと考えている。
任期の終了が近づいてきたので、もう頭の中は帰国モードに入っている。中国に来る前に私の車は売ってしまったので、近ごろはインターネットで車のHPを見ては、帰国したら何を買おうかと、そればかり考えている。中国では全く車の運転が出来なくて欲求不満がたまっているので、真っ赤なアルファロメオでも買って思いっきりカッ飛ばしたいと思っているが、「何考えてるの!」と言われそうである。
最後に、教師会の先生方にはいろいろお世話になりました。心より感謝申し上げます。多くの先生方と心おきなく日本語で話が出来るという場は私にとって大変貴重なものでした。また、石井先生には本当にお世話になりました。先生のおかげで早く中国の生活に溶け込むことが出来ました。ここに誌面をお借りして厚く御礼申し上げます。それでは先生方のご健康と会の発展を心よりお祈り致しております。
児崎静佳
(瀋陽理工大学)
瀋陽生活も4年目を迎えましたが、1年ほど前に新しい出会いがありました。
大学の日本語授業とは別に瀋陽日本人補習学校で講師を始めて1年がたちました。
この補習校は1年前から保護者が中心となって取り組んできた学習会が今年4月から正式に補習学校としてスタートしたもので、日本人学校がない当地では、この補習校設立は母語教育への大きな一歩となったと思います。補習校とは、平日は現地の国際学校や現地校に通う子供達が、週末(瀋陽の場合は毎週土曜日)に日本語で国語や算数を学習する場です。現在15名の子供が在籍し、日本語教師や留学生、保護者の方が授業を担当しています。
異文化に囲まれて生活する子供達は学習面、生活面、安全面等、日本国内とは異な る様々な不安を抱えており、そのような子供達が集まる補習校は基礎教科を学ぶという本来の目的を超えた役割を持つ場となっています。故郷日本を感じ、本来の自分を出せる場、現地の学校では学べない日本の文化や生活習慣を身につけられる場、悩みを相談できる友人に会える場となります。子供達にとって補習校のような心の拠り所となる場の存在価値は非常に大きいのではないでしょうか。
また、その補習校に通う子供達の学習の目的やニーズは様々です。帰国後、日本の学校に戻り、学習を続けていくことを前提に学ぶ子供は母語力を保持・伸長するために学んでおり、永住者や国際結婚家庭の子供の中には、母語喪失の恐れから学んでいる者、「日本人」である自分を確認する手段として学んでいる者がいます。海外で行われる母語教育は、子供一人一人に異なる意義と価値を与えている重要な教育だと実感しています。
瀋陽に滞在している日本人の子供達との出会いは私にとって、とても新鮮なものでした。週1回とはいえ、毎回気力・体力ともに使い果たしていますが、同時に子供達から元気をもらっています。日本人同士だから共有できるほのぼのとした安心感、「ほっ」と一息つく瞬間を与えてくれる子供達に感謝しています。
人工知能ゲームと名詞の体系
岡沢成俊
(東北大学)
先日見つけた簡単なゲームなのですが、ええっと思う結果を出してくれる面白いものです。 http://y.robinb.net/jp 時間とパソコンがおありでしたら一度お試しください。
コンピュータからの二十問前後の質問にはい・いいえ・わからない等の6択で答えているうちに頭の中に思い浮かんだ物の名前をずばり当てられてしまう、という単純なゲームですが、入力すらしていない物の名前を言い当てられるというのはかなり新鮮です。私の場合、ホンダやソニーのロボットが歩いているのを初めて見たときのような気持ち悪さを感じました。
その気持ち悪さは、本来入力に応じた結果を出力するだけのものであるはずのコンピュータがいかにも「考えている」ように感じられるところから来るものでしょう。自分が入力していないはずの情報がコンピュータから出てくるとどうにもしっくりこないものです。
冷静に考えてみると、プログラムの仕組み自体はごく単純で、簡単に作れそうな気がします。しかし条件分岐だけで目標の名詞にたどり着くようなデータベースを作るのは並大抵のことではなさそうです。扱う情報が膨大なのにも関わらず、どのように整理していくのか見当もつきません。選択肢がはい・いいえの二択だとしても、20問あれば100万を超えるパターンができてしまいますが、このゲームは6択なのでパターンの総数はものすごい数になりそうです。
