| 新会員の声 | |||||
| 安部玲子 | 安部玲子 | ||||
| 叶わない夢 | 河面弥吉郎 | ||||
| テーマ寄稿文1 今なぜ中国で教師を? | |||||
| 私の恩師 | 森林久枝 | ||||
| 楽しさいっぱいの教師の成れの果て | 南本卓郎 | ||||
| 私の「日本語教師」の原点 | 渡辺文江 | ||||
| 日本語教師になった理由 | 金丸恵美 | ||||
| きっかけ | 丸山羽衣 | ||||
| 日本語教師になった原点 | 辻岡邦夫 | ||||
| 私の原点〜釜山の趙先生〜 | 池本千恵 | ||||
| 日本語教師へのあゆみ | 中道恵津 | ||||
| いかにして日本語教師になったか | 峰村洋 | ||||
| 日本語教師生活を振り返って | 井料衛 | ||||
| REXプログラムのこと、外国籍の生徒のこと、最後のごあいさつ | 竹林和美 | ||||
| テーマ寄稿文2 学校で 街で 心温まる話 | |||||
| 心温まる話 | 山形貞子 | ||||
| 新人類と一緒に | 山形達也 | ||||
| 瀋陽で入院 | 渡辺京子 | ||||
| 最近感じること | 宇野浩司 | ||||
| 有名な鼠 | 南本みどり | ||||
| 中国生活の楽しみ | 長澤裕美 | ||||
| 瀋陽日本人補習校での日々から | 石井みどり | ||||
| 春は雪融け、そして... | 高山敬子 | ||||
| 「留用」 | 加藤正宏 | ||||
| 自由寄稿文 | |||||
| 日本へ帰るのが怖い!! | 高山正義 | ||||
| 中国に魅せられて | 加藤文子 | ||||
| 熱き心で過ぎた、如月の日々 | 中道秀毅 | ||||
| “そうです” | 山形貞子 | ||||
| 我的トリノオリンピック | 池本千恵 | ||||
| 黄山行きツアーに参加して | 井料衛 | ||||
| 遼寧省の糧票や購貨券の図案から | 加藤正宏 | ||||
| 中国の歴史ドラマ その出会い | 中道秀毅 | ||||
| 問題の壺 | 中道恵津 | ||||
| 瀋陽を去られた方の近況 | |||||
| どうして懲りずにまた日本語教師を続けるのか?(笑) | 斉藤明子 | ||||
宇野 浩司
(瀋陽職業技術計算機学院)
早いものでこの仕事を始めてから約3年が経とうとしています。初めのうちは「ひとつ外国語(中国語ではなくてドイツ語)ができるようになって日本語との比較をするのも面白くなってきた。自分自身の勉強もかねて日本語を教えていこう」ということでこの仕事をしていました。
しかし、3年やっていくうちにいろいろと感じることが出てきました。
まず感じることは、中国の語学教育が「実践力重視」よりも「知識重視」ということで進められていることです。これは今更私が言うまでもないことだと思いますが。本当に、学生たちは教科書の文章などをそっくりそのまま覚えようとします。ですから、そのままの内容を試験で出すとできます。
その一方で、独創性を必要とする問題(たとえば、「『まず』、『それから』、『最後に』という言葉を使って少なくとも50字以上の短文を書いてください」のような)になるとなかなか苦戦する学生が多いです。何回か練習するうちにこれもできるようになっていきますが、最初のうちは指導するのにやや苦労します。
それに最近強く感じるのは、学生の実力の差がかなりあるにもかかわらず、ひとつのクラスで指導していくことの辛さです。できる学生に合わせて話を進めればできない学生がいやになり、できないほうにあわせればできるほうがいやになっていきます。
最近の日本では能力別クラスということが浸透してきていますが、中国はまだそれは難しいようです。私が以前勤務していたある外国語学校では、「能力別にすると親が『うちの子をなぜ低いところにいかすのか。高いところに行かせてくれ』というのですよ。本当は能力別でやるのが一番いいのですけど」とある中国人の先生が言っていました。
スタート時点で一緒であればいいのですが、その時点で違う場合もありました。つまり、前記の外国語学校での話ですが、中学で日本語をすでに勉強してきた学生と高校から始めた学生が混在していました。大体2:3の割合でした。ここで授業をしたときには本当に大変でした。どちらに基準をあわせるかで。「なぜ分けてくれなかったのか」といまでも残念に思っています。
いろいろのことがありますが、3年もこの仕事が続いたということは、それなりにやりがいも感じてこれたからです。私の授業を受けて「いままで教科書でした知識がつかなかったけど、生の日本人から教科書にも載っていないようなこと(変なことは言っていませんのでご安心ください)を聞けて本当に興味深かった」と言うような感想を聞かされると「まんざら無駄でもなったのかな」と感じることが多々あります。
私たち外教の使命とは「中国人ではなかなか伝えにくいライブな日本語およびあるいは日本事情を伝えていくことだと考えています。それと同時に、その国の考え方も吸収して国際感覚を獲得していくことだと思います。
以上が今回私が感じたことです。
南本 みどり
(瀋陽薬科大学)
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| 和紙人形 千姫 |
学校近くの市場に買い物に行った時のことです。卵売り場に見慣れない卵が出ていました。何の卵かしらと手にとって眺めていると、ちょうど学生が通りかかりました。
「これは何の卵ですか」と聞くと、「これは鶏の卵ではありません。」と答えます。
「そうですね、鶏の卵ではありません。では何の卵ですか。」
「えーと・・・・」次の言葉が出てきません。私は常日頃、分からない言葉があってもあきらめず、知っている言葉を使って会話を続けるように指導しています。だから気長に次の言葉を待ちました。長い長いながーい沈黙の後、彼女は言いました。
「先生、アメリカに鼠がいます。名前は何ですか。」
「鼠ですか? チュチュチュチュと走り回るあの鼠ですか。」私は彼女が単語を間違えたのだと思いジェスチャーを交えて聞き返しました。
「はいそうです。とても有名な鼠です。」
今度はこちらが頭を抱える番です。
「有名な鼠・・・・ あっ、ミッキーマウスですか?」
「そうです。彼には仲の良い友達がいます。名前を何と言いますか。」
「ミニーちゃんですか。」
「いいえ違います。鳥の友達です。」
「鳥の友達って・・・・、ドナルドダック?」
「そうです、彼は何ですか。」
「アヒルです。」
「先生これはアヒルの卵です。」
卵が茹であがるほどの時間をかけて分かった「アヒルの卵」。卵売り場の前で二人して手を打ち合い小躍りして喜びました。
ことほどさように単語ひとつを見つけ出すのにも大変な時間と労力が必要です。でも「あいうえお」から教え始めた学生と、僅かな期間でこんな楽しい会話ができるのですから日本語教師はこたえられません。その晩のおかずはもちろんアヒルの卵でした。
長澤 裕美
(東北育才外国語学校)
ある日、学校の若い中国人教師に聞かれました。
中国人教師:「休みは何するの?」
私:「部屋で授業準備とか、買い物とか」
中国人教師:「食事したり、遊んだりする中国人の友だちはいないの?」
私:「いない。」
中国人教師:「そんな単調な生活・・・今何年目?」
私:「5年目」
中国人教師:「うわあ、尊敬するわ」
私の今の生活は、その先生には考えられないほど、寂しくつまらない生活に思えるのでしょう。でも、人はそれぞれ。
