TRANSLATION 珠玉の言葉 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自分とは何か 自分は世界であり、世界は自分である、という考え方。 金剛界つまり「自我」の世界です。私と私が生きている 世界すべてが「私」を中心になっている。自分と自分の生き ている世界を一つのものと見るのです。だから、自分が変わ ることによって世界が変わっていくという、生き方にかかわ るものです。 わたしは宇宙の命である、という考え方。 それに対して胎蔵界つまり「無我」の世界です。私と他者が 生きている世界すべてを同じ生命体として慈悲の世界と捉え ています。 私は、すべてを包み込む母胎である宇宙のいのちによって守 られている胎児という生き方です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 宇宙人の視点 1時間ごとに太陽系は68800キロづつ、ヘルクレス座の M13球状星団に近づいている。 ロシア天文学会は地球外文明からの強い信号を受信したと発 表。地球文明よりもはるかに進歩した「タイプ2」の文明で なければありえない強さだという。 宇宙人の視点から人類を観察すると、見えてくるのは我欲と 憎しみの連鎖から生まれる果てしない戦争をしている人類で あったり、基本的人権や生存権さえ抑圧する差別やシステム であったり、地球を破壊する環境破壊だったり・・おそらく 「人類ってなんてバカなんだろう」とあきれるに違いない。 人間が物事を覚醒した理性で観られたなら、あらゆる問題の 本質を簡単に見抜けるはずだが・・・。ホーキング博士は地 球文明よりもはるかに進歩した惑星は宇宙に無数に存在する という。地球は過去に6回は生物絶滅している可能性がある。 驚き桃の木山椒の木だ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー Q・人生は楽しいか A・楽しくない、でもそれが人生だろ。 世の中は不合理で理不尽だ、最悪だ。 無関心が美徳である世の中だ。 こんな所はやめて山奥に住もう。 Q・無関心が一番の解決方法か。人間の最大の罪は無関心だろ。 A・無知と無関心は人の性(さが)だ。 人々は平凡に穏やかに暮らしたいだけだ。 Q・だが平凡に穏やかに暮らすには努力がいる。 人生に立ち向かうより快楽に溺れるほうがラクだ。 稼ぐより人から搾取し盗む方がラクだ。子を育てるより殴る 方がたやすい。・・・愛は努力が要るのだ。 本多静六氏 25歳から40歳までの15年間は仕事と貯蓄に励んで独立安定の基 礎を築く 40歳から60歳までの20年間は大学教授の職務を通じて社会貢献 する 60歳からの10年間は、世恩に報いるため、ボランティア活動に 専念する 70歳まで生き延びられたら、住む場所を温泉の近くに移して晴 耕雨読の晩年を楽しむ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 時間 時は金なりというが、それは違う。時間それは「命」のことだ。 僕たちはしょっちゅう「だらだらした時間を過ごしたり」「 あわただしく忙しく生きて」「時間を潰したりしている」。 それは自分の命の一部をドブに捨てていることなのだ。 僕たちすべて人間は、この世界に生まれ落ちた瞬間から、一歩 一歩、死の瞬間に向かって歩み続けている。 どんな人も他人から時間を買うことはできない。それほど時間 は貴重なのだ。 そして僕たちは、自分の命がいつ終わるのかを知ることはでき ない。今この瞬間に心臓が止まれば、僕の命はすぐに失われる。 そんな限られた時間を、生を満喫し、本当に大切なことだけに 全力で生き抜けているだろうか。 1分1秒を自分の大切なことだけに費やす。僕らは時間を自分 の意思で支配できているだろうか。思いとは逆に、誰かに命で ある自分の持ち時間を支配されているのではないか。金のため にしたくもないことをしているのではないか。「ジョン・キム」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
快感 快感が、ストレスの原因であることを誰もが理解していませ ん。欲望が満たされない精神的苦痛であるストレス不快感が 、肉体的苦痛である腹痛や胸の痛みや浅い呼吸となって身体 にダメージを与えます。ノルアドレナリンやアドレナリンを 発生させるからです。イライラとし集中力を低下させます。 欲望が実現して苦の刺激から開放されて快感ドーパミンが出 てきますが、それも一時的なものですぐに消え去り、より大 きな新たな快感を求めて別の欲望が生まれてきます。苦の連 続です。欲望の根源は生存本能という渇愛です。それが苦を 発生させます。苦から開放されるためには欲望を捨てるか減 らさなければなりません。そのためには我執を克服すること が必要です。小乗仏教国では百万人もの僧が日々無我で無所 有の生活をしています。何も考えず目の前のことだけを集中 してただやっています。これはスポーツで無我夢中で打ち込 み、雑念から開放されたような状態です。無心になって仕事 をする「空」の状態です。 ストレスは食欲に転化しやすい。テレビを見ながら食べると 「今やっていること」から意識が逃げてしまい「食べている 」実感がなくなります。常に空腹感が満たされないわけです 。ダイエットには、一口食べるごとに箸を置いてみるとよい でしょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自分にとって、「大切なことと大切でないこと」、「大切な人 とそうではない人」。時間の配分においてはこの差別化を徹底 しなければならない。そして、その判断基準になるのは、「何 のために生きているのか」という原点である。自分の「幸せの 定義」について考えることで価値観が見えてくる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 心 心とは何か。心とは、交流するために判断をする仕組みであ る。交流の一つは、自分の外部のもの(人や物、動植物、山や 海、太陽や星、音、光、香り、空気、水など)との交流です。 もう一つは自分の内部(考える、思い出す、悲しむ、喜ぶ、記 憶するなど)との交流です。その外部と内部の交流を円滑にす る潤滑油が愛です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛 では愛についてお話しましょう。愛とは何か。愛はいかなる 言語をもってしても翻訳することはできない。なぜなら言語 は客観的世界の事柄や人々を表すために作られたものだから 。例えば盲人は光や色について言語で理解し論文をかくこと ができる。しかし彼は一度も色を見た事がないのだ。だから 神も同じだ。真理も。釈迦は真理について「道で私(真理)と 出会ったら、私を殺し道の外に投げ捨てよ。振り返らずに、 私の横を通り過ぎよ」と言った。有神論であれ無神論であれ 大差はない。なぜならどちらも知的な思考がなせるものだか ら。いかなる仮説、先入観、信仰も振り捨て殺さなければな らない。そのとき初めて真理が見えるのではなく・・・・・ 自分自身が真理そのものになるのである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛か所有か 人々は死の瞬間におそらく気づく。生はたったこれだけだっ たのか、私は、踊ることなく、花咲くことなく生きてきた。 自分自身を知ることもなかった。もう終りなのか。無駄に終 わった生の悲しさ、生の空虚さ。生は目標によって得る業績 や所有物といったものが重要になり、この所有が愛を追放し た。キリストが説いたように、愛か所有かのいずれかである 。両者を共に持つことはできない。愛の不在のとき、さみし さ、悲しみ、苦しみという苦い思いが姿をあらわす。反対に 愛は所有と無縁であり、すべての悲しみの彼方にある。 -ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛 いままでは戦争こそ最終的な決着であって正しいのは勝者で あった。だが今や「叡智」は非暴力に達した。それは弱さや 卑怯ではなく真の力であり積極的な行為だ。主義イデオロギ ーや選民思想など他人を排斥する思考は皆、自分も排斥され る。「思考」によってつくられた社会はきわめて恐怖的で暴 力的である。暴力とは物理的暴力のほかに、競争、比較、区 別、分離、選択、服従など心理的暴力がある。人類の歴史は 暴力・闘争・戦争の歴史です。思考によって作られた宗教、 主義、国家、民族等は過去数千年、これを解決し平和を実現 することは出来ませんでした。「信ぜよ、しからば救われ・ ・・・ なかった」のです。戦うDoingよりももっと大 切なものがあるのに誰も気づきません。それはユリのように ただ存在するBeing美しさ、その豊かさ、それがその善 さなのです。わたしたちはそのような教育を全く受けていま せん。現実は競争的闘争です。そこには愛はありません。若 いうちに愛を感じず、他の人々や動物や花を愛をもって見な ければ君たちは大きくなって、人生がむなしいことに気づく でしょう。君はとても淋しくなり、恐怖の暗い影がいつまで もついてくるのを感じるでしょう。しかし愛しているとき君 の顔は地味でも輝きをもっています。愛することは人生でも っとも偉大なことなのです。いつも愛について話し、愛を感 じて、これを養い、宝とすることはとても重要です。君がも し心にこの愛というとてつもない偉大なものを持ち、その深 さ、その歓喜、その忘我の境地を感じたとたんに君にとって 「世界が変容した」ことを発見するでしょう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 愛は何かを「ほしい」という要求性をもちません。 愛は対象に「自分の」という「自我・エゴ」がつきません。 例えば「自分の子ども」は「こうあってほしい」。 愛は自我なき意識状態である「無私」の中にあるのです。 例えば美しい夕日を眺めています。このとき夕日を所有し たいと欲していません。自我は夕日に投影されておらず 夕日と一体の一如の状態です。個々に分離されていませ ん。愛は分離していません。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 言葉 人の心がわかるということは、とてつもない難しいことです。 だからこそ、コミニュケーションで何を言うかが大事です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 心は鏡 Heart is Millar /Look at Myself 「相手の心(顔つき・表情)は自分の心の鏡である」人は、い らいらした人の前ではいらいらと、穏やかな人の前では穏や かな気持ちになるものです。この周りの人の心を映しとって 自分の心としてしまう無意識の力があります。この力ゆえに ,子供は発育の過程で親の心を映しとるので、親を見れば子 が分かる、子を見れば親が分かるわけです。夫婦の場合も同 様で、心の鏡には、相手の心も写っているとなる訳です。そ して、この映しとる力が、奥底に潜む自分を変化させるので す。逆に言えば、自分が発する心が相手を変化させるのであ る。相手は受け入れられて初めて、心に受け入れの心を映し 出すことができるのです. ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー すべての源は自分 「あなたはわたしの鏡です」相手を『鏡』として自分を省み ることから、自分の長所も短所も本当に見えてくる。「礼儀 知らずだ」「気配りが足りない」と言う時……実はそんな部 分は、自分のうちにもあるのです。そうやって気づいたこ とを、自分がまず意識してみる。相手に変わることを期待す ることは、まず無理です。自分自身から変えていくことが必 要です!『すべての源は自分である!じぶんも他者も同じ生 命体である』そう意識し、行動し続けることにより、自分自 身が謙虚になり、他者と自分の差別が消えます。無我に支え られた謙虚な自分の魅力が、まわりの人々に影響し、まわり の人々を変化させ始めるのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 今日の楽しみは 私達は苦労するほど後で良いことがあると考えます。これも ひとつの正しい分別です。しかし、道教や禅では、やらなけ ればならない仕事があれば、それを楽しみに変えてしまおう 、将来に貸しを残さず、今日の楽しみは今日中に味わおうと 考えます。つまり、悟るために修行するのではない。修行そ のものが悟りだというわけです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー スローライフ 現代の哲学は無為と怠惰を罪悪視し、勤勉と倹約を通して金 儲けの道を説き、人間的価値は金銭の多寡によって判断され る。「どうして我々は、こうもせわしく、人生の無駄遣いを して生きなければならないのか。人は物を持てば持つほど一 層貧乏になる。物はそれを手に入れるよりも、それから免れ るほうが難しい。贅沢や慰安物は、人類の向上にとって不可 欠でないばかりか、積極的な妨害物である。一つで十分であ る。我々はもっと簡素なもので満足することを知らず、もっ とたくさん手に入れようと汲々している。人はしばしば必要 物の欠乏からではなく、贅沢品の欠乏から死ぬ。」 (henry,sorrow) 人生に対する感覚を鈍らせないために、なるべく質素な生活 をすること。身体と知性と精神の生活の間の平衡を保つこと 。無理をせずに仕事をすること。人生の意味とその美しさに 必要な空間を設けること。一人でいるための時間を取ってお くこと。自然に努めて接近すること。(リンドバーグ婦人) 「生きるために働くのか、働くために生きるのか」 人間は必要以上に稼ぐとき多忙となりその結果さらに金のか かる生活システムに乗せられ、比例して精神的には豊かな生 活を送れなくなってしまう。例えば家や車を買うとローンや 維持費がかかるようになりその費用のためにさらに働かねば ならない。リストラや健康など、そしていつしかそういう生 活ができなくなることを恐れこの金を与えてくれる制度に体 を委ねるばかりか心まで服従した身となっているのである。 金を得る手段は例外なく堕落の道をたどる。単に金を得るこ とができたというだけの仕事は本来の仕事ではなく、怠惰よ りももっと悪い行いである。進歩・向上を求めて心を煩わせ たり情報に翻弄されたりして制度に服従してはならない。生 活のレベルが少し下がっても心の豊かさが少し向上すれば失 うものは何もない。余分な富を持つと余分なものしか購入し ない。魂が必要としているものを購入するために、なぜ金銭 など必要とするのか。(henry,sorrow) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 孤独 私は大部分の時間を孤独の中で過ごす事が健全であることを 知っている。実際、創造的なことを行うために必要不可欠な 集中力は孤独の中からしか生まれてこない。私達は小さい頃 から他人と仲良くすることや周囲の人々と協調すること(も ちろん大切なことである)は教えられても、一人になってじ っくりものごとの本質を考えることは教えられていない。 他人との比較の中で自分を評価することは教えられても、自 分独自のものに絶対の自信を持っていいのだと教えられるこ とはなかった。 私はものごとをじっくり考えられるような生き方をして、人 生のもっとも大切な事柄だけを相手にし、それが教えてくれ ることを学べるかどうかを確かめ、いよいよ死ぬという時に 自分は真に生きてこなかったことを発見することのないよう に孤独な生活を選んだ。 どうして我々はこうもせわしなく人生を無駄遣いして生きな ければならないのか。仕事仕事と大騒ぎするが、我々は大事 な仕事など何一つしていない。