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般若心経 大乗仏教経典の中では、一部分ではあるが
、ブッダの教えに一番近い。
現代訳
(一般的な解釈)観世音菩薩が深般若波羅蜜多の修行によって
この世界からすべての苦厄を消滅されたのは、般若の智慧を
完成されたからである。五蘊(自己の精神である受想行識と
肉体と取り囲む外界である色)すべてはことごとく「空」で
あるということをはっきり見定めることによって、すべての
苦を滅せられた。
色不異空空不異色この世の中で常に移り変わるものには実
体の我がない、つまり空である。諸行無常・諸法無我。だか
ら、人間を構成している体も心もみな空である。私たちの目
に映る世界で、存在している物も、感じたことも、考えたこ
とも、行ったことや、知識も、すべて実体はない。この世に
存在するように映るものは、実体がないのだから、生じるこ
とも滅することもない。増えも減りもしない。全く空である
。人間が今ここに生きているということだってあてにならな
い。そうはいっても今この人生に私がおりあなたがいるとい
う事実を否定することはできない。私たちは縁というもので
結ばれて、なにやら大きな力のなかに生かされてこの世に存
在しているようだ。自分という存在を認めると他のあらゆる
現象もここに存在するということになる。空というものがむ
なしいこと、あてにならないことという否定の面から、逆に
それが「仏のはからい」であり「仏の恩寵」であり「仏のい
のち」である慈悲という肯定的な面へと変わっていく。
すべてのものに実体がないという空を知った者は、実体のな
い物質的な現象に煩うことはない。執着やわだかまりがない
。眼や耳や鼻や舌や身体や心にも煩わされない。感じること
や心に浮かぶ現象や意志や知識にも煩わされることはない。
ものの姿や、声や匂いや味わいや触りごこちや心地良さや不
快にも執着しない。眼に写る世界から意識の領域にいたるま
で何にも迷わされることはない。実体がないのだから、悟り
もなければ、迷いもないのである。恐怖心や老いや死にすら
実体はない。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを滅するこ
とも、苦しみを抑える道にも実体はないのである。だから、
悩まされることがない。知ることや所有することにも煩って
はならない。なぜなら、移り変わっていくものを所有しても
実体はないからである。宇宙のいのちである仏性によって無
常・諦め・中道・慈悲を認識して心を安んじているのだから
、物質世界の中での得失に苦悩することもない。自分と他者
を区別することもない。すべてが仏性によって、一体の状態
に住している。その状態に住しているから何に対す
る恐れもない。思考という愚かなものによるすべての誤った
心から遠く離れて、仏性である無我という永遠の安らぎの状
態にいる。人生の苦悩は執着に起因することがわかれば、執
着を脱する修行をして、他者の苦しみを除くための手助けし
、一緒に覚りや解脱を得よう。その菩薩界へ行こう。
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(別解釈を掲げる)世の中は思うようにならない。それが苦
しみである。苦しみを除いて楽しみにするのではな
く、苦しみを苦しみとしてあるがままに受け入れていくとき
安楽がある。この世の中、生まれたものは必ず死ぬ。形ある
ものは必ずこわれる。永久に存在するものはない。にもかか
わらず我々はそれが永久に存在すると考えている。そこに無
理があり苦しみが生まれる。生まれた者はやがて成長し、大
人になり年寄りになりまた病気になって死んでいく。だから
自分自身というものはあってない。そのあってないもの、思
うようにならないものに執着するから苦しみがわいてくる。
一切のものは、移り変わる無常だから実体は無く無我である
、つまり空である。すべて縁起による寄り集まりである。一
切のものは空であり無我であり無常であるのに、それを実体
であると観るから苦しみが生じる。すべての存在と現象には
実体がなく、無常と無我と空と仏性であるとしっかり認識す
れば安楽が得られる。
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(別解釈を掲げる)色不異空空不異色から。空ということは
すべてのものに最高価値を見出すことであり、すべてのもの
が自分の欲するように役立つということです。だから色であ
るこの世界が空であるということは、この世界があなたが思
っているとおりを実現させてくれる世界ということなのです
。「智慧が完成すれば」世界に対する処し方が変わって、そ
れまでは苦を生じる穢土としか見えなかったこの世界が、そ
のままに理想の浄土となってくる。ですから浄土と現世ある
いは極楽と地獄は別個の世界ではなくて、同一の世界です。
色不異空とは、色であるこの世界と空である浄土は別物では
ないということです。智慧の完成した者にはこの世は極楽浄
土と見えるのです。だからこの世界を自由自在に扱うには自
分の智慧を完成させればいいわけです。なにも嫌なこの世を
捨てて、ほかの極楽世界にいくことはない。浄土はこの世に
こそ見出すべきものであって、ほかの世に求めるのは誤り。
この世を浄土に変えてしまう「般若の智慧」というものは、
私たちすべての人間に与えられている。私たちには生まれな
がら「仏性」という仏になりうる素地を持っているからです
。だから仏となるか凡夫になるかは自己が自己を知るか否か
にかかっています。この点に気づいて仏性を発揮させたなら
ば現在は不完全な者でも、容易に仏の智慧を完成し得る。
この「般若の智慧の完成方法」には出家仏教と在家仏教と二
つの方法があります。出家仏教の方法は難しい段階を印可し
てもらいながら完成に向かって努力を続けます。一方、在家
の修行法は「六波羅蜜」という修行方法をとります。
小乗の修行法と大乗の修行法の相違点ですが、小乗の修行は
智慧を完成させることを目的にしているのに対して、大乗の
修行は布施行を完成させようと努力しているうちにその実践
の体験上に自然に智慧が完成されてくるのです。それは無所
得の智慧であって、ただひたすらに完全な「布施」をする事
だけを考えるのであって、結果としての智慧が高まるか否か
ということはまったく念頭におきません。その布施が真の布
施になったとき、自然に智慧は完成し涅槃の世界がそこに現
前されてくるのです。最後の呪文は「他を救い、他を救い、
徹底的に他を救い、一切の者をことごとく救い尽くすならば
、おのずから般若の智慧は完成し、菩提は成就し、楽土は実
現する」つまり徹底的に布施行を実践し、真実の布施に育て
上げていくならば、自然に持戒・忍辱・精進・禅定の六波羅
蜜は完成することになり、般若波羅蜜は成就する、という、
元気が出る解釈です。
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(道元の解釈)観自在菩薩が最も深い智慧の完成の修行を行
ったとき、五蘊である色受想行識は全て空であり実体がない
ことを悟った。すべての存在と現象は空であると。
般若波羅蜜の十二枚は眼耳鼻舌身意の六根と色声香味触法の
六境である。この十二枚が互いにかかわり、認識を生じる。
また四枚の智慧(四諦)である苦集滅道と六枚の智慧六波羅蜜
である布施、持戒、忍耐、精進、静慮、真智がある。最後の
智慧は行住坐臥である。
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(子供用解釈)
空の心とは何ですか?無心ですね。心は常に自己中心になり
やすいのです。それをなくすのです。それは相手と一つにな
ることです。無心になることによって、何が自分の中に生ま
れるんでしょうか?「優しさ」というもんです。相手を理解
してあげられることです。「二つじゃないよ、一つだよ」「
君と僕とは二つじゃないよ、一つだよ」って。これを一体不
二とか自他一如といいます。

