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Health ! Everybody needs healthy body ! ★肉体は偉大なるひとつの共犯である。 |
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![]() 歯が、抜けた! ![]() |
text by ■公共の使命を果たさねばならない、この聖なる『共犯新聞』において、またしても私個人のメタボ報告を申し上げる無礼を再度、お許し願いたい。 公共メディアとしての『共犯新聞』が、個人の報告に貴重な紙面を犯させることを不快に思う賢明なる読者の皆様には、重ねてお詫び申し上げる。 ■さて、昨年の8月17日に、健康診断で下された結果、 「少なくとも体重を2〜5kg以上、減らさないと、許しませんからねっ!来年の2月に久保さんをもう一度、呼び出して、その結果を聞きますからねっ!」 で、その2月がやってきた。そんで、呼び出されて、調べたのよねん。 ↓ ![]()
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Ballad of A Fat Mantext by 久保AB-ST元宏 (2007年8月17日 4:52Pm) ■私が7月に受診した『総合健康診断』の結果が通知されてきた。 「8月17日(金) 10:30までにお越しください」 ・・・との、こと。 私の全ての知人には、 「あなたは異常ありませんでした。」とゆー通知だけで、「お越しください」とは言われていないよーだから、 おい&おい、あはは、私の肉体、やばい?ってな感ぁ〜んじぃ?なのである。 ■まぁ、もちろん、過去にも私は5年前の40歳の時に、同じ『総合健康診断』で、 「大腸がんの可能性あり。」と、診断されたことがあったけど、まぁ、アレは、セーフだった♪ しかし、それからも、どー考えても、1.極端な寝不足(=1日4時間)、2.極端な酒(がくっ。)、3.運動不足など&など、もー何かあっても、驚かない準備だけはしてきた(?)。 ■んで、今日、診断の結果を聞きに行ってきました〜。 ↓
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12日の夜、8時50分に初めて聞いた。 私の母の弟が吹雪の中、自分の自動車の車中で、死体で発見されたのだ。 「夜が明けたら、私も行かねばならない。」と、すぐに想い、その通りに出かけた。
今でも、その時の新聞記事をいくつか憶えている。たとえば、手塚治虫の原作テレビ『マグマ大使』の主人公が着グルミを脱いで顔を出して、 「私がマグマ大使の中に入っています。」という記事などは子供心にも衝撃的で、その記事に自分が座れた偶然が、 なにか自分だけに大きな秘密が明かされたかのように何度もその新聞記事を読み返したものだ。 そして、線路と平行に走っていた国道は、舗装された。若い父親が運転するボロい車が、長時間の砂利道を走るたびに、 小学校に入学する前の私は酔ってしまい嘔吐を繰り返した。そのたびに私の若い母は、「やっぱり、汽車ね。」と言ったものだ。 さらに、長時間であった国道を利用する自動車旅行も、大きく蛇行する海岸線にいくつもの長いトンネルをブチ抜くことにより、短時間で叔父の家に着くことになった。 国道の舗装と、多くの長いトンネルの完成と、私の父の運転技術の向上により、私は自動車酔いをしなくなり、 小学校の高学年になるともう汽車で叔父の家に行くことなど考えもしなくなった。
