瀋陽日本人教師の会ホームページ

日本語クラブメニュー

日本語クラブ22号  目次

新会員の声
安部玲子

瀋陽奮闘記

安部玲子
叶わない夢 河面弥吉郎
テーマ寄稿文1 今なぜ中国で教師を?
私の恩師 森林久枝
楽しさいっぱいの教師の成れの果て 南本卓郎
私の「日本語教師」の原点 渡辺文江
日本語教師になった理由 金丸恵美
きっかけ 丸山羽衣
日本語教師になった原点 辻岡邦夫
私の原点〜釜山の趙先生〜 池本千恵
日本語教師へのあゆみ 中道恵津
いかにして日本語教師になったか 峰村洋
日本語教師生活を振り返って 井料衛
REXプログラムのこと、外国籍の生徒のこと、最後のごあいさつ 竹林和美
テーマ寄稿文2 学校で 街で 心温まる話
心温まる話 山形貞子
新人類と一緒に 山形達也
瀋陽で入院 渡辺京子
最近感じること 宇野浩司
有名な鼠 南本みどり
中国生活の楽しみ 長澤裕美
瀋陽日本人補習校での日々から 石井みどり
春は雪融け、そして... 高山敬子
「留用」 加藤正宏
自由寄稿文
日本へ帰るのが怖い!! 高山正義
中国に魅せられて 加藤文子
熱き心で過ぎた、如月の日々 中道秀毅
“そうです 山形貞子
我的トリノオリンピック 池本千恵
黄山行きツアーに参加して 井料衛
遼寧省の糧票や購貨券の図案から 加藤正宏
中国の歴史ドラマ その出会い 中道秀毅
問題の壺 中道恵津
瀋陽を去られた方の近況
どうして懲りずにまた日本語教師を続けるのか?(笑 斉藤明子

 

 

瀋陽奮闘記

安部 玲子 

(遼寧省実験中学)

初めまして。私は安部玲子と申します。2006年3月9日に福岡から参りました。現在、遼寧省実験中学で日本語を教えています。滞在は1年か、2年の予定です。来たばかりで分からないことだらけですので、いろいろ教えてください。

さて、今日は堅苦しい挨拶ではなく、私が瀋陽に来てから欠かさずつけている日記のある1ページを公開し、私の人となりを知っていただこうと思っています。皆さんが、瀋陽に来たばかりの時を回想しながら、照らし合わせて読んでいただけると幸いです。

2006年3月12日

昨日行なわれた私の歓迎会で、「明日丹東へ行きましょう」という話になった。

丹東とは、北朝鮮の隣に位置する町で、川一本で分けられている。1950年に始まった朝鮮戦争までは人々の行き来があり、橋も渡されていた。しかし、1953年まで続いた戦争中、中国が物資などの援助をしていたため、アメリカ軍の怒りを買い橋を空爆されたらしい。

現在は、新たな橋がすぐ横に架けられ、瀋陽の北朝鮮領事館でビザを取れば、北朝鮮にバスで渡り、観光できるらしい。ビザを取るために要する時間は、日本人なら1週間、中国人なら4日だという。

でも、もっとお手軽に北朝鮮に行きたいなら、丹東で遊覧船に乗る方法がある。遊覧船なら川の真ん中にある境界線を越えてもいいらしい。だから、北朝鮮の領土ぎりぎりまで行ってくれる。

以前、日本人女性が泳いで渡ったといわれる例の場所だが、この距離なら泳げないことはなさそうである。

船の中ではいろいろなおみやげを売っていた。私が買ったのは、北朝鮮の鏡だとか。1つは10元で、1つは18元と言われた。10元の鏡を買いたくて20元払うと、お釣りがないから、10元の鏡と18元の鏡を合わせて20元にしてくれと言われた。この国は本当に値段があってないようなものだと実感した一コマだった。

丹東は工業で有名だ。シルク、時計、万年筆etc。そして、海に近いことから、海鮮も。海鮮に舌鼓を打った。特に、生でいただく渡りガにの酢付けはたまらなかった。

ここでは、生まれて初の食べ物に出会った。蚕と赤犬である。頑張った・・・しかし、意外にも頑張る必要はなかった。おいしかったからだ。

海を見下ろしながら食事をしていると、鴨の群れが眼下に押し寄せてきた。「売国鴨」と呼ばれているらしい。「うらぎりもの」ならぬ、「うらぎり鴨」という意味だ。つまり、「えさは豊富な中国側で食べ、夜は住処である北朝鮮のとうもろこし畑に帰り、子どもも住処である北朝鮮側で生むので、中国側には何のメリットもないのだ」ということ。だけど、こんなにかわいい鴨が遊びに来てくれるだけでも十分にメリットだと私は思った。

北朝鮮の話に戻るが官僚の給与が6000W、それは中国元で60元の価値だそうだ。いかに北朝鮮が貧窮した国なのかが分かる。北朝鮮は、インターネットや衛星テレビなどで他国とコンタクトをとることを一切禁じていると聞いたが、丹東のどんどん開発されていく町を対岸に見ながら、何もない北朝鮮で暮らす一般市民はどんな気持ちなのだろう・・・複雑だ。指導者の違いは国の繁栄におおいに関わるのだと見せつけられた気がした。

クリックしてくださいしばしのお別れ
日本国内旅行

さらに、丹東には昔、万里の長城の始点を作ろうという計画があり、北京の長城とは繋がっていないが、独立して少しだけ残っている部分がある。それを見にいった。緻密な計算のもとに作られたのは一目瞭然であった。古い歴史を感じながら、一歩一歩歩いていると、誰かが走って追いかけてきた。右手には双眼鏡。何か言っている。「私の前を歩く人を指差し、あの人に渡せ」と言っているようである。何事か分からないまま「謝謝」といって受け取ると、後でお金を請求された。日本人の感覚で、渡されるもの全てを受け取ってはいけないのだ。気をつけよう・・・

瀋陽に戻る途中で、高速のサービスエリアのトイレに寄った。扉が無いと聞いていたが、ちゃんとあった。高さ120センチくらいのが・・・・これって意味が無いと思う。でも大事な部分だけ隠しているわけだから、やっぱりおおいに意味があるのか。しかし、それでも扉を閉めずにこちらを向いているおばちゃんがいる。私はどこを見たらいいのだろう?

瀋陽に戻ってくると、また一席設けられていた。今度は、餃子のお店である。ホストが席に付き、宴会が始まる。私は、この中国風乾杯の瞬間がたまらなく好きだ。

お祝いの言葉や、感謝の言葉や、労いの言葉を相手に面と向かって言う。照れることなく相手の目を見て言う。心の中でいくら思っていても、相手に届かなければ意味がないのだ。彼らにとって、この乾杯の音頭こそ、一番の酒の肴なのかもしれない。もしそうだとしたら、一緒にお酒を飲んでいる人たちがその日その時に集った意義は増すのではないだろうか。そんなことを考えながら、今日もまたおいしいお酒を飲んだ。終わり。

私にとって、中国は本当に魅力的な国です。それは、決していい面ばかりではありません。私はこの目で中国のできる限り多くの面を見て帰りたいと思っています。

皆様にお会いした際、私の知らない中国を先輩である皆様から聞けるのを楽しみにしています。

どうぞよろしくお願い致します。

目次に戻る

 

叶わない夢

河面 弥吉郎 

(東北大学)

海水パンツと小舟の質素な生活、昼は木陰で雲を眺め、夜は星空の下、小舟で無人島を巡り、南太平洋での余生。もうすぐ夢が現実になると心ときめいていた1994年9月中旬、「河面さんを中国へ招待したい。」と中国人に依頼されました。「一緒に中国観光をしましょう。無人島巡りは少し延期してもいいじゃありませんか。」と友人に宣言されました。ひと月くらいならいいかと、10月初旬には上海に上陸していました。軽い気持ちで来た中国なのにいつのまにか滞在10年以上になり、このたび瀋陽に来ました。無人島巡りの夢ははかなく消え去りそうですが、瀋陽でも今まで通り質素な生活、大陸の人達との相互理解、忘年交を指針とした生活を続けたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。

目次に戻る

 

私の恩師

森林 久枝     

(東北育才外国語学校)

私は大学時代に副専攻として日本語教育を学びましたが、大学に入るまでそもそも「日本語の先生」という仕事が存在することさえ知りませんでした。それが、大学受験のときに第一志望・第二志望にふられてしまい、滑り止めとして受けたはずの大学で運命の出会いをしてしまいました。ちなみに第一志望も第二志望も法学部だったので、もし合格していたら日本語教育には関心も持たないで、今とは全く違った人生を送っていたかもしれません。とにかく、昨今の若者の風潮にもれず「何となく入った大学」で、日本語を世界の一つの言語として客観的に観察することにおもしろさを感じ、きっとそれがこの仕事を始めた大きな要因になったのだと思います。人生の中にはやはりこういう運命的な出会いが確かに存在するもんだなあとつくづく思います。学生に進学指導をする時は、目的意識がなく自分の興味関心を探ることができない学生を厳しく指導するのですが、実は自分自身は「何となく大学に行った」学生の典型例だったんです。恥ずかしながら…。

私がいた大学では日本語教育が副専攻できるといっても、日本語教育の専門家は1人だけでした。あとは言語学・国語学が中心で日本語教育の現場に直に結びつくような実践的な授業はそれほど多くはありませんでした。この唯一の日本語教育の専門家が私の大学時代の恩師なのですが、彼はそのころ日本語の文末詞(「ね」「よ」「の」など)の音声研究にずいぶん熱意を燃やしていました。

大学一年生の時の彼の音声学の授業は、ずいぶん強烈な印象を私に与えました。もし彼の授業を受ける機会がなかったら、果たして日本語の先生という職業に興味を持っただろうかとさえ思われるほどです。コンピューターを使って人間の音声を分析するなんて、ピッチ(音声の高低)の違いが人間の感情表現と関係があるだなんて、とてもとても新鮮で深い感動を与えられました。

