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瀋陽日本語クラブ 21号 目次

 

瀋陽へ来て(新会員の声)         
         私の「食」生活 石井みどり
現実を見据えて 安藤知恵
瀋陽での生活 中野亜紀子
辻岡邦夫中国滞在記 辻岡邦夫
教育現場から
遼寧大学の教育環境 小林豊朗
高校3年生と共に 長澤裕美
傾向と対策傾向と対策 竹林和美
大学の中から見えること 中道恵津
わたしの教室 池本千恵
回いえか? 南本みどり
工作狂 山形貞子
瀋陽に来て感じたこと 中村直子
中国に新幹線? 南本卓郎
私の仕事 鳴海佳恵
学生の未来 斉藤明子
自己紹介 加藤正宏
教育環境とは 渡辺文江
学生のメモから 峰村洋
「日本語サロン」発足 片山
         漫画図書館 岡沢成俊
瀋陽師範大学外国語学院日本語科       金丸恵美
振り返って 中道秀毅
「先生」 丸山羽衣
襤褸は着てても心は錦でござい      山形達也
アイデア勝負! 森林久枝
ジシンダ〜 宇野浩司
即席漬け 高山敬子
会員寄稿文
自転車ドロボー市場 峰村洋
キッズとのバトル 丸山羽衣
西安の旅 渡辺京子
巴金の死を悼む 多田敬司
マンホールの蓋を尋ねて 加藤正宏
わが師への恩返し 山形達也
寧波からの特別参加 石井康男
瀋陽を去られた方々の近況
瀋陽への思い 沢野美由紀
「日本語クラブ」 本保利征
近況 前田節子

 

襤褸は着てても心は錦でござい 

    山形 達也

 (瀋陽薬科大学)

私と妻の貞子が瀋陽の瀋陽薬科大学に来てから二年経った。この私たちの研究室について書きたい。理系大学の研究室と言っても、馴染みのない方もあるだろう。どんなものかを思い浮かべていただくために、まず少し一般的な描写をして見る。

理系の研究室とは?

 教授、助教授などの理系の大学教官は学生に講義するだけではなく、自分たちそれぞれの実験室を持っていて、講義の時間以外は実験室にこもって研究をするのが当たり前と思われている。大学院大学では院生の研究教育も行われるが、これは不特定多数の院生を対象とするものではなく、研究室にはその教授を指導教官として選んだ院生たちが所属して研究指導を受ける。そのための実験室でもある。理系の大学では教官が研究することなしに教育もあり得ないと考えられている。実際、研究業績のない教官はこの世界では存在できない。

 私のいた頃の東京工業大学では助教授も独立して研究室を構えていたが、大学によっては教授・助教授1名ずつの組み合わせで○○講座として扱われることもある。私の学生の頃にはこれが普通の形だった。

院生に囲まれて

クリックしてね

 このように理系の大学の教官であるということは、講義以外に自分の研究室に所属する院生を修士、あるいは博士にまで育てて送り出すという仕事を伴う。研究に掛かる費用は、大昔は国立大学ならば、国が全額負担してどの教官にも均等に配っていた。しかし研究には高額な費用の必要なものと、さほど金のかからない研究もあるし、素晴らしい研究もあれば、無意味な研究もある。

 世の中が進むにつれ、教官(あるいは講座)に均一に配分する研究費はどんどん減って、今では事務費程度の最低額がくるだけになってしまった。教官が研究室を維持するために必要な研究費は、自分たちの研究内容を申請して、それをある機関が審査してはじめて研究費が貰える仕組みに変わってきた。教官は黙っていては研究が出来ないのである。自分のそれまでの研究成果を述べて、こんなに自分は研究が出来るのだから、この新しい研究にも金を出して欲しいと言わないと研究する金が来ないのである。国立大学から独立法人に衣替えが進んでから、この傾向は強まる一方である。

 教官は研究費を稼がないと(私たちは文字通り、この言葉を使っていた)たちまち研究室の院生もろとも研究が止まり、めしの食い上げである。金の出所は、当時の文部省、厚生省、農水省、科技庁など様々あるほか民間財団からも研究費を貰うことが出来る。大学の教官は研究費の申請を書き続け、研究費獲得のためには気の休まる暇もない状況に置かれる。研究の申請が認められるためには(つまり研究費を貰うためには)、日頃の研究成果が必要である。成果を挙げるには金が要る。

大学教授は水商売?

 大学教授は「小なりといえども一国一城の主」といわれる。その通りで、研究室の中の教授は唯我独尊の状態で自分を脅かすものはないから、居心地は大変よく、威張っていられる。その代わり自分の世話はもちろん院生の奨学金の面倒まで、研究室の経費の工面は全部教授である自分の肩に掛かっている。つまり今時の研究室では、大学で研究者になるということは、小さな町工場の徒弟から身を興して信用を得ながらだんだん身上を大きくして中小企業の主になるのと何ら変わるところがなく、徒弟から工場主になっても毎日の金の工面に走り回るように、大学教授になっても毎日身を粉にして金稼ぎのために働かなくては、生きていけない。

大学教授と聞くとなにやら偉そうなイメージが浮かぶものだ。その領域で専門を極めた偉い人らしい、というような。でも別の面から見ると、少なくとも理系の大学教授は水商売とさして変わらない。水商売でお客を迎えるためには、愛想と上手な客あしらい、そして信用を積み重ねることが必要である。店を開いていますよ。おいしいですよ。いらして下さい。と頭を下げ続け、お客に来て貰わないと、そもそも商売が成り立たない。お客が入ってくれても、一度でも嫌な思いをさせたらお客はもう二度と戻ってはこない。

 大学の教官は、研究費というお客を相手にする商売人とさして変わるところがない。流行の兆しを鋭敏に感じ取って新しい研究の波を先取りし、何時も研究の最先端にいれば沢山の研究費を取り多数の院生を抱え、研究論文をつぎつぎと発表することが出来る。次の研究費申請も大抵文句なしに認められる。一方、自分のやりたい研究にこだわって世の中の動きを知らないとやがて研究も先細りになる。

 このようにして教官の研究は、研究費が来るか来ないかという形で評価を受けている。この評価というのは研究費の出所である官庁・団体が選んだ評価委員、研究者側で選んだ評価委員、あるいはその混成ということもあるが、ともかく研究費を出すか出さないかという形で、研究者の能力を評価している。評価の基準は世間の要求に基づくことが多く、必ずしも研究者の真の能力の評価には繋がらないが、これに代わるものは今のところないみたいだ。

 企業が常に業界のトップを走ろうとしたら、常に人の飛びつく製品を発表し続けなくてはならない。大学の教官もそうだ。研究費が呼び込めるよう、常に最新の研究テーマを持ち続けることが大事である。しかし企業の製品開発には膨大な人数が張り付いている。一方、教官はすべてをひとりでこなしているのだ。講義、院生の指導、研究費の申請。もちろん、研究費が入れば秘書を雇い、会計を任せられる。研究室の院生がよい研究を次々出せば学会報告、研究発表、雑誌に書く総説、講演は手分けが出来るから、研究が当たって研究費に恵まれるようになると、研究室も拡大再生産が可能なサイクルに入る。世をときめく一流の研究室になるのだ。一流の大学教授は商売をやっても一流の企業人になれる。 

瀋陽に来て新しい建物に研究室を貰った

 私たち二人は薬科大学の招きを受けて2003年に瀋陽に来た。4月から来る予定だったけれど、時あたかもSARSの暗雲が世界を覆っていて、私たちは6月末にやっと大学を訪問することが出来た。私たちの入る予定の新しい実験棟の完成もSARSのために遅れていて、秋には入れるようになるだろうと言うことだった。

招聘状

 秋に大学を再訪すると、施設課の李さんは鍵束をじゃらじゃらさせながら、新しい9階建ての研究棟に私たちを案内した。エレベーターで5階に上がると広い廊下があり、廊下に沿った部屋の中でその東側のドアを開けてくれた。

 広い!後で計ったら6×10メートル、つまり60平方メートルもあった。部屋の遠くの窓の近くに、机と椅子が二組、右手のコーナーにはソファーセットに並んで、8脚の椅子に囲まれた会議机がある。これだけのものが入っても部屋は痛くもかゆくもないようにだだっ広い。

 実験室はちょっと離れたところに二部屋あってそれぞれ基本的な実験机だけは入っていた。小さい方の部屋をさらに仕切って培養室を作るように頼んでおいたが、それも出来上がっていた。

 実験のための部屋だけあっても研究は出来ない。様々な実験機器が必要である。私たちは日本にいた時の研究室から機器をある程度持ってくることが認められていて、薬科大学はその輸送費用と、研究室に必要な機器購入の初期費用に30万元を用意してくれていた。これは今ここに暮らしてみて、その目で見ると結構な額である。

 部屋の掃除は、それまで毎年薬科大学に来て講義をしていたから、顔見知りになっていた学生たちが集まってきて一挙にやってくれた。3月始めに日本から送った機器は9月半ばにコンピューター関係を除いて手に入った。コンピューター関係は大連の税関に人質になっていてあとから届いたが、だいぶ関税を取られたようだ。輸送費、関税でざっと18万元掛かった。

研究室を立ち上げる

 私たちの研究には綺麗な水が必要である。水道水からイオンを除いて、微粒子を除いて化学的にも生物学的にも純粋な水を作るのは結構大変である。このための装置の一番小さいものを買うのに5万元、培養室の炭酸ガス培養器に5万元、培養細胞の保存のためのマイナス80度のフリーザーに5万元、という具合に準備金はあっという間に消えてしまった。

 中国の大学院の仕組みは日本と違っていて修士課程は3年間あり、最初の1年間は講義がびっしりと詰まっている。研究室には所属していてもこの最初の1年間は講義を聴くだけで実際の研究はやらない。それで、私たちが来た秋には研究室に所属が決まっていた院生たち数人が、時間がどうせ空いているから、山形研究室のセットアップを手伝いたいと言ってくれた。

 薬科大学は天然物化学、薬物化学の伝統はあるけれど、動物細胞を使って薬の生理作用を調べるというような研究は全く行われていなかった。それで、私たちの出番があったわけだ。私たちも先ず細胞を培養してそれを使う研究を考えていた。それで、先ず細胞室のセットアップに取りかかった。培養室に流しを付けたり、ドアを付け替えたりするほか、培養に必要な器具をカタログで調べて注文する仕事がたくさんあった。大型の機器の輸入には時間が掛かり、日本から輸入した炭酸ガス培養器、マイナス80度のフリーザーが揃ったのが12月はじめだった。