名詞の側で一つ一つ情報を入力していくことになりそうですが、入力者の用意した「模範解答」からはずれた場合の処理が大変そうです。ゲーム終了後に「ワタシはこう思います」と意見の相違を並べてくれますが、この相違の幅が意外と大きいのがいかにも自然言語的です。このゲームでは、入力された情報を使ってデータベースの更新/学習を行っていて、多くの人が使っていくうちにどんどん賢くなっていくようです。この学習機能で選ぶ選択肢の個人差をうまく解消しているのでしょう。
さて、このゲームが学習を繰り返し、データベースを洗練させて正解率を上げていくと、大きな「辞書」ができることになります。この辞書に書かれているのは語義を説明する普通の辞書とはことなり、そのものの特徴を並べたものです。例えば財布なら、「小さくて、四角くて、人工物で、物を運ぶために使うもので、…」といった感じです。これは言葉の意味あるいは人間の知識を表現したものと言えるでしょうか。もちろん人間の脳内での表現とは違うかたちですが、言葉の意味をある側面から捉え、的確に再現できるという意味で、コンピュータが言葉を「理解」しているということになるのではないでしょうか。
コンピュータが苦手とする「概念」による説明、言い換えによる説明ではなく、あくまでも選択肢の並びとして名詞の意味が十分に表現可能なのではないか、というのはなかなか面白いものです。自動翻訳や文脈判断の処理などの応用面から見るととても便利な道具になるでしょう。実際の人間の脳で行われているプロセスと違っていても、シミュレーションの精度を上げていく際に初めて分かる意味の仕組みというものもあるかもしれません。と、色々と考えてみる種になるような独創的なゲームでした。
中原麻実
(東北育才外国語学校)
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| 初めて受け持った教え子たちと |
早いもので、私の瀋陽生活ももうすぐ2年、この8月には帰国することになりました。
この2年間、日本に居てはとても出来ない、貴重な体験ができました。大変なこともありましたが、それ以上に嬉しい・楽しい思い出がいっぱいできました。いろいろと伝えたいことはありますが、やはり、この一言に尽きます。
お世話になった皆様、本当にありがとうございました。
多田敬司
(東北大学外国語学院)
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| 呼蘭河近くの風景 |
1999年の夏から半年間、私はハルビンで日本語の教員をしていたことがあります。そのとき、中国の北の大地の広大さと厳寒をしみじみと体に感じました。そして、こんな広大な大地、厳しい寒さ、このような北の大地を舞台にした小説や詩が、きっとあるに違いないと思いました。残念ながら、私は日本にいるとき、中国の東北地方にそのようなものがあるということを知りませんでした。しかし、せっかく北の大地に来て生活して、その広大さや厳しさを体験しているのに、それを描いたものを知らないままでいることは、とてももったいないように思いました。そんな思いでいたあるとき、意外にも簡単にそれが見つかりました。あるとき、市内の本屋を当てもなく歩いていると、今まで目にしたこともない文学者の名前が目に入ってきたのです。その名前は「蕭紅(シアオホン)」でした。実は、彼女はハルビンではとても有名な女流文学者だったのです。日本では彼女の存在はあまり知られていないと思うのですが、皆さんはいかがですか。
彼女の故郷はハルビンから北西、車で30分ほどの呼蘭県、そして彼女の代表作は「呼蘭河伝」という北の大地を舞台にした自伝的小説でした。
やっと巡り合えた作品と小説家、しかし、ハルビンの生活習慣に慣れることに時間がとられ、なかなかそれらを読むまでには至りませんでした。また、不慣れな土地と、すぐに冬が訪れたこともあって、彼女の故郷の呼蘭県訪問もできませんでした。