私たちのいるこの世界は「縁」というもので、現れたり消え
たりしています。つまり、自分は何らかの縁によって存在し
ているのです。そして、縁は、私以外のさまざまな要素によ
って成り立っています。このように縁によってさまざまな現
象が現れたり消えたりしている世界の中に私達は置かれて生
きていきます。この世界は縁によってコロコロと移り変わっ
ていく「無常」です。このように縁によって現れては消えて
いく現象の中に、果たして実体本当の真実があるのでしょう
か。私たちはこれに翻弄されます。なぜなら、現象にこだわ
り、とらわれるからです。私達は人、モノ、金、地位や自分
の考えなどにしがみついています。ある程度は執着しないと
私達は生きていけないのですが、必要以上に執着してしまう
ことは苦しみや悩みなど煩悩につながっていきます。
例えば、私達はよく「手がふさがっている」という言い方を
しますね。右手と左手と両方とも何かを掴んでいては、他に
なにもできません。どちらかの手で掴んでいるものを放さな
いと、自由にはなりません。執着とは、心がこのように何か
を掴んで放さない状態といってよいでしょう。掴みっぱなし
の状態では、心が不自由な状態になります。いろいろな物を
掴んでは放していくと、心が清らかに軽くなりイキイキと自
由に活動することによって(無我ということ)、本来の自分(
仏性)というものが出てきて、自分らしい心(慈悲心)になる
のです。なぜ、私たちは必要以上に執着するのでしょうか。
それは、縁によって現れてくるヒト、モノ、金、地位や自分
の考えの中に本当のもの真実(実体)があると考えるからです
。仏教では現れては消えるものには実体はない、つまり「空
」だといいます。
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(簡単な般若心経の解釈)縁起
あなた自身はあなた以外の一切のものとの縁起関係から成り
立っている。仮に和合しているだけであって、縁というもの
が無くなれば、和合は逸散してしまう=死を意味する。つま
り我々は非常に不安定な存在であって、生死は他の縁という
不可思議なカラクリによって左右されるもので、生死は全く
隣り合わせだということになる。世の中を構成しているすべ
てのものは、同様に縁起関係によって生じている。また、仮
和合だから、このような移り変わっていく実体のない空の自
分に執着することは、幻想にしがみついていることとなる。
自分の幸福を得るために、他とどう関われば良いかを考える
のですが、自分の幸福を得るためには、自分を忘れて他人の
幸福を追求すること、つまり無我でなければならない。なぜ
なら、自分が他からの縁起によって生まれたのですから、他
を生かすこと慈悲心が即ち自分を生かすというわけですね。
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(わかりやすい解釈)空=無我
釈尊がしきりに「空」ということを言っています。それは結
局「無我」と一緒なんです。「我が無い」「自我を捨てちゃ
う」というわけですね。そうすると、「一点の曇りもない仏
心なり=空」ですよね。
般若心経というのは一体どういうことを言っているのでしょ
うか。先ず人間の根本は心です。これは「悉有仏性(しつう
ぶっしょう)」で、その心が「空」じゃなくてはいけません
よと。それを日常生活にいうと、「とらわれない心で生きな
さいよ」ということだと思います。そうすると何が起こりま
すか。自由ができる解脱ができるんじゃないですか。縛られ
たものから解き放される。芭蕉の句に名月や池をめぐりて
夜もすがら」がありますね。お月さまと自分とが一つになる
。その宇宙と自分とが一つになる。溶け合っちゃう。自由自
在な本当の自然体、それが、空であって、何ものにもとらわ
れない自由というものを同時に我々は手にすることができる
よと。つまり「空」というのは何もないのではなくて、「と
らわれのない清らかな心(清清しい心スガスガシイ)」という
ことなんです。
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死ぬより前に
仏陀は答えた「死ぬより前に、妄執を離れ、過去にこだわる
ことなく、現在においてもクヨクヨと思い巡らすことがない
ならば、あなたは未来に関しても思い煩うことがない」
「自我にこだわらなく、世界を空であると観なさい。そうす
れば死を乗り越えることができるでしょう」スッタニパーダ
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(自己流解釈)
空には二つの意味があります。一つは「空とは縁起」。
もう一つは「空とは無我」。「覚りから現象世界を観て、自
性がない。すべての存在は単一で恒常的に存在するのではな
く、他の存在の因と縁により成立している。
色即是空とは」存在する個々のものや肉体には、我である
自分というものはない。我は思考によって生じる架空の妄想
にすぎない。家にしろカネにしても自分の所有というものは
一切ない。
「空即是色とは」個々を結びつける縁という関係によって孤
立していた存在が生き生きとしたものとして存在し始める。
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色即是空「空」とは何もない無という意味ではない。
存在、感覚、観念、行動、認識など五蘊そのもの自体には実
体はないから、認識等によって組み立てられている心を含む
あらゆる存在には当然、実体である我はない。縁起によって
初めて関係が成立する。
他のあらゆる命と自己は対立せず一体不二・自他一如です
。「一元論」。あらゆる存在と現象である「色」には、形
は保持されているが、それ自体には自我という実体はなく、
「空」であり「無我」である。「実体が無い」無我だからこ
そ、逆に「あらゆるものは単独で存在を成立させるものは何
ひとつなく」「あらゆるものは相互関係つながっている」と
いう実相となる。
すべての存在は無限の他者に依存して成立していて、自らも
他者の支えになって存在している「縁起の世界」となる。い
まの自分は、目に見えるもの見えないものを含めて周囲を取
り巻くあらゆる縁起関係によって、つながって生かされてい
る「空」という世界にある。一切の縁起関係を取り除いてし
まえば、今の自分という存在は、存在しているのではあるが
無垢で真実在の実体としては存在しなくなる。色が縁起関係
によって命がふきこまれたものが「空」の世界となる。

そして、一瞬の物質的現象である「空」は、時間の経過とと
もに次々と連続体として形を変え移り変わっていく。「空」
はつねに高速で動きまわる行為者であるから、過去現在未来
は分離していない。今の自分にとっての空とは「無常」(こ
の一瞬一瞬の透脱し移り変わるため実体がないという万物の
存在の原理)である空の連なりの中でのただいま「如今即今
」HERE  NOW  の一瞬の状態である。つまり自分は過去未来
を自由に行き来している。このような縁起によって共々に生
かされて生きているという自覚に立つとき初めて、各々が関
係しあい助け合い支えながら調和する世界を完成するという
、他者に対する慈悲行が確立される。
「空即是色」「空=無我=平等一元である命=縁起」は宇
宙の真理であってこの空がすべての存在に貫かれている。悟
り、解脱、涅槃、彼岸というものは、娑婆世界を離れた遠い
世界にあるのではなく、今の自分の生命に貫流している。
座禅瞑想で修行することによって、無我で何ものにもとらわ
れないで、今の一瞬を清らかに生きていくことで、自らの生
命を最高に輝かせることができる。同時に慈悲行で他者をも
最高に輝かせることができる。・・・力強いですね
「是故空中無色」この「空」の中には「色」も「受想行識
」も実体は無い。「眼耳鼻舌身意の六根と色声香味触法の六
境」も実体は無い。視覚世界も思考の世界も実体は無い。悩
みも迷いも老も死も苦も所得も恐怖心すら実体は無い。これ
らは思考のなせる顛倒した誤った心である。身心脱落して思
考という限界を超越し「無我」に至れば、自己の心のさらに
内奥の中心に、ぽっかりと、「仏性」というともし火がとも
っていることがわかる。
それは同時に、宇宙そのもののともし火である。自己こそが
宇宙の中心である仏だとわかれば「諸法は実相」を現成して
いることもわかる。・・・すばらしい
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観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 道理がわかった時、と
いうことですね。 照見五蘊皆空 度一切苦厄
「観自在菩薩と呼ばれるような人が、修行して深い智慧に気
付いた時、五蘊というのは主体ですね、主体が皆空であると
照見すれば、一切の苦しみがなくなる」といわれました。
存在、感覚、観念、行動、認識の五つの主体を「五蘊」とい
うんですね。つまり「観自在菩薩と言われる人が、深い般若
の智慧に目覚めた時、存在とか感覚とか観念とか行動とか認
識、「色、受、想、行、識」という主体がすべて空になると
、一切の苦しみをなくすことができるというわけです。
私たちは、楽な日なんて一日もないし、苦しみの海を喘あえ
いでいるのが現実です。だけど、観自在菩薩も、もともとは
普通の人間であって、それが修行して、一番肝心なのは慈悲
心に生きることだと気付いた人です。そして、その通りすれ
ば苦海で喘いでいる我々も般若心経の教えているところであ
る仏へ辿り着ける、ということを言っているんですね 。
舎利子  智慧第一の人だから般若心経の主人公にした。
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 
亦復如是
「空」という言葉そのものは「空っぽ」というような意識が
我々にありますけれども、全く違います。「空」というのは
、空そのものが色なんだ。色が空、空が色だということにな
ります。色が元へ戻ってそのまま色になっちゃうというのは
、それは自我のまま、我執のまま生きているから、色が消え
ないわけですね。自我というものが消えない。だから、「お
前さん、自我を無くせよ」と。それを「色即是空だぞ」と。
だからそれを倒置法にして、「執着を無くして無我でいるの
がお前だぞ」というのが「空即是お前色」、そうやって日常
生活を生きていきなさいと説いているんですね。
しかしその空がわからないから苦労しちゃうわけですね。わ
からなければもう自分で求めるしかないですね。外に求めな
いで、自分の中を探せ、というんですから、座禅や修行で自
分の中を「空」とか「無」とするしかないんです。
「色受想行識」。人間存在というものを「肉体」と「心」と
いうふうに分けて、それを細かく五つに分類してみせたわけ
ですね。色は存在。受は耳で受けたり、目で見るという感覚
。想はそれを受けて、思う直感的な心の働きです。行は行動
。識は意識する働き。そういったものの本来構成要素には
我執がないんだから、それで組み立てられている人間に我執
があるはずがないじゃないか、と言っているんです。ですか
ら五蘊や身体には我執がないんだと。また主体である心にも
本来は我というものがないんだと。
結局「空というのはありのまま、そのままでいいんだ」とい
うことだと思うんですよ。それから、清浄心でいけば、「衆
生本来仏なり」という世界に達するんだよ、と。清浄心とい
うのは本来、人間には具わっているものなんですよ、と。
舎利子 是諸法空相  不生不滅 不垢不浄 不増不減 
あらゆる存在には空相である清浄心があるよ、と。なぜなら
ば、諸々の存在の実体というのは清浄心であるから、何も生
まれるものもなく、何も滅することもなく、垢つくこともな
く、浄くなることもない、とそうなるんですね。本来清浄で
あることを言っているんでしょうね。般若心経の一番大切な
ところは、本当の智慧の完成にあるのです。その智慧という
のは、八面玲瓏な清浄心ですね。それが空相である。その空
相というものを、なかなか説明できません。清浄な心とは、
敢えて説明すると、いろんなものが生じない、あるいは滅し
ない。一言でいうとこうなるのでしょうね。
是故空中無色  無受想行識  無眼耳鼻舌身意 無色声香
味触法  無眼界乃至無意識界  無無明亦無無明尽  乃至
無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
このように「空の中には」「色」もないよ。それから「眼耳
鼻舌身意」も、五感もないよ。「色声香味触法」もないよ。
そうやって否定していくわけですね。その次の六観も六境も
あってもならないし、それから眼の世界から意識の世界まで
という六界も否定する。それから「無明」から「老死」尽き
るまでというのは、これは釈尊の根本思想であります十二因
縁というのがあるんでけども、それも否定しないと空にはな
らない。また智も否定し、得るものもないと。もしも得があ
ったら空じゃなくて、不空になっちゃうから、やっぱり得も
否定している。何かあると空じゃないから、そこで智もない
と。この否定が十四箇ぐらいある。まず「色受想行識」とい
う五蘊ごうん、五つの集まり、それがないということは、諸
法が空相だからなんだ、と。私を含めて現象世界は全部「諸
法空相」ですね。空になっていればもう何をしてもかまわな
いよ、と。空の中にあれば仏作仏行、日常生活も仏の心に適
うよ、って。
般若心経もあまり無にとらわれないで、「受想行識」感覚が
清浄であれ、ということでしょうね。
以無所得故 菩提薩  依般若波羅蜜多故 心無礙 無
礙故 無有恐怖
所得なきが故をもって、菩薩は、智慧の完成によるが故
に心が引っかかるところがないよ。ですから止まること
を知りませんから、そこで怖れといったものにつかまれ
ることもないよ、というわけですね。
この菩薩というのは、自分に拘ったり、とらわれがない
から自由に動くという意味です。禅では菩薩は遠くにあ
るものではなくて、自分が観音菩薩の心を持てば自分が
そのまま菩薩になるよ、というんですね。
掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎詞
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸にまった
く往ける者よ、悟りよ、幸あれ〈一つ一つの言葉が千種の意
味を、真理を含んでいる。これが真言だよ〉〈自らの心を清
めなさい〉と。