私は出不精なので、こんな単調な生活でもそんなに退屈ではありません。その先生にとっては、この街での生活はなんの新鮮味もないかもしれませんが、私たちのように外国から来ている人にとって、街に行くこと、買い物をすることも、ある意味新鮮なことだと思います。確かに、5年もいると、さすがにその新鮮味も感じられなくなりつつありますが。
さて、そんな単調な生活の中にも、楽しいなあと思うひと時があります。それは、ここに来られている日本人教師の皆さんが感じられていることだと思いますが、やはり、中国の人とのふれあいでしょう。
私が住んでいる寮には夜間と土日にYさんというおじさんが、守衛としてきてくれます。土日の天気のいい日なんかに、ときどき連れ立って、近くの市場や公園などに散歩にいきます。その道すがら、いろいろな話をします。彼は、話し好きのおじさんで、自分が昔どんな恋を経験したかとか、喧嘩がどれだけ強いかというような、武勇伝?が多く、結構一方的にしゃべりまくられます。私の中国語が会話に追いつかない、うまく言葉がはさめないことにも原因がありますが・・・。
さて、去年の秋に、Yさんと、同じ学校のT先生と出かけたときのこと。私たちの学校は開発区にあり、田舎なので、小道に入ると、畑があったりします。その畑の脇道を通った時に、Yさんが畑の中にずんずん入っていきました。
「畑どろぼう?」・・・いえいえ、ご安心を。畑はすっかり収穫が終わっていて、私の目からは、ただの枯れ野原にしか見えません。
見ているとYさんがしきりに、枯草を選っては引っこ抜いています。
「なにしてるのかなあ」と思ってみていると、一通り取り終わったのか、戻ってきました。見ると、枯草には乾燥した小さな豆のさやがついていました。大豆です。今度はそれを道に置いて、足で軽く踏むと外の殻がとれました。そして、豆だけを集めて、息を強く吹いて、ちりや草を取り除きます。その手際の見事なこと。あっという間に、コップ一杯ぐらいの大豆がとれました。
おじさん曰く、それを水に浸して戻し、粥にいれるとおいしいとのこと。その日は、大豆の他に、インゲン豆と、唐辛子(全て取り残しですよ。泥棒ではありませんよ)も少し収穫できました。
Yさんは以前はよく、収穫後の畑に奥さんと二人で行って、取り残しをいただいてきて、食費を浮かせていたそうです。生活の知恵だなあ・・・なんだかすごい先人の技を目にしたような気分になりました。
そして数日後、そのとき一緒に散歩に行った、T先生が例の大豆を使って豆ごはんを炊いてくださって、ちゃっかりごちそうになったのでした。取り残しとは思えないおいしい豆ご飯でした。こんなささやかな出来事が私の楽しみです。
石井 みどり
(東北大学)
瀋陽日本人教師の会のホームページで紹介されている瀋陽日本人補習学校のコーナーをご覧になったことがありますか。
毎週土曜日の午前中、その補習学校で小中学生と一緒に勉強する機会をいただいています。
普段は大学で教えているので、4時間とはいえ子供を相手にしていると、かなり気力と体力を奪われます。それでももう少し続けてみようと思えるのは、かわいい笑顔に会えるからです。
低学年の国語を担当している私が日本の小学校とは違うと感じるのは、日本語をそのまま「国語」として教えるのでは不十分だということです。
国語の授業では、できるだけ話を引き出して積極的に発言させるようにしてます。恥ずかしがり屋さんも、この半年で元気いっぱい発表できるようになりました。
また、表記の指導では書き順や字形をチェックしながらその場でたくさんマルをつけます。マル付けのペンは、色や助数詞の復習をしながら好きなものを選ばせます。また、友達に消しゴムを借りるときも日本語で声に出してお願いをさせたり、おしゃべりをしているときに文法的誤りがあれば「そう。〜なの。」と訂正して相槌をうちます。
そういう何でもないようなことを一人ひとりと向き合ってじっくりできるのは、少人数制の補習学校だからこそかもしれません。
低学年の児童は、私の注意が他の子に行くと敏感に感じ取って、寂しそうな目をしたり、私の注意を引こうとしたりします。それを見ると、普段1クラス20人〜60人の大学の授業でいったいどれだけ学生一人ひとりと向き合うことができているだろうかと考えさせられます。
先日、とても嬉しいことがありました。ときどき絵を描いてプレゼントしてくれる子が、今回は「せんせいは を(ママ)めでとうございます」とメッセージを書いてくれました。「ありがとう」の意味でしょうか。
それはさておき、初めは字を書くことを嫌がっていた子が、自分からメッセージを書いてくれたというのは一歩前進です。もうすぐ4月。補習学校は新入生を向かえ、新たな一年がスタートします。純粋な瞳から、また大切なことを教えてもらうことになるに違いありません。
高山 敬子
(瀋陽薬科大学)
夜中にふっと目が覚めた。何か感じる。闇に目を凝らして、耳をすます。
「、、、ト、ト、ト、、、、、、」
確かに枕元で音がする。
左手を伸ばし、枕元の電話台をガタガタ揺らす。隣に寝ているのが、
「なんだよ。うるさいなあ。」
「何か音がするの。ホラ、、、、、ね。」
「ウ、あー ほんとうだ。」
電気をつけて、家捜しを始める。
「、、ト、ト,ト、、、」
校庭に向いた窓のブラインドも天井も何の変化もない。でも、「ト、ト、トッ、、、」
規則正しい音は続く。しばらく二人で白い壁をながめていた。
「わかった!あそこだ。」
彼の指差す先にかすかに天井から細い水の流れた跡が見える。それは壁から電
話台の後ろに続き床板へ、ト、ト、ト、、と規則正しく雫が落ちている。ひとまず、床に、レストランでもらう手ふきを放り込んで眠る。
朝、目が覚めると、もう、雨漏りの場所を探す必要はなかった。スチームの上の窓辺には、あちらこちら水溜りができていた。私の部屋は三階で最上階なので、雪融け水が部屋の中に流れてきているのだ。
学生が外事処のトラブルを処理してくれるキュウさんに電話してくれた。しかし、彼は電話を受けても少しも慌てず、
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一日、一日、春は確実にやってきている。明るくやわらかな陽射し。芝生の上の雪もキラキラ輝きながら融けている。そして、わたしの部屋の中でも、、。水の滴りは前日よりさらにひどくなった。窓辺と床に敷いた手ぬぐいは30分もしないうちにぐっしょりになる。バケツと洗面器が必要になった。壁を見上げると、細い水の流れがいく筋も光っている。天井は窓にそって、3、40センチの幅で濡れ、縞模様を作っている。ポトッ、ポトッ、、と雨垂れの音が部屋中に響く。いっそのこと傘をさした方がいいのかな、とさえ思う。ぼんやり、壁のしたたりを眺めていると、彼がキュウさんとサイさん(外事処の所長ではないが、実質の責任者)を引っ張ってきた。キュウさんはニコニコ笑っているだけだが、サイさんは「オー、ソーリ、ソーリ」とわかったという顔。
彼らが帰ってまもなく、屋根の方からドンドンと大きな音が聞こえ、20分ぐらい続いた。屋根に3,4人上ってなにやら動いていたという。それから雨漏りは徐々に少なくなり、その日の夕方には完全に止まった。
学生が言った。
「先生、何かあったら、サイさんか所長さんに言うのがいいです。彼は力があります。早いです。」
ナルホド、ナルホド。
改めて、彼の忠告を思い出した。
これが、中国。
加藤 正宏
(瀋陽薬科大学)
「シベリアに抑留され、大変でした。」などと、「抑留」という言葉はどこかで目にしたり、耳にしたことのある言葉であろう。しかし、「留用」という言葉はどうであろうか。私自身、最近までこの言葉を知らなかった。
「満鉄附属地」をHPで何回か紹介させていただいく過程で、奉天の附属地についての貴重な情報を寄せてくださる方々と知り合った。これらの方々が情報を寄せてくださるメール文の中で、この「留用」の文字に出会った。目にしたことのない、耳慣れない言葉だなあと思いながら、「抑留」(他国の人や物を、その国に帰さないで、強制的にそこにとどめおくこと:三省堂の新明解国語辞典)と同程度の意識で受け止めていた。