みんな舞踏病にかかったよう に頭を静かにしておくことができないのだ。もし私が教会の 鐘のひもを二三度引っ張って火事だと知らせれば、あれほど 仕事が忙しいと言っていた人もすっ飛んでくる。私は仕事を 強制されるために生まれてきたのではない。私は自分自身の 流儀で息をするつもりである。(henry,sorrow) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自分が死ぬ日 ヒンドゥー教の僧侶は、自分が死ぬ日と時を知っていて、パ ーティを開いて食事を共にし、皆に別れの挨拶をし、それか ら断食をして死んでいきます。このように瞑想をしながら幸 せな気持ちで死ぬマハーサマーディがある。またアボリジニ も外に出て砂の上に座り、同様に優雅に死ぬ。彼らは「大い なる存在」に話しかけ人生をまっとうして、死ぬときだと思 ったときに死ぬ。普通の人がこのテクニックを学ぶことはで きますか?できます。ただそのためには、あなたが信じてい る思考が作り出した常識を捨てなくてはなりません。彼らと 我々文明人の大きな違いは死の恐怖を持つかどうかです。人 間以外のあらゆる生き物と同様に彼らは死の恐怖をまったく 持ちません。もし死ぬ準備ができたときには、完全に穏やか な状態でなくてはなりません。何かやり残したこと・執着が あったら死ねませんし、誰かに不平を持っていてもだめです 。死ぬ前にはあなたの人生のすべてのことに対して償いをし て、平和な気持ちでいなければなりません。彼らは、自分の 人生を祝福し、皆が彼に触ったり抱きしめたりしていますし 、挨拶を受けています。生まれたときも歓迎され、死ぬとき にも受け入れられています。最後の瞬間に、この挨拶の言葉 を聞いて瞑想の状態に入り、独特の呼吸を始め、体温を下げ て死んでいきます。遺体は埋葬することなく、そのままにし ておきます。魂が捨てた肉体は古いぼろぎれと同じで、ただ の物体でしかない。死体は複数の元素からなるただの物体で あり、そこにはいかなる霊性も穢れもない。「死者の尊厳」 などという、わかったようなわからないような言葉があるが 、死んだ人の魂には尊厳はあっても、死体には尊厳などない のである。ディンゴがきて遺体を食べますが、これもリサイ クルだと彼らは考えます。ところで、あなたもそのような瞑 想状態で死ねる自信はありますか?恐怖を感じませんか?は い。自信はあります。恐怖も感じませんし、金銭面の心配や 人との関係や業(カルマ)などの不安もありません。お葬式 はしませんし、そこには悲しみもありません。祝福があって 、永遠の中で会いましょうということです。
宇宙の流れに乗る 文明社会に滅ぼされた先住民族が持っている共通の生き様・ 哲学がある。1は地球とか自然とか他の生き物とかと調和し て共生して生きていくということ、2はオレが私がとおごり 高ぶらずに謙虚に他を尊重して生きていくということがある 。日本人は西洋人に比べて神道のためかアメニズムのせいか 、言葉にしなくてもわかりあえるというテレパシイを持って いる。このテレパシイは大きな宇宙の命である波動に同調す るものである。キリスト教やイスラム教のように生き残ろう とか、つぶれないように闘おうとかする部分が仏教ではより 希薄である。どうしてもつぶしてはならないと人間が意図す る時、宇宙の流れに乗れない。 生まれたものは時が来たればつぶれ滅びるものである。思い は実現すると言うけれども無理に実現したとしても、宇宙の 流れと逆の自我の方向に行っているのだから苦しいしつらい 。こうあるべきだとか、こうしてはならぬとか「目標」をも つことは宇宙の法則をいじっているのであるから結局どうに もならない。老子は無為自然あるがままに多様性でラクに生 きるのがいいと説く。無為とは、何もしないことじゃなくて 、していることだけを喜ぶこと、先への思いを捨てて今の喜 びのなかにいることをいう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 十七歳で学校へ行くのが辛くて学校を止めたお嬢さんです。 自分が自分に励ましているんです。 これは動けない子の、 まさに本心です。 生きているってすばらしい。君は目隠しをしたことがあるかい 。今まで見えていたものがすべて見えなくなってしまう。 そんな思いをしたことがあるかい。だけど音はちゃんと聞こえ るだろう。世界の広さを感じることができるだろう。 それに友だちの励ましの声だって聞こえてくるじゃないか。 君は耳を塞いだことがあるかい。今まで聞こえていた音が何も 聞こえなくなってしまう。そんな思いをしたことがあるかい。 だけど目は見えるだろう。世界の広さを感じることができるだ ろう。そこに友だちの笑顔だって見られるじゃないか。生きて いるってすばらしい。 苦しいことがあったって、悲しいことがあったって、それを感 じることができるのは生きている証拠じゃないか。 生きているってすばらしい。そう思ってみたらいい。 一度でも喜びを感じたことがあるなら、生きていることに感謝 してみようじゃないか。生きているってすばらしい。 また十八歳の少年がこういうことをいっています。 宇宙は私たち人間の或いは木や鳥や獣や空気や水や星たちの誕 生の泉であり、生活の場所であり、私たちが死んで永遠に戻っ ていく場所だ。私たちはその宇宙という大きな母体の中に包ま れて生きているんだ。私たちは宇宙の中で部分であって孤独じ ゃない。いつでも帰る場所があるし、心は落ち着き、息は澄ん でいる。だから、宇宙に感謝していかなければならない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「生き死の境離れて住む身にも、さらぬ別れのあるぞ悲しき」 (貞心尼)修行をすると生死を超越すると言われるが、それで も避けることのできない別れがあるということは悲しい。 「裏を見せ表を見せて散るもみじかな」(良寛臨終の言葉) 一枚の葉にも表と裏があって成立する。全ては表裏一体。建 前も本音も同一。この世もあの世も一つ。自分も他者も一つ。 存在も無も一つ。生も死も一つ。自分の命はこれで終わるけ れども生きていることも死ぬことも一つなのだから悲しみな さんなよ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 衰えて死が訪れる。その時は、自分をそれまで生かしめたすべ てのものに感謝をささげて、生を終えればよい。しかし、その 時までは人間は与えられた命をいとおしみ、力を尽くして生き 抜かねばならない。人間はそうあるべきだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私はきらきらと輝く自然の中にいると、それまでちゃんと手に 入れなかったものをつかむことができた。生きているという奇 跡と、美を尊ぶ心、そして価値観だ。数ヶ月して私は文明社会 に戻ったが、以前よりはずっとシンプルに、ずっと穏やかに暮 らせるようになった。「する」というモードから「ある」とい うモードに代わるんだ。自分に必要なものは実はほんのわずか であって、自分が普段過ごしている環境がいかに騒々しく混雑 し汚染されているかを思い知らされる。 (南極で数ヶ月一人で過ごしたバード提督) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 葉隠二ノ八六 人間の一生はまことに短いものだ。好きなことをして暮らす べきである。夢の間に過ぎていくこの短い人生を、好かぬこ とばかりして苦しんで暮らすのは、愚かなことである。この ことは誤解されると害になるから、若い連中には決して話さ ぬ奥の手である。自分は寝ることが好きである。隠遁した今 の境遇にふさわしく、今後はこの庵から外に出ないで、寝て 暮らそうと思っている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 同二ノ五六 身分の貴賎、年齢の老少、悟りの有無などにかかわらず、等 しく人間は死ぬ。