大学を卒業してもう5年になりますが、休暇で実家に戻った時は必ずその恩師に会うようにしています。中国での日本語教育の現状について興味を持って聞いてくれたり、「教材を作りなさい」とか「論文とまではいかなくても、今までやってきたことをまとめて発表しなさい」とか発破をかけてくれたりします。確かに、現状では「日本語学」あるいは「外国語教育学」などの学問的研究と「日本語教育の現場・教材」とがうまく結びつかないことが多いのです。だから現場の先生からもっと学問的研究にアプローチすべきだとか、アイデアを外に向かって発信していくべきだという意味なのだろうと思います。

「日本語の先生」という職業は教育者であると同時に日本語や言語習得・対照言語学などの研究者であるという側面が必ずついて回るものだと思います。ともすると日々の生活・日々の授業に埋没しそうになっている私のカンフル剤となってくれるのが、大学時代の恩師です。

目次に戻る

 

楽しさいっぱいの教師の成れの果て

南本 卓郎 

(瀋陽薬科大学)

12月末の帰国前日、12時の授業終了後、我がクラスの男性10人がやってきて、「先生、今晩焼肉を食べに行きましょう。」と言った。私は翌日朝6時過ぎに出発しなければならないので夜は荷造りがあると言ったら、「では、今から行きましょう。」ということになった。いかにも中国らしいいきなりの出来事であった。私が授業を予定していても大学から急に学生を雪かきに狩り出されて授業が成立しなかったこともあり、前もって計画的に物を運ぶと言うことはあまり無いようである。

私も荷造りが気になってはいたが、飲むのが嫌いなほうではないし、せっかくの彼らの申し出を断るのも申し訳なく思って「明日は明日の風が吹く」とばかりに焼肉屋に直行した。そして勘定の段になると今日は彼たちのオゴリだと言う。「すねかじり」と言う言葉を教えて払おうとしたが、どうしても受け取らないので、次回にお返しすることにして、その場は引き下がらざるを得なかった。彼達のお礼のつもりであったのだろう。お陰で、大変楽しい真昼の忘年会となった。その夜は明け方までかかって荷物の整理をしたが、昼間の一杯機嫌の余韻が冷めなくて、ちっとも苦にならなかった。

帰国前に新学期の開始時期を八方手を尽くして調べたが、誰も知らなかった。昨年、新学期は2月21日からと公式に伝えられたので、ゆとりを持って16日に帰ってきたら、1週間遅れの28日からの始業だったことから予測して、今年は2月23日に日本から瀋陽へ帰ってきた。

ところが、今年は授業はすでに20日から始まっていた。荷物の片付けは後回しにして、翌24日から授業を始めたが、その朝、宿舎の玄関に屈強の男性(本年受け持ちの学生は相撲部屋の新弟子検査に合格しそうな猛者ぞろいである)10人がずらりと並び、手を取り足を取らんばかりに私を教室まで案内してくれた。後期から教室が変わったのでその案内と、道路が凍結しているので転んではいけないという親心?からだろうが感激した。

クリックしてください雪かき中の学生

妻の場合には、雨が降ると学生が部屋まで傘を持って迎えに来るし、荷物が多いと授業終了後荷物を運んできてくれることが度々であるが、私の場合、それは昨年まではほとんど無かった。私が男性であるからか、学生が1年生であり、妻の担当している3年生と比べて2年間の社会経験の差が出るというものか分からないが・・・。ところが、今日(3月3日)ひな祭りの人形を見せるために大きな荷物を教室へ持っていったところ、新弟子風学生二人が寄ってきて大事そうに抱えてくれた。やっと気が利くようになったかと、その成長が嬉しかった。

また、昨年は途中から授業に出てこなくなった学生がいたが、本年は半年過ぎても、まだ全員授業をサボらないで出てきている。この傾向は妻が教えている3年生も同じだそうだ。

以上、いずれもごく最近の出来事であったが、中国で教鞭をとっている者ならではの体験であった。

私は「なぜ教員になったか」と聞かれたら、即座に「子供が好きだから」と答えるであろう。だから教員になったのであるが、30数年の教職生活で実際に教壇へ立ったのは僅か16年である。他は行政に携わり、そのまま管理職に就いたので直接生徒に指導する機会は少なかった。定年後、再び教壇へ立つ機会があるという情報を得て、早速応募した。そして、2001年から1年間、長春外国語学校、その後2年間、日中技能者交流センターの研修所で中国人研修生に日本語を教え、縁あってこうして 瀋陽へやってきた。ちなみに、瀋陽は  戦時中満鉄勤務の父親が暮らしたところである。現役時代に生徒たちに十分接することができなかった空白を取り戻すべく、今楽しい第二の人生を送っている。とにかく中国大好き病に罹ってしまった。生徒を教えることの少なかった教師の、成れの果ての生活が私の人生の中で一番充実し輝いているのである。

目次に戻る

 

私の「日本語教師」の原点

渡辺 文江 

(遼寧大學外国語学院)

2006年2月26日(日曜日)

昼下がり 快晴 無風 零下10度。

二日続きの雪が止み、キャンパスに積もった新雪が太陽に輝いて本当に美しい。 

学生達が冬休みを終えて帰ってきた。又、にぎやかな学園生活が始まる。そんな光景の中で、私は午後の散歩をしながら、長い来し方をふと振り返って見た。私は、今日の今、此処に立っている原点はどこにあるのかと。私は、中国遼寧省遼陽市の大学キャンパスを歩いている。

あなたの日本語教師の原点は?と聞かれて次々に戻って行くと、50年前の高校生時代に行き着いた。私は漢文と世界史の授業が好きだった。漢文は論語から始まって、史記、唐詩、そして長恨歌などたくさん習った。中国の悠久の歴史、広大な自然と四季が心に焼きついた。そして、世界史はすばらしい先生に教えられ、中国史も近代史まできちんと学習した。新中国の息吹も知った。1950年代のことだから、当時としては、すごい教師に習ったことになる。

大學では、西洋の文学を専攻したが、中国語の集中講義を外大の先生が来られてされると知ると、興味津々で参加した。1960年頃のことである。王先生は優秀な先生で4週間の集中講義の最終は魯迅の作品集の講読だったことを今も覚えている。国交のない時代なので、中国語に興味を持っていた学生は少なく、漢文か東洋史専攻生ぐらいであった。

卒業後、学校の先生になりたかった私は、国語の教員免許も取って高校の国語教師になった。

時は過ぎて、1985年初めて中国旅行に行った。勿論、歴史の旅である。三大石窟と敦煌シルクロードの旅が主であったが、この見聞が私を中国好きにさせた原点かなと今になって思う。この時、都市から農村、ほぼ全土を周遊したので、中国民衆の皆様にお会いしたような印象を受けた。暖かく、おおらか、のんびり、包容力のある国民だなと感じた。

これが原点になって、1988年、岡山県の派遣教師となって遼寧大學へ赴任したのである。2年の予定が3年となり、大切にされ、楽しく専門家生活を送らせていただいた。当時の学生達と今も交流が続いている。

2001年、日本で定年退職した私は、再び、遼寧大學に戻って来た。それからもう5年目である。遼寧大學遼陽校区で元気に教壇に立っている。何と幸せなことか、感謝、感謝である。教師を天職とする私が、今、ここにいることは不思議ではない。学ぶ学生がいるところへはどこへでも行って、持てる力を出したいと思うからである。

日本人の私が、即、よい日本語教師かどうか疑問もある。現在のように養成機関も検定試験もない時代に、日本のことを丸ごと教える大胆さをやったことを振り返ると、今でも冷や汗が出る。一生懸命学習しながら教えたのみで、結果は神のみぞ知るということにして置きたい。

最近の私は、中国人が作った優秀な日本語教科書に導かれつつ、若い学生達に正しく美しい日本語を伝えるようにしている。そして、老若の差や国の違い、思想信条の違いを越えて、人情にふれ、人生論、生きがい論などを語るようにしている。

以上が、私が現在、中国遼寧大學で「日本語教師」をしている来歴である。

日本語教師に「 」がついているのは、今も困難、難題を抱えながら四苦八苦していることを表現したいと思ったからである。

(2006・2・26)

目次に戻る

 

「日本語教師になった理由」

金丸 恵美 

(瀋陽師範大学)

日本語の虜になったから

大学1年の時、必修科目の国語学の授業で、今まで何気なく使っていた日本語の「ん」の発音が4種類あることを初めて知って、度肝を抜かれました。日本語を客観的に分析することによって、 まるで外国語を学ぶような新しい発見が次々と生まれ、それは自然と私の研究材料になっていきました。(研究材料にされた、周りの日本人の友達、留学生の友達は迷惑がってたけど、、、)

それで2年の時、専攻に国語学、副専攻に日本語教育を選びました。

学生の真剣な眼差しに心を打たれたから

はじめは、国語の教師になるつもりだったので、もちろん教育実習に行きました。母校の中学校に赴いたのですが、運悪く学級崩壊のクラスを任されてしまいました。如何に大学で教育課程を学んでも、教育現場では机上の空論でしかならず、やはり経験が重要だと痛感させられました。頭の中で夢描いてきた理想とのギャップに戸惑い、私はだんだん教員になる自信を失っていきました。

かわいい帽子でしょ!

そんな折、夏休みを利用して、ベトナムの日本語教育を見学する機会に恵まれました。ハノイで日本語を勉強する彼らにとってわたしは、先生の次に2番目に会う日本人だったらしく、大歓声の中、教室に迎え入れられました。(「おしん」をイメージしていた彼らは、茶髪でジーンズ姿のわたしを見て目を丸くしていたけど)そして、私の日本語を一言も聞き漏らすまいと一生懸命机にかじりついて耳を傾けているベトナム人の学生の態度に、強い感銘を受けました。私はここで彼らに必要とされているのだという思いと、いつのまにか日本語教師になりたいという気持ちで私の心は満たされていました。

自分が教えた成果が学生の中で手にとるように分かるから。

今まで教えてきた学生は、中国人、韓国人、タイ人、バングラディッシュ人、アメリカ人、オーストラリア人、スリランカ人など、さまざまな国の多種多様な母語を持っていました。そのため、初級クラスを受け持つと、まず彼らとコミュニケーションをとるのが大変です。もちろん、学生同士も意思疎通ができない状況です。しかし「あいうえお」から始めて、だんだん日本語を習得してくると、わたしと学生との間にあった壁が取り除かれるのです。彼らは日本語を介して、自分の国の習慣や文化等、わたしの知らなかった世界を教えてくれました。学生自身もインフォメーションを通じて、授業内容が無限に膨らみ、それを楽しんでいるようでした。

わたしはこれこそが理想の教室だと思っています。ひとりひとりが違う価値観をぶつけ合ってこそ、広い視野が持てるようになると考えています。それが真の国際交流だと信じています。

以上3つの理由により、何度も辞めようと思ったけど、やっぱり辞められないのが日本語教師という職業です。(「やめられない〜、とまれない〜、カルビーかっぱえびせん!」古いかな?)毎日愚痴をこぼしながらも、明日教室で出会う学生の姿を思い浮かべ、学生の発する日本語から新しい発見が生まれるのを夢見ながら、今日も楽しんで教案を書いています!