 私たちの研究室に出入りして勉強したいという学生3人は彼らの指導教官から許可を貰って、1年ここで研究をやることが委託された。このほかに春になったら日本に留学することが決まっている学生2人が来た。彼ら5人とも日語班の出身で、おかげで私たちは日本語で研究室を運営することが出来た。しかし博士過程の希望者が1人いて、彼女は日本語は理解できないので私たちの研究室は出だしから公用語は英語ということになった。ともかく、院生・学生合わせて6人のいる研究室として始まったのだった。

 12月後半に細胞培養を練習したと思ったら春節休みになり、春節休みが終わると学年後期となって卒業実験の学生が3名配属されてきた。研究室にはないものだらけ、研究室の1年先輩は細胞培養を1回やっただけで研究とはなんたるものかを全く知らないという状態で、卒業研究の学生の指導である。私も妻も毎日息つく間もない感じで、毎日を夢中で過ごしたのだった。

 最初の1年が終わったところで、1名は韓国留学を決めて出て行った。2名のうち1名は仮預かりではなくなって正式に私たちの研究室に移籍し、1名はその指導教官から公式に教育が委託された。新しく修士1年生が外部から入ってきた。

 この2年目に入ってやっと研究が軌道に乗り始めた。2年目の終わりには瀋陽に来てから始めた研究をまとめて最初の論文を書くことが出来た。もちろん、それ以前の私たちの研究成果に基づいて始めた研究だけれど、それにしても零から始まって良くもここまで漕ぎ着けたという感がある。

金のなる木が欲しい

 ところで最初に書いたたように研究には研究費がつきものである。研究費がなくては研究はやっていけない。研究室開設の初期費用はそれなりに大学が出してくれた。そのあとは?

 驚いたことに、中国にも科学研究費助成金のような仕組みはあるけれど私たちは外国人教官であるのでこれに申請できない。更に申請するには年齢が定年を過ぎている、という二つの理由で外部研究費申請の道がなかったのだ。今までのように研究費獲得に憂き身をやつす必要は否応なしになくなったのは結構だけれど、研究費なしには研究が出来ない。

誕生日のケーキ

 大学では(仕方なく)毎年5万元の研究費を出してくれたが、とてもそれだけでは研究をすることが出来ない。幸いここでは妻の給料で十分暮らせるので、年額6万元になる私の給料は全額研究費に廻した。もちろんそれでも足りない。というわけで、私たちが日本で貰っている年金は毎年2回の日本との往復運賃と4週間掛ける2回=8週間の日本滞在の生活費を除いてはすべて瀋陽での研究費に使うことになった。

 健康だから出来ることである。ありがたいことだ。将来を考えると年金をこんなことに使ってしまっていいのかなと思わないでもないけれど、道楽としてはこれに勝るものはないに違いない。私たちの意志で可愛い学生に投資して優秀な人材に育てあげることが出来るのだから

私たちの研究室は何を目指すか?

 研究室を始めた時に、私たちは研究室の規則を作った。最初に作った研究室規則には、研究室のコアタイムは午前8時から午後6時までとするなどに始まって、生まれて初めて研究室という運命共同体に入る人たちに守って貰わなくてはならない規則が書いてあった。この規則は学年始めと、後期の卒業研究の学生を迎えるたびに皆に集まって貰って周知させていた。

 今年は思いついて、いわば憲章のように格調高い研究室のきまりを作ったらどうだろうかと考えた。この研究室が何のために存在するかということをまず高らかに宣言したい。その宣言を聞くと学生が奮い立つような高らかな存在理由とは何だ?

 この瀋陽薬科大学は昔はレベルの高い大学だった。大学がすべて国立大学だった時代には、薬学専門の単科大学である薬科大学は全国に瀋陽と、南京と、二つしかなかった。二つの薬科大学の中では、中国一古い薬学専門学校がその前身である瀋陽薬科大学が自他共に認める最高の大学だった。

 大学の試験は全国一斉に行われてその成績で選抜される。中国も日本同様有名校信仰だから、成績の良いと確信している人たちは精華大学、北京大学、交通大学などの有名校に殺到し、そして殆どははねられてしまい、第二志望以降の大学に廻されることになる。この瀋陽薬科大学に来る大半の学生はこのような人たちである。

横断幕で花盛り

 「北京大学を希望しましたけれど落ちてここに廻されました」などと学生はあっけらかんとして言う。暗い陰は全くない。そのような人が周りに沢山いるので、一人だけうじうじしていても始まらないのだろう。そしてこのようにして瀋陽薬科大学に入った学生の中から成績で日本語専門コースの日語班が選ばれる。

 いま、私の研究室の修士課程にいる日語出身の学生はとても優秀である。瀋陽薬科大学がまだ国立大学の頃に全国から選抜されて入ってきた人たちである。 

 なぜか知らないが、悲しいことに、この薬科大学は数年前に国立大学から省立大学に格下げされてしまった。日本で旧帝国大学と地方大学の間に序列があるのと同じように、省立大学になったということは明らかな格下げで、以前は全国から万遍なく入学者が集まったこの大学に、今年度入った学生の半分が遼寧省出身だった。この大学にかつての勢いは最早なく、もう立派な地方大学である。学生の口からも、ここはもう駄目ですという言葉が漏れることがある。

一流大学とは一体なんだ?

 私たちはこの大学の学生教育のために、そして研究興隆のために呼ばれてここに来ている。学部学生に講義をするほか、研究室に所属する学生を育てている。その学生に高い目標を持たせ、優れた技術と深く考える能力を持つ研究者の卵に育てるためには、まず学生から、この大学が一流ではないという劣等感を除くことが必要だろう。そのためには格調高い目標を持たせることが必要だ。

 どうやったら一流ではない大学にいて、学生から劣等感が取り除けるか。

 その前に、一流の大学とは何だろう。考えてみる必要がある。日本では誰でも一流の大学というと同一の大学を思い浮かべる。中国では、精華大学とか北京大学の名前が直ぐに挙がる。そして学生はこのような一流大学に行きたがる。

 今の日本では大学や研究所の評価は厳しく行われていて、大学の先生が発表した論文の数だけではなく引用される頻度(これはほかの研究者からの注目度に当たり、引用数の高い論文は重要度を表すと一般的に考えられている。しかし、その領域の研究者の数が少なければ引用数は少なくなるので、引用度だけではその重要性は示せない)、研究費の総額、その研究費をどのような競争で取ったかという研究費の出所、研究費で割った論文の数、そして最近では出願した特許の数も重視されているし、大学の財務状態も評価の大事な指標である。

 したがって大学には外部からの(したがって、一応公正な、と思われている)評価がなされ、大学には序列が付いてしまう。それでは名声を頼りに一流大学に入れば一流の研究者に育ててもらえるかというと、そうは問屋が卸さないことはいうまでもない。単に有名大学を出ただけということで終わる人が沢山いる。

優秀な、一流の研究室とは?

時はカラオケを

 優れた研究者になるには、本人の持つ資質が一番重要で、それと同時に学生時代にどのような訓練を受けたかも大事である。研究室に入って、いつも一流の研究に接し、優れた指導者と研究者によるアイデアと研究の進め方を見ていれば、自分の判断や評価の基準も一流になる。周囲が三流の人物を見て育てば、世の中そんなものかと思って三流の研究者で終わってしまう。つまり一流の研究室で鍛えられることが必要なのだ。大学が一流と言われていても、それぞれの研究室が一流かどうかは別である。そこで、研究室の学生と、一流の研究室とは何だろうと一緒に話し合ってみた。

 幾つか私が挙げておいて、学生に順番にそれぞれどう思うかを述べさせた。複数以上の項目を一流と考える基準に挙げても良く、新たに追加しても良いことにしたが、学生が新しく追加する項目はなかった。その結果、学生が一流と考える順位で以下は並んでいる。

1.世間に役立つ研究を行っていること。

学生の支持はこれが一番多かった。実際、中国では応用研究にしか研究費が来ないと聞いている。研究費を出している側から見れば、役立つ研究をして欲しいのは分かり切ったことだ。しかし、役に立つと言うことだけで評価すると、しばしば目先の需要を満たすのみで、もっと先に花開く重要な研究の芽を摘むことになるかも知れない。

2.重要な研究を行っていること。

重要な研究を行っているというと何となく納得した気になるが、重要というものの中身は言う人によって違うし、世の中の移り変わりでも変わる。いってみれば、自他共に良く誉め言葉として使うけれど、一流の研究とか、第一線の研究などと同じ、景気づけの言葉かも知れない。つまりこの表現は曖昧な定義であって実体を伴わないことが多い。

3.独創的な研究を行っていること。

実は私の知っている限り研究者の世界では、独創性は研究者個人の評価においては最も重要視される。その人だけが生み出せるという独創性が最高に尊ばれるが、誰もやっていないからと言ってノミの金玉の重さを計っても笑われる。独創性とはその人独自のものだから、始まったばかりの時にはもちろん流行には乗っていない。ことによると芽生えの時期には理解されずに押しつぶされる可能性がある。誰もが無視した研究が将来重要な研究の芽となる場合が往々にしてある。島津の田中さんによるノーベル賞の対象となった研究が良い例である。従って独創性は研究者評価の重要なキーワードだが、どこを視点にして評価するかですっかり変わってしまうものなのだ。しかし、独創性こそ研究者個人の生存理由であり、評価の基準であることは疑う余地がない。

4.世界の一流誌に論文を沢山出して いること。

これは研究者の評価の原点となっているが、一流誌とは、引用度の高い論文が沢山載っているジャーナルと言うことになっている。世間がよく知っているジャーナルにNatureとかScienceがある。私たちの専門領域ではJournal of Biological Chemistryがある。同じ領域の研究者の数が多ければ引用度は必然的に高くなるので、引用度で評価することに問題があることは、先ほど指摘したとおりである。単に流行に乗っていることを意味しているに過ぎないことがある。

5.研究費が潤沢なこと。

これはよい研究成果が出れば次の研究費の申請に断然有利に働くので、それ以降は研究費に恵まれることになる。研究の実績があるから、この申請もきっと成果を出すだろうと思われるわけだ。潤沢な研究費はその研究室で良い研究が続いて出ていたことを示す一つの目安である。しかし研究費が多ければ、良い研究が出ると言うことにはならないことも確かである。

6.施設・機器は世界最高のものを必要なだけ揃えていること。

これも上と同じで、良い研究が出ているからこそ、手厚い待遇が研究室に還元される。そして今や、程度の高い、かつ特別の(別の言葉で言うと、高額な)機器がなければ研究を進めにくい時代になっていることも事実である。

7.このように、いろいろの側面から一流の研究室を定義することが出来るが、一方でその研究室に来る学生から見れば、上記のどれかの条件に加えてもう一つ大事なのは、「研究室の指導者がその領域で最高水準の知識と経験を持っていて、なおかつ大学の使命は学生の教育にあることを認識していること」が望ましい。なぜなら世間には良くあることだが、自分の欲を達成するために学生を自分の使い捨ての手足にして働かせるような先生の研究室に入ったら、悲劇だからである。この項目は、学生の考えでは5番目に選ばれていたが、これは恐らく貧乏な研究室の私たちに、せめて花だけでも、といって付けてくれたのかも知れない。

 こうやって、大学はともかく一流の研究室とはこういうものだと定義してみた。私たちも研究室を構えているわけだから、上記の定義で見て私たちの研究室はどうなんだろうと考えないわけにはいかなくなる。研究室のボスつまり私と妻の貞子だが、この大学で一番年長だという特徴以外に何かあるだろうか。

私たちの研究室は一流ですか?