誰しも自分がいずれ死ぬということを、知 らぬわけではない。しかし他の人がみんな死んでから、自分 は最後に死ぬかのように思っている。今すぐ死ぬかもしれぬ とは思っていない。確実に訪れる死に対して役に立つものは なにもなく、すべては夢の中のお遊びのようなものである。 死はすぐ近く背後にまで迫っているものであるから、油断せ ず早めに名利から離れておくことである。 高級武士だった山本常朝42才で翻然と覚醒し現役をやめ隠遁 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 座禅 私達は貪欲さに突き動かされる狂気の行動による汚濁の急流 から今や一刻も早く離脱しなければなりません。座禅をする 時、私達の内部で轟々とうねりをあげていた急流も穏やかな 大河となり静寂がやってきて、それが真実在の無垢な自分を 作り出す。意識にこびりついていた、社会がつくりあげた常 識・知識・法律など既成の思考である自我や欲望による執着 心という虚飾の滓を振り捨てる時、純粋で透明な清浄心が出 現する。そこは自由闊達でイキイキしていて一切の虚飾を取 り去った清らかな心の世界です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー あらゆる生き物は、ブラブラとして遊んでいるのに、人間だ けは金や地位や自我に振り回されて、物事に執着しアクセク と働き苦労する。花の美しさや虫の音や風の香りや慈愛には 関心が無いのである。存在の美しさや生の豊かさを感じる こともなく死を迎える。まことに命を無駄にして惜しいこと である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 座禅和讃(原田 正道師 岡山市 曹源寺) 「命が輝くとき」 今の自分の命。 さかのぼること人類の起源より連綿と 続いていることに思いを馳せるとき、 さずかっているこの命をどのように使えば、 輝くのでしょうか。 今ここに生きている自分が、 大宇宙に生かされている命そのものであることを、 強く意識することが大切です。 このように他者と共に生かされている生命体であるという 自覚の中にこそ、 他者に対する慈悲の働きがあるのです。 日々の反省と懺悔。心を清めて、謙虚に生きること。 さずかっている命に感謝して、 他者の幸せを願うとき、命が輝くのです。 「自分の命を見つめる」 人間とは、何か。心とは何か。 問いかけている自分に真正面から立ち向かいましょう。 日常生活が忙しくて、考えごとや、 いらいらすることが多くなると 心が狭く重たく貧しく不安定になります。 一日一日自分の思いこみである我のため、 心が重たくなっているのを払いのけていきましょう。 座禅をして心を常に清め、我を捨て、 こだわりを放す努力をすることで解決します。 また、周囲を浄化していくことが出来ます。 座禅をして、今の自分の存在を呼吸と共に感じましょう。 一番大事なことは、心を清めることです。 心を清めて、自分の命をじっと見つめていきましょう。 「人間性・品性を磨くのが大切」 今の世相は、技術優先、知識優先のために 人々が競いあっています。 そして、物の考え方が、専門化しすぎています。 これでは、総合的な幅広い人間性が育ちません。 人間性を育てるには、太古から、 不変のリズムで動いている宇宙の森羅万象に目を向けて、 素朴な人間らしさを取り戻すことが大切です。 「気を養うのが坐禅」 日常生活で、対外的なことに気を使うことが多く 心の内容が乏しくなっています。 大切なことは、意識を呼び戻すことです。 その方法として、座禅があります。 体全体で息を吐ききって、 腹部がへこむまで吐ききりましょう。 吸う息は、無理をせずとも入ってきます。 そのとき、体全体で天地の命を吸うことです。 吐ききった充実感とともに、吸うことで 下腹部へ命の輝きが戻ってきます。 そこに気迫が宿るのです。 座禅をして、日々の生活のなかで、 内面の充実感を育てることに楽しみを感じましょう。 「坐禅をしましょう」 春は、花。夏は、風。秋は、紅葉。冬は、雪。 自然界の動きの全てが、宇宙の広がりです。 宇宙の広がりは、こだわりのない、うそのない、 なんにもない、清らかな真実の世界です。 なんにも持たずに生まれた自分。 その自分の体さえ、天地からの預かりものなのです。 迷いごとのない落ち着いた日常生活を送るために 坐禅をして心を清めて、心の安心を得ましょう。 「生命の本源に目覚める」 人間の細胞は、60兆といわれています。 1秒間に、300万の細胞が生滅を繰り返して、 7年間で全部の細胞が入れ替わります。 諸行無常。森羅万象、全てが人間の細胞と同じように、 変化しています。 しかし、生命の本源は、不変です。 本来の自分も、人間性の本質も、そこにあるのです。 座禅して、足元に見える草花の移り変わりにも、 永遠の宇宙の息吹を感じ、 生命の本源に目覚めましょう。 「心を常に清める」 思いごとや、いらいらすることが多くなると 視野が狭くなります。 それは心が狭いからです。 心を常に清めて、我を捨て、 こだわりを放す努力をすることで解決します。 「心の置きどころが大切」 日常生活が忙しくて、心の置きどころが不安定で、 地に足がついていないため、不安でいらいらしています。 今ここに生きている自分が、 大宇宙に生かされている命そのものであることを 強く意識することが大切です。 そこに心の置きどころがあるのです。 「命の実体は一つのところにあり」 人間は死ぬと、みんな一つのところに帰っていきます。 命の根源は一つです。 生きているうちは、喜怒哀楽のなかにありますが、 帰るところは一つです。 座禅をして、心豊かにして、人生の深さを味わいながら、 生きていきましょう。 「日々是好日」(にちにちこれこうじつ) 雲門禅師の言葉です。 晴天の日のみが好日ではありません。 雨の日も風の日も、 どんな状況を迎えても好日ということです。 自己の都合によって日々が好日という意味ではありません。 悩み、苦しみ、迷いながら生きているのが私たちです。 煩悩の塊(かたまり)が、人間です。 例えば、数珠の一つ一つの珠が煩悩としますと、 数珠には糸が通っているので、 投げても珠はバラバラになりません。 糸が切れると数珠の珠は、飛び散ってしまいます。 糸があるから煩悩の珠は収まるのです。 この糸は真理です。 真理とは、自分の一切の我とこだわりの煩悩を離れ、 自分の心をゼロにして、全ての命を受け入れて、 あるがまま全てをまるごといただく生き方です。 このような心境になると、 大きな度量と次元の高いところから見渡す 気持ちとなります。 おおらかに、いささかもこだわりのない清らかな心で、 ご縁に任せて日々の生活を送るようになると 「日日是好日」ということになり、 坐禅をしても楽しくなります。 「一期一会」(いちご いちえ) この言葉は、茶道からきた言葉です。 戦国時代の武士は、明日の命が定かでないことから、 今の命を、深く感じとるために 一服のお茶に心をこめていただいたのです。 現在は、何事においても簡単にすまそうという時代ですが、 ひとときの心の礎(いしずえ)を 心の一番深いところへどっかりと据え置いて、 自らを治めることが大切です。 「本来無一物」(ほんらいむいちもつ) 自分というこだわりをなくせば、全て無一物の世界です。 全てのこだわりから解放されれば 宇宙の存在そのものです。 宇宙そのものが、こだわりのない存在です。 宇宙そのものになれば、 花を見ても、鳥や、動物その他全てのものが、 同じように見えてきます。 本来無一物とはそのようなことをいいます。 禅の言葉には人生の核心があり、言葉に秘められた深い心の 真性は、広大な宇宙に繋がっていき、私たちの心の仏性を導 き出してくれます。 本当の自分にめぐりあう 自分の真実の心とは、なんでしょうか 心に我と執着が生じるとき煩悩となります。 眼・耳・鼻・舌・身、それ自体には我はありません。 眼・耳・鼻・舌・身は体の道具です。 その我のない道具を使っている主人公である自分には当然、 我はありません。 