目次に戻る

 

「きっかけ」

丸山 羽衣

(瀋陽大学)

日本語教師になった理由はいくつかある…ような気がする。元々私は大学では法律を専攻していて、日本語とは全くかけ離れていた。

大学に進学してから今に至るまで、私は時間が出来ると母校の高校に遊びに行く。というか、近況報告だ。私立ということもあって、恩師は(沢山いるけど)定年を迎えるまでいつも笑顔で迎えてくれる。そして、学生時代には話すことができなかったことなどについて話せるようになったのが何より嬉しくもある。

一応、教職課程を履修していたので、教育実習ももちろん母校だった。ある日、実習が上手くいかなくなり、ふと何気なく先生に聞いてみた。

「ねぇ先生、何で先生になったの?生徒からバカにされることだって沢山あるし、授業も聞いてくれないし。まぁ私も高校生の時そうだったけどさ。教師やってて何か良いことあるの?辛いことばっかりじゃない?」(敬語すら使えない失礼な私;)

「まぁね、そりゃ良いことなんてちょっとしかないさ。」

「良いことって何?」

「それは、こうやって卒業してからも顔を見せてくれることだよ。」

「何それ?しかも顔見せに来る人なんてあんまりいないじゃん。ささやかな幸せだね。」

「お前ね、だから、そのささやかな喜びのために教師やってるんだよ。そのわずかな喜びを味わうためにさぁ。10あるうち辛いことが9あったとしても、1が嬉しいことで、あぁ教師やってて良かったなーって思うわけだ。」

「たった1のために?」

「だからそのたった1が大きいんだって。お前も教師になったら分かるよ。」

その言葉を聞いて、何かほぅっと心が温かくなった気がした。教師って案外良い仕事なのかもしれないと、思った。

しかし、現実は厳しく教員の空きがなかった。それと同時に高校教師をやることに疑問を感じていた。ただ高校に来ていますという学生たちに教えること、そしてこの私たちのときよりも遥かに威圧感?のある現代高校生を相手に教える自信が全くなかった。

大学を卒業し、写真を習いに行っていた頃、台湾人の女の子?人?と出会った。彼女は美大生で、日本語も堪能だった。その友人と一緒に帰ったとき、突然聞かれた。

「ね、あの、夜よく眠れないときってあるでしょ。あれって何て言うの?『失眠(しつみん)』?」

「ああ。う〜んとね、『不眠』って言うんだよ。字はこうで…。」

「あー、『不眠』ね。『失眠』かと思ってたよ。」

……『失眠』。確かに、眠れないということは眠りというものを失っている。『失眠』、実は日本語にあるのでは?即座に辞書を引いた。私の辞書にはない。ならば、と思い本屋へ直行し調べた。しかし何を調べても『失眠』は存在しなかった。未だに、ありそうなのに、あってもいいのにと、時々思ってしまう。それくらい興味の湧く言葉だった。

また三社祭に出かけたとき、浅草のあの下町言葉で話しかけられた。すると、友人はまた「ねぇ、今何て言ったの?」と聞いてきた。そのとき、日本語が上手でもやっぱり方言は難しいんだと思った。私は簡単に説明し、友人も納得した。が、疑問がふつふつと湧き上がって来た。『もっと分かりやすい説明があったのではないのか?もっと簡単な言葉で説明できたのでは?』

以来、外国人の友人たちに会う度にそういうような気持ちに陥った。みんなは私の質問に簡潔に答えてくれる。それなのに私は上手く説明できていない。自信も無い。これじゃダメだ。日本人なのに、日本語を分かってないなんて、日本を知らないなんて。

こうして私は日本語教師を目指したのである。そして今、こうして日本語教師としてここにいる。今でも上手く説明できるわけではないが、少しは自信を持って教えることができるようになってきた。日本の学生とは違い?勉強熱心な学生たち。私は毎日頭を悩ませながらもやりがいを改めて感じている。そしてまた、休みには恩師を訪ね報告したいものだ。

「先生、私、教師になって本当に良かったよ。」と。

目次に戻る

 

日本語教師になった原点

辻岡 邦夫 

(東北育才外国語学校)

1.私と語学 

私は40年近く日本の大学で数学を教えていました。語学が好きで、若いときは英語以外にドイツ語、フランス語、ロシヤ語はある程度のレベルまで達していました。ロシヤ語は独学ですが、大学の助手時代にロシヤ語の数学書を翻訳しました。スペイン語、イタリヤ語も少しはやりました。英語、ドイツ語の他は殆ど独学でNHKの語学放送を聴いて勉強しました。ドイツ語、フランス語は、高校時代から独学し、更に大学に入ってから授業を受けています。50歳を過ぎたころ、中国語、韓国語を同時に勉強し始めました。語学は数学と似たところがあって、私にとっては、数学の勉強と同様に楽しく勉強できますが、数学の研究と直接関係が有りません。もちろん英語は別で、学生の時から、論文を読んだり書いたりするのはすべて英語です。せっかくの勉強を活かそうと思い、中国、韓国の数学者と交流することを考え、数学の論文を中国語、韓国語で書き、講演することを目標にしました。

1999年、学術振興会から援助を受け、韓国の釜山大学に10ヶ月滞在し、セミナーで毎週韓国語による講演をし、10ヶ月の講演の結果を韓国語の講義録にまとめました。2001年には台湾のいくつかの大学で、数学の講演を英語でしたほか、日本の伝統数学の和算について、中国語で講演しました。定年後は中国か韓国で数学を教える仕事に就こうと考えるようになりました。台湾、韓国の友人に聞きましたが、仕事はないだろうといわれました。中国の友人に聞いたら、探してみたらと言われました。

2.定年退職

 2003年大学を退職しました。この年の秋から、大連理工大学の日本語強化クラスで、日本語で数学を教える仕事を始めました。授業は週1回90分しかなく、数学の勉強をしたり、毎週京劇を見に行ったり充実していました。この期間に長春の東北師範大学、ハルピンのハルピン師範大学で中国語で数学の講演をし、数学者の友人も出来ました。半年でここの仕事は終わり、日本語教師の仕事ならあるが、数学の仕事はないと言われました。このときは、まだ日本語教師は考えていませんでした。2004年春、私の弟子が福建省のアモイで数学の仕事を探してくれ、福建省集美大学に行きました。ここで、わたしは、数学科の若手教授に専門の数学を中国語で教えました。中国語で数学の講義をするという私の夢が実現しました。しかし、ここの仕事も半年で終わりました。大学院新設を申請中で、実現すれば院生の論文指導をする予定でしたが、不発に終わり、数学を教える仕事がなくなりました。ここにいる間に天津の南開大学、広州のスワトウ大学、中山大学で講演し、昔の知り合いに会いました。

3.日本語教師 

集美大学で数学を教えている時、ここの日本語科の日本語コーナーに参加し、ただ一人の日本語教師と知己を得、学生たちとも親しくなりました。この日本語教師が一身上の理由で帰国せねばならず、自然に私が教えることになりました。日本語教師の経験もなく、前任者の授業を参観したり、本を読んだりして、勉強して数学教師から一転、日本語教師になりました。やって見て、私のこれまでの語学遍歴がここに実を結んだようにも思えます。学生との交流も新鮮で楽しかったです。ここで日本語教師として1年働きました。日本語科の方針で日本語教育の専門家が新たに採用され、私の仕事はなくなりました。1,2年90人の学生たちは何らかの形でアモイの周辺に私がいることを望みました。中国人の若い日本語教師の尽力で福建省のいくつかの大学と交渉しましたが、日本語教師の専門家でないこと、年齢の点などで、旨く行きませんでした。最後に育才外国語学校で教師を募集していることを知り、採用され現在に至っています。ここでは、日本語教師としての採用のはずでしたが、数学を日本語で教えてもらえないかと請われ、前学期は日本語と会話、今学期は数学のみを教えることになりました。中国滞在3年目ですが、結局最初から日本語、数学の間を行きつ戻りつしました。日本語教師の仕事も数学教師も楽しいです。もちろん現在の日本語で数学を教えるという仕事も楽しく、私のこれまでの集大成といえないこともありません。

目次に戻る

 

私の原点 〜釜山の趙先生〜

池本 千恵 

(和亜久外国語培訓中心)

ここ数年、日本では“韓流ブーム”と言われている。テレビをつければ韓国のドラマ、雑誌を開けば“韓流スター”。しかし、20年前、こんな状況になるなんて思ってもいなかった。

斉藤明子撮影
釜山・龍頭山公園のタワー

私が中学1年生の時のこと。ある日、担任の先生が「誰か韓国の人と文通してくれる人はいないか。」と言った。私達の学校を訪問された視察団の中の1人の先生が日本語を勉強していて、日本語で文通してくれる相手を探しているというのだ。クラスの中では恥ずかしくて手を挙げることができなかったが、後で担任の先生に申し出て、私は手紙を書くことにした。

どうしてその時、手紙を書いてみようと思ったのか、今となっては分からない。たぶんその時も大した考えはなく、何となく面白そうという好奇心からだったと思う。

最初の手紙には、まず相手がどんな人だか分からなかったので、「男の人ですか、女の人ですか」「趣味は何ですか」など、そんな他愛もないことを書いたような気がする。

しばらく経って届いた返事。中に入っていた写真には1人の真面目そうなおじさんが写っていた。何だか思っていたより年上だったので、中学生の私にはちょっとショックだったが、外国から届く手紙がうれしくて、その後も文通は続いた。