ハルビンを離れるとき、ある友人から「蕭紅選集」という本をプレゼントしてもらっていたので、瀋陽に移ってからも、なんとか彼女の作品を読みたいと思っていましたが、生来の怠け者はなかなか行動に移せませんでした。それでも、学生の家庭教師と一緒に少しずつ彼女の作品を読みはじめていきました。昨年の秋ごろ彼女の故郷の呼蘭県をテーマにした「呼蘭河伝」という中編小説をやっと読み終えました。北の大地 に生きる人々の姿が、写生画のように描かれていました。その後また、いくつかの作品を学生の助けを借りて細々と読み続けています。
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| 裏庭の花園 |
蕭紅は1911年生まれで、1942年に亡くなっています。わずか31歳の人生でした。1936年には日本へも留学しています。また、「魯迅先生の思い出」という作品では魯迅の晩年の様子や、かいがいしく魯迅の世話をする許広平夫人の姿も描かれています。その他、「生死場」という作品では、北の大地で生活する人々の生と死が静かに語られています。
先日、彼女の作品の中の「手」という小品を読みました。『王亜明』という貧しい家庭の女学生が、無理をして女学校に入学したのですが、せっかく入学したのに、貧しさのために家で勉強を積み重ねてきていなかった彼女は、みんなから取り残されることになり、学校から寂しく去っていきます。彼女は長女でした。
学校で身につけたものを弟妹に教え伝えていかなければならないという義務を背負っていたのに・・。
閑話休題。英語の授業の場面がありました。難しい言葉が並んでいるのです。辞書を引いてもそんな単語は出てきません。それで、家庭教師の学生にその意味を尋ねてみました。さて、その言葉とは、「黒耳!」「華提・賊死・・・」です。どんな意味かというと、なんと、答えは、「here」「What is・・?」の音訳だったんです。
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| 松花江の流れ |
このように、遅々として進捗しない読書ですが、せっかく北の大地の南はしに生活しているんですから、これからも細々とゆっくりと、蕭紅の作品と付き合っていこうと思っています。
一昨年の夏、蕭紅の故郷の呼蘭県へ行ったときの写真もご覧ください。
丸山羽衣
(瀋陽大学)
昨年、鳴海先生の芸術写真を見せてもらった。初めは「いや、恥ずかしい。」などと言っていたが見ているうちに段々と自分でも撮ってみたくなってきた。そして思い切って撮ってみた。そのときは先生と同じ『チマチョゴリ』。緊張しながら撮影に望んだ。出来上がった写真は見事に口が引きつっていてかなり怖かった。
数ヵ月ほど前、生徒に以前撮った芸術写真を見せてもらった。その写真を見た瞬間また撮りたくなってしまった。できたら民族衣装で撮りたい。でもなかなか見つからなかった。そんな時、生徒から電話をもらった。「先生、学校に写真屋さんが来てますよ。民族衣装もあります。」それを聞いて即、その場へ直行し、写真の予約をした。「暖かくなってから撮りに行こう」ということで5月末、遂に写真撮影の日を迎えた。当日は私と生徒と彼女のお母さんの三人で臨んだ。
芸術写真を撮るときに必ず文句を言うのがメイクのこと。セロハンテープで無理やり二重にされそうになり「不要!」と、何度も何度も拒否をした。しばらくすると今度はつけまつ毛を勧めてきた。「要らない。」初めは普通に言っていたが向こうは「これ付けなきゃ、綺麗じゃない。」だの「みんな付けるんだ!」だのとギャーギャー騒ぎ出す。でも嫌なものは嫌。「絶対嫌だっ!」私も負けずに騒ぐ。更には「メイクも濃いのは嫌だ。」と、全てにおいて『嫌だ』を連発。だって、隣でメイクされてる生徒の顔を見たら怖くなってきて。
いざ、撮影を始めるときも、「この服、ヤダ。」「じゃ、これは?」「え・・・。だったらこれでいい。」の繰り返しだった。ヘアスタイルも変なところにヘアピンを付けられると勝手に取ったりしていた。写真屋さんからすればかなりいい迷惑だっただろう。でも、私としてはやっぱり残るものだから綺麗に撮ってもらいたい。自分が納得するものにしたいと思うのだ。撮影はまあまあ順調に進んだ。ただ、やっぱりポーズがおかしい。「・・・こんな恥ずかしいポーズ、有り得ないよ。」なんて思いながらもしっかりポーズを決めて満面の笑みになる私。少し不満だったのが椅子など自分で動かさなければならなかったこと。前は全部やってくれたのに。中国語が分からない私は何か言われるたびに、「あぁ、これ?あぁ、はいはい。」と、まるでスタッフのように動いていた。