死人の場合は、体を使う心は不在です。 体と心を預かって生まれてきているのが、自分です。 本当の主人公は、生死を解脱したところにあります。 宇宙そのものの心が、自分の主人公です。 座禅をして、心を清めて我を捨て、 こだわりを放して宇宙と一体になるとき、 本当の自分にめぐりあうのです。 良寛さんの辞世の歌を味わいましょう。 「形見とてなに残すらむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」 生命(いのち)に対して深い認識を持ちましょう 人間の生命は、宇宙全てに共通して 流れている同じ生命体です。 そして、宇宙とのつながりのなかで 生かされているのです。 生命に対して深い認識を持ちましょう。 宇宙の生命の流れを深く感じて 秋が深まるにつれて、 心の豊かさを大切にしたくなります。 読書の秋といわれるゆえんです。 現在の私たちは、精神の世界で 過剰なまでに過去、未来に関わりすぎて、 心が落ち着かないのが実状です。 今、ここに自分が立っているところに体と心を一致させ て、いきいきとした生き方をしましょう。 そのためには坐禅をして、 まず、体と精神を落ち着かせることで、 私たちに本来具わっている宇宙の広大で無限な生命の 流れを深く感じましょう。 天地一杯の命に目覚める 坐禅をしていると、雨だれの音が聞こえてきます。 いつのまにか、音とともに自らの命が 一つになっています。 天地一杯の雨だれ、天地一杯の命を感じます。 このように、同じ心でも雑念、妄念がなくなると いくらでも広がっていくのが心です。 天地一杯の命に目覚めて、 雄大な心になるように努力しましょう。 天空を吹き渡る秋風のように 黄金色の稲穂が秋風で波打つような さわやかな心。 一点の曇りもなく、なにもない心境は、 本来の自分です。 あれが欲しい。これが欲しい。好きだ。嫌いだ。 ああして欲しい。こうして欲しい。 このような心の乱れは、もともと無いものに、 こだわりを持つことから起きます。 座禅をしていると、 いろいろな不満や愚痴などの我執の煩悩から離れ、 なにごとも結構ですという、 おおらかで清らかな心境になります。 全ての出来事は、自分のこととして 天空を吹き渡る秋風のような、さわやかな気持ちで、 社会のためにお役に立つことを心がけましょう。 感動の輪を広げましょう 萬物の命の輝きを見つめることで 感動が起きます。 人々の幸せを願う気持ちを 行動であらわしましょう。 その行動によって、人の喜ぶ姿に感動します。 感動の灯火を、人から人へリレーすることで、 平和な社会が到来します。 感動の輪を広げましょう。 人生はプラス、マイナス、ゼロ 『人生はプラス、マイナス、ゼロ。 一生良いことばかりの人はいない。 また、悪いことばかりの人もいない。』 人間が亡くなると、霊骨は、一切天体に帰ります。 けれども、炎のなかで、蓮華の花がぱっと開くように 故人の残した言葉は、人の心に残ります。 人が死ぬときは、 ひとこと言葉を残しておくことは大切です。 心を水のように使いましょう。 心は、形ではありません たえず働き、生きています。 春になれば、心は春になり、夏になれば、心は夏になります。 心は、固定したものではなく、たえず変化していきます。 ちょうど、水が停滞することを嫌い、すきまなく流れ、 どこへでも流れて行くように、心は自由です。 心を広く、柔軟に、自由に、天真爛漫に、 水のように使いましょう。 自然の流れに照らしてみると 春 夏 秋 冬、季節の変化につれて、樹木は衣の色をかえ、 姿、形は変わっていきます。 しかし、その変化の根底には、見えないけれども、 とどまることのない命そのものがあります。 自分にこだわらない世界、自分を忘れておる世界。 そこには、生きている事実のみであり、 命そのものに触れるときでもあります。 世界の人々の共通の願い 心の本体は、深い湖の底のように静かでおだやかです。 心の乱れは、もともと無いものに、 こだわりを持つことから起きます。 赤ん坊のように 清らかで、さわやかで、おおらかな心境は、人間 生まれながらに備わっている智恵です。 その智恵は、呼吸を調えて坐禅をすることで体得できます。 心を調えて落ち着きたいのは、世界の人々の共通の願いです。 寝る前 1心が動き回らないように座る 2呼吸を整える。花や南国の木をイメージして気持ちを楽にする。 3すべてを優しく見守る気持ちを持つ。そういう自分を見守る。 4仰向けになる。お腹の温かさを意識する。 朝 1呼吸を味わう 2生きていることを実感する 3感謝の気持ちを育む 「坐禅をしているのは、この小さな自分が坐禅しているのでは なくて、全宇宙が坐禅している、あるいは全宇宙と一緒に坐禅 している」ということです。大自然という働きに親しむ。大自 然の働きとして自分がある」という事実を掛け値なしに表現す るのが坐禅です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ヴィヴェーカーナンダ 「どうか! 私を悟りの岸へ渡してください!」師であるラ ーマクリシュナに彼は懇 願した。それに対して師はこう言った、「恥を知りなさい! おまえは大きなバニヤンの樹となって、無数の人々がおまえ の陰の中で休息するようになると思っていた。それなのに今 は自分自身の解脱を求めている」。この言葉に涙したヴィヴ ェーカーナンダは、その生涯を没我的な献身奉仕へとゆだね ていく。師の入滅後、僧となって6年間インド全土をめぐる なかで彼が目にしたものは、貧困にあえぐ人々の姿だった。 その苦しみを胸張り裂けんばかりに感じ取った彼は、人々を 苦悩から救うため、そしてインドの叡知を世界に伝えるため に、世界宗教会議に出席する。師ラーマクリシュナによって 点火された「人への奉仕を通じて、神である真の自己を礼拝 する」という理想を、彼は獅子吼のごとくに説いた。その言 葉は、苦悶に沈むインドを奮い立たせた。彼は同胞たちに呼 びかける、「立ち上がれ!目覚めよ!そして目標に至るまで 止まるな!弱さというこの催眠状態から目覚めよ。真に弱き 者は一人もいない。魂は無限で全知全能である。立ち上がっ て自己を主張せよ。あなたの内なる神を宣言せよ」と。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 心温かい人であれ 全ての宗教の共通点として慈悲心、愛、寛容の精神がありま す。異なる宗教間に基本的な相違点、例えば絶対的な神を受 け入れるかどうかなどがあったとしても、それぞれの宗教は 同じメッセージを私達に伝えようとしている。「心温かい人 であれ」です。 存在する一切全てのものは善悪や感情を含めて皆、尊い存在 であって存在する価値がある。誰もが皆そのままで尊い。で はなぜ今あまりにも多くの人が孤独に落ちているのでしょう か。共生という支え合いを拒否したり、自分という個だけに 強く執着していることがその原因ではないでしょうか。自分 が神からの預かり物である才能や知識や財産を自分だけの宝 にして、どうしようというのですか?抱えきれないほどの自 分だけの宝をあの世に持っていくことを望んでいるのでしょ うか?そのようなことが出来ますか?では、自分とはどんな 存在なのでしょうか?私達一人一人の全存在の中にある、過 去からの全てを含んだ大いなる意識。そこにあなたという個 と私という個はどのように存在しているのですか? しっかりと固いつながりがあるのではないでしょうか?あな たの宝をあなたのものとして永遠に持っていることが出来ま すか?それは無理なことです。自分のものだなどと考えるこ とこそ空しいものです。一切皆空。それを存在の価値という 叡智でとらえるか、存在の悲しみとして捉えるか、それはあ なた次第です。最後に私のお気に入りの言葉を引用しましょ う。