私の文通相手、趙先生は釜山の高校で日本語を教えていらっしゃった。確か、山登りが好きで、大変博学な方だった。会ったことも話したこともなかったが、先生の真面目な人柄は手紙からも伝わってきた。韓国のカレンダーやお菓子の本等も送ってくださった。

そんな交流が数年続いた後、私に韓国へ行くチャンスがやってきた。高校入学のお祝いにと両親が韓国旅行を許可してくれたのだ。当時、旅行社に勤めていた従姉と2人、初めての海外へ。

釜山は福岡から見れば、海を挟んだ“お隣りさん”。飛行機なら、1時間もかからない。海に面した港町の雰囲気もどこか親しみを覚える。しかし、そこはやはり“外国”。韓国を初めて訪れた人なら、誰でも感じるであろうハングル文字の洪水に、私も異国にいることを実感した。「この文字が全部読めたら、面白いだろうなあ」と、高校生の私は単純にそう思った。

それから、私の韓国語の勉強が始まった。早速、福岡で一番大きい本屋へ韓国語のテキストを探しに行った。外国語書籍のコーナーをぐるぐる回って見つけたのは、本棚の隅っこに並べてあった3冊の本。1つは韓国語の専門的な本でとても分厚く、高校生に理解できるような物ではなかった。私は一番読みやすそうなA5版の本とテープを買い、独学で字を覚えた。(余談だが、私の韓国語はその当時から全く進歩していない。ただ、ここ瀋陽で、朝鮮族の人たちと話したり、ハングルの看板を読んだりする程度にはそこそこ役立っているので、何が幸いするか分からない。)

その当時は、韓国語を勉強してると人に言えば、「どうして韓国語なんか勉強するの?」「韓国って、どこにあるの?」とみんな不思議がっていた。しかし、私はどうしてみんながアメリカ以外の国に興味を持たないのか、その方が不思議だった。

私が何となく日本語教師という仕事を意識し始めたのはこのころだと思う。日本語教育能力試験が始まったというニュースを聞いたのも確か同じ頃だった。

人生には「もし、あの時〜だったら」というような分岐点があると思うが、私の場合も、もし、あの時、趙先生と出会わなかったら、きっと今の自分はいないような気がする。他の国、とりわけアジアに目を向けることもなかったかもしれないし、外国の人たちと交流する機会もなかったかもしれないし、ましてや中国に住むなんてこともなかっただろう。

残念ながら、私が日本語教師になってから、趙先生とは連絡が取れていない。先生のことだから、きっとどこかで忙しく活躍されていると思うが、最近になって、先生と話してみたいなあと思うことがよくある。

世界への扉を開いてくださった趙先生。先生の温厚な人柄に触れたからこそ、私は韓国に親しみを持った。何事も第一印象は大事だ。私もここ瀋陽で、学生にとって初めて出会う日本人かもしれない。私も趙先生のように学生の“扉”を開くことができるだろうか。先生の顔を思い出しながら、ふとそんなことを思った。

目次に戻る

 


日本語教師へのあゆみ

中道 恵津 

(瀋陽師範大学)

中国東北地方の中心で、愛は叫ばないが日本語を教えたりしている自分のことを、以前私の人生設計の中で一度だって想像したことがあっただろうか。

中国で日本語教師になろうなどと考えたのは、中国に来るわずか1年半ぐらい前に過ぎない。つまり中国の学校に元教師の経験者を派遣するプログラムがあることを知ったときだ。 

4年生とおにぎり講習会で

じゃ、なぜ日本語教師になったの、と問われるとちょっと困る。こういう教師を「デモシカ先生」というのかもしれないなあとひそかに自嘲したりしてみる。「日本語教師になりたい!」と純粋に日本語教育に意欲を沸かしてでなく、中国に来る手段として「(日本語の)先生にデモなるか」、大学を卒業後34年間ずっと社会科の教師をしてきた人間として中国でできることはやはり「先生にシカなれない」というわけだからだ。恥ずかしながらこんな動機でスタートした私の中国暮らしであるから、純粋に日本語教師を目指してこられた方から見れば実に邪道だと叱られそうだ。

学生時代から中国に関心を持ちはじめた。今とは比べ物にならない粗末な狭い下宿で、夜、雑音だらけの日本向け北京放送を短波で聴き、クイズやお便りコーナーに応じて何度かはがきを出して中国の切手や「中国画報」「人民中国」などの雑誌のプレゼントをもらうのが楽しみだった。

まだ日中の国交がない60年安保の翌年ごろのことで、日本の政治に深い失望感をいだいていた若者にとって、アナウンサーの伝える明るい希望に満ちた新生社会主義中国建設の様子は興味深く、魅力的だった。

大学4年生のとき東洋史の先生のお誘いで、先生が事務局長をしている地元の日中友好協会の会員になった。ついで大学に日中友好協会支部学生班を立ち上げた。

クリックしてください
学生の苦心の作−おにぎり

卒業後、ふるさとの地で教師になると同時に、戦前の中国で布教活動をしていたキリスト教会の牧師さんと日中友好協会沼津支部を再建し、その事務局員としての日常的な仕事以外に、“餃子を食べる会”や“中国物産展”、映画「紅岩」の上演運動などの企画運営に携わった。会員の中には年齢も職業もさまざまな人たちがいて私の世界は広がった。

ハイキングや海水浴など青年部のレクリエーション活動も独自に開始し、忙しいけれども楽しく充実した毎日だった。このとき事務局長だった人が夫となり、生涯の同志になった。

沼津の養殖業を視察に来る広東省の友好使節団の歓迎行事の時のことだ。バスを貸し切ってやってきた彼らが出迎えの私たちに出会ったとき、手に手に赤い毛沢東語録をかざしていて、彼らの土産が毛沢東の顔のバッジだったことは強く印象に残っている。

そのころ中国では文化大革命の嵐が吹き始めていたのを知ったのはこの後のことだった。個人崇拝を外国人にまで押し付ける彼らに私はだんだん違和感を持つようになった。

中国の政変の影響を受け、日中友好協会は組織としても分裂、この混乱の中で私は嫌気がさして沼津の活動から離れた。私自身、新米先生として仕事に精一杯だった上に、結婚、出産と立て続けの状況変化の中で活動の余裕を失ったのも大きい理由だ。こうして日中友好運動から離れて長い時間が経過した。

その後“竹のカーテン”の向こうからの情報も少しずつ増え、国交も回復した。そして私はあの北京放送が、“冷戦”のさなかの中国の、外に向けてのプロパガンダの道具であったこと、あの美しい声のアナウンサーが伝えてくる生き生きと新国家建設に邁進する中国の姿はかなり脚色されたものであったことを知った。  

実際の中国は、新国家に対する人民の期待にもかかわらず、政治は右に左に揺れてそのたびに多くの有能な人物が失脚し、数知れない人民が飢えから命を落とし、苦難の道を歩んできたことも知った。

そうではあったけれど、私の中国への関心が薄れたわけではない。現実の政治上の複雑な様相の向こうに横たわる長い歴史に裏付けられた中国はやはり魅力に満ちた存在だった。

近代化の遅れから先進諸国の餌食にされていた状況、共産党の誕生、国民党との内戦から長征、西安事件などを経て国共合作に成功し、粘り強く抗日戦争を戦う中国、そして社会主義中国の建国まで私の興味を惹かないものはない。

40歳も半ばを過ぎた頃、偶然のきっかけで日中友好協会主催の中国語講座に参加することになった。中国とのご縁の復活である。

学校の仕事は相変わらず激務であったが、子育てに手がかからなくなってきたという個人的事情もあった。

毎週土曜日の夜の中国語講座は、仕事以外の息抜きの場であり、教える立場から教わる立場への転換も楽しく、何の義務も強制もない中で学ぶってこんなに面白いことだったのだと思った。自分自身長く先生稼業をしていながら、いまさらながらのこんな体験にわくわくしていた。

予習も復習もままならない毎日だから、講座のある日は台所の調理台の脇にテキストを置いて少しずつ暗記しながら夕食の支度をした。

中国からの留学生が講師を務めてくれた。文化大革命の時代に少女であった彼女たちは、一人は内モンゴルの農村に、もう一人は遥か離れたタイの国境に近いゴム園に下放されて、数年にわたるつらい労働経験を持つ。そして彼女たちは日本人のように人の心の機微を知る魅力的な人たちだった。

趣味を同じくする年齢も経歴も職業も違う受講生たちとの交流も文句なしに楽しかった。そして私の心にはひそかに、将来退職したらきっと中国に行って正式に中国語を学ぼう、という夢が芽生えていた。

主として退職後の先生を、その教師としての経験を生かしてもらい、中国の若者のために日本語を教える教師として派遣する日中技能者交流センターという組織を知ったとき、中国に行くのにこういう方法もあったのだと強く心が動いた。給料をもらいながら中国で暮らし、中国語をマスターするなんていいじゃないの!これまで教師として生きてきた私が自信を持ってできることは「先生」しかないのだし、精神的にも体力的にも少しでも活力の残っているうちに中国に行こう。

こうして退職年齢より4年早く職を辞し、中国にやってきたのが1999年の8月ことだった。最初の赴任先は山東省青島の私立の大学だった。

そこでの3年間は、はじめての中国生活ということもあってすべてのことが興味深く、週末には精力的に出歩いた。学校の北側には落花生畑が広がっていて、裏手の石切り場で働くおじさんと親しくなった。彼の家の中庭で、家族の皆さんとお茶をいただきながら、茹でたての落花生を食べたのも懐かしい思い出だ。

青島は都会でありながら手近に海あり山あり、また田舎も温泉も手の届くところにあり、四季折々に楽しめるところだった。私立の大学の厳しい規律の中で頑張るたくさんの学生たちとの交流は生活の根幹を成すもので、今に至るまでひとりひとり忘れがたく、彼らのために私はすべての時間をなげうって尽くしたといってもいい。就職の世話までしたし、面接には付き添っても行った。