今回、写真を撮るのにどうしても撮りたかった写真がある。それは『ウェディングドレス』。またもや無理やりお願いして着せてもらった。着ただけでちょっと満足。「これが最後のドレスになったらどうしよう〜。」なんてみんなで笑いながら言っていたけど、ドレスが着れればそれでいい。しかし、やっぱりどこか変なところがあってドレスの下はジーンズにスニーカー・・・どうせなら全部きちんと着てみたかったなぁ。まぁそれはいつかのお楽しみにしよう・・・できるかなぁ?撮影はトータルで約3時間かかった。一体どんな写真が出来上がっているのだろう。楽しみな反面、恐ろしい気持ちもある。どうか変な顔をしていませんように。
ちなみに民族衣装は結局着ることが出来なかった。チャイナドレスくらい。残念。でもまぁ良い記念になった。ウェディングドレス着れたから。また機会があったら色々撮ってみたいと思う。今度こそ民族衣装で。
最後に写真屋さんのひとこと。
「日本にはこういう写真がないから、民族衣装を出すとみんな撮りたがる。いいお金儲けになるんだ。」
ん〜・・・・・・・。確かにその通りです。
私はその思う壺。普段とは違う自分になれる芸術写真。すっかりハマってしまいました。
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呉麗艶
(瀋陽師範大学)
私は昨年の6月に瀋陽師範大学を卒業しまして、師範大学日本語科教師の一員になりました。
子供の時から教師に憧れていました。大きくなってからはただ憧れではなく、大学2年生の時はじめて家庭教師をして以来、ますます教師になりたくなりました。やっと去年の9月に私の夢がかなって、教師になりました。その時の嬉しさは本当に言葉で表すことができませんでした。
教師になったことを家族のみんなに知らせた時、父は「麗ちゃんは家の誇りだ。」と言いました。
実は私は教師になりたい主な理由は、自分が今まで習った知識や留学したとき感じたことを学生たちに教えて、知識を広げることができると考えたからです。また、教師になれば、夏休みと冬休みがあるので、休み時間が長くて、楽な仕事だと思いましたが、実際にやってみるとそうではありませんでした。
自分が知っていることをわかりやすく簡潔な言葉で他人に説明するのはなかなか難しいことです。特に、授業をする前には、いろいろな資料を調べて、適当な例文を捜して、いろいろな準備をしなければなりません。今になってもまだ、初授業の場面は胸の中に刻まれています。私は授業をする前に十分に準備しましたけれども、教壇に立った一瞬、どこから話したらいいか頭が真っ白になってしまいました。私は「落ち着いて、ゆっくり考えて話してね。」と自分を慰めました。なんとか初授業を無事に乗り越えました。
何ヶ月か前に学生だった私は、今、教師になりました。教師という仕事は私にとってすべてゼロから始めなければなりません。研究室で私は学生時代に教えてくださった先生たちと一緒に授業の準備をし、自分がわからないことをよく先生たちに聞きます。先生方は誰でもいつも親切に教えてくださいます。今いろいろお世話になっています。
私が教えている学生はゼロから日本語を勉強する学生たちなので、最初は五十音図から教えました。私は一生懸命に一人一人に発音の間違っている所や書き方の間違っている所を直してあげたり、宿題をチェックしたりします。時々教えたことをテストの形にして、みんなにやらせたりします。テスト問題をチェックし終わってから、詳しく分析しなければなりません。学生たちはどのようなところがよく間違うのか、どの漢字の書き方がよく書き間違うのかを分析して、次の授業の時にみんなに注意します。だんだん学生たちは正しい日本語が話せるようになって、教師である私は成果を収めた気がします。
学生たちに知識を教えるだけではなくて、彼らの人間関係から生活まで気を配らなければなりません。これは教師の責任だと思います。