 中国に出来た私たちの研究室は、果たして重要な研究をしているだろうか?そして研究費が潤沢にあるだろうか?役に立つ研究をしているだろうか?

 中国では応用研究が最優先で、基礎研究には研究費が出ないから、私たちの研究室には研究費が来ない。潤沢な機器もない。つまり研究費で判断すると、私たちの研究室は重要な研究をしているとは思われていない。

 私たちは腫瘍の転移機構を研究している。悪性腫瘍は転移を止めることが出来れば制圧することが出来るはずだ。そのための機構の研究である。だからいずれ役に立つにちがいないが、転移を止める薬そのものの開発でないとこの国では評価されない。

 私たちは一流の論文を発表しているだろうか。これはここに来てからまだ1報しか書いていないから、一流とは言えない。研究は独創的だが、レベルが一流ではない。つまり細胞内の機構の考察まで研究が及んでいないのである。

 研究室には研究費がない。研究室にはこれという目覚ましい機器もない。今までに出した論文は独創的だが小粒である。これらの尺度では、私たちの研究室はまるっきりの落第である。どう、ひいき目に見ても私たちは三流の研究室にも数えられない。小さな声で、「むかしは独創的な研究をやってきて、一流誌に論文を出して来た。今は違うけど。」とつぶやくだけである。

 ただし、たった一つの視点では合格である。私と妻はこの領域で最高水準の知識と経験を持っていると自負している。もちろん学生の指導者としても経験を十分積んでいる。おまけに、自分の研究のために学生を手足として使っていないし、大学の使命は次代を背負う学生を育てることだと認識しているので、この点だけは、つまり指導者だけは誰にも負けない立派な研究室だよと胸を張ることが出来る。しかし、それだけである。研究費もなければ設備もない。おまけにこの基準はお手盛りで私が考えたものだから、ある意味ではとても恣意的で、あまり威張れたものではないかも知れない。

一流の研究者になるためには?

 それでは今度は、研究室に属している院生を対象にして、彼らが一流の研究者となる教育を受けているかどうかと言う視点で見てみよう。実際学生とちょっとでも話せば、その人が優秀か、そして将来優れた研究者になるかどうか直ぐに分かるのである。

4年生に分子生物学

1.学生が実験について広く知識を持ち、実験手技が良く訓練されているか。

2.学生それぞれが研究とは何かをよく理解しているか。研究目標を十分理解していれば、決められた目標を達成するだけではなく、常に向上を目指すことが出来る。

3.手を惜しまずに実験をして、結果を出すことに努力しているか。手を動かさなくては、自分の成果をつかみ取ることは出来ない。いくら天才でもこの世界では実験をしなくては、役立たずである。

4.誰かの研究を見て、あらゆる角度から検討でき、それを正当に評価できる能力を持っているか。しかし評価できるだけでは、もちろん研究者とはいえず、単なる批評家で終わってしまう。

5.研究にあたって問題を提起し、その解決方法を考え、それを実証する能力が磨かれているか。従って、知識欲があり、好奇心に充ち満ちていることが大事で、何よりも自分の頭を使って考える訓練がなされていることである。

6.自ら学び、いつも良く考えているか。これが自分の持つ能力を鍛えて、自分に無限の可能性を与え、自分を高みに導くことになる。

 このように書いてみると、以上のことは研究費の潤沢ないわゆる一流研究室にいなくても、身につけることが出来るのがわかる。以上の実現は決して難しいことではない。心構え一つで学生は一流を目指せるのだ。そうなると、彼らを訓練し、指導してこの心構えを身につけさせるのは私たちの役目である。学生がこれを受け入れるという心の準備さえしていればよい。

「襤褸は着てても心は錦」の意気で行こう

 というわけで、私たちの研究室の憲章は以下のように始まることになった。

 山形達也・貞子研究室憲章(基本法)

1.私たちの研究室は、研究室に所属する学生・院生を一流の研究者に育てることを目指している。

2.研究室の学生・院生は、一流の研究者になることを目指してここにいる。

3.したがって、学生・院生はそのために、別項に述べる規則を守り、実験を生活のすべてに優先させなくてはならない。

4.・・・

これは私たちと学生たちとの間の基本契約と言えよう。お互いこう思っているんだから、一流を目指して頑張ろうよと言うことになる。

 そうなのだ。せめて学生には一流なのだという意識を持って貰わないといけない。「襤褸は着てても心は錦」である。このような研究室の憲章を皆で議論してからは、院生が一段と研究に身を入れるようになったような気がする。

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アイデア勝負!

森林 久枝

(東北育才外国語学校)

中国で日本語を教えるようになってから、日本語の教員として自分が担う役割が大きく変化したと感じます。日本で 教えていた時は、当然教師は全員日本人であり、私たち日本人教師が文法導入と定着、試験対策まで全ての責任を負っていました。しかし、中国で日本人教師が文法導入の全責任を負っている学校というのは極めて稀なのではないでしょうか。文法導入は中国人日本語教師が責任を 負うべき範囲であると考えている学校がほとんどでしょう。

今考えてみると瀋陽へ来たばかりの頃は、自分の役割が変化したことに対して自覚がなく、かなり戸惑っていたと思います。私が現在勤務している高校の学生の多くは将来日本へ行きますが、その時の受け入れ先である日本語学校に以前勤務していた関係上、やはり彼らに特徴的な間違いや弱点がずっと気になっていました。それで、最初の頃はなんとか「日本へ行く前に克服させてから送り出さなければ」と、必死なっていたように思います。

しかし、ここで生活するうちに考え方が変わり、できるだけ彼らの日本語への興味を駆り立てたい、日本語を上手に話したいと彼らに思ってほしいと考えるようになりました。そういう気持ちを持たない学生に対して何をやっても、ぬかに釘、暖簾に腕押しというものですから。「外教」という立場で教える私にとって、質の高い授業を提供するということは、つまり、いかに彼らの日本語への興味を持続させるか、日本人や日本文化への興味を駆り立てるかということなのではないかと思うようになりました。

初級文法や2級文法を導入できないのはちょっと物足りないと感じますが、その代わり、日本国内の日本語学校で教えている時には気づかなかったことにいろいろと気づかされます。授業準備の時に参考にする資料やスタイル事態もかなり変わってきたなと自分で感じます。

北京で

朝日新聞の土曜版に「be」という紙面がありますが、そこに「ma@china」というコーナーがあります。「モー・バンフ」という中国人ジャーナリストの連載記事で、現代中国を彼の視点から観察し、その問題点などに鋭く切り込んだエッセイのようなものです。私は日本にいる時からこのコーナーが大好きで愛読していたのですが、その中で、乳製品製造販売の「蒙牛」は「超級女声」で優勝した女の子をCMに起用し「酸酸甜甜就是我」のヒットとともに売り上げを伸ばした、という内容を載せていたことがありました。最近、朝日新聞の記事「人気企業ランキング」を使った授業をしたのですが、  その時の導入として、中国の有名企業を学生に挙げさせ、更に「蒙牛」や「超級女声」や「酸酸甜甜就是我」に触れると 効果絶大で、かなりクラス活動に弾みがつきました。サビを歌ったりなんかするともう、はずす余地はありません。

クラス授業が成功するかどうかというのは、そういうちょっとしたことが決め手になってくるのだと感じます。でも、その「ちょっとしたこと」を持続的にやっていくのはけっこう骨の折れることですよね。骨の折れることなんですが、そいういう状況におかれているというのは幸せなことでもあるのだと思います。授業を成功させるためには情報を集めたり人間としての中身を充実させたりせざるを得ないわけですから。

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ジシンダ〜

宇野 浩司

(瀋陽職業技術計算機学院)

 早いもので、私がこの仕事をはじめてからもう2年半がたってしまいました。

 この2年半を思い起こすといろいろなことがありました。その中でも今回は特に印象に残っている、私が授業の時にやった「ユニーク指導」について少しお書きしたいと思います。

1.「もしもし…」

 恐らくどこの学校の先生方も、授業中寝てしまう学生を経験したことがあると思います。そのような時どうしているでしょうか。「寝かしておく」先生もいれば、「力ずくで起こす」という先生、いろいろだと考えられます。

 私がやったのは(今でもやっているのは)寝ている学生を見つけたら、人差し指を口元に持ってきて「シー」という仕草を起きている学生達にして、そっと寝ている学生のところに近づいて、机をコンコンと叩いて、「もしもし、もしもし」と言いました。そして起きたら、「おはようございます。お目覚めでしょうか。お元気でしょうか」と聞きました。そうすると、たどたどしい日本語で「オォカァゲサマレェ、ゲンキデス」というので(だいたいの学生は)「あのね、寝ちゃだめなの。分かる?寝たかったらね、あとでいっぱい寝てね」と私も言いました。だいたいこちらが言っていることが分かるらしく、或いは適当に返事をしているだけだったかもしれませんが、「ハァァイ」という返事をしました。このやり取りを見ているほかの学生達にはおもしろいらしくていつも笑いが起きていました。

2.「地震だー!」

 ちょうど去年、大きな地震が日本であった時、授業で「日本人と地震」ということで話をしました。「日本は地震が多いです。だいたいほぼ毎日、日本のどこかで地震が起きています。弱い地震です。時々強い地震が起きます…」というようなことを話していました。しかし、例のごとく私の話を全く聞かないで関係ないことをしている学生がいました。「ちょっと聞いてよ」といってもだめです。何回言ってもだめです。

 そこで、私は「皆さん、今言ったとおり日本は地震が多いです。今から3秒後にここにも地震が来ます。見てくださいよ。1、2、3!」というや否や、そのいうことを聞かない学生の所に走っていって、机をもって「地震だー!皆さんこれが地震です。震度6です」といいなが