国鉄は無くなり、そもそも留萌から稚内につながっていた線路そのものも無くなった。 それからだって、もうかなりの歳月が流れている。 叔父は布団に寝ており、もうすでに耳の周囲が青紫色に変色してきていた。 「死」はいつも、モノ(=物)である前にコト(=事)のような気がしているが、こうして死体を見せられると、モノである事実に言葉が落ちてこなくなる。 もしくは。 肉体がコトから、モノに変わることを「死」と呼ぶのか。 叔父の家は、かつてこの町にあった国鉄駅のすぐ前に建てられている。かなり大きい。知らない人が見たら、この町の公民館ではないかと思うかもしれない。 つまり、叔父は大金持ちなのだ。 だから、葬儀委員長は当然のように町長だ。 私が叔父の家に着いてからも、同業者の社長連中、管内の議員、名士、銀行の支店長などなどが叔父の死体の前で行列をしていた。 叔父の顔の上に乗せられた白いハンカチが何度も、上げ下げをそのたびに繰り返していた。 きっと、明日の葬儀も大きなものになるに違いない。 それでも、世の中の全ての美人が幸せな結婚ができるわけでもないように、世の中のお金持ちが全て幸福なわけではない。 叔父の正月も、同級生を誘ってのマージャンの日々であったという。孫のいる同級生の中には、いやいや参加したモノもいたコトだろう。 もちろん、邪推はしたくはない。 私が言いたいことは、こういうことだ。 人生には「幸福」という尺度は一つだけではない。 もっと重要なことは、「幸福」かどうかを決めるチャンスは一度だけではない。何度、「幸福」かどうかを再検討してみても良いのであるし、そうすべきなのだ。 そして、もちろん、それは「死」んでからでもいいのだ。 叔父は「不良」だった。 彼が高校生の時、自分の部屋をバーに改造したという部屋が私の少年時代の遊び場だった。 1938年9月23日生れの叔父だから、もちろん私の少年時代は新婚時代であり、美人の美容師を妻にし、親と離れて暮らしていた。 祖父の家に泊まりに来た少年の私の遊び場がたまたま、叔父のかつてのバーだったのだ。 おそらく、彼の人生は基本的には変わってはいなかったのだと思う。 バブル最盛期、「モト、オジサンはな、60歳になったら引退するぞ。引退して、オーストラリアに住むんじゃ。 そしたら、ゴルフと酒三昧だぞ!がっはっはっは!」と、よく私に言っていた。 当時の私は、「なんでまた、オーストラリア?」とも疑問に思っていたのだが、60年間も雪山にイジメられながら仕事をしてきた叔父にとっては、 雪の降らない常夏のオーストラリアは、なにか人生への復讐みたいなものであったような気がしないでもない。 しかし、結局、67歳で死ぬまで現役であり、オーストラリア移住どころか全ての兄弟が町を去って都会に行ってしまっても、この町だけに67年間、住み続けた。 そして何よりも、「引退」どころか、おそらく叔父の同業者たちと比べれば、はるかに働きすぎであった。 叔父は土建会社を経営していた。 その父、つまり私の祖父が白糠町で炭焼き職人として創業した。 今の場所に引越しをしてから炭焼きの仕事が、じょじょに木材の切り出し業となり、数百人の人力と共に熊の出る山にこもる仕事へと変わる。 1987年の会社創立30周年の記念パーティに私も参加させてもらったが、叔父が高校を卒業した当時でさえ、 地下足袋をはいて雪山を歩いて現場に出勤し、食事はバケツに入った味噌汁だったということを聞かされて驚いた記憶がある。 当時、祖父は「おやじさん」と呼ばれ、1m80cm近い身長と200kg近い体重の巨漢で、いつも職員を怒鳴り散らしていたという。 私にとっては、いつも親戚中で一番たくさんお年玉をくれる優しいおじいちゃんだったから、その事実も私は慣れないネクタイをしながら聞いて驚いたものだ。 まもなく田中角栄の登場を準備したかのように、木材切り出し業は「土建業」に変わる。 その頃から、祖父の時代が叔父の時代に変わったのだろうか。 若い叔父は、誰よりも先にゴルフを始め、オールド・パーを飲み、役人のふところに入ってゆき、大きな仕事を次から次へととってゆく。 甥っ子の私が砂利道でゲロを吐いていたのを、舗装とトンネルで解消してくれたのは、叔父の仕事だ。 その内、かつて熊と戦いながら木材を切り開いていた山道までも舗装し、トンネルを掘っていった。 叔父の会社は、どんな大手土建会社よりも、山道を切り開きトンネルや橋をかけながら舗装道路を伸ばす技術に優れていたようだ。 なにしろ、まだまだバケツに入った味噌汁を食事に、足袋を履いて雪山をこいで木を切り出していた世代が山道を知り尽くしていたのだから。 景気が悪く成りだす、との予言が的中し始めたころ、叔父の会社が同業他社と比べ成長を止めなかった秘密が、そこにもあるのかもしれない。 その時期が叔父の息子、つまり私の従兄弟が大学を出て手伝いだした頃だ。 従兄弟がコンピュータで設計し、経費や見積書を作り上げ、叔父が営業し、二人で現場を見て回っていた。 作られた山道は芸術的ではあったが、都会のモノが見ると、「なぜ、熊が歩くために道路を作っているのだ!?」と、言いたくなる路線もあったことだろう。 叔父が一生懸命に作っている道路が、かつての材木切り出し業の時代のライバルであった熊のためのモノであるとするならば、なんという因果であろうか。 「北海道開発」という役所の名称が、なにか趣味の悪い冗談のように聞こえてきた時代になってしまっていたのだ。 もうその頃になると、土木工事も飽和状態になってきていたのだろう。 管内の土建会社は倒産したり、合併したりし始めた。 しかし、叔父の会社は苦しいながらも、常に銀行から優良企業として役員として迎えられたりしていた。 もちろん、それは叔父の過労が背負っていたのだと誰もが知っていた。 叔父の会社も一時期は役人OBを採用したりして、努力とは違った「営業」も試していたようだと思う。 しかし、もう談合の時代は去り、さらに厳しい談合すらできない時代になってしまっている。 その時に求められるのは、トップの「仕事」に他ならないのだ。 叔父は新年の挨拶回りを繰り返し、この日も留萌で役所回りをしていた。 ![]() 翌日の地元信用金庫の新年会に合わせた準備と仕事の片づけがあり、暗くなってから留萌を自分の運転で出た。 日本海側から山に向かって叩きつける細かい雪の嵐は、そこに後からやってきた人間を試すかのように必要以上に厳しい。 留萌から長時間、猛吹雪の中、走り慣れた一本道を慎重に北上し、 もうすぐ自宅だ、という三叉路を曲がり、150m走ったところで、叔父の車は雪山に刺さっていた。 エア・バックは出ていなかったので、車が止まった時にはまだ意識はあったのかもしれない。 そんな状況だから、警察は死体の解剖を求めた。 死因;急性心筋梗塞。 死亡時間;午後8時30分。 第一発見者は、非番の消防職員だった。車のナンバーを確認に町に電話すると、すぐに叔父の身元が分かった。 車のナンバーだけで多くの町民が誰か分かる男、だったのだ。 午後8時50分。 私の家に叔父の息子から電話が来た。 「パパが死んだ。警察が遺体を解剖するそうだ。原因は、わがんね。」 翌朝、能天気な青空に笑われているかのように私はスムーズに叔父の家に着く。 「沼田の久保です。みなさん、お世話になります。」と、茶の間に並ぶ人々に、土下座をする。 「おお、久しぶりだじゃ。」叔父の会社のベテラン社員か。 少し遅れて、私の母が玄関でコートを脱いでから入ってくる。すると、すすっと白髪の男が近寄ってきて、両手を握り、 「ねぇさん。すまん。」と言って絶句。 叔父の同級生だ。もちろん、彼の責任でも無い。母は彼の「ねぇさん」でもない。しかし、そう彼に言わせる人生を叔父が作ってきたのだ。 ![]() 死の直後だ。誰も悪口は言わない。それがアタリマエだ。 しかし、私には分かる。 完璧な「幸福」が存在しないように、完璧な「不幸」は存在しない。 彼らが口にしないことも、私が知らないこともたくさんあるだろう。これからも、ずっと。 それでも、ここ、この冷たくなった叔父が横たわる部屋にいる人たちは、全員、今、叔父のことを考えている。 おそらくは、この小さな日本の北の町の町民のかなり多くの人も、今日ばかりは確実に叔父のことを考えている。それは間違いではない。 そして叔父が死んだ今、それが褒め言葉でも悪口でももう関係ない。 もし私が叔父の姉の子供でなかったら、包み隠さずに、叔父の口から直接聞けた面白い「不良」話も無数にあったことだろう。 もしかしたら、もう10年後、叔父が本当に「引退」した後、少しづつ減った親戚を集めて叔父がゆっくり語るはずだった時間で、 叔父の楽しい「告白」が聞けたかもしれなかった、とも思う。 