道元 

日本ではブッダの教えに一番近いといわれている道元
について。最近では日本だけではなくて、外国でも
この道元の思想に共鳴をする人たちが大勢出てきています。
外国でも評価されているというのは、近代という一つの時代
が行き詰まりに差し掛かっているということですね。それを
脱却するには、どうしたらいいか、ということで、道元の禅
の眼目になる「無所得」ということなんですが、何か効率を
狙ってですね、「こういうことをやるから、これを手に入れ
よう。」という、そういう欲得ずくのことをなしにする、と
いうことですね。それがここ暫く続いてきた世界のあり方と
非常に違うというか、原理がそもそも違いますね。その転換
をやらないと、人類は破滅であるというようなことが、そう
いう人たちにおいて感じ取られるので、禅というものが非常
に魅力あるのでしょう。
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●正法眼蔵-現成公按(普遍的な理法)目前に存在するすべてが
みなそのままに真実を表している。あらゆる存在は仏心のは
たらきの表れに他ならない。
仏道を習うということは、自己を習うなり。自己を習うとい
うことは、自己を忘るるなり。自己を忘るるということは、
万法に証せらるるなり。万法に証せらるるということは、自
己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
仏道を学ぶ、つまり真理を求めるということは自己を認識す
る、つまり自分という存在の真のあり方や生き方を学ぶこと
です。自己とは何かを問うには、自己を自我の狭い枠内にと
どめておかずに、自己を完全に空虚にしておくことが必要で
す。自己を忘れるとは、我執を捨て去って代わりに万法のあ
り方(本来の自己=仏性)どおりに任せるということです。
自己の身心と共に、他者も一個の己れ(自他は一如)であり
ますから、他者の身心をも完全に解脱させる必要がある。そ
うすることによって真なる我である無我を真理(すべてが自
己であり、宇宙である)の中に証せる。
●「仏道」と言って、特別仏の道と考えなくてもいいんで、
〈歩むべき人の道〉ということで結構だと思うんですね。人
の歩むべき道というものを学ぼうとする人は奢りを捨てな
さい。自分というものを中心にする奢りを捨てなさい。自己
を忘れる、奢りを捨てるということは何かと言うと、自分は
自然界の万法に助けられているのですから、もう自分とか他
人とかを抜きにして、そこから解放されるということです。
脱落というのは抜け落ちるということですが、インドの言葉
で言うと、これは解脱なんですね。

悟りとは身心脱落自己を捨てる日常さまざまの修行そのも
です。修行なくして真理は悟れない。特に座禅は仏性の姿
であって、座禅と悟りは同一という。
自我の束縛を脱し自他の境をなくす悟りのとき、自他共に度
すくわれる。自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法
すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは諸仏
なり。悟に大迷なるは衆生なり。 
自分というものをもって、世界は自分中心にしてあるんだと
いうふうに考えることは、とんでもないことで、世界そのも
のが自分というものを支えているんだよ。自分はその中にい
るんだということを分かることが、悟りだと。迷い、つまり
「悟りは何だろう」ということをみんなは先に見ているけれ
ども、仏というのは、「自分の足下が、何が迷いか」という
ことを「知ろう」とするそれが仏であると。だから、縁起し
ているということに気付けば、それでいいんだけれども、〈
人間はそれを気付かずに、向こうに目をやっている為に、自
分を見失う〉と。
まさに知るべし、今生のわが身ふたつなし、みっつなし。
いたずらに邪見におちてむなしく悪業を感得せん、おしから
ざらめや。悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あ
るべからずと邪思惟するによりて、悪報を感得せざるにはあ
らず。 
自分の身体というのは二つも三つもない。この一つの身体を
どうするんだね。この親から授かったこの一つの身体という
ものを、私達はよく見つめて、良からぬことに振り回されて
、虚しく過ごして、そして悪いことばかりするようなことを
していてはいかん。そういうことをすると自ずからにして、
悪の報いというものを自分が感じなければならない。悪いこ
とをしていながら、私は悪いことはしていないという人には
、「あんたは悪いことをしているよ」というふうにして、教
えてあげているのに、「自分だけはそうじゃない」といいま
す。いわゆる無明ですね。奢り、高ぶりの気持ちが働いて、
「悪の報いなんてあるもんか」というとんでもない考え方を
することによって、知らず知らずのうちに、時節因縁熟して
、悪報を自分で感ずるようにならなければならないよと言っ
ているんですね。
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生死事大、無常迅速
正法眼蔵の抄録「修証義」の最初に、生死の問題は人生その
ものの一大の命題であり、生死を明らかにすることは、迷い
、煩悩を超脱し悟りの境地を築くことに他ならないとある。
生とは何か、死とは何か、人間如何に生きるベきか、その究
明こそ僧として最も大事な修行課題です。だからこそ、その
究明に時間を惜しんで修行すべきだと言う激励の言葉として
「生死事大」の語があり、その語に続く言葉として「光陰可
惜」こういんおしむべしがあり、さらに「無常迅速 時人不
待」むじょうじんそく ときひとをまたずと続きます。
無常なる世界というもの、これが仏さまそのものであると。
我々が生まれて死んでいく、この姿そのものが仏さまのいの
ちである、といっておられるわけです。
考えてみますと、我々の存在というものは、決して孤立して
いるものではなく、無限に多くの因縁、原因や条件を受けて
、お陰様で暮らしているわけです。だから見方を遠く馳せま
すと、大宇宙がめいめい一人ひとりの中に生きているわけで
す。生かして頂いているんだから、その生かしているのを有
り難くみて受け取る、ということが究極の生き方ということ
になるんじゃないでしょうか。言い換えると、「生死は大宇
宙の意志である」と。 

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●正法眼蔵 大乗経典-全機-生死一如 玄奘説
諸仏の大いなる悟りが究め尽す境地は、一切を透脱(解脱)
して、一切を実現している。その透脱というのは生が生の意
識を透脱し、死も死の意識を透脱するのである。つまり、生
死の意識を出でて、生死一如の境地に入る。自らの生死の意
識を捨てることにより、自らの生死を救う。生が現生すると
き、当然のこととして死も同時に現生している。生は未来に
あるのではなく、生は過去にあるのでもない。生は現在にあ
るのではなく、生は現成しているのでもない。
生は全機現(宇宙の全てのはたらきが現れるという玄奘説を
とる)であり、死も全機現である。自己は無限の「大宇宙の
いのちの働き」という「大いなるもの」本仏、神、天を内在
しており、その中に生があり死がある。この内在している諸
々の現象は生の友と考えればよい。
生死の実相を見極めることがそのまま「仏の大道真理」を究
めつくすことに等しい。この全宇宙にあるものが、個々それ
ぞれの相にありながら、それにとどまらずに透脱(透り抜け
て脱する、連続)し、すべてのものの存在と働きが、前後が
裁断されたように一枚一枚「今ココニ」「絶対的今」として
完全な姿で、連続して働き、行なわれている。個々の存在が
、そうでありながらそれを透脱するのは、生・死が全宇宙的
生命の完全な働きとしての生・死の現成だからである。

生というのは、例えば、人が船に乗っている時のようなもの
である。この船は、自分が帆を操り、自分が舵を握っていて
、自分が棹をさしているといっても、船が自分を乗せている
のである。また自分が船に乗っているからこそ、この船は船
としての本分となっている。「正にその時」天も水も岸もみ
な舟を中心とした事態となっている。だから、生とは自分が
生たらしめているものであり、自分を生きている本当の自分
たらしめるものである。舟にのっているときには、自分の身
と心と環境は、全てが舟という舞台のカラクリである。全大
地・全宇宙が舟である。生である自分、自分である生とは、
こうしたものだ。
生は生で宇宙の全てのはたらきによって絶対である、死は死
で宇宙の大いなる意志によって絶対である。そこに、因果
関係も、あとさきもない。現在、今ココニある時トキの一瞬
を完全に生き生きと生き切ることの中にしか生はなく、そう
生きている者にとって「天も水も岸もみな船にのっている自
分の時節」という「全機現」となる。

生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。生は
ひとときのくらいにて、すでにさきありのちあり。
「生」は、今ここで生きているという厳かな事実で完成して
いる。死も同じで、死は生の終わりではなく、死は死として
完成された状態にある。わかりやすく言い換えれば、「永遠
の今を生き抜く」のが、生死の問題を解く唯一の答です。
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●正法眼蔵で一番難しいところです。
透脱」とは、生においては生を解脱し死においては死を解
脱することであって、生死を離れ捨てて生死に没入し、生死
一如の境地に入ることが、仏道の究極としている。人間の生
き方の究極は、徹底した自己否定よってのみ可能な、徹底し
た自己肯定であるとしている。
現成」とは、生きることであって、今ここに、自分の生命
を実現していることです。
それが実現するときには、生と死のすべてが現れている。一
旦小さな自分を捨ててしまえば、それよりも更に大きな普遍
的生命、即ち、命の全体を体験することができる。自分を捨
て去るという、死の体験は、無我の体験である。そこでは、
すべての個人的要素がなくなる。死んだ時の心の状態を現実
に味わってみるというのです。我を捨て去り、自分に属して
いる様々のものとの訣別をするだけです。つまり、一切のも
のへの執着を断つことです。