ら揺らしました。机の上の本や物が床に落ちて、まさに大きな地震が来たときのようになりました。その学生がびっくりしていると、「ね、地震は怖いですよね。ちゃんと聞きましょうね。聞いていればここには地震は来ませんから」と言いました。

 しかし、そのようなことをしても、  どうしても直らない学生もいましたが…。

3.「ペットボトル!」

 授業中の私語があまりにもひどくなりすぎてしまったことがありました。教卓の下を見ると学生達が飲み干したジュースのペットボトルがまとまってありました。不意に私はその中の一本を手に持つと、それで思いっきり教卓をを叩いて、「これはペットボトルです。静かにしろって言ってるんだ。おまえら」と烈火のごとく怒りました。当然静寂が一瞬訪れました。でも、10分後にはまた私語が激しくなりだしました。私もまたペットボトルに手をかけると、ピタッと話しがやまりました。そして、手を放すとまた私語。ペットボトルに手をかけるとやまる。この繰り返しになりました。まるで吉本興業の喜劇みたいになりました。

 以上3つほど書いてみましたが、これ以外にも「ちょっとしたユニークなこと」をいくつもありました。

 学生達ももう私の「ユニーク指導」を楽しんでいました。「あ、怒るぞ怒るぞ。やっぱり怒ったー」というような感じでした。現在は勤務校が変わり、このようなことは今のところはしていません。物足りない気がしますが良いのかもしれません。

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即席漬け

高山 敬子

(瀋陽薬科大学)

 薬科大学で教え始めて三年目を迎えようとしている。社会体制の違う国で教えると言うことは、いろいろな枠があるだろうとは思っていたが、今でも分からない事だらけである。何がどこで決まるのか?誰が権限を持っているのか?さっぱりわからない。

ますますカワイイと言われています

 薬科大学は、語学専攻のクラス(日本語、英語)だけ五年制である。今までは三年生に集中して日本語を教えていたが、去年から一年生で日本語を教えるようになり、現在は移行期間の二年目。したがって来年からは一年生一本になる。昔は一年で教えていたから、元にもどったのだそうだ。これも、誰がどうして変えたのかはっきりしない。

 一年間集中して日本語をやるので、一週22時間(日本人教師が会話10時間、中国人教師が文法8時間、聴解4時間)、まさに日本語漬けである。一年間と言っても前期4ヶ月、後期4ヶ月の8ヶ月である。これで、「あいうえお」から始めて「標準日本語・初級」の上下、中級の上下、あわせて4冊こなさなくてはならない。2日に1課の割合である。国慶節とか労働節がはいるから実質3時間で1課(10〜14ぺージ)進む感じである。1課に20〜30の単語が出てくる。このほかに彼等は中国人の先生の「新日本語」の教科書もやらなくてはならない。中身よりも量にこだわったような教科書でとても厚い。それを彼等は覚えてくるのだからすごい。

 幼い頃からペーパーテストの訓練を受けてくるので、丸暗記は得意なのかもしれない。そして、いよいよ、8ヶ月後、6月に中国の4級試験を受ける。これに受からないと薬学士の資格をもらえないので、一応必死になる。ここがピークである。じっくり教える暇がないから、  時間に追われて即席漬けができあがる。

 ご存知のように「即席漬け」は漬かるのも早いが、悪くなるのも早い。当然学生たちの日本語能力も夏休みを終え、12月の国際1級試験まではどうにか持ち こたえるが、その後はみるみる会話力が落ちてくる。

 4年生は前期週4時間(日本人の先生2、中国人の先生2時間)あり、後期はない。薬学の専門科目を日本語で受ける。不思議な事に専門科目を中国人の先生が日本語で講義をする。日本のどこかの薬科大学の講義で使われていたのと同じ冊子がそのままコピーされて使われていたりするらしい。薬学の専門用語を一杯頭に詰め込むので普通の日本語は忘れ、会話力も落ちていく...。

 冬に向かうこの時期、瀋陽の店先や家の軒下で、「酸菜」を漬けるための白菜がたくさん干されている。それを横目で見ながら、今日もせっせと「即席漬け」に励んでいる。何かむなしさを感じながら...。

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自転車ドロボー市場

峰村 洋

(瀋陽薬科大学)

瀋陽生活1年目の昨年は、市街地のだいたいな所はひととおり自分の足で歩いてみた。

今年は、やや遠くまでも足を伸ばそうと考えた。また、昨年回ったところをもう一度訪れてみたい気にもなった。それに買い物だって自由にしたいし。そして、時間の制約を考えると自転車に限る、と考えるようになってしまった。それだけ体力的にも精神的にも年を取ったのかと、自分を責め悩むことさえしばしばとなった。

昨年はといえば、市内の交通状況からして、「自転車は危険である」との考えが先行していた。自転車に乗れば、車に跳ねられないまでも接触事故くらいは免れないだろう、そして、歩行しているうちは、たとえ被害者になろうとも加害者にはなるまいと考えたものだ。自転車には乗らないぞ、乗るものか、自分の足で歩かねば町の様子は何も分からない、なんて気張っていた。

 人間だれでも2年目になるというとずうずうしくなるもので、そんなことは二の次になり、弁解めいた理屈の方がだんだん比重を増すようになった。

かくして、クラスの3年生の男子に「自転車の中古品を買うには、どこへ行ったらよいか。」と問うてみた。横にいて耳ざとく聞きつけた地元の女子がすぐに「それは、“中街”の近くにあります。」と言った。なぜ中古品か、と聞かれれば、それは、新品を買うお金がないこと、あと一年で使わなくなるかも知れない、と答えただろう。「いつ行くか。」と詰め寄られると、今さら「いや、まだ考えているだけなんだよ。」などと煮え切らないことも言えなくなり、その週の土曜日に行かざるを得なくなった。言うのは女、命令を受けて護衛として出かけていくは、決まって人のいい男性の役。2人の男子学生が同行してくれた。

“中街”通りの北側に“北中街”通りがある。「そんなこと当たり前だろう」なんていきらないで最後まで聞いて欲しい。

「先生、ここです。」見ると、雨上がりの水溜りが散見されるようなただの地べただけの空き地だ。よく見ると、その中で大のおとなが白昼というのにわんさと自転車に乗って遊んでいる。「なんだこりゃ?」と思ったが、彼等こそ、自転車を買う人、売る人達であった。そこは青空の中古自転車市場とも言える所だった。興味有りげにやおら近づいてみる。すると、例によって売り手が寄って来る。護衛役の一人が試乗してくれた後「先生、これどうですか。」と聞く。「うん、君がいいと言うなら、いいんじゃない。」なんて無責任に応える。「でも、乗るのは俺だよな。ちょっと乗ってみるか。」と思い直す。中国で初めて乗る自転車。面白がってあちこち(中国語では「こっちあっち」と言うそうな)乗り回してから、「ブレーキがちょっとなあ。」なんてカスこくと、次なる護衛官が「では、こっちんのにしましょう。」と言って、試乗してくれる。これもまた自身で乗って確かめてみる。「このサドルがちょっと高いねえ。」と触ったりする。売り手のおばさんがすかさず「調節できるよ。」てなことを言う。その時はすでに、お客である小生の目はもう他の車に移ってしまっているから遅いのに。“3度目の正直“という言葉もあるじゃないか、最低3回は試さないと素人(外行)扱いされてしまう、と面白半分にいろいろ乗ってみる。「もういいでしょう」と、「格さん」のまねをして、学生に銭の交渉を頼んだ。売り手のオバハン、“沈陽市自行車証”を取り出して見せた。誇らしげに。正真正銘のものだと言わんばかりに。次のような記載がある。

姓名:楊平、性:男、年:32

身分証明号:210106710115031

他に住所、品牌、車色、発行年月日等々。そして「だから100元は負からない」と強行だ。粘ってみたが、欲しい物は欲しいわけで、結局結論は2度目に乗ってみた100元ものになった。この時女の学生がいてくれれば、間違いなく10元は負かっていただろう、と思うのだが。

今度は、鍵売り場へ行く。なんと手回しの良いことよ。すぐ隣のコーナーに鍵屋が待っていていろいろな鍵を売っている。自転車本体を負けさせられなかったんだから、「鍵は安いのでいいよ。10元の物でも安全か?」「大丈夫。」と売り手おじさんは、胸を叩くことまではしないで、鍵束から10元物をはずして既に自転車に取り付け始めたには苦笑ものだ。

A護衛官「先生、危ないから、私が先生の寮まで乗って行きます。」「そうか、悪いねえ。」「先生は、B護衛官とバスで帰ってください。」「あいよ。」

バスで帰った時には、もうA君は小生の宿舎玄関に着いていた。謝謝。再見!

嬉しくなって、3階の部屋から2度も階下へ下りて行き、その“鍵付き100元”を見に行った。玄関の内側に、ちゃんと鍵がかかって置いてあった。安心。いや待てよ、「この新しい自転車は誰のか」と疑われてもいけない。再び3階へ引き返し、マジックを取って来て名前を2ヶ所に書いた。一つは、漢字で。一つは、ピンインで。これで誰にも取られまい。  やっと眠ることができる。

翌日は、郊外へ自転車ハイクと洒落た。“瀋河”の橋を渡ってみる。風を切る爽快感はなんと形容できよう。これは、  健康にもいい、世界が広がった、なぜ今まで気が付かなかったんだろう、毎日30分は乗ろう、などとわくわくにやにや して愛車を漕ぐ足は軽やかそのものだ。買い物も楽ちんにできた。黒い素敵な籠がついているから、あのスーパーの薄ビニール袋の品物を落とす心配も無い。また、一人嬉しい一日が終わる。

そんなに人生いいこと尽のことは続かないよ、と悪魔がささやいたかどうか、誰一人気付くはずも無い。

5日目を迎える。有名な“三好街”へ買い物に行く。鍵をしっかり確認してから店をあちこち回る。数時間がたっていた。自転車を置いたはずの所に戻る。無い。おや、置き間違えたかな。無い。そんなバカな。その辺をうろちょろ捜す。でも無い。15分が過ぎた。薄暗くなってきた。その辺の放置自転車の色も呆けてくる。いや、呆けているのはお前の頭の方だ。薄青だったか、灰色っぽかったか。どっちでもいいが、無い物は何度見ても無いのだ。現実は甘くなかった。トホホ。