<<生きとし生けるものがある限り、宇宙が存在しつづけ る限り、他者の利益にささやかなる貢献をするために、私も 存在しつづけよう>>Shantyシャーンティデーヴァ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー マハームドラーを行ずるとき わたしは気を散らすことも労することもなく あるがままの状態にくつろぐ 空(くう)の境地では明知にくつろぎ 至福の境地では自覚にくつろぎ 無想の境地では裸の心にくつろぎ 現象の現れと活動においては三昧にくつろぐ このようにして心の精髄に瞑想すると おびただしい理解と確信が湧いてくる。 自ずから目覚めるによって 一切は労せずして成就される。 もはや悟りを求めることなく 望みからも恐れからも自由で 私はとても楽しい ああ、迷いが知恵として現れるとき それを楽しむのは何と愉快なことか(ミラレーパ) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー タゴール インドにおいては、人間の内なる仏性アートマンと宇宙原理 たるブラフマンとの全的合一を理想としている。アートマン は欲望によって隠れている。もろもろの欲望を断ち切る修行 をして、人身を清浄にしなければならない。合一したとき、 人は永遠の生の光に浴するのだ。万物は根本において一体で あるという生命観。この大いなる調和を精神と行動の中で実 現することが、インド人の人生の目的であった。 人は一個の生命体として、生きとし生けるものとの血族関係 を実感しないときには、よそよそしい 壁をめぐらした牢獄の中で暮らしている。けれども永遠の仏 に出会うとき、人は生まれてきたこの世の真の意義を見出す ので、囚われの状態から開放される。そのとき人は自分が完 全な真理のなかにいることに気づく。こうして、人間と万物 との調和が打ち立てられるのである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー パパラギ 文明社会で一人の人間の価値を測るのは、心の輝きではなく 気高さでもなければ勇気でもない。ただ一日にどのくらいた くさんのお金を作ることができるか、そしてそのお金をどれ だけたくさん地震があってもびくともしない頑丈な鉄の箱の 中にしまっているかなのである。物がたくさんなければ暮ら してゆけないのは、貧しいからだ。パパラギは貧しい。だか ら物に憑かれている。物なしには生きてゆけない。物がない のなら死んだほうがましだ。物がなければ生きてゆけないと 自分に信じ込ませている。ヨーロッパにはたぶん、私たち南 の島のヤシの木よりもたくさんの人がいるが、彼らの顔は灰 のように暗い。仕事が楽しくないから、職業が彼らのあらゆ る喜びを食いつぶしてしまったから、仕事をしても喜ぶこと もできない。それゆえ職業を持つ人びとの心には、憎しみの 炎がめらめらと燃えている。この人たちの心の中には、鎖で しばられ、逃げようとしても逃げられない獣のような何かが ある。そしてすべての人びとが、他人をうらやみ、他人に嫉 妬しながらお互いの職業を比べ合い、あの職業は尊いとか卑 しいとか、しきりにごたくを並べている。パパラギは静かな 絶望の生活を送っている。彼らは病気の日に備えて貯えをし なければならないから、絶えざる不安と緊張でほとんど癒し がたい病気状態となっている。(自己本位で、時間に追われ、 物に憑かれたパパラギたち・大地との絆を大切にして生きて ゆくサモアの酋長ツイアビの言葉) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ブッシュマン 日が上ると朝がくる。朝が来るから目が覚める。 目が覚めると腹がへる。腹がへるから狩をする。 狩をすればメシ食える。飯食えるからカネいらない。 金いらないから働かない。働かないから暇がある。 暇があるから遊んでる。遊んでいるからけんかしない。 喧嘩しないから気分がいい。気分がいいと眠くなる。 眠くなったら日が沈む。だからブッシュマン、平和です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 二つの心 だれでも二つの心を持ってるんだよ。ひとつの心はボディ・ マインド、生きつづけるようにって働く心なの。本能と欲が 働く心なの。そして、誰も気づかないのがもう一つの心、ス ピリット・マインドなの。霊の心というものなの。これは物 事をあるがままにきちんと理解するのに使うのよ。使えば使 うほど理解は深くなって強くなっていくんだよ。理解という のは愛と同じものなの。だってスピリットどうしは互いに理 解し合うものだから。もしもボディ・マインドを大きく使っ て欲深になったり、自分のことだけを考えたり、人や生き物 を傷つけたり、嫉妬したら、スピリット・マインドはどんど ん縮んでいって、豆粒よりも小さくなってしまうんだよ。そ うなったら、生きているくせに死んでる人ってことになるの 。生命や自然の美しさなんかちっとも頭に浮かばないのさ。 春にはなにもかもが新しく生まれてくるね。生き物だけじゃ ない、正しく理解することだってそうさ。冬になにもかも死 んでしまって、春に何かが創造されるようにスピリットがも う一度生命をとりもどそうとして暴れるんだ。でもね、こん なことは世間の人にしゃべってはだめ。誰も相手にしない。 それどころか自分より深いものを知っている人を必ず憎むか ら。真理を知っている人は必ず非難されるのさ。世間の人は 誰であれ違う行動をとる者には容赦しない。哲学者オルテガ ・イ・ガセットは言った。「大衆と同じでない者、大衆と同 じ考えをしない者は締め出される危険にさらされている」と 。ソクラテスやキリストやマンスールやアナゴラス、サルマ ッド、ガリレオ、ダーウインを。「forrest carter」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自然への回帰 生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。生 への賛歌が、わたしの中で合唱している。存在するすべての 美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。すべての 思考は、わたしから立ち去っていった。大地はわたしを静か に取り巻いている。わたしのまわりは、笑い声に満ちている 。子どもたちは帰ってきた。そう、今日は死ぬのにもってこ いの日だ。「 nancy wood」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 自然体・単純さ 私は風景や樹木や草花の観賞が好きだ。特に樹木が風に揺 らいで葉がさやさやとして、香気や薫風をまとっている様 はすがすがしく無心になれる。夜に庭の虫の音を聞き、星 を見ながら風呂に入っているときも気持ちがよい。散歩の 時、雲が流れていくのを見たり夕焼けの残照をみるのも好 きだ。爽やかな光と風の中にのびのびと、たゆとう時、人 生今ここにいきいきと生きていることを実感する。 とても幸福である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー よく晴れた日の昼下がり、人気のない静かなところに寝転 がって、雲の動いていく様子をぼんやり眺めることが好き だ。雲の形のぼうっと変わっていく様子や、次第に湧き立 ってくる入道雲などを眺めていると、不思議に心が落ち着 いてくる。都会に育った人間と違って島の人間はもっとの んびりしているし、もっと笑うし、もっと陽気だ。その表 情にかげりがない。アメリカ人やヨーロッパ人やオースト ラリア人や日本人と多種多様な国から男女のカップルがや ってくる。楽しそうに見えるが、彼らが一人でいるとき、 例えば水平線を眺めているときの横顔やダイキリなどを飲 みながらぼんやりしているその様子は、あまり楽しそうで はない。仕事のことや将来のことや家族のことなどをあれ これ考え、物思いに沈んでいて、憂鬱そうな表情を見せる 。母国に置いてきたはずの日常に引きずられている。常に 今ある生活の心配から自由になれない。島の人間よりはる かに裕福で、いろんなものを持っているのに、島の人間の ように無邪気に笑えない。