不惜身命。私たちは実際に死に直面すると、非常に不安にな
ります。学問など知識だけで対処するには不十分なのです。
そこで、修行・信心が求められます。優れた先達たちが悟り
で言うのは、生死の意識を捨て去って無心に修行に向かえば
、生死一如の境地に入れると。要は生死に素直に対処するこ
とです。
全機」とは、宇宙のいのちの働きを指し、それと同じ様に
、自己の持つ全ての機能をいう。生成化育。
全機現」とは、全機の現成。だから「宇宙の全てのいのち
のはたらきをもって、生きるときは自己の持つ全ての機能を
全面的に発揮して生き抜き、死がきたときは速やかに全面的
に宇宙の大いなる意志にお任せする」となります。生が死に
移って行くと考えるのは誤りです。何故か。我々が死を怖れ
る理由は生を否定されるからです。ずっと生きていたいとい
う執着心があるから死が怖い。生きながら死を考えているか
らです。
すべての煩悩を捨て去り、無我に生きる人には、生への執着
心も無くなっています。だから死は恐ろしいものでも何でも
ない。彼には生の瞬間瞬間があり、その先で死があっても、
それは何か特別な時間的断絶ではない。前後裁断で時間が切
れ切れになっているだけで、無常が無常のまま無常でないと
いうことです。不生不滅ということです。

生也全機現 とは「生き生きと、生き抜くこと」です。
「生は全機の現成であり、死は全機の現成である」と。生は
本物の生として、死もまた本物の死として、全機すべてのい
のちの働きの中で区別がはっきりとして存在する。それを広
大な無の海の中で全身全霊を持って受けとるわけです。

道元禅の究極の目的は「全機現」です。「只管打坐すると→
身心脱落すると→本来の仏として修行と悟りが一体・一如と
なると→全機現となる」。
「現成公案」とは「本証妙修、一体・一如的行動」とも言え
る。正しく生きるため「完全行動」をなすべきことを教える
ものです。
道元禅の特色は只管打坐です。今日初めての者の座禅も達磨
大師の座禅も全く等しいと説いた。悟るのを目的として座る
のではない。本来の仏として「ただ」座るのだと説いた。只
管打坐して身心脱落するという基本思想を支えるのが本証妙
修の説でした。つまり修行と悟りは同一であるということで
す。修行は「生活禅」にまで発展していくのです。

●仏教の思想は哲学的に申しますと、結局時間論であると言
ってもいいんですね。時間には二つあって、一つは、計量さ
れ得る時間なんですね。一時間とか二時間とか。もう一つは我々はお互いに今ここに生きているわけですね。これは、
数で計量されるとか分量として計られる以前の時間ですね。
それが私ども人間の本質を構成しています。物理的に計るこ
とのできない時間のほうこそ、むしろ生きていることに関し
ては根源的な時間だということが言えます。
現在をとらえようとして、とらえたらもう過去のものになっ
ているんですね。未来というのはまだ来ていないからとらえ
ることができない。だから結局、現在心というものは得られ
ないわけです。我々の見えないところで、過去が現在を通し
て未来に影響を及ぼしている、と。その構造を注意して観ま
すと、「今」というのは瞬間ですね、その今の瞬間に無限の
過去が包容されているわけですね。そしてこの「今」が未来
を展開しているわけでしょう。この未来というのは、また無
限の未来があるわけです。この素晴らしい未来が「今」の中
から展開して現れる。そこで、過去の経験を教訓として、常
に現在に生かそうという「前向きの生き方」が展開されてく
るわけですね。

●仏教の時間論といいますか、存在論の基本に刹那論が出て
くるわけなんです。仏教の教えの無常というのは、あらゆる
ものが生じてはまた過ぎ去って滅びゆくことです。
その過程をみますと、結局変化の刹那刹那が続いていること
ですね。変化する過程を分析しますと、その極限において刹
那に到達するわけです。インドのダルマキールティという哲
学者は、一体本当に実在するものは何だろう、ということを
問題にしているんですね。例えば遠い彼方に星がある。ある
いは近いところに木が見える。これは人間が感覚したことを
整理して、思考を加えて、整えて、それで遠いところには星
がある、近くに木があり、川が流れているということを、イ
メージとして構成するわけでしょう。
けれども、それよりももっと根源的なものは何か。それは「
今ここで、私が、あなたが生きているこの瞬間だけだ」とい
うんですね。だから究極の実在というのは瞬間だ、というこ
とを言っているんですね。
●例えば、薪がある。それに火をつけますと、燃えてやがて
灰になりますね。そこに一つのプロセス(過程)があるわけ
ですが、我々は常識的にプロセスを理解していますけれども
、よく考えてみると、その刹那刹那が別のもので断絶してい
る、ということになるんじゃないでしょうか。普通の時間論
ですと、薪があって、薪が燃えて灰になったということです
。先ほどの話のように、刹那ということは、瞬間ということ
でありましょうから、その刹那刹那、瞬間瞬間に、その縁起
の理に従って、ものが変化していく。その変化する一瞬一瞬
が常に本物本物としてあり続けていく。道元禅師も、薪が灰
になったよ、という見方じゃなくって、薪は薪の時で本物と
してある存在。火がついてぼうぼう燃えている時も本物の存
在。それから灰になった時はまた灰として本物の存在。です
から、これを私どもの目で見て、薪はご飯が炊けるから価値
がある。灰は価値がないから捨てちゃうというのは、人間の
価値評価であって、存在の肝心なところは、瞬間瞬間に存在
しているという現実。禅では、そんなところに、存在の美し
さ、瞬間瞬間の美しさを見ているんですね。

●そこから道元が重大な結論を出しておられるんですね。
「生も一時の位なり、死も一時の位なり」と。生と死という
重大な問題に直面して、それぞれに、その位置における意義
を認めておられる、ということですね。例えば大
変美しい紅葉を見て、いろんな木がいろいろな形で、黄色に
なったり、真っ赤になったりしているんですけれども、それ
が時期がくるにつれて色が変わって枯れていってしまう。や
っぱりこういう枯れ木や葉っぱといえども、その瞬間瞬間に
精いっぱい生きて、赤くなったり、黄色くなったりしていく
のですね。良寛さんの歌に、「裏を見せ表を見せて散るもみ
じ」というのがあります。裏も本物でしょうし、表も本物で
ございましょうし、みんな一瞬一瞬の重さというものに意義
があるんですね。一瞬の今が無限の過去を背負って、無限の
未来をこれから開いてくれるのですから、この「今」という
のは尊いことだと思いますね。
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●正法眼蔵-仏性 
普通には「一切衆生悉有仏性」は一切の衆生は悉く内に仏性
を有すと解する。しかし道元は、全存在がそのまま仏性であ
るとする。無常そのものも仏性なりとする。ありとあらゆる
存在の一存在を衆生といい、その衆生の内外全体は当然、仏
性に覆い尽くされている。常人は修行すれば仏性が現れると
思っていて、現前しているのに気づいていない。仏性を会得
するには身心を透体脱落、つまり解脱自他を脱するほかない
。全ての人が例外なく自分自身の内面に本来そなえている仏
性を再発見するためには「坐禅」と呼ぶ修行を継続すること
が肝要と言う。
修行
道元は釈迦の悟りである「衆生本来仏なり」人間は生まれな
がらにして仏であるとすれば「なぜ人間は悩み苦しみ、血み
どろの修行をして解脱しなければならないのか」と疑問を持
った。これには誰も答えられない。そんなとき宋から帰って
来た栄西(臨済宗)が明快に答えた。「人は生まれた時、心は
赤ん坊のように仏の無垢なのだが、歳をとるにつれて我欲や
執着が塵や埃のように生じ、本来の仏を覆ってしまう。だが
、自分の心にこの仏性があることを悟ったとき、その人は欲
や執着を無くしたのとほぼ同じである。さらにそれを完全に
取り去った時こそ自分の本質である珠玉の仏が現れるのだが
、それには自力の努力でしか取り去ることができない。だか
ら修行するのだ」と

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●正法眼蔵-諸法実相
普通には、あらゆる存在はそのままの真実の姿を表している
と解されている。
たとえば、いま私は目の前の庭の木を眺めている。その見え
るとおりのあるがままの姿が諸法実相である。しかしこのあ
るがままの相は複雑な姿をしている。眼に映るのは青々とし
た緑であるが、そうした中で緑は春に出会い、緑は私に出会
い、さらに私は緑の中で私自身に出会っている。
ここで二つのことがわかる。一は天地万物の宇宙世界がその
ままこの緑に反映しているのであり、もう一は私自身が徹頭
徹尾この緑の中に包まれているということです。つまり、
宇宙そのものと私自身とが、今この緑の中で出会ったという
ことです。そして私は朝起きて活動し、夜になって眠る。
成長し、年老いて、ついに死ぬ、という日常生活の一こま一
こまの中で、宇宙そのものと私自身とが絶えず出会っている
。私はいま目を開けて宇宙世界を見ている。そこに見える限
りの世界がある。その世界の中心は何か。それは、いわずと
知れた自分自身です。自己が世界の中心だった。その自己の
さらに内奥の中心に、ぽっかりとともし火がともっている。
----それは宇宙そのもののともし火です。それは決して消え
ることの無い永遠のともし火です。
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●正法眼蔵-有時-存在と時間
「有時」とは「存在と時間」。時間とは存在であり、存在と
は時間そのものになる。「有時」とは存在から離れた単なる
時刻ではなく、常に新たな展開を見せようとしている存在の
様相です。
ここで、「存在」とされているのは、いま現存しているもの
に限らない。過去未来を問わず、あらゆる時代と場所におけ
る生命・事象が等しく時間的存在として捉えられています。
これら過去・未来の存在は、それぞれにとってのかけがえの
ない現在を生きている。こうした個々の現在が総体として全
時間・全存在を構成しているのです。
全ての存在が生きている各瞬間を絶対視するのであって、主
体が時間の中で移り変わっていくのではない。人は過去・現
在・未来へと、時が一つの方向に流れていくなどと考えて「
時間が過ぎ去る、流れる」というが、それでは「消失する過
去」と「出現する現在」の間に断絶が生じてしまう。
あらゆる存在は、その時点においての現在に実在しており、
この実在が全世界において、相互に時間的な関係性を持って
連結されている。存在の時間的な連なりを「経歴」という概
念で捉え、「今日より明日に経歴す、今日より昨日に経歴す
、昨日より今日に経歴す、今日より今日に経歴す」と自由自
在なのです。過去が消えて現在が現れるのではなく、過去・
現在・未来がつらなりとして経歴を構成しているのです。
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●正法眼蔵-経歴
この経歴こそが、求道者が過去に行った修行・実践の成果を
今に生かすための要件となる。それ故に「経歴は有時の功徳
」であると言われる。「去来する時間」を否定し、過去現在
未来のあらゆる時間を存在と結びつけてその実在性を主張す
る。この世界に立てば、釈迦であろうと達磨であろうと、自
も他も悟りも鳥のさえずりも、その一つ一つが絶対生命です
。こうした時間認識が、死後の生を認めないまま(道元は死
後生を明確に認めていない)人間に永遠の価値を見いだすた
めの鍵となります。なぜなら、たとえ死後の自分が存在しな
いとしても、かつて生きた自分を含む経歴は常に存在してお
り、それぞれの瞬間に仏法(世界に価値を与える根本的な法
則。あらゆる森羅万象を支え保持している普遍不変の理法で
あり、この法の認識であり智慧。)が実現されていると信じ
られるからです。