うちひしがれてたそがれの帰り道を宿舎まで歩いた。30分が一時間にも感じられ、重い足がへとへとになった。俺は瀋陽へ来てから何か神様を怒らせるようなヘマをやっただろうか。過去にはともかく最近では思い当たらない。バカ!人間、自分の罪など誰だって自分でわかるもんか。無意識のうちに人に迷惑掛けるなんてざらにあるんだから。ただ自分で気付かないだけさ。そう言われると返す言葉に窮するが・・・、じゃ何だね、やはり自分の所為でバチがあたったって訳か。変だよ、バチが当たって自転車がなくなるなんて。変な神様だよな。もっと納得いく罰をくれればいいのに。

思い出した。この間まで瀋陽にいらした日本人の女の先生で、自転車が一週間で盗まれた話。あの先生は素敵な先生だったなあ。でも、俺はその先生の記録を塗り替えた英雄ってわけだ。ギネス物?。楽しかった5日間の日々、夢。でも、人にあんまり自慢できない。

「ところで兄さん、“蚤の市”って知ってるかい」「“フリーマーケット”のことだろう。瀋陽にも“跳蚤市場”ってスーパーあちこちにあるけど」「良く知ってるねえ。そのスーパーの方はいんちきだよ。本物は何でも安く手に入る面白いところだぜ。値段も交渉次第だし」「どうせ、不要品を集めて持って来たんだから、売るほうは何ぼでもいいってわけか」「でも、なんで、蚤っていうんだい?シラミじゃいけないのかい?」「ううん、蚤みたいにけち臭い野郎が売ってるからかなあ。それとも蚤のように品物がぴょんぴょん人手に渡った胡散臭い物だからかな。でも、そんな所へ行って買うヤツだってけち臭いだろうに。」「まあ、どうでもいいや。売るのも勝手、買うのも勝手な世の中だもん。」「元は、フランスの地下鉄近くに立つ古物市だって聞いたが」「場所によっては、“ドロボー市”って言うんだって話聞いたかい?」「なんだい、それ。泥棒してきた物でも売ってるのかい?」「いや、なぜ?って言われても答えられないけどさ。何でも安いって話だぜ。掘り出し物も結構あるって」「おかしな名前だね。泥棒してきた物なら、確かに安く売れるもんな」「なんでも、ニューヨークやアムステルダムのが有名だって」

自転車が、買って5日目で盗まれる。その盗物がまた、自転車市場に並ぶ。それを買う人がいて、また盗む人がいる。その繰り返しが“ドロボー市場”の正体だとしたら、どうだろう。うん、ぴったりだなー。どうだい、名づけて“自転車ドロボー市場”ってのは。実は鍵も簡単に外せるようにできていてさ。同じ仲間がサイクルで動く商売。そ、そ、それはどうかな。ちょっと考え過ぎじゃない? 

15年前、国交回復直後の「中国紹介」の項には、“ドロボーのいない国 中国”とあったのを思い出す。鍵の付いた自転車など一台すらなかった。鍵が必要でなかったからだ。あれからもう何年?日本経済のもたらした産物がこんなところにも・・・。(2004.10)

 [後日談]

@“自転車ドロボー市場”の話を、ある時中国人の日本語教師に話してみた。彼女は言った、「先生はまだいいですよ。私の友達で自転車を5回盗まれた人がいます。」

池本先生の愛車“2号”

“1号”は買って3時間後に盗まれた。
今頃どこかの“市場”に…

A愛称“旅行者”なる便利屋で親しい庄佳クンに報告したのは、事件が起きてから一年近くになる。「先生、ある私の友達は新しい自転車を買いました。彼はあまりにいい自転車なので、盗まれることが心配でした。そこで、鍵を4つ買いました。前輪に二つ、後輪に二つ。」と庄佳が静かに話し始めた。「なるほど。そういう手もあったか。」次の話しを待つ。「彼は買物に行き、鍵をしっかりと四つかけました。買物から戻ってみると、自転車を置いておいた地面に、四つの鍵だけが無事に置いてありました。」<(2005.6)

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キッズとのバトル

丸山 羽衣

(瀋陽大学)

 ここには家族連れで語学を教えに来ている先生がいる。以前、私の隣にはアメリカ人の一家が住んでいた。お父さんは陽気なアメリカ人そのもので音楽が大好き。いつも唄ったり何かを演奏していた。その音は日に日に大きくなり、ギターだけでなく最終的にはドラムまで叩いていた。部屋のドアを開けたら私の部屋の前で、こちらを向きながらギターを弾きながら唄っていたこともある。あれは未だに謎…。

 お母さんは気分が↑↓。お給料日はやっぱり気分が良いらしく私の部屋のドアをノックし、「today is pay day!」と誘いに来てくれた。他の日は会ってもそっけなく「ニイハオ」または「Hai」、時には無視。これまた謎。

 子供たちは3人姉弟。一番上のお姉ちゃんを筆頭に下の2人はとにかく腕白。一緒に遊んで欲しくて仕方がない。会えば日本語で「こんにちは」と、言ってきた。う〜ん、可愛らしい…と、思い続けて約半年。それが全て逆転した。

 ある日、買い物から帰ると部屋をノックする音が…開けると隣のキッズ3人。「おやおや?」「時間ある?一緒に遊ぼう。」と、部屋へ入ってきた。まあいいかと、思った私の判断は間違っていた。ベッドルームに入り、ベッドの上でカードゲーム。負けたらバッグでお尻をバシバシっ!何なの、一体!ただでさえボロベッドの上をひたすらジャンプされまくり、ベッドはバキバキッとイヤ〜な音を立てる。「やめてぇ〜。」私の声も虚しく、今度は大事なパソコンをガチャガチャ。あぁ、壊れるっ!全財産の入った袋を取られそうになる。止めて!日本の携帯電話を水没されかける。ちょっとぉ、いい  加減にしてよ。部屋の鍵を油の浮いた水の中に落とされ冷凍庫へ…はぁぁ、セキュリティーが。部屋に飾ってある写真を見て「コレとコレ、彼女のボーイフレンドよ!彼女は何人も男がいるのよっ!あ、英語で言ったら彼女が分かっちゃう。中国語で話しましょ。」…お姉ちゃん、何を教え込む気よ?日本にいる友達と家族の写真なんだけど。油性ペンで帽子とテーブルに落書きされる。おーいっ!1Lジュースをそのまま飲まれる。しかもダラダラ。あぁ。ガムを2,3回噛んでそれをまたガムのケースに入れられる。汚いってば。突然「clean up!」と叫びだし、部屋中水浸し…。彼らの両親を呼ぼうとすると必死に止められる。「ダメっ!内緒なんだから。」内緒も何も無いでしょ、もうっ。生徒の宿題に落書きされそうになり「ダメっ。これは大事なの。」と奪い返す。…その後、私の化粧品で遊びまくられ、ファンデーションは一気に粉末になった。さよならシャネル…、こんなになるなら高いの買わなきゃ良かったよ。最後はもう疲れ果て、ベトベトになった鍵を持って部屋を出た。セキュリティーのアラームがか細い音でビィ〜〜と鳴り続けた。

『完敗』 正しくその時の私にピッタリの言葉だった。

 部屋に戻ると生徒の宿題に、「ごめんなさい。一緒に遊びたかっただけなの。あなたのこと好きだから。」と、書き残されていた。

『無念』 何故だかそう思った。

宿敵?!

陽気なアメリカ人の
父親と悪ガキ

 数日後、お母さんがもうすぐ臨月を迎えるところだった。「キッズが4人…。」悪夢だった。外事処に思わず聞いてしまった。「あのう、もうすぐ赤ちゃん生まれるけど、彼らはここに残るの?」外事処の先生は満面の笑みで答えた。「はいっ。残りますよ!」目の前が真っ暗になった。あぁ、来学期せっかく残れることになったのに天使の顔した悪戯キッズが4人になって私の前に君臨してしまう。何てことなのっ?神様は私を見捨てる気なのっ??それから毎日憂鬱だった。キッズに会うたびに、バシッと頭を3人に叩かれバカにされた。生徒たちと発表会に向けて、歌の練習をしていると、ミニトマトを上から投げつけられた。最初は穏便だった生徒たちもみるみるうちに表情が変わっていった。

「あの子、私のこと‘おばさん、今何時?’って言いました。私はおばさんじゃない。」相当頭にきたらしい。そりゃそうだよね、まだ20歳にもなってないのに‘おばさん’だもんね。

「私、あの子達、怖い。会いたくないの。ごめんね、助けられない。」韓国人留学生が言った。彼女も嫌な思いをしたらしい。

 ああぁ、新学期からどうしよう。4人とバトルなんて完全に負ける。ツライよぉ。しかも更にうるさくなるよぉ。そんな私を横目に日本人留学生たちは何だか楽しそうだった。「いや〜、来学期は面白くなりそうですねぇ。」と。

 新学期、始まってみると隣が静か。あら?見ると部屋のドアには違う物が飾られていた。あれれ?これはもしかして…。そう、彼らはいなくなったのだ。神様は私を見捨ててなかった!有難う神様!私は勝ったのね。

 が、数日後、お父さんが何故だか便器を運んでいる姿を留学生が発見。もしや、まさか、戻ってくるんじゃ?更にその数日後、今度はカルフールで赤ちゃんを連れた一家を生徒が目撃。まさか、まさか、そんなはずは…。

 今のところ戻ってくる気配は無い。だが、油断は禁物だ。神様に見捨てられないよう日々の行いを良いものとせねば。もうバトルはうんざりです、神様〜。

 切々と願い、ビクビクする日々である。

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西安の旅

渡辺 京子

(中国医科大学)

 今年の国慶節の休暇はいにしえの都、西安を訪れた。前々から行きたいと思っていたところで、今回初めて一人で中国人のツアーに参加した。

 10月1日12時半集合ということで、私は1時間前に空港に着いていた。しかし、集合時間の15分過ぎても、誰も来なくて不安が頭をよぎった。私は携帯電話を持っていないのだ。何か変更でもあったのかしら‥‥やはり旅行のために携帯電話を買っておくべきだった。いまや必需品なのだ‥‥など考えながら待つこと30分。旅行社の人が到着して切符を受け取ったときは一安心した。ここは中国。中国式の集合時間なのだ。出発時刻は午後2時20分なのだから集合時間は早すぎると いう解釈なのだろうか。

 西安には天津経由で3時間半で到着した。瀋陽の旅行社の話では、「西安に着いたらガイドが :観楽中国: という旗を持って待っているのすぐ分かりますよ。」 と日本語で説明してくれたので、安心していたのだ。だが、なにしろものすごい観光客。しばらく待っているとガイドが一生懸命旗を振りながら近づいてきて声を掛けてくれた。ツアーの人員は全部で12人だった。空港から小型バスに乗り込むとものすごいスピードで走り1時間あまりで西安市内に着いた。

