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1992年末頃 |
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1999年4月 |
「帰国者センター」廃止、長春に移転 ※当時、教師会のメンバーが、「残留孤児」に日本語会話を教えるボランティア活動をしており、ここが教師会の活動・交流の拠点となっていた。 |
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1999年 |
石井康男氏を中心に、大阪のNPO「関西遼寧協会」「市岡国際教育協会」の支援を得て、「瀋陽日本語資料室」設立を企画 関西遼寧協会の会員が事務所を無償で提供することを申し出る。 市岡国際教育協会が教材を積極的に集めることを申し出る。 ※関西遼寧協会は1985年から遼寧省政府をはじめ、多くの関係機関と友好交流の実績を持っている。1999年6月法人化。 ※「市岡国際教育協会」は1996年から大阪市内の高校で日本語日常会話教室を開設している。 |
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1999年11月 |
特定非営利活動法人 日中ボランティア活動センター設立 |
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2000年6月10日 |
瀋陽日本語資料室 開所式(大東区小北関街) ※この建物は1994年に北大阪食品が飲食店(1階ラーメン店、2階カラオケ店)を経営していたものであるが、2000年に閉鎖した。その時、社長は退いたが、会社は残って、1階がカレー店となり、上の階を日本語資料室とした。 その後、経営難で会社も無くなったが、北大阪食品公司として、カレー店の経営を続ける。 |
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2004年 |
日中ボランティア活動センター解散 ※以後、関西遼寧協会に管理が移る。 |
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2004年9月 |
教師の会の中に資料室担当を作った。 関西遼寧協会瀋陽代表理事石井康男氏の補佐をしながら、教師の会が資料室の管理運営に関わる。 |
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2006年3月 |
資料室の建物の1階にあるカレー店が閉店 資料室の移転が決定 ※3月26日に開催された「瀋陽日本人総会」で窮状を訴える。 ※3月28日に朝日新聞東京版に資料室の記事が載り、川口前外務大臣をはじめ、多くの反響が寄せられた。 ※森前領事の紹介により「新幹線外語学校」、伊藤忠商事・高木所長の紹介により「開元大厦」、中央大学・李廷江先生の紹介により「集智大厦」を見せていただいた。 |
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2006年5月8日 |
関西遼寧協会から日本語資料室の書籍等すべてを教師会に譲渡 |
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2006年5月20日 |
開元大厦6階に資料室移転(約118平米)。 オーナーの赫子進さんは高木純夫伊藤忠商事瀋陽所長の友人。日本語資料室を日中友好の日本語文化センターにしようという構想が育ち始める。 |
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2006年8月25日 |
開元大厦がホテルとして全面改装するため、資料室の移転が決定 |
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2006年8月28日 |
移転の候補先・「和平区国際科技孵化器」ビルとの交渉開始 ※この移転先は開元大厦の赫オーナーが探してくださった。 |
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2006年10月29日 |
和平区国際科技孵化器との交渉が長引いた為、資料室の荷物を開元大厦の地下倉庫へ移動 |
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2006年11月 |
和平区国際科技孵化器の局長の許可が下りない為、交渉を諦める ※この間、阿部前総領事、瀋陽市人民政府・宋副市長からの働きかけなど多くの努力が注ぎ込まれたが、契約には至らなかった。 |
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2006年12月4日 |
集智大厦と契約(オーナーの李暁東さんは中央大学・李廷江先生の友人) |
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2006年12月9日 |
集智大厦8階に資料室移転(約80平米) |
| 2007年9月 | 講談社サイエンティフィクから科学書主体の寄贈 |
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2008年3月 |
集智大厦8階フロアの売却・改装により資料室の移転が決定 |
| 2008年4月 | 講談社サイエンティフィクから2回目の科学書主体の寄贈 |
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2008年4月16日 |
何氏眼鏡・滂江店に一時的に荷物を移動。 ※その後、8月20日に何氏眼鏡・砂山店に荷物を移動。 |
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2008年12月 |
書籍等は梱包されたまま、何氏眼鏡店に保管(何氏眼鏡の富島和美さんのご好意による)。 候補地の情報はいくつも寄せられているが、条件が合わず、再開の目途は立っていない。 |
| 2008年12月19日 | 在瀋陽日本国総領事館を訪ねた(石原、松下、土屋、山形)。松本盛雄総領事に資料室再開のためにお力添えをお願いする。 このときのPDF資料。 |
| 2009年1月21日 | 松本総領事、菊田、平柳.領事、瀋陽市文化局(梁利人副局長)、瀋陽市図書館(李長武館長、周佳兵氏)と教師の会の池本、有川が市図書館で会談。 基本的には資料室図書を瀋陽市図書館に寄贈し、保管と管理を図書館にお願いすることが承認された。教師の会の寄贈であることをはっきりさせる。教師の会の会議の場所を貸してもらうことも了解済み。 |
日本語資料室の歴史資料