縁あって瀋陽師範大学に職場を移すことになったとき、大学も是非にと引き止めてくれたし、「瀋陽へなんか行くものじゃないですよ。あそこはものすごく寒いから、先生病気になって早死にしちゃうよ。」などと冗談言いながらも惜しんでくれた親しい企業人もあったりしてずいぶん迷った。でも、私は新しいところで新しい経験をしたかった。

ところで、夢かなって中国へ来ることができはしたが、中国に来さえすれば中国語は覚えられるという私のもくろみは大きく外れた。私は日本語を話すことを期待されている日本語教師なのだった。日本語科の学生たちは当然のことながら日本人先生の私とは日本語で話したいのだ。出発前にこんな簡単なことにも思い至らなかった私は、中国に行けることの喜びでウキウキワクワクと研修を受け、支度をしたのだった。

とはいえ、少しでも学生たちのためにいい教育をしたいという長年培った教師根性は恐ろしい。私は一所懸命準備をして毎度の授業に備え、日本語教師としての実践経験を積み重ねてきた。そして今、ほかの国ではなくて中国の若者たちに日本語を教えることの意義は、近い国なのに政治的にはまだギクシャクしている両国であるからこそ、単に彼らの語学の能力を高める以上のものがあることを肌で感じている。日本語を学び、日本の文化を理解し、日本人とふれあった学生たちは、中国人も日本人も同じ人として、誰もが平和を愛し、幸せな生活を望み、喜び悲しみの感情も同じなんだという当たり前のことを理屈でなく理解していく。そういう彼らの存在はやがて日中両国の関係改善にきっといい働きをしてくれるだろうと確信する。

中国語のレベルは相変わらず買い物をする程度の域を出ないが、私の中国での収穫はそれを補って余りある。

こうして私の中国での暮らしは7月が来ると通算7年になる。思えば遠くへ来たもんだ♪!

(2006.3.5) 

目次に戻る

 

いかにして日本語教師になったか

峰村 洋 

(瀋陽薬科大学)

「縁は異なもの味なもの」とは、人と人との縁について、とりわけ男女間の縁について言われるようであるが、小生が今までの人生で出合った様様な出来事も、全く異な縁、味な縁である。

ここ数年に限って言えば、自分が中国の大学にまで来て、曲がりなりにも「日本語教師」なる職を以って教壇に立つなどといった大それたことは、ほんの数年前まで考えもしなかったことだ。

「いかにして日本語教師になったか」という題目を編集委員長の中道(なかみち)女史からいただいてはみたが、確固たる信念もなく、正にちょっとした「縁」で「日本語教師」になっただけの輩にしてみると、胸を張って筆を進めることもままならず、原稿の締め切りが疾うに過ぎてから出すことになった。係りの先生方には、下手な前置きは却って迷惑千万な話しであろう。実際対不起!

中国語については、長野で国語教師をしていた時からかじり始めていたが、万年NHK「入門編」の講座を繰り返すだけで、進歩はなかった。もっとも未だに進歩は無いが。

では、何ゆえに中国語に首を突っこんだか。それは、仕事がら漢字そのものへの興味や憧憬といったようなものを、些かではあるが持っていた、ということが一つ。

今の私

もう一つは、漢詩を教える段になって、「押韻」のところである種の行き詰まりを感じていたことだ。漢詩を声に出して読んでみると、その流暢な音調に心惹かれるが、もともとは中国の詩人が母語の中国音で詠んだものである。それを日本人が勝手に、ある特別な才能を駆使して、日本語の文語でもって漢文訓読したに過ぎない。そして、「二句目と四句目の句末に韻を踏んでいますね、だからこの詩は音の響きが美しくてすばらしいのです」などともっともらしく講釈してみても意味の無いことに、少なからずジレンマがあったわけである。

もちろん、中国音といっても、現代中国語の音と、作詩された例えば唐の時代のそれとは、長い時間の隔たりを考えてみても随分違うのは当然のことである。しかし、現代中国語の音で昔の漢詩を詠むのは無意味かと言うとそうではなく、日本語に訳読したものを声に出して読んで陶酔しているのとでは、その比ではない。

退職したら一年間くらい中国へ行って語学をやれば少しは中国語もましになるかな、などと漠然と考えていた。

ちょうど日本の教育現場では、連日の会議の多さに辟易していて、この時間はもうじき消滅しそうなわが人生にとって無駄事だと考えていたころである。

退職後2年間の再任用の道も保証されてはいたが、学校に居残る気になれなかった。  

それと前後して、河北大学へ訪問する機会があったが、その折、中国人の日本語の主任から、「ぜひ日本語教師として、来て下さい。中国語は教師をしながらでも出来ます。それに長野県と河北省は姉妹都市ですもの」と甘い言葉をかけられた。そううか、そういう日本語教師の道もあったか。

そこへ、悪友?の先輩からの勧めをもらったのが「日中技能者交流センター」の日本語教師の募集案内だったというわけ。

そして、条件の項をみて、これは小生でもきっと任用されるだろうと内心確信した。なぜかというと、小生が教職に在った時の経験として、たとえば、ある学校では中国帰国子女を受け入れた初代クラス担任をしたり、他の学校へ移ってからも、別の帰国子女の学習相手として3年間毎週一回彼の家へ通ったり、はたまた長野県日中友好協会の会員としてもささやかな活動をしたりして、中国との何らかの関わりを持っていたからである。

こうして、瀋陽薬科大学にお世話になって2年半を過ごしたが、この大学は自分では選べず、大学側が応募者の名簿を見て招聘するもので、まさに何かのご縁があって決まったことである。

来てみると、概ね満足しながらの学校生活を送れていることに深い感謝の念を抱くのである。この縁深い瀋陽での生活も後半年を残すのみとなった。

因みに、日中戦争の最中、家内の家族は黒龍江省の佳木斯市で生活していた。そこで生まれた家内は、1歳の誕生日を迎える前に終戦を迎え、母親と4人の兄弟姉妹と1年半に及ぶ逃避行を経、遼寧省・葫芦島より乗船し、日本に帰還した。

これから後の小生の人生を方向付けるものは、やはり天の神だけが知っている、「ご縁」なのであろう。                          

2006.3.9)

目次に戻る

 

日本語教師生活を振り返って

井料 衛 

(東北育才学校)

日本語教師を目指す

私が日本語教師を思い立ったのは、フロリダでヘリコプタターの実技訓練を終え、米国自家用操縦士資格を取得して帰国、日本の免許に切り替えるために関係法規の試験に備えて勉強しているときでした。たまたまある会報に出ていた募集を目にしたのがきっかけです。2年2ヶ月目にようやく免許証を手にすることができたのですが、次の目標は中国で日本語を教えることでした。

もともと私には中国のために何かをしたいという願望がありました。今から20年以上前、中国残留孤児の帰国が始まろうとしていました。中国(主として東北地方)に置き去りにされた何千人もの日本の子ども達が中国人の手によって育てられていたことに心を打たれました。事情はいろいろあるだろうが、あのどさくさの中でよく生き延びたものだ。その時中国のために何かをしようと思いました。

山東交通学院へ

売れ残りの私に声がかかって、2004年4月27日から済南の山東交通学院で日本語を教えることになりました。山東交通学院には外国学部もありましたが、私が教えていたのは本科ではなく留学班という日本留学を目指して、日本語だけ勉強するクラスでした。単位修得の必要がないので定期考査もなく、日本語能力試験の2級さえ受かればよいという連中でした。私が赴任したときには学生はわずか4名でした。赴任して間もないころ、事情がよく分からないものだから、留学を目指すいわゆる特進クラスだと思っていた。新任教師の歓迎会が終わったとき、よくぞここまで来たものだと幸福感に浸りながら、夜の構内を宿舎へ向かっていました。

最初のつまずき

6月半ば、期末考査が始まり、授業のないクラスもぼつぼつ出始めていた。しかし、留学班だけ期末考査もなく7月10日まで授業があることになっていた。そんな時期、午後の授業に行ってみると4人うちの一人しか出席していない。その一人のS学生に聞いてみると、他の3人は私の授業が分からないから欠席したと言う。午前の授業が終わった直後にみんなで職員室に行き、中国人の日本語の先生に、他のクラスと同時期に夏休みにしてくれと頼んだらしい。前例がないので会議に諮ってということになったが、結局それ以後授業は無くなった。私はその交渉の場に居合わせたわけではないのでよくは分からないが、その際に、私の日本語が速すぎて分からないということが出たらしい。それまで自信を持って張り切って授業に臨んでいた私でしたが、それはとてもとてもショックでした。一種の授業ボイコットである。私はそのSという一人の学生に授業のことならなぜ私に言わないかと文句を言った。日本語を習い始めて9ヶ月しか経っていない彼らに、それを言えというのは無理だったかもしれない。「先生の授業は昔から分かりませんでした。」とSが泣きそうな顔で言った。この学生だけは理解できていると思っていただけに、なおさらショックであった。それまで日本語教育専攻の新卒の若い日本人女性の分かりやすい授業に慣れていたSたちにとってもショックだったに違いない。このクラスを途中から担当した私は、学生の実力を過大評価していた。学生はよく予習していたので、教科書に沿って聞くことについてはてきぱきと答えた。だからこちらが話していることも分かっていると思っていた。学生の理解度の把握が十分でなかったことが大きな落ち度であった。機械や土木を専攻している学生が選択で受けている寄せ集めのクラスは最初から力がないことが明白だったので、そのような間違いは起こり得なかった。

Sは他の3人より年上で、努力家で、成績もよく、責任感の強い学生であった。だから無断で休むことに後ろめたさを感じたので、出席して事情を伝えたのであろう。それまで学生との人間関係はほとんど問題がなかったので、まったく予想外であった。彼らが早く夏休みにして欲しいのは日本語能力試験の申し込みや日本の大学の入試手続き等の準備で忙しくなるからだという。それまで推薦書の作成と書類のチェックを担当していた中国人の日本語の先生が産休に入るので、その間私が代行することは聞いていた。そのようなこともあろうと8月20日という早い時期に学校に戻っていた。ところが8月31日が提出期限の書類を8月27日に、3人の学生が私のところに持って来て書類を作ってくれと言う。28、29日と土日が入るので実質2日しかない。現役時代にそのような書類はずいぶん作っていたので何とかなったが、こんな直前の依頼は初めてだった。