●死によって人のあらゆる価値が喪失するのではない。仮に
現在と呼ばれる一瞬だけが実在的であり、目まぐるしく推移
する現在を過ごした挙げ句に死が人の価値を完全に無に帰し
てしまうとするならば、己れの死後にも自分を欠いた世界が
延々と存在し続けることになり、個人の限りある生に高い価
値を認めるのは難しくなる。道元の「有時」では、過去未来
を問わず、あらゆる時代と場所における生命と事象が等しく
完成された時間的存在として、それぞれの瞬間に宇宙の命の
働きである仏法と直結していると捉えられる(この部分私の
解釈)。道元の時間観は、現代科学の知見と矛盾するもので
はなく、仏教に対する信仰が衰えた文明社会にも通用する。
現代人は、もはや浄土への憧憬を抱くべくもないが、「有時
」によって救済される道は残されている
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●この「経歴」こそ、あらゆる時における自分が、活発に活き
活き溌剌してくるような自分のあり方を模索させる。我々は
どこまで行っても時間的存在です。
目の前の松も竹も、かつて見た山も海も、あらゆる体験も「
彼方にあるに似たれども只今現在なり」です。人は例えば、
川を過ぎさり山を過ぎたというが、今その山や川は何処に有
るだろうか、自分はそれらを過ぎて、今では宮殿に居る。
従って人は山川と我は天と地のように隔たっていると思う。
もし時が自分の内を過ぎ去るものでないならば、山に登った
時、川へ行った時(過去の時)は「有時」ならば、今ここに
存在する。過去の山に上った時は過ぎ去ったのではない。山
に上るという「今ココニ」を生きた自分と共に、永遠の「今
ココニ」として存在している。つまり、その経歴の一つ一つ
に自己が存在している。山に上り川をわたったときに、すで
に自己があった。その自己こそ、宇宙の全存在と一体になっ
ている自己にほかならない。だから、その時間が過ぎ去って
消えてしまった対象ではなくて、宇宙の全存在との連なりで
ある絶対的存在です。もし人の言うように、時が過ぎ去った
去来の相をとっているとしても、現に過去未来に連なりを持
っている自分が今ココニがある以上、これこそ自分の生きて
いる「有時」の時でないか。
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●お釈迦様が、昔霊鷲山という山の上のテラスで仏弟子・信
者たちにお話をされた時、ただ一本だけ花をパッと立てた。
それからパッと落とされた。ただ立てられ落とされただけじ
ゃ他の人は何がなんだか意味がわからないから、黙ってポカ
ンとしていたんでしょうね。みんな黙っているなかで摩訶迦
葉尊者だけが破顔微笑、ニコッと笑った。  
その時に釈迦は言われた。「私にも正法眼蔵がある。正しく
ものを見る眼がちゃんと具わっている。私の仏教を摩訶迦葉
に、第二代目としてこれを伝達したい」と。 
この一本の花ですね。何を意味しているのかというと、一本
の花は過去の花でもなければ、刻々と変わる現在の花でもな
い。それから未来に咲く花でもない。「三世心不可得」過去
は得られない。現在も今刻々と変わっていくから掴まえられ
ない、未来はまだ来ないから掴まえられない。そういう世界
をスパッと迦葉はわかったんですね。「この花は過去を生き
てきた花であり、未来を生きる花であり、現在生きる花であ
る」。つまり過去、現在、未来は切り離されて分離してい
るのではない。生の瞬間瞬間があり、その先で死があっても
、それは時間的断絶ではない。時間が刹那刹那で切れ切れに
前後裁断になっているだけで、一つ一つは完成されて存在し
ているのであって一体なんですね。(生死一如)。
それとも、花は枯れ花の種がポトンと落ちたら花は死ぬ。花
にとっても死ぬんだろうけれども、花は死んだとは感じませ
んよね。花が枯れたというのはこっち側が見ているだけであ
って、この花は自分で死んだと感じないでしょう。死んだと
思っても種はあるじゃないですか。この生を受けた種は代々
永遠にずっと繋がっていくという宇宙を観たのかもしれぬ。

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典座
ところで、一般社会の通念と違って、炊事職である典座を
禅門では重視します。ここに禅の世界観があります。禅門
では、食事をとる目的は、ただ肉体の栄養だけではなく、
仏性の開発を願って心の糧になるようにと、修行のために
あるのです。道元も最初は炊事に限らず身辺の些細な仕事
を「雑用」だとして、勉学や修行の妨げになると忌避して
いた。
道元が着いた中国の港で、老典座僧が椎茸を買い求めてい
るのに出会いました。道元は「あなたのような高齢者が、
なぜ典座の雑用などされて、修行をなさらないのですか」
と思ったとおりを口にします。僧は「仏法を学問や理屈で
わかろうとするなら、問題の本質は何も得られまい。問題
と自分とが一体になることだ」。道元は私という主体と書
物や物という客体と相対的な立場で勉強してきました。し
たがって掃除や炊事は学問や修行ではない。単なる労働か
雑用に過ぎない、と見くだしていました。老典座から「あ
なたは学問の本質を知得していない。仏道の本質を体得し
ていない」と決めつけられた道元は、ようやく仏道の真実
に目覚めつつありました。
炊事・洗濯・掃除・入浴・洗面・食事・用便など日常の立
ち居振る舞いすべてが修行であるという深い意味に気づい
たのです。昔から名僧はすべて修行時代に典座を勤めてい
ます。現在も禅門では典座の僧を尊敬と親しみをこめて「
典座さん」と呼びます。
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●道元は生き方の基本として説いた、慈悲の心遣いには「四
つの人々を導く方法」というものがあります。 
四摂法 大乗
           一、与えること、布施
           二、親愛なることば、愛語
           三、人のために尽くすこと、利行
           四、協力すること、同時

四摂法(ししょうぼう)とは、仏や菩薩等が、衆生を導くた
めの手段、方法のこと。仏や菩薩が、苦海に居る衆生をいか
に救済せんとして思惟し、心血を注いで化導する4つの方法
。四摂事(ししょうじ)、四恩(しおん)とも謂う。仁王経
中等に説かれる。
1.布施(ふせ) 
相手の好む物、財物や法を施して親愛を感じせしめ、仏道に
引き入れること。
2.愛語(あいご) 
相手に物腰の柔らかい言葉をかけて親愛を感じせしめ、仏道
に引き入れること。
3.利行(りぎょう) 
相手に身・口・意(行い・言語・意念)の善行をもって利益
し親愛を感じせしめ、仏道に引き入れること。
4.同事(どうじ) 
相手の機根(法を聞き、受け入れられる機会や根性)に随い
、その所行によって同化し、仏道に引き入れること。同時。

●最初の布施と申しますと、我が国ではお寺にお金をあげる
というふうに、理解されていますけれども、原語では〈与え
ることとは自分の気持ちを相手に伝えること〉とあるわけで
すね。だから今の物質的社会で、「物さえ与えておけば言う
ことを聞く」と言いますけれども、そうではないのです。
それは縫いぐるみのようなもので、見かけだけがよくて、中
に何も心がない。ですから〈布施というものは必ず人々に、
物を与えたら、必ずそこに教え法施、心の安らぎになるもの
を与えること。これが最も大事なところだよ〉と教えている
んです。
それから、〈相手を選んではならない〉ということですね。
だから与える時には、勿論相手のことをいろいろ気にしたり
しますけれども、そんなものを気にして与えていると、いろ
いろと差別になるわけですね。奢りの気持ちがあったり、妬
みの心とか。あんな人には厭だとか、自分の先入観、自分の
好みで人に布施をするということがあってはならないのです
。ものを与えるという時も、「あんたにはこの位で、どうせ
分からないだろう」と言って、〈出し惜しみ〉してはならな
い、〈与えるというところで差を付けてはならない〉と教え
ています。
●例えば今ここで餓死寸前の人がいた時に、「お前の素行は
どうだった」「過去にどういう職業をしていた」「お前は身
分がどうだ」とか、というようなことを詮索していたら、そ
の人は餓死してしまいますよね。
〈施す気持ちがあったら直ぐに施しなさい〉。その時に、〈
自分のもっているものが、こんなものでは〉と思ってはなら
ない。草花一本でもいい。それを与えるという気持ちがなけ
ればならない。それだけでもいんだよと、言っているんです
ね。ここでは受ける側も与える側も、一々それを詮索するこ
とはない。絶対無条件なんです。相手の為になるものであれ
ば、直ぐに与える、ということを言っているんですね。 
●道元という方には「与えるという時には貪(むさぼ)らな
い」という言葉があるんですね。「不貧(ふとん)」という。
「貪らない」というのは相手に諂(へつら)いの心を持たな
いということですね。相手にこういうふうに与えたら、何か
そこに裏に何かある。「こういうことをして貰おう、ああい
うことをして貰おう」と言って、必ず見返りを期待する。
そういうことがあってはならない、つまり〈蓄えるようにし
て、貪ってはならない〉ということを言っているんですね。
●また、生計を立てて、家計を営んで生活をすることも、こ
れは世の中の為になっているし、事業を興すことも、これも
布施なんだと。決して一対一のものを与えるということだけ
が布施ではない。〈円満に家庭生活することも、それも布施
なんだ〉と。何故ならば、家のものが円満に生活をして働き
に出れば、それは世の中に布施になるわけですね。花が風に
任せて飛んで行くのも、種を撒くようなもので、また鳥が時
にあちらこちらに飛んでいくのも、これもそれぞれのところ
に布施をしていることになるんだよと。自然の移り行きもよ
くよく考えると布施の働きである、と言ってます。

●次は愛語。なにが愛語の態度であろうか。愛語とは相手が
喜ぶ言葉、味わいのある言葉、柔和な顔とやさしい目で語る
言葉、顰蹙(ひんしゅく)を買わない言葉笑顔ですぐ目の前で
語りかける言葉、先に「元気?」とか「どうした?」と声を
かける言葉、愛される言葉、「ようこそ」という言葉などで
す。例えば「ようこそ、青年。この頃、生活は苦しいか、う
まくやっているか、元気にやっているか、食べ物や飲み物、
着る物、寝具、他のいろいろの物で貧乏していないかね」と
いうように、いろいろと生活の苦楽や状況などを尋ねる言葉
が「ようこそ」という言葉です。
愛語の中で最もすぐれている言葉は善男善女を導いて教えに
耳を傾けさせて、時々説法し、諭し、道理を説いて疑問を晴
らしてやることです。愛語する王はすべての人々に愛され、
すべての人々が近づいてくる。もし金銭や物を与えても、こ
のような愛語のように人々に愛され、人々を治めることはで
きない。人々を喜ばしめ、心を清らかにすることも愛語にか
なうものはない。王がもしこのように愛語を語るならば、そ
の力によって現世で幸せを得て、常に利益があり、敵も親友
となり、すべての人々に愛され、すべての人々が仕え、国土
がよく守られ、善人に称えられる。

●次は「利行(りぎょう)」です。なにが利行の態度でしょう
か。利行とは人々が重病に罹ったり、災難に出会ったりして
助けを求めたりしているとき、すぐにその場所に行き、慈悲
の気持ちから、身体を使ったり、言葉をかけたり、気づかっ
たりした方策を駆使して救済する、人々のためになる行為を
いいます。
利行の中で最もすぐれているのは信仰心がない人を手立てを
尽くして導き、心を調えさせ、安心させ、そして信じる気持
ちを起こさせることです。また、習慣を身につけていない人
を正しい習慣を身につけさせることです。
また吝嗇な人を手立てを尽くして導き、施しをする気持ちを
起こさせることです。また、愚かな人を正しい理解ができる
ようにさせることです。

●四つ目の「同時(どうじ)」を見て参りましょうか。同事と
は、殺生をしたくない人の善い友となって、一緒に殺生しな
いようにさせ、盗みをしたくない人の善い友となって、一緒
に盗みをしないようにさせ、邪淫をしたくない人の善い友と
なって、一緒に邪淫をしないようにさせ、嘘や悪口を言いた
くない人の善い友となって、一緒に嘘や悪口を言わないよう
にさせ、飲酒をしたくない人の善い友となって、一緒に飲酒
しないようにさせる。
同事の中で最もすぐれている同事はそれぞれの僧が修行の段
階に応じて、それぞれの段階の僧らしくすること。つ
まり威儀を同じくすることです。
不違」というのは、〈自分を欺かない。相手をも欺かない
〉という意味ですね。よく「自分を誤魔化す」という人がい
ますが、こうしようと言いながら、「まあちょっと待て。明
日まで」と言って、自分で自分を騙す、或いは自分を誤魔化
してしまうということがあります。他人を誤魔化すというこ
ともある。そういうようなことがあってはならない。それを
やると、人と一緒にものを考えることは出来なくなる。そこ
でこの「不違」という言葉が出てきているんですね。
●ですから「同時を知る時、自他一如なり」と言います。自
他が〈一つになる〉ということで、〈自分が可愛いと思うな
らば、相手も可愛いと思っている〉と。だから、
私というものを向こうの方に植え付けて、向こうの方に私が
いると思えば、そうすると、一つになるではないか〉という
ことを教えるんですね。

●よく考えると、人間はどうしようもないのではなくて、自
分自身がどうしようもないんです。自分の身体や心は放って
おくと、とんでもないところに走ったり、行動を起こしてし
まうんです。どうしようもないんですよ。私自身、自分の知
識をもって話をして、仏典を読んで話をし、親や先生から教
えられてきた、「ああしてはいけない、こうしなければいけ
ない」ということがあるにも関わらず、それが全部守り切れ
ないんですね。やはり律するという修行ですね、それがない
と、人間は円滑な生活は出来ない。だからその為に、こうい
う心掛けをしようという一つの枠ですね。水と同じで、方円
に従うように、放っておくといろんな形をしますけれども、
形にはめて、キチッとすると綺麗になる、恰好よくなる。人
間もそれと同じですね。形にキチッと、ある程度理想的な姿
にはめていくように努力しなければいけないのです。
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八大人覚
お釈迦様が亡くなる直前に弟子たちに説かれたという八つの
実践。「小欲」「知足」「楽寂静」静かな場所を好んで修行
する。「勤精進」修行を怠らずに、続けていく。「不妄念」
釈尊の教えを常に心の中に思っている。「修禅定」坐禅をす
る。「修智慧」智慧を磨いて智慧を用いた生活を行う。「不
戯論」無駄な議論とか、論争をしない。

学堂の人、衣食を貪ることなかれ。学堂の人はもっとも貧
なるべし。僧は妻子を持たず、一衣一鉢の外は財宝を持た
ず。
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法華経  大乗経典  鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』
釈尊入滅後からほぼ500年以上のちBC50年からBC150年の間に
成立した。したがって法華経の教えは、他の大乗経典と同様
、釈迦が直接的に説いた教えではありません。

●道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法としながらも
、その理論的裏づけは、法華経の教えの中に探し求め続けた
道元は死の直前まで法華経を信奉した。
正法眼蔵の『法華転法華』では法華経にとらわれる立場から
法華経の真意を使いこなす立場に転じています。
法華経は釈尊がこの世に生まれてきた使命を説き明かすのを
主意として、多くの比喩が語られています。その使命とは、
絶対の一大事である「仏の智慧」を明らかにし、人々に教え
授けて人々を導いて救うことです。開示悟入といいます。仏
の智慧とは別に他にあるのではなく、自分自身の本性である
仏性というわけです。
法華経はすべての人が仏になれることを教えている。心身
ともに完全円満な仏になる仏性をもっていることを覚って菩
薩行を修行することが重要だと教えています。
その方法は、四安楽行、八正道、三障三毒、六根、五戒、七
支地、五サンゲがある。ブッダの教えと異なるが、それを受
け入れることがブッダの教えに導かれる縁となるならば究極
的にはブッダへの道となるのだから、それもブッダの教えで
ある、という理屈です。また法華経の一乗思想(一元論)は、
仏教の中心思想である縁起の思想(空の思想、無我の思想)
によって裏付けられています。 

法華経の久遠実成の世界では無限の時間空間に本仏が存在
し、一切の神仏はここから出ており、人間最終の帰着もここ
に存するという。人種、民族、優劣、善悪で人間に差別があ
るように考えるのは誤りで、本来は平等無差別であり無始以
来久遠の本仏の愛子であり、人類は仏を中心として平等互恵
の精神で生きることが理想であると教えている。この世は久
遠の寿命を持つ仏が常住して、永遠に衆生を救済へと導き続
けている場所であるから、一切の衆生が、いつかは必ず久遠
の寿命を持つ仏に成り得ると説いています。また一切の生活
を治め、産業を奮い起こす、それがみな仏教の実践である、
と説かれています。法華七喩に代表される譬喩が多く存在す
るため、一見易しそうですが解釈はさまざまです。