兄弟の中では珍しい口下手の叔父だからこそ、いつかじっくりとオールド・パーを飲みながら語り明かす時が来るものだ、とも思っていた。 しかし、その相手として私自身はまだまだ役不足であると尻込んでいたのも、もう一方の事実である。 ああ、そうだ。 叔父は「兄弟の中では珍しい口下手」であったのは事実だが、よく考えてみれば、上2人、下2人の女4人に囲まれた男は彼だけの姉妹だったのだ。 別に男が「家系」を背負う義務も理由も無いが、他人には分からぬ責任感が寡黙な叔父にはあったのだろう。きっと。 叔父が最後に戻ろうとしたあの一本道を、私の母が片道切符で南下した40数年前以降、叔父の姉妹は順番に皆、南下して行った。 姉妹の誰もが一本道を南下する時に片道切符だったのに、叔父はちゃんと最後まで往復切符であった事実が、私には偶然ではないような気がする。 そして叔父の町には、叔父だけが残ったのだ。 おしゃべりな姉妹の横でいつも静かであった叔父が、姉妹のいない町では、どんな話っぷりであったのだろうか。 生き残った人たちの叔父への思いを、これから私は聞いてゆくことだろう。 そして、そこでまた私は叔父に再会する。 それが、人生の おまけ なのだ。 叔父の身長は185cmだという。 従兄弟に、「お前は何cmだ?」と聞くと、「おれか?181cmだ。」「ふーん。結局、最後までお前はオヤジを抜けなかったってわけか。」「……。あはは。」 「まいったでや、モトちゃん。イナカ町だから、185cmの人が入るサイズの棺おけが無いでや!」 今、北国のイナカ町では、町中の最高の大工を集めて、叔父が入る棺おけが夜通し徹夜で造られている。 葬式は夜明け後だ。 最高のカンオケを造れ。 金に糸目は、つけねぇ。
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■まぁ、インターネットの時代は人類が「棒にあたる」可能性を爆発的に広げた・と、言えよう。 ■そー言やぁー、2005年1月5日、午後7時ごろ私の父が新年会の帰りに酔っ払って転んで、足を骨折した。 新年会の一次会が終わった直後だったので回りに人がいたおかげで、恥ずかしさ半分&便利さ半分で、親切な亀谷クンがケータイで救急車を呼んでくれた。 即、入院。 右足のスネの部分(=弁慶の泣き所・泣く〜)をポッキリ。 救急病棟の整形外科の三上先生から3枚のレントゲンを見せられながら説明を聞く。 私は正月休みに柳田邦男『脳治療革命の朝』 を読んでいたので、少々、病状説明言語に慣れていて、その”コトバ使い方法”を興味深く聞けてラッキー。 特に興味深かったのは、 まぁ、つまり、「1リッターの血」なんだけど、それを「牛乳パック1箱分」と自然に説明する技術を身に付けている点。 これを柳田邦男『脳治療革命の朝』を読んで知った生半可(がくっ)医学と照合すれば、私の脳味噌の中で、 「骨折よりも、一晩で1リッターの内出血による化膿のほうが恐ろしい。」とゆー理論。 おっ。んじゃぁ〜、冷やすんだねー! で、ワク&ワクして病室に移動後に確認したら、やっぱ冷やしていた。 翌日、つまり6日、再び見舞いに行くと、骨折した足がパン&パンに腫れていた。 おおー。この内側に「牛乳パック1箱分の血が内出血」してんだなぁー。 足がハデにハレたおかげで、もう父は昨夜の新年会前からはいていたステテコが脱げない状態になっていた。 不運にも翌日から成人の日を含む連休で、手術は来週の火曜日以降となった。 入院1〜1ヶ月半、全治3ヶ月、らしい。 問題はくるぶしに近い部分の細い骨のヒビだ。 かかと周辺の関節の骨に影響する損傷があれば、関節にボルトを入れることになりそうだ。 それがなくても手術の基本は、ヒザの下から切開して骨に近いサイズの棒を差し込み、骨を補強するという方法。 骨の完治後は、この棒を抜く。
■んで、1月11日午後2時30分〜6時30分、手術が無事終了。みなさま、新年早々、色々とご心配をおかけいたしますが、ご安心くださいませ。
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