私のこのような認識を覆す情報を、栗原節也さん(瀋陽日本人教師会のHP「満鉄附属地」にたびたび情報を寄せて頂いている方)から頂き、この言葉を十分捕捉していなかったことを知った。そして、私はその認識を改める機会を得た。
栗原さんの情報は次のようなものであった。
「留用すなわち抑留とはならないのではないかと思います。 国府時代についていえば、当時の日本人の置かれた立場、情況および彼我の関係から、形式上は命令の形で残った、残された訳ですが、全てが強制によるものではなく、懇願されて残った者、希望して残った者もいたようです。 過去に比べたら不十分であっても住居があり、給料が支払われ、教育設備もあり、行動の自由があったわけですから、抑留的処遇とは少し違うように思います。 なお、共産党、軍の留用者は『國際友人』と呼ばれていたとか・・・。」
そして、「留用」について書かれた本を紹介してくださった(写真)。NHK取材班による「『留用』された日本人」、サブタイトルは「私たちは中国建国を支えた」というもので、日中国交回復30周年の特別番組を本にしたもの、2003年にNHK出版で初版が出されている。
春節にあわせ帰国した時期、この本を取り寄せ読んでみた。
日本の敗戦(中国などでは光復)後、東北に残された多くの日本人は帰国を急いだ。そんな中、半強制的な状況下で残らざるを得なかった日本人たちが居た。技能や技術を身につけた日本人に、新中国はその建国に協力を求めたのである。栗原さんの言われているとおり、懇願されて残った者、希望して残った者も居たが、その多くは帰国を頭に描きながら、時の状況下での運命を受け入れ、「留用」(留め用いる)を受け入れてのものであった。しかし、彼ら日本人に対する中国の処遇は戦争捕虜のそれではなく、友人としてのそれであり、栗原さんも言われているように、住居も与えられ、給料も支払われ、子どもたちの教育施設も考慮されていた。それは、中国人の技能者や技術者同等、時にはそれ以上でさえあった。このような処遇の中で、日本人の多くはその勤勉な態度でこれらに応え、新中国建国の初期の活動を支えた。その真摯で勤勉な日本人の態度は、共に建国に携わる多くの中国人の心を捉え、信頼を勝ち得て、友好を深めていった。老百姓(庶民)と老百姓(庶民)が共に働き、共に生活していく中で培われていった実のある友好であった。
もう一冊、栗原さんは紹介してくださった。2006年1月号の雑誌「人民中国」である。若い頃、私も読んでいた雑誌である。紙質が良くなって、今も発行が続けられていた。武吉治朗の記事「友人として扱われた『留用』日本人」がそれである。この中で、中国中日関係史学会が1999年に「留用」日本人の事跡を発掘、編集して記録に留めることを決議し、その成果として、「留用」日本人の壮絶な生き方を綴った「友誼鋳春秋」(中国語版)が2002年に第一巻、2005年に第二巻を刊行したこと、またこの二冊を日本僑報社の「新中国に貢献した日本人たち」として武吉自身が翻訳したこと、そして、この翻訳書に故後藤田正晴氏から「本書に登場する人々は、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復して、今日の礎を築かれた。両国関係がきびしい状況にあるとき、地道な草の根交流という原点に立ち返るよう、本書の人々は呼びかけている。」との推薦文をもらったこと等を紹介している。
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私の読んだNHK出版の「『留用』された日本人」という本でも、「留用」日本人たちが、後藤田氏が書いているように、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復しいった内容が、鉄道関係、医師・看護婦関係、空軍軍関係、鉄鋼関係など、それぞれの専門分野で頑張られた様子を通じて紹介されていた。予期しなかった一つの困難な時代状況下に置かれても、頑張り、日中両国の友好の草の根交流の基礎を作っていかれたこれらの「留用」日本人の姿には、胸を熱くされるものがある。
HP「満鉄附属地」に情報を寄せて頂いた方々の親族にも、「留用」日本人として日中友好の基礎造りに貢献された方が多く、また、「留用」日本人の看護婦として残られ、後には中国人と結婚され、瀋陽に今も住んでいる方に電話をおかけする機会などもあって、「留用」という言葉は、私にはより身近な言葉になってきている。
半強制と自由意志との違いはあるものの、私自身も、早くから日中友好の草の根交流の一つの役割を担おうと考え、1986年〜88年(西安、西北工業大学)、2000年〜02年(長春、吉林大学)、2004年〜現在(瀋陽、瀋陽薬科大学)と、日本語教師として行動してきている。西北工業大学や吉林大学の先生や学生たちとは、中国に彼らを訪ねたり、日本の我が家に彼らを迎えたりして、今でも頻繁に交流が続いているし、街中で知り合った人たちとも文通したり、時には訪ねて行ったりしている。
「留用」日本人の方々を知るに到り、「留用」日本人の方々が築かれた日中両国の友好の草の根交流に思いを馳せると、その原点を見失わずに、継続して、その役割を担っていきたいものと思いが、改めて心の中に涌いてくる。
「留用」、この言葉は日本のほとんどの辞書で、未だ取り上げておらず、探せない。中国でも日本でも特に取り上げられるようになってから、まだ、数年しか経っていないようだ。この言葉が一般的な言葉となって、辞書に定着し、日中双方の歴史教科書に記載されるような時期が早く来て欲しいものだと思う。双方の教科書に「『留用』日本人」のことが記載されるということは、日中が全ての面で友好を深めている証左にもなるものであろうから。
高山 正義
(瀋陽薬科大学)
唐れからーうん年♪♪♪瀋陽に来て3年、髪結いの亭主も板についてきたと、思いきや日本にいた頃の生活から抜け出すことが出来ず、昔歌にあった様に、炊事洗濯まるでだめ、不器用を絵に描いたような男。よし中国に来たんだ、時間と暇があるんだからひとつぐらいものにして帰ろうと思い、一念発起、自分の力をも返りみず中国語をマスターしようと思いたつ。
まず先生を探さなければと思い、隣の部屋に住んでいた一年に三ヶ月ほど薬学の専門科目を教えにみえる客員教授に相談、院生を紹介していただいた。
その先生は美人と言うより、すごくかわいく、やさしい、そのうえクラスでもトップクラスで日本語の国際1級試験も350点以上の成績だった。週に1回2時間で教科書とテープは先生が用意した。
それからと言うもの先生の時間にあわせ、週1回の勉強が楽しくなり、レッスンの時間は短く、日本語の雑談は多くなった。買い物や旅行に一緒に出かけ、面接した時は日本語から2年間も離れており、話し方もおぼつかなかったが、みるみる彼女の日本語は上達した。
私が招待所の所長と話をする時は所長の日本語より彼女の日本語がうまいので所長自ら彼女を連れて来るように私に言って、通訳をするまでになった。おかげで私の中国語はさっぱりで先生から日本語の授業料をもらわなければ????????
1年のうち瀋陽4ヶ月、休暇で日本2ヶ月、また4ヶ月、2ヶ月との繰り返しで日本に帰り、友人や前の会社の同僚とかに会えば必ず、「中国語がもう、ぺらぺらになったんだろう。」こちらの気持ちも知らないで聞く。困ったもんだ。後悔先に立たずという言葉もあるが、我輩の中国語は瀋陽に来た時と全く同じで、聞くも、話しもさっぱりだめだ。「それでも聴く位は分かるだろう」としつこく聞くいやなやつもいる。!!!!