あまりに多くのものを持ってい るからこそ、それを失うのが怖くなり、心配してしまう。 必死に働き、お金を稼ぎ、裕福なる。それに比例して心の 屈託は大きくなる。そんな暮らしが幸福と言えるのだろう か。雲はいいなあ。風に吹かれるままに、もくもくと湧き 上がり、そしてまた気づかないうちに消えていく・・・。 生活のための生活に追われることが、そんなに大切なこと だろうか。おれたちは何のために生きているのだろうか。 たぶん、おれたちが生まれてきたことには、何の意味もな いのだろう。いろんなことを考えしまう脳みそを持って生 まれてきたので、ついお金のことや将来の生活を心配して しまう。今を犠牲にして将来を取るのか、それとも今を楽 しんで、将来は貧乏でもいいと覚悟を決めるのか。そもそ もそんな後か先か損得を考えること自体おかしいのではな いか。生きることは損得勘定ではないから。日常の中にさ りげなく転がっている人生のとても大切な何かに気づいて しまえば、もう、それまでと同じ生活は送れない。はるか 遠いところから響いてくる何かに。「人生は、お金じゃな いよー。生命の息吹を感じ、生命を輝かせ、今を楽しむ人 間のほうがえらいんだーよって。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一匹の熊が檻の中にいる。 すばらしく自由だった昔のことを考えながら・・・。 きれいだった小川。可愛く銀色に光る魚たち。 それらをみんな盗られてしまった。 なるほど俺は蜜蜂の巣からちょっぴり蜜を盗ったけれど、 何もそれが俺の一生牢屋にぶち込む理由にはならないだろう。 思い出すのはあの青い野原。樅の木の森の匂い。 ああ、それらをみんなみんな盗られてしまった。 檻の中で一人の老人が考える。 俺にとって、見えるものといったら老眼鏡の隅っこの、 くすぶった光だけ。 昔、檻の外に居る頃見えた、光輝く野原、 好い匂いのする花の丘、 川や海、そこに踊っていた黄金色の肌の娘たち、 それらをみんな盗られてしまった。 子供の頃、学校をさぼってぼんやり日の光を眺めていると、 ほこりが黄金の花粉のようにキラキラと、 目の中いっぱいに光っていたっけ。 それらもみんな盗られてしまった。 みんなみんな盗られてしまった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「大自然のいのち」 Great Spirits わたしは君を思い出す、従順なバラが冬の顎の間で眠るとき。 わたしは君を思い出す、ブンブン音を立てる昆虫が芽吹く春 の若葉の世話をするとき。--- わたしは君を思い出す、カエルの口論が笑いに満ちた夏の歌 に変わるとき。 わたしは君を思い出す、わたしのトウモロコシが育ち はじめるのを聞き、美がわたしの人生に満ちあふれるとき。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「今日という日は贈り物」 一瞬も無駄にしてはならない/ 空の色に注意する/風の匂いを嗅 ぐ/南へ飛ぶ鳥を見る/より鋭くより明敏な世界への自己変革だ/ そこでは限りないやさしさが始まる/今日という日は二度と戻って こないだから何かを捨てて/小さな死を迎えなければならない ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 秋にはもみじの中でもひときわ赤いもみじ 春にはすみれの中でもとびぬけて青いすみれ すばらしいもの美しいものを見つけるたびに ぼくらは指差してそれを教えあい ひとつの感情を分かち合った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 天の下の出来事には時がある 得る時 失う時 癒す時 悩む時 踊る時 嘆く時 抱く時 抱くのをやめる時 生まれる時 死ぬ時 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 誰が風を見たでしょう / 僕もあなたも見やしない/ けれど木の葉をふるわせて / 風は通り抜けていく / 風は竹に来てさやげども/過ぎ去ればひそともいわず /清い淵の上を雁が飛ぶ時/飛び去ればはや影もない /僕の心もこのように/事に出会えば心を生じ /事が過ぎればまた無心 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ。 死んだら あたたかい夜のぬくもりの中で 君と僕は 君と僕とのいのちを あたためあう。 夜闇の森のフクロウも 僕達のいのちだ。 フクロウの鳴き声が静かに僕たちの瞳をしめらすことだろう。// だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ。 死ぬべき君には もうどのような恐れも無用だ。 そして僕達は時間を忘れた夜明けのすがすがしい大気を吸い込む。 まるで初めて 大気を吸い込んだように 僕達は 夜明けの息吹を感じることだろう。/// だいじょうぶだよ やがて死ぬときが来る。 僕達の宇宙ゲームを終わらせて夢のない夢の眠りに やすらかに帰る時がくる。 初めがないここには 生も死も 初めから夢にすぎなかった/// だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ。 さぁ今 君は君自身に帰る。 帰っておいで 君自身である 僕自身の胸の中に。 人々はどういうわけか 死をいみ嫌っていた。 だが だいじょうぶだよ君もやがては死ぬ。 死が 君にすべての生命達との ふれ合いを教えてくれる /// だいじょうぶだ 本当の君は死なないのだから。 生と死の中をつらぬき やさしさがいつも響いている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まあ茶でも一口すすろうではないか。 明るい午後の陽は竹林に映え泉水はうれしげな音をたて、 松籟はわが茶釜に聞こえている。 はかないことを夢に見て、美しいとりとめもないことを あれやこれやと思い巡らそうではないか。(岡倉天心) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 禅は心の本質的下地である意識の域を超え出ることがない。 だからその下地の上に信仰を育むこともない。禅は静寂な る心とともにとどまる。静寂なる心とはまさに無心、無我 、無思考と呼んでいい。そこは真理の世界だが真理には名 前がない。無名だ。なぜならその光明、叡智を得ている人 は宇宙のいのちに溶け込んでいるから。宇宙のいのちを言 葉にすることができますか。そこは完全に静かで穏やかで 至福に満ちている。言葉はあまりにも小さい。そして、書 物によって真理にいたることはない。(Osho) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 禅では、過去も未来も、じつは「今・ここに」還流してあ り、すべての存在や真理も「今・ここに」凝縮していると 考える。だから、「今・ここに」全身全霊を傾注して生き ることを教える。生活のあらゆる場面(掃除も料理も)が禅 でなければならない。座禅は悟りを求める手段ではなく、 すでに悟りの中にいるから座禅ができる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「座禅」によって、つまり無思考のときに静寂な心となる。 そのとき二通りの現れ方がある。一つは無私、無我となり、 慈愛と慈悲で宇宙と融合する境地へ。もう一つは涅槃へと続 く静寂な世界で、自分が宇宙と融合している境地。いずれも 、自分がいのちの世界であり、世界は自分であるという状態 。瞑想をしながら呼吸を調整し、マントラを唱えていくと、 意識が精妙になり限りなく透明感のある状態になっていく。 五感のすべての感覚が消えて穏やかな意識になる。だが明瞭 に覚醒しており、宇宙に自分が存在している実感だけが残る 。