 あいにく小雨が降っていた。ホテルに入る前に早速夕食だ。一人旅は私だけ。その上、中国語ができないので心細かったが、 一組の夫婦が手招きして横に座ってと言ってくれた。食事を待っている間、「弟が今日本から帰ってきているので電話を掛けてみます。ちょっと話してください。」と言ってわざわざ大連まで携帯電話を掛けた。距離が遠いので良く聞こえなくてあまり話はできなかった。弟さんは福岡大学薬学部の先生とのこと。両親に会いに大連に帰っているとのこと。それをきっかけに皆と話が弾み和やかな雰囲気になった。と言っても、私は中国語が話せない。辞書を片手に筆談したりしてなんとか会話ができた。食事は西安料理でおいしかった。ホテルに向かうとき雨が降りだし、明日止んでほしいと祈るばかりだった。

 二日目、願いは天にとどかず朝から雨であった。

 兵馬俑博物館に着くとバケツをひっくり返した様にものすごい雨になった。 通路は排水溝がないのか一面水浸しとなり川のように流れている。靴はびしょびしょ。建物は立派なのにどうして通路のことをもう少し考えないのだろうか?と思う。始皇帝兵馬俑は体育館風の建物で坑は覆われている。一、二,三号坑ありスケールの大きさに驚いた。始皇帝は 天下を統一すると壮麗な宮殿、阿房宮を建て、万里の長城を築き、自分の陵墓を作った。その陵墓を守るために作られたのがの兵馬俑である。この兵馬俑は、1974年春、一人の農民が井戸を掘るために、土を掘り起こしたことから発見された。6000体以上の勇壮な地下軍団である。始皇帝の死後を守るために作られたものでいまだに発掘が続いている。売店で「死して更に生きた秦の軍陣」という日本語版の説明書があったので買い求めた。第一発見者の楊培彦という人のサイン入りで170元だった。本の内容を見ないで  ガイドから進められるままに購入してしまったが、中国式日本語で書いてあり読みずらいし、理解できない。ちょっと高い買い物だった。

 昼食後華清池に向かった。華清池は玄宗皇帝が楊貴妃とともに訪れていた温泉だ。白楽天の長恨歌の「春寒くして浴を賜う華清の池‥‥」の一節で有名だ。唐時代玄宗皇帝と絶世の美女楊貴妃のラブロマンスに想いをはせ、しばしたたずんだ。それから西安事件で蒋介石が張学良に監禁された兵諫亭を見て夕食を食べて9時過ぎホテルに着いた。

 三日目、華山に登山の日で雨が止んで嬉しい。

 崋山は中国の五岳の一つで「崋山論剣」の伝説で有名である。ホテルからバスで1時間あまりで西安の郊外の登山口に到着した。そこから小型バスに乗り換えてロープウエー駅まで行く。駅はものすごい人が順番待ちしている。鉄製の迷路にぎっしり人が並んでいる。そこで待つこと3時間。やっと6人乗りのロープウエーに乗ることができた。急な傾斜を5分ほどロープウェーで登って下車し、歩いて海抜1614mの北峰へ着いた。下山まで 4時間もあるので登り始めた。

 しかし、日本の山と違って石山である。それに柵がないところが多い。ここで滑ったらどうしょう、生きて帰ることができない。恐怖心が先に立って足が前に進まない。私は子供のころ、山登りしたとき転倒して岩で怪我をしたことがある。それ以来岩山はとても怖い。いつも転んだ時のことを思い出してしまうのである。登るのを断念し一人でロープウエーの駅まで行って皆を待った。途中岸壁にいろいろ文字が刻してある。それを見ていると楽しい。読めなくても意味は通じる。中国の聖なる山では到るところに大小の文字が刻まれている。抑揚のあるリズムに息づかいが伝わり、さすが書の国だと感心する。全員が下山して夕食を食べてホテルに帰ったら8時過ぎていた。

 四日目、朝8時にホテルを出発して 市内観光。

大雁塔、私と玄奘法師

 三蔵法師の像とインドからの経典と仏像で有名な大雁塔をみた。時間がないので外から眺めただけで入場できなかった。その後明の城壁に行く。広い城壁を散歩して見下ろせば西安の町が見渡せる。昔の面影が目の前に広がり懐かしい気持ちになる。昼食後自由時間になった。自由時間に碑林を参観できるかもしれないと期待していたが時間が足りなく果たせなかった。碑林には唐代の?遂良(?は衣偏に者、ちょすいりょう)、欧陽詢などの書家の石碑がたくさんあるのだ。私は書を少しかじっているので、自分の目で碑の刻線を見たかった。以前拓本の名筆を眺めては、実物にめぐり合いたいと思い続けていただけにとても残念だった。いつの日かまたゆっくり来よう。次に訪れるときの楽しみにしておこう。夕方6時の飛行機に乗り宿舎に帰り着いたのは10時を回っていた。

 ガイドの案内の中国語が分からないので日本語ガイドブック片手の4日間であった。が、周りの中国人のやさしさ、暖かさにふれることができとても楽しい旅だった。

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巴金の死を悼む        

         多田敬司

(東北大学外国語学院)

 2005年10月17日、「巴金」が亡くなった。享年101歳。1980年ごろ、巴金が来日して水上勉氏と対談していたテレビの画面を思い出した。それ以前に写真で見ていたときの彼の鋭い目つきはなくなっていて、温和な好々爺として画面に映っていた。その彼の柔和で穏やかな表情が思い出される。

10月20日付の「瀋陽晩報」に彼の死を悼む記事が掲載されていた。その中に「巴金と蕭珊(夫人)の遺骨が大海に散じられた」という見出しがあった。

巴金の夫人、蕭珊は1972年に亡くなっている。それ以後巴金は彼女の遺骨をずっと自分のそばに置いていた。再び創作活動を始めたのは、78年8月13日、蕭珊の6周期、巴金75歳の時からである。

私が巴金の作品と初めて出会ったのは、1967年。彼の作品は日本人にとって読みやすいということからの出会いであった。そして、その平易さからだけでなく、彼の文章に親しみを持つようになった。

ただし、私の語学力ではまどろっこしくていけないので、日本語で彼の作品、『憩園』『家』『第四病室』などを読んでいった。当時、アグネス・スメドレー著の『中国の聖戦』やエドガースノー著の『偉大なる生涯』というものに傾倒していた私は、一見弱々しく見える、彼の優しい人間愛に、不満を感じた。重慶を舞台にした小説、『寒夜』の主人公・汪文宣の「老好人」的な生き方からは、「寒さ」ばかりが伝わってきて、彼の妻が彼の元を去っていっても、彼女と楽しく語らっていた喫茶店に一人で座り、思い出にふける彼の姿には、いらだたしささえ覚えた。しかし、世の中にはうまく適合できないが、誠実な要領の悪い一人の「老好人」の姿は印象的であった。

折から、中国では文化大革命が始まっており、いつとははっきり覚えていないが、やがて巴金も自己批判を迫られ、思想改造の牛小屋に軟禁されてしまった。1970年『大塞行』が発表され、ともかくも彼が生きていることが世間ではっきりした。その後のことは私ははっきり知らないが、1978年、妻の蕭珊6周期から、再び、新しい創作活動を始めている。

1980年ごろ、日本のテレビで見た巴金の姿は、分厚い眼鏡の奥にある厳しい光は消え、一人の好々爺として、穏やかに水上勉氏と対談していた。

1990年、私は瀋陽に来てから、何回か巴金の姿をテレビで見かけたが、最近はその生死さえも知らなかった。そんな中、10月18日の朝突然、テレビで巴金の死が報道された。巴金は2005年10月17日の夜、亡くなったのである。そして、遺骨は、巴金の遺言どおりに蕭珊の遺骨とともに大海に撒かれたのである。

私は、巴金の死を、彼が住んでいるこの中国の地で受け留められたことに僥倖を感じる。そして、今では少なくなってしまっただろうと思われる「老好人」たちの存在を、あらためて、しみじみと心の中に思い描いた。

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マンホールの蓋を尋ねて

加藤 正宏

(瀋陽薬科大学)

 2000年から2002年にかけて、私は吉林省長春市にある吉林大学で日本語の教師を勤めた。吉林省長春市は満州国(中国では偽満)の首都であった新京特別市である。現在(2004年〜)、瀋陽薬科大学に在籍し、同様に日本語の講義を担当しながら合間を見つけては、日本と関わりのあった瀋陽(旧奉天)に存在する場所や建物を、直に自分の目で見てみたり、当時のことを知っている方から聞き取りをしたりしている。吉林大学に勤めていた頃も同じように行動していた。マンホールの蓋を見て歩く楽しみを覚えたのは吉林大学に勤めていたその頃で、長春市(旧、新京特別市)の街路を尋ね歩いていた。

 西澤泰彦著「図説『満州』都市物語ハルビン・大連・瀋陽・長春」ふくろうの本・河出書房新社(1996年初版)の、「マンホールの蓋」(95頁)に4枚の写真を掲げた一文があり、瀋陽の満鉄附属地に残る満鉄のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせた図案に、アルファベットのS字付き)、満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、新京特別市のマンホールの蓋(中央の小円に「下」の字、これを左斜め上から「京」、右斜め上から「新」の文字が挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)が紹介されている。そして、新京の文字は字のままなので別にし、他のものについては図案の絵解きをされている。S字は下水の意味するアルファベットの頭文字、 MTT は Manchuria Telegram Telephone の頭文字による略で、満州電信電話株式会社を指していると絵解きする。そういえば、NTTは日本電信電話公社の略号であった。生粋のアカデミズム分野からは認知されない「路上観察学」のうちでも、このマンホールの蓋による分野はまともな学問と渡り合うことができる数少ない分野の研究だし、奥深い学問だと、西澤泰彦氏は評価する。そして、イラストレーターの林丈二氏が本格的に始めた分野であることも紹介している。

 これら先達の示唆を受けて、私もこのマンホールの蓋を観察して歩くようになった。最初に見つけたのは、長春市(旧、新京特別市)の中南海(北京の政府要人が住む地域)と呼ばれていた朝陽路、中華路の路上や吉林大学の構内の路上であった。新京の文字のある蓋を最初に見つけたときは嬉しくて何度も靴先を文字の辺りこすりつけ、文字を確かめ、いろんな角度から写真を撮ったものだ。このような私を訝しげに眺めて通り過ぎていく者が多数であったが、時には立ち止まる人も居て、何をしているのか訊ねられた。誰も気にせず、踏みつけて通っているマンホールの蓋である。訝しがるのも当然であったろう。公の街路上のマンホールの蓋にはアスファルトやセメンで文字を塗りこめてしまっていたのが、剥がれて姿を見せてしまったと言う感じのものも多かった。現中国になって、満州国の旧首都名が漢字で刻まれているこの蓋は目障りであったにちがいない。しかし、それらを全て取り替える経済的な無駄もしたくは無かったので、セメン張りなどしたのではなかろうか。

 瀋陽で勤務するようになってからも、絶えずマンホールの蓋に注意を向けていたが、簡体文字を刻む蓋やアルファベットの?音を刻む蓋など、現中国のそれと思えるものがほとんどであった。ただ、やたらと各所で見かける記号(マーク)だけの蓋が気にはなっていた。しかし、長期間分らなかった。或る時、謙光社発行「満州慕情」満史会編(昭和46年)の中の写真を見ていて、奉天市公署の写真が目に留まった。その門扉にマンホールの蓋と同じマークが付いているではないか。早速、マークを奉天の文字で絵解きを試みたがうまくいかない。そんな時、路上の古玩・旧書市で奉天市公署の別の写真を入手した。ここにも、門扉に例のマークがついている。やはり、このマークと奉天市公署とは関わりがあるはずだと、いろんな中国人知人に尋ね歩き、私の推論も述べてみたが、確とした答えは得られなかった。薬科大学に集中講義で来られている貴志先生の知人で、遼寧省図書館勤務の方にも聞いてみたが、返事は梨の礫であった。そうこうしている時、路上市でもインテリとして仲間内から一目置かれている人物が、篆刻に使われる篆字の奉と天を1字に組み込んだものだと教えてくれた。ただ、これが奉天市公署のマークだったか否かについては、彼も知らなかった。私自身、篆字の辞書で確かめてみたが、納得いくところまではいかなかった。でも、2字を1字に組み込んだのだから、少し無理があるのも仕方がないとろだと篆字の奉天だと認めることにした。これは奉天市公署の管轄下にあったものだから、市内各所に見つけることができる。同じ鋳型のものばかりではなく、マークの基本は同じだが、デザインには数種あるようだ。

 満鉄のマークを最初に発見したのは、中国医科大学(旧満州医科大学)病院の敷地内であった。その近くには「+」を刻む蓋も見かけた。病院を意味しているのであろうか。

 それ以後、なかなか見つけることができなかったのだが、瀋陽駅(旧奉天駅)の近くの街路でいくつも見つけることができた。勝利大街(旧宮島町、旧若松町)、昆明街(旧橋立町、旧紅町)、民族街(旧松島町、旧弥生町)、蘭州街(旧江島町、旧霞町)など、太原街(春日町、青葉町)より西側(駅寄り)をくまなく見て歩けば、探し出すことはさほど難しいことではない。一度歩いてみてはいかがであろうか。

 勿論、当時満鉄附属地が設定されていた都市では、この満鉄のマークのマンホールの蓋を探すことは可能である。私は吉林省の長春市(旧、新京特別市)でも、見かけている。

 昆明南街(旧紅町)では、壁に残された満鉄のマークも見つけ、「加藤正宏の瀋陽歴史探訪」の「満鉄附属地その1、補足」(瀋陽教師の会HP、会員交流のページ)で写真を紹介させてもらっている。現在、マンホールの蓋に刻まれた満鉄のマークに4種類のマークを見つけている。一つは、西澤泰彦が紹介しているMの文字にレールの断面を中央に配し、円で囲み、下にSの文字を刻むものである。二つ目は、マークを円で囲むだけで、Sの文字が無いものである。三つ目は、Sの文字が無く、マークを二重円が囲む比較的大きな蓋のものである。四つ目は、マークを「話」と「電」の文字で挟みそれを円が囲むものである。それぞれ用途分けがあったのかどうかははっきりしない。Sのはsewer(下水管)とはっきりしている。右書きの電話に満鉄マークのそれは満鉄附属地の電話関連施設だったのであろうか。直ぐ傍には中国鉄道のマークに左書きで電話と書いたマンホールの蓋が並んで存在していた。たまたまそこに居た中国人に訊ねたところ、満鉄のは古くて、中国鉄道のは新しい、古くは右書き、現在は左書きだと答える。でも、中国鉄道のも「電」が簡体字ではないではないかと問うと、50年代末ぐらいまでは繁体字が使われていたとのこと。右書き、左書き、簡体字、繁体字の区別でおおまかな時代分けも可能だということになる。

「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだマンホールの蓋も見つけている。最初に見つけたのは太原街郵政支局(旧中央郵便局)の北側、配送車などが出入りする北三馬路(旧北三條通)と蘭州北街(旧江島町)の交差する路上に「〒」マークとそれを挟んで摩滅し読み取れない文字を見つけ、大発見をした気持でいた。このマークは日本の郵便局のマークである。それが路上に残っていたということは、日本の租界地であったかのような満鉄附属地の姿をはっきりと物語っているからだ。この大発見を紹介したくて、友人の山形夫妻を案内してきて、文字が解読できなくて残念なんだがなどと言いながら、得意げに見ていただいた。その後、北三馬路(旧北三條通)から太原北街に出て、歩道を中山路に向かって歩いていたところ、夫妻から呼び止められ戻ってみると、なんとそこには、「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだ完全なマンホールの蓋があるではないか。これこそ大発見である。太原北街の歩道に立派なのがあったのだ。山形夫妻の大大発見である。このことで、文字解読の問題も解決した。郵便と電話の関係だが、現在は分離しているものの、中国でも郵電部と昔は言っていたし、日本でも郵便局の中に電話部門があったようだ

このように、マンホールの蓋が、その設置されている土地について、その歴史を語りかけてくれている。この語りかけに耳を傾けてみるのもおもしろいことだ、目を皿のようにして、路上を見て歩きながら。

なお、西澤泰彦著が紹介していた満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)の二つは未だに見つけ出せていない。

以下に私の見かけたマンホールの蓋の写真を掲げる。(記、2005年10月10日)

1.新京特別市の蓋 2.奉天市公署の蓋 3.奉天市公署の蓋
4.奉天市公署の蓋 5.満鉄のマークのある蓋 6.満鉄のマークのある蓋
7.満鉄のマークのある蓋 8.満鉄のマークのある蓋 9.〒マークのある蓋

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わが師への恩返し

山形 達也

(瀋陽薬科大学)

 10月1日から始まる国慶節の大型連休の初日、加藤先生からマンホールの蓋を見に行こうと誘われた。ちょうど今、日本から薬学の集中講義に来ておられる岸本先生は、中学2年生のとき瀋陽の北東数十キロメートルにある撫順市で終戦を迎えたという。岸本先生は、従って戦前の奉天と呼ばれたころの瀋陽もよく知っていて懐かしい土地である。

 大和ホテルと呼ばれた建物が今も重厚な雰囲気を漂わせて残っていて、今は「遼寧賓館」として使われていることを知っていても、一世を風靡した満鉄の名を付けたマンホールの蓋が今でも残っていることはご存じなく、歴史の研究家である加藤先生に誘われて、街の探訪に出かけるというのでそのお供をした。

 加藤先生は瀋陽薬科大学の日本語の教師であるが前身は高校の歴史の先生で、現代史、特に中国現代史の研究家である。すでに西安で2年、長春(戦前の新京)で2年過ごしていて著作も数多い。瀋陽でも授業時間以外は大抵街を歩いて史跡の実地見聞と史実の考証をしておられる。

 道路の下に埋設した下水、水道、ガス、電気、電話などの管に地上からアクセスするための穴が一般にマンホールと呼ばれている。開いたままでは危険だから鉄製の蓋があり。この表面に市の紋章など、この施設の責任者、管理者のマークが入っている。

 戦前の当時の奉天で一大勢力だった満州鉄道株式会社(満鉄)の紋章の刻まれたマンホールの蓋は、満鉄病院として最初に建てられ、満州医科大学を経て現在の中国医科大学の構内にいくつかが残っていることを加藤先生は見つけていて、数ヶ月前に街を案内された時に教えてもらった。

 今回の旅が始まる太原街は、当時は 春日通りと呼ばれていた。北端には満鉄総局の巨大なビルが右手にあり、奉天鉄道局がそれに続く。今は瀋陽鉄道当局が使っている宏大な建物である。今の太原北路、以前の春日通りを南に向けて歩いて行くうちに当時の銀座街のあたりで、右に曲がり左に曲がり、どこを歩いて いるのか分からなくなった時、その道の真ん中で加藤先生が足を地面にこすりつけて「ほら」とにっこりした。

 見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。

やがて住宅を取り壊している最中の一画に出て加藤先生の足取りが速くなった。つまり私たちに早く見せたい一心なのだ。「凄いのがあるんですよ、本には書いていないのに、私が見つけたのです。」と言って示されたのは、半分アスファルトに埋まっているが、中心にあるのは紛れもない日本の郵便マーク〒の入ったかなり大型の蓋である。

中央郵便局の歩道で、加藤正宏先生

 郵便マーク〒の両側には字があるようだがすり減っていて読めない。右側の字は、「電」に見えないこともない。詳細は分からないながら、埋もれてしまった史実が歴史の研究家に語りかけているのだ。このあたりは街中が汚くあたりはゴミだらけで、この蓋は果物の皮の残骸に囲まれながらも加藤先生に向けて燦然たる光を放っているようだ。

 そのあと太原北路に戻って南に向いて当時の中央郵便局の横を通っている時だった。先ほどから、私たちは道の表面をマンホールの蓋を求めて眺めて歩いていたが、道ばたの物売りが広げた布の横から覗く鉄の蓋を見ると、何と先ほどの郵便マーク「〒」が入っていて、しかもそれを挟んで右から「電話」と書いてあるではないか。新品みたいな綺麗な蓋である。私と妻は直ぐに先を歩いている加藤先生と岸本先生を呼び返した。加藤先生は大喜びである。物売りさんに少し動いて貰って早速写真を撮り、私たちはその姿を写真に納め、忽ち私たちは立ち止まった通行人の興味にとり囲まれてしまった。

 「郵便マーク〒は郵政で手紙ですね。電話も扱っていたのでしょうか?」と加藤先生。戦前から〒が郵便だけを表したかどうかは知らないが、戦前子供の頃、母方の祖父の家に行く時に通る柿の木坂郵便局は、玄関を入ると右手の奥に小さなボックスがあり、窓口で通話を申し込むと、中でつないでくれてそのボックスの中で電話で通話できる仕組みになっていた。戦前電話はどこのうちにもあるというものではなかった。もちろん目黒区平町の我が家にもなかった。電話のある誰かに用があって、母が柿の木坂郵便局まで出かけて電話をしたのを、お供だった幼い私が覚えているわけだ。母は実家の電話を使いたくない事情があったのだろう。祖父のうちでは広くて長い廊下の隅の壁に付いていたのを覚えている。