9月に入って早速授業を始めようとすると、日本語能力試験の申し込みに時間がかかるから、授業は翌週からにしてくれという。彼らが夏休み前に言ったことは何だったのだろう。新学期に入ったら心機一転、彼らの希望通り聴解力アップの授業を始めようと思っていたが、期待通りにはいかなかった。これらのことから総合すると彼らが早く夏休みにしたかったのは単に早く休暇に入りたかっただけではないかと思った。私はこの件についていくつかの点で不満があった。授業について不満があるならばその件についてだけ、もっと早いうちに申し出て欲しかった。そして私に直接か、または同席して申し入れて欲しかった。私のいないところで、自分達の取引の材料にしてほしくないということである。4人の学生のうちの一人が勉強嫌いで、よく休む学生であった。その学生が休むことを正当化する手段にしたのではないかと思う。個人的な問題で他を巻き込んで解決決しようとするやり方はすべきでないと思っている。

泰山見物

この日、たとえ一人でも授業はやると言って始めた。休憩を挟んで後半の授業に入ると、SがKを呼んできて二人になった。授業が終わってから、前から懸案になっていた泰山行きの話をKが持ち出した。「私のおばさん(母の友達)が泰山に連れて行ってくれます。」と言う。S、Kとたまたま青島から来合わせていた宮崎県の都城のN先生も一緒に4人で泰山に登った。泰安駅からロープウェイ乗り場まで車で送ってもらい、ロープウェイ、入山料一切、このおばちゃんという人の世話で登ることが出来た。下山の時、ロープウェイ駅から一箇所だけバス賃を払っただけであった。帰りは泰安までかと思っていたら済南まで車で送ってくれた。

上海まで見送る

翌年の4月初めに3人が岐阜県にある短大に入学するために、上海から鑑真号で大阪に向かうことになっていた。彼らが「上海まで先生も一緒に行きましょう。」という。最初はあまり乗り気でなかったが、彼らが本気で望んでいたし、学校でも授業さえ振り替えてあれば大変結構なことだと言ってくれたので同行することにした。日本語の先生の計らいで上海までの汽車賃だけ出してくれた。帰りは飛行機を利用したので出してもらえなかった。大した金額ではなかったが、その気遣いがうれしかった。出発の2、3日前、Sが私のアパートに来た折、「1年前には、先生の日本語はよく分かりませんでしたが、今は60%わかります。」と言った 彼の言う60%というのはほとんど分かると理解している。この言葉を聞いて去年のあの大きなショックから初めて開放されたような気がした。

マン ツー マンの超ミニクラス

次年度の10月、新入生は一人であった。会話の練習がしにくいので友達をつれて来させて授業をした。このようなミニクラスで困るのは、欠席されると途端に開店休業になってしまうことである。授業が出来ないのが心苦しいと、同室の教務担当の先生に愚痴を言うと、それはあなたのせいではないと言って、時々学生に注意をしてくれることもあった。こういう少人数クラスばかり教えていると、もう少し学生数の多いクラスを教えてみたいと思うときがある。後期になって外国語学部から一人の女子学生が編入してきたので二人になった。やれやれと思っていたら、翌年この二人は二年生には上がらずに日本留学をしてしまった。8月末、任期延長の予定で学校に戻ってみたが、今年度は新入生ゼロである。 というわけでとうとう9月2日には、よそを探してくださいと申し渡された。専家局の招聘状が出ていても意味がない。中国では、いわゆるドタキャンは珍しくはないと聞いていたし、内情を知っていたので驚くことはなかった。いいところがあればかわってみたい気持ちがあったが、行った先で、新しい二胡の先生が見つかるかどうか気がかりだったので、踏みとどまっていたところだった。

東北育才学校へ

というわけで瀋陽市に来ることになりました。瀋陽を希望してきたわけではありませんが、来てよかったと思っています。済南に来たときには、あのごみごみした雰囲気を中国らしいと思って、来てよかったと思いましたが、瀋陽へ来て1週間で私の気持ちは変わりました。瀋陽には今まで見てきた他の中国の都市とは違う趣がある。ロータリーを中心にした放射状の街路、やや西洋的な町並みはエキゾチックで、どことなく郷愁を誘うような風景画が何ともいえない。昔小学校の教科書で中国のことを読んだことがあるせいかもしれない。こちらから引き揚げてきた我々の同級生が転校してきたのは小学校3年のときであった。この冬休みに日本に帰っている間に、それらの同級生や以前にこちらで働いていた同郷の人達に昔のことを聞いてみた。中国に関心を持ち始めたのは、中国残留孤児の帰国のころからだと申しましたが、それに関係の深い東北地方に来たのも何かの縁かもしれない。こちらにいる間にもっともっと知りたいと思っています。

目次に戻る

 

REXプログラムのこと・外国籍の生徒のこと最後のごあいさつ

竹林 和美

(東北育才学校)

中国で日本語を教えるなんてもともと私の人生設計にはなかったのですが、縁あってここ瀋陽で日本語教師をしています。その縁とは「REX プログラム」との出会いです。2年前、私は富山県の中学校に勤務していました。ある秋の日、朝礼でこのREXプログラムの募集について知りました。希望する人は一両日中に校長にその旨を伝えるようにとのことでした。

中国で日本語を教える。

今まで考えもしなかった新しいことが突然私の中に飛び込んできました。

おもしろそう。やってみたい。

その気持ちひとつで応募を決めました。そして県と文科省の面接を受けました。内定が出た後3ヶ月の研修を受け、今に至っている次第です。

さてREXプログラムについて少しご紹介したいと思います。REXプログラムの正式名称は「外国教育施設日本語指導教員派遣事業」(長い!)で、文部科学省が総務省や地方公共団体と協力して、公立中学校、高等学校の教員を海外に派遣するものです。派遣中は、日本語の指導や日本の歴史や文化の紹介が主な仕事です。

私は15期の派遣で、同期の仲間は私を含めて20人います。全国から集まった中学校、高校の教員が今、世界各国で日本語を教えたり、日本文化の紹介をしたりしているのです。

ちなみに、15期の派遣先はアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ウェールズ、ブラジル、パラオ、そして中国。皆、日本の学校では英語、国語、音楽、体育などを教えているので日本語指導は全くの専門外。試行錯誤の連続なのです。

さて、おもしろそう、やってみたい、の気持ちで踏み込んだ日本語教育の世界ですが、動機はそれ以外にもあったような気がします。それは外国籍の児童生徒の存在です。彼らは親の仕事の都合で来日した子どもたちです。

例えば、以前勤務した中学校にはブラジル国籍の生徒がいました。出稼ぎ労働者の親と一緒に来日したのです。日本語はほとんど話せませんでしたが、他に選択肢もないので、日本の公立学校に編入してきました。

その学校は比較的恵まれていて、週に何回か日本語指導の先生が来てくれていたのですが、それでも言葉が分からないので授業の内容もほとんど分かりません。だんだん休みがちになって、そのうち学校に来なくなりました。単純に言葉の問題だけではなく、経済的な問題もあったのだと思いますが、私は来なくなったその子たちのことがずっと気になっています。

もし自分が担任するクラスにそういった外国籍の生徒がいたら、私は何ができるでしょうか。2年間日本語教育に携わった今なら、以前に比べてより具体的な援助ができるかもしれません。

というわけで、頭の片隅に残っていたそのブラジル国籍の生徒たちのことも、REXプログラム参加に手を挙げた理由のひとつだと思います。富山に限らず、国全体でそういった外国籍の児童生徒は増えているのではないでしょうか。私はそういう子どもたちに何かできないかずっと考えています。日本語指導教員を配属したりして国や自治体も何か手は差し伸べていますが、まだ不十分なのです。

さて私はこの3月末で帰国し日本の学校に戻ります。日本語教師としてやっと慣れてきたところなのでもうしばらく続けたいというのが本音です。

日本での担当教科は英語。日本語に替わってまた英語を教えるわけですが、困ったことに、この2年でずいぶん英語も忘れてしまいました。最近は、英語で話していて「YES」と答えるところを「対(dui4)」なんて言ってしまうこともあるくらいです。とほほ。

最後に、瀋陽を去るにあたってご挨拶申し上げます。皆様、本当にお世話になりました。皆様と知り合い、いろいろな活動をご一緒できたことはとても楽しい思い出です。瀋陽での生活はこの教師会抜きは語れません。今後もますますご活躍されますように。そして何よりどうぞお元気で。

(参考)REXプログラムホームページ

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/rex/main.htm

目次に戻る

 

心温まる話

山形 貞子 

(瀋陽薬科大学)

今度の日本語クラブは1.心温まる話、または、2.何故瀋陽に来て教師をしているのか、そのきっかけは?というのがテーマだそうな。2については二人とも顔を見合わせて、何故ここにいるのだろう?と不思議がっているくらいだから、本当のきっかけなど分からない。二人ともまだ元気だし、研究はできれば続けたいし、役に立てるなら良かろうというところか。日本で65 才以上でも喜んで迎えてくれるところがあったら行ったかもしれないので、日本にそういう職場がなかったと言うことも大きな理由だろう。

ただ、日本で今のような幸せな仕事ができたかというとできなかったと思う。試薬、機器など手に入れるのに苦労をしているけれど、学生達が熱心で私達が少しでも役に立っていると思える職場は日本にはなかったに違いない。私達はとてもありがたい境遇にいると感謝している。

さて心温まる話を書こうと思っているのだが、どんな話があるかと考えてしまった。最近はそう感じることがないなあと。もしこちらに来て直ぐだったら沢山あったのに・・・

それではあの頃の心温まる話はどんなことだったのだろう?学生が親切で階段の上り下りに手をとってくれたっけ。広い道路を渡る時、必ず危ない側を歩いてくれて、しかも身体を抱くようにして守ってくれた。買い物も「先生必要な物はありませんか」と聞いて買い物に行ってくれたし、一緒に行けば荷物を持ってくれた。みんな先生をとても大事にしてくれた。そして私は、なんて中国の学生はやさしいのだろうかと感激したものだった。学生だけではない。バスに乗れば、一番後ろの席に座っている人が、前から乗った私を手招きして席を譲ってくれた。