四安楽行とは「身」怒らず驕らず柔軟な心で諸法実相を観
てすべてのものに平等な慈悲を注ぐ。「口」人の間違いやあ
ら探しをしない、他人の善悪・長所短所を言わない、人を攻
撃しない、人の好き嫌いを言わない。「意」人の恨みや嫉妬
をかうことをしない。へつらわない。
八正道(正しく見方、考え方、言葉、行い、生活、努力、心
のあり方と集中)、三障三毒(トンジンチ)、六根清浄(眼耳鼻
舌身意)、七支地(殺生、盗み、邪淫、妄語、悪口、綺語、両
舌)、五戒(殺生、盗み、邪淫、妄語、因果律に逆らう)
法華七喩(1.三車火宅 一乗について 2.長者窮子
 3.三草二木 レベルについて 4.化城宝処 5.衣裏繋珠
 仏性について 6.髻中明珠 7.良医病子) 
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「真・善・美」
それが神です。それが宗教です。真実なるもの、善なるもの
、そして美。そのなかでもやはり美はいいですね。見て美し
い。それから人の行為でも、マザーテレサの行為は美しい。
そういった美です。自然、地球、宇宙、人の行為、人の心、
美しいと感じる心さえも美です。それがやはり地球を救うと
思います。
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釈迦は言った。色即是空、空即是色。だから真善美の世界に
生きよ。真とは「自分とは何か」ということをつきつめてい
くと、存在つまり生にいきつく。生のすばらしさ、豊かさ、単
純さ、その喜びに気づくこと。善とは生きとし生けるものへ
の限りないやさしさである愛と慈悲の偉大さに気づくこと。
美とはこの大自然のもつ美しさを享受できるすばらしさに気
づくことです。
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ダライラマも「あなたにとって神とはなんですか」と聞かれ
、「やさしい思いやりです。人への親切な行ないです。宗教
は関係ありません」と。自分の宗教がいちばん正しいと思い
がちです。宗教は、時代と風土と民族に制限され、弊害はい
ろいろあります。組織の悪というものがあって他を排除しま
す。ですから既成の宗教からは離れたほうがいいでしょう。
もう21世紀ですから人間の思考によってできた宗教はいらな
いのです。あえていえば宇宙的なものというか、ひじょうに
精神的なもののほうが今の時代にあっています。「愛」ある
いは「無私」でいいでしょう。 
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最高の哲学者ソクラテスは次のように言った。「あなたは他
人が作った既成の道を歩いてはならない。あなたは自分が歩
くことによって道を作らねばならない。それはあなただけの
ものであって他の誰のためのものでもない。空を飛ぶ鳥が後
から来る鳥のために痕跡を残さないのと同じようなものだ。
汝自身を知れ。自己内洞察をせよ。自分のハートに耳をかた
むけなさい。あなたは自分のハートの鐘を鳴らしなさい。自
分のしたい何かをしなさい。わたしは生を知っている。真理
・叡智を知っている。真理はいつも個人にしか起こらない。
真理は集団には起こらない。この悲惨な世界を救えるのは個
人だけだ。私は絶対的に個人を支持する。未来の人類のため
の基盤になるのは個人だけだ」
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臨済は「あらゆる他人の定めた基準はすべて固定観念であり
、それをそのま自分にあてはめようとすると無理が生じ苦悩
、悲惨が生じる。最も大切な存在は自分自身である。自分自
身の中には宇宙のイノチとつながっている真なる叡智がある
。その叡智のちからを用いて、自らを助けよ。全存在があな
たの生を祝っているのに、その光明に気づくこともなく人間
だけが欲望で悩む。今を生きずに永遠の明日を生きている。
(求めよ、さらば与えられん)こともなく、(たたけよ、さ
らば開かれん)こともなく、(探せよ、さらば見出せん)こ
ともない。なぜなら、あなたが真理そのものだからなのだ。
すでにそこにあるのだ」
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道元も「この世に人として生まれてきたということは奇跡中
の奇跡である。宇宙のイノチをいただいたのである。だから
南無・・と呪文を唱えることも信仰することも祈る必要もな
い。なぜなら完璧に仏という大いなる宇宙の命に守られてい
る、というより自分自身が仏の分身だから。宇宙のイノチで
ある叡智で、自分の中に眠っている仏性で自らを助けなさい
。他に依存すればあなたの真なる自己は眠ってしまい、この
狂気の無明世界にさ迷いつづけるのです」
生きているときには一生懸命に生を満喫し、死がやってきた
ら死ぬだけです。生き方としては、ただやわらかなる和顔を
もって向かうべし、愚のごとく魯のごとく下座行で生き、自
己に執着することなく、自分の所有物や認識対象物から離れ
る。人や事物に同和し、平等に接し、特別なものをつくって
はならない。
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親鸞「阿弥陀仏を信じた時点ですでにこの身は救われている
とした。師の法然は南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土
に救いとってくださるとした」は歎異抄で「弟子一人持たず
」と組織を否定しています。組織に自己同一性アイデンティ
ティを求めることは自己と自由の喪失となる、と。
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Krishnamurtiも「諸君は決然としてあらゆる観念や価値観
という松葉杖を捨て去り、すべての依存物に別れを告げ、真
に自由な何ものにもとらわれない無垢な精神をもってイキイ
キと生きていかねばならない」と。
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OSHOは言う「私はインド人ではない。私はこの広大無
辺宇宙に属している。政治や聖職者によって作り出された国
家という小さな監獄に閉じ込められたままでいる必要はない
。どうしてこんな無意味でくだらなく些細なものにしがみつ
いているのか。国家や民族や主義、宗教より人間同士、人間
と地球との関係こそ優先させる必要がある。覚醒のエネルギ
ーである慈悲心をもったあなたこそが人類を救うことができ
る。なぜならこの悲惨な世界を救えるのは個人だけである」
と。「世界は自分であり、自分が世界である」から、あなた
自身の覚醒によって、人類ははじめて「叡智の世界」に向か
って飛び立つことが出来る。
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悟り・解脱・無我・無欲への三つの道
@学問や教えによる声聞
A体験や修行(座禅・瞑想・自然行・行)による縁覚
B菩薩性
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あるがままの自分を見るためには「自由」と「無垢」が必要

苦しみや悲しみ、怒り・貪欲・野蛮さ・暴力・虚栄や傲慢・
恐怖・苦悶・絶望・悲惨・混乱・不安定・分裂や戦争・殺戮
に目を向けるとき、人間が根本的な変容を成し遂げることが
重要になる。
実際にあるがままの自分を見るためには「自由」「無垢」で
あることが不可欠である。自分の意識である「思考によって
組み立てられた一切のもの」、イデオロギーや宗教や国家や
社会や教育制度や税制などからの「自由」が不可欠である。
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葛藤
「自分」という対象と「観察者である自分」は心理的に分離
しているだろうか。怒っている時には、怒っている私は存在
しない。存在するのは、ただ怒りだけである。観察されるも
のだけが存在することがわかり、それゆえに葛藤は自然と止
む。
だが、一瞬後に「思考」が「私」を創り出し、「私は今怒っ
た」と思う。そして「私は怒るべきでない」とか「自分は正
しいので仕返しをするべきだ」という自我が再現する。それ
が「葛藤」を生む。あるがままの実体である「怒り」だけで
ストップしたならば、怒りが湧き上がっても思考がない時、
その怒りの花は、咲き、枯れ、消え去る。その中には葛藤は
無い。だから安定している。「思考」がその「怒り」と闘っ
ているかぎり、つまり、怒りを正当化している限り、人は「
怒り」に活力を与え「苦」という葛藤が生まれる。
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真の宗教とは探求である
今までの宗教は、信仰・希望・恐怖・あの世での安心を得た
いという願望なども含めて全て「思考」の生み出した結果で
ある。さて、瞑想や座禅において、思考の結果である意識の
中味を空っぽにして解放されていくとき、時間は終焉し、そ
の沈黙のなかで、まったく次元の違う運動が起こってくる。
真の宗教です。真の宗教とは「探求」といえます。
聖なるものに出会うために、自分の注意のすべてを注ぎ全身
全霊を捧げる「探求」です。そのときはじめて、永遠なる
もの、神聖なるものに出会う。
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オウム真理教
宗教上やイデオロギー上の紛争の原因はその宗教の神または
教義・綱領が彼等の松葉杖になったとき、その殻にとじこも
り自己中心的となり、その殻の中だけが正義でありその殻か
ら見た外の世界は不正義であり悪であり攻撃の対象となるか
らです。組織は自己防衛から攻撃的暴力となる。他の世界の
人々から見れば彼等は殆ど狂信者の群れとしか思えないでし
ょう。つまりあまりにも強力にその神や教義に依存している
からです。はじめは単なる反感がしだいに憎悪までふくらん
で、ついには愛と恵みを説く宗教やイデオロギー「例えば共
産主義」が人を殺すという苛酷なまでの人間に変貌していく
のです。歴史は何千年も「思考」という主義や宗教が人間の
主人になってしまい、おびただしい血を流してきました。
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さらに科学という「思考」は核であれオゾン破壊であれ環境
破壊であれ人類の破滅をもたらしています。科学の中に自
我が介入するからです。ところで、わたしたちの祖先をたど
っていくとアフリカ東部の一女性にいきつくことが最新のD
NAによって証明されています。まさに人類みな兄弟です。
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明恵上人
日本の名僧の中で、女性との問題を全く起こさなかったのは
、道元禅師と明恵上人の二人だけだといわれています。明恵
は日本では珍しく上座部仏教(小乗)を信奉し、念仏や座禅
や題目だけではない統合型の宗教家です。戒律を重視する立
場をとりました。自然を愛し、人を愛し、生を愛する人でし
た。「死」を座標軸にせず「生」を座標軸にしました。法然
は性悪説をとり明恵は性善説をとりました。法然が行く先と
しての浄土を思い描いたのに対し、明恵は、華厳思想(仏の
世界は蓮華蔵荘厳世界といい、この宇宙の現象の一切が塵の
一つに至るまで、全部それは仏さまのいのちであり、象徴す
れば蓮の花でみんな飾り立てられたものだ、という凄く大き
な宇宙観を示している)から学んだ宇宙を自分を包むものと
していた。気取らない人柄と自然な生き方で特に女性の人気
が高かった。
「私は後生で済われようとは思っていない。ただ、現世にお
いてあるべきようにあろうとするだけだ。修行すべきように
修行し、振舞うべきように振舞えばいい。今は何をしてもか
まわないで死後往生して助かればいい、などとはどの経典に
も書いてない」。法然がルターのような改革者であるのに対
して明恵はむしろ、釈迦への原理回帰者であった。 街に下り
ずに山で純粋な宗教性を保つ。「非常に世俗化してしまった
現代仏教」や「単なる部品の集合を全体と考えている職場や
学校教育」など現代社会における価値観喪失、自己喪失にひ
とつの道を示している。仏教というのは執着の元である愛と
いうものに対して否定的な見方をしてきたが、明恵は愛に注
目している。愛心なきは、すなわち法器(ほうき)にあらざる
人なり。愛心なき人は仏法を学ぶ資格がない。日本には名僧
がキラ星のごとく存在するが明恵ほど興味深い僧はいない。
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『華厳経』大乗経典
私たちの社会構造のあり方がどんどんと分けられていって、
それぞれがみんな孤立した部分になっちゃって、「全体は、
孤立した部分の、いわばトータルだ」というふうな、全体に
対する捉え方があります。華厳はそうじゃないですね。「一
つひとつの部分が独自な存在であると同時に、そこに全宇宙
を既に含んでいる」ということですから、単なる部品の集合
を全体と考えているわけじゃないわけですね。今の時代の価
値観喪失や自己喪失で、行き詰まっている人をどうやって救
済したらいいか、どういう世界観に私たちの視点を変えてい
ったらいいかということに非常に大きな示唆を持っている経
典じゃないでしょうか。
同時具足相応門。今あなたがそこにいらっしゃいますね。そ
うしますと、あなたの命が無限の過去からズーッと繋がって
きた命ですね。そしてまた人間の生死を超えて宇宙の中に無
限に生きていく命ですね。その過去、現在、未来の一切を含
んで、それでまさに今ここにいる。また無限といっていい広
さで展開しているこの宇宙の広さが全部一点に集約されて、
全体との関わり、相関性を持って、ここに今まさに所在して
いてお会いしている、そうしますと、その人の持つ命の重み
とか、深さとか、広さとかがほんとに尊厳なものとして響い
てくる、という捉え方ですね。
広狭自在無礙門。「広」というのは無限の広さに考えれば「
無限性」といっていいでしょうね。それから「狭」というの
は限定として考えれば「有限性」と考える。そうすると、私
たち、いま生きているいのちの有限性が無限の宇宙のいのち
と円融といいますか、まろやかに融け合って、こだわりなく
一つだというような、そういう考え方ですね。
一多相容不同門(いったそうようふどうもん)お互いが一つ
ひとつという独自性を明確に持ちながら、その一つひとつの
中に全部をみんな含んでいるというわけですね。ですから、
「一即一切」ということがいわれます。「一つが全体だ。足
したのが全体じゃなくて、一つの中に全体があるんだ」と。
「一切は即一」と。これは凄い洞察じゃないでしょうか。
自業(じごう)に住する念仏門。衆生の積集(しゃくじゅう)
する所の業に随ひて一切の諸仏はその影像(ようぞう)を現じ
て覚悟せしむることを知るが故に。わが命を受け取りきる、
そうすることが仏さまの世界の一つの入り口だ、というわけ
です。私たちは無限の過去からズーッと積み重ねてきた因果
関係の集積のところで生きているわけですが、私たちそれぞ
れが受け持っている、その人だけの命に随って、仏さまたち
が影の姿になって、ちゃんと私たちを守ってくださる。そう
いう働きをもっているんですよと。
一つがすべてを支えている、それが真理そのものだ」とい
うんですね。それほどの絶対性を持って、私たちの現実社会
が展開しているんだ、というふうにみてきますと、あらゆる
プロセスが、ここからここへきたからいいのであって、
途中がダメだとかでなく、全部いきてきちゃうんですね。融
通無碍、ダメならざるものなし、というところで生きていく
としたら、人生はどんなに豊かになることでしょう。そして
また、人生の影といいますか、悩みというか、苦悩というか
、それが実は深いものを呼び起こしてくれる大事な働きをし
ているんだ、ということですね。今ここにいて、宇宙の一切
に関わっている、というような広い心でいる、或いは無限の
時間を自分が今ここに生きているんだという、そんな実感が
生きるいのちの輝きといってもいいでしょうね。
人間一生の中には逃げないでそこへ突き進むことの大切さや
自分の煩悩に気付かせ、性欲をどう扱うかを教えています。
最後に善財童子は大慈悲心を教えられる内容です。

「宇宙無双日 乾坤只一人」
日本の先達の人々の意識の中には、心を深く掘り下げて自ら
の王国を築いた方々が多くみえます。その言葉の数々の中に
こめられた想いを、私達が少し垣間見る心の余裕があれば、
私達の生活の中に温故知新の爽やかな風を送る事が出来るの
じゃないでしょうか。禅の言葉には人生の核心があります。
言葉に秘められた深い心の真性は、広大な宇宙に繋がってい
き、私達の心の仏性神性を導き出してくれます。
「宇宙無双日」とは、宇宙には太陽は一つしかなく、「乾坤
」とは天と地を意味し、天地に自分はひとりであるという意
味です。この一人とは、一人ぼっちということではなく、只
一人とは私達は神性仏性の人であるという意味です。
一つの太陽が万物を慈しむように、私達も存在しているだけ
で万物を慈しんでいるオンリーワンの存在という事です。自
分ひとりの中には宇宙的な可能性が凝縮されている意味です
。コロコロと変わるから心という言葉になったように心は無
限に変化します。鬼にもほとけにもなりうる。だから自分の
思考の範囲で物事を決め付けないで、ご縁に任せて偶然や回
り道によって、違う自分が生まれてくるのを楽しみましょう
。うまく生きられない、
生き方が判らないなどと心に迷いがある時は自分自身を見つ
めすぎる事をやめて、座禅をして、今の自分の存在を呼吸と
共に感じましょう。今現在はたまたまこのような生き方をし
ているが、よくよく周りを見ると実は満たされているのであ
って、そこにはささやかな四季の移ろいにさえ、感動する心
があるのです。
私達は生まれながら、他を慈しむよう生まれています。無我
無心になり、万物を慈しんでみましょう。空がきれいだ、風
がさわやかだ、子供達の笑顔が素敵だ、そんなふうに世界を
素直に感じ取るだけで心は少しずつ満たされていくのです。
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弁栄上人
私たちは無限の光と無限の命の世界からやって来て、そこ
へ又帰る存在です。その絶対なる世界が宇宙の大生命その
ものです。
 時間は過ぎ去って一日一日と暮れてゆく。忙しい忙しい
と誰も彼も不平や恨み言を言って嘆いている。食っては寝
て、寝ては起き、毎日毎日同じことを繰り返し繰り返しし
て仕舞いにはどうなってしまうのでしょう。ただただむさ
ぼりと怒りと煩悩のために暮らしてしまって、自分は何の
ために生まれてきたのでしょうか。人間は、いかにしたな
らば真理の人生を果たすことができるかというような人生
の問題を何とも思わないのでしょうか。これほどの人生一
大事はないのに、本当に悟っていて、己の大事もへちまも
構わないでいるのかと思えば、そうではなくて、胸の内は
ちょっとの休みなしに悩み、それからそれへと心はあせっ
てもだえ苦しんでいるのです。天地から借りた借り物であ
る体をいつまでも自分のものと決め込んで、おれがおれが
と寝てもさめても、自己中心で暮らしている。病気で若い
人が死んだと聞いても、死ぬということはよその人にばか
りあることで、自分の身にはまだまだ千年も先のように思
っている。実に可哀想でたまりません。それでもその人の
心の底には、宇宙唯一の霊体である仏から与えられた仏性
という浄い浄いダイヤモンドよりも尊い宝玉をもっている
。しかるにちっともその貴重な宝石を見ようとしないので
す。せっかく人間に生まれても、天地万物のあらゆる大本
の仏を知らないで、人生をむなしく過ごすことがいかにも
気の毒でたまりません。もし仏の光明にふれて心に信仰の
目鼻がついてくれば、仏様のお恵みで日々ありがたく、日
暮らしをすることが出来るのです。
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1.大円鏡智 
宇宙は一大法則であって、それが、縁起関係により、この
世に存在する一切の個体を顕わす。自分と宇宙一大法則と
は一体である。一切の個体はことごとく大円鏡智である仏
の一員です。今の自分が多くの人やものごとのお蔭ではじ
めて成り立っていることを見て、存在している自分自身の
かけがえのない尊厳性を知り、この宇宙全体のあらゆるも
のへの深い感謝と慈悲を抱く。鏡のような清浄無垢な心が
人間に内在する。

2.平等性智
平等性智とは、宇宙において万物を統一し摂理し、一切の
生成を秩序あらしめている法則のこと。天体の無数の星が
整然と運行することや、人間の体を構成する内蔵や血管や
筋肉が巧妙精緻を極めているのは、この平等性智が働いて
いるから。宇宙がいのちの世界であること。自己と他者と
の平等性を体現する智慧によって大なる慈悲心を起こす。

3.仏心、仏性、慈悲心
私どもの心はもと煩悩の塊であすが、仏の慈悲の火がつく
と、衆生の心が仏光に同化して、心に仏が常にあることと
なる。そうなれば、たとえ、からだはこの寒さに責められ
ているにもかかわらず、心は大慈悲の光にあたためられて
炭火のようになるのを仏心という。都合がよかったことも
悪かったことも、あとから考えてみれば結局同じである。
(別解釈)心はもともと仏心というダイヤモンドであるが
、欲や執着という世間の垢にまみれて、仏心の表面をヘド
ロのように垢がこびりついて輝かない。そこへ慈悲の光が
あたると垢が溶けていくのである。
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人間の本性は仏である。身体は仏を蔵しておく室である。生
きている時、仏はこの室に寓しておられる。そして本性は仏
であるから恒に死や生の外にある。だから死を恐れることは
ない。それは昼と夜が一つの道理であるように生死も同一で
ある。「始」の天理を尋ねてみたら「終」の身体に返ってい
たようなものである。もし仏がないと信じるならば無神論で
貫かざるを得ないし、「ある」と信ずれば宗教の世界に入り
死後の世界に遊ぶだけである。[佐藤一斎]
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人生は一応八十年の契約である。しかし、不意に家主が「出
て行ってくれ」と言うことがある。この場合、田舎(死後の
世界)に自分の家があるものは「お世話になりました。(生命
をいただきまして)ありがとうございました」と言って出て
行ける。[竹下昭寿]
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