 つまり、戦前は、郵便局と電話局とは、少なくとも末端では一体のものだった。だから当時の奉天市でも郵便局が電話も扱っていて、「話〒電」と書いてあったのだろう。目の前は以前の中央郵便局だったところで、ここで太原北路は中山路(当時の浪速通り)と交差している。

 私たちの目で見つけたものが加藤先生の役に立って、私たちとしては「師への恩返し」が少しでも出来たと思って嬉しかった。嬉しさのあまり、「消火栓」という蓋では師である加藤先生とは別の説を立てるに至った。

左回りに読む?「消火栓」

下の埋設管には多くの種類があり、マンホールの蓋がその中身を表している。蓋を見て歩いているうちに、円盤である蓋の円周上に「消火栓」という字が来るように書かれた蓋を見つけた。円周上で考えると「消」から始まって字は左回りに読むことができる。同じ内容を表す蓋として、左書きの「消火栓」「消防」「LD」も見つかったがこれらは左書き(左から字が始まる)なので戦後のもの(つまり中国のもの)であることは明らかである。

 円周上の「消火栓」は蓋の中心に「水」と読める形があるのでこれを基準として見ると三字は三角形に配置されていることになる。上に「消」を持ってくると、下の基線に左から「火」「栓」となるから、これは左書きで戦後のものだというのが加藤先生の説である。

 しかし、戦前は右書きだからこのように円周上に書く時は左回りではないか。左回りで書くと三角の形では上に「消」が来て、下に「火」「栓」となるわけだ。私は左回りを採るが故にこの蓋は戦前のものだといい、加藤先生は戦後のものだという。読み方一つに掛かっている。

 さて、史実はどうなのだろう?

http://mypage.odn.ne.jp/home/tcyamagataに初出。(2005/10/04)

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寧波からの特別参加

石井 康男

(寧波工程学院外国語学院日本語科)

7年間お世話になった瀋陽から当地に異動して参りまして約2ヶ月が経過いたしました。やっと水に慣れたというところです。さすがに中国は広いというのが実感です。ここ寧波は緯度的には屋久島付近と思われますから、函館付近から一気に南下したとお考えください。気候的に違うのは当然のこと。

2005年7月2日

風俗も習慣も異なり、最も異なるのは言葉です。寧波語はどこか日本語のようなイントネーションがあり、街角で何気なく聞いていると「あれ?日本語かな?」と思うことが時々あります。しかし、土地の老人が話をしているのを聞くと全く異なる言語であり、単語の一片も分かるものがありません。

もちろん中国人の日本語教師も西安外国語学院大学院を卒業して私と同時期に着任された先生も同様に感じていると言われました。まして中国語が出来ない私にとって普通話なのか寧波語なのかを判断することが困難ですから、どちらにしてもお手上げです。

市街は綺麗で公園が到る所にあり、よく整備されておりゴミ箱の多さにも驚きを感じています。中国の経済発展都市の七番目(瀋陽は23番目)に位置しているそうですから、市政府がお金持ちなのだそうです。港湾都市ですから税関の収入という利点が生かされているのでしょう。

当地の人々は小柄でどこか日本人的な体系と容貌をしています。可愛い人が多いといわれていますが、美人・麗人は少ないと感じています。個人的な感想ですから美意識が異なるのかも知れませんが。

女性の話し方は、突き放したような強い感じです。買い物をしていても親切という感じではありません。例えば薬屋でサンプルを持っていって「これ有りますか?」と聞いても、「没有!」の一言で、同種の薬を紹介してくれることもなく知らん顔です。数店いきましたがどこも同様でした。瀋陽であれば必ず同種の薬を紹介してくれたのですが・・・。

当地では小売店でもほぼ定価販売が定着していて、大型家具(例:300元の水屋)を買っても、10元程度しか安くしてくれないのです。値下げ交渉をしてもなかなか応じません。だから大体のものはスーパーで買うことにしています。噂によると寧波人と温州人は金儲けの術に長けていて商売上手なのだそうです。一面バスなどに乗ると親切で白髪を見ると必ず席を譲ってくれます。公共心や道徳には関心が深いようです。看板や公共物の破損などは余り無く、道にゴミを捨てる人も少なく、地下道も総大理石で出来ているためかゴミなどは全くありません。

これも2ヶ月間の印象ですから正確かどうかも分かりません。

とりあえず生活面の印象をお送りしますが、続けて学校生活も送りたいと思っています。間に合えばお願いし、間に合わなければ次号で結構です。

現在中間試験の最中なので少し忙しくしています。

あしからずお許しください。

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「瀋陽への思い」                               

沢野 美由紀

(元瀋陽薬科大学)

6月18日朝、桃仙空港を飛び立つ飛行機の機内で、私は「またいつか絶対に会いに来るからね。ごめんね」と心の中で学生たちに何度も謝っていました。今日は4級試験の日、「とにかく頑張ってね、祈ってるからね」、そう思うだけで精一杯でした。

夫の東京帰任に伴い、7月半ばには帰国することになっていたものの、突然体に異常を感じたのは6月14日の朝でした。意を決して病院に行ったものの原因がわからず、病院で言われたのは「とにかく入院するように」ということだけ。症状は時間が経つにつれ重くなっていくのがわかり、韓国の方の利用が多いという別の病院に行くと、悪性の腫瘍に移行する病気の可能性もあると言われてしまいました。その病気を調べてみると、手術も一度では済まず、治療も複数年かかるとのこと。そのため、もう即刻帰国することを決意せざるを得ませんでした。しかし、帰国を決めたのは4級試験の前日で、帰国は試験当日。学生たちにさよならを言いたかったのですが、日本語の主任の先生から「学生が動揺しますから」と言われ、かないませんでした。

いつもお母さんのお供をしていた瑠璃ちゃんの近影

私が担当したクラスの学生は30人、みんなの顔が思い浮かびます。クラスのムードメーカーだったAくん、それまであまり勉強しなかった彼は、やみくもに4級の問題集とにらめっこしていたけれど、それが今日はどのくらい役立つだろうか。いつも元気あふれる顔をして目をキラキラさせているBさんは合格できるだろうけれど、いつもの調子を維持できるだろうか。最初の頃、授業についてこられなかったCくんは、後半本当に努力したけれど、それが実るだろうか。Dさんはしっかり勉強しているのにあがり症なのか、授業中に指名すると蚊の鳴くような声を出すけれど、今日は緊張していないだろうか。そして、ネットカフェに入り浸っていたEくんは、結局1年間でひらがなをやっと覚えた程度、4級も早々とあきらめている様子だったけれど、今日は彼も受験するんだろうか。教師として私はもっと彼に働きかけるべきではなかっただろうか・・・。隣のクラスではあるけれど、いつの頃からか、なぜか授業が終わるといつも私の教室に入って来ていて、ほとんど毎日昼食を一緒にしているFくんも含め、31人のことを考え出すときりがありません。学生たちとの、瀋陽との別れがこんなあっけないものになってしまうなんて・・・。

あれから3か月が経ちました。私の体の異常の原因は瀋陽で言われたほど重い病気のためではなく、今では通常の生活を送っています。けれど、体調は戻っても、ちゃんと別れの言葉を伝えていないせいもあるのでしょうか、今でも学生たちのことを考えない日はなく、まるで瀋陽に自分の心を半分置いてきてしまったような感じすらしています。いつか私は、この置いてきた心を取り戻しに瀋陽に行かなければなりません。その頃、学生たちは別れたときより大人になっているでしょう。日本語は上達しているでしょうか、それともあまり話せなくなっているでしょうか。いつか彼らに会える日を楽しみに、日々過ごそうと思います。薬学日語2班のみんなと1班のFくん、待っててね!

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『日本語クラブ』

本保 利征

(元日本総領事館員)

 皆様、こんにちは。

 私は、2001年春から2004年春まで、瀋陽の日本総領事館で文化を担当しておりました本保(ほんぼ)と申します。瀋陽の日本語教師会の皆様には大変お世話になりました。

 当時から比べると、日本語クラブの内容も一層充実し、立派なものになっています。

 今回、瀋陽を去ったにもかかわらず、投稿の打診をいただきましたので、喜んで投稿させていただきます。

(北海道恵庭市の渓谷の紅葉2005年10月)

 私の近況を述べさせていただくと、現在、北海道で仕事をしております。瀋陽へ行く前も、北海道で仕事をしておりましたので、元に戻ったことになります。皆様、あまりご存じでないかとおもいますが、北海道開発局という国の機関がありまして、そこで、農業関係の仕事を担当しております。イメージとしては、農林水産省の仕事と同様です。現在担当している仕事は、徳富(とっぷ)ダムの建設です。これは農業用水、水道用水の確保と洪水調整のためのコンクリートダム(高さ74.8m、長さ309m)で、昨年からコンクリートを打ち始めております。この他、ダムの付替道路の橋の建設(高さ50m、長さ322m)や、農業用送水管(直径2m)の工事もあります。ということで、文化、日本語教育とは全く縁のない仕事をしております。しかし、北海を訪れる中国の研修団との親睦会等には参加させてもらったりしており、その際には、下手な中国語でコミュニケーションを図ろうとするのですが、・・・。

 さて、話変わりまして、瀋陽の日本語教師会の活動は、中国国内に限らず、世界的に見ても活発で充実した内容だと思います。様々な制約のある中、ここまでの活動を続けることは大変です

が、一つ一つが成し遂げられた時の感動も大きいと思いますので、是非とも頑張っていただきたいと思います。

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近況(前田さんのメールから)

加藤様

ご案内有難うございます。お元気にお仕事などに精を出していらっしゃることと拝察いたします。瀋陽はもう涼しさをとおりこしているのでしょうか。こちらは10月になっても30℃を超える日が続きこれも地球温暖化の影響?という毎日です。帰国してはやひと月以上が経ちました。この間、栗原さんの中国語グループにいれてもらってシルクロードの旅でまた中国に舞い戻ったりもしました。

少し覚えかけた中国語、また習っていた胡弓など白紙の戻らないよう少し復習しています。そちらで覚えた肉味噌の面条をつくってみたりしています。中国味をつくるため、味料を買って帰ったのですが自作するのは難しいですね。

中国にいる間休会していたプール、山の会など再開して気ぜわしく過ごしております。付属地第二弾の現地探索、参加できず残念です。

お体に気をつけてお元気にご活躍ください。  前田 節子 (元東北育才外国語学校)

 

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