しかし、みんなは成長しつつあり、教壇に立っている私はもっと大変になるかもしれません。順調に教えるために、私は今毎日勉強しています。私は今まで経験したことを生かして、いい教師になることを目指して努力し続けていきたいと思います。
中道恵津
(瀋陽師範大学)
中国で暮らしていると、あれっと思うことが実にたくさんある。その中には、急速な発展途上という状況がもたらすちぐはぐな現象も多い。
日本で春節の休みを過ごし5週間ぶりに宿舎に戻って来たら、服務員の張さんが私を見つけて嬉しそうに話しかけてきた。彼女は気持ちの優しい世話好きな五十過ぎの女性で、中国でよく見かけるでっぷりと太って鷹揚に八の字歩きをする中年婦人のようではなくやせていて、少女のように傷つきやすい感受性を持ち合わせている。日本語を覚えようと時々私たちの部屋にやってくる。以前プレゼントした「標準日本語」初級の本とノートを抱えて、いくつかの日本語を覚えては嬉しそうに帰っていく。大学の招待所や外国人教師居住区域の管理、掃除などを担当している。ある時部屋の前を通りかかったら、私の姿を見つけて飛び出してきた。見れば目には涙を浮かべ、憔悴しきった様子である。何事が起こったのかと問うが、何しろ泣きじゃくりながら早口で立て続けに話しだす。とにかくソファに腰掛けさせ、理解できないところは途中でさえぎって書いてもらいながら我慢して聞くと、要するに若い服務員たちの中には、性格の悪いのがいて自分のやるべきこともいい加減にしているのに、張さんの仕事振りが上司に認められていることや外国人教師と仲良くしているのを妬んで、紛失した備品をめぐって彼女を陥れようとしたらしい。悲しみにくれる彼女を私は覚束ない中国語で一生懸命励まし慰めたものだ。
その張さんが、今度はやけに弾んでいる。何か良いことがあったのと聞けば、大晦日から旧正月の1日2日と宿直をした。この時期は普段と違って宿直の手当てが2倍、3倍とつく。普通は一晩の手当ては19元だが、大晦日は38元、元旦は57元だ。頑張ったから1月の給料は合計800元になった。すごく嬉しいという。彼女たちの給料は500元だから、300元の特別手当を稼ぎ出したわけだ。夫は小型トラックを3万元の借金で買い、運送業をしているが、毎月1000元の返済をしなければならない。1月は仕事がとても少ないから、この臨時収入は本当によかったと嬉しそうにいう。彼女のアパートには集中暖房も入っていないそうだ。
街には豪華な毛皮のロングコートを着た女性なども見かけ、大型スーパーには自家用車で乗りつける家族もいる時勢であるが、多くの庶民はまだまだ10元20元の稼ぎを問題にしなければならないのだと実感した張さんとの再会であった。
中道秀毅
(瀋陽師範大学)
私が手紙というものを書くことを覚えたのは小学校時代である。日中戦争が始まっており、隣組という今の町内会に当たる組織が作られていた。私たちは戦場の兵隊さんに送る目的で慰問の品と一緒に綴り方のような文章を書いた。戦地の兵隊を励ます気持ちを子供心に綴った感触が便箋と一緒に今も思い出される。隣組の大内さんの息子さんが中国へ出征しており,,信男さんという名前だったと思うが、葉書を出した。その返事が中国から届いたことも憶えている。大内さんと三人の息子さんには戦争がもたらした悲しい思い出もあるが、本題ではない。そして防空訓練が昭和18年ごろから盛んになる。疎開という、空襲に備えて都市から田舎への避難が盛んとなった。小学生も、縁故疎開は親戚筋へ、集団疎開は、私の住む
その手紙の中での思い出だが、父が妹弟に当てて書いた手紙に短歌が寄せられていた。
今日もまた諏訪湖の空にきて遊ぶ
三羽の鳶のなつかしきかな
私は中学(旧制)に入っていた。このたったひとつの短歌が若き日の父の思い出として残っている。この歌に流れる郷愁はこの時代の想いを良く伝えている。だが父から見れば妹弟2人なのに、「三羽」と詠むのはどうしてなのか。つい聞きそびれてしまったが、父の短歌の抒情は私にも伝わったらしい。下手な歌心は思わぬ父の形見として生きている。
瀋陽に暮らして丸3年になる私たちには、手紙はもうメールに代わってしまったが、時たま来るうかららや、友人知人からの手紙は掛け替えがないものとなっている。