これから日本へ帰国した時は、何年中国にいたとは言わないように、言葉をそらす方法でも考えよう。
加藤 文子
(瀋陽薬科大学)
私は以前、夫と共に長春に暮らしたことがあり、中国を懐かしむ気持ちもあって、3,4ヶ月に一度は瀋陽に来ています。
春節の休みがあけて、私たちは瀋陽の空港に着きました。雪が降っていて、一挙に真冬の寒さに引き戻されました。私は寒さにふるえましたが、夫は妙に生き生きしています。
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彼は学生に日本語を教えることを楽しんでいますが、週末になると更に元気になるようです。というのも、土曜、日曜は古玩城の近くで開かれる骨董や古書の市に出かけるのを楽しみにしているからです。
古書を買い求めることのほかに店主や老百姓(庶民)との交流も楽しんでいるようです。
私も何度か同行し、お喋りを楽しみましたが、古いものに興味のない私には歩くだけでも疲れます。おまけに購入した本で重くなった荷物があっても、絶対にタクシーに乗りません。「一元のバスがあるじゃないか」というのが、持論です。食事も「腹が空いたら食べる」ので、「食べるために生きているのではない」と言います。
私は長春のときから、彼と一緒に歴史的な建造物を散策するのを楽しみにしています。実際に当時のものを目にすると、過去の歴史に直面せざるを得ない思いがします。瀋陽では、山形御夫妻が彼の理解者になってくださり、四人で街を探索しました。歩いた後はおいしい食事つきです。グルメな山形先生のおかげで、中国に来たくなる理由の一つが増えました。
今回、私は毎回教室に行き、学生と交流ができました。日本人教師の会にも出席させていただき、先生方の熱い思いを知ることができました。これも貴重な体験です。ありがとうございました。
彼が中国での生活に慣れているのはいいことなんですが、心配もあります。多少中国語が喋れるので、そのぶん中国人とトラブルを起こさないかということです。服務員とケンカになったこともあるし、以前の大学では誤解を受けたこともあります。「われわれは個人として来ていても、日本を背負っているんだから、言動には気をつけないと・・・・」と話し合ったことがあります。反日デモがあった時も、彼は領事館の近くまで見に行ったと言います。好奇心はいいのですが、「年寄りの冷や水」というような事にならなければ・・・と思っています。
夫が赴任した西安・長春・瀋陽でたくさんの友人知人ができました。留学生としてや仕事で日本にやって来た中国人が何人も日本の我が家を訪ねて来てくれています。これは私達にとって貴重な宝にとなっています。
今回の私の滞在も残りも少なくなりました。彼は買い求めた本を詰め、来た時よりずっと重くなった荷物を持って帰国します。次回もどうぞ宜しく。
(2006・3・5)
中道 秀毅
(瀋陽師範大学)
この稿は「大学・文学・時代」と題する予定でいましたが、それを表題のように変えました。ある感慨があります。この文を起こそうとした今日から弥生3月。面白いことに今日一日で空気が春の雰囲気に満ちてきました。日本にいたら孫たちと雛様たちの勢揃いを見上げて楽しんでいるでしょう。
(イ)息子の転職
9月28日、国慶節休みに帰国しましたが、追われるようにしての毎日でした。懸案は長男の転職です。彼の毎晩の帰宅は12時が、1時、2時、3時へときりがなく遅くなり、手当てもなく過労死を心配するような状況でした。日本の経済が好調のところを除くと、大体が、異常を呈していますね。最悪の事態になることを恐れ退職させることにしたのですが、夏に退職を申し出たのに、やっと退職できたのは秋になってからです。退職祝いを、寿司屋で食べたいだけ食べ、豪華にやってあげました。頑張ってもらいたいからです。
転職先は全国展開しているフランチャイズのハウス・クリーング業のオーナーです。時代を読んだつもりの転職ですが、都会の市民クラスのニーズにはあいますが、地方都市沼津周辺ではなかなか難かしいですね。換気扇や洗濯機やバスなどの清掃は子育てが忙しい3、40代のママが顧客であることがわかってきました。あとは引越しのため丸ごとの清掃という急ぎの依頼です。高齢家庭ではトイレやバスの月一度定期の顧客もありました。
いずれも宣伝してこそ知られるのです。新聞折込や、各家にチラシをいれる、タウン誌に広告を載せるなどいろいろ試しました。甥っこの出世払と、彼の伯父や叔母も協力してくれ、私、本人の5人組で毎日弁当持参、午前、午後を足にまめを作って歩き回り、約一万枚をポスティングしました。みな退職組ですから、大変でしたが、毎日歩き回るので昼食時は、食が弾みます。ピクニックのようでした。
この苦労を知らずに1月12日、待望のかみさんが帰国しました。丁度かみさんが帰る前日に、重いものを気安い姿勢で持ち腰を痛めてしまつた私。天の助けのようにかみさんが、息子を助けて頑張り出しました。この仕事はひとりでは効率が悪いのです。夫婦でやるとよいのですが、息子は華の独身です。
課題は今後いかに事業を展開するかですが、オーナーである息子が一人で自立し、頑張ってくれることを願うのみです。
(ロ)長女の出産―逆転のホームラン
思えば、1999年8月、山東省青島市の私立大学日本語科赴任が中国生活の振りだしでしたが、その年の1月に初孫の誕生していて、毎年夏・冬の帰国のときに半年ぶりのご対面でしたが、彼女の成長ぶりは目覚しいものがありました。彼女ももう7歳になりました。
二人目の孫が2004年3月に誕生しました。この条(くだり)は日本語クラブ2003年3号全員集合の巻「鶴間好日・私のベビーシッター」に書きました。
思い出すのは病院から母子ともに、健やかに退院した11日目の夜でした。孫をママから抱き取ろうと私はそおっと、大事にかかえたつもりだった。が、赤ちゃんは腕からぽろりと、絨緞の上へうつ伏せに落ちていたのです。ママと上の孫と私の3人の真ん中へ。
一瞬、誰も声が出ませんでした。とんだ大事件です。すぐ救急車を呼びましたが出払っていて、だめ。タクシーで病院へと。還ってくるまでの長かったこと。
じいじは、小さくなっていました。
還ってきたママが、「若い先生が、診察してもどこも悪くありませんって。僕には、わかりません、だって。」ママの口ぶりは何でもなかったことが何か不足みたい。やれ、やれ、一件落着と相成りました。
早いもので、あと一月で、この孫も二歳になります。睫毛がカールしていて長く、瞳のぱっちりと大きな美人(?)です。そして今年2月17日に待望の男の赤ちゃんが誕生しました。まだ小さい二番目の孫にとってはママを奪われる大敵出現ですから、今後どうなりますか、気になるところです。
2月のファミリーの最大行事は2月4、5日、熱海のホテルに一泊した“ひいばば”の91歳の誕生会でした。
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| 誕生日のケーキを前にして |
二人の孫にとって、ママを離れてのお泊りは初めてのことです。お産がいつ始まるかもしれないママは残念そうでしたが来られません。1歳10ヶ月の孫は、ブーブ(自動車)が大好きでブーブに乗るとなればママを忘れるほどです。ママにバイバイしてご機嫌で来ました。もっともいつも遊んでくれるねえねも一緒なので安心だったのでしょう。みんなこれなら安心と思ったのでした。後のできごとまでは予測できなくて。
伊豆に慣れた僕たち一行には、熱海は独特のよさがありました。僕の叔父夫婦はスキーが好きでしたが「熱海ブルース」の歌を歌っていたのを、子供ごころに覚えています。久し振りの熱海ですから、「中山晋平」の別荘の庭も訪ねてみたいですが、今回は一寸と無理です。
宴会は気の合う二人のコンビ(うちの孫7歳と義妹の孫の5歳の男の子)が半年振りの再会に興奮してはしゃぎまわり、睫毛カール美人がフラ、フラ、イソ、イソとおねえちゃんお兄ちゃんたちの後を追い、その様子が可笑しくて座を盛りあげてくれ、腹を抱え笑いこけました。
さて、主役の大きい二人は湯に入って、バタンキュウでしたが、カール美人ちゃんは、昼寝も十分でなかった上に極度の興奮で気持ちがいつもと違います。いつも傍にいてくれるママもいません。ママが恋しくなりだしたのでしょう。悲しげに泣き始め、やがては誰が何をしようが、どうしてもだめでした。恵津さんが、どうにかしようとだっこし「ネンネンよーおー、おころりよーお・・・」もだめで、布団の上で泣きつくし、声も涸れつくし、泣きながら泣きつかれ、ねえねが眠っている体に被さって、おとなしく眠りにつきました。こうなることを私たちは、わからないではなかったのでした。彼女はねえねのあたたかい、柔らかなそれが、何より頼れるひとであることを、本能的に体得したのでした。
あとで、ママが「あたしも、行きたかったな。」と残念そうに言うのです。彼女の出産日が迫り、大学へは一便遅らせて帰る了承を得ました。意外にはやい陣痛で、よいお産だったようです。男の子でした。この二月・きさらぎは、はらからとか、うかららとか、肉親の、この自分につながる生命への愛おしさを深く感じ、あたたかな幸せな気持ちのうちに生きることについて考えさせられた月でした。
(06・3・1)
山形 貞子
(瀋陽薬科大学)
今年は卒業研究を山形研で行う学生は4人だ。5人が申請してきたけれど一人はこの4月から日本の大学に行くことになった。
残りの4人のうち2人も日本留学希望で、もう行く先の教授と話がついているらしい。あとは入学試験に通ればよいという状況だ。
新学期が始まって4人は仕事をはじめた。上級生達が新人類だと言っている彼らは元気で積極的だ。4人いるという心強さもあるのだろうし、もともと明るい外向的な性質の学生達なのだろう。
さて彼らと話をしていて、“そうです”について私は書きたくなった。
彼らは分からないことがあると遠慮なく私のところに聞きに来る。例えば細胞を別の培養皿に移す時にトリプシンを使ったのにうまく細胞がばらばらになりませんという。先輩と同じようにやったのに何故でしょうかと聞きに来る。
細胞は血清を含む培養液の中で培養しているので、“トリプシンで処理する前は細胞を洗ったの?”と聞くと洗ってないとの返事。“トリプシンはタンパク質を分解する酵素だけれど阻害物質が血清の中に含まれているから洗わないと効きにくいのよ”というと“そうです。効きにくいです”と言う。効きにくいと知っているなら私に訊くなと思いながらも、“それに細胞間の接着に働く分子はカルシュウムを必要とするから、カルシュウムを除けば、細胞はもっとばらばらになりやすい、だからEDTAの液で洗いなさい”というと“そうです。EDTAを使うといいです”という。
知っているなら頭を使え!知らなかったなら“分かりました”と言えと私は心の中で怒っている。
もっといらいらさせられるのは、試薬などの計算が分からずに聞きに来たときだ。こうやって計算すればいいでしょうと私が計算してみせるのを横で見ていて“そうそう”と言いながらうなずいているのだ。まるで生徒が計算しているのを眺めている先生のように。
こういう会話を私は何度も経験している。分からないからと聞きに来た学生に一生懸命説明すると“そうです。何何です。”とか“そうそう”などという言葉が返ってくるのだ。その返事を聞くと私は不機嫌になる。
今思えば最初にこの研究室を開いた当時も私はよくぼやいていた。中国の学生は知らないことを知らないと言わない。私が説明したあとに“そうです。私もそう思っていました”というような返事をする。それなら自分が先に考えを述べればいいのに全て説明を聞いてから知っていたみたいなことをいうのは何事だと。
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私は日本語の大変上手な学生に囲まれて生活をしている。 単語もよく知っているし、日本語独特の言い回しもできる。だから彼らを日本人同様に日本語ができるとつい思ってしまっていた。しかし多分彼らは“そうです”の使い方を知らないのではないかと今回卒研生と話していて考えるようになった。
“そうです”というのはもう知っていることを確認するときに使う言葉なのだ。“これは机ですか?”“そうです、机です。”この人は机を知っているから“そうです”と返事をするのだ。“あの方はお父様ですか?”“そうです。父です。”自分の父親だから“そうです”と返事ができるのだ。だから知らないことを聞きに来て説明を聞いて“そうです”と返事をするのはおかしい。最近度々経験するので多分“はい”とか“そうだったのですか”と同じ気持ちで使っているのではないだろうかと思うようになった。
日本人にすれば“そうです”と返事をされればもう知っていたのかという感じを持つのだけれど、そのニュアンスが分からず、“はい、分かりました。EDTAを使えばいいのですね”とか“そうやって計算すればいいのですね”と言うつもりが“そうです。EDTAを使えばいいです”とか“そうそう”と言う返事になっているのではないかと推測するようになったのだ。
彼らが日本に留学したときに先生を不愉快に感じさせないように私は返事の仕方を注意しようと思っている。多分日本語の先生方に、“そうです”のニュアンスを学生達に教えてくださいとお願いするのは行き過ぎかもしれない。なぜって日本語が下手な学生がどう使ってもこちらはそのつもりで聞いているので問題ないのだ。ただ日本人と同じように話せる学生から“そうです。EDTAを使うといいです”とか“そうそう”などと言われるともう教えてなんてあげない!という気になってしまうだけなのだから。
池本 千恵
(和亜久外国語培訓中心)
私はスポーツを見るのが大好きだ。特にファンというわけではなくても、試合展開、或いは、選手の生き様から学ぶ事がたくさんあるからだ。そんな私にとって2006年はスポーツのビッグイベントがある楽しみな年だ。
そのトップバッターは2月に行われたトリノオリンピック。
福岡で生まれ育った私にとって、冬の競技というのは、今ひとつ馴染みがない。昔は近くにスケートリンクがあってよく連れて行ってもらったが、スキーは高校の修学旅行で1度行っただけ。
それに、冬のオリンピックの競技は、ルールや採点基準がよく分からないため、なかなか一緒になって盛り上がるのが難しい。
しかし、スノボー、フィギュアスケート、モーグル等、見ているだけでワクワクする競技も多いし、CCTVは殆どの競技を中継してくれるので、日本人選手の活躍が見られるのもうれしい。今回は開催地がイタリアということで、生中継は大体深夜2時から。午前中から授業のある私には、かなり厳しいスケジュールだが、注目している競技の時は、頑張って夜中に起きた。
日本ではきっと、各局が人気タレントをキャスターとして迎え、オリンピックの特別番組を放送していたのだろう。今まで無名だった選手が注目されたり、地味な競技と言われたカーリングがブームになったりしてると聞いている。
では、ここ瀋陽では・・・。誰も見ていない。少なくとも私の周りの職員、先生、学生たちは。
オリンピックは日本語を教える教室でも恰好の話題である。色々な文型にも使えるし、学生たちの反応もいい。ちょうど受身形を教えていた私は、いつものように例を挙げてみた。
私「今、オリンピックが行われていますか。」
学生「いいえ。」
私「冬のオリンピックがあるでしょう?」
学生「あー(そう言えばあったなあ)」
私「どこでオリンピックが行われていますか。」
学生「ドイツ?フランス?ノルウェー?」
これくらい冬のオリンピックは認識されていなかった。日本では子供でも知っている話題なのだが、やはりマスコミ環境の違いなのだろうか。(話は逸れるが、北京オリンピックは別として、学生たちはイベントごとについてあまり知らない。今年、瀋陽で開かれる世界園芸博覧会についても、ようやく最近話が通じるようになった。イベントにすぐ飛び付くのは日本人の習性なのだろうか。)
フリースタイルスキー・男子エアリアル(空中技巧)で中国人の韓暁鵬選手が金メダルを獲った。冬のオリンピック男子初の金メダル。しかも、瀋陽体育学院の出身だ。正直言うと、その後に行われる女子のフィギュアの試合が見たくて起きてた私だが、韓選手の2回目のジャンプには鳥肌が立った。真っ暗な空を舞う彼のジャンプはスローモーションのように見えた。そして、その後のガッツポーズ。点数が出る前に彼は喜びを体一杯で表していた。ああ、この人は今、点数とか順位とかじゃなく、本当に今の自分の結果に満足しているんだなと思うと、心が震えた。
しかし、だ。次の日、学校でこの金メダルのニュースを知っている人は誰もいない。日本中が荒川選手の金メダルに沸いていたその日、韓選手の話題は私の周りではどこからも聞かれなかった。むしろ日本人の私が一人で興奮して、「本当に素晴らしい演技だったから、今日のニュース見てよ」と周りの人たちに伝える状況だった。同じ金メダルでも、冬のオリンピックは夏のオリンピックに比べると、やはり注目されないのか。(もちろんテレビやインターネットのスポーツニュースでは大々的に取り扱っている。)
確かに、日本人はちょっと騒ぎすぎる傾向があると思うが、この興奮を分かち合えないのはちょっと寂しい気もした。
今回のオリンピックについて、情報不足だった私は、インターネットのコラム等を読んで、色々勉強した。やはり今日に至るまでの選手1人1人の過程を知ると、応援する方も熱くなってしまう。
その色々な記事の中で気になったのが、「どうしてロシアはフィギュアスケートが強いのか」という内容の記事だった。フィギュアスケートの採点方式が新基準になったと言われているが、素人目には1位の選手も2位の選手も、明らかなミスがない限り、みんな素晴らしく見える。そして、何回転ジャンプしたかとか、スピンの速度がどのぐらいかとか、目先の大技に注目してしまいがちだ。
しかし、実は、フィギュアスケートでは、スケート靴の刃が氷に触れる部分、エッジの技術が大切で、基本の滑りがきちんとできなければ、高いジャンプも高度な技もできないのだそうだ。ロシアの選手は昔から代々伝わるそのエッジの技術を徹底的に教え込まれるという。新しい技を開発したり、新基準の採点方法に慌てて対応したりするのではなく、基本をしっかりとやることが結果につながるということなのだろう。
なるほど。これは外国語を学習する際にも同じことが言える。基本練習は退屈でつまらないが、基本がしっかりしていないと、いくら詰め込んでも積み上がらない。「基本の大切さ」を改めて感じた。
今回、日本人選手の主役はやはり荒川静香選手だろう。私も一人薄暗い部屋でその演技を拝見したが、本当にテレビに吸い込まれそうになる程、素晴らしかった。荒川選手の演技が終わった後、会場のお客さんたちも全員立ち上がって、拍手を送っていた。もちろん日本人の応援団が多数詰め掛けていたが、それ以外の様々な国の人たちが、みんな立ち上がって拍手している姿に胸が熱くなった。
勝ち負けもメダルの数も、国も民族も越えて、素晴らしいものを素晴らしいと讃え合うことができる。こんな気持ちを世界中の人が持つことができたら、この世界はどんなに素敵になるだろう。
荒川選手ばかりでなく、クロスカントリーのリレーに出場した福田選手が6人抜きしてトップに躍り出た時も、やはり会場のあちこちから賞賛の声が上がったそうだ。冬のスポーツには、限界に挑戦する人たちに胸を熱くさせられる何か不思議な力があるのかもしれない。
オリンピックに限らず、スポーツは綺麗事だけでは済まされない部分もあるが、子どもたちが夢を持ち、大人たちが勇気をもらえるような、そんな感動のシーンを期待して、これからもいろんなスポーツを応援していきたい。
井料 衛
(東北育才学校)
寝台車で南京へ
中国人と同じ列車の同じ席に座り旅行するのが私の夢であった。5月の連休に山東省中国国際旅行社主催の南京・黄山行きのツアーに参加することにした。料金は1250元。28人のうち中国人でないのは私だけ。殆どの人が済南近辺か山東省内の人たちであった。見たところ、参加者は小学生から85歳まで男女様々であったが、中高生は見かけなかった。
5月2日18:30 済南駅鉄道大酒店前集合 旅行社の係員が点呼を取る。旅行中 Jin liao Wei と呼ばれるので、聞き落とさないように注意した。予約のとき英語しか話せないと知らせてあったせいか、この人たちについて行きなさいといって若いカップルに頼んでくれた。旅行者の人は列車の切符と緊急時の連絡先を書いたメモをくれてドロン。あとはひたすらカップルのあとについ行くしかない。私の席は二等寝台の下段。若いカップルは上段になっている。私との関係であろう。すぐ前は20ぐらいの娘と一緒の50歳代の女性である。下段は年の多い人を優先しているらしい。日本の二等寝台と違って昼間もそのまま座席として使うので、中段のベッドとの間隔が広い。頭がつかえないのでとても便利である。たぶんその分、上中段が余計に狭くなっているだろう。
車中泊は楽しい
20:06 発車。 私の中国語ではとても意志の疎通は出来ないのだが、若いカップルが多少英語を話せたので、就寝まで話が続いた。流暢な英語とは言えないが十分用は足りた。やや女性の方が上手だった。あまり流暢でない方がこちらも楽である。英語で通じない単語は漢字を書けば事足りる。男性がトマトを勧めてくれた。中国ではトマトはよく野菜として使うが、このようにフルーツとして携行する人もあることを知った。心がこもっていたせいかとてもおいしく感じた。これぞまさしく私が求めていた異国人との旅であった。明け方、トイレと洗面の順番を待つのが長かったが、これも想定内である。
南京見物
南京駅6:17下車。カップルのあとについて駅前の駐車場に出る。南京の女性ガイドの点呼。間違いなくJin liao Wei の名前も呼ばれた。直ちに南京市内見物に入り、梅園新村、周恩来記念館、南京1912酒?街、総統府大門楼、金陵第一湖――玄武湖外景, 秦淮河風光、夫子廟などを見学。夫子廟の前で9時半に解散するとき、ガイド嬢が中国語で、ここに10時半に集まりなさいと言ったと思った。買い物も早めに切り上げて10時半に行ってみると誰も来ていなかった。若いカップルもここでは、相手してくれなかった。不安な気持ちで集合場所が見える範囲でぶらぶらして待つこと1時間、全員が集まって来た。10点半(shi
dian ban) と11点半(shi yi dian ban)を聞き間違えた人は、さすがに中国人にはいなかった。
バス停はどこだ
午後は自由行動。私は他の二人と孫山陵見学に出かけた。他の二人とは85歳のお爺さんと20歳の大学生である。孫山陵行きのバス停を探して乗った。85歳のお爺さんは孫山陵の長い階段を物ともせず、階段の数を数えてメモを取りながら遅れることなく上って行った。人が多く帰りのバスに乗るのが大変だった。ようやく乗り込んだが降りるのが大変だ。85歳の爺さんも20歳の孫もバス停の名前を知らない。もちろん私も知らない。忘れたのではない。もともと確かめずに乗ったのだから覚えているはずがない。孫が外の景色を頼りに見当をつけて降りた。
ホテルはどこだ
ホテルを探すのだが、何せバス停が不確かなのだから見つかるはずがない。このまま探し続けてみたところで見つかりそうもない。この爺と孫はタクシーに乗ろうと言う。タクシーを止めてはみたが、ホテルの名前を知らないので行き先を告げることが出来ない。私の予想通り、さすがにタクシーの運転手も乗せてはくれなかった。ホテルに電話しようにも電話番号を知らない。それに3人とも携帯電話もテレホンカードも持っていない。私が非常手段を提案してやらせようとするが、孫がそれはしたくないという。角に警官が立っているので、事情を話して旅行社へ電話してもらおう。警官は公務だから警察の電話で連絡してくれるはずだ、といっても孫が取り合わない。私は最後の手段には自信があったが、外教担当の先生にも日本語を話さないようにと忠告されたぐらいだから、今回はなるべく自分が日本人であることがばれるようなことはしたくなかった。当時は反日デモの時期、南京は対日感情の良くないところである。
しかし、すでに6時を過ぎている。これ以上二人に任せておくわけにはいかないと思った。7時の夕食に間に合わない。さらに遅れると方々の店が閉まると訊く所も無くなってしまう。これは最悪の状態である。二人はなお歩いて探そうとしている。さきほどの警官はもういない。ついに腹を決めた。適当な店、たとえば書店はないかと探した。運よく中華書店があったので、そこへ飛び込み、英語の分かるものはないかと尋ねた。少しなら分かる、と一人の若い女性が申し出た。今夜泊る予定のホテル名が分からない。済南の旅行社に電話すれば分かるはずだといって緊急時の電話番号を見せた。話を聞いた店長が問い合わせてくれた。そこへ爺孫も入って来たので。通訳は要らなくなった。ホテル名も分かり、女店員の一人が付き添ってタクシーでホテルまで送り届けてくれた。電話代とタクシー代をと申し出たが要らないと言って受け取らなかった。この中華書店の宛名が分かればお礼状を出したいのだが、残念ながら分からない。タクシーが走った時間からすると、ホテルは3人が探していた場所からは大分離れていたように思った。夕食の時間はとっくに過ぎていた。このお爺さん大変感謝して、夕食代はお爺さんが払った。
黄山へ
翌日バスで黄山市に向かう。途中しばし田植えの風景を見る。農家育ちの私にとっては一昔前の日本を思い出させる懐かしい光景である。昼ごろ黄山市に到着、そして昼食。食堂は農家が観光客目当てに始めたような田舎風の食堂である。食べるものは野菜を主にしたやや田舎風の料理であった。
昼食の終わったところで、食堂のすぐ近くにある唐模景区の老作坊を見学。ここからは黄山のガイドが着く。英語が話せるかと聞くと、話せないと言う。 しかしその後連絡のときには、時間などは単語だけ英語で言う。中国語のときは漢字でメモしてくれた。夕食のあと仲間の人たちと一緒に街に出かけた。あまり大きな町ではないが、とてもきれいな街であった。観光地のため地域が美化に力を入れているのであろう。
雨の中の黄山
ホテルを出るときは降っていなかったが、ロープウェイ乗り場の近くに来ると本降りになった。時々やむことがあったが視界が良くなることはなかった。ロープウェイに乗っているとき、まわりはまったく何も見えないときがあった。ロープウェイを降りて歩き出したが、10メートル先はまったく見えない。頂上の有名な石碑が一瞬見えたのでガイドに言われて振り向いたが見る間もなかった。このような天候の中を上ったり下ったり何時間も歩いたが、山全体の中でどの位置を歩いているのかさっぱり分からない。ガイドを見失わないように歩くのが精一杯である。レインコートを着ているためにお互いが確認しにくい。例の孫はしっかりとお爺さんに付き添って歩いている。85歳にしてよくがんばっているのには感心しだが、それに付き添う孫の面倒みのよさにも頭が下がった。
下山は徒歩組とロープウェイ組に分かれ、私はロープウェイを選んだ。ところが乗るまでに3時間以上待たされ、ロープウェイを降りたときには、徒歩組はとっくに到着していた。
帰りも寝台列車
黄山のホテルにもう一泊して、翌朝早朝に帰路に着く。列車は南京西15時30分発の二等寝台。中国の二等寝台の列車は昼間から寝台になっている。席の配置は往きとほとんど同じである。年の多い人は下段。年長者への配慮が行き届いてありがたい。往きは会話に加わっていなかった前の席の中年のおばさんも加わって話がはずんだ。私が中国語は話せないが書けば分かることが分かったからである。山東省??市から親子3人で来ていた小学生は英語を習っていると言ってしばしば英語で話した。私が名刺をあげるととても喜んでいた。父は????台の職員だと言っていた。
深夜の帰宅
寝台列車といっても済南着が1:35だからほとんど寝る間はない。駅からタクシーで10分だが、別の客を一緒に運ぶので回り道をする。やや時間がかかる。深夜の帰宅は、料金をふんだくられないか、宿舎の門は閉まっていないかなど、自分の部屋に入るまで安心できない。
この旅行を済ませて何か得をしたような気がした。金銭的な面ではなく、中国人と寝食を共にし、共に行動できたことである。残念なのは黄山が雨だったことと、カメラの調子が悪くて写真が撮れなかったことである。黄山はもう一度天気のときに行ってみたい。今回の旅行は外国人目当てのツアーでないせいか、特定の店にバスを止めて買い物をさせる時間が組んでなかったのもよかった。折をみてまたこのような旅行をしてみたいと思っています。
加藤 正宏
(瀋陽薬科大学)
1985年、初めて中国を旅行した時、天安門の北にある午門から入り、紫禁城(故宮)を見学して、真北に位置する神武門から出た。このとき、門外に建ち並ぶ露天の一軒でうどんを食べようとしたところ、変わった小額紙幣を目にし、店主に請い譲ってもらった。それは壹分、貮分、伍分の当時の紙幣と体裁も色も形も、あまり違わなかった。しかし、これは紙幣でなく、「北京市地方糧票」の壹市両と貮市両であった。それ以来、糧票及び糧票の類の収集に努め、30強の中国行政区(省・自治区・直轄市)のそれらを集めてきた。現在1000種弱もの糧票の類を手元に所持している。
糧票は、食料の十分でない時期、社会主義の精神にそって、中華人民共和国の国民に漏れなく食料を分配するために発行されてきたものである。これ自体は、代金にこの票を添えて初めて、食料が入手できるもので、金券そのものではないが、歴史的役割を約40年にわたって果たしてきた。
政務院の1953年の命令に端を発し、55年には法が制定され、糧票は各行政区で流通し始めた。農業生産責任制の下で、農民が政府に納めた後の剰余的生産物を処理する権利を持つようになると、80年代後半からは自由市場が各地に現われ、本来の食料分配の役割はしだいに担われなくなった。そして、90年代初めにはその役割を終え、廃止され、現在は発行されていない。しかし、各行政区で約40年間にわたって発行された糧票及び糧票の類の種類は膨大で、収集の対象になっている。
糧票の類とは穀類以外の油票、魚票、肉票、煤炭票、布票などである。また、様々な物品供給の不足に対し、それらの購入を国民全体の間で円滑にするために発行されていたのが、購貨券であった。
収集してみると、年代や地域などの違いで、字(繁体字と簡体字、民族文字と漢字)、単位(16進法と10進法、市斤と公斤と克)、標語(毛沢東の語録など)、図柄などに、時代や地域が反映されていて、なかなか面白いものである。また、図柄にはその地域を代表する名所旧跡が取り上げられることが多く、これも楽しい。
今回、遼寧省の糧票と購貨券の図柄を幾つか紹介してみようと思う。
@ 1964年の壹市斤
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に描かれているのは省都瀋陽にある遼寧工業展覧館である。1960年に完成した。二つの塔の屋根と四周の屋根の瓦屋根からは、中国の民族的な建築様式が感じ取れる。ここでは、いつも何か催しが行われている。時には、新しい書籍の廉価販売が行われることもある。2階には常設の店があり、デパートの1フロアの感じである。
遼寧省展覧館(糧票)、瀋陽駅(購貨券)
A 1963年の1張券
瀋陽市購貨券の図柄は、瀋陽駅である。日露戦争の結果、ロシアの権益を受け継いだ日本は、東清鉄道支線の長春以南旅順までを、南満州鉄道つまり満鉄として継承した。この満鉄最大の駅建物として、1910年に落成したのがこの建物である。この建物の2階にはヤマトホテルも最初は入っていた。
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B 1968年の0.1張
券瀋陽市購貨券の図柄は、文化大革命最中のもので、その特徴をよく表している。毛沢東選集を掲げ持つ軍人とこの軍人を挟み込むように穀物の束を担ぐ農民(女性)と工具を手にする工人(男の労働者)が配され、背後には毛沢東選集を手にする多くの民衆が描かれている。
(毛澤東語録のある購貨券と糧票)
文字も「最高指示:抓革命、促生産、促工作、促戦備」(抓=捉える、工作=労働)だけでなく、図柄の垂れ幕にも語録の文字が見える。裏面には林彪の直筆なる毛沢東をカリスマ化した「毛主席の書を読み、毛主席の話を聴き、毛主席の指示を実行せよ」(拙訳)の文字が印刷されている。これは林彪の四句話の三句までで、次の四句は「毛主席の素晴らしい戦士になれ」(拙訳)となる。1969年の0.1張券錦州市購貨券にも林彪が毛沢東をカリスマ化したプロパガンダが記載されている。毛沢東が中国革命の舵取りだと例えている句だ。1969年の壹市両遼寧省地方糧票には「発展経済、保障供給」の語録も見られる。
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C 1988年の壹公斤(1キログラム)
丹東市居民大米供応票の図柄は、中朝友誼橋が主題となっている。
(丹東大米供応票)
2006年1月10日から9日間、中国の南方を極秘に視察して廻った金正日総書記が出入りするのに利用したのが、この鉄橋である。この鉄橋を真下に見ることができる中聯大酒店に昨年私は宿泊した。
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| 丹東中朝友誼橋と断橋 |
この中朝友誼橋は日本によって1937年に建てられ始め、1943年に完成した鉄道橋である。最初はドイツから鋼材を輸入して建造にあたったが、太平洋戦争突入で戦争が深刻化していく中、鋼材の輸入が難しくなって、吊り弦を連続した梁の橋にする予定は、途中で変更せざるを得なくなり、朝鮮側の部分は鋼材を倹約した平弦連続の梁となり、現在見るように中国側と朝鮮側では外観が異なってしまった。この橋は鴨緑江に架けられた2番目の橋であった。当時、丹東は安東と言われていて、最初の橋はこの橋の100メートルほど河口側に造られていた。これも日本が造った橋である。建設が朝鮮側から始まったのは、日露戦争後の1908年である。京義線(京城〜新義州)と安奉線(安東〜奉天)を結ぶ鉄橋であった。1911年3月には中国側からの建設も始まり、10月に大橋は完成した。これが鴨緑江に架けられた最初の橋であった。橋の中程の橋梁は20分かけて橋梁を90度回転させる開閉梁になっていて、大きな船も航行することができた。この鉄橋は第二鉄橋の完成で、道路橋に変わったが、これら二つの橋は姉妹橋と呼ばれていた。
しかし、この橋の開閉梁より先の朝鮮側部分は現在存在しない。1950年の朝鮮戦争時に米軍のB29爆撃機の爆撃を受け破壊されたのだ。破壊されて熱で溶けたようになった開閉梁の一部を含む残存したこの橋を、中国は断橋と名付け、愛国教育基地として観光化させている。この断橋の袂の嘗ての日本の守衛詰め所であった望楼も、日本の中国侵略の鉄証となる物件だとして、ここも観光化されている。中国においては、中央や地方政府による愛国教育基地化は到る所で見られる。日本では、広島や長崎の原爆投下地点は愛国教育基地ではなく、平和教育基地なっているんだが・・・・・。
中道 秀毅
遼寧師範大学
ある日、ふと見出したテレビ・ドラマが意外におもしろくて、独りで見続けたり二人で議論しながら見たり。見ごたえのあったのが2,3記憶にあります。
三月に入ったある夜チンヤンネルをまわすと、歴史ドラマが映りました。ラッキーです。重厚な画面の感じと前編を流れる音楽でひきつけられました。タイトルは、「漢武大帝」原作司馬遷・史記、班固・漢書・・・嗚呼、何という出会いでしょう。史記の原文を貝塚茂樹先生の和訳で読んでいましたから。偶然の出会いです。7時から9時までの2話を視て、武帝の若い時代の話であることがわかりました。
壮大、絢爛豪奢、重厚な漢王朝の宮廷は、数十段もの石段の奥の大広間に文武百官が控えます。「陛下の、おなり・・・」家臣のふれと同時に、凛々しい冠姿の武帝が、姿をみせるのでした。私の武帝との第一夜の出会いです。勇壮で家臣団を威圧し、鋭い弁舌と気迫にみちた振る舞い、字幕は目まぐるしく難解な漢語、分かろうと懸命に追いかけるのです。
次の日は、家の孫たちが、こんちやん「小錦」と言葉あそびのテレビをみる時のように、期待に胸弾ませて待ちました。タイトルがでて、今夜は19話と昨夜より3話も、跳んでいました。一晩2話構成が中国だと思つていたら、7時から4話も!11時の終わりですから、大変です。おまけに字幕の意味は、チンプートン。
韓信という武将が出てきました。いくさが上手で連戦連勝、「万歳万歳万々歳」と武帝の権勢はあがり、武帝の韓信への信頼もたかまります。
また、衛青という若い軍師的な、加藤剛を思わせる風貌の武将が、猛将、豪将、智将を抜いて武帝の信頼を篤くします。衛青には美しい姉がいて二人とも武帝に愛されます。
中島敦の「李陵」は、司馬遷と武帝、李陵の確執を描きます。私が中国を好きな根本には、彼らへの関心がありました。
張騫が西域視察で匈奴に捕らえられ、13年かけて帰還します。武帝は、夢かと驚き「陛下、陛下・・」と号泣する忠臣を深い感慨を持って迎えます。二人の脳裏に去来するのは、若い日の姿・・・。
武帝はまた20歳のカク去病がもつ天才的戦術に、匈奴撲滅を託すのです。酒泉の名は、彼が部下の兵士たちに飲ませようと泉に酒を撒きちらす故事に由来していますが、この場面は感動的でした。
武帝は16歳で帝位に付き、70余歳で没したこともドラマを視ながら知つたのでした。中国でだから人間武帝を、身近にありありと感じられたのでしょう。その、断片を記しました。 (2006・3・24)
中道恵津
遼寧師範大学
例の壺が5ヶ月ぶりに私たちの宿舎に帰ってきた。机の傍らに鎮座ましますその姿を眺める。
高さ46cm、首の部分は12cm、胴の太いところは直径19センチぐらいか、かなり堂々とした立ち姿だ。全体が朱色で、胴回りには描かれている5人の男女と子供2人と馬の様子も妙だ。馬の傍らの人物は金髪だったりする。壺の首周りにも子供が4人描かれている。人物たちは手に不思議な形の道具を持っている。周りに描かれている植物は何だろうか、彼らは何をしているところなのか、皆目わからない。分からないけれどなんとなく面白いと思う。
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| 大清康煕年製?の壺 |
さて、この壺、加藤先生に教えていただいた路上骨董市で手に入れた物だ。最初3300元から始まってなかなか下がらない。そのうち周囲の商売仲間の人たちが暇に任せて見物しに来た。年寄り二人の外国人が、たどたどしい中国語で駆け引きする様子が珍しかったと見えて、どこから来たの何しているのと質問が飛んでくる。彼らとのおしゃべりを楽しんでいるうちに、あたりに何となく友好的な雰囲気が生まれてくる。さて壺だが、どうせここまでは下げないだろうと500元ではどう?と思い切って言ったら、主人はしばらく躊躇していた。私たちがもういいと立ち上がりかけたら、この品はどういうものだこういうものだと講釈をいっぱい並べたあげく「持ってけ。」って。周りの人たちは一様に、「それは安い、いい買い物をしたよ。」ってな具合に口を合わせる。
さて9月末の月の帰国時、リュックサックに詰め込んで持ち帰ろうとしたのだが、没想到,空港の税関に引っかかってしまった。別の係官まで呼んできてかれこれ30分以上あれこれひねくり回し、挙句の果ては文物として国外持ち出しまかりならんと一時預かり処分とされた。確かに壺のそこには「大清康煕年製」とあるが、そんな文字は本物だという証拠にはなるまいし、たった500元だったのよって強調したけれど無駄だった。
外事処の人がついでのとき税関から持ち帰ってくれたのだが、さてさてこの壺、いかにせん。
斉藤 明子
(元遼寧省実験中学)
みなさま、お変わりございませんか?帰国して一ヶ月半がたち、2年ぶりの桜が待ち遠しい今日この頃。日本の生活リズムに慣れようと(戻ろうと)思いつつも、いまだ『のんびリズム&まったリズム』の生活を続けさせてもらっており、元気に暮らしております。家族には感謝感謝の毎日です。
「帰国してから、どのような道に進んでいこうか?」と悩みましたが、4月より再び国内の日本語学校で専任講師として教壇に立つことになりました。正直、教案を考えなくていい夜を過ごすことに憧れもありましたし(笑)、自分の日本語の授業に自信が持てなくて、落ち込む日々から逃げ出したいと思ったり、大学卒業後、日本語教師の道一本なので、 この世界しか知らない私にはさまざまな日本語学習者に対応するにはまだ勉強 不足だと感じることもあり、他の世界を見てみるのもいいかもしれないと考えていました。
しかし、やっぱり今の私には「やりたいこと」と「やれること」が『日本語教師』しかなかったのです!
嬉しいような、悲しいような・・・。誰かと言葉や文化を「共有」できることに喜びを感じ、日本語教師になりましたが、どうやら今はもうその世界のステキな魔力にかかってしまい離れることができなくなってしまったようです。皆さまなら、きっとその気持ちを理解していただけるのではないでしょうか?
これから先も きっと日本語教育で思い悩むこともあると思いますが、「先生と日本語が勉強できてよかった!」「私は日本語の勉強が大好きです!」と笑顔で言ってくれた学生達や、以前、日本語弁論大会が中止になったときに「絶対にこれからも日本語の勉強を頑張って続けます。もっともっと頑張ります。」と涙を流しながら言ってくれた学生の言葉を思い出し、できることを探して前進していこうと思います。
学生にもらった笑顔や言葉等が、いつでも私の原動力。恩返しをするつもりで、言葉だけでなく心の支えになれるような教師目指してやっていきます。そして何より、「日本語教育っておもしろい!」という気持ちを大事にしながら、学習者のサポーターとして教壇に立ち続けたいと思っています。
この原稿が発行されるのは、もう瀋陽に春が訪れている頃でしょうか。皆さまどうぞお体にお気をつけて、お元気にご活躍くださいませ。