日本人教師の会ホーム

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安藤 知恵     瀋陽薬科大学 2002年9月〜2003年7月

2005年9月〜2006年7月
青木 通 瑞諾外国語学校
安部 玲子 遼寧省実験中学 〜2008年2月
東 香世 北寧市第一高校
井山 広子 瀋陽瑞諾外国語培訓中心
石井 みどり 東北大学
石井 康男 遼寧大学外国語学部 〜2005年7月
市原 純子 東北育才学校 〜2004年7月
稲田 登志子 中国医科大学

遼寧教育学院外語研訓部
1996年〜1998年

2002年7月〜2004年7月
井料 衛 東北育才学校 2005年8月〜2005年7月
岩田 敏和  撫順市朝鮮族第一中学 〜2006年7月
岩野 純子 東北育才外国語学校
内山 久子 瀋陽師範大学
大久保 千恵 瀋陽市朝鮮族第一中学 〜2004年12月
岡沢 成俊 東北大学外国語学院 〜2007年7月
岡田 重美 遼寧大学
加藤 正宏 瀋陽薬科大学 2004年9月〜2007年7月
加藤 文子 瀋陽薬科大学 2006年9月〜2007年7月
金丸 恵美 瀋陽師範大学外国語学院 〜2007年1月
河面弥吉郎 東北大学 〜2007年6月
木村 彩 遼寧大学
河野 美紀子 遼寧省実験中学 〜2004年2月
児崎 静佳 遼寧工業学院 〜2005年7月
小柴 裕子 東北育才外国語学校 2007年5月〜2007年7月
小林 美恵子 瀋陽工業大学 1994年9月〜1995年8月
小林 豊朗 遼寧大学 2004年8月〜2006年7月
小林 久夫 瀋陽師範大学 〜2004年7月
斉藤 明子 遼寧省実験中学 2004年3月〜2006年1月
酒井 和重 東北育才学校 〜2004年7月
坂本 豊 瀋陽薬科大学 2002年8月〜2003年7月、2005年、2006年、2007年
佐藤 守 遼寧大学外国語学院
佐藤 るみ子 瀋陽師範大学日本語科 2006年9月〜2007年7月
沢野 千恵子 東北育才学校 〜2004年7月
沢野 美由紀 瀋陽薬科大学 2004年9月〜2005年7月
嶌田 真弓 東北育才学校
高山 敬子 瀋陽薬科大学 2003年8月〜2006年7月
竹林 和美 東北育才学校 2004年4月〜2006年3月
多田 敬司 東北大学 〜2006年1月
田中 義一 瀋陽大学 2006年9月〜2007年7月
田中 豊 瀋陽薬科大学 2004年9月〜11月
辻岡 邦夫 東北育才外国語学校 2005年9月〜2007年8月
長澤 裕美 東北育才外国語学校 〜2006年7月
中田 知子 東北育才学校 〜2008年6月
中田 時雄 東北育才学校 206年09月〜2007年7月
中道 恵津 瀋陽師範大学 2002年9月〜2006年7月
中道 秀毅 瀋陽師範大学 2002年9月〜2006年7月
中原 麻実 東北育才外国語学校 2003年9月〜2005年7月
中原 理沙 瀋陽大学
中村 直子 瀋陽市朝鮮族第一中学 〜2006年12月
鳴海 佳恵 遼寧教育学院 2004年9月〜2007年7月
仁科 雅子 東北育才学校
野崎 勉 東北大学
呑山 猛 瀋陽師範大学 〜2004年7月
長谷川宗武 東北育才外国語学校 2007年5月〜2007年7月
林 与志男 瀋陽航空工業学院 〜2007年7月
林 八重子 瀋陽航空工業学院 〜2007年7月
藤井 達也 瀋陽工業大学 1992年〜1994年
藤原 英弥 中国医科大学
降旗 郁司 瀋陽工業大学 1995年8月〜1996年7月、

1997年8月〜1998年7月

本保 利征 在瀋陽日本国総領事館 〜2004年7月
前田 節子 東北育才学校 〜2005年8月
丸山 羽衣 瀋陽大学 2004年8月〜2006年6月
南本 卓郎 瀋陽薬科大学 2004年9月〜2007年7月
南本 みどり 瀋陽薬科大学 2004年9月〜2006年11月月
峰村 洋 瀋陽薬科大学 2003年9月〜2007年7月
最上 久美子 瀋陽工業大学

瀋陽薬科大学
1989年〜1990年

1999年〜2000年

持丸 秀樹 東北育才外国語学校 2003年8月〜2004年7月
森  信幸 在瀋陽日本国総領事館 2004年〜2006年5月
森林 久枝 東北育才外国語学校 2004年5月〜2007年8月
八木 万祐子 遼寧中医学院 〜2004年7月
山形 貞子 瀋陽薬科大学 2003年9月〜2007年12月
山口 智子 中国医科大学 月刊中国的生活
山崎 えり子 東北育才外国語学校 〜2005年7月
山崎 由紀 東北大学
山田 高志郎 東北育才学校 〜2008年6月
山中 晋吾 東北大学 〜2004年7月
若松 章子 東北育才外国語学校 2006年9月〜2007年8月
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1)名前:安藤 知恵

2)瀋陽における勤務先:瀋陽薬科大学

3)2002年8月〜2003年7月

二回目は2005年9月から2006年7月まで

4)今仕事はしていません

5)挨拶:密度の濃い充実した歳月でした。

 学生のひたむきな学習態度、先生方の真摯な取り組みなど教えられることばかりでした。

中日の架け橋のために頑張って下さい。

6) 連絡先: Fax: +81-178-44-7358

会員交流のページに寄稿文があります。

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安部 玲子  遼寧省実験中学

2006年3月9日に瀋陽にやって参りました。

「中国で日本語を教えたい」などという固い意志は全くなく、気がつくと導かれるがまま、ここ瀋陽に来てしまったような気がします。

そんな私の思いとは裏腹に、こちらの方は本当に暖かく私を迎え入れて下さいました。

初めての1人暮らし、初めての海外生活ということで、私は日記をつけることにしました。きっと中国の生活だから、大変なことだらけだろうと思い、その日記のタイトルを「瀋陽奮闘記」と名付けました。

しかし2ヶ月と少したった今、読み返してみても楽しいことばかりです。これからも、「瀋陽奮闘記」の中が奮闘ではなく、楽しい思い出一杯の日記になってくれることを願っています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

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1) 東 香世

2)北寧第一高校

3)こんにちは。北寧高校@東香世です。

 2001年7月に初めて中国に来まして、はやくももう2年が経とうとしています。みなさまには本当にいろいろとお世話になりました。ありがとうございます。

 協力隊の派遣で、遼寧省の北寧市という本当に小さな小さな農村部の町で、高校生に日本語を教えてきました。沈陽から>3時間半くらい離れたところで外国人が一人もいないところです。この教師会に参加させていただき、この2年間が本当に有意義になりました。田舎の学生はいろんなことに参加するチャンスが少ないので、沈陽の弁論大会にも一生懸命取り組んでいました。また何人かの教師会の先生方にも北寧を訪問していただき、感謝しております。外国人に会うことのない北寧で私以外の日本人に会えて交流できた学生のうれしそうなキラキラした笑顔を本当に忘れられません。中国の先生や学生たちにすこしでもいろんなチャンスが与えられるならとチャレンジチャレンジの>2年間でしたが、この教師会のおかげでいろんなチャンスが広がりました。重ねてみなさまに感謝いたします

 今後も日本語教育に従事して参ります。日本で当分は続けようと思いますが、機会があれば中国かロシア(ロシア語専攻だったんです!)で日本語教育に携われたらと思っております。この>2>年間でいろんなことを学ばせていただきました。感謝の気持ちを忘れないでこれから出会ういろいろな学生にすこしでも還元していける人になりたいと思います。

 中国に残られる日本人中国人の先生方、日本人会のみなさま、そして中国の学生のみなさん、いつまでもお元気で。ご活躍を心よりお祈り申し上げます。

 祝身体健康、工作順利、学習順利、生活開心!!

 笑口常開!

(2003年6月)

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1) 井山広子

2) 瀋陽瑞諾外国語培訓中心





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石井 みどり   東北大学軟件学院

はじめまして。2005年9月に東北大学に日本語教師として着任いたしました、石井みどりと申します。学生と年齢が近いので、姉や友達でもあれればと思います。初めての海外生活ですが、周りの方のおかげでスタートは順調です。温暖な地域で育ち、零下の世界を知らない私にとって瀋陽の冬は楽しみでもあり不安でもあります。そんな話をしていたら、学生たちが「来週は寒くなります。冬服はありますか。」「買い物は太源街が一番いいです。」などと冬支度の世話をしてくれます。また、先日は学生達がjianzi(羽根を蹴る遊び)を教えてくれました。生活の面では、いつの間にか学生たちの妹になっていました。いつも笑顔でがんばりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いしたします。

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石井 康男  寧波工程学院外国語学部

瀋陽在住 1998年9月現在、5年生。帰省先:兵庫県伊丹市。

今夏一時帰国をした時に健康検査を受診。血液検査でコレストロール値が基準値よりもやや高いこと以外は問題なしとのこと。

身体年齢は56歳同等であるが頭脳年齢は80歳程度で精神年齢は小児程度かな?と医者にからかわれてしましました。要するに健康だからボケるな!ということであるようです。低血圧者は早くボケて長生きをするから気をつけろ!ということでした。ちなみに血圧は上が100前後。下が60台です。

中国料理は油が多いから自炊をするようにと勧められましたが、なかなか出来ません。気にしないが注意をしています。皆さんからお誘いがあればいつでも参加しますから誘ってください。

ボケる前に天国へ行きたいと願っています。このような私ですが今年度もよろしくお願いいたします。

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1) 市原 純子

2)東北育才学校

3) 

 今年の9月より中学1年生と高校2年生を教えています。生徒たちはみんなとても勉強熱心なので、今後少しでも彼らの役に立てればと思っています。

中国は10数年前に鑑真号という旅客船で神戸から2泊3日で上海へ到着し、その後北京・呼和浩特と旅をしたとき以来です。その旅が私にとって最初の個人旅行だったので、今でも当時の事はとても印象深く残っています。その頃も今も思うことは中国はとてもパワフルだ!ということです。このパワーは地面から湧き出ているのか、人間自体から出ているものなのかは分かりませんが、とにかくすごいパワーを感じます。

 これから少しでもこのパワーを自分のものにできるよう、過ごしていきたいと思っています。(道端で痰を吐くのと、手鼻をかむのだけは自分のものにしないように心掛けたいと思います。)

 まだ、分からないことだらけで色々とお世話になることが多いと思います。どうぞ宜しくお願いいたします。

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1)稲田 登志子

2)遼寧教育学院 2004年7月まで

3)2002年の7月に今の職場に赴任しました。胡弓と中国語を習っています。

 コンサート、劇、映画などの文化的なことや旅行が大好きです。

省内の小中高教員研修と教材開発が主な仕事です。普段はデスクワークが多く、月1〜2回程度、出張にも行きます。また、併設の短大の第二外国語も教えています。各学校によく巡回指導に行くのですが、中国人の先生方が研修会で指導したことを実際の授業に生かしているのを見ると、とてもやりがいを感じます。

 以前にも瀋陽の他の学校に勤務していたので、ここでの生活はもう4年目になります。7年半前にここに来た時は、外資系ホテルは新世界ホテルだけで大型スーパーは一軒もありませんでしたが、随分変わったので、驚きました。

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井料 衛   東北育才学校



岩田 敏和   撫順市朝鮮族第一中学

2006年7月まで

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1)名前: 岩野 純子

2)瀋陽での勤務場所:  東北育才外国語学校

3)瀋陽における勤務期間: 2001年3月〜2003年7月

4)現在の所属: 台湾台南市櫻橋外語学院

5)挨拶:台南に来てまだ2週間ほどです。

 インターネットも家ではまだ使えず、学校で他の先生が授業準備をしていない時間にしか使えない状態です。

 台湾での授業にはまだ慣れていませんが、同僚の先生たちと教材を作ったり、教え方を考えたりしていくことを、今はとても新鮮に感じています。

 中国にいた時のように、授業時間にだけ授業をしにいくというのではなく、昼から夜までずっと学校にいますが、今のところはそれなりに楽しんでいます。<今は居留証待ちの状態なのですが、居留証ができしだいやろうと思っていることはバイクの免許を取ることです。

 日本でも免許を持っていない私が、果たして繁体字で書かれた試験問題を読んで答えることができるのか・・・不安です・・・。

6)連絡先:家の住所は不明です・・・。

2004年3月15日)

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1)内山 久子

2)瀋陽師範大学< 2003年10月〜2003年12月

) 7,8年ほど前に大連外国語学院で中国語を三年間学びました。同時期に成人教育を担当しました。午前中は中国語学習、午後からは日本語教師をしていたわけです。縁あって2003年10月に再び中国へ戻りました。瀋陽師範大では1年生にアイウエオ、3年生に文法を教えています。

 “教師の会”でショッキングな話を聞きました。中国では日本語熱が衰退しているそうです。一生懸命に日本語を吸収しようとしていたあの中国人学生の美しい瞳は、やがてどこかへ向いてしまうのでしょうか。私たちはこれからどのような態度でのぞみましょう。

 物の豊かさに表れているように、瀋陽市の発展ぶりには驚きました。そのぶん、危険な交通事情や食品添加物なども見うけられるようです。また露天市場がなくなるのは本当に寂しいです。市場は家にたとえると、家族の憩いの場、リビングキッチンなのですから。

 低迷している日本事情を考えると、若者の煩悶は当然かもしれません。私は今、中国の若者ばかりでなく、日本の若者にも力を注いでやりたい思いでいっぱいです。

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1)大久保 千恵   

2)瀋陽市朝鮮族第一中学

3)2004年12月まで

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岡沢 成俊  東北大学外国語学院

 8月半ばから瀋陽に来て、東北大学で日本語を教えています。所属はソフト学院ですが、現在のところソフト学院で日本語中級を履修する学生数があまり多くないので、日本語学科の授業にかりだされ、どちらかというとそちらがメインの仕事になっています。

 日本語学科では1年生と3年生の授業を担当しています。中国語があまりできないのに1年生の授業なんてどうやってやればいいんだろう、と最初は不安でしたが、日本語ゼロスタートの多数の学生と3or6年間勉強してきた少数の学生という本来やりにくいクラス構成を逆手にとって、わかりにくいところは既習の学生に通訳させるというやり方でなんとか授業を続けています。

 趣味でピアノをやっているので、学生活動中心(センター)のロビーにあるピアノをほぼ毎日弾いています。ちゃんと習っていたのは小学校までで、ソナチネがつまらなくてやめたあと、好きな曲を自由に弾くようになってピアノに目覚めました。高校まではベートーベンやショパンを弾いていましたが、大学に入ってピアノサークルに入り浸るようになると、周りが皆ショパンを弾くので、アイデンティティ確立のためゲンダイオンガクに目覚めました。以来ずっとプロコフィエフを中心に現代音楽を弾いていましたが、さすがにロビーで不協和音をガンガン鳴らしていると管理人のおばさんに追い出されそうなので、8年ぶりにショパン等の耳に心地よいクラシックを練習しなおしています。

 学生活動中心のロビーがちょうどいい感じの場所になっているため、我的Office Hourと称して、毎日昼休みの時間に学生からの質問や会話練習や相談を受け付け、たまに授業で使ったキロロの曲などを伴奏しながら歌ったりしています。学生が来ないときは普通に練習しているので、なかなか楽しく過ごせる時間です。

 中心=センターは、中国語を勉強して一番のカルチャーショックでした。市民センター、貿易センター等の「センター」というカタカナ語は英語の時間にcenterという単語を習っても、子供のころから慣れ親しんだ「施設」の意味から特に揺らぎませんでしたが、中国語の「中心」は激しく揺さぶりをかけてきました。未だに違和感は消えていませんが、これもまた外国語学習の醍醐味です。

 これまでは中国語の勉強もずっと独学・マイペースでだらだらとやっていましたが、日本語未習の1年生が日本語を覚えるのと競争で頑張っていきたいと思っています。

ブログを始めました。まだ日常的な生活報告ですが、そのうち日本語教育的な内容も入れていきます。(2004年12月9日)。

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1) 岡田 重美

2) 遼寧大学

3) いつもご連絡ありがとうございます。旧会員にまで情報をいただきありがたく思っています。

私は2003年6月末に帰国したので、もう1年4ヶ月になりますが、瀋陽のことはずっと心に思っています。一コマ一コマが懐かしく思い出されます。このページにもちゃんとアクセスしています。

教師会を心から応援しています。今後のご活躍を楽しみにしています。

(2004年10月13日)

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加藤正  瀋陽薬科大学

本来、兵庫県の高等学校で世界史を担当していた教師です。中国で日本語の教師をするのは3回目です。

1回目は1986年4月から88年3月までで、西安の西北工業大学です。県の許可を得て休職し赴任するため、日本の勤務に合わせていただいたので、このように4月の赴任になりました(任期は、中国では通常は9月から)。学生は大学の先生(副教授と講師)と会社から派遣されてきた大卒の若い社員で、会話を担当しました。このメインの学生以外に、大学生に日本概況を講義しました。授業が無いときは、自転車や、バスで、唐の都長安(現在の西安)の遺跡を巡りました。世界史の教師としては貴重な経験でした。この時、古銭も集めました。古銭そのものは歴史と密接に関係しているからです。また、この頃から中国の教科書も集め始めました。今回の瀋陽でも、既に、満州国(偽満と中国では呼ばれる)期、民国期、人民共和国初期、文革期のものを合計すれば、50冊ほど集めました。

1回目の帰国後、県から2年間、兵庫教育大学大学院に派遣され、中国教科書に記載された日清戦争(甲午中日戦争)の記述について、その変化を研究させてもらいました。

2回目は2000年から2002年にかけてで、長春(偽満州国時代には新京と呼ばれた首都)の吉林大学です。3、4年生に会話と作文、さらに4年生には卒論の指導、また院生には日本事情を講義しました。長春で教鞭をとることは、歴史の教師として、このうえもない機会と考え、近現代史の痕跡を残す路地や建物を毎日のように巡り歩きました。

幸運なことに、路上の古本市で、若い頃に日本語で勉強したという80歳の老人と知り合いになりました。この方に案内していただき、各路地、各建物の前に立って、いろいろと説明を聞く機会を5、6回持つことができました。今もお付き合いがあります。また、この他にも、片言の日本語を今も忘れずに話される老人の方数人に出会い、当時の様子を聞くこともできました。新聞に満州国関連の記事が載ると、その日か数日内に、そこに出かけて自分の目で確かめました。例えば、「火災が起きたのは満州国期に建てられた古い住宅だ」などの記事を目にすると飛んで行って、写真を撮りました。「偽満期に使用された国民学校の国文教科書を、学芸員が発見して入手した(偽皇宮博物館)」との記事を見て、溥儀が住んでいた現偽皇宮博物館に出かけて行き、私が入手していた満州国期の家庭科の教科書を提供して、発見された国民学校の国文教科書を全てコピーさせてもらったこともあります。これがきっかけで、その学芸員と副館長さんとも知り合いになりました。教科書以外に、それぞれの時期の卒業証書や土地証書、結婚証書、離婚証書などもその時期を証言する貴重な教材資料と考え集めました。今も、値が高くなければ購入しています。

これらは趣味的な要素が多分にあるのですが、日中の関係をよりよく理解していくための手段の一つだと自分自身に言い聞かせ、合理化しています。

3回目の今回は、日中技能者交流センターによって派遣されて来た(過去の2回は、個人的なつながりで、日本語教師をすることになった)ことと、定年(過去の2回は、休職して)になって、日本の職場のことを少しも気にせずにやって来れたことが、過去の2回と違っていますが、今回も、私自身の中国理解を深めること(瀋陽も偽満の中心となっていた旧奉天で、日中の近現代史の現場)と、日本について理解を深めて、一般の中国人との仲立ちをしてくれるであろう中国人人材の育成に、力を尽くしていきたいと考えています。

「加藤 正宏の中国史跡通信」ページを是非おたずね下さい。

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加藤 文子    瀋陽薬科大学

加藤正宏の家内です。この9月からは、夫と共に大学内で生活しています。毎日、授業には夫と共に参加していて、34人(聴講生3人を含む)の顔と名前を覚えました。また、7,8人ずつ呼んで、全員にすき焼きを御馳走しました。コンニャクとふ(麩)を日本から持って来ていたので、実際に名前を教えながら食べてもらいました。学生は夫が居ないときでも、数人で部屋に話しに来ます。このように、大学での生活を楽しんでいます。

時どき、夫と路上市などに出かけ、夫が知人になっている中国人たちと片言の中国語で話すようになりました。このようなこともあって、とにかく、話すことに恐怖心を持たなくなりました。大学の宿舎の管理をしている人や、買物に出かけたときに出会う人に声を掛けられても、どぎまぎしなくなりました。だからと言って、話しが分っているというのではありません。分らなくても、対応し、小さな交流ですが、意識せずにやりとりするようになったということです。これも、今回が二度目の中国の滞在(長春で1年滞在したことがあります)になるからでしょうか。

折角、中国で生活しているのですから、いろいろな中国人と出会い、少しでも多く交流できたらと考えています。あと半年ばかりですが、中国生活を楽しみたいと考えています。

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金丸 恵美  瀋陽師範大学外国語学院

 東京都八王子市から本渓市へ来て半年が経ちました。生活には何とか慣れてきた所です。

着任当時は、あまりの空気の悪さに当惑しましたが、、、。今では鼻の中や耳の中が真っ黒になろうがへっちゃらです。

看護学校なので、学生たちは看護師になるために勉強しています。毎朝教室のドアを開けると、白衣天使の笑顔が出迎えてくれて、やっぱりここに来てよかったと思える瞬間です。辛いことも悲しいことも全部どっかに吹っ飛んでしまいます。

本渓市は鉄鋼の街です。至る所に工場があって、煙突から黒い煙を出しています。そのため、冬には黒い雪が降るそうです。大丈夫かなぁ。

日本人が少ない環境でも今までやってこれたのは、沈陽市教師会のみなさまが違う市から来たわたくしを暖かく迎え入れてくださったおかげだと思っております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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河面弥吉郎   東北大学

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1)木村 彩

2) 遼寧大学   

3) 2000年11月〜2003年5月

4) 2000年11月に遼陽へ来て約2年半、教師会の先生方には大変お世話になりました。この2年半の間に経験した事を、今後の人生に生かせるようにしたいと思っています。

これからもどうぞお元気で御活躍ください。ありがとうございました

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1)河野 美紀子

2)遼寧省実験中学 2004年2月まで

3)早いもので実験中学に赴任して3年目になります。今年度も宜しくお願いします。ただでさえハードな日課なのに、更に選択科目として日本語を勉強しているので、学生は大変だと思いますが、日本語学習や日本の高校生との交流を通して、視野を広めてほしいと思います。

 以前にも留学で瀋陽にいたのですが、今回数年ぶりに来て、中国の経済成長ぶりを目の当たりにし、その凄まじさに驚きました。

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1) 児崎 静佳

2) 遼寧工業学院 (2002年〜2005年7月)

3) 瀋陽での生活も3年目を迎えました。2002年3月に赴任して来たのですが、まさか3年も瀋陽にいるとは…自分でもびっくりしています。右も左もわからずに、ただ勢いだけで飛びこんで来た中国。よくあんな勇気があったなぁと当時を振り返っています。

 この3年間で変わらないこと言えば、授業中に他の学生が、私を先生だとは思わずに、ズカズカと自習をしに教室に入って来ることです。私の学生が「授業中だよ!」と注意して、「え?先生は?いないじゃん」というやりとりが目の前で繰り返されています。背が小さく、外見が幼く、スーツなど着ていないからでしょうか・・・。いつになったら少しは先生らしくなれるのでしょうか。

 残り1年の予定の瀋陽生活、海外(中国)だからできること、今だからできること楽しんで一生懸命取り組んで行きたいと思っています。

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小柴 裕子   東北育才外国語学校

東北育才外国語学校 では社会を担当しています。よろしくお願いいたします。

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1) 小林 美恵子

2) 瀋陽工業大学

3) 1994年9月〜1995年8月

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小林 豊朗  遼寧大学

 神奈川県教育委員会から遼寧大学外国語学院に日本語教師として派遣され、この8月30日に着任致しました。以来、ちょうど1ヶ月が過ぎましたので、この間のことをいくつかお話ししたいと思います。

 さて、私はこの1ヶ月の間に生まれて初めての経験を三つしました。一つは生まれて初めて一人で生活したことです。最初は何だか落ち着かず、寂しかったのですが、今は慣れました。もともと料理は好きなので、楽しく自炊しています。中国は食べ物が豊富にあり、また新鮮で安いので、何を作るか考えながら、市場を歩くのがとても楽しみです。もちろん外食をするのも大好きです。ただ太りやすい体質なので、食べ過ぎには注意しています。

 もう一つは、尾籠な話で恐縮ですが、生まれて初めて2週間も下痢をしたことです。着いて3日目くらいから始まりました。最初は「征露丸」を飲んでいたのですが、一向に治らず、お粥を作って食べても、絶食をしても、とにかく何をしても下痢をするので、あきらめて薬をやめ、街中で中国料理を食べたりして普通に生活していたところ、体が環境に慣れてきたのか、2週間経ってようやく治りました。1週間目くらいは体重が数?減ったので、「中国式ダイエット」などと喜んでいたのですが、そのうち、この下痢はずっと治らないのではないかと不安になりました。自分では環境に順応するのは比較的早いと思っていたので、ショッキングな経験でした。

 最後の一つは、生まれて初めて中国人にというか、外国で日本語を教えた(ている)ことです。ところで遼寧大学はキャンパスがバスで30分くらいかかる郊外にあるので、今のところ学生とは授業以外の交流があまりなく、少々もの足りません。何とか学生と触れ合う機会を作っていきたいと思っています。私の派遣期間は1年間の予定ですが、皆様どうぞよろしくお願い致します。

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1) 小林 久夫

2) 瀋陽師範大学

3) 2004年8月に瀋陽師範大学に参りました、小林久夫と申します。どうぞよろしくお願いします。

 瀋陽に着いたとき、意外と暑いのでびっくりしました。中国の東北地方はもっとすずしいと期待していたのですが、そうではありませんでした。冬もマイナス15度、20度になると聞いていますので、大丈夫かなあと少し心配です。

 学生は、みな素直なので、とても教えがいがあります。ただ、瀋陽師範大学は瀋陽市の北の端にあるので、買い物には不便ですが・・・。

 とにかく、瀋陽での仕事と生活を充実したものにすべく、がんばっていきたいと思います。

 ところで話はかわりますが、中国に来てからなんとなく疲れやすくなりました。日本にいる頃は、一日6時間の睡眠で大丈夫だったのですが、中国に来てからは、一日7時間半は眠らないと調子が悪いです。睡眠が浅いせいもあるかもしれませんが。

 先生方の健康維持法をぜひ知りたいです。これから冬に向けて体力をつけなければなりませんので(冬眠するわけではありません)、よろしくご指導ください。あと、夜の遊び場所もぜひ教えてください。

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斉藤 明子  遼寧省実験中学

瀋陽へ来て6ヶ月がたち、瀋陽での暮らしにもだいぶん慣れてきました。この半年の間には、嬉しいことも悲しいことも悔しいこともいろいろとありましたが、よく笑う中国の方たちに囲まれて、つられて笑っている自分がいることを幸せに思えます。半年前の自分と今の自分を比べると、嫌なことがあっても、「まっいっか!」で許せてしまうことが増えたような気がします。ココロが広くなってきたのかな。(悪く言えばずうずうしくなってしまったのかも・・・)

 行動範囲が狭いので、まだわからないことはたくさんありますが、自分のペースでゆっくり、瀋陽のことや中国のことを知っていけたらと思います。そして、これまでと変わらず、たくさん笑って貴重な1日1日を過ごしていきたいと思っています。皆様今年度もどうぞよろしくお願いいたします。

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1)酒井 和重

2)東北育才学校 2004年7月まで

3)ツイてる!ノッてる!酒井和重です?!

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1)坂本 豊

2)瀋陽薬科大学

3)2002年8月〜2003年7月

4)現在の所属: なし

5)中国・国家薬物安全評価監測中心)

あちらでは日本の延長の生活ができますが、やはり、瀋陽の街や人混み、自由市場や露店、飲食店、学生たちとの交流などが私にはあっており、瀋陽がとても懐かしいです。

6)連絡先: E-mail ytksaka@tka.att.ne.jp

(2004年10月11日)

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佐藤るみ子   瀋陽師範大学

 9月から瀋陽師範大学で日本語を教えております佐藤るみ子です。一年の契約で来ましたので、もう半分過ぎてしまったことになります。

 出身は名古屋です。中区大須というところに住んでいます。大須は町の中でも昔の雰囲気が残っているところで、お寺がたくさんあり、小さな商店街もたくさんあって、知る人ぞ知る観光名所です。名古屋にいらっしゃったらぜひ声をかけてください。ご案内します。

 38年間高校教師をした後、日本語教師になりたいと名古屋YWCA日本語学校で養成講座を受けました。楽しい2年間の学生生活の後、少し地域でボランテイアとして教えていました。ブラジル人学校でも週1回一こま(90分)だけ教えていました。もともと外国にまで来て教えるつもりは無かったのですが、知人からの緊急の依頼で中国にまで来ることになってしまいました。中国語ができないので、毎日が冒険のようですが、何とか乗り切ってきました。すべて学生の手助けと同僚の金丸さんの援助のおかげです。皆さんにご迷惑をおかけすることもあると思いますが、あと半年よろしくお願いします。

2007年1月3日

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1)沢野 千恵子

2)東北育才学校

3)瀋陽在職期間: 2001年9月〜2004年6月まで

沢野千恵子の北京通信をご覧下さい

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1) 沢野 美由紀  

2) 瀋陽薬科大学

3) 

子供の頃から歴史が好きだった私は、いつか中国の大地を踏みしめるのが夢でした。

その夢が叶うことになったのは1989年5月下旬、ある公的機関の青少年交流事業への参加が決まった時です。憧れの中国に行けるという知らせを受け取った時は本当にうれしく、飛び上がりたいほどでした。

 しかし、その約1週間後、私の長年の夢はあっけなく崩れてしまいました。

自分と同世代の、大勢の若者たちが集う天安門。彼らの前に立ち塞がる戦車・装甲車。大学受験の時、私は中国文学を専攻するか日本史にするか、最後の最後まで悩みました。結局日本史を選びましたが、もし中国文学を選んでいたならば中国に留学し、あの若者の中にいることになったかもしれない。今思い出しても寒気がする、あの事件の映像を見ながら、あんなに好きだった中国への思いが自分の中で音をたてて崩れていくのを感じました。参加が決まっていた交流事業も中止になり、この先自分が中国を訪れることはないかもしれないと思っていました。

 あれから15年、その中国に私はいます。夫の瀋陽赴任が決まったときは複雑な思いでした。家族のことを考え中国滞在を選びましたが、正直言って積極的に中国に来たいと思ったわけではありません。中国が本当はどんな国なのか、中国の人たちは何を思っているのか、もちろん興味はあるけれど、以前ほど純粋に中国が好きになれないかもしれない。けれど、もしかしたら中国を捉え直すチャンスを神様が下さったのかもしれません。幸い、薬科大学で日本語を教えさせていただけることになり、中国の若者と接する機会を得ることができました。長ければ3年、この瀋陽での滞在が何らかの収穫となるよう、自分なりに努力したいと思っています。

1) 嶌田真弓

2) 東北育才外国語学校

3) 「瀋陽での2年間は、授業と弁論大会に費やした2年間だったと言えるような気がします。忙しい毎日でしたが、その分、充実した時間を過ごすことができました。

 やんちゃだけれどかわいらしい学生達に囲まれ、時には幸せな気分を味わい、時には頭を悩ませることもありました。学生達に教えることよりも、学生達から教わることのほうが多かったのではないかと思います。

 弁論大会では、以前の方々からの積み重ねを壊してしまわぬよう、そして、私自身が次に何かを残せるようにと頑張ったつもりですが、とにかく2年間委員として頑張れたのは、多くの方がいてくださったからだと思います。ありがというございました。瀋陽の日本語学習者の励みになるような大会が、ずっと続いていってほしいです。

 瀋陽では教師会に参加し、様々な先生のご活躍の様子を見ることは、私自身の反省や励みにつながりました。短い期間で、教師会のメンバーは変わっていくことと思いますが、教師会の活動がずっとずっと続いていくことを願っています

 日本に帰ってもぜひ日本語教師として働きたいと考えています。またどこかで、みなさまにお会いできることを楽しみにしています。

(2003年6月)

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高山 敬子 瀋陽薬科大学

 瀋陽に来て、3年目がはじまりました。まだ、瀋陽も中国も分からない事だらけです。

 3年生の1クラス(週10時間)を受け持って1年間に標準日本語の初級、 中級4冊を終わらせなければならないので、いつも時間に追われている感じです。もう少し余裕を持って学生、そして私も授業を楽しめたら、、と思っているのですが、、。

 4年生の1クラス(週2時間)は前期のみ、12月の日本語1級試験対策です。

 学校の近くにフランス系のスーパー(カルフール)が開店し、以前にもまして、便利になりました。

 でも、校門の周囲にごちゃごちゃ広がる露天も捨てがたいです。

 1歩構内に入ると、緑が多くなるので、大学としてはこじんまりしています が,教室まで近いので、私にとっては手頃な広さです。

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竹林 和美 東北育才学校

ことばを勉強することが好きです。中国では日本語を、日本では英語を教えています。教えながら学ぶことはたくさんあります。だから、教えることを仕事にしているのかもしれません。

 小説、詩、短歌、俳句を読むことが好きです。読みながら、ひとつひとつの言葉を味わうのは、とても楽しいことです。

 文章を書くのがとても上手な友人がいます。彼女はとてもおとなしくて、あまり自己主張をしない人ですが、文章の中ではまるで別人なのです。饒舌で、論理的で、読んだ人を圧倒します。私はそういう人に憧れています。

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多田 敬司  集美大学 外国語学院

 皆様今年度もよろしくお願いします。  

新年度を迎え、先生方ますますご活躍のこととお喜び申し上げます。長い間のご無沙汰お詫びいたします。おかげさまで元気に過ごしております。

 さて、お知らせが大変遅くなって申し訳ありませんが、小生、今年の1月に6年間過ごした瀋陽の東北大学を離れ、2月末から、厦門の集美大学に赴任しています。

 瀋陽の東北大学在任中は先生方に本当に親切にしていただき、厳寒の地ではありましたが、おかげさまで大きな病気などすることなく、無事に楽しく過ごせました。あらためて心よりお礼申し上げます。

 このたびは、中国の東北地方から、亜熱帯地方への転任です。厦門は、台湾とほぼ同緯度に位置しているので、寒さ対策より暑さ対策のほうが大変なようです。今のところ、気候としては日本の春か初夏のような感じです。2月中旬にこちらに着いたのですが、冬の季節も緑がなくなってしまうことはなく、ガジュマルなどの南国を思わせる樹木が茂っていました。6年の瀋陽生活から考えると、「これが冬の季節なのか」と、戸惑いを覚えるほどでした。つつじがもう満開です。おまけに、金木犀まで咲いているのです。日本では金木犀の花は秋に咲くので、日本で見ていた金木犀と同じ花と香りに接しても、何の木だろうと不思議に思っていたのですが、何とこちらでは金木犀は「四季金木犀」といって、冬でも花が咲き、その香りを発しているということでした。何はともあれ、7年ぶりに金木犀の香りを楽しむことができました。

 生活面で慣れないところも多少ありますが、新しい土地で新しい体験をするという魅力も感じています。

また、厦門の集美大学でも外国語学院の日本語学科の学生に日本語を教えています。やはり日本語専門の学生の授業には張り合いがあります。

それでは、季節の変わり目、皆様方のますますのご自愛をお祈りしております。遅くなりましたが、新年度と転任のお知らせまで。                  

 

新しい住所と電話番号です。

住所 中国 361021 福建省厦門市集美区 集美大学 522信箱

電話(FAX)  0592−618−2486

メールアドレス   ktmntd@hotmai

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田中 義一   瀋陽大学

『二つの贈り物』   

 

 『外国』、その言葉を聞くと、誰でも一時的に、うっとりとした気分になります。私は、中学生の時、大きくなったら外国に行って仕事をして見たい、という思いにかられました。でも、100%夢に終る、とも思っていました。それが……。

 青春には、夢と挫折が良く似合う、とは良く言い得たもので、理想と使命感に燃えて、物理学科に入学したものの、除々に、閉塞感を覚え始めました。そのため、その後は、迷ってばかりの人生コースを歩むことになりました。 某会社で、集積回路のエンジニアをやったり、科学者への未練捨てがたく、遅まきながらの大学院生活を送り、37歳で、わたしには過ぎる理論物理の博士号を取得したものの、創造的活動の難しさに舌を巻き、その世界から勇気有る撤退をしたり、とね。しかし、この学位は、100%もらえるとは、露、思っても見なかった1つの贈り物。その後は、進路変更する事となった。

 『あっ、来た!』、と思ったのは約3年前。それまでは予備校や、三沢米軍基地で憲兵隊や、郵便局窓口(この仕事で英会話の自信がついた。日に、何百人というアメリカ人と話をするんだもん。)付き通訳、そしてワーキングプアと、あちらと思えば、またこちらの人生を過ごしていました。人脈とは、不思議なものです。あの日、私は、石川県庁の要請により、世界少年野球大会のアメリカグループの通訳をしていました。ひょんなことで、当時、瀋陽大学から金沢大学に留学していた好青年、崔岩先生と、通訳の仕事で同席しました。この事が、やがて、わたしに、2つ目の贈り物をくれるとは……。先生は、やがて帰国なされ、私は、娑婆に戻り、相も変わらず、フリーターまがいの生活に戻って行きました。しかし、『もう、夢は、すべて捨て、故郷へ帰ろう』、と思った時、先生から、『今すぐ、日本語教師として来きてくれ。』との連絡があったのでした。ヤッター!でも、私は、急がずに、『日本語教師養成講座(これは、急いで、約2ヶ月で修了)を修了してから。』と、あわてずに、慎重に事を運び、が、確実に、中国にやって来たのでした。

今、大学教官をしていますが、日本人教師会に入って見れば、皆様、日本を動かして来られた碩学や、教養の香り高い方々ばかりで、気恥ずかしい思いでいっぱいです。そして、緊張ばかりしています。が、除々にですが、温もりも感じ始めています。会の後の飲み会では、今は胃潰瘍のため、酒は、ドクターストップになっているのですが、が、先生からは、酒ではなくストレスが原因、と言われていますので、それを発散させるため、お酒を楽しんでいます。

 人生も最終コースに入り、無意識の希望に胸を膨らませていた自分の若き日と大学内の若人を重ねることが多くなりました。この若い人たちが、その学問と学園生活を通じ、やがて、立つ者は倒らざるの力を身に付けて行かれん事を願うのは、私ばかりではないでしょう。『夢をあきらめなければ、夢を実現する力が与えられる』(ソルトレークオリンピック開会式(2002.2.19)。私は、いまだに、チョンガーですが、この言葉に励まされながら、3つ目の贈り物を待っています。

2006年11月 

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1) 田中 豊

2) 瀋陽薬科大学

3) 私は前から言葉(日本語)に関して関心が高い方だと自分自身思っている。そこで自分にとってのそういう日本語を外国の人たちに教えるという仕事はやってみる価値があるかもしれない、いや大いにある、という思いになり今回の赴任に至ったというわけである。

 そしてここは瀋陽。街を歩いた印象。歩道が広い。歩道と自転車道路が確保されているので日本の歩道よりかなり広い。路上で物を売っている人たちがけっこう多い。果物、くし、亀、餃子、地図、ベルト、ケース、バッグ、とうもろこし、新聞、雑誌、饅頭、DVDソフト、CDソフト、靴みがきのおじさんもいる、やきいものいいにおい、、、。自由に勝手にどこでも何を売ってもいいという感じで、ある路上では世界史の参考書を5冊路上に置いている人がいた。そして別の通りでは毎日午後5時頃になると、沿道にかなり長い距離にわたって市が立つ。そんなところから中国の人たちのたくましさ、底力を見たような気がした。しかし瀋陽の路上は人が通ったり、自転車が通ったり、物を売ったり買ったりするためだけにあるのではない。裏道のような所を通った時、路上の端で麻雀をやっている人たちが2箇所で見られた。しばらく歩いていくとトランプをやっている4人の女性がいた。また別の通りでは中国将棋をやっている男の人たちがいた。瀋陽の路上はフル回転なのだ。

 瀋陽は現在あちらこちら工事中、建設中でまさに発展途上という状態だが、しかしすでに大きなきれいな建物や街並みができあがっているような感じの所もあり、将来的には美しい街並みがいくつもある大都市へと生まれ変わっていくものと思われる。

 さて、日本語指導。学生たちの学習に向かう姿勢はとてもよい。こちらの日本語の発声に対して皆大きな声でリピートするし、授業が終わってからでもさっそく単語の発音の仕方の質問に来る学生もいるしで、ほんとうにまじめに一生懸命日本語を覚えようとしている姿が見受けられる。私が黒板の文字を消していると、前の席の学生がさっと出てきて、私に取ってかわって黒板の文字を消してくれる。そういうまじめな学生たちの姿に接しているとこちらもしっかり日本語を教えなければいけないという身のひきしまる思いになる。

まだ私の日本語指導は始まったばかりで、授業の中で一斉音読の時、なかなか大きな声で教科書の本文を読めているので少し発音も定着したかなと思って個人読みをさせてみると思いのほかたどたどしい日本語になっていて、なかなか一筋縄ではいかないなと痛感させられる。とにかく学生たちの一生懸命さに答えるべくこちらもしっかり日本語指導に打ち込まなくてはいけないと考えているところである。

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辻岡 邦夫   東北育才外国語学校

私は1937年出生後まもなく両親に連れられ、渡中し、1946年引き揚げるまで、瀋陽に住んでいました。現在縁があって、この8月から東北育才外国語学校で数学と会話を教えています。30数年間数学者として、埼玉大学で働いていましたが、2003年に定年退職し大連理工大学で半年数学を教えていました。次にアモイにある集美大学で、1年半、数学および日本語を教えていました。このたび、第二の故郷瀋陽で、働くことになりました。

昔の瀋陽はあまり、知りませんが、暇を見つけて瀋陽を歩いてみようと思っています。

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長澤 裕美  東北育才外国語学校

国慶節と老中国

先日何気なくテレビを見ていたら、「建国55周年」という文字が目に飛び込んできた。

思わず「えっ!もう!?」と口走ってしまった。というのは、私が中国に始めて来たのが、ちょうど建国50周年に当たる年だったからだ。そのころは北京にいたので、国慶節の当日、天安門広場の人の群れの一員として、その記念すべき年の中国人民の熱気を肌で感じた。今年はまだ54周年だが、まさか、55周年記念という言葉を目にすることになるとは・・・。北京で一年、そしてここ 瀋陽で、丸三年が過ぎた。そして今5年目に突入である。

先日学校の中国人教師と話をしていて、自分は 瀋陽に来て4年目だと言ったら、「じゃあ、あなたは老中国だ」と言われた。その老中国と言う言葉を聞いたとき、驚いてしまった。そして自分と、「老中国」と言う言葉を組み合わせてみた時、違和感を覚えた。5年間中国で生活をしているいうと、中国語はべらべら、中国人の友達もいっぱいいて、いろいろな事情に精通して・・・そんな人を思い浮かべる。しかし、自分はと言ったら、否である。いまでも、自分は新参者という気持ちをもっていることに改めて気がついた。そして同時に、少し反省もした。老中国と言われて、「そうよ、年季入いってるでしょ」と自慢に思えるぐらいでないといけないのでは・・・、と。せっかく外国で暮らしているのだから、もっとこの時間を大切に、深く、濃く生活するべきなのではないか。そんな風に思った。

一年一年行き当たりばったりで、何の人生設計もなくふらふら生きているから、時々時間がたったことに改めて気付かされ、驚くことになる。さて、これからの5年間をどうしようか、しっかり考えるべき時なのかもしれない。・・・しかし、そんな能力に欠けている私は、ある日「建国60周年」という言葉を聞いてまたギョッとすることになりそうだ。

これから、何年中国にいられるかわからないが、老中国という言葉が自分にふさわしくなるよう中国での生活を大切にしたい。

 

中田 知子   東北育才学校

2006年8月30日に初めて瀋陽に来ました。日本語を教える仕事は前から興味のある仕事だったのですが、私は富山県では英語の教員です。英語なのになぜ中国?とか出発前はみんなに聞かれましたが、日本での英語教育も海外での日本語教育も外国語教育という点では同じです。もう一度違う面から、「外国語を教える」ということを考えてみたくてここにきました。英語圏に派遣された仲間もいるのですが、あえて自分の全く知らない中国に来て中国語もどのくらいまでできるようになるか挑戦したいと思ったのも理由の1つです。

4月からの東京外大での研修を含め2年間という派遣期間なので、こちらは1年半という中途半端な期間ですが、周りの先生方にはなるべく、できるだけ迷惑をかけずに過ごし、生徒にはできる限りのことを精一杯してあげたいと思っています。最近、育才の生徒は富山の生徒と似ているなと思うようになりました。真面目だけど楽しいことが大好きで楽観的。そんな生徒からたくさん学んで充実した生活を送りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

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中田 時雄   東北育才学校
1) 中原 麻実

2) 東北育才外国語学校

3) 

2月5日生まれ 大阪府大阪市出身

 訪れたことのある町:瀋陽、大連、丹東、北京、北戴河、青島、威海、煙台、蓬莱

今年は南の方を旅してみようと思っています。

 最近のお気に入り@:「星空衛視」という中国のチャンネル。今まではNHKかBBC、或いはCCTV9 しか見なかったのですが、ちょっと気が向いた時にチャンネルを合わせてみると意外と面白かったです。とくにドラマは、字幕を見ても内容は半分弱しか分からないのですが、登場人物の動きなどで意外と理解できて面白いです。

 最近のお気に入りA:康師傳の緑茶。ペットボトルの緑茶が「甘い」ということにも、最初は驚きこそしたものの、今では普通になり、むしろお気に入りのドリンクになりました。いろいろある中でも、康師傳のが一番美味しいかな、と思います。

 最近したいこと:中国の結婚式に1度出席してみたいです。国慶節や労働節の期間中はとくに、花や風船で飾られた車をたくさん見ましたが、結婚式に招待してもらって出席して、中国の花嫁さんをお祝いすることができたらいいなぁ…というのが今の憧れです。

 瀋陽生活も2年目になりました。中国語はなかなか上達しませんが、買い物する時に値切るのには慣れてきて、上手になったかも、と思う今日この頃です。

今年もいろいろとお世話になります。どうぞよろしくお願い致します。

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1) 中原理沙

2) 瀋陽大学

3) 私の人生最北端のここ瀋陽で、とても暖かい人々に出会えました。

 恩返しがまだ済んでいませんが、日本語教育という狭い世界にいる限り、またお会いする機会も多いかと思います。恩返しはそのときまでお待ちいただくということで・・・。

 今後ともご指導よろしくおねがいいたします^^。

 ソウルは今日も雨です。過ごしにくい季節になりましたね。どうぞご自愛くさい。

(2003年6月)

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中道 恵津  瀋陽師範大学日本語

 日本で教員生活34年、、中国は前任地の青島で3年を過ごし、瀋陽でも3年目に入りました。学校以外の世界を知らず、いまだに授業で学生たちと過ごす時間を面白いと感じ、よく飽きもせずひたすら先生をやってきたなあと我ながら感心。

最近は留学生と机を並べて漢語を勉強する時間が加わって、教師と学生の二つの世界を行き来する破目になったので忙しさこの上もなし。もっとも、語学は継続が大切だなどとうそぶきながら中国人の学生を宿題で苦しめ、また一方では毎日山ほどの宿題を出す漢語の先生を恨む矛盾に悩みつつ、この二律背反の生活のなかにどっぷりと浸かっている自分をどうも楽しんでいるフシがあると自覚します。

年に2回の帰国のときは、マイカーで大型スーパーに乗りつけ好きなものを山ほど買っても決して自分で背負って帰らなくてもいいのだし、日本の物質的豊かさや清潔で便利なくらしを思い切り享受し、中国に戻ってくるとなにやら故郷に戻ってきたごとくほっとしつ、複雑な人間関係から切り離された学校の中だけの単純な暮らしをなかなか良いものと感じ、近くに手ごろな市場のない郊外の学校では買い物は、恥も外聞もなく引揚者スタイルの大きなリュックサックをかついで街に出ます。(引揚者などという言葉も死語になってしまいましたね。若い先生方にはわからないかもしれません。)なんと順応性に富んでいることかと自画自賛。2カ国を叉にかけたこんな変化に富んだ暮らしはなかなか捨てがたいものです。

しかし日本には、中小企業の厳しい環境の中で恋愛どころか見合いの時間も保障されず、過労死寸前の息子がいるので、そばで面倒を見てやらなければだめだという声も親戚の中から聞こえてきてちょっと辛いものがあります。もう親が面倒を見てやる年齢でもあるまいとか、親には親の人生があるとか思うものの、しかし魅力に満ちたこの暮らしから何時足を洗うべきかと思案することも多くなりました。

前任校は山東省の私立の専科大学でしたから、ここ東北の公立の本科の学生と、つい無意識に比べてしまいますが、同じ日本語を学ぶ学生であっても、雰囲気が違うと感じています。学ぶ条件からいったら瀋陽師範大学の学生たちは、随分恵まれているといえるのですが、日々の暮らしぶりや考え方は、だんだん日本の大学生に似てきていて、学ぶ姿勢にハングリー精神がちょっと足りないなと思うこともしばしばです。原因を考えるに、ひとつには前任校の学生たちは大学入試に失敗し、やむなく高い学費の私立に入らざるを得なかった、つまり人生の苦渋をなめてきている、その悔し涙が日々の授業につよく反映しているのではないかと考えます。試験の成績が悪いとき、彼らは親に顔向けできないと泣きました。ですから彼らのために私たち教師も、授業以外にもできるだけのことはしてあげたくなるし、学生のほうも食いついてきました。

しかしこの数年の中国の経済発展は確実に人々の現金収入を増やしているし、以前とは違う豊かさの中で一人っ子として育てられてきた学生も多くなってきました。このような社会情勢の変化が学生たちの意識を変えてきたことは否めないでしょう。5年前の学生たちは卒業の時期が近づくと、面接を受けた企業からの連絡を待つためにポケットベルを買いました。いまは大学入学と同時に携帯電話を持つ学生も少なくありません。彼らの寝室には必ず電話があり、大学構内には公衆電話があちこちに設置されていても、です。なかには、ご家族が全員携帯を持っているという先生も決して珍しくないし、マイカーを持つ先生さえ増えてきました。もちろん農村出身の学生の中には教育ローンに頼ってようやく勉学を続けている学生や、長期の休みに故郷にも帰らずアルバイトを探して頑張る学生だってまだ多いのですが。中国は確実に変わってきていることをひしひしと感じています。

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中道 秀毅  瀋陽師範大学

私の少年期は戦争時代

 1931年9月18日、奉天近郊柳条湖の鉄路を関東軍が爆破、中国が仕掛けたとの口実で満州事変に発展してゆきます。翌年私が生まれます。小学校の修身の授業で「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニヒトツノ神ノ国。日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」という絵入りの教科書に代表される教育により神国思想と天皇崇拝の軍国小国民として徹底的に人格形成をさせられます。”軍神西住戦車長”と楠木正成を尊敬する英雄として心に刻みました。私と僅かしか年の差のない若者たちが、昭和19年6月から編成された「神風特別攻撃隊」となり敵艦に体当たりの戦法で命を散らしていきました。あと2年早く生まれていたら自分も志願していたことでしょう。大西滝治郎中将の発案によるそうですが、狂った時代というほかありません。

 過日、4年生の授業に参加し、「赤とんぼと油虫」という野坂昭如の小説を読みました。主人公の18歳の特攻兵が貧しい母親や妹のために死んでゆく戦争童話です。中国人学生たちが、日本でも戦争中は一般の人々は食料もなく苦労していることを知った、と感動しているところを目の当たりに見ました。概念的にしか認識していない彼らに優れた文学作品をぜひ読ませたいと思いました。きっと中国では、映画やテレビによって、日本人全部が鬼子であるという偏った日本人観をもつ人が多く、日本人への不信感が強いでしょうから。

 高校教師を38年間勤めました。最後の年に勤務校の沼津市立沼津高校が高校野球の静岡県代表となり、甲子園に出場しました。第1回戦の相手校が石川県星陵高校で、4番は強打者松井でした。燃えて応援した思い出が懐かしいです。はじめ勝っていた沼津市立校は最後には4対3で敗れました。定年5年目、かみさんが日本語教師となり中国青島市に行くことになりました。仲間たちといくつかのサークルをやっていた私はしぶしぶ同行したのでした。しかし、中国の学生の真面目さと明るさと若さが私を魅了しました。2002年私たちが瀋陽に来る年、松井君はアメリカ大リーグへ挑戦しました。私の心の中には、志を持って突き進む松井君がいて、いつも励まされています。

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中村 直子  瀋陽市朝鮮族第一中学

はじめまして。青年海外協力隊として、昨年の12月に朝鮮族第一中学に赴任してきました。中国は北京、湖南省長沙市に続いて、三回目の滞在になります。瀋陽は4年前の冬に旅行で訪れたことがあります。しかし、あまりの寒さでどこも見て歩くことができずに終わってしまい、あまり深い印象がありません。そのときは「こんな寒いところ二度とくるか!」と心に誓ったのですが、まさか、今になって瀋陽に住むことになるとは思ってもいませんでした。これも何かの縁だとあきらめて、瀋陽ライフを満喫できるよう日々開拓の精神で邁進していきたいと思っています。極度の冷え性&寒がりの私がここでの冬を乗り越えられるのか、本当に不安です。

私のいる朝鮮族第一中学は市街から西北のはずれにあり、周りは何もないところですが、すばらしい校舎や、礼儀正しい学生に囲まれて毎日楽しく過ごしています。朝鮮族の文化は漢族と違うところがたくさんあり、時々とまどうこともあります。言葉も朝鮮語がほとんどでまったくわからないので、機会があれば朝鮮語を勉強したいと思っています。食堂の朝鮮料理はなかなか美味しくて、狗肉以外はとても気に入っています。2年後の目標は白酒と狗肉を克服し、チマチョゴリで芸術写真を撮ることです。

瀋陽の街はまだ寒くてあまり歩いていませんが、歴史的にも日本との関わりの深いこの土地のことをもっと知りたいと思っていますので、いろいろ教えいただければ幸いです。

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鳴海 佳恵  遼寧省基礎教育教研培訓中心

 青年海外協力隊、同短期緊急派遣に続いて、3度目の中国派遣です。砂漠の真ん中、ジーンズが一晩でカラリと乾く乾燥地帯寧夏から、壁に貼った写真にカビが生える湖北省、次はどこかと思いきや、バナナで釘が打てる遼寧省でした。9月にして既に温風ヒーターを使っているあたり、冬が非常に不安です。それより何より、「東北地方では脂肪は財産なのよ!」開き直らないよう、健康と美容にはくれぐれも注意したいと思っております。いいスポーツジムがあったらぜひ教えてください。

以前の仕事は寧夏大学が日本語本科生の会話・聴解・閲読・日本事情など、湖北師範学院が英語科の第二外国語担当でした。今回の仕事は遼寧省内の日本語教師の研修、各地の小中学校への巡回指導、テキストの編集、テストの作成などです。知識と経験が極端に不足しているため、冷や汗をかきながら仕事をしています。家でする仕事が多いので、曜日どころか時間の感覚も麻痺しがちです。

目下のところ一番の悩みは、物忘れがひどいこと。以前から人の名前を覚えるのは苦手なのですが、最近は聞いたことを片っ端から忘れてしまうので、ホワイトボードを入り口のドアに貼って、大切なことはメモをするようにしています。(帰ってきた時点で忘れていた場合はお手上げですが…。)左手で字を書いたり、ご飯を食べたりすると記憶力が向上するという話を聞いたので、ただいま実践中です。見かけは20代(と、中国人は言います。謝々。)ですが、中身は老婆ですので、寛大な心で許してください。

好きなことは、写真を撮ること、絵を描くこと、映画を見ること、旅行、食べ歩き飲み歩き(ビール専門)などです。スポーツはあまり得意ではありませんが、バトミントンは好きです。骨董屋さんや蚤の市をひやかすのも好きです。特に布もの、刺繍などが好きです。そのほか、動物好きで、歩いている犬に話しかけたりします(「関西のおばちゃんの典型的行動」だそうですが…)。犬食へのお誘いだけはお断りしておきます。

 

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今まで中国を旅行した中で個人的ベスト3は、@成都・臥龍パンダ保護センター A雲南・大理 B貴州・苗族の村 です。銀川の砂漠と、風化した万里の長城もかなりいい味を出していますので、興味のある方はぜひ。今後行きたいベスト3は、@チベット A新疆 B貴州再び です。学校勤務と違って、休みシーズンに研修が集中するので、なかなかまとまった休みがとれないのですが、帰国までにぜひ行きたいと思っています。チベットどころか、7月に瀋陽入りしたのに、まだ故宮も北陵も五愛市場も行っていないので、まずは瀋陽観光に力を入れたいです。

性格はこう見えて涙もろくて寂しがりやです。皆様からの暖かいお誘いをお待ちしております。これから2年間、どうぞよろしくお願いします。

鳴海マダムの「あなた知ってる?」コーナーに是非どうぞ。

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1) 仁科雅子

2) 東北育才学校

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野崎 勉 東北大学機械工程及自動化学院

2002年から東北大学へ特別講演で3回ほど短期(一週間程度)で瀋陽を訪れ、2003年から正式に東北大学兼職(2008年まで)となったのをきっかけに、2004年鹿児島大学を早期退職し、1年の3分の2は東北大学で主に大学院の研究教育に従事しております。日本人教師の会の存在は多田敬司先生から伺っておりましたが、専門職の私がお邪魔するようなところではないと判断し、これまで失礼しておりました。この3月から日本語学院でも講義することとなり、これをきっかけに仲間入りさせていただきました。専門は機械工学ですが、現在は特に環境問題に強い関心を持っております。美しい地球環境を守るには、専門家だけに任せるのではなく、一人ひとりの心がけが大切な時代となりました。地球環境を守るには、今、何が必要かをそれぞれの立場で考え、実践していただく手立てを啓蒙しております。何かお役に立つことがあれば、お声をかけてください。

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1)呑山 猛

2)瀋陽師範大学

3)2004年7月まで

定年後も異国で教育に携わることができて、幸せを感じています。

 中国の大学生は、熱心でありまた教師を敬う心を持っています。こちらも一生懸命にならざるを得ません。

 

「師を仰ぐ」死語にならざる国に来て小学唱歌の蘇りくる

 先に入りドアのノブ持つ学生のわれを待つ間の手を美しく見る

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長谷川 宗武 東北育才外国語学校

 

  東北育才外国語学校で、日本語の物理を担当しています。

  四月十七日に福岡市からやって来ました。

 旅行で二度中国に来たことがありますが、住むのは初めてで、まだ自由に街を歩けるようになっていません。先輩の方々にいろいろ教えていただきたいと思います。

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林 与志男 瀋陽航空工業学院

私は林 与志男 と申します。妻八重子を同伴し、先月静岡市より罷り越し、瀋陽航空工業学院へ日本語教師として赴任いたしました。これまでは、静岡市のとある民間企業に勤めておりましたが、退職後第二の人生を中国など東南アジアの青年の日本語教育向上ににささやかながら貢献できればと思っておりました。今回縁あって瀋陽に参りまして、あらためて、皆様方のような中国の青年に日本語教育を通じて日中友好に貢献されておられる方々にお目にかかれて心を強くいたしました。今後ともよろしくおねがいいたします。

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林 八重子 瀋陽航空工業学院

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1) 藤井 達也    

2) 瀋陽工業大学

3) 1992年〜1994年

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) 藤原 英弥

2) 医科大学

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1) 降旗 郁司

2) 瀋陽工業大学

3) 1995年8月〜1996年7月、 1997年8月〜1998年7月

1)本保 利征 

2)在瀋陽日本領事館 2004年5月まで

3)テニスが好きで、SARS騒ぎ後は、ほぼ毎週テニスをして休日を過ごしています。遊んでばかりいるので、着任して2年半も経つのに、未だに中国語はダメです。元来勉強嫌いなため、このまま中国語を話せないで日本へ戻ることになりそうです。

 こちらの日本語のレベルは非常に高く、これは優秀な先生方の熱心な指導によるものと思ってます。学生達も、日本人の先生方を見て、勉強以外に学んでいるのがよく分かり、先生方の学生への影響力の大きさをつくづく感じます。

 年々、街が整備され、綺麗になっていきますが、反面、瀋陽ならではの昔の佇まいが失われていっている点を寂しく思ってます。そして、交通マナーが良くないので、道路が広く整備されゆく中、十分注意しないとこの危険度は年々上がって行くんでしょうね。

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1)前田 節子  

2)東北育才学校

3) 瀋陽は今年で4年目になります。といっても私の場合、日本語教師としてではなく教科教師ですので高校3年生のみが対象です。毎年、仕事の期間は4月から8月中旬までです。

日本でながいこと化学教師をしていましたが留学生統一試験対策としては、その時の教材の基礎部分を使って授業をしています。学生たちは見た目には日本人と変わりがないので、時折り日本で仕事をしているような気分になってしまいます。

しかし最近ショックを受けました。授業の後、学生が質問に来ました。授業で説明したばかりの演習問題の“水でぬれたフラスコをよくふきとり、フラスコの質量を測定・・”という文章中のふきとりとは?という質問でした。思っても見なかった質問にがっくりしました。日本では勿論読み過ごす部分です。客観的に考えれば当然とも思える質問ですが、中国の学生に授業することの本質を問われた気がしました。

相手を思いやることは出発点ですね。     

2005年5月15日

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丸山 羽衣  瀋陽大学

1年生から3年生までを担当しています。主に2年生を教えています。

瀋陽はとにかく街が大きくて移動するのに「今日は何で行こう?」と、いつも考えます。(結局、徒歩かタクシーになりますが。)ようやく一人で行動できるようになったので、休みには西塔へ行き、マッサージと韓国料理を堪能しています。韓国料理は日本にいたときから大好きで、1週間に2度は大久保へ通っていました。瀋陽でも韓国料理が食べられる(しかも美味しい!)ので、大満足です♪言葉は分かりませんが中国の人の温かさにいつも感動します。「これでもか!」というくらいみなさん親切にしてくれます。周りの人に支えられながらの毎日です。いつか恩返しができたらなと思います。

大学では日本語学科以外の生徒にも声をかけてもらって、楽しくお喋りしています。(英語ですが・・・。)

ここへ来て、本当にたくさんのことを毎日吸収しています。そして、たくさんのものを与えてもらっています。また、彼らには私から少しでも多くのことを吸収してもらいたいと思っています。私の全てをかけてでも!1年後がとても楽しみです。

教師としてだけではなく、人間としてもまだまだ未熟者ですが精一杯頑張りますので、皆様どうぞ宜しくお願い致します。

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南本 卓郎   瀋陽薬科大学

私たち夫婦は二人で一人前と言うか、この年になっても一人立ちできていないというか、体のいい言葉で言うと仲の良い夫婦で、いつも二人で行動していた。2001年から1年間「長春外国語学校」で日本語教師をしたときも二人三脚でやってきた。

そして2004年8月からふたたび縁あって瀋陽へやってきたが、当然のごとくいつも二人でしか行動できなかった。しかし瀋陽3年目を迎える2006年8月から、この年になって今までの様相が一変し、人生の一大ピンチを迎えたのである。2006年3月末に母を世界園芸博覧会へ招待したが、それを見ないままに部屋で骨折してしまい日本へ帰国させた。日本で手術をした後のリハビリ等があり、妻は瀋陽に来ることができなくなってしまったのである。

瀋陽に来てからは、妻と二人で学生たちに教え、人生初めての共働きをしていたが、今年こそは私の長年の夢でもある妻のヒモ(妻はこの言葉を嫌いマネージャーと言ってほしいと言っている。)になってのんびりと中国の生活を楽しもうと思っていた矢先、その夢はもろくも破れてしまったのである。

2002年から04年まで、我々の派遣先「日中技能者交流センター」の西尾研修所・岐阜研修所で、企業研修に来日した中国人たちに日本語を教えていたが、この間だけは1ヶ月を上限に単身赴任で自炊を数回経験したことがある。しかし料理と歌に関しては、まったくの音痴である。

豆腐の味噌汁しかできない私は、あるときはメールで妻に玉子焼きや目玉焼きの作り方を教わったり、またあるときは、野菜炒めの作り方を教わったりしながら、今は、悪戦苦闘しながら何とか飢えを忍んでいる毎日である。

でも、私には強―い味方がある。それは、エスカレーター付き5階建ての学生食堂があることである。赴任してまもなく、ちょうど12時ごろ食堂へ行ったら、あまりの学生の多さにびっくりし、食事をする椅子の空き待ちに椅子の数を数えてみたら428席であった。つまり5階で2100席余ある計算だ。ここでは雑多なメニューから何でも「より取りみどり(妻の名前ではない)」である。日本で自炊した時には、主としてアルコール分でカロリーを補給していたが、料理のできない私の健康生活を助けてくれ、バラエティに富み、かつ栄養満点の食事を思う存分、ビールの晩酌付きで大変安く食べられるのは、望外の喜びである。私たちは、長春で驢馬・犬からさそりまで、四足は机・椅子以外、空飛ぶものは飛行機・ヘリコプター以外なんでも食べられるように胃を鍛えたお陰で、何でもおいしく食べられるようになっている。

これからも、「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ、マタ瀋陽ノ冬ノ寒サニモ負ケナイヨウナ丈夫ナ身体ヲ作リタイ」と思っている。

20006年11月

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南本 みどり  瀋陽薬科大学

好きなことは、美味しい物の食べ歩き、読書、眠ること。苦手は家事一切。料理・裁縫・編み物・掃除とどれをとっても落第点で、周囲では私を「母親の胎内に手を置き忘れ、口から先に生まれた」と評しているらしい。几帳面で清潔好きでこまめな夫が、正反対の私によく連れ添ってくれているものだと、日々感謝をしています。二人で一人前なので、どこに行くのもいつも一緒です。 ああ自由が欲しい! と思っていたら夢が叶いました。単身赴任の夫を残して、日本で母と母子家庭(?)いえ老々看護の日を送っています。とはいえ、ベタベタ・ハーフのことは気がかりだし、体が二つほしいと思いながら日本と瀋陽を行ったりきたりしています。

ドラえもんさん、どこでもドアーを貸して!

20006年11月

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峰村 洋  瀋陽薬科大学

 長野県の高校で国語教師をし、定年退職後に第3の人生を中国で送り始める。2年目。独身。趣味は、スキー、登山、卓球(いずれも修業中)。「標準日本語」を1年間で4冊をこなさなければならない。昨年の経験どう生かすか、が課題。「大学四級試験」の不合格者を少なくしたいのも目標の一つ。

瀋陽市内を少しずつ歩いているが、なかなか地理が頭に入らない。健忘症の症状が昨年より進み、何事につけ全て重習が必要。

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1) 最上 久美子

2) 瀋陽薬科大学

3) 2002年8月〜2002年7月

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1)持丸 秀樹

2)東北育才外国語学校

3)2003年9月から2004年10月まで

2003年9月から日本語を教え始めて2週間。時に2・3年生は能力試験で頭が一杯でかわいそうです。日本語教育というより受験教育の授業なので“何か違う”と思うこともしばしばです。

 周辺に店がなく、とにかく不便! 街に移りたいです。

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森 信幸
(本会顧問)  在瀋陽日本領事館


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森林 久枝   東北育才外国語学校

 瀋陽へ来て2年半です。瀋陽へ来る前は京都にある日本語学校に勤めていました。京都の学校で上司や同僚に恵まれ多くのことを教えてもらい、更に違った角度から日本語教育を見てみたいという思いから中国へ来ました。京都での先生方に対しては今でも感謝の気持ちでいっぱいですが、現在の職場である東北育才外国語学校でも職場環境に恵まれていると感じています。このような仕事は一人でできるものじゃないのだとつくづく思います。まわりの先生からの助言・協力があってこそ成り立つものです。

今学期も中国語の習得と個人的興味関心の追求に意欲を燃やしていきたいと思っています。

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1)八木 万祐子

2)遼寧中医学院 2004年7月まで

3)2002年4月に瀋陽へ来て、かれこれもう2年が過ぎようとしています。仕事をするのも海外生活も初めてだったので、一年目はいろいろと苦労しました。二年目に入ってからは、少し余裕が出てきて、ウクレレ、編物など、新たな趣味ができました。中国語は下手ですが、中国語の歌(孫燕姿・周傑倫など)は大好きで、カラオケで歌ったりもしています♪

 私の瀋陽生活も、あと4か月ほど。終わりが近づくと、時間が惜しくなるものですね。かわいいかわいい学生との授業はもちろん、日々の小さなことを大切に、毎日笑って、毎日楽しく過ごしたいと思っています。

(200420

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山形 貞子  瀋陽薬科大学

瀋陽で暮らすようになって4年経ちました。はじめは大学までの、ほんの10 分ほどの道を歩くときにも何となく緊張していたように思いますが、さすがに 3年経つと気分も楽に街を歩けるようになりました。日本に戻っても落ち着かずどうもこちらの人になりかかっているようです。

専門は”ガンの生化学”ですので瀋陽薬科大学では研究室の学生達とともに毎日を過ごしています。日本語の冗談も皮肉もすべて分かってしまう学生も多 く、言葉に不自由せず暮らしていますが、その分中国語は全く上達せず、これではいけないと最近思うようになりました。

学生の一人に中国語を習っている のですが、なんといっても記不住。自由に話せるのはいつのことやら。

研究と言うのは休みがないも同然ですので、土、日も研究室に居ることも多く、こちらに来てからほとんどどこにも遊びに行っていません。それでも瀋陽 の街並みの変化に目を見張り、安くてもおいしい中国料理を楽しみ、豊富な果 物に感激しながら暮らしています。

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1) 山崎 えり子

2) 東北育才外国語学校

3) 中国に来て、もう少しで5年になります。天津に約2年半、そして瀋陽に来て3年目になります。その間、5・1の休み、10・1の休み、そして夏休みや冬休みに旅行しまくって、今ちょっと息切れ状態。とはいえ、広い中国、まだまだ行ったことがないところがたくさん!

ところで、つい先日、パソコンが壊れて再セットアップしました。バックアップせずパソコン本体にためたままだったデジカメ写真をなくしてしまいました。ショック!大体は自分で作っているHPにアップしているので、見られますが、なくしたものも多い。特に、全員写した以前の教え子の写真が・・・・。こまめにバックアップしておかなければならないですね。

写真は夏休みに旅行した雲南の少数民族の写真。麗江の旧市街(古い町並みが保存されている地区です)で、のんびりしているお年寄りたち。観光ポイント以外にも、こういった民族衣装を着た人たちが普通に生活していましたが、若い人たちは私たちと変わらないスタイルの人が多かったようです。

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1)名前: 山崎 由紀

2)瀋陽での勤務場所: 東北大学

3)瀋陽における勤務期間:2002年4月〜2003年5月

4)現在の所属: 大連の企業

5)挨拶: 2002年4月から1年余り、瀋陽の東北大学で日本語を教えていました。

帰国後は日本語学校に1年勤めた後退職し、中国で出会った人と結婚、西安、ウルムチ、北京と引越しを重ね、今は夫は瀋陽、私は大連で仕事をしています。

大連では企業内の中国人スタッフのために、インターネット教材とトレーニングを組み合わせて、より一層の日本語のレベルアップができるような方法を考えたりしています。OPIの考え方をかなり取り入れていて、おもしろく勉強になります。

また瀋陽にも行く機会があるかと思いますので、その際にはよろしくお願いいたします。

6)連絡先:マイ・ブログ:http://plaza.rakuten.co.jp/yukic08/

(2005年7月現在)

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山田 高志郎   東北育才学校

山田 高志郎(こーしろー) / YAMADA Koshiroです。

[教師会入会までの経緯] 06年04月より、瀋陽にある東北育才学校に在籍しております。教師会へは、06年06月定例会への引継ぎ参加を経て、09月に正式加入しました。日本にいても外国人と間違われるのに、「『日本人』教師の会」へスムーズに入れていただいたことに感謝しております。実は、外地における日本人との関係に、多少の難しさがあるのではないかと不安がないわけでもありません。そんなことから、バンコクで日本語教育をしていたときは、敢えて日本人との接触を断っておりました。

[担当科目] 06年07月までは高校1-3年生に日本語科を、06年09月からは中学、高校各1年生に日本語科と、高校3年生で文系科目を選択した生徒に政経・現社を教えております。

[育才学校での立場] 06-07年度日本人スタッフでは、新学年開始時では滞在たったの3ヶ月の私が、瀋陽および校内滞在歴が最長になってしまいました。同僚の先生方や校外の方に、いろいろと不便を生じさせてしまっているかもしれません。この場をお借りして、お詫び申し上げます。瀋陽滞在歴が短い、東北育才学校の日本人スタッフを今後ともよろしくお願い申し上げます。

[教師会での役割] 編集係とそのWeb担当、日本人会クリスマス会実行委員会係に、07年3月から急遽クリスマス会エンタメ係が加わり、活動に励んでおります。(係には入っていませんが、HP係のお仕事もしていたようなァ...。)係のみなさんとは、真剣がゆえの衝突もあったりするでしょう。これから仲良く喧嘩させてくださいね。

[夢] 兼ねてから、日本国外での日本語放送に関わる仕事をしてみたいと思っています。「日本」を現地の方に、現地のことをその街にいる日本の方に伝え、双方を結ぶ接点に常に立っていられると思うからです。紛れもなく、日本人教師もその線に沿ったものですね。こんなことを考えながら、日々苦しんでいます。

[瀋陽生活で生み出した友好理論] 「現在とは、未だ過ぎ去っていない過去と、もう来てしまっている未来との衝突の場である。」かつて、暗い道へ真っ先に突入させてしまった地で生活していて、ある哲学者の言葉を度々思い出すようにしています。 暗い過去を背負って生きている日本人の一人として申し上げる立場にないかもしれません。しかし友好や交流というものは、ワン・プレイヤーでは成し遂げないものです。そんなことを考えて中国人の方と汽車パックツアーを終えた時、明るい未来を模索するための新しい理論になるかもしれない考えが浮かんできました。 それは、「トンネル通過理論」です。通常、トンネルに差し掛かった列車は、真っ先に向かっていった先頭車両からトンネルを抜け出すのです。もちろん、地下鉄のように半永久的にトンネルの中に留まる場合もあります。また、トンネル内で火事を起こしたり、大破する場合もあるでしょう。が、大方の列車は通常、進行方向一輌目から入り、その車両から抜け出していくのです。 非常に短絡的かつ楽観的ではありますが、日本人教師として生活している身として、瀋陽という町が中日・日中、ひいては東アジアの友好・交流を牽引していく町になっていけばこの上ない喜びであります。 そのための糸口は、なくはないのかもしれません。生徒と話していても、「東北の人はサッパリしている」と言います。実際に、私たちと接した地元の方々の中にも、「認識が変わった」という方もいらっしゃいます。 また、他の日本人と一緒に町を歩いていると、高齢者の方から「ありがとう」、「さようなら」などという声を耳にする経験がしばしばあります。間違いなく、過去の経緯に大きな問題がありました。が、無理を承知で発想を逆転してみると、この町に片言でも日本語を理解される方が多くいらっしゃるという事実が浮かび上がってくるのです。また、日本から瀋陽へ招聘していただき、この地で人々と仲良くしていきたいと考えている人も多数いるということなのです。この現状こそが、再度の永続的な中日・日中友好時代を築く上での接点になり得るのではないでしょうか。 日本人として命を受けた私が申し上げるのは、甚だ都合の良いことに思われてしまうかもしれません。が、中日・日中双方でお互いに、過去の暗さを未来の明るさに向かうための財産としていける日がくることを期待します。 2007年は日中文化・スポーツ交流年です。瀋陽およびその近郊で日本語を学ぶ方、世代を越えて片言でも日本語を理解される方々とともにビデオドラマが作れないかと想像してもいます。現時点では、時間的にも、経済的にも無理だとは思いますが...。 JFKが言ったように、「国家に何をして欲しいかを問うのではなく、国家に何ができるかを問う」た際の私なりの現時点での想いなのです。もっとも、国というチッポケなものではなく、アジア、世界という広い視座に立って考えた場合、「今できる」、「今すべき」ことの一つだとも感じています。教師会の皆さん、日本語を学ぶ、用いる皆さん、そして市民の皆さんと中日・日中関係悪化に大きな影響を残した瀋陽という町から、個のつながりとしての友好へ確実なステップを踏み出していきたいと願っています。

[抱負とテーマ] 私は以前から、個人的に「つなぎ と 新構築」が非常に大事だと感じています。

[ご挨拶] 教師会の皆さん、いろいろとご面倒をおかけすることもあろうかと存じます。どうかご指導、ご鞭撻の程よろしくお願いいたします。 世界の皆さん、はじめまして。60億分の1の出会いをしているこの場こそ、私たちの「世界の中心」だと思って良いでしょう。そんなこんなで、[日本語クラブ on Site ]へのアクセスもよろしくお願い申し上げます。 (2007年5月)

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1)山中 晋吾

2)東北大学

3)〜2004年8月

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若松 章子    東北育才外国語学校

京都市の日本語学校から中国派遣を希望して参りました日本語教師です。1年だけの予定です。

 以前から歴史小説などで古代中国が大好きでした。息子も娘もそれに夫も?自立できる年となりましたし家族も今のところ健康ですので単身赴任するには今がちょうどよいタイミングでした。

 ほかにチンタオ、大連、成都などの候補地があった中でここ瀋陽に来ることに決まったのも、諸先輩にめぐり合うことになったのも定められた縁なのだと感じております。

 熱望といってもよいくらい中国に来たかったのにいざ来てみると学校と寮は、想像以上に交通の不便な南の端にあり、閉塞感いっぱいで2週間ほど里心に苛まれていました。この私が??という感じで。今は乗り物にも一人で乗れるようになったので前途に道が開けて希望が出てきたところです。

 中国語会話、卓球、また中日戦争などについて知りたい気持ちもあり,とても1年では無理ですがやれるところまでやってみるっきゃないです。

ほかに趣味は洋裁、着物、水泳、音楽はモーツアルト,スピッツ、小説は宮城谷昌晃,ただ今フルート独学中。

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