ところで、今はどうだろうと考えた時、前と今と全然変わっていないのに気付いた。今も先生必要な買い物ありませんかと聞いてくれる。道を渡るときには必ず車側へすっと位置を変えて守ってくれる。夜道を歩くときは腕を組んで転ばないように気を付けてくれる、本当になにも変わっていない。ということは私がこういう親切さに慣れてしまったということなのだ。日本ではそういうことがなかったから、全て心温まることと感激した。そして今その環境の中で当たり前のこととなってしまったのだ。

先日も雪の降った翌日だったろうか、研究室の学生と話しながら道を歩いていた。道の雪は通る人の靴で踏み固められ凍っていた。話に夢中になっていたせいか、はっと思ったら滑って転んでいた。どこも打ったわけでもなく大したことはなかったのだけれど、一緒に歩いていた彼女は「先生ごめんなさい。私が一緒に歩いていたのに転ばせてしまって」と言う。私が勝手に転んでいるのに謝られてこちらが恐縮してしまった。そしてそのあとは絶対に転ばないように私と手を組んで歩き出した。若い人たちは一緒に歩いている老人に対して責任を感じているのだ。

若い頃、身体距離について日本に来たアメリカ人が書いたものを読んだことがある。彼は日本に来て混み合った電車に乗って辟易したのだろう。アメリカ人は親しい人との身体距離は大変近いけれど見知らぬ人との間は50−-60センチ以上ある。しかし、日本人は親しい人との身体距離は遠いのに、見知らぬ人との間の身体距離は非常に近く0センチでも平気だというようなものだった。要するに、アメリカ人は夫婦の間、友人の間で会えば抱き合って挨拶をするけれど、日本人は夫婦の間でもそのような親しそうな挨拶はしない。それなのに混み合った電車の中では身体をぴったりと付け合った状態で平気でいる、そんなことはアメリカ人には到底我慢のできることではないというようなことだった。日本人だってちっとも平気ではなかったのだけれど仕方なかっただけのこと、でも彼にはそのように見えたのだろう。

転ばないでね

私は中国に来て中国人は親しい人に対しても、見知らぬ人に対しても身体距離が非常に近いと思って見て来た。若い男女は言うに及ばず女子学生同士が腕を組んでいるのは常のこと、父親と大学生の息子が手をつないでいるのを見たことがあるし、母親と娘、中年の女性同士、言ってみればあらゆる組み合わせで手をつなぎ腕を組んで歩いている。また切符売り場など人が押し合いへしあい、バスに乗るとき降りるとき身体距離はほとんど零と言っていい。

何故こんなにくっついて歩かなくてはならないのだと実は冷たい目で見ていたのだけれど、しかし、転ばないように腕を組んで守って歩いて貰って以来、おばあさんと孫が、あるいはおかあさんと娘が腕を組んでいるのはそういうわけかと思うようになった。「私はこんな暖かい気持ちの國、心温まる國で暮らしているのだと。」

目次に戻る

 

新人類と一緒に

山形 達也 

(瀋陽薬科大学)

(一)

春節休み明けの今年の新学期は2月20日の月曜日から始まった。長い休暇の間、殆どの学生は故郷に帰省していて、休みの終わる1?2日前になってやっと大学に続々と戻ってきた。黒竜江省に帰っていた関くんは故郷のお土産ですと言って、30センチくらいの長いソーセージの6本入った袋を二つくれた。同じく黒竜江省の暁東さんはキクラゲと沢山の松の実がお土産だった。湖北省十堰出身の孔くんは湖北省で産する「毛尖」という美味しいお茶のお土産だった。天津市が故郷の満さんは天津名物の十八街(硬いドーナツのようなもの)だったし、雲南から戻ってきた馬さんは雲南省名物のお茶だった。中国の西の果てにある新疆の麦都さんは馬肉のソーセージ、薫製の馬肉、干し葡萄を持ってきた。

同じく新疆の紅さんは故郷で採れる香梨と呼ばれる果物を研究室の一人一人に行き渡るように、片道4日間の行程を掛けてはるばると新疆名物の梨を研究室の人の数だけ運んできた。梨の「リ」と言う音は離別の「リ」に通じるので、梨は決して二人で分けてはいけないと中国では言われているということだ。従って分けずに済むよう数が必要だったのだ。湖北省の毛毛くんは故郷の街の名物の胡麻入りクッキーを持ってきた。

最初の年に私たちの研究室にいて2年目に韓国の大学院に行った王くんは、修士を終わって博士課程に入ったこの冬、中国の貴州にある故郷に帰った。休暇を終えて再び韓国に戻るとき、瀋陽経由にしてこの地を訪ねてくれた。残念ながら私たちは日本で用事があって出発間際に中国に戻るのを二日遅らせたので、一日違いで王くんに会うことが出来なかったけれど、王くんは私たちに貴州のお茶と、自分のうちでお母さんが自ら作ったソーセージを沢山お土産に置いていった。燻製の香りの高い、たいへん味の良いソーセージで、研究室の人たちに勧めた上に、あまりにも美味しいのでまわりの人たちにもお裾分けをしてしまった。

瀋陽にある日本人会の集まり等で企業の人たちの話を聞いていると、工場の原料購入などしている担当者には年末などになると出入りの業者からの謝礼が届いて、それは凄いという話だ。以前は出入りの中国人が事務所に来て、懐中から無造作に現金を何万元と掴み出して受け取れと言うらしい。「えーっ?それを貰うんですか?」

訊く方は、きっとこの金を貰わないという話になるんだろうと思いつつも、唾を飲み込んで訊ねる。「いえいえ、そんなものを貰ったらあきまへん。その次から粗悪品を入れられても文句が云えなくなってしまいまっさかい。そのための賄賂ですねん。」

「そうやって何時も断っているうちに、あそこは現金を受け取らないと言うことになって、うちに今度は品物を持って来よるんですわ。」

「そしたら来るわ、来るわ。もらい物は社員で分けることにしてますが、冷凍のエビとか蟹を貰ったりするんで事務所にそれ専用の冷凍庫を買いましたよ。こないだなんか、箱から出て事務所の床をワタリガニが仰山歩いとりましたわ。」

中秋の名月の頃になると瀋陽の街中のお菓子屋やデパートの食品売り場は、月餅売り場で占められ、売り場に山ほど積み上げられた月餅が売られるようになる。そして、その時期には金(gold)で出来た月餅を人に贈ってはいけないとか、そのための金の月餅を売ってはいけないとか言う通告が政府の名前で出たりする。お菓子売り場で金の月餅を売っているはずがないし、貰うはずもないので見たことはないが、これはつまり、中国は贈り物天国、もっとはっきり言うと賄賂天国ということのようだ。旨い汁を吸おうという人たちが金づるに集まって、人は持ちつ、持たれつという甘い関係を作って社会が動いているようだ。

そのような社会だから、大学の中でも成績を良くしてもらったり、何かの賞や候補に選んで貰ったりするためには、ある場所ではそのような礼物や付け届けが幅を利かせているかも知れない。あるかも知れないなあと思うだけで身の回りで見たことも聞いたこともないが、学生たちのお土産が賄賂と言うことはあるまい。研究室の学生が故郷から持ってくるこの程度のお土産ならば、まさか贔屓してくれと言う鼻薬のつもりでもないだろう。私たちの研究室で季節の節目ごとに開く食事の会はすべて私たちがその費用を持っているのだから、そのお礼のつもりかも知れないなと思って、ありがたく戴くことにしている。

 

(二)

そうこうするうちに新学期前の二三日は瞬く間に過ぎて、2月20日の月曜日になった。この後学期の始まる日から卒業研究生を迎えるので、最初の日は新人を含めて皆に集まって貰って研究室の決まりなどを話すことから一日が始まる。

今年の4人の新人類と一緒に

私たちの研究室では、前の日本語クラブ21号に書いたように、研究室憲章を作っている。これは、「山形研究室は学生を第一級の研究者に育てることを目指し、学生も一流の研究者になることを目標とする。そのためには学生は研究することを生活のすべてに優先させなくてはならない。」という、日本だったら言うのも聞くのもどちらもびっくりという、恐らく前代未聞の大原則から始まっている。

何故こんなドンキホーテみたいなことをしているかと言うことは以前書いたけれど、「こちらが熱い思いで学生を育てるのだから、学生もそれに応えろよ。」ということを文章にしているわけである。

子どもは親の背を見て育つという。学生が私たちの子どもたちなら、こんな照れくさいことを口にしなくても分かって欲しいけれど、しかし妻と私が朝早くから夜まで研究室にいるだけではなく、土日も大学に来て研究と学生のために時間を使っていることを、中国の学生は何故そんなことをするのか、どうしてそんなことが出来るのか理解できないのだ。日本の先生は工作狂(仕事中毒)というわけだ。しかし私たちのことを「工作狂ですね」というだけで片付けて欲しくない。それで「自分たちの時間、健康、財産をつぎ込んでいるのは、あなた達のためですよ」と、はっきりこちらの立場を宣言しているわけだ。

その朝、教授室の一隅に集まった院生、学生11名は卒業研究学生の4名のうち日本語班出身が3人いるので、全体として日本語の分かる人が6名、分からない人が5名となって、今期からは日本語が逆転して優勢になってしまった。研究室憲章・規則は日本語で書いてあるので、私が日本語で話してそれを院生の一人の毛毛くんが中国語に通訳してくれた。私には研究の話は英語で何とか出来ても、研究そのものを離れると英語で話す力はないし、聞く方の中国の学生だって理解できる力はないからである。

「研究室は研究費もないし、設備もないし、実績もなく、とても一流ではないけれど、指導する私たちの力と意欲は一流なのだ。あなた達が私たちの意欲に応えて努力すれば、必ず第一級の研究者の卵に育て上げよう」という私たちの約束は静かに彼の頭にしみ込んだようである。この後には続けて研究室のいろいろの決まりも皆に話し、一応理解されたようだった。最後には研究室の一員になった証拠に、教授室、実験室二つ、ロッカーの鍵をそれぞれの新人に渡して儀式が終わった。

