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ichibakuロゴ 聖書とは? キリストとは? 一麦教会からの幸せの提案。



キリスト

 キリストとは職名を意味し、「油注がれた者」という意味です。それは神様に選ばれたことを意味していますが、それはのちに一つの固有名詞となって「救い主」という意味に受け取られるようになりました。ですから、この「救い主(キリスト)」の名前がイエスなので、イエス・キリストと呼ばれるのです。この方はマリヤから生まれた肉体を持つ者ですが、しかし、その本性は神性を頂くお方です。聖書の記事では神のひとり子と記されています。

 この神のひとり子イエス・キリストは、聖書に預言されていた通りにこの世を救うために来られました。イエス・キリストはこの地上において唯一人類に与えられた真の神であり、真の救い主です。


「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」ヨハネの手紙第一 5章20節(新改訳) 抜粋


 そしてイエス・キリストは弟子たちと民衆に真理と永遠の命を受けられる道を示し、最後には全人類の全ての罪を一身に負って、自ら十字架に架り、尊い血を流して、本来私たちが受けなければならない罪の裁きの刑罰を身代わりに受けられ、死んでくださいました。墓に葬られましたが、三日目に裁きの死よりよみがえり、多くの人々の前に現われて、死さえも打ち破る神の力を証明されました。

 その時に、神のひとり子イエス・キリストによる罪の赦しの救いを信じた人々を永遠の神の国に導くために、再び来られることを約束して、天に昇られ、今は父なる神の右の御座に座して私たちのためにとりなしをしておられるのです。聖書はだれでもイエス・キリストを復活された救い主と信じるものを今も変わらず恵みと祝福を持って救い、信じる者の人生を力強く導いてくださるお方です。

 神であるイエス・キリストは、私たちと同じ肉体を持ったことにより、人々の苦しみ、怒り、悲しみ、弱さなどをこの世に生きる私たちと同じような経験を受けられ、その苦しみを理解しておられます。ですから神は人を見下ろす目線ではなく、私たちと同じ目線で真実の愛をもって、助け、あわれんでくださるお方なのです。



★ 聖書について

 聖書は、世界中の国でたくさんの人々に読まれている永遠のベストセラーです。


「ことばは神であった。」ヨハネの福音書 1章1節


 聖書は、旧約聖書と呼ばれる39巻の書物と新約聖書と呼ばれる27巻の書物をあわせて、全66巻からなる神によって選ばれた約40人の人たちの手で、約1600年かけて書かれた書物の集合体です。書いた人々の職業は王や学者、農夫、羊飼い、漁師、税吏など様々でした。

 また、聖書は神に特別に選ばれた人たちが神の霊感(神様の特別な導きと守り)を受けながら、神の意志を正確に誤りなく書き記したものです。しかも違った時代、場所で様々な人が書いたにもかかわらず、そこには統一性と調和があって、ひとつの矛盾もありません。

 旧約聖書では、この宇宙と世界がどのように創られたかを説き明かす、すべてのことの始まりから、神が御自分の民として最初に選ばれたイスラエル民族の歴史、神の戒めや教えがいるされた律法、神様を誉めたたえた詩歌、預言者によって記された預言書などが収められています。この旧約聖書はやがて来られる救世主、イエス・キリストの誕生の預言とその働きの預言が記されており、イスラエルの救いと共に全人類の救いが約束されています。

 新約聖書は神によって約束された救い主、イエス・キリストがどのように誕生され、約束された救いをどのようにして成就されたかを伝えています。旧約聖書で預言された出来事が新約聖書の「福音書」の中でことごとく成就したことが記され、人間がどうしたら救われ、永遠の命を持つことができるかについて、こと細かく書かれています。また、イエスの弟子たちが、救いの福音をどのように世界に伝えたかを記した「使徒の働き」、使徒たち、特にパウロという人が教会を励ますために書いた手紙、さらに終末における究極の救いの未来が描かれた預言書「ヨハネの黙示録」などが収められています。

