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日本語クラブ編集後記

 
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第23号編集後記

2006年6月18日、今日は「日本語クラブ」2005年度第3号の最後の編集、印刷予定日。編集係としては新しい資料室での仕事始めでもある。朝715分宿舎を出915分に到着。既に、池本、加籐、丸山の3人は集結。私たちにとって新しい資料室のなんと遠くなったことか。

4千枚の用紙は前日に小林先生が運でおいて下さった。仕事は切れ目なく続くが、まもなく心配していたことが…。プリンターのインク切れだ。そこで、カートリッジを持って加藤が三好街に走る。あちこち調べても同じはない。没 法、近い型の物を購入しかし、形はだいぶ違うが…。プリンターにはまるのか、ちゃんと識別してくれるのか、全てはこれにかかっている。皆が見つめる作業盤。「注入中」の文字のまま長い時間が過ぎ、やおら働き出したプリンター。ワーッと思わず歓声が上がる。

今回はパソコン2台をフル活用しての編集作業だ。毎度の事だが、コンピュータが固まったり、突然写真が消えてしまったりという“抵抗”をものともせずに、休まず働かせ続ける。

その間、中道(秀)は過去の「日本語クラブ」を整理。冊子を一つ一つ数えながら、懐かしい思い出がよみがえる。

今年度最終号は64ページという、「日本語クラブ」始まって以来の大部となった。というのは、いつもの全員参加の寄稿以外に、どうしてもいくつかの特集を組む必要があったからだ。

1番目は資料室移転に関する特集記事。3月に突然降って湧いた旧資料室明け渡しの話は、瀋陽日本人教師の会にとっては一大事だった。でも、日中両国の大勢の心ある人々に支えられ助けられて新しい資料室が誕生した。

2番目の特集は日本語文化祭に関して。領事館で開催された第2回ジャパン・ウイークの一環として、今年も行われた文化祭。東北大学の岡沢、石井両先生と学生が実行委員として奮闘した記録から各学校の先生方の頑張りも見えてくる。 

3番目は6月3、4日の岫岩玉産地見学旅行感想集。教師会初の一泊旅行。先生方のご家族も参加され、総勢27人の旅は楽しく、また変化にとんだものとなった。

夜7時。印刷を半分ほど残し、今日はここで終了。コンピューターとの長時間にわたるにらめっこで、みんな頭がボーっとなっている。続きは明日池本、加藤が担当。

編集係5人はタクシーで、珠江街にあるレストランに移動。完成打ち上げのはずだったが、完成はまだなのだから“完成前夜祭”ってところか。しかし、この夜の会にはもう一つの意味がある。編集係5人のお別れご苦労さん会なのだ。というのは、5人のうち、瀋陽に残るのがはっきりしているのは池本だけ、加藤は不明、後の3人は瀋陽撤収を決めている。もし加籐が帰国となると、池本の今後は...?。

オープンしたての綺麗な店で、冷たいビールとおいしい料理をいただき、みんな今日の疲れを忘れたのだった。

帰りのタクシーに乗り込むとすぐ運転手が、「サッカー日本対クロアチア戦の真っ最中。」と言う。応援席のものすごい歓声が聞こえて来る。宿舎に飛び込んですぐテレビをつけ、終わりの10分ぐらい見ることができた。引き分けだ。サッカーも仕事もやれやれの一日だった。(中道恵津)

 

2005年度編集係メンバー。1年間頑張りました!そして皆様ありがとう

 

活字にならなかった編集後記 (中道 秀毅)

 2005年度最終第3号の印刷・製本の日だ。新資料室9時集合に、2時間をみて宿舎を出る。

 日本語クラブ特集企画3本、これまでにない増大頁、原稿集めの甲斐があった。プリンターのパワーに熱く懸ける編集諸氏・・・。自分は日本語クラブのコーナーづくりと整理を仰せつかる。

 西陽の照りつけは強烈で、冬日にはよき会議室か。残部・各号揃えて合本にしたいと願いつつ、確認。創刊号、2号は表紙だけがあり、ほかも製本弱く、バラバラで残存。10年に及ぶ教師の会の長き歴史と、先輩諸兄姉の足跡と、通巻第23号までの諸記録。感動と笑いと喜びが籠められている。

 

教師の会にはホームページがあり、この労力を費やす価値ありやの見解も。しかし、戦中・戦後の活字世代にとって、敗戦の未曾有の飢餓と闘いつつ、生きる糧に書物があった。貴重であった。冊子はホームページに置き換えられない感強し。

 日本語を教えることは、日本文化と日本人の願望を伝えることと不可分なり。

 瀋陽日本人教師の会みなの、この瀋陽で汗し、悩み、工夫し、出会った「忘れ難き日々」は特集企画、新資料室の移転によって新時代へ。今期は、退任・帰国組も多し。教師会は新たな歴史を刻んでいくだろう。

 丁度、世界杯サッカードイツ大会の日本選手団の必勝を祈り、気もそぞろ。

 「年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず。」花は毎年同じように咲くが、人の身の上は毎年変わって同じではない、劉廷芝の詩を添える。

 日本語クラブへのご協力、今後の健やかなる命づくりと、「愛しき日々、瀋陽」に尽きぬ感謝、再会を。

2006.6.18(日)

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第21号編集後記

2005年9月17日(土)

今年度第1回目の瀋陽日本人教師会。今年度の編集係は、編集長・中道恵津を筆頭に、中道秀毅、加藤、丸山、池本の5名。(皆様、どうぞよろしく。)

早速、『日本語クラブ第21号』のテーマ発表。今回は「それぞれの仕事、職場環境などについて」ということになった。日頃、顔を合わせても、会員が30数名もいると、なかなかお互いどんな仕事を しているか把握しきれないし、新学期ということで、改めて自分の仕事について見つめ直す機会にもなるのではと思い、このテーマに決定。

☆編集作業開始!

原稿の締切を待って、編集作業開始。加藤→丸山→池本と原稿が送られ、比較的スムーズに編集作業が進んだ。そして、困った時は中道編集長にヘルプ!今までの経験からあれこれ気配りしてくださり、何とかPC上での編集作業終了。

2005年11月5日(土)

午後、編集委員が資料室に集合。最後の編集作業及び印刷・製本開始。

ところが、お二人の原稿が入っていないことが発覚。この日は原稿チェック等、できることをやって解散。

2005年11月6日(日)

 改めて、午前9時集合。原稿を追加したり、写真を取り込んだりと、あれこれやっているうちに気が付けば、午後4時。

ようやく印刷開始の段取りとなった。

☆今回の出来は??

 今回も無事『日本語クラブ』を発行することができた。編集委員一同、皆様に非常感謝!

度重なる催促に頭を痛められた方もいらっしゃるかもしれないが、できてみると、やっぱりたくさんの方の原稿が載っている方が嬉しい。今回はそれぞれの職場がテーマということで、日頃はなかなか聞けぬ授業での悩みや苦労、そして学生との交流で得られる喜びが伝わってくるものとなった。

さらに、瀋陽を離れた方からも近況を寄せていただいた。遠く離れてもこうして『日本語クラブ』上で「再会」できるのはとても嬉しいこと。(これからも送ってね。)

2005年11月6日 池本記

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21号第一部

21号第二部および会員寄稿

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第20号編集後記

今日6月4日は皇姑屯事件が起きた日である。1928年6月4日、奉系軍閥張作霖が瀋陽城郊外の皇姑屯駅近くの鉄橋で、関東軍の高級参謀であった河本大作指揮下の日本軍工兵によって爆殺された日である。

この事件は満州事変の予告のような事件であった。瀋陽(遼寧)に生活する我々日本人としては心に留めておいてもいい日であろう。その6月4日(土)9時半に、日本語資料室に中道恵津編集長をはじめとして、中道秀毅、丸山羽衣、加藤正宏が集まり、今年度最後の「日本語クラブ」の編集作成にあたった。編集長はじめ編集員の口うるさい催促に辟易とされた方もあったと思いますが、どうぞお許しください。

 皆さんの強力なご協力によって、今回もここに、皆さんの手元にお渡しできることになりました。一年間ありがとうございました。(記・加藤)

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20号第一部

20号第二部および会員寄稿

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第19号編集後記

*今年の清明節は四月5日である。この日は墓に詣で、墓を掃除し、墓前に供養の品を並べ紙銭を燃やす。紙銭とは冥銭のことで、わら半紙状の紙に円形方孔の形をいくつもハンマー状の工具で叩き込み作ったものや、人民銀行紙幣に似せて印刷した一億元、十億元などの高額面のもの、時には一万ドルなど米ドル札に似せたものなどがある。金や銀の紙で作った明清時代の量形のお金もある。墓前で、例えば亡くなった父に対し「お父さん、たくさんのことはできませんが、どうぞこのお金を受け取ってください」と墓に参った家族は口々に言いながら燃やす。「あの世」デ父が経済的に困らぬようにとの家族の思いからだ。しかし、墓が近くに無い人々も都会には多い、彼らは行きたくても墓までは行けない。そこで、彼らは道路に一箇所を欠く大きな円を描き、その円の中で紙銭を燃やす。欠けた方向に墓がある。夜、道路で燃やされた紙銭の灰は各道路で翌朝まで風に舞う。

以上、後記に代えて、中国らしさの一端を紹介させてもらいました。

(加藤正宏)

*編集部の醍醐味は苦労と冊子完成までのプロセスにあります。

別件。この3月に北京へ行ってきました。盧溝橋、抗日戦争記念館、抗日彫刻園を見ました。抗日彫刻園では日本軍の残虐行為の事実をが刻まれた何百というコンクリート製の鐘状の記念碑を目にしました。本多勝一氏の「中国の旅」と共に、今日に生きることの自覚を迫られた日日でした。(3・30)      

(中道秀毅)

*日が長くなった。ようやく長い冬が終って春を迎えている。そしてこの長い冬のような編集作業も皆様の手に渡り春を迎える。そのとき全てが報われる。『あぁ、一つ仕事が終った。』でも次の編集作業が待っている。私の中には冬と春しか季節がない。次回は必ず全員の原稿をっ!!!

 (丸山羽衣)

*やっと天気予報で零下の気温を見なくなった今日この頃である。本来はやさしいはずの編集長がだんだん鬼の編集長と化していくのではないかと心配しつつも、皆さんの多大なご協力を得て、2004年度第2号、通算19号の発行の日を迎えたことを心から喜びたい。しかしながら卒論指導と弁論大会出場者指導とこの編集作業の三重奏ははきつい。まさに忙死了!

              (中道 恵津)

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19号第一部

19号第二部および会員寄稿

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18号編集後記

◆10月12日(火)薬科大山形研究室で新メンバ―の編集打ち合わせ。まず前回までの実質編集者山形HP係りからパソコン操作上のノウハウを教わる。この日石井代表も出席され、加藤、丸山、中道秀毅、恵津はいささか緊張状態でスタート。実質的な仕事の役割分担を決める。

*すべて手さぐりの編集係り。電話の連絡や相互確認依頼・説明など、なんと連絡しあうことの多いこと。印刷日を11月7日(日)とおく。

*全文の校正が済み、一息いれた10月30日、編集後記を書く段にイラク人質の香田さんの遺体発見の二ユースがはいる。グローバルな事件で、予期したことが的中。最悪の結果となった。

*私事で恐縮。18号の自分自身の文章は初めて自分の手で打ちました。在職中根気続かず投げて、以後死ぬまで触るまい?・・と。時代錯誤人間でした。こちらへ来てから山形先生に幾度か勧めらられました。一方彼女からは、あなたの文は打たないわよ、と江戸時代なら妻への離縁状の三下り半を、瀋陽で貰う破目と相成つて、仕方なく自分で一文字づつ打ちました。

*伝えたい思いは一杯です。文章になりました!うわ・パソコンつて凄い!。生涯の記念号となりました。私にとって永遠の日本語クラブ18号です。みなさん、ありがとうございます。

(11月2日 中道秀毅)

◆今秋の瀋陽は、気温こそ徐々に下がってきたとはいえ、ずっと過ごしやすい日和が続いていましたが、11月5日朝、窓の外は一面の雪景色。今年初めての本格的な降雪となりました。前夜の気温は天気予報によれば零下1度、瀋陽にしてはそう低いとはいえません。雪は水分を含んで重く、大学構内のまだ若い木々は雪の重みに耐えかねて、半身を折るごとく地に垂れかかっています。いつものように一時間目に間に合うように宿舎を出ましたが、シャーベットのような雪道は歩きにくいことこの上もありません。

*日本語クラブの編集作業を、初めて大御所山形先生の手を離れて始めたものの、係り4人、いずれもパソコン堪能というわけでなく、モタモタと、最後まで試行錯誤を続けてきました。それでもみんな何とか頑張ってページ組みも整え、目次も完成し、前号より10ページも多い18号の編集を終えたのです。

*ところがです。明日7日は印刷製本予定日という前日の夕方になって1行の字数が前号より3字足りないことを発見!ページが多いはずです。このままでいくか、それともページ設定し直して紙の無駄を省くか。その場合、全部を見直さなければなりません。目次も変わります。最後の編集後記の分量も不確定となってしまいます。あ〜〜〜〜〜あ

*途中、山形大御所に数度電話で助けを求め、真夜中までの奮闘の結果、ページは大幅に減って38ページに収まりました。メデタシメデタシ。

*でも、何度も文を動かしたから、誰かの文のどこかが消えてしまったりしないどろうかと心配この上もない。

*皆さんの文を、ページ配置を考えながら何度も読みました。読み返しながら、年齢も経歴も様々なこの三十数名が、日本各地からやって来て、2004年の瀋陽に教師として集っているというこの事実をすごいことだなあと、一人感激してしまいました。将来このメンバーが一堂に会することはまずないでしょうから、人生の一時期、ここでの出会いはまさに一期一会の縁です。その証としての「日本語クラブ」の編集に携わることができたことは望外の幸せ?瀋陽の思い出の大きな部分を占めるでしょう。

(11月6日 中道恵津)

ある日本語を学ぶクラスの日本観    

10月末、級長がアンケートを回収していた。見せてもらったところ、いくつか関心のある質問あったので、アンケート用紙1枚とその統計結果をもらうことにした。級長の話では、学生会でやっているとのことであったが、そのもらったアンケートの問い内容からすると、全クラス同一のものではなく、日本語を学ぶクラス、それも進入生向けアンケートのようであった。我が大学の1学年には日本語を学ぶクラスが3クラスあるが、我がクラスの級長は彼の纏め得る範囲、つまり自分たちのクラスでの統計結果を書いて手渡してくれた。質問は20問にわたっていたが、日本に関しては3問だけである。この3問で日本観などとはおこがましいが、敢えてここに日本観としてご紹介する。クラスは30人のクラスである。@日本語を学ぶべきだと思うか(学ぶべき15、必要はない3、どちらでもいい12)。A日本人が嫌いか(とても嫌いだ4、普通に嫌いだ13、嫌いではない13)、B日本人を伴侶にすることができるか(できる3、できない14、わからない13)。

日本語を学ぶクラスにありながら、学生はこのような日本観から出発しているのだ! 以上編集後記に代えて

(11月7日 加藤正宏)

◆今号の編集は試行錯誤、悪戦苦闘でようやく完成しました。山形先生のご指導の下、中道先生ご夫妻、加藤先生に何度も何度もチェックして頂き、完成したのです。編集はこだわりだしたらキリがありませんが、これがまた編集の面白さでもあるのだと思います。また、今号から表紙をリニューアルさせて頂きました。今までのものを変えるということに少々抵抗がありましたが、メンバーも変わったことだし、気持ちも全てを新たに!という思いを込めています。新たな気持ちで頑張っていきましょう。

(11月7日 丸山 羽衣)

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第17号編集後記

★「日本語クラブ」3号は、今回も偏に山形ご夫妻のお骨折りによりようやく発行の運びになりました。

*今回の編集方針は、今年度最後の号なので教師会の皆様全員にご登場いただくこと、5月9日を原稿の締切日とすることなどを教師会4月定例会でご承認いただきました。

*毎年のこの時期には、瀋陽での仕事を打ち切って帰国なさる方もおいでです。残る方々も含めて、気持ちの上でここで一区切りつけて、この一年間の中国での仕事や暮らしの中に沈潜したそれぞれの思いをそれぞれのやり方で拾い上げてみるというのも意義あることと思います。

*ところが原稿の集まり具合は、と言いますと、締切日を気にして確認のメールを下さった方や原稿を早めに送ってくださった方も勿論おいでですが、それでも締切日前後に寄せられた原稿は10に満たないという状況でした。

*じっと待っていてもなかなか埒が明かないと見た編集係りは次第に冷酷な借金取りに変身したのでした。“もう「日本語クラブ」なんか負担だよ、やめてくれよ“などという声が聞こえてこないことを祈るばかりです。

*原稿の集まりが悪い理由を考えてみました。まず、4月18日の弁論大会の前には多分誰も手がつきません。あと少しでゴールデンウイークだからそこでゆっくり考えようと思うのが普通でしょう。ところがゴールデンウイークは出かけることが多く、また友人知人の往来もあるかもしれず、かえって落ち着きません。そうこうするうちに日が過ぎて、締切日がいつだったかおぼろげになります。きっと少しぐらい過ぎても大丈夫と思う気持ちも出てきたかもしれません。或いはこの時期は卒業論文の指導や、卒業試験の処理の時期とも重なりましたから、これらに関連している場合は、どうしようもない忙しさに巻き込まれてしまいます。

*如何でしょう、こんな推理は。予測どおりに事態が進展しなかったり、決めたとおりにスパッとうまくいかないのは生身の人間が生きるこの世のおもしろいところです。私自身無計画旅行が大好き!

*ですが今回は待つ身の辛さをしみじみと味わったのでした。編集技術を持っていられる山形先生に一切をお願いしている手前、少しでも負担のないようにと思うものですから、来ない原稿や写真を待って傍らでひたすら気を揉んでおりました。

*待つ身の「体感時間」(!?)は、待たせる側の時間の倍にも感じるもの。皆さん、特に若い皆さんはデートの時はゆめゆめ遅れてはなりませぬぞ。

5月1日から28日まで「日本語クラブ」関係のメール受信は、ざっと数えたところ60通でした。その多くは山形先生からのものです。私からの送信は受信の半分です。山形ご夫妻は「日本語クラブ」に忙殺されていて、そこかしこに美しく咲いていたアカシアの花の盛りをご覧になれなかったのではないかしら。

*というわけで、今年度の「日本語クラブ」編集係りの仕事は終わりとなります。会員の皆様のご協力に心から感謝申し上げます。なお今年度発行の三部の内容や「日本語クラブ」の今後のあり方について、皆様の率直なご意見をお寄せいただきたいと思います。

(中道 恵津)

 

★中道先生に倣って、今回の編集で何通のe-mailを会員とやりとりしたか数えたら140通を越えていた。これを書いている5月30日現在でも、写真の未着があるのでまだもう少し増えそうである。

*編集委員をしてないのに編集に手を出して、おまけに編集後記まで書いているなんて大分出しゃばりである。「資格もないのに済みません」と言ったら中道恵津編集委員に、来期は正式な編集担当をやって欲しいと言われてしまった。しかし、もし来年編集を引き受けたら、その次の年に代わってくれる人が見つかるとは思えない。だから、お手伝いのままだけれど、編集後記を書くのはこれで最後である。

*ところで、子供の頃の学校の帰り道は時間を忘れて遊ぶ毎日だったけれど、時間が実にふんだんにあったあの頃が懐かしい。歳を取ると時間の経つのが早いと良く言うけれど、本当に毎日の時間があっという間に過ぎ去っていく。

おまけに今こうやって瀋陽に暮らしていると、その時間の経つ早さはひとしお感じられるが、それに理由を見つけた気になっている。

*というのは、瀋陽は東京と比べての話だが、冬が長い。10月に雪が降って、4月に入ってもまだ雪が降るのだから、東京とは大きな違いがある。風がこれもまた強いのだ。向かい風を受けるときの体感温度といったら、15分足らずで大学からうちに着くはずが、真っ暗な建物の入り口でカギを出そうとしてかじかんだ指先でうろうろしているうちに凍死してしまうのかと思うくらい冷え切ってしまう。

*「冬来たりなば春遠からじ」と改めて心に念じ、はやくこの寒さが過ぎないかと思うのは瀋陽に暮らす以上当然のことであろう。しかし、早く暖かくならないかと外に出るたびに思い、春を待ち侘びて毎日を過ごし、さて暖かくなってみるともう暦は既に5月なのだ。少し大げさに言うと、何と今年はもう半分近く過ぎてしまった計算だ。暖かくなるようにと、毎日の時間が早く過ぎるように望んだ罰で、1年が短くなってしまったのである。

*この歳で毎年の時間がこれだけ短くなったのでは間尺に合わない。来年はこの愚を繰り返すまい。冬がどんなに寒くても、どんなに長くても、春を待ち望む愚は犯すまい。

*今できるせめてもの教訓として、はやく夏になって日本のうちに戻って思う存分豊かな水量のシャワーを浴びたいなどとは思うまい。今でも十分身を清潔に保てるのだから。

*決して、日本に戻る日を指折り数えて、日本に帰ったらまずツルツルッと蕎麦ののど越しを味わいたいなどとは思うまい。トマトの入った瀋陽の手打ちの拉面のうまさは日本では味わえない良さもあるのだ。

*決して、日本語クラブの編集作業がはやく終わらないかと思うまい。それよりいま編集することを楽しもう。

*しかし、人生切所に立つに及びいつも立派なことだけは言えるのだが、これだけ生きてくると、実際はとてもそんな具合に立派には行かないことは、骨身に沁みて知っている。

*ああ、はやく夏休みにならないかな、日本に帰って温泉にゆっくり浸って、湯上がりに蕎麦を啜ったあと畳に寝ころんでうたた寝がしたいなあ、「日本語クラブ」今年度の3部を枕にして。

(山形 達也)

★今号の編集の山場の10日間、私は日本に戻っていました。ですから編集後記を書くのはまことに烏滸がましいのですが、ほんの一言。

*日本に戻っている間にこの4月に留学した学生に会いました。彼はとても日本語が上手でしたがさらに磨きがかかったようでした。分からない言葉がある?と聞きましたら“やばい”と“まじ”、どちらも周りの学生が非常によく使うけれど中国では習わなかったとの返事。ああそれは若者の言葉ねと言いましたらテレビで政治家も“まじ”と言う言葉を使っていたとか。なるほど、若者もいつの間にか大人になっていたということでしょう。どこかで生まれ爪弾きにされていた言葉もこうやってみんなに使われるようになっていくのですね。先生がたはこういう言葉も教えていらっしゃるのでしょうか。

*ところで今号でも中道先生が打ち込みを引き受けて下さいました。どなたも名文ですが、自分の文体と違うと知らない間に間違えて打ち込んでしまうもの。苦労なさったと思います。それにしてもコンピューターというのはすごいものですね。打ち込まれた文を形を整えて並べるだけで編集できてしまうのですから。と言っても私には形を整えることも、並べることも出来ないのですが。

*私が寄与したのは皆様に催促を1回、というわけでこれから活躍しなくてはなりません。プリント、コピー、製本などなど。

*これは今年度最終号です。皆様のご協力でそれにふさわしい大作ができあがりました。この夏に帰国なさる先生がたの思い出の小冊子になると嬉しいです。

(山形 貞子)

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16号編集後記                          

今冬の瀋陽は雪も少なく比較的過ごしやすいとはいえ、コートもマフラーも無しに外出が気軽にできる温かい静岡県の沼津で過ごした五週間の後とあれば、ここに戻ってくるにあたって気合を入れないと気持ちが切り替えられない。

後期が始まって一週間たったころ、留学生はみな一週間後に引越しをしなければならないという噂を聞いた。建物全体に漏水などの問題が多く、修理が必要とのことだった。それがまさか私たち外国人教師にもおよぶ話だとは思わなかった。何でも直前になって伝えられるのがこの国の流儀だということは、前任校でも経験してきたことではあるが・・。引越し先は、去年新築した新入生の寮の一角に既に用意されてあるところを見ると、突然持ち上がった話でもなかろうが、とうとう最後まで正式な話しがないままに、一枚の張り紙によってことは進行していく。いくら仮の住まいだとはいえ、引越しとなれば夫婦二人分の生活必需品の量は半端じゃない。授業やりながら一週間後に移れとは無理な話だ。

という訳で、この間は学生に助けてもらっててんやわんやのうちに積みあがった箱や袋で、今私の部屋は足の踏み場もない状態になっている。その中を潜り抜けつつ、「日本語クラブ」の発行に向けて寄稿者に連絡をとり、文をPCに打ち込み、写真の催促をし、教師会の先生方、とりわけ山形先生御夫妻とメールで何度も連絡を取り、最後はいつものようにみんな山形先生にお任せして今年の第二号が出来上がった。この号も、きっと一生手元から離せないだろうな。

(中道 恵津)

3月4日、日本へ転送されてきた山形先生からのメール、ありがとうございました。「瀋陽日本語クラブ」のことを、どばあーっと思い出しました。12月のクリスマス交換会以来でしたから。

もう春の陽気の日本です。

中国の生活で感化され考えることに”多岐亡羊”という故事などがあります。今回の帰国からの自分の状況の変化は、このことばが言いあらわしているように思います。二人目の孫の誕生が近いという目出度さが、予想もしなかった日本滞在というハプニングを私に課したと分別します。

孫の面倒でまごまごしている昨今ですが、瀋陽で日本語学習に懸命な学生達の力になれない思いも胸に去来します。

皆様、ご苦労様です。

(中道 秀毅)

私の本業(というのもおかしなことですが)はHPの係です。十数年の年季の入ったMac遣いですがWindowsは初めてなのでHome Page Builderで苦労をしています。それならよせばよいのに物好きにも「日本語クラブ」のお手伝いをしています。公式の編集委員ではないので資格はありませんが、せめて後記くらい書かせて下さい。

この号がでる頃にはその日本人教師の会のHome Pageは、前任の森岡先生の制作によるHP以来初めて更新されているはずです。http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/ のです。離任された河野美紀子先生のご努力のたまものです。

春節休みは大学の前期と後期を仕切る長い休みなので、日本に戻って骨休めの時期でした。蕎麦とフランスパンを食べ続けて、瀋陽滞在で4kg痩せた身体が直ぐに元に戻りました。

今回は留学生特集でいこうというアイデアで、私たちが関係した留学生からは手回し良く留学記を集めることが出来ました。でも全体が集まるには時間がかかり、ほとんどは3月に入ってからで、しかも3月4日までは6日の発行予定でしたので、結構きついことでした。結局最後にまだ届いていない1篇を入れることになり1週間発行延期となりました。

編集委員の一人である中道秀毅先生は今回帰国されたまま家庭の事情で瀋陽に戻っていらっしゃいませんでした。秀毅先生は、毎月の定例会でご存じの通り、まわりの人たちに元気を与えて下さいます。今年の定例会でも編集時でも秀毅先生の元気な謦咳に接することが出来なかったのは実に残念なことでした。

せめて何かを書いて皆を元気づけて欲しいと思い要望したところ直ぐに原稿が届きましたので、高山先生の旅行記、峰村先生の瀋陽こぼれ話に続き、会員寄稿欄としました。会員からのこのような寄稿を随時載せたらよいと思いますが、この次の第17号は否応なしの全員の顔見世興行だそうです。

中道秀毅先生からは編集後記も届きました。こういう楽しい仲間があることは大いに嬉しいことです。

(山形 達也)

 

◎3月の教師会は13日だとばかり思っていた私は、6日が定例会と知ってあわててしまいました(12月の定例会は二人とも体調が悪くて休んでしまったのでした)。

★原稿がいつ、どのくらい集まるのか分からず心配しましたが、先生がたのご協力で沢山の留学生たちからの原稿が集まり、良い特集になったのではないかと喜んでいます。

★その上、会員の寄稿はとても嬉しく、これが日本語クラブの本来あるべき姿ではないかと思います。これからもどこかへ旅行なさったとき、あるいは何か鮮烈な経験をなさったとき、みんなに何か話したいときなど、ぜひ寄稿して下さい。

★結局予定していた定例会での配布は1週間ほど遅れてしまいましたが、楽しく読んで頂ければ、多くの時間を使って協力してくれた達也も苦労の甲斐があると思います。

皆様のご協力に感謝します。 

次号の原稿はお早めにどうぞ。 

(山形 貞子)

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15号編集後記

◎ <希望者のなかった編集係>

第1回教師会の例会時、係り分担を自己申告方式で決めたとき、なんと編集委員の希望者はひとりもいませんでした!そのうち中道秀毅が立候補しましたが、彼がパソコン音痴であることを熟知している私は内心困った!と思いました。そうしたらホームページ担当を希望なさった山形達也先生が奥様に、「何でも助けてあげるからやったら」とささやかれて、山形貞子先生が立候補。でも後に続く人がいません。やむなく力不足を承知で末端に私も名前を連ねたというわけで、今年度の編集係り誕生となりました。その後多田先生を無理やり編集係りに引っ張り、何とか陣容も整いました。

★ 私自身はこのような文集作りは大好きで、楽しい仕事と思います。実は日本での現職時代ずっとやってきたことでした。担任クラスの解散時には毎年クラスの思い出の文集を作ってきたからです。でもこれは一人一人の筆跡そのままの全くの手作り文集でした。中国に来てからも青島では学生と一緒に卒業文集を作りましたが、ワープロ使用です。パソコンでの編集は未経験ですから自信がありません。

<北は師範大学から南は薬科大学まで、瀋陽を南北に縦断するのもまた楽し>

★ というわけで、今年度は、薬科大学の山形研究室にて、実務者としての山形達也先生の腕とご夫妻の見事な連係プレーのもと、1号は完成したのでありました。

☆ 今回は、今年年度会員の素顔の紹介と、私たちの拠り所となっている資料室について、先人の苦労を偲び今後のより良い発展の方向を共に考えていきましょうという企画です。 次号の特集は、日本に留学中、または留学経験のある人たちから原稿を寄せていただき、「留学」について考える予定です。皆様のご協力をお願いします。

(中道 恵津)

◎ 「瀋陽という地名と歴史について一筆。昔は「奉天」と聞き、驚き。なぜって小学時代は「修身」で、日露戦争と奉天大会戦と東郷、乃木さんが子どもたちの夢を湧かせてくれました。その雪深き荒野のイメージの地が、今の大都会瀋陽。そこで中国の若者たちに日本語を教えるということを、つらつら考えています。

★ 今回編集子は薬科大学山形研究室で編集会議をする。編集には、添削、文の構成、割り付けなどの技が欠かせない。本来ホームページ担当の山形達也先生は、傍らでコンピューターを駆使し、たちまち本号の組み立ての大半を助けてくださった。深く感謝です。

★ 続号には、会員諸氏の教育実践論や悩みなど、自由率直な意見で紙面を作りたく思います。   

(中道 秀毅)

◎ 今回の資料室の作られた頃の資料を読んで、先人が大変な苦労をしつつ意気軒昂たる希望をもって始められたことを知り、こういう歴史の上に立って私たちに何ができるか考えさせられました。皆様はどう感じられましたか。

★ 今回は中道先生ご夫妻が遠いところを2度も薬大までいらして下さいました。いろいろな意見交換をして日本語クラブを作り上げていく中で、親しい友人が増えていくのは嬉しいことです。なかなか大変な仕事ですが、皆で協力してなんとか1号ができました。

☆ これから日本語クラブをどういうものにしていくか、すてきなアイデイア聞かせてください。    

(山形 貞子)

◎ 6月末に、その時は1ヶ月の予定で瀋陽薬科大学に来たとき、離任寸前の坂本豊先生に誘われて日本人教師の会の2002年度最終定例会議に出席しました。私たちは日本語教師ではありませんけれど、今期の講義は日本語ですることになっていました。ですから会員として半分くらいは資格があるのではないかと出席したたわけですが、実は半分腰が引けていました。

★ ところが9月に開かれた2003年度最初の会議に出席して、「会員は必ずどれかの役をやること」という内規に驚きました。これでは、会員になるかならないか二つに一つの選択しかないわけです。このような集まりには、自分が作ってきた会も含めて、今まで出合ったことはありませんでした。しかし、半端な人を出さないために、このような要求を突きつける会の態度が気に入りました。

★ それで私はHP係を志願しました。日本語クラブが載せる記事を中心にすれば私の腰が引けていても会には十分貢献できるという読みです。ところが、貞子が志望したクリスマス係は「それなりの方でないと」とやんわり断られて、やむなく日本語クラブの編集係を志願したのは誤算でした。というのは、彼女はPCが得意でないために雑誌を編集するとなると私の手伝いが必要だからです。

★ 編集会議と作業のために、中道先生ご夫妻は瀋陽の北から南まで片道2時間近く掛けて2回も薬科大学にいらしゃって下さいました。編集のお手伝いをしながら石井先生から戴いた文献を読むうちに、日本語資料室の歩みとおぼつかない存在が分かってきて、日本人教師の会が大変身近なものとなりました。会の存続のために何か役立つことをしなくてはと思った私は、もう半端な存在ではなくなったと思います。どうかよろしく。       

(山形 達也)

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