今まで7名の院生のいるところに4名の学生が増えて一遍に研究室が賑やかになった。割合からすると5人の院生のいるところに3人の新人が来た昨年と状況は大して変わらないが、今年の方が断然新人が優勢である。院生のひそひそ声を訊くと「今年の学生は、新人類ですよ。」ということだった。3年上で彼らの大先輩に当たる秦くんは「どうも私たちのことを先輩と思っていないみたいです。」とぼやいている。

実際、日本語の上手い新人の孔くんは私たちのいる前では学生同士でも日本語を使って話しているが、秦くんに「だけど、きみはそういうけれどね。」と言っているのを目撃した。私たちは慌てて「同年の友達同士なら【きみ】と呼んでもいいけれど、日本で年上の人に【きみ】なんて言ったら大変なことになるよ。」と教えることになった。それにしても、世代の断絶感は、何処の国でも、どの世代でも味わうものらしい。

 

(三)

研究室では院生も育ってきて研究が進むようになっているので、彼ら一人に卒業研究の学生一人を付けて教育・研究指導を行って貰うようにした。昔と違って今時の生化学反応は、細い先端を持つチップを付けたピペットで、1マイクロリットル(1 mlの千分の一)の試薬や試料溶液を取って0.2 ml用の小さなミクロチューブにいれ、ほかのものも同じように入れて全量25マイクロリットルで反応するなんていうのが始終である。

学生実験ではこういうことをやっていないので、彼らは先ずマイクロピペットの使い方に習熟しなくてはならない。それも、手先に付いているRNA分解酵素が混ざるのを防ぐためにラテックス製の手袋をして、唾に混じるRNA分解酵素が飛び散って入り込むのを防ぐためにマスクをして、おしゃべり厳禁で実験をしなくてはならない。このように、一人前に実験が始められるようになるまでに学ぶことが沢山ある。

卒業研究の学生たちが来てから1週間経った月曜日、私たちが朝7時過ぎに教授室に来るとドアの鍵が完全には掛かっていなかった。ドアが閉まっていただけだった。一般に、ホテルの個室のドアを閉めると外からは開かない。同様に中国のドアも閉めるとノッチが出て簡便に閉まるようになっているので、一応閉まっているのである。しかしロックは、キイを差して二度廻さないとドアは完全には錠が掛からない。

この新しい建物も容易に外の人が内部に入れるので、隣の女性教授の室では短時間のうちにノートブックコンピュータが盗まれたし、上の階ではバッグから財布が盗まれている。大事な資料や実験器具の盗難に遭いたくないので、私たちの部屋はたとえトイレに行くときでも部屋が無人になるときはドアを閉めて(つまり鍵が掛かった状態にして)出るように、そして最後に帰るときには、電気、水、エアコンなどの点検をしたあと、鍵を二度廻して完全に施錠するようにしつこく伝えて徹底させている。

前の晩に帰るとき、最後になった人がドアを閉めてもキイを使ってロックをしなかったことが明らかである。このようなことは放っておくと良くない。

というわけでその日は朝研究室に出てくる学生に次々と、昨日の日曜日は何時来たか、何時に帰ったのかと訊いていった。すると、新しい学生の孔くんが前の晩は最後までいたらしい。やがて孔くんが来たので訊いてみると、訊かれた状況の分かった孔くんは、「それは私です。」と直ちに名乗り出たが、それで解決したのではなかった。

訊いてみると、もちろん彼は最初の日に支給された鍵を持っていたけれど、その鍵を使ってドアを閉めるということを知らなかったのだ。「えっ。どうして?」こちらは文字通り絶句してしまった。 

学生に訊いたり、記憶をたぐると、最初の日の話の時に、部屋が無人になるときドアを開けたままにしてはいけないとは話したけれど、ドアの鍵の掛け方を話していないということが明らかとなった。

これは私の手落ちである。しかし、釈然としない。鍵を渡すときには、これは教授室の鍵、これは実験室の鍵といいながら、それぞれに手渡しているのである。鍵を貰って身につけて持っていながら、鍵を使うということが頭に浮かばなかったとはいったい何なんだろう。訊ねてみると、鍵は部屋を開けるためのものだと思っていたという。

鍵の掛け方まで徹底的に言わなかったこちらにも手落ちがあるかも知れないが、何だかおかしい。それで思ったのだが、中国の学生は今では皆が1978年以降の産まれなので、一人っ子政策が浸透して数年してからの子どもたちである。つまり兄弟がなく、彼らの世代はひっくるめて小皇帝と呼ばれるように、一人っ子として親や祖父母から大事にされ、甘やかされて育っている。私たちが誰でもごく当たり前に簡単に出来ることが、出来ないのだ。

リンゴを剥くには、ナイフを持った右手の人差し指と、リンゴを回す右手の親指、リンゴを持った左手の連動が上手くかみ合わないといけないが、この頃の学生はリンゴを左手でしっかり持って、ナイフを持った右手を動かして皮を削ぐのである。剥くのではない。指が使えない。見ていてはらはらする。彼らは子どもの時から、何でも人がやってくれるのである。

訊くと、孔くんは何時もお母さんがやってくれたそうで、リンゴの皮を剥いたこともないという。先日は研究室の小さな器具の修理に、先輩の秦くんが精出しているときに、孔くんはドライバーなるものを手にしたことがないということが分かった。鍵も使ったことがないと考えるべきか。

この孔くんは日本語はとても上手いし、つい最近公表されたことだが大学院の入試に1番の成績で通ったくらいだから勉強は良くできる。2003年度の麦都さんも入試成績一番で、秦くんは推薦入学だった。昨年の毛毛くんもダントツの1番だったそうで、私たちの研究室に毎年入試一番の学生が来ることは結構なことだが、将来はプロフェッサーになりたいと平然と口にする孔くんという新人類の出現で、研究室の常識も頭を切り換えて見直さなくていけないことになったようだ。

目次に戻る

 

陽で入院

渡辺 京子 

(中国医科大学)

去年の10月末、マッサージ店でマッサージ中に膝をいためてしまった。痛みがなかなか治まらず、医科大一医院で診察を受けた。

「半月板損傷で、手術が必要です。」と医師から話された時、「どうしても手術しなければだめですか?」とっさに口から出てしまった。授業を休まなければならないことがとても気になったし、それに言葉の分からない異郷での入院、手術は不安だった。「緊急を要さないので、日本に帰ってからでも良いです。」と言われたけれど、日に日に激痛が走るようになった。

日本語教研室の主任教授に相談すると、快く授業のことは心配しないでと配慮してくださった。病院について来てくれた学生が、「先生、私が付き添いますので安心して入院してください。私は医者の卵です。」と言ってくれたことで手術を決めることが出来た。

中国医科大の附属一医院なので、大学と隣接していて何かと便利だ。病院はちょうど新築され、綺麗な病棟に入院でき快適だった。しかし、そこは緊急患者が多く、すぐ部屋を変わらなければならなかった。古い病棟にである。病室は個室が空いてなく、6人部屋に入ることになった。日本のように完全看護ではなく、それぞれの家族や家政婦が付き添っている。ある人は家族3人が泊まりこんでいる。それに部屋も狭く仕切りのカーテンもなくプライバシーなんてとうてい考えられない。が、中国人はそんなことは気にすることなくむしろ共同生活を楽しんでいるように見受けられた。新しく入院してきた人は自分の病状を話して、入院しようと思ってもベットが空かずにずっと待ち続けていた。やっと入院できて良かったとか、自分の家庭のことまで事細かに皆に話をしている。

入院して検査まではなんとか順調に済ませることができた。が、「明日手術です。」と言われ、翌日の朝、気持ちを張り詰めて待っていると、朝早く「手術は延期になりました。」と2回も延期を告げられた。現在病院が新しくなって引っ越したばかりで手術室に不備があるとか、緊急手術があるとかいった理由で・・・日本では考えられない理由なのだ。

やっとの思いで手術を終えることができた。下半身麻酔の内視鏡手術である。手術中の医師に携帯電話が何度もかかってきて、手術をしながら話をしているのには驚いてしまった。病室に帰ると部屋の人たちは心配そうに気を使ってくれた。中国語で話しかけてくれるけれど、ほとんど聞き取れず、私の発する中国語も学生の通訳なしには分かってもらえなかった。おなじアジアの国でありながら言葉と文化の違いには戸惑うばかりであった。

万里の長城にて

が、隣のベットから「先生、大丈夫ですか?」流暢な日本語が聞こえてきた。彼女は王さんという名前で70歳の骨粗鬆症で入院している患者だ。小学校のとき日本語を勉強した。毎朝8時から2時間は日本語の授業を日本人の先生に受けていたとのこと。いつも朝起きると「おはようございます」夜は「おやすみなさい」と挨拶をされる。そして“さくら、さくらやよいのそらはみわたすかぎり‥”と歌い“君が代”まで口ずさまれたのにはびっくりした。子供のころ近くに日本人の家族がいて、同じ年頃の女の子と友達だったとのこと。よくその子の家に遊びに行って、日本の本を読んだり日本料理をご馳走になったこと、お母さんがとても優しい人だった等、懐かしそうに話された。

病院に入院して、旧満州時代に日本語教育を受けた人との出会いがあるなんて考えてもいなかった。

手術を受けた日は、学生が一日中付き添って面倒を見てくれた。大事な授業も欠席させてしまって、ほんとに申し訳なかった。その上、痒いところに手が届く程よくしてくれて、とても感謝している。

安静で動けなかったのは1日だけで、朝の消炎剤の点滴が済むと、時間をもて余してしまう。授業を代講してもらっていることが気になり、担当医にお願いして早めに退院させてもらった。

隣のベットの王さんは別れを惜しんで、何度も握手をした。私が退院したら是非家に遊びに来てくださいと再会の約束した。2週間の短い病院生活だったが、中国の文化やものの見方を垣間見ることが出来、また心温まる交流が出来たことは貴重な体験だったかなと思う。

目次に戻る

 

次の文章にいく

日本語クラブメニュー

瀋陽日本人教師の会ホームページ