 旧約、新約聖書ともに主題はイエス・キリストです。ですから、このお方を聖書のキーワードとして旧新両約聖書を読むことが聖書を正しく読む秘訣です。


★ キリスト教

 キリスト教は、ユダヤ教から派生した一神教である。正統教義では、神には同一の本質を持ちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格、父なる神と子なる神(キリスト)と聖霊なる神があって、一つとなしています。それをキリスト教用語で三位一体と言います。この三位一体のお方が聖書を通して、私たちに教え、導き、救うのです。

 聖書にはアダムとエバの堕罪以降、子孫である全ての人間は生まれながらに罪の支配下に存在し、神の裁きを受けるべき立場にあるものだと言い、神にして人であるイエス・キリストの十字架の死は罪の支配下の中で犯した数々の罪を贖うのです。その結果、イエスをキリスト(救い主)と信じるものは全ての罪の裁きから救われ、神の子として生まれ変わることによって永遠の命を頂くことになるのです。このように聖書に基づくイエス・キリストへの信仰がキリスト教の根幹をなしている。

 キリスト教のもっとも重要な信条としてニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年に成立)と、それとほぼ同じ内容を含むがやや簡略で、プロテスタントやカトリック教会で広く用いられる使徒信条がある。

これらの信条は教会に異端的な考えが入らないようにするために成立した経緯があり、現在も洗礼式や毎週の礼拝で信徒のキリスト教の信仰告白として用いられている。




教会

 キリスト教会(教会)とは、主イエスキリストを信じ、キリストの権威のもとで、協力し合う人々の集まりです。

 聖書が使う教会という言葉はギリシャ語のエクレシアという語が使われています。エクレシアとはクリスチャンの集まりを意味して、建造物を指していません。しかし、元々のエクレシアという言葉は当時、ギリシャ市民が集まって何かの会合、集会を指す言葉でした。それが、聖書を通して教会という言葉として使われれるようになったのです。

 教会は生ける主の臨在によって、一つに集められたもので、教会は世界でひとつしかありません。しかし、便宜上と神様の知恵のゆえに各地域の教会が世界中に存在しています。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18章20節(新改訳)

新約聖書が明らかにする教会の正しい姿は、様々の外観の違いを持つ教会が互いに心から一致している姿です。パウロは幾度となく、そのことを述べています。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」ガラテヤ3章28節(新改訳)

私たちが目にしているキリスト教会には様々なスタイルを持っていますが、そのすべてがイエス・キリストにあって一つだということです。ですから、十字架を教会の中心に掲げている教会こそがキリスト教会だと言えるのです。




人生

人生について聖書の中の「伝道者の書」からピックアップして考えてみましょう。


はじめにこのように記しています。


伝道者の書1章1節〜11節 (新改訳聖書)
エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。日は上り、日は沈み、またもとの上る所に帰って行く。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽きることもなく、耳は聞いて満ち足りることもない。昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。


これも真理です。また、


伝道者の書2章22節〜26節
実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。


神さまは私たちがこの世に生きることの意味をここで教えています。そして、


伝道者の書3章9節〜14節
働く者は労苦して何の益を得よう。私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。


さらに、


伝道者の書5章18節〜20節
見よ。私がよいと見たこと、好ましいことは、神がその人に許されるいのちの日数の間、日の下で骨折るすべての労苦のうちに、しあわせを見つけて、食べたり飲んだりすることだ。これが人の受ける分なのだ。実に神はすべての人間に富と財宝を与え、これを楽しむことを許し、自分の受ける分を受け、自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。こういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるからだ。


この言葉にうなづくようになったら、


その結論はこうだ。


伝道者の書11章8節〜12章1節
人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。


伝道者の書12章13節〜14節
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。


神さまは人生を楽しむように言っていますが、この世のことだけでなく、永遠をどう過ごすために、今をどのように生きるべきかを教えています。最後に次の聖書の言葉を載せておきます。


ヘブル人への手紙9章27節
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。





社会

 【準備中です。お楽しみに】








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