同時に森羅万象が自分と同様に、ただ「存在」としか言い ようのないもので成り立っていることがわかる。宇宙全体の 「存在」とそこに流れる悠久の「時間」について初めて真剣 に考え説いたのは「ブッダ」という天才であった。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 釈迦は弟子マウリンガプッダを覚醒させたときに言った。「 私の意識の中で徐々に徐々にあなたの(波動)ハートが私の波 動ハートと同調しはじめた。少しづつ少しづつあなたは私の 暖かさと愛の中に溶けていった。それは私自身の実存から実 存への体験であった。私が人々になすべきことはただ一つ・ ・あなたが自分自身の指導者になること、つまり自分は覚醒 した仏性の人て゜ある仏陀になることができるという確信を あなたがたの内面につくりだすことだ。」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私たちは生まれ、育ち、発展し成長し老いて、死んでいきま す。朝の目覚めと共に生まれ、眠りと共に死にます。しかし 、仏性の世界に住むということは、一瞬一瞬を生まれそして 小さな存在として死ぬということです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 少なくとも一日に一時間は目を閉じなさい。目を閉じるとは 、あなたが社会に対して自分を閉じるということだ。社会は いっさい存在しない。あなただけ。だからあなたは自分に直 面できる。一年に一度は何日か山に、砂漠に行くがいい。自 分以外誰ひとりいないところで、あるがままの自分自身を見 ることだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 真理は書物を読んだり、人に聞いても見つかるはずはない。 だから、自分自身の心を見つめなさい。思考自体がなくなっ たとき心は宇宙のいのちへと溶ける。そのとき苦しめるもの も、苦しむものもなくなる。瞑想するときわたしは、あるが ままの状態にくつろぐ。空の境地では叡智にくつろぎ、覚醒 の境地では至福にくつろぎ、無心の境地では裸の心にくつろ ぎ、現象と活動においては遊びにくつろぐ。このように心を 見つめるとき、おびただしい理解と洞察が湧いてくる。覚醒 することによって一切は労せずして成就される。私はとても 幸せで、願望からも恐怖からも自由で、とても楽しい。ああ 、迷いがなくなり叡智が現れるとき生を楽しむのは何と愉快 なことか。(milarepa)ミラレーパ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 森の中では、私は己の年齢を拭い去っていつも子供になる。 時々夏の朝、いつもの水浴を済ませたあと、日の出から正午 に至るまで、私は日当たりの良い戸口で想いに浸って座り込 んでいた。松やサワグルミやウルシのただなかで、邪魔する もののない孤独と静寂の中で。 鳥はあたりで歌い、音もなく家を通り抜けて飛び去った。つ いに西の窓に差し入る日影と遠方の車のひびきとが私に時が たったのを気づかせるのであった。 別の日のこと、折から静かな雨の最中、不意に自分は自然と いうものに、しとしとと降る雨の音に、家を取り巻く一切の 音と眺めに、平和な恵み溢れた交じらいを、自分を支える雰 囲気とも言うべき、無限にして説き尽くしがたい親しみを感 得した。松の一葉一葉も私に好意をみせて、広がり張って親 しみを寄せた。 夜、満天の星空を仰ぐ静寂の中。耳を澄ませば、大自然の音 がひしひしと体に響く。川のせせらぎ、風の音、樹木のざわ めき、鳥の声、豊かな自然の息づかい、いつしか優しく体を 包み込み、懐かしい原風景へと溶けてゆく(ランプの宿にて) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 私は一生、身を立てようという気にはなれず、ふらり ふらりと自然ありのままに生きた。頭陀袋には米が三 升、炉ばたには薪が一束、悟りだの迷いだの、そんな ことなぞどうでもいい。名声だの利益だの、そんな塵 芥なぞ我れ関せずだ。 雨ふる夜に苫のいおりの中で 両の足をのんびりと伸ばす。 良寛 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー わが名をよびてたまはれ。いとけなき日のよび名もて 、わが名をよびてたまはれ。あはれいまひとたび、わ がいとけなき日の名をよびてたまはれ。風の吹く日の とほくより、わが名をよびてたまはれ。庭のかたへに 茶の花の先残る日の、ちらちらと雪のふる日の、とほ くよりわが名をよびてたまはれ。よびてたまはれ。わ が名をよびてたまはれ。三好達治

「人知れぬ谷間に咲く花」
花は黙って咲き
黙って散ってゆく
そして再び枝に帰らない
けれどもその一時一処に
この世の総てを託している
一輪の花の声であり
一枝の花の真(まこと)である
生命の歓びが悔いなくそこに輝いている
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あなたの魂のふるさとを問うたことがありますか。
あなたの背中を押してくれている者の掌の温かみを感じたことは
ありませんか。
あなたの名を呼ぶ者の声を聴いたことはありませんか。
あなたは声の限りに人の名を呼んだことはありませんか。
呼んでいるうちに、呼ばれていることに気がつきはしませんでしたか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
丘にそよ風が吹き
木々の梢がやさしく揺れる
小鳥たちが小枝で眠り
あなたも安らぎを得る
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
呼吸は風だ。風は宇宙を吹き渡っていく。
お前は宇宙を吹き渡る風だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山は冬の夕日を浴びている。
ぼくらは木洩れ日を踏んでくだっていく。
谷間の小屋へと続く細道を。ぼくらはみんな知っている。
今こうしてここにいるこれこそ天国なのだと。--------
山の頂に目を向けて朝の誕生を見てごらん。
木々の間から聞こえる風の歌に耳を澄まし
母なる大地から湧き出す生命を感じてごらん。
ほら!大自然のきまりがわかるだろう。--------------
夜明けが来るたびにぼくらは知るだろう。
死の中から生は生まれ、生の中から死は生まれる。
母なる大地の知恵に学べば、大自然の生命に触れるだろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一切の生きとし生けるものは幸福であれ安穏であれ安楽であれ。 何人も他人を欺いてはならない。 たといどこにあっても、他人を軽んじてはならない。 互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 この慈悲の心づかいをしっかりと保て・・ (ブッダの言葉)スッタニパータ ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 情熱を持ち何事かをして、世間に受け入れられずに 一生を費やしたとしても、 それを不幸だと思う人こそつまらない人だ。 どんなにうまく栄達し金儲けしても、人生の意味すら考えずに 空っぽのままに、生を終わる人間の正体は悲劇だし悲惨だ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「思い切って生きる。 死と向き合えば、失うものも恐れるものも何もない」 生きていくのには情熱がいる。 命を大切に思うには情熱がいる。 情熱のゆくさきに見えてくる夢がなくても、 燃えるように輝いていたときは過ぎてしまっても、 命の終わりはまだ遠い。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー