ブッダの教えは私たちが知っている仏教とかなり違います。 大乗仏教は釈迦(ブッダ)が説いた根本仏教ではありません。 釈迦は、苦を滅尽し、死を超越し清らかで穏やかな心で生き、 現世で涅槃し仏陀になるための修行法を説いたのであって、 仏像を神様のように礼拝し阿弥陀如来や観音菩薩という神話 を信仰することを説いたのではありません。 当たり前のことですが、「神」や「仏」は人間の創造物です。 「釈迦(ブッダ)の根本仏教」と大乗仏教のどちらが優れてい るか、という判断は無用です。大切なことは選ぶべき仏教の 教えがたくさんあるという事実を知っていることです。 日本の在来仏教と「ブッダの仏教」の違いを知っておけば、 生き方の幅がずいぶん広がります。大乗非仏説という。 「われ考えて、有る」という「不当な思惟」の根本を全て制止せよ ブッダはデカルトの有名な言葉を否定しています。ブッダは「私」という ものは実体のないものだといっています。 輪廻の流れを断ち切った修行僧には執着が存在しない。 なすべきとかなさざるべきとかを捨て去っていて悩みが存在しない 善いことと悪いことをしないので善悪について悩むこともない。 愛することも憎むこともない。愛欲もない。無所有処、非想非非想処。 宗教的行為とか伝統的な学問によっても解脱や悟りはない。 見たこと学んだこと思考したこと戒律や道徳によっても同じ。 信仰によって解脱や悟りを得られないので信仰を捨てなさい。 解脱とは識別作用(感受作用)を止滅することによって精神と肉体の 欲望がなくなる状態。つまり無の状態。涅槃。安らかで穏やかな境地。 問い「どうすれば幸せになれるのでしょうか」 「簡単です。人を幸せにしなさい。そうすれば幸せになれます」 問い「人を幸せにするにはどうすればよいのでしょうか」 「我を捨てなさい。我とは欲であり執着のことです。喜ばせなさい。 そして穏やかな心で人生をすごすことです」 ほとんどの人間は我を捨てられないし、布施・他者を喜ばせること をしないため苦しみ不幸になるのです。抜苦与楽。 TRANSLATION よく知られているように、日本で普及している仏教の諸派は すべて大乗仏教です。「空」を根本理念とする大乗仏教は、 ブッダの死後数百年後に、「超越者」や「神秘現象」の存在 を前提に、本来のブッダの教えとは全く異なる宗教としてイ ンドで生まれ、中国や朝鮮を経て、日本に伝わりました。 また、空の思想を受けつつも、一切が空であるという龍樹の 中観派に対し、一切は空であると「認識する心がすべて」と いう「唯識」なる大乗仏教思想も伝わりました。 一方、ブッダの教えに比較的近い仏教は「縁起」を根本理念 とする上座部仏教(一般に「小乗仏教」とも呼ばれるが、こ れは大乗仏教側からの蔑称です。)としてタイやミャンマー ・スリランカ・カンボジアに根付きました。 今でも釈迦(ブッダ)の根本仏教に近い上座部仏教のタイやス リランカでは、僧侶はお葬式と直接の関係を持ちません。日 本では遺骸や遺骨をねんごろに扱い、葬式も非常に丁寧に行 いますが、それは仏教のやり方ではなく、儒教のやり方です。 またサンガという修行のための組織では、じょうげの優劣は なく、入ってからの年月の長さだけが基準になります。日本 の仏教のように僧が家族を持って自分の寺の中に住んでいる ようなことはありません。サンガに入るためには、持ってい るすべての財産を放棄しなければなりません。残った家族に 譲り渡す形となります。つまり完全無職の状態になるのです。 なぜなら、日本仏教のような「信仰心」を中心とする形でな く、「修行つまり自己鍛錬」が基本スタンスだからです。い わゆる「自灯明、法灯明」です。 以下では「ブッダの仏教」の原典として『スッダニパータ』 や『ダンマパダ法句経』『阿含経』を推奨しています。 チベット仏教は大乗派。密教も同じ。禅宗は中国仏教。浄土真宗は日本仏教。 実は釈迦の仏教はブッダ(仏陀=覚醒した人)になることを教えた ものです。ブッダになるためには(釈迦ブッダの悟りである)「無我」 にならなければなりません。だから、「縁起」や「四聖諦」という 論理だけでなく「八正道」の修行が必要なのです。 釈迦のさとり苫米地英人氏「ブッダ」 「ブッダの仏教」は、神仏に救いを求める宗教ではなく、「 自分の道は自分で開け」という、ある意味では厳しい教えで す。しかし、神頼みの宗教に飽き足らない人にとっては、 むしろ受け入れやすいのではないでしょうか。事実、最近ア メリカでは、普段の生活に座禅瞑想を取り入れ、自律的な生 活を目指す人が増えています。大震災後の日本で、真の生き 方を求めている人への具体的な生き方へのヒントになります。 欧米では1920年代に「禅ブーム」、1960年代「チベ ット仏教」がはやりました。そして今タイ・スリランカ・ミ ャンマーなどの「上座部仏教」が人気を得ています。 欧米の人々がいろんな仏教にアプローチした結果、より原形 ・原点に近い「自分を鍛錬せよ」「神ではなく、自分をより どころとせよ」という自力救済の「上座部仏教」「小乗仏教」 にたどりついたのでしょう。 --------------------------------------------------- 日本仏教 悩み苦しむ人にとっては、葬式のためだけにあるようなお寺 や僧侶には絶望し新宗教に走るという仏教離れの現状が浮き 彫りになっています。岐路に立つお寺・問われる宗教の役割NHK 日本仏教がブッダの創った仏教とは似ても似つかない、一 から十までカネの「葬式仏教」と化し、一円も税金を払わず、 高級料亭に通い、豪奢な生活をし、高級車を乗り回し、愛人 を囲い、世界旅行をする、金まみれ僧侶に対して世間は「金 儲け仏教」と揶揄するほど、堕落した仏教になってしまった のはなぜでしょうか。 『大般涅槃経』「ある牛飼いの女」を例に出そう。彼女は大 儲けをしようと思って、搾(しぼ)った牛乳に水を加えて二倍 の量にした。これを他の牛飼いの女に売った。これを買い取 った女はさらに水を加えて二倍の量にした。ある女が客をも てなすために新鮮な牛乳を求めていた。ちょうど水増しした 牛乳を売っていた女に出会い、その牛乳を買い求めようとし た。しかし、その値段のわりに牛乳の質がよくないことを知 ったが、とにかく買い求めて家に帰った。家に帰り、その牛 乳で粥(かゆ)をつくったが、まったく牛乳の味がしなかった 。ただ、味がしないとはいっても、どんなまずい料理よりは 何倍ものおいしさがあった。それは最初の牛乳の味が、あら ゆる味の中で最高だったからです。 次に「薬草の喩え」ヒマラヤの山中にある甘い薬草を譬えに しよう。その薬草の名を楽味という。この薬草はとても甘い 味がしたからである。深山の樹木が生い茂っているところに あり、だれもこれを見たことがなかった。ただ、ある人物だ けはその薬草の香りを嗅ぎつけて、見つけることができた。 昔、転輪王がヒマラヤでこの薬草を見つけて、木筒を置いて 、その汁を採取した。この薬汁は熟したときに、大地から湧 き出て木筒の中に集まった。その味はほんものの、混じりけ のない甘味であった。転輪王が死んでから、この薬味は酸味 になったり、塩味になったり、辛くなったり、苦くなったり 、うまみのない味になったりした。この薬汁の味は流れてい く先で味が変わったが、本来のほんものの甘い味は、湧き出 るところでは変わっていなかった。 これは仏法が形を変えていく、つまり流れ流れていくうちに 、甘い味のものが酸っぱくなったり、苦くなったりという喩 えですね。これは何を言っているかというと、宗派ができた 、ということですよね。つまりブッダの教えというのは、こ ういうものであるというのを、その時代その時代によって、 こう解釈してもいいんじゃないのかとか、こういうように言 われたんではないかとか、あるいはこの教えが本物なんだ、 いや、こちらの方が本物だと言って、そこで対立して自分た ちで一つの宗派を作っていったんですね。それが、ここでい う酸っぱいもの、苦いもの、辛いもの、甘味のないものとか いうものですね。この甘い汁のものが、流れ流れていくうち に、味が変わってしまった、と。それぞれの味のものを後世 の者がそういう味付けてしまったと。だから宗派というもの は、日本まで来ますと、さまざまな宗派がございますね。 各宗派で、檀家さんたちが「ブッダは何をお説きになったの でしょう?」と言った時に、「これです」というのは、宗派 によって異なるわけです。日本の宗派は、宗祖仏教でありま すから、例えば弘法大師はこうであった、天台大師はこう、 法然上人、親鸞聖人はこう、道元禅師はこうで日蓮上人はこ うであったというようにして、みんなその宗派の開祖の方の 教えというものを中心にして、ブッダの教えを説こうとしま す。それはいうなれば、ずっと流れ流れてきて、味の変わっ たものを全部そこで示しているわけです。 上の「薬草の喩え」では、一番最後に書いてあった「湧き出 る大本のところはやっぱり本物の味だった」というところが ポイントですね。 -------------------------------------------------------------- 中国経由で輸入した日本の各宗祖師たちは、中国の大乗仏教 を誤ってブッダの仏教であると信じました。日本に伝えられ た約三千のお経の作者はブッダ死後に起ったインドの大乗派 に属する仏教学者です。彼らは小乗派の阿含経スッタニバー タや小経からヒントをつかみ「般若心経」「観音経」「阿弥 陀経」「妙法蓮華経」「無量寿経」などを書き上げました。 中国での翻訳は鳩摩羅什や玄奘三蔵がかかわりましたが、訳 経僧の中には儒教の影響を受けて、本物の中にこっそり偽物 を混ぜ込む者もいました。たとえば「父母恩重経」「盂蘭盆 経」などです。 親鸞の作った浄土真宗は「自力で苦しみから逃れようとして も、愚かな我々では無理だ。そんな我々を哀れに思った阿弥 陀仏が、極楽から救いの手を差し伸べている。我々のなすべ きことは、阿弥陀仏にすがって身を任すことだけだ」と説く。 自分で努力しない人には、ありがたい支えとなるのですが、 ブッダの仏教とは全く別物です。 ブッダの仏教では修行をしない人は煩悩や苦から解き放たれ ることはないわけです。そこで信心(唯識)や念 仏中心の日本仏教は、中国仏教よりさらに簡略化し、修行も 解脱も八正道もなく、死ねば欲も悩みも苦もなくなるのだか らと、面倒な修行は一切なしで、たちまちホトケになるとし ました。 日本の仏教では、戒律はまったくと言っていいほど重要視さ れていません。小乗仏教では八正道の修行中心で、無我と無 所有が根本ですが、日本仏教では中観・中道と唯識・心が主 流となっています。 日本では仏法僧の三宝を信じて帰依することが戒です。三帰 依という精神的な戒めです。戒よりも信心、つまり信心が徹 底すればおのずと戒が身に備わってくるであろうと期待する わけです。例えば浄土真宗では戒律を認めていません。法名 。日蓮宗においても信者に戒を授けることはない。法号とな る。それ以外の宗派は戒名ですが、戒律は大乗戒というゆる ゆるの戒律です。僧は五戒のうち「女性と関係をもつな」だ けでも重大な戒律破りです。このように日本では戒は名目と して存在しますが、現実は無いに等しいのです。それなのに 戒名だけを認めているのは滑稽というほかありません。また ブッダはお題目や念仏など祈りで苦の問題が解決することは ないと言っています。日本仏教は小乗仏教とは極めて大きな 差があります。 そして多額の戒名問題が日本仏教のノドに刺さったトゲだと いうことは各宗派の長老も良くご存知です。つまり高額の戒 名が戒名離れ、仏教離れ、無宗教葬の増加となっています。 関東では5件に1件は、葬式をしない火葬だけの「直葬」で す。ある社会学者は今世紀半ばには、お寺の9割は消滅する と推定している。ムラ社会の縮小に伴い檀家制度が機能しな くっているからです。つまり、田舎から都会へと若者が流れ てしまい、消滅する町や村が続出する。故郷を離れるのを機 に檀家を離脱する家は珍しくない。世襲制のなか、優秀な息 子ほど後を継いでくれず、優秀でない息子が仕方なく「家業」 の寺を継ぐ。仏教が目的なのではなくて、商売の道具となっ た。 最近の新聞で、寺がラブホテルを経営し宗教法人の特典であ る免税制度を悪用し17億円脱税したというのがありました 。固定資産税や相続税は免除され、お布施や墓地販売も非課 税と優遇されているためか、1億円で温泉を掘って家族だけ の露天風呂を持っている寺やプールを作り家族だけで泳いで いる寺もあります。連日ゴルフ三昧でベンツやロレックスや 暖炉があるのは当たり前で、ソープで豪遊したり妾を持って いる僧もある。京都嵐山の有名な禅寺の高僧は、一休さんを まねてか、祇園の芸妓遊びで京都では有名人だった。 小乗仏教側から見れば、妻帯し、酒を飲み、物欲に走る日本 のこうした僧は日々、犯戒や破戒の常習犯なのです。小乗仏 教国ではこのような場合、民衆が僧の衣を剥ぎ取り、裸にし て、寺から放り出します。 お寺側の言い分は「現在は安定した生活をしているので私を 困らせないでくれ」「ちょっと私は忙しい、托鉢などは檀家 さんが許さない」。「教職をもつ身なので頭を剃ったり僧衣 などはむずかしい」「子供がいるので肉食は必要」「檀家が 酒を勧める」など。これ程までに日本の僧侶が堕落した原因 は優秀な人材を取り込むことが出来ない世襲制と収入が安定 している檀家制度と高額な戒名問題にあります。 日本の僧侶の理想は財産をたくさん得たいということだけで、 衆生済度のために仏教を学ぶのではない。ただ金これ万事を 処するというところに目をつけて、金を蓄えることに奔走尽 力している。それは資本主義が拝金主義であることと同様で、 社会の風習に化せられたということです。 インドで興った仏教は日本で花開いた。しかし、現状の日本 仏教は、その社会同様「物で栄えて心で亡ぶ」で、民衆と共 に苦しみを救おうという宗教本来の姿を失いました。日本仏 教もインド同様に諸外国へ移り、いつか亡ぶのではないか。 坊さんが栄えるか滅びるかはどちらでもいいのです。しかし ブッダの考え方を取り入れることなしには、人類はそんなに 長い間生きていけないのではないか、という気持ちが強くし ます。 現代日本仏教の最大の欠陥は、ブッダを裏切って「仏教」と いうラベルのついた産業になってしまっていることです。 それは一種の世俗的な「娯楽」にすぎません。「何箇所めぐ り」して極楽に行きたいというのは欲望の煩悩ですし、仏の 罰が怖いというのは怒りの煩悩です。小池龍之介氏 住職をはじめ僧侶は全員、頭を剃り、外出するときは僧衣を 着るべきだ。背広など着てはならぬ。南直哉氏 仏像は釈迦(ブッダ)没後六百年頃ギリシァ文明影響下のガン ダーラで作られた。有髪のブッダ像は全くの偽物です。 日本における宗教の概要 --------------------------------------------------- ある日、ブッダは街頭で、彫刻された偶像の諸神を礼拝し、 神の名を唱え、呪文経を唱している青年に、そのようなこと をやめて、代わりに父母妻子や師や知己のような実際社会の 関係者を礼拝するように勧めました。このことは、ブッダの 教えは社会との関わりの重要性を示しています。ブッダは孤 立した生活を否定しています。ブッダは金儲けも金を貯める ことも禁止しました。金儲けは欲と執着を生み出すからです。 ブッダが、やってはいけないとした、仏法を利用して祈祷と か迷信とか占いとか商売繁盛というようなもので金儲けをし ていた人たちが当時いっぱいいた。つまりブッダの教えとい うものは、何ににも増して素晴らしいものである、と。この 教えの言葉を一つでも口にすれば、霊験あらたかであるとか、 あるいは病気に効くとかいわゆる詭術的なところが強く出て いたんですね。だから紀元後のお経の中には、「祈祷仏教」 と言ってもいいほど呪文を唱えて、何か病気を治すとか、な んかする人たちがいたわけです。 また護摩焚きのように火を使って供養することも、ブッダは 、何の効き目もないと説いています。 あるいは水で身を浄める、例えば滝に打たれて自分の心を浄 めるというような修行も、別にそれが悪いわけじゃないんで すけれども、ブッダの教えにそんなものはない。それが悟り に繋がるかと言ったら、繋がらないと言っている。もしそれ ができるんであれば、水浴びをする雀や鳥たちは、もうとっ くに修行もせずに悟っている筈だろう、と説法をされている 。そういうのと同じで、仏教を利用しながら金儲けをすると いうようなこととか、御利益が如何にもあるかの如くに、と いうのはおかしいと。御利益なんていうよりも、自分が実際 に八正道を実践修行するかどうかが全てです。つまり 自分がブッダになるということを自覚して、それを目標にし て修行して生きていけば、誰でもなれると。決してブッダと いうものは拝む対象じゃないんです。仏像をさすればどうな るとか、ブッダにお願いすれば願いが叶えられるとかと、そ んなことはブッダは説いていない。拝めとは言っていないん です。ブッダは「私は君たちと同じように修行する仲間だよ 」とおっしゃっている。ですから、ブッダになろうというの ならば、教えられた「八正道」なら「八正道」を一生懸命努 力してやっていくということに変わりはありません。 ブッダは、ものごとは心にもとずくとして、清浄行につとめ 励み、清らかな心で大いに楽しく生きることを説きました。 セックスは禁じています。それらを認める宗教はブッダの仏 教ではありません。 僧には、財は必要最小限の所有「三衣一鉢」に限られていた わけで、基本的に無所有を旨としています。財を死蔵し蓄積 することを批難しています。財は広く分配することを説いて います。不必要な財の消費には厳しく反対しています。 またブッダは死後生の「霊魂や輪廻や仏性」については無記 、つまり答えていません。なぜならブッダはあくまで現世に おける苦しみの克服をめざしたのであり、輪廻の主体が何で あるかとか、自己の本性は有限なのか無限なのかといった観 念的な議論や形而上学的な問題については、「我ナシ」の価 値観ですから、測る物差しがないのです。したがってブッダ は沈黙しました。(中村元・ブッダの人と思想P183) 来世や極楽浄土の存在については何も言っていない。それら は後世の人が創作したものです。「生まれ変わり」というも のは、肉体と別個の何らかの主体、つまり「霊魂」を想定し ています。しかし、ブッダは無常・生滅縁起・無我、永遠に 変滅しない実体は一切存在しないと説いた。そうすると、一 体輪廻する主体「霊魂」とは何か、となります。ブッダは当 時の常識であるバラモン輪廻思想に対して、無記という消極 的なものであったればこそ、自ら主張した「無我」という偉 大な思想と矛盾なく整合性をもって、教えを人々に説き示す ことができたのです。 また大乗仏教の真髄とされている「空」についても、ブッダ の仏教とその解釈と位置づけが全く異なります。ブッダの仏 教では、この世の出来事はすべて、原因と結果の峻厳な因果 関係にもとずいて動きます。ですから因果関係を無視してど んなことでもしてくれる超越的な絶対者などは存在しません 。人は自分の行為に対して、100パーセントその責任を負 わねばなりません。ところが大乗仏教では、人が救われるの は必ずしも因果の法則によりません。別の世界にいる如来や 菩薩という仏であったり、因果則を超えた神秘的なパワーだ ったりします。空の思想も凡人に理解しがたい高次な原理に もとづいています。 ブッダは煩悩から解き放たれた世界を「涅槃」ニルバーナと 名づけ、修行を積んでいけば到達できる現世の境地とした。 ブッダの教えの本質は「心の平安を求める涅槃の生き方」で す。つまりブッダは「十二因縁により自己の中核である妄執 を止滅すれば執着が止滅し、執着が止滅すれば出生が止滅し 、出生が止滅すれば老死が止滅する」と生死を超越したので 、死後の世界については言及していません。ブッダは出家者 に功徳を積んで死後に天に生まれることを望んではならない と説き、出家者は修行して苦と不安を解決し現世において涅 槃の境地を目指せ、としました。 死後に輪廻する天があるとするバラモン教との違い ブッダは自分の正当性を誇張したり、信仰を強要したり、教 祖的に大言壮語したりするような人ではなく、ただ「真理」 という一条の光に向かって自ら進み、また弟子たちの自覚を 促し、修行への熱意を奮起させるようなアプローチをされて いた。ブッダが説いたものは宗教ではなく、哲学でもなく、 真理そのものでした。「天上天下唯我独尊」とは傲慢なこと ばではなく、キリストなら神の声を聞いたと言うでしょうが 、ブッダは「私は人間の生きる道を初めて明らかにした」と いう自信を表したものなのです。現代でも人間はどのように 生きたらいいのかという精神的な原理がわからない悩みを皆 抱えています。 「たとえ末端の修行僧でも、堕落から身を守れば、聖者の流 れに入り、現世において、修行すれば涅槃に到達できる」と ブッダは説きました。他力ではなく修行による自力を説いて います。 「さあ、皆にもう一度思い出させよう。一切の事象は過ぎ去 り消滅するもの(無常)であることを。自分自身を信じて、 (無我と無所有の)戒を守り、怠ることなく修行に励みなさい」 「自灯明・法灯明」これがブッダの最後の言葉でした。 *自灯明の自己は自己中心的な現実の自己ではなく、無私な真実の自己をさす。 人間の内には、現実面の自我・我欲と無我・清浄の真実面との二面性を有す。 人間の内には、煩悩の自己(仮構築された自己)と無我の自己(清浄化された自 己)とがある。*アートマンとは「良心」「自灯明」 *ブッダの佛という字は、沸が「消えてなくなる」意味と人が合わさり、人が 人でなくなるをイメージさせている。 --------------------------------------------------- 四人の妻のお話 ある時、お大尽が急に遠い国へ長い旅に出かけることになっ た。そこで4人の妻たちに、愛する順に声を掛けて誘いまし た。お大尽は彼が片時も離さず、暑いといえば服を脱がせて やり寒いといえば着せてやり、暑さ寒さの苦労をさせないよ う、どこに行くにも一緒で、最も愛していた最初の妻に向か って「お前、ワシと一緒に行ってくれぬか。」するとその妻 はヨヨと泣き崩れ「私もあなたのお供をしてどこまでも行き たい。でも私がいなくなったら、誰が子供たちや孫や家の内 外の面倒を見るんですか。そう思うとあなたのお供をして行 くわけには参りません。心を鬼にしてこちらに残ります。」 そう言って泣き崩れた。この夫人は、お大尽の現実の妻であ った。さもありなんと思ったお大尽は、美貌の持ち主である 二番目の妻に向かって「ワシはお前を手に入れるためにどれ だけの苦労をしてきたことか。人生の努力の大半をお前のた めに費やし、寝食を忘れ、数々の辛酸を舐め、時には悪いこ とをしたり人をだましてまでお前をかわいがった。ワシのせ いで自ら命を絶ったものさえいる。そんな思いまでしてワシ はお前を手に入れた。お前こそワシと一緒に行ってくれるで あろうな。」するとこの第二婦人、フンと鼻先でせせら笑い 「バカも休み休みに言ってもらいたいもんだわ。第一夫人が 同行したくないという旅に、第二夫人の私がご一緒するわけ にはいきません。それに何で私が老いぼれのあなたのお供を して行かなきゃならないのよ。まっぴら御免だわ。」と冷た く断られてしまいました。この第二婦人こそ、お大尽が必死 になって追い求めてきたカネや地位、名声、権力、財産・・ でした。哀しくなったお大尽、今度は第三夫人に向かって 「お前こそ・・・」と言いかけた途端、この第三夫人、身を 捩って泣き崩れました。第三夫人は、近くに来ると手を固く 握りあい、別れる時は見えなくなるまで手を振り合う間柄で したが、たまに気が向いたときだけ愛する夫人でした。「私 は誰かさんと違って、いつまでもあなたと一心同体なのです 。ですからあなたのお供という役目は叶いませぬ。あなたの 旅立ちを村はずれまでお見送りいたしますが、お供として一 緒の旅はできないです」と断られました。第三の夫人は言う までもなく、お大尽の肉体であった。最後に残っている第四 夫人、彼女は、いつも影から夫に仕えてきた夫人でしたが、 優しく言葉を掛けてやるようなこともなく、あまり見向きも されず、愛されたこともなかったような夫人でありました。 いつも邪慳に扱い、あまり顧みることもなかった第四夫人に 「お前は?」と力なく目で尋ねると、ところがこの第四夫人 が、「私で良ければどうぞあなたの旅に連れて行ってくださ い。私はいつでも付き従っているものです。どこまでも喜ん でお供しましょう」と言ってくれたのです。お大尽は、ここ で初めて、自分がもっと愛すべきであった夫人は第四夫人で あったと悟ったのです。 この話、じつは彼はあの世への死出の旅に出ようとしていた のです。この第四の婦人こそは、自分を自分たらしめてくれ る「徳」であった。「徳」とはその人のすべての行跡で、私 なら私という人間のすべてです。他人を思いやる気持ちで、 陰で善い行いをする、決してひけらかさない、ということで 徳を積むといいます。あくせく金儲けをしたり、地位や権力 を求めたり、肉体に執着しても、所詮は空しいことで、そん なことより、「善き因・縁・果→因・縁・果→・・」の無限 の連鎖を目指して「善き徳」を積み重ねる修行が大切です。 --------------------------------------------------- 逃げた女 ブッダが森で座禅をしていると、そこへ数人の若者があわた だしく走ってきて「今、ここへ若い女が逃げてきませんでし たか?」とたずねます。ブッダが説明を求めると「お恥ずか しい話ですが、商売女を連れてここへ遊びに来たのですが、 わずかの隙に私たちのお金や装身具を、みんな持って逃げて しまったのです。その女をお見かけになりませんでしたか? 」と気もそぞろです。ブッダは彼らに体を向けて問いかけら れます。「若者よ、逃げた女を探すのと、逃げた自分自身を 探すのと、どちらが大切だと思うか?」若者たちは予期もし なかったブッダの問いにびっくりします。逃げた自分自身を 探すという意味がわかりかねたが、わからぬままにも「もち ろん自分自身を探し求めるほうが大切です」と答えました。 「それなら、見失った自分を探す道を教えてあげよう。とか く私たちは自分の持ち物や自分と関係のあるものを失うと、 それを探すのに夢中になる。ところが、正常な心の持ち主な ら自分の心を見失ってまでも、それを探し求めようとはしな い。今、あなた方は行方をくらました遊び女を追い求めるの に夢中だが、そのために、より大切な自分の心まで見失って しまっているのではないか?」 --------------------------------------------------- 「毒箭(どくせん)の譬え」というのがあります。マールンキ ャプッタという若者が「世界は有限か無限か。死後の世界は 存在するのかしないのか。ブッダが答えてくれない限り、仏 門に入らない」と言った。そこでブッダは次のように話した 。「ある青年に毒の矢が刺さった。友達がそれを抜いて治療 しようとしたら、刺さった青年が、「君達、その毒矢を抜い ちゃダメだ。何という名の人が射って、その人は王族か庶民 か、長身か単身か、皮膚の色はどうか、どこに住んでいるか 、この矢はどういう種類で、弦の材質は何か、そして矢尻は 石か鉄なのか、矢の羽は何か、毒は自然のものなのか人工的 なものか、そういうようなことがはっきりしない限りはこの 矢は抜いてはならない」と言って、それを止めさせた。とこ ろがその青年は、そのうちに毒が全身にまわって死んでしま った。」その話を聞いたマールンキャプッタは「その男は大 バカだなあ」といいました。ブッダはお前の質問も同じこと だよと諭した。死後の世界があるかないかは、死んでしまわ なければわかりません。私たちには今現在、欲望と執着の苦 しみという毒矢が突き刺さっています。死後のことを問い続 けているうちに、死んでしまいます。そんなことを思い煩っ ているよりも、なにより早く毒矢に気づくことが大切です。 もしも修行者が正しい智慧によって、ものごとをあるがまま に見るならばならば、過去や未来や現在について、こんな考 えは持たないだろう。「私は過去生前において存在したのか 、何者だったのだろうか」「私は未来死後にもあるのだろう か。何者になるのだろうか」「私は現在において存在してい るのか、私はどこから来てどこへ行くのか」こんな疑問はも たないだろう。ブッダ --------------------------------------------------- ブッダがいつものように托鉢をしていると、一人の農夫が近 づいて「修行者よ、私らは田を耕し種をまいて食べ物を作っ ている。あんたも田を耕し種をまいて自分で食糧を得られた らどうか?」非難しました。ブッダは、さわやかに「はい、 私も耕し種をまき、そして食糧を得ています」と答えました 。農夫はブッダをジロジロ見て「でも、あんたが田を耕し種 をまくところを見たことがない。第一、あんたは農具をひと つも持っていないではないか」と責めたてました。 それに対してブッダは「私はあなた方の心を耕します。耕す ことを怠ると田の土は固くなるでしょう。心の田も耕作を怠 ると頑なになります。だから私は修業の鋤スキで、あなたの心 を耕して、柔らかい心にときほぐします。柔らくなった心に [信仰]の種をまかせていただきます。信仰の種が成長するに つれて[煩悩]という雑草もはびこります。そこで私はあなた 方に、田の草をとるのは骨が折れるが、途中でやめては何も ならないから辛抱強く[忍]を重ねて煩悩という除草の努めを すすめます。あなた方は苗に肥料を与えられる。私もまた[ 智恵]という心の目覚めがはやくなる肥料を、あなた方の心 の田に施肥させていただきます。すると、先の[信仰]の種は スクスクと成長していくでありましょう。 そしてその花の一つ一つは[縁]という風や鳥や虫のなかだち のおかげで豊かに実るでありましょう。その実りこそが[菩 提という悟り]の喜びの実りです。だが農事は気候などの関 係で時には収穫の少ない年もある。私たちの一生もまた同じ です。いつ不幸や災難がやってくるかわかりません。しかし 、心の田が豊かに肥えているなら行いも言葉も根が深く茎も 太いので、逆境の時も倒れずに自分を支え、周囲からも支え ていただけるので収穫にかわりはありません。ですからあな た方の仕事と私の修行とは別のものではありません。自分の 心も深く耕すと我の強い自分も身も言葉も慎み、食べ物もむ さぼらなくなり、素直な人間になれます。すると喧嘩もしな くなり、他とも円満にことが運べて、どんなにか幸せでしょ う。」原文「私にとっては、信仰が種子(たね)である。修行 が雨である。智慧が鋤(すき)とである。慚(はじらい)が鋤棒 (すきぼう)である。努力がわが〈軛をかけた牛〉であり、安 穏の境地に運んでくれる。この耕作はこのようになされて甘 露の涅槃という果実をもたらす。つまりあらゆる苦悩から解 き放たれる。」 --------------------------------------------------- ある人がブッダに「自分たち在家は僧に食事を提供してた くさんの徳を積んでいる。それをただ食べているだけのあ なたがた僧の徳はレベルが低いのだ」と言いました。ブッ ダは「あなたがた在家は生きるためにたくさん苦しんで、 いつ本当の徳を積んでいるのですか。僧は経済活動をしな いのだから、在家の人に依存します。しかし私たちはあな たがた在家の人々に精神的な栄養である真理の教えを与え ています。それは不滅の価値を持ち、人が生きるために役 立ち続けます。あなた方がくれるのはせいぜいご飯ぐらい でしょう。次の日にはお腹がすくのですから、比べようも ないほど大きなものを与えています。」 --------------------------------------------------- 人生をどのように歩むか ブッダはコーサラ国の王さまにある質問をしました。「東西 南北にある四つの火山が同時に爆発しました。四方から迫っ てくる火砕流は老死というもので自分の居るところに流れて きます。そのときあなたはどうしますか」王さまはブッダの 説法を聞いていましたから「世尊よ、老死は大いなる岩山の ごとく、私の上に押し迫って来ている。私には、強大なる軍 隊がある。しかしながら、老死に対して、それが何の役に立 ちますか。また、私には呪をよくする大臣があり、彼らは私 のために呪をもって、攻めきたる敵を破ることができる。し かしながら、呪の力をもってしても、押し迫ってくる老死に は何の役に立ちますか。また、わが王宮には莫大なる黄金を 蔵しており、私はこれをもって、敵を買収し説得することも できる。しかしながら、これらの財宝の力も、老死の押し迫 り来る事を、如何ともし難いです。わが上に巌の山のごとく に老死の押し迫ってくるとき、わたしの為すべきことは、真 理である生滅縁起の法・三法印・四諦・八正道に従って行ず ること、善業をなし、功徳を積むことのほかに安心な人生を 生きられる事がありますか」と答えました。」ブッダは「そ のとおりです。止まることなく老死が迫ってくるのが人生の 現実なのです」。 --------------------------------------------------- 悟りに至る道 ブッダがガンジス河のほとりを歩いておられた時、ひとりの 修行僧が地に手をついて言いました。「お釈迦さま、お願い がございます。どうぞ私に安らかな涅槃に至る悟りに至る道 をお説きください」すると、ブッダはカンジス河を指さして いいました。「修行僧よ、あそこに一本の木が流れていくの が見えますか」「はい、見えます」「あの流木が、こちらの 岸にも、向こうの岸にも流れつかず、中流で沈むことなく、 中州にのり上げることもなく、人や動物によって持ち去られ ず、渦に巻き込まれず、腐ることなく、流れ流れていくなら ば、どこに行きつくでしょうか」「いつか海に出ます」「そ うです。ガンジス河の流れは海に流れこむようになっている のです。修行に励む者はあの流木と同じです。そして、正し い修行の道はこのガンジス河と同じなのです。修行僧よ、こ ちらの岸とは私たちの目や耳や鼻や舌などのこと。向こう岸 とはその対象となる色や音や香りや味などのことで、岸に流 れつかずとは、それら感覚にとらわれないということです。 中流に沈まずとは、欲望や快楽におぼれないことであり、中 州にのり上げずとは、日常の自分に安住しないということで す。人に持ち去られずとは、恩愛の家庭や社会のつながりに しばられないということ。人以外のものに持ち去られずとは 、かたよった信仰・思想・正義に固執しないということです 。渦に巻きこまれずとは、道を見失わないということであり 、内側から腐らずとは、純潔を守らない見せかけの修行僧に ならないということです。修行僧よ、この流木のように何ご とにもとらわれず、とどまることなく歩んでいきなさい。そ うすれば、やがては大いなる涅槃の大海に入ることができる でしょう。 これが悟りに至る道です」 修行僧は、修行の道 とは、仏にすべてをまかせた道であると知って勇気をおこし 、必ずやこの道を進もうと心に誓ったのでした。 --------------------------------------------------- 「持たない」無所有は、最上の贅沢 ダニヤという牛飼いが、やってきたブッダに声をかけた。「 私の家では炊いたご飯はプンプンといい匂いを立て、牛乳も ギュッと搾った。家の屋根は修理したし、火も焚いてある。 雨が降るならいつ降ってもかまわないさ」気分がいいダニヤ に対してブッダはこう言った。「私はプンプン怒らないし、 心をギュッと固くする頑迷さからも離れている。身一つのこ の身体が私の家だ。心を覆う迷いの屋根は取り去られ、煩悩 の火は消えている。雨が降るならいつ降ってもかまわない。 」するとダニヤは「私は牛飼いを生業として勤勉に励んでい る。自慢の家族たちは悪い噂も聞かない」と言い返した。 ブッダは「自分は雇われ束縛されているわけではない。 守るべき牛を持っていないので、自ら得たもので世界中どこ へでも行く。長い修行に励んだので自分の中から悪というも のは消えたしまった。牛飼いの仕事や家などの財産それに家 族は確かに大切で大きな喜びだが、あればあったで悩みの種 で、子や牛や家について執着すれば苦しみも生まれてくる。 そんな憂いや悩みや思うようにならない苦しみから離れて、 自由で穏やかな精神生活を送ることこそ、本当の幸せではな いか」と答えた。チグハグ問答をしている時、空一面を黒雲 が覆い、激しい豪雨で河が氾濫して家や牛が流され始めた。 --------------------------------------------------- ある日、コーサラ国の王さまがお妃さまとともに宮殿の高台 に登っておりました。眼下に広がる美しい風景をながめなが ら、王さまはふと、お妃さまにたずねました。 「妃よ、そなたには自分より愛しいものがあるかね」王さま は甘い答えを期待していたのでした。しかし、お妃さまは少 し考えていいました。「王さま、私には自分より愛しいもの はございません」王さまは内心がっかりしてしまいました。 最愛の妃でさえそんなものか……すると、今度はお妃さまが たずねました。「では、王さまには何ぞご自分より愛しいも のがございますか」「ふむ……そういわれてみれば確かに自 分より愛しいものはないのう……」こうして、二人は「自分 が一番愛しい」ということで意見が一致しました。しかし、 二人とも何だか自分たちがたいへんな思い違いをしているよ うな気がしてなりません。「そうだ、お釈迦さまに相談して みよう」二人はさっそくお釈迦さまをたずねました。さて、 王さまの問いに、ブッダはこう答えました。「王さま、 人はだれでも自分ほど大切なものはありません。それはすべ ての生き物の共通の思いなのです。ただ……」 「ただ?」「自分が何より大切であると同じように、他の人 にとってもその人自身が何より大切なのです。ですから、自 分が愛しいと思う者は、他の人のその気持ちも理解して、害 してはならないのです。慈しみの心をおこして接しなさ。も し、心が汚れたり、悪い行いをすれば、自分を苦しめること になります。心を清らかにして、正しいおこない、正しいこ とば、正しい思いにつとめることこそ真に自分を愛する道で あると知るべきです」その帰りの道すがら、王さまはお妃さ まにいいました。「妃よ、わしはお釈迦さまの話をきいてこ う思った。人を心から大切にすることが実は自分を本当に愛 する道でもあるのだとな」「王さま、わたしもそう思います 」二人の頬に夕方の涼しい風が心地よく吹いておりました。 --------------------------------------------------- 仏弟子アヌルッダはブッダの説法のときに、日頃の修行の疲 れが出たのか、衆人の中で居眠りをしてしまった。彼はこの 恥かき事件の後、横になって眠ることをやめました。ブッダ は彼があまりにも刻苦にすぎるため、身体を壊すのではない かと心配して、しばしば注意をしますが、アヌルッダは聞き 入れません。ついに不眠と栄養不良のためか、眼が見えなく なりました。しかし彼の精励はとどまることなく、ついに心 眼を開きました。 ある日のこと、眼が不自由になったアヌルッダが繕い物をし ていました。衣を縫うために針に糸を通さなければなりませ ん。手探りではなかなか穴に糸が通りません。彼はつぶやき ました。「誰か私のために針に糸を通して徳を積む人はおり ませんか」と。ブッダは耳ざとく聞きつけて「それは私がや りましょう」といいました。アヌルッダは驚いて「この世で 徳を積むいわれのある人こそ積むべきで、何で世尊がその必 要がありましょうか」といいました。ブッダは「この世で徳 を求める者で、私以上のものはいないのです」と。こんなこ とを言ってくれる師をもったアヌルッダは幸せでした。この 後ブッダは、たとえ如来といえども修行に終りはなく、徳を 積むことが大切であると説かれました。 日常の何気ない行為の中に、ブッダのやさしさと思いやり、 そして修行一路の姿勢がうかがえるのです。 --------------------------------------------------- ブッダの弟子には優秀な人もおり、そうでない人もいました 。パンタカは物覚えの悪い要領の悪い人でした。ブッダが一 つの詩を与えて覚えさせようとしましたが、四ヶ月かかって も一句も覚えることができませんでした。人々は物覚えの悪 い彼をさげすみ、優秀な兄の面目は丸つぶれとなりました。 「お前はとても見込みがない。家にすぐに帰れ」ということ になったのです。彼は頼りにする兄にも見放され、打ちしお れて、精舎の一室に悄然と立っていました。彼の言葉・・そ こにブッダが現れて、まだ小さかったわたしの頭を撫でて、 わたしの手を執って、僧園のなかにまた連れて行かれた。慈 しみの念をもって師はわたしに足拭きの布を与えられた。「 この浄らかな物をひたすらに専念して気をつけていなさい」 といって。わたしは師のことばを聞いて、教えを楽しみなが ら、最上の道理に到達するために、精神統一を実践した。・ ・足拭きの行を授けます。パンタカは雑巾を持って、他の僧 の履物や足を拭いてきれいにすることを日課にしました。い わゆるトイレ掃除などの下座行です。人が不浄と考えるもの を清浄にする仕事に専念することは、同時に自己の心をも浄 化することです。放置すれば汚れるものを清浄にすることは 、ブッダの教えの根幹であります。パンタカは一遍の詩をも 暗記することができませんでしたが、この実践によってブッ ダの教えの根幹を体得したのです。ブッダの教えは何かあり がたい、特別な人生を生きる方法ではありません。つまると ころ自己浄化につきてしまうのです。 下座行は、自分の中に頭を持ち上げてくる自我とか、俺は、 といったような自我を潰さなければ奉仕はできないわけです し、人に尽くすという行為が身に付いてくるわけであります 。そうしたものが重要な修行になっていたわけなんでしょう ね。足拭きの雑巾を世間的にいえば汚れているものと思うか も知れないけど、浄らかな心が籠もっているから、尊いもの だ、清らかなものである、というブッダの教えがここに述べ られているわけですね。大悲は大いなる哀れみの心、人と共感する気持 --------------------------------------------------- 『超訳ブッダの言葉』 小池龍之介・編訳 小乗のスッタニパータ経集とダンマパダ法句経から 一 怒らない 二 比べない 三 求めない 四 自分を知る。--無我。 五 友を選ぶ 六 幸せを知る。--穏やかな心。 七 身体を見つめる。--身体は汚物の皮袋。 八 自由になる。--無我。 九 慈悲を習う 十 死と向き合う。--無常。 十一 悟る ◎他人の怒りを前にしたとき君がいち早く気づくべきは、 君自身の心まで怒りに染まりそうになっていること。それ に気づいて落ちつくように。 ◎誰かが君に怒りをぶつけて攻撃してきたとするなら、そ れは相手が君を、怒りという毒を盛った料理のディナーに 招待しているようなもの。もしも君が冷静さを保ち、怒ら ずにすむなら、怒りという名の手料理を受け取らずに帰れ るだろう。すると怒っている人の心には、君に受け取って もらえなかった毒料理が手つかずのまま、どっさり残る。 その人は独りで怒りの毒料理を食べて、自滅する。 ◎君以外の誰も君を傷つけない。自分が自分を傷つけている。 ◎相手の悪(あやまち)ではなく、自分の内側(心)を見よ。 ◎「私の」。「他人の」。このふたつを君が忘れ去ったなら 仮に何も持っていなくても、しあわせな心でいられるだろう。 ◎悪口を言われない人はいない。 ◎人と張り合わない。逆らわない。 ◎論争の誘いに乗らない。言い争いをしない。 ◎自分に与えられているものをよくよく見る。 ◎財産を他人のために惜しみなく使う。 ◎自分より性格の良い友を持つ。友とは自分を向上させる人。 ◎借金を踏み倒す人を友としてはいけない。 ◎ケチな自分を乗り越える。 ◎頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターである思考を離れ て、ものごとをありのままに感じる。 ◎他人も、自分と同様、自分を愛しく思っていることを知る。 ◎善業は未来の君にとっての、ただひとつの財産となる。 ◎欲しくて欲しくてたまらない人や物をつくらないように。欲し くて欲しくてたまらない人や物が、君の思いどおりにならないと き、特に、その人や物をいつか君が失わねばならぬとき、そのと き、君の心には激痛が走るから。 ◎もう、二度と生まれ変わることはない。今生かぎりです。 --------------------------------------------------- ブッダの明快な教えアルボムッレ・スマナサーラ 小乗 ◎祈りは役に立たない 歴史上祈りで解決し良くなったことはない ◎人生に意味などない 人間はたまたま生まれてきただけです ◎「自分に正直」に生きてはならない 人間の心は放っておけばすぐ悪い方向へ向かうから 貧じん痴 ◎私などない 私は錯覚 私という妄想観念に取り憑かれている ◎欲ほど恐ろしいものはない 人間はみな、欲に狂った病人です ◎人間の本音 自分の願望さえかなえばどんな残酷なことでもやる ◎喜怒哀楽は良くない 理性のない感情だけでは社会は壊れる ◎幸せは物から離れることで生まれる 無所有 断・捨・離 ◎人生は楽しめばいいんだと何かに依存すると苦しみがやってくる ◎悩みの原因は 我と欲と執着です ◎認識は妄想 自分の好み、感情、主観、思考で認識し妄想する ◎偉いとは 地位や財産や名誉のある人が偉いのではなく 無我と無執着で五戒と八正道を守る人です ◎よりよく生きる どう生きても最後はゼロであることを知る ◎人間関係はうまくいかないのが当たり前 慈悲の力が改善する ◎理性のない人にどう言われ様が どう思われようが気にしない ◎自分の向上に繋がる関係は友人 利益のためにつるむ人は悪友 ◎必ず人に好かれる方法とは 布施・愛語・利行・同事の四摂事 ◎他人の幸せを喜ぶ 人をうらやむ心は猛毒 ◎足を引っ張る人はなくならない 人を裁くが裁かれたくはない人 ◎人の役に立とうとすると 結果的に成功する ◎誰もが他人に迷惑をかけて生きている ◎お金の使い方 計画的に生活と貯金と投資二つに4分割する ◎他人と比較しない 比べることをやめれば幸せが訪れる ◎幸せへの道 自分に責任のないことは考えない ◎幸せの本当の意味は 心が安らぎ穏やかで平静でいること --------------------------------------------------- ●ブッダの生の声にできるだけ近い形が「原始仏典」です。 代表的なものとしては、例えばその折々の感興の言葉を詩の形で出 した「ウダーナ感興偈」という作品や、あるいは珠玉のような教え を、詩の形で書かれたものを集めた「ダンマパダ法句経」「スッタ ニパータ経集」「大パリニッバーナ」」「サンユッタニカーャ」と いうのもあります。 日本で一番ポピュラーなのは、やはり「大乗仏典」ですね。「法華 経」「華厳経」「般若心経」「阿弥陀経」「大般涅槃経」「無量寿 経」などです。 この大乗仏教というのは、ブッダの死後500年後、おおよそ西暦 前後頃から信仰されるようになってきた仏教の一つの形態で、カト リックに対するプロテスタントのように、当時の僧を中心にした仏 教に対する、在家のために簡単な信を中心にした一つの宗教改革だ ったわけですね。日本では大乗仏教が定着しましたから、どうして もそのお経が読まれるんですけれども、「原始仏典」は釈尊の生の 声が聞けるというところに非常に大きな意味があります。 〈釈迦の仏教はブッダ(仏陀)になることを教えたものです〉 ●大乗仏教の仏とは、宇宙の真理とでもいうべき仏です。こ の仏が真理を説き、教えを説きます。しかし、この仏たとえ ば阿弥陀仏は、そのままでは教えを説く事が出来ません。そ こで仏が人間である釈迦に姿を変えてこの世に登場したわけ です。大乗の諸経典は小乗の経典に比して思想の深さと底辺 の広がりを感じさせます。しかし大乗経典はブッダの言行録 ではなく、後世に創作されたものです。 最古の小乗経典スッタニパータで、ブッダは悟りに達した弟 子たちに向かって「ブッダたちよ」と呼びかけています。 生死の輪廻を識別し、再生を断ち、穢れがなく汚れがなく清 浄となっている者をブッダと呼ぶ。人生は、生滅縁起により 成り立ち、無常であり、苦であり、あらゆるものは無我であ る、という真理を自覚したとき、死すべき自己はなくなり、 死もなくなり、輪廻を論ずることもなくなり、再生もなくな り、修行は完成し、清浄になってブッダとなるというわけで す。そういう意味では〈あるべき人間の理想的な姿になるこ と〉を教えたものなんですね。 ブッダは最初に何を説いたか、はっきりわかりませんが、 小乗ではサルナートで「四聖諦と無我と八正道」が説かれた とする南伝と「中道・四聖諦・無常・苦・無我・十二縁起」 が説かれたとする南伝があります。 大乗では「仏性」や「空」「如来は常住で不変だとして、如 来の法身は不滅」「欲望よりなる者も成仏できる」とする。 「空」は竜樹が説いたもので、仏教の本質を「慈悲」に変更 した。 --------------------------------------------------- 縁起の真理「因縁和合」因縁生起ともいう ●物事には、それ自体には実体はなく、他との縁という相関 関係によって、つまり、この世界はみな種々の原因と条件が 絡み合い、依存関係して生滅しているという真理です。「因 縁和合」というのは別の言葉で言えば「共生共存」で、共に 生きるということです。それはまさしく仏教の「縁起」の考 え方ですね。みんなお互いが、縁りあい、依りあい手を繋い でいるんだよ、ということを意味しているわけですね。どん な人だって孤立して存在しているんじゃない。お互いに他の 人々と関わりを持って、他のものに依存してですね、他の人 々のお陰を受けて生きています。 どんなに進んだ科学の世界においても、「因縁和合」という ことを抜きにしては成り立たないんではないでしょうか。何 故ならば、キリスト教と異なり、仏教の考え方で言うと、こ の世は神が作ったんじゃないんですね。すべてのものは「因 縁和合」して成り立っているし、また消滅していくという考 え方ですから。それは科学の考え方と共通するものですね。 ●魚を捕る投網はどこか一つを持ち上げると、全体の網の目 が一緒にくっついて来る。つまり全部が関係し合っている。 網の一つの結び目をこう引き上げますと、全部それは引っか かって来ますね。例えば、ここに本があります。この本は紙 もある人が作るし、これを書かれた人もおられる。ただそれ だけじゃないんですね。太陽も水も存在しなかったら、人間 もないしこれも存在しないことなんですね。それが因縁和合 なんですね。ものは全部関わりがあって、一つとしてそこに 関わりのないものはないんですね。 ●例えば、力を与えていないから、じゃ、それは関係ないだ ろうというと、そうじゃないんですね。ものが存在する為に は邪魔をしないということは大事なんです。今お話をこうし ている状態は、皆さん方が力を合わせてこの状況を作って頂 いた。しかしそれだけじゃないんですよ。ここに邪魔ものが 入らないということが、これを成り立たしめている。つまり 邪魔するものがないというのも、立派な因縁和合の一つなん です。だから、何かが一つ、誰かが一人勝手なことをしちゃ うと、これは因縁和合が壊れてしまう。そこには私とか、私 のものとかというように、自分を中心にしてものを考えると ころは何もない。そういうふうにすると、時計の文字と同じ で、「お前なんか動いていないんだから要らないよ」と言っ て、歯車だけというふうにはいかない。全部関わりがある。 力を貸すものも、邪魔をしないでいるものも大事なんです。 そういう関わりを「縁起」という言葉で表現しています。そ の関わり合い全てが条件なわけですね。人間の真理は如何な るものであるか、一番特徴的なのは縁起の法ですね。あらゆ るものはお互いに寄り合って、種々の原因、条件によってつ くり出されている。目に見えないところで、人々はお互いに 目に見えない因縁によって結び付けられているわけです。 ●縁起しているからこそ、いつも同じ状態であることはあり 得ない。変化し続けているから、これを「無常」といい、永 遠に同一の状態で存続する実体もないから、これを「無我」 という。この場合の「我」とは、永遠不変の実体のことをい います。縁起はこうして無常とか無我というブッダの教えの 拠って立つ真理・法と深く関わっています。 勧善 ●ただし、人の面に、倫理思想にもって来ると、今度はそこ を善悪で考えなければならなくなるわけです。宗教的には善 いことをしなさい。悪いことはしてはいけない。これは普通 の日常倫理の中においても、「悪を離れて善に近付く」とい うことがあります。 その場合に、善いことをしても、人の為に一生懸命尽くして いても、世の中には貧しくて、苦しんで亡くなっていく人も いるじゃないかと言う人もいる。逆に、自分は悪いことをし ているのに天罰なんかないんじゃないかと言って大手を振っ て、大きな家に住んで、安楽な生活をして、そして大往生す る人もいる。善いことをしたからって、別にどうこうなると いうことはないというふうに言う人達がおられます。 「時節因縁熟した時に」 ●それに関して、ブッダはそうではないんだと。善いことを していても、ある時期にはそれは苦しい状況にあるかも知れ ないが、いずれ良い報いが来るんだよと教えています。 「まだ悪の果報が熟していないうちは、悪人でも幸せに巡り 合うことがある。悪の果報が熟したときには、悪人は災いに 巡り合うことになる。まだ善の果報が熟していないうちは、 善人でも災いに巡り合うことがある。しかし善の果報が熟し たときには 善人は幸せに巡り合うことになる。その応報は 自分にはこないだろうと考えて、悪を軽く見てはならない。 水が一滴ずつ落ちても水瓶はいつか満たされる。愚か者が悪 を少しずつ行なうならば、やがて災いに満たされる。またそ の果報は自分にはこないだろうと考えて、善を軽く見てはな らない。心がけのよい人は、一滴の水を集めるように少しず つ善を行えば、やがて福徳に満たされる。」 ●例えば頭をゴーンと殴ったら、殴って直ぐに瘤は出来ない 。直ぐに結果が現れてはこないですね。だけども、「時節因 縁熟した時に」と書いてあるんですね。「時」と「時節」で すね、時が、或いは季節巡りてというようなこと、そうして 因と縁、原因と条件がここで熟して、時節がちゃんと因縁が キチッと熟して到来すれば、必ずや善には善なるよい幸せな 報いが来るし、悪には苦しみの報いが来るであろうというふ うに説いておられるんです。 まさしく縁起ということがそこにあります。 ------------------------------------- ブッダの根本教説 四聖諦 小乗の悟り智慧 ●四聖諦とは苦・集・滅・道です。煩悩・妄執・渇愛を根底 とした苦の人間観と縁起の道理を一体化した根本教理が四聖 諦です。煩悩とは具体的にはトンジンチと呼ばれる貪欲や瞋 恚(しんに)怒り、痴(生滅の法を知らない無知)など心の けがれをいい、その根本である渇愛を指します。渇愛という のはのどが渇いたとき、水を求めるような欲求です。妄執・ 渇愛とは人間の根本的生存欲つまり生存本能ですね。 「苦の原因」つまり「集(じゅう)」から「苦」が生じ、「苦 の滅を実現する道」つまり「道どう」から「苦の滅」「滅メ ツ」に至るというように、それぞれ逆転した順序となってい ます。(集諦→苦諦、道諦→滅諦) 次になぜ苦しみが起こるのかというと〈妄執・渇愛があるか ら、因縁の法・縁起の法と呼ばれる原因と条件とが寄り集ま った無常の結果、一切行苦という思うようにならない苦の現 実が現れている〉のが「集」ですね。 なぜそうなるのかという、苦の原因の構造を示して表してい るのが十二縁起です。そして、形ある一切のものは無常であ り、苦であり、無我であると智慧をもって見たとき煩悩が滅 して苦のなくなった涅槃の境地となる。その〈妄執・渇愛を 克服した状態〉が「滅メツ」というわけです。 「道どう」はそういう苦を、思うようにならないものを消滅 させるための実践を説いた八正道という八つの道です。生活 を過剰な欲望によって汚さず正常に保ち、一瞬一刻に注意を 払い油断せず、欲望を制御して精神統一に努めることです。 (中道実践の道は四諦八正道と呼ばれている。) 「苦諦」生きることは本質的に苦であるという真理 「集諦」苦の原因は自我欲望の煩悩であるという真理 「滅諦」自我欲望の煩悩を滅すれば苦も滅するという真理 「道諦」煩悩を滅する修行は八正道であるという真理 例えば医療ならば、その苦がどんなものかを調べる「苦諦」、 次にその原因を知る「集諦」、原因に対処すると病気は治る 「滅諦」、そのためには治療が必要だ「道諦」です。 四苦八苦 ●生・老・病・死の四つは生まれてから死ぬまでの時間的な 「苦しみ」です。他に次の四つの「苦しみ」があります。 愛別離苦と怨憎会苦は人と人との間のことで、愛している者 と別れなければならない苦しみと憎しみから離れたいのに離 れられない苦しみです。パルテノン群像のどの墓にもただ一 言、「わかれ」とポツリと刻まれています。 求不得苦は持たざるものの苦しみ。五蘊盛苦は心身から生じ る制御できない苦しみや、持てる者の苦しみです。心身は常 に盛んに活動して、求め続けているものですから、一つの欲 求が満たされても、また新たな欲求が起きてくる。どこまで いっても満たされることはない苦しみをさします。 年をとりたくない、健康でありたい、死にたくない、という のは人間存在に根付いた本能的な自我の主張です。その自我 の主張は実現されません。しかし自分が生きているのは自我 欲望を振りかざしている世界です。自我の世界で生きていて 、しかも自我を超越せよという。これは難しいことです。 結局、ブッダは次のように納得しました。私達は無常を知っ ていても身体がうなずいていない。だから自我欲望が働き出 して無常なるモノを無常と見ずに、常住と思い誤っている。 つまり私達は仮想世界に生きているということです。だから 自我が苦しみを作り出しているわけです。ブッダがしきりに 自我を抑制せよというのも、ここに理由があるのです。 ●ブッダは八正道で「苦を克服する方法」を教えています。 「苦」とは〈思いどうりにならない〉という意味です。「苦 」とは生老病死と怨憎会苦、愛別離苦、求不得苦、五陰盛苦 の四苦八苦を指します。求不得苦だけで意は尽くされていま す。人生は常に「求めて得ざる苦しみ」があり、それを自分 で作り出しているのが私たち人間の性さがです。 ●ブッダは四諦と八正道を繰り返し説きました。座禅瞑想に よって無我の境地に達したブッダは次に縁起の法を正覚する 。生じたものは滅する、全てのものは無我で、それ自体には 実体はなく、原因と縁・条件が相乗融合して、生起し消滅す るという因縁関係の縁起です。 --------------------------------------------------- ブッダの教えのポイント僧は必須 ●中道(八正道)の内容 中道の「中」とは「正しい」という意味です。 八正道なぜ行わなければならないか。それは四諦の苦の生じる原 因である妄執から離れる為の実践項目だから。つまり、苦しみをな くす方法は八正道以外にない。この八正道というものが、いわゆる 仏教の生き方であり、仏教の行儀作法です。 行儀作法というのは人間の生き方の中に、習慣付けなければ得られ ません。その習慣付けるということはにおい付けをすることです。 仏教の言葉に「薫習くんじゅう」という言葉がありますが、この香 りが習い性になる。 つまり自分に付いている匂いというものは、香水を付けて歩かなく てもくっついているのと同じように、八正道を自分の身体に染み込 ませる、それが大事であると。 「正しい」とは、自己中心の誤った見解を捨てて、この世の有りよ うを客観的合理的にありのままに見ること。 正見・因果の道理をもって世の中をありのままに見る。正し い見解。悟り。智慧。無常無我苦集滅道 正思・正しい考え方。煩悩を離れる、怒らない。傷つけない 。生き物を殺さない。貪(むさぼ)りの心を起こらないように 常に心掛ける。 正語・言葉使いを慎む、妄語、綺語、両舌、悪口を言わない 。人を傷つけるような言葉を使わない。和言愛語 正業・正しい行動。殺生・偸盗・邪婬・妄語、飲酒をしない 五戒 なかでも不殺生、不傷害ということは最高の徳である。 正命・貪らない、適正で規則正しい生活。正しい衣食住、マ ナー。守らなければいけないものをちゃんと規則正しく行う。 正精進・清浄心で。善悪に対して正しい判断をして対処する 努力。 正念・一瞬一瞬仏陀の教えを持続する。正しい自覚。自分の 身体とか、心を注意深く観察して気づかいをする。 正定・欲望を制御し一つのことに心を集中する。座禅瞑想。 もろもろの道のうちでは、八つの部分よりなる正しい道が 最もすぐれている。これこそ道である。(真理を)見るは たらきを清めるためには、 この他に道は無い。 汝らはこの道を実践せよ。 (『ダンマパダ』)中村元訳 座禅瞑想するとき、ただ単に「色カラダ・受シゲキ・想キオク・行 ショウドウ・識ニンシキ」の五蘊の流れが自動的に流れていくだけで、 どこにも「我」というものが見出せないことが少しづつ実感できる。 「自分」などそもそも存在していないことを体感する。 存在していないものを存在していると思い込まされ、苦しみを快楽だと 思い込まされて操られ続けている「我という操り人形」の糸が切れる。 ●中道苫米地英人氏では 中観の意味が重要になります。大乗 系である竜樹の中論「一心三観」では一切の存在には実態がな いとする空観と、一切の存在は仮に現象していると観想する仮 観とその中間の中観の三観がある。極端に言うと空観だけだと 、すべてが空だと悟って瞑想に陶酔するだけで怠惰そのものに なる。仮観だけだとすると全てが妄想なので、どんな悪行でも 許されてしまう。そこで間の中観をとる。そうすると、すべて が仮観でも空の縁起の思想が入れば、「すべては意味がある」 と解釈されるので、事象の関係性や利他的な心を生むので悟れ るというわけです。 --------------------------------------------------- 老いて死ぬ恐怖と苦しみは何によって生じるのかを説明して いるのが十二縁起です。十二縁起とは @「老死」の恐怖と苦は生まれることA「生」に縁る。そし て生存し存在することB「有」自己中心の心がもたらす好き 嫌いなど差別・区別する心や感情や考えや主張など我が出て きます。「有」我は身体やモノへの執着であるC「取」に縁 る。執着は、D本能の根本的生存欲である妄執渇愛である「 愛」に縁る。(現代的用法の愛ではない。煩悩)。「愛」 はモノを感受する感覚器官の感受作用であるE「受」苦受・ 楽受に縁る。六つの感覚器官に、それぞれ六つの感受対象が 触れること、つまり感受はモノとの接触F「触」に縁る。 接触は六つの感覚器官である眼、耳、鼻、舌、身、意のG「 六入」に縁る。六つの感覚器官はH「名色」(肉体と心の働 き)に縁る。名色は認識・識別作用、物を区別して識る働き であるI「識」に縁る。それは自己中心的な身口意(行い・ 言葉・心遣い)の働きであるJ「行」に縁る。身口意の働き による生活行動作用「行」は「縁起によって生滅するという 道理を知らないことや四法印など真理の教えに無知なこと」 つまり真実の世界を知らないK「無明」に縁る。 老いて死ぬという恐怖と苦しみは、この「無明」から生じた 「愛」つまり本能である生存欲から生じる妄執渇愛と「取」 執着に縁るわけです。無明から生じる煩悩に縁って四苦八苦 の娑婆世界が展開されるのです。 ブッダは愛(ものを貪り執着する根源的な欲望である妄執渇 愛の事)を否定している。無明がなくなれば、言い換えれば 自己中心の現実の世界に対して、無我という真実の世界があ ることを知れば、自他不二であり不生不死であり、死の恐怖 がなくなるという法。五欲は財欲・色欲・食欲・名欲・睡眠欲。 ●これも簡潔に愛(妄執渇愛・本能から来る根源的欲望)が なければ取(執着)が止滅し、執着がなければ生(出生)が 止滅し、出生がなければ老死(苦)が止滅すると受け取った らいいでしょう。【重要】EからKは幽体霊体の次元なので @とABCDの物質的次元だけでよい。 ●ここで、執着がなくなるとなぜ出生までなくなるかというと、自 己とは妄執・渇愛と執着によって仮構築されたものだからです。 妄執・渇愛が打ち砕かれば、仮構築された自己は打ち砕かれます。 「渇愛」というのは「喉の渇き」という意味ですが、喉の渇いた時 に、無性に水が飲みたいというような一つの欲望。「根源的欲望」 「本能」と言ってもいいかも知れません。ところがその本能があっ て、それが今度は「あの娘が欲しい」とか「お酒呑みたい」とか「 スポーツカーが欲しい」とかいう、具体的に直接に対象と結び付い て、普通の欲望として出てきます。ですから欲望というのを、感覚 的な心の働きと、例えば「単にスポーツカーを見た」とか「不老長 寿薬を売っているのを見た」というのと、それから対象を具体的 に掴まえて「あの赤いフェラーリが欲しい」「皇順という不老の薬 が欲しい、いつまでも生きたい」と具体的に働きだしてきた欲望と 、「取」取というのは、二つにわけて説明しているわけですね。そ うしますと、当然無いのにねだり、限りなくねだっているわけです から、そこに常に不安と欲求不満に悩む人生ができてきます。そう いうのを「有」我という存在というんですね。そうした人間性を踏 まえて生まれてきたから、その結果老死の恐怖という「苦」が出て くるんだということです。 ●煩悩はなぜ起きるのか。〈自分を中心にして世の中は動い ているという考え方つまり自己中心である我が、結局、煩悩 を生み出すわけです。〉 すべての悩みの原因は自分の心にあります。思考による感情 です。人間の心は病んでいるのです。心が病気なことを煩悩 と呼んでいます。釈迦は「心の病気に悩まされない人はこの 世に一人もいない」と言いました。例えば、お金が積まれて いるとします。このお金自体は「欲」ではありません。この お金を見て思考が「欲しい」と感じる心が欲です。 ●ブッダが言われた。「ものへの愛着が憂いを生み、憂い の心がおびえを生む。ものへの愛着がなくなれば、すぐに 憂いがなくなり、おびえもなくなる。財と色の人における や、小児が刀の刃の蜜をなめるように、一食のうまさに足 らずして、舌を切るの患いあるがごとし。」 ナイフに付いたケーキかすにまで執着していって、そして 最後には自分の身を滅ぼし、舌をも切ってしまうというこ とですね。金銭欲と性欲と名声欲と食欲に執着する為に身 を滅ぼすということです。 ●名誉欲、或いは地位、そういうようなものに執着をする のは、線香が自らの身体を焼いて香りを出しているような ものです。自分を犠牲にしてまで、やっているという愚か な姿ですね。愚者は、正しい道を守らず、ただ華やかな名 声を求めますが、それは己を危うくする禍である。気が付 いた時は、もう遅い。『涅槃経』 ●ブッダは高い地位や名声を得たその姿は一夜の宿借りを した旅人のようなものと言われた。宝石などは砂利のよう なもので、また、綺麗な絹の着物は所詮それは雑巾のよう なものだと言われた。そういうふうに見ることが、愛着を 離れられるというわけですけれども、我々はそういうふう になかなか見ないで、いいものを着たい、宝石を手に入れ たい、高い地位に上りたい心があります。それを得て身 に着けることによって、自分が人間まで変わったかのよう に思い、そういうものを付けていない人達を見下し、奢り 高ぶり、差別し、それに執着する心が出て来るんですね。 それがいけないと言うんです。それを奢りというんですね 。その奢りが人間に貪りをもたらし、怒りを起こさせ、そ のような愚かな考え方を起こさせたりする。ですからブッ ダは「賢い人は称賛されることや、非難されることに心を 動かしてはならない」というんです。 ●じゃ、どうすればいいかと考えた時に、欲本能なんていうのは消 しようがありませんよね。消しようがないんですけれども、それを 何らかの形で抑制・制御しませんと、常に欲求不満にさいなまされ るということにもなりかねないんで、やはり毎日毎日少しずつ抑制 ・制御という方向で人生の道を歩んでいくのには修行の必要性を、 ブッダは説いているんです。お酒が呑みたいとか、高級食グルメ を食べたいとか、お金をむさぼりたい、賭け事をしたい、浮気した いとか、そういうものは決して前向きの正しい生き方じゃないんだ 、ということを自覚した時には、それを抑制していかなければいけ ないのですね。八正道の修行を積んで努力していくことですね。 大乗では欲を抑制制御、小乗では欲を止滅。 ●世間一般の人々にとって一番大切なことは所有欲であり、 「自分が」「私が」という自己中心的な我ありという我執な のです。しかし、ブッダの悟り価値観は、世間一般の価値観 とは180度正反対で真っ向からの否定なのです。そこでブ ッダは、この悟りを世間の人が理解し体得するのは難解だと 思いました。自分ひとりだけ解脱し沈黙を守るか、あるいは この悟りを人々に説くか迷った。あるとき泥の中の蓮の花を 見ていると、たくさんの蓮は泥の中にありながら汚れに染ま らずに咲いている。こうして伝道の決意を固めました。梵天 ●執着から脱出することを、手放すと表現しますが、手放す とどうなるか? どうでもよくなるのです。 気にならなくなるというか、気にも留めなくなるのです。 そうなれると、手放し完了となるのですが、執着を手放すの は、一苦労です。執着してしまうぐらいに、大切なものであ ったはずですから。ですから、すぐにうまくいかなくても、 落胆しないでください。 執着を乗り越えていくのは、焦らずゆっくり、何度もチャレ ンジする覚悟が必要なのです。挫けそうになってしまうこと も多々ありますから、師や仲間が必要です。 --------------------------------------------------- ●因果の道理という言葉は、生まれるということは必ず死が あるというようなことで、それを原因と結果ということで、 自然界にそれを置き換えると、必ず形あるものが生じたら、 必ず滅びるということです。「生滅縁起の法」といい、全て のものは「諸行無常」ということですね。そこには自分の思 うようになるものは何一つとしてない。これが「一切皆苦」 ということでした。 変滅して思うようにならないものに、私とか、私のものなん ていうふうに決めてかかれるようなものがあるだろうかとい うと、そういうものはないという「諸法無我」ということで 、それはまさしく因果の道理というものにのっかって説かれ ているわけです。これらを三法印として後述します。 「なぜ無常なんですか?」と言われた時、それは「形が壊れ ていくから無常だ」と。「何で形が壊れるんだ」と質問して いく。それは、ブッダが悟った「ものの道理・真理」という ものです。それは何故かというと、それは、仏教では、「縁 起」という言葉になります。「因果関係の条件」「原因の条 件」という意味です。それがうまく衆縁和合して、物事は生 まれたりなくなっていくんだという、のが、この世の中の道 理です。ブッダはそれを菩提樹の木の下で発見されたんです。 これはいわゆる仏教のいう「真理」なんです。 その衆縁和合しているが故に、世の中は無常なんです。 ヒンズー教の考え方 ●「有因有果説」ものの道理には原因があって必ず結果はあ るという考え方なんです。その考えには二つありまして、そ のひとつはゴーサーラという人の「業という宿命的な輪廻説 」です。自分が今日ここにあるのは、全部過去からレールが 敷かれている、例えば、それを幸せとか、不幸とかそういう ようなものに対しましても、皆それはこの世で決まったので はなくて、自分という人間が、この宇宙に誕生した時から、 その人には幸せとか苦しみとかは、みんな升で量られたよう にしてあるという。何をやってもなるようにしかならないよ という考え方です。輪廻を繰り返すことによって、その苦し みを少しづつ消化していき、最終的には楽しみだけが残ると いうのがヒンズー教の考え方ですね。 ブッダの考え方「縁起説」 ●「有因有果説」のもう一つの考え方はブッダの縁起説です。 ものごとの原因と結果には、必ずそこに条件というものがあ るんだということを教えているんですね。ですから、因果と、 表現しますけれども、原因と結果の間には、必ずそこには条 件が必要になる。この「条件」のことを「縁」というですね。 どういう条件を与えるかによって、結果は変わるわけですか ら、「輪廻因果説」のように短絡的にこういう原因は必ずこ ういう結果になるよというふうに決まってしまうわけではな いんです。例えば、良い原因であっても、条件が悪いと悪い 結果を招いてしまうということですね。因と果の間にあるそ の条件つまり「縁」はもう無数にあるわけですね。 ●例えば「この柿の種を貴方に上げる。これとおむすびと交 換してくれ」、「その柿の種は大きな木になって、沢山柿の 実がなるよ」と言って貰ってもですね、それを土に埋めたり 、肥料を上げたり、水を上げたり、いろんな条件を与えない と、芽が出ないし、出ても空気が必要だし、雨が必要だし、 太陽も必要だしといういろんな条件がそこにある。ですから 、因果律と短絡的に考えてしまって、柿の種があるから、こ んなに沢山な実がなるよと教えられて、それを信じて、その ままにして机の引き出しに入れて置くと、いつまで経っても 柿の実は得られない。つまり、結果を得る為には、因縁とい ういろんな条件が必要なんだよということですね。 ●例えばグルメともいわれる、人並みはずれて美食を追求す る人がおりますが、ザルそばが美味しかったとします。堪能 すればそれで止めておけばいいのに、また「そのザルそば」 でなければならないと、その美味の快感に執着をするという ことがあります。それが益々ものに愛着をするという気持ち を起こしていく。そしてだんだんエスカレートしていって、 さまざまな煩悩を生む。よく我々が使う言葉ですが、火に油 を注ぐようなもので執着する。そうすると、だんだん苦しみ が、つまり自分の思うようにならんことがどんどん出てくる から、益々そこに摩擦が出てくる。それをなんとかしようと する。際限がなくなっていくのです。 ●悪の果実が未だ熟さないうちは、愚か者はこう考える。「 今がチャンスだ」と。ところがその行為によって、やがて果 実がもたらされたとき、彼にとってのあらゆるものが損なわ れてしまう。例えば、財産を奪った者は別の者から身ぐるみ をはがれてしまう。人を殺した者は別の者から殺される。人 を侮辱した者は自分が侮辱され、勝利者には次の戦いの相手 があらわれ、他人を迫害した者には心配事が絶えないだろう 。ブッダ その因果の報いは形ではなく感じること ●後半の部分に、悪を軽く見てはならないと。「一滴が巌も 穿つ」という言葉がありますが、一滴一滴でもやがて大きな 器に一杯になる。それは自分はいま悪の報いがこないだろう と思っていても、少しづつやっているうちに、必ずそれは悪 で満たされてしまう。その時にその報いは計り知れないもの であるということを言おうとしているんですね。 ですから、その一滴一滴の善とか悪とかいうものは、繰り返 し相続し、継続をしていくうちに、その報いは感じられるん ですね。形で現れるんじゃないんです。本人が感じるという ことです。 ●例えば、過去の悪業があなたの今日のこういう貧しい境 遇をもたらしたとか、あなたの今日の金持ちとか、幸せだと いうのは、過去とか前世の善業がこうさせたんだとか言いま すけれども、そんなに形であらわすものじゃないんです。よ くあなたの身体的傷害をもったというのは、過去にとか前世 の悪業だと言って決め付けてしまう人がいらっしゃいますけ れども、そういうことではないんですね。形で現されるもの ではない。それは本人が「感じるもの」なんです。 ですから、大きなお家に住んでいても、金がどんなに沢山あ っても、不幸せな境遇と言うか、感じをもつ人が一杯いらっ しゃいます。逆に、貧しい、みすぼらしい家に住んでいても 、安らいだ心をもっている方もおられます。家庭が円満で、 子供が立派で、夫婦も円満であるという場合もあります。そ の報いは苦しみを感じる、幸せを感じるというふうに説いて いるんです。 前世の悪業が、前世の善業が今日のあなたのこういう形にな ったというふうには、どこにも書いてありません。もしそれ が形になって現れるものなんだというふうに受け取ったり考 えたりしたりすると、それはもう安易な功利主義とか、実利 主義だとか、そういったおカネにすぐ結び付いてしまうわけ ですが、そういうことを言っているわけじゃないんです。そ れは「本人が感じること」であって、だから、周りのものが 貴方はこうすると、来世で貴方がこうなるよと言って決め付 けることは絶対出来ないんです。 ------------------------------------- 悪人は地獄から天国には行けない ●ある村長さんがブッダに、「悪人がいた。殺人者で乱暴 者でどうしようもないその男は死んだ。その時にバラモンの 僧達はこういうような時にはお祈りを唱えたら、この男を本 来なら地獄に堕ちるのを天に生まれ帰らせるというけど、貴 方はそういうことをしますか」と聞いた。そしたら、ブッダ は、「それは分かる。だけど、ここに大きな石を池の中 に落として、それが池の底にまで落ち込んで行った時に、お 坊さんが呪文を唱え合掌して、石よ浮き上がれ、浮き上がれ と言って、浮き上がらすことが出来るか」と言った。村長が 「出来ません」と。「それが道理なんだよ。つまり悪いこと をしたというものは沈むんだよ。自分でその苦しみを受けな ければならないんだよ。逆に今度は、油壺に一杯油を入れた のを池に落とした。それが池に沈んでいって、下の石に当た って、割れて油が浮き上がって来た。水面に浮き上がった油 を、坊さんが呪文を唱えて、経文を唱えて合掌して、沈め沈 め、油よ沈めと言った時に、油は沈むか」と尋ねた。村長は 「いや、沈みません」。「それが道理だ。つまり善いことを した人は、「地獄に堕ちれ、堕ちれ」と言っても、堕ちない のが道理なんだ。それが縁起の世界だよ。 つまり善いことをしたという条件をもっている者は幸せなと ころにいくけれども、悪いことをした条件を積んだ者は、そ ういう苦しいところにいくのが道理というものだよ。」と ●私がこの文献を読んだ時に、ブッダという方はこういう生 き方を教えてくれたのですね。一滴一滴だけれども、その一 滴一滴づつの水が溜まれば水瓶が一杯になる。つまり努力と 言うか、それが修行ということなんでしょうけれども、要す るに、怠りなくということなんですね。普段の心がけを教え ているんですね。善いことをする、悪いことをしてはいけな いよ、と。一滴一滴の悪いことが積もり積もると大変なこと になる。時節因縁熟したら、必ずや、それぞれの報いを受け ることになる。何とかしてくれというわけにはいかない。 よく、「溺れるものは藁をも掴む」という言い方で、病気し ても助からない時なんか祈祷を唱えて貰えば助かるかも知れ ないという考え方を非難しているんですね。簡単な言い方を しますと、いま怪我をして出血をしている人がいて、「誰か 救急車を呼べ」と言った時に、ある人が「いや、私はこれこ れこうこういうものを信仰しているから、呼ぶ必要はない。 呪文を唱えれば、血は止まるよ。直ぐ治るよ」と言っても、 それは治らないんですね。その時必要なのは救急車であり医 者であり薬なんですよ。 ●大事なのは宗教のそういう教えとか何かが必要なのは健康 な時なんですよね。病気になっていない時なんです。健康な 時にどれだけブッダの教えを、生きる心の支えにしているか ということなんです。緊急の場合には救急車を、火事の時に は消防署を呼ばないと絶対に助からないんです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●結局、忍耐しなければならない。ところが私共は、それを 〈なんとかなるだろう、自分だけは違うんだ、私だけはなん とかなるだろう〉と思って、それに逆らうんですね。〈逆ら うと摩擦が生じます〉。言うなれば〈欲がそうさせている〉 わけですね。何かに執着をしてこうするわけです。例え ば、目で見るもの、色とか形とかというもの、或いは聞くも のに、音とか声とかに愛着を覚える。こうあって欲しい、自 分はこういうものが欲しいと、感覚器官を通して自分の周り にあるものに対する愛着を生じますね。それが結局は人間を 迷わすことになる。そういうものを仏典では火が燃えている と言うんですね。その思うようにしたいというのが摩擦する 。だんだん火になってくる。火が燃える。目が耳が鼻が舌が 燃える。味に執着し愛着しますから。そういうふうにブッダ は説かれているんですね。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●自力 小乗仏教の基本 アーナンダよ、あなた自身であなたの光明となり力となるの だ。他からの力に頼ってはならない。真理をみずからの光明 となす者こそが、私の真実の弟子となり、正しい生き方を歩 むことができる。ブッダ --------------------------------------------------- 思想や理屈の世界ではなく、修行が必要です ●実践なき思想はありません。実践がなければ単なる空論で す。仏教では戯論ケロンと言います。ブッダは常に実践を重 んじました。他の人たちと、決して議論しあうことはありま せんでした。 大乗仏教では空の教えがありますが、実践的に自己浄化の 修行をはずしては単なる理論だけです。 ブッダの時代では自己浄化によって煩悩や我執の克服に努め るとき、利己的な自己から無私なる自己へと転換してゆき、 その帰結として悟りである無我を体得していきました。 ●善事をなし悪事をなさない、というと誰でも「よくわかっ た、簡単なことだ」と頭の世界では十二分に理解しているの ですが、これの実践である八正道ができないのです。 ブッダの仏教というのは常に実践が伴わなければ意味がない のですが、この教えもまさに実践そのものが伴わなければ、 ほとんど何の意味もないということです。頭の世界ではない んですね。ところで、お前は実践はどうだと言われた時に、 それはもう恥ずかしいかぎりで、自分を戒めながら、修正し て精進しているわけです。一滴一滴の水滴が積み重なってい くことの大事さを、噛みしめなければいけないんですね。 --------------------------------------------------- ●心 ブッダは心というものは放っておくと欲するままにおもむき 、好き勝手にやるというんです。このようにどうしようもな いものですから、自分の心に正直に生きると破滅してしまう と、お説きになった。心が王様のように私共の身体の中にあ って、行動を支配をしているのですね。心というものは本来 〈善でも悪でもない〉けれどコロコロと変わり、汚れた心で 行いをするならば、苦しみがその人に付き従い、清らかな心 で行いをするならば、安楽はその人に付き従うと説かれた。 ●「清らかな心」「善なる心」とは、トンヂンチの無いこと、 つまり〈貪りのない心。怒りのない心・乱れない心。無明で ない心・我執のない心〉ですね。じゃ、一体何を基準にして 善とか悪とかというかと言うと、ブッダは〈修行の為になる ことをすることは善因であり、修行の為にならないことは悪 である〉ということです。仏教では人間の行いに三つあると 言うんです。「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」と申し ます。「身」は〈身体〉です。「口」は〈話すこと〉ですね 。「意」は〈心〉を言うんです。 --------------------------------------------------- 因果の道理にのっかって「三法印」三つの命題があります。 一.すべての縁起によって形成されたものは無常である。( 諸行無常)全てのものは移り変わり変滅していく。常住 不変で固定的なものは一切ない。 二.すべての形成されたものは苦しみである。(一切皆苦) 無常なるものは苦しみである。一切行苦。 三.すべての事物には私というものはない。(諸法無我) 常住不変で固定的なものは一切ないから、身体が自分と か自分の所有物ではない。 四. (涅槃寂静)を加えることも。幸福とは心が平静なこと。 不苦不楽の中道(八正道)。 行とは因果関係によって生まれ出るすべてのもの。有為。 法とは行より広い概念。行(有為)と、因果則を離れて不変不滅の状 態にあるもの(無為つまり涅槃)の両方をさす。 みんなが「幸せ、幸せ」というんだけれども、誰でも「何が 幸せか」ということをはっきり理解していないんですね。 物があって、お金があって、住むところがあって、豊かな食 べる物もあって、というようなことを、まず幸せの基準とし て考えているんです。だから、「物」に基準を置いているん です。物というのは、「道具」なんですね。だから、道具だ けは揃っているんです。二千年以上昔から人間は、家やら建 物やら財産やら、いろんな道具を作るんです。ただ道具を得 るために生きているのであって、その道具を得たから自分が 幸せになった、というふうになっていないんです。ですから 、手段が目的になった、ということです。だから、心の幸せ というものは得られないわけです。つまり、手段であるお金 とか、いろんな道具、例えば便利にどこへでも行ける車だと か、いろいろあるわけですけれども、それでどこかに行った としても、それで幸福になったわけでもなく、それはあくま でも便利になっただけのことです。 --------------------------------------------------- 一切にわがものなし ●原始仏典を読む 奈良康明 ●例えば財産を持っているとします。けれど、それをよく 考えてみると、他の人が力を合わせて作り出してくれたもの でしょう。たまたま何らかの理由によって自分に帰属してい るというだけのことで、自分が死んでしまえば、それは消え てしまいますね。生きている間も、それが自分だけのものだ と誇っていいのか。もっと奥深く考えてみると、もう世のあ らゆる人々のものであり、あるいは宇宙万有が力を合わせて 作り出してくれたものですね。そう思うと、自分のものだ、 自分の所有だというものに対しても、見方が変わってくるわ けですね。 世間の人は自分というものをどう考えているか。たとえば与えられ た地位とか財産とか権力とかそういったものが「自分」だと思って 得意になっている人がいる。けれどもそれは本当の自分ではない。 (サンユッタニカーヤ) 最近、私のところへある中年の方がやって見えまして、この 不景気の時代に大変儲かってしょうがない、と。大変意気軒 昂な様子で胸を叩きまして、「私は一人で生きている。誰の 世話にもなっていない」と、こうおっしゃるんですが、奢っ た言い方だと思うんですね。そこで、「例えばあなたが着て いらっしゃる洋服にしても、いろんな人の手を経ているでし ょう」と申し上げましたら、「いや、私が稼いだお金で、私 が買ったんだから、私の物だ」という。お金で見ればそうか も知れませんけれども、反面にお金さえ出せば洋服がスッと 手に入るという流通機構であるとか、無数に多くの人の力と いいますか、努力といいますか、それが集まって、それでそ の人の生活を可能ならしめ、意識面においては、「俺はおれ 独りで生きているんだ」ということも言わしめるようになっ ただけのことで、深く突っ込んでみますと、どんな人もあら ゆる人々と連携ができて、その連携の上に生きているわけで すね。 ●人々は「わがものである」と執着したもののために悲しむ 。自己の所有しているものは常在不変ではないからです。こ の世のものはただ移り変わり消滅するものです。人が「これ はわがものである」と考えるもの、それはその人の死によっ て失われる。私に従う人は、賢明にこの真理を知って、「自 分のもの」という考えに屈してはならない。スッタニパータ ●ブッダは無所有を楽しんでいます。人間は生存本能を中核 として、「我」を構築しそこに自己中心の世界像を造りだし て住んでいます。そこに住む者は当然のことに利己的で排他 的な自己です。この自己は我執の自己であり、孤独の自己で もあります。ブツダはこの自己を排除することを求めていま す。その一つが所有欲の排除です。所有欲は人間にとって、 身体への執着と共に、根源的な最も深い本質的な執着です。 これから開放され自由になるには、つまり無所有になるには 、とても大きな努力・修行が必要です。 ●何物も自分のものでない、と知るのが智慧であり、苦しみ から離れ清らかになる道である。ダンマパダ 「どんなものも、これが自分のものですよ。自分ですよ、と 掴まえて、永久に勿論続けていくことなんかできないんです 」。ですから命にしても、それから若さにしても、財産 、子ども、何でもそうなんですけども、私どもはややもする と、「これは私の財産です。私の家族です」と握りしめちゃ う。永遠に続かないと悩むんですが、どんなものも、「これ が私ですよ。私のものですよ」と握りしめることは、もとも とできないものなんですね。その意味でどんなものも、「私 ではない。私のものではない」。私とか私のものを「我」と いう言葉で代表するならば、どんなものも我ではないと知る のが、人間の智慧なんだと。だから、 「これが私だ。私のものだ」という我執を離れよ、という意 味で、ブッダは「無我」というのを説いているんですね。 ●人が死を恐れるのは、我が身への執着があるからです。 死んだら私の身体はどうなるのだろう、どこへ行くのだろう と考え、いつまでも生かしておいてもらいたいと願う。ブッ ダは、「私」我というものがあると人は思い込んでいるが 、そんなものは幻想であり、自分の身体のどこを探しても見 つからない、と言う。「我が身」と「我が身を取り巻く全て の物」には不変不滅のものは、どこを探してもないことがわ かる。色つまり肉体がもし不変で永久に健康ならば、病気に なることはない。不変不滅でないから病気になるし、死んで 焼かれれば灰になるわけです。だから世間は無常であり、我 が身も無常であることに気づき知ったら、我が身への執着は なくなる。また人間と動物の違いは我があるかないかであっ て、単なる生命体ならば無我であり生の自覚がない。生がな ければ死もない。となれば、死への恐怖心もない。死を超越 している。不生不死。 求める苦しみ--欲 ●人間の欲望や執着の中で「所有欲」ほど始末の悪いものは ありません。我々の一般の価値観です。しかし、子や財産に ついて喜ぶ者は、それらについて憂うことになります。 ●私たちは何かを求めて生きているわけです。目的を持ち、 希望を持ち、夢や理想を持って生きているわけですが、それ は大切なことなんですが、しかし求めるこだわる気持が非常 に強いと、その求めるということによって、かえって苦しむ ことがあるわけです。このくらいで満足だ、というふうに思 うことがなかなかできない。それによって苦しんでいます。 そして求めることを止めた時あきらめた時に、安らぎという か本当の幸せと言いますか、そこで得られるものがある。 ●私たちは本来宝物を持っているわけですね。宝物というの は体であり、肉体であり、心であるわけです。例えばこうし て生まれて生きている、生きているということはとても有り 難いことであります。心臓が鼓動をしているということも、 血液が循環をしているということも、何かを食べれば胃が消 化してくれるということも、これは本当に有り難いことで、 そういう素晴らしい体を持って生まれてきたんだ、と。この あるがままの自己で、これでいいんだと、その素晴らしさに 気付くということがやはり大切です。 ●私たちは今ここで自分がこうして当たり前にあるというこ との素晴らしさというものをなかなかわかっているようで わかっていない。例えば病気になる。病気になりますと痛い 思いもする。そして時間もかけて手術をして、休んで、お金 もかかるし、そういう苦しい思いをして、そして病気が治り まして健康な状態に戻りますと、非常に幸せを感じるわけで すよ。ところがそれは単に元に戻っただけでありまして、そ れ以前よりももっと自分の状態がよくなったとか、幸せにな った、ということではないのですね。 --------------------------------------------------- ●ブッダは僧や宗教指導者の資格として「無所有と無執着」 をあげています。ブッダの教えはこの無執着に行き着くと考 えてよいでしょう。なぜ無所有が説かれるかというと「わが ものであると執着したもののために苦しむからです」。所有 しているものは常住ではなく、常に変滅するからです。死と 共に自己に属していると思われる世界はすべて自分を離れて しまうのです。 ブッダの人間観は、欲望を中核とした人間観なのです。心の 中心である「脳の腹側線条体」には生存欲があり、それを中 核として自己意識を構築し、それが自己流の世界像を形作っ ています。人間は生まれたときは無垢ですが、潜在意識下や 無意識下のさらに深くにあるアーラヤ識下の生存欲が、思考 による自我意識の目覚めと共に利己的で排他的な自己つまり 我エゴとなって現れます。ブッダはこの自己を排除すること を求めます。 ですから無垢で清浄な心に戻すためには、欲望をコントロー ルして、欲望によるゆがみを正さなければなりません。それ には執着を砕いて無所有となって、欲望から自己を苦しみの ない自由の世界に開放しなければなりません。 無我もそうですが無執着を実現させるために八正道という清 浄行の修行が必要なわけです。 ●ブッダは執着を捨てよと説いています。しかし人は様々な ものに執着して生きている。仕事や勉強を一生懸命やるのも 執着です。執着心が向上心などプラスの流れを生み出してい る人はそのままでいいのです。しかし執着が過度に強くなる と、身体を壊したり家族のことをなおざりにするといった、 本来幸せをもたらすはずのものに対しても、自分の思い通り にならないことにいらだち、苦しみを感じてしまいます。そ れでは、どのような執着がいけないのでしょうか。 まず、自己中心的な我に対する執着、五官の快感に対する執 着、ものの所有に対する執着は、形あるものは無常・生滅縁 起・無我ですから、それらは容易に憎悪や貪欲、怒り、恨み といった状態に転換される「煩悩」です。また身体は不浄の 皮袋だから執着してはいけないと教えた。とはいえ身体を苛 んだり傷つけたりすることを意図してはおりません。ブッダ は苦行を離れています。 ブッダは、執着の中に苦の原因を見ました。四諦、十二縁起 で無明というものです。ブッダは自分の教えにさえ執着すべ きではない、としています。 --------------------------------------------------- ●自我や執着や欲を捨てさる時、穏やかで安らかな涅槃に至る。 女性を近づけないのは、何物にも愛着を持たない心境でいなければ 生死の場に臨んで未練を残してしまいブッダの教えにそぐわなくな る。ゆえに小乗仏教国では妻帯しない。 ●ブッダの生きている時代で、クルという国の王様がいたん ですね。その息子が若いうちに結婚して、奥さんが何人かい たのですけど、この両親にとっては大変可愛い子でした。そ の子がブッダの話を聞いて、ある日、いきなり出家を決めた のです。「全部捨てるんだ」と言うんです。当たり前のこと ですが、親が反対します。そうすると、「出家出来なかった ら、私はもう断食して死にますよ」と。親は、「まあ、坊ち ゃまだから、一日で根を上げるだろう」と思っていたのです が、一週間も断食しちゃったんですね。それで、友だちが来 て、親に「子供に出家を認めてあげなさい。そうでないと死 んじゃいますよ。死ぬよりも生きていた方がいいではないで すか」と言った。それで出家を認めて貰って、修行して悟る んですね。その出来事が王様にとっては大変不思議でたまら ないんです。「何でこんなに裕福な家庭の、すべて揃ってい る子が全部捨てて出家したのか」と。 息子は悟ってから、親に顔を見せなくちゃいけないというこ とで、また、家に戻るんですけれど、家は息子が出家したか ら仏教が大嫌いで、衣を着ている人を見たら、追い出すんで すね。息子はそれを知らずに、家に托鉢に行ったんですね。 行ったら親が自分の子供だと気が付かないで、遠くから、「 追い出せ」と言って、追い出すんですね。そこで、息子がず うっと待っていても、食べ物も何も貰われない。 そのとき、召使いの女の人が腐った食べ物があって、捨てよ うと外へ持って行ったんですね。息子が「捨てるんだっ たら、私の鉢に入れて下さい」と言った。召使いはどうせ家 の主人が、「追い出せ」と言ったんだからと、鉢の中に入れ たんですね。入れたら、その人が酷い匂いがする食べ物を、 何のことなく食べているんです。その姿を召使いの人が見た ら、なんと主人の息子さんなんですね。驚いて、主人に報告 すると、お父さんがやって来て、「なんということをするの か。家に入って美味しいご飯を食べなさい」と言ったら、「 いいえ、結構です。私は今日の食事は済みました」と言って 帰るんです。帰って、王様が狩りに使う森の中で生活してい る。 あるとき王様が、「狩りに行きたい」と言われた。そこで、 森を調べた家来の人々は、「王様がよく話していた若い人た ちがいる」と言ったら、王様が、「じゃ、だったら狩りを止 めて、その人に話をしましょう」と言って、この森に入るん です。入って、王様がこの人に言うんです。「財産はあるし 、身体も丈夫だし、家族も揃っていて、何一つ問題ないのに 何で出家するのか」と。その人は王様に答えました。 「ブッダは絶対的に永久的に変わらない四つの真理を教え てくれたんです。それを聞いて、私は出家しました」と言っ て、この四つの真理を教えるんですね。 一番目は「諸行無常」で、「この世の中は常に変化していく 。永遠なものは何一つない」と。財産があっても、それも無 くなることもある。常にすべて変化していくんだ、と。です から、財産に執着したって、財産もいつまでも頼りにならな い、と。王様は、「すべてのものが変化する、ということが 分かりません」と。「じゃ、王様の若い頃は凄い体力があっ て、誰とでも戦うことが出来たでしょう」と。王様は、「私 は凄い力強かった。誰も私に勝った者はない」と言った。「 今はどうですか」と聞いたら、「今は八十歳の老人で、家来 の人が支えてく れなきゃ歩けない」と言う。「そういうことです。お釈迦様 がおっしゃるのは。我々は体力を自慢していたって、毎日毎 日それは消えていく。このことは昔も今もこれからも変わら ない」と。王様は、「ああ、なるほどその通りだ」と。 次に「一切皆苦」を説明するんですね。それは「こ の世の中で何かあったら自分を助けてくれるものというもの は、何一つもないんだ。自分の意のままに世の中は何もいき ません」と言った。王様は、「分かりません。私にはかなり の財産があるんだ。財産があるから、頼れるものはある。命 令すれば、意のままに何でも揃ってしまう」と言うわけです ね。お坊さんが王様にこう聞くんですね。「王様に何か慢性 的な病気でもないですか」と。「それはありますよ」と。そ こで、「その病気が発作を起こして、倒れたらどうしますか 」と言ったら、「私の妃とか、子供達、大臣たちみんな集ま って、王様が死ぬかも知れませんと、みんな心配する」と。 「それだったら、王様はみんなに、あなたの苦しみを分けて あげなさい。『みんなで私のこの病気の苦しみを分担して下 さい』と、命令したらどうですか」と。王様は「そんなこと は出来ません。私は一人でその苦しみを味わなければければ いけないんだ。それは人に分けること出来ません」と。 「お釈迦様はそういうことをおっしゃっている。人に幾ら財 産があっても、病気になったら、誰に命令しても病気をもら ってくれるわけではない」と。 そこで三番目の「諸法無我」を言うんですね。それは、「自 分のものはありません、すべて捨てなくちゃいけないんだ」 と。それに王様は反対するんです。自分には凄い財産がある 、と。国もあるし、領地もあると。それを捨 てなければならないというのは納得出来ないというわけです ね。それでお坊さんが「あなたには素晴らしくすべて揃って いると、私も認めますよ。でも、死ぬ時、持っていけますか 。死ぬ時持っていって下さい」と言ったら、王様は「それは 無理じゃ。自分が死んで亡くなったら、他の人々がそれを使 う」と。「ですから、お釈迦様は、『結局、自分のものでは ないんだ。全部置いていかなければいけない』と教えました 」と。それで王様は納得するんですね。誰しもそれは死ぬ時 の話で、生きている間は、自分にはまだあると、つい思いが ちです。しかし、財産にしても、全部使うわけじゃないでし ょう。 例えば 「宮殿を四つ持っているんだ」と言っても、 身体一つです。「千人分位食べられるご馳走を作れます」と いったって、お腹に入る量は少ないです。ですから、結局、 そういうものは「自分のものにならないんだ。そういうもの に執着しちゃったら苦しむだけですよ。それに気付きな さい」ということです。 四番目の欲という妄執つまり煩悩なんですね。これを超越し たとき涅槃寂静の世界が現れます。 「この世の人々はいつも満たされていない。世の中の人々は 欲の奴隷です」。自分はこんなに財産を持っていても、それ で満ち足りているか、というと、「そうじゃない」と。「何 か心の中で足らない、もっとあって欲しい、という気持が人 間にはあります」と。それに王様が反論するんです。 「私はとても大きな国を持ってます。満ち足りています。あ んたが言っていることが分かりません」と言った。「じゃ、 王様に聞きますけれども、もし、王様のところに信頼出来る 人が来て『王様、隣国は物凄い豊かでいっぱいいろんな財産 がある豊かな国ですよ。それで力がないんです。ほんのちょ っと行って攻めれば、その国はあなたの国のものになります よ』と言って、その国の中の情報を全部、王様に教えたら、 王様はどうしますか」と言ったら、王様は「だったら、その 国取っちゃいます」と。「そういうことです。あなたはいま 大国の王様なんですけど、出来れば隣りの国も取りたいんで す。だから、あなたは満たされていないんです。王というの は、海までを自分の国にしたとしても、海の向こう側の国も 取りたくなるもんです。だから、どんな人間でも、幾らもの があっても、もうちょっとあればいいんではないか、という ふうに、心が満たされていないのです」と。 心が満たされていないと、そこには苦しみが出てくる、とい うことです。そうすると、「満たしたい」「欲しい」という 欲望の奴隷になってしまう。財産があっても、さらに欲しい というのは、やっぱりそういう欲しいという妄執の奴隷にな るというわけです。 --------------------------------------------------- ●諸行無常 「諸行」を主語にして「すべては無常だ」というのは正しい のですが、それは他人事です。そうではなくて、主語を「私 」にかえて「私が今、無常に出会っているのだ」と実存的に 無常の現実を受けとめよとブッダは説いています。 何の笑いがあるのか。何の悦びがあるのか。人生は無常の火 に燃えているのに・・・なぜ灯火を求めようとしないのか。 ダンマパダ(法句経)。 私どもの命は一瞬一瞬どんどん失われています。生きつつあ り、死につつあります。生死一如です。 それだけに毎日を充実して生きていかなければいけないんで すが、私どもはただただ楽しいこと嬉しいことを追い求めて います。ブッダは「なんでそんなにうかうかと喜んでだけい るんだ。何でもっと真実の灯火を求めないのか」とおっしゃ るんですね。我々は「何でそんなに焦らなくちゃいけないん ですか。そんなにあくせくすることないじゃありませんか」 と、そんなふうに感じるんですね。けれどもブッダにとって は、これがほんとに心の中から出てきた叫びなんです。 「宇宙の大きな働き」「法」に包まれているその真実を自覚 し、そして生活の上に真実というものを常に働かせながら生 きられたのがブッダです。ですからこの言葉にしても、「う かうかしないで、充実した人生を一生懸命やりなさい」とい う、ただそれだけのことなんですけれども、何でブッダがこ ういうふうにおっしゃらなければならなかったのかというこ とは、やっぱりブッダにとって本気になって「君たち、何を やっているんだ」と思っておられたに違いないわけですね。 経典に、「弓の名人が四人いた」と言うんですね。「東西南 北に立って、矢を射たんです。その矢が一遍に空中を飛んで 行きます。そこへスピードの速い人間が居て、四本の矢が地 上に落ちるまでに全部走り回って、その矢を全部受け止めて しまった」というんですね。そんな例を出しながら、ブッダ が「放たれた四本の矢が地上に落ちる前に拾い取ってしまう よりも、もっと早く月日は経っている。だからうかうかする な」と。月日というのは、自分の実感として既に過ぎ去った 月日を考えてみるとほんとに一瞬の間でございましょう。 ですから、毎日毎日を努力して、充実した生き方を考えなさ い、と、ブッダは教えているですね。ブッダの最後の 言葉が、「怠るな、修行しなさい」「すべては過ぎ去るもの である」ということですね。要するに無常だからこそ一瞬一 瞬をムダにしないで、一生懸命生きていくところに、充実し た人生が開けるし、それをこそ考えるべきだ、と。 ●コーサラという国がございまして、当時の非常に大きな国 であります。その首府が舎衛城で、その南西に有名な祇園精 舎がございます。ブッダは建物の外の木の下で、お弟子さ んたちを集めてお説教をされていたんですね。地面の上の土 をヒョッと取られて、爪の上に載せましてね、爪の上の土を 示しながらお説法をされた。 比丘たちよ。爪の上のこれだけの「もの」(色)であれ、常 に住し、常に存し、永久に存在し変化しないなら(常住不変) 、この清浄の行を修することによっては、苦を滅し尽くすこ とはできない。これだけの「もの」でも変化する(無常)から こそ、この清浄の行を修することによって、実に苦を滅し尽 くすことができるのである。「もの」に関して厭い離れるが よい。厭い離れれば貪りを離れる。貪りを離れれば解脱する 。色受想行識も「サンユッタ・ニカーヤ」 爪の上に載せた、ほんのこれぽっちの土でも、常に同じ状態 でいるわけがないんですね、無常なので。「すべてのものが 移り変わる無常だからこそ、苦を修行によって滅することが できるんですよ」と、そういう説き方なんですね。私ども人 生の中で一番執着するものが「色」身体やお金や物ですけれ ども、それをあんまり執着しこだわると、それによって苦し みを受けなければいけないし、むしろそうした拘りを捨てる ところに心の平安を得ることができるんだよ、と。「色受想 行識一つひとつも、苦は滅ぼすことができるんですよ」と。 「無常」というのは真理なんですね。私どもは年を取りたく ないんですね。死にたくないんです。でも私どもは、寿命だ からしょうがない、と諦めちゃっているわけですね。しかし 、例えばガンかなんかになりまして、「あなた、あと三ヶ月 ですよ」というようなことになりますと、慌て出すわけなん で、「今までは 人のことかと思うたに おれが死ぬとは こ いつたまらん」という歌もあるぐらいなんで、自分のことに なると慌て出す。つまり歳を取っていく。死んでいかなけれ ばならない。無常だ、ということは、真実として理屈では知 っていながら、実は本当に心で頷いて体得して受け止めてい るわけではない。ですから自分の問題として、歳を取って死 ぬとなりますと、苦しむわけですね。頭では理屈としてわか っていても、死の直前にならない限り、命の尊厳はわからな いのと同じですね。自分の自我を、どのように処置していっ たらいいのか。それをきちっと修行して体得していかないと 、心の平安というものは得られないんですね。 【核心】そこでブッダの実践的な教えがスタートしてくるわ けです。色と受想行識は無常である。無常なるものは苦であ る。苦なるものは無我である。無我であるものは「私のもの 」ではない。「私」でもない。「私の本質」でもない。 正しい智慧をもって、この道理を如実に観察しなくてはなら ない。 「サンユッタ・ニカーヤ」 「智慧」というのは、単なる知識と違うんです。「知識」と いうのは、物事を単に理解し知ることなんですが、「智慧」 というのは、どうしてもそこに直感的に心で頷くものがあ ると同時に、それは生活の上に働き出てくる、身体に頷くも のです。もっと言えば「我」というものに対する執着を離れ る修行を続けていくと、そこに新しく智慧が働き出てくる世 界が開けてくると、ブッダは説いた。 修行が必要なわけです。無常→苦→無我 この世において、実相を洞察させる智慧こそが最もすぐれて いる。それによって人は生滅の法を明らかに知る。「ウダー ナヴァルガ」 私のものだと固執するいかなる所有もなく、執着して取り上 げるものがない心の状態、それを涅槃と呼ぶ。それは老と死 の消滅である。「スッタニパータ」 カッパという歳を取った修行者がブッダのところにきて「歳 も取ってきた。間もなく死んでいく。どうも心の落ち着きが 、決着が付かない」ということで、法を伺いに行くわけです ね。それに対して説かれた教えがこれです。 結局、私の若さとか命は、これは無常でありますから、いや でも衰え消滅していくものなんですね。それが失われていく ということは自分では認めがたいんですけれども、しかしこ れは真理ですから、執着していても心の不安は増すばかりで す。だから若さとか自分とかいうものに固執しなさんな、と。 この身体が私ですよとか、私のものですよ、と執着すること をやめることが、実は老とか死という恐怖から脱することが できる拠り所なんだと。 結局無常なるものを無常と受け止める修行をしていくよりし ようがないということです。それが涅槃なんだ、安心感だと。 涅槃(ニルヴァーナ)というのは、「心の安らぎ」という意 味でよろしいと思うんですね。 ●無常と苦と無我 因縁によって仮和合されたもの、因縁和 合はすべて滅びゆく存在です。「自分の思うようにならない 」のは何故かというと「全てのものは同じ状態で、ずうっと 続いているものではない」つまり無常だからですね。 そして「無我」というところですが、それは無常だから〈私 の所有物はない〉〈私というものはない〉というんですね。 〈全ての形あるもの形ないものは私でない〉というのは、私 というものが何かあるかの如くに考えますけれども、実をい うと、これが私ですと、指さすものはどこにもないんです。 身近に言いますと「自分の身体のことを考えましても、自分 の身体というものが私、或いは私のものなんですか」という と、これは私のものというものは何にもないわけですね。私 のものというのは、自分の思うようになるものが私のものな んですね。ところが私の思うようになるものは何一つとして ないのです。 たとえば私の耳とか私の眼とか言いますけれども、耳は 遠くなり眼はかすみ、顔も時々刻々変わるんですから、思う ようになってくれません。このように私の顔はこれですと決 めて言いましても、その顔は私のものではないから、もう自 分の意志に反してどんどん変化します。常住不変の固定的な ものなら自分のものといえますが、自分の身体とか、自分の 周りにあるもの、所有しているものを考える時に、金持ちは 貧乏に、建造物は古くなり朽ち果て、健康は病気に、死ぬと きには私も私の所有物もないのです。 小乗仏教では、人生が苦であると見据える。この苦観を補強 するのが無常観です。日常生活で自分や肉親の死に直面した 時、骨の髄までその無常観がしみ込んでいるので嘆き悲しみ 苦しむことはない。そこには日本の情緒的な「もののあはれ」 はない。 --------------------------------------------------- ●諸法無我 諸法無我 自他の別なく生命体なり 色は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみで あるものは無我である。無我であるものはわがものではない 。これはわれではない。サンユッタニカーヤ 不死の法則 無我とは=無自性の生命体=自他不二=不生不死 ●生まれたときは無垢で清浄であった心は、思考による自我 の目覚めによって「我」となって現れる。つまり生存欲を源 とする妄執渇愛を源とする自己中心の執着による仮に構築さ れた心だということです。この妄執の中核を打ち砕けば、仮 構された自己は消滅します。自己が消滅すれば自己中心によ って仮構された現実世界は壊滅し本来の「あるがままの真実 の世界」が現れます。分別化や対象化された世界ではありま せん。自分と世界は素通しになります。現実の世界ではなく 真実の世界となります。天上天下唯我独尊つまり「我有り」 と分別している自我意識が無くなれば、身体の有無を分別す る基準も無くなってしまい、「ありのまま真実世界の存在で ある真実本来の自己」が現成します。 自己は無自性の生命体つまり無我となりますから私という現 実世界での実体はなくなります。そこでは、生きとし生ける もの全てが生命体となり「自他不二・自己と他とは分離でき ない」「不生不死」の世界になります。その真実世界では私 という実体がないのですから当然、私の出生もありません。 つまり魚や虫や細胞には私・自分という自覚はなく、出生や 老死の認識がありません。出生がないから老死もなく不死・ 不生となります。利己心の中核を砕けば、死すべき自己は去 っていきます。自己がいないのですから、死の恐怖は去って いきます。これを無我の理法といいます。人間と動物との決 定的な違いは「我」があるかないかということです。 真実の自己とは何でしょうか。それは自我と執着を取り去ったとき 現われる浄化された自己つまり無我のことです。 無我は自己否定や自己放棄ではなく自己の存在を肯定しています。 人間の内には自己中心の自己と生命体としての無我の自己の二面性 がある。 見よ、飾り立てられた身体を。肉汁が詰まっただけの形体を。 病にかかり、堅固さも安定もない。心があるのみ。ダンマパダ ブッダの考えに従えば、肉体は無我なる要素パーツの集合体である。 つまり肉体は骨と血と肉という無我なる要素からなりたっていて、 その中に我執にとらわれた愚かな心が詰まっていると。 ブッダは肉体には何の価値も置いていなかった。 真実の自己とは ●本当の自分とはなんでしょうか。眼・耳・鼻・舌・身 、それ自体には我はありません。眼・耳・鼻・舌・身は体 の道具です。その我のない道具で成り立っている自分には本 来、我はありません。「私」という我は思い込みです。心に 我とこだわりが生じるとき煩悩となります。心は本来、深い 湖の底のように静かでおだやかです。赤ん坊のように無垢で おおらかで清らかな心境は、生まれながらに備わっている智 恵です。座禅をして、心を清めて我を捨て、こだわりを放し 宇宙と一体になるとき、本当の自分にめぐり合うのです。今 ここに生きている自分が、大宇宙に生かされている生命体そ のものであり、他の生命体と共に生きて繋がり成り立ってい る生命体であるという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の 働きがあるのです。そこには自分と他人という区別はもうあ りません。自他不二。 私は生きようとする命に囲まれた生きようとする命です シュバイツアー 例えば自分が歌声を聴いて美しいと感じて言ったのに他人が 美しくないと感じて言うと、自分の感覚を否定されてバカに されたと思い腹が立つのです。人間は自分の意見に相手が逆 らうと気分が悪くなります。それが「我」です。そこに「私 が」という自我という錯覚があるからです。自我という錯覚 にしがみついている人は、自己中心の自分の殻に閉じこもっ て、主観の生み出した仮想妄想の虚妄世界に死ぬまで振り回 されてしまうのです。 「好き、嫌い、面白くない無関心」の三種類 貪トン貪欲、瞋ジン怒りの三毒つまり苦のため思うようにな らないから怒る、癡チが無明である縁起生滅の法を知らない ため、自分だけは違うと考える。 縁起生滅の法を深く体得し、貪りと怒りを絶てば、浄化さ れた無我という真実の世界が実現する。「我」には虚妄な現 実世界にとどまったままで、外の情報をありのままに認識す ることがありません。ありのままに認識したとき、無我とい う真実の世界があらわれます。 ●五蘊というのは身体を5つに分類し、そこに「我」は無い という。色・受・想・行・識の5種類を指します。 色 肉体 受 感受作用。五感が刺激を受けて感知する 想 表象作用。単なる知識で思考妄想する 行 意志作用。何かを実行するという意志 識 判断作用。対象を認識し、識別し判断する 例えば町を歩いていて「美しいお姉さん」がいました。一目 であなたは「ドキッ」とします。そして「綺麗な人だなぁ〜 、声をかけたい、お話をして、誘いたい、一緒に遊びに行き たい」と想いをめぐらす。いつの間にかあなたはそのお姉さ んの後ろを「ついて行く」ことに・・・。その結果、あなた はとんでもないしっぺ返しを受けてしまいます。 「色」お姉さん 「受」ドキッ 「想」綺麗な人だなぁ〜 声 をかけたい「行」ついて行く「識」綺麗なバラには棘がある ●自分自身を知る--自己 ●法句経ダンマパダに学ぶ 「わたしには妻子がある。わたしには財があると思って、愚 かな人はいろいろ悩む。しかし、すでに自己が自分のもので はない。まして妻子や財がどうして自分のものであろうか。」 自分は非常な財産を持っている。けれど、その財産といって も、これは考えてみれば本当の自分のものではないわけです ね。いつかは自分から離れる。それから愛する家族が周りに いるけれども、死ぬ時は独りでしょう。そうするとそれも私 のものとは言えない。あるいは社会的な名誉であるとか地位 とか、いろいろありますけれども、それも本当の意味の私の ものではない。 ところで、ブッダは「自己は存在せず」と、自己そのものを 否定しておりません。ブッダが否定するのは「自己の所有で あり」、「自己には常住不変の実体があると考えること」、 「自己には本質があると考えること」です。 常住不変の実体がない色受想行識(肉体・感受・表象・形成 ・識別)の五要素が集まって自己存在を形成するわけで、自 己とは仮構築されたものだから実体はありません。それでは 本当の自己はどこにあるのかということですね。 人間の内には、煩悩によって仮構築された我である自己と、 清浄化された自己つまり無我とがあると考えてもよいでしょ う。これはもともと一つあるだけなのですが、もし仮構築さ れた自己を砕けば、同時に無我は実現するわけです。だから 真の自己である無我は今の浅はかな自己の主であると説いて おります。 --------------------------------------------------- ●自分自身の正体とは一体何でしょうか。それは私の身体、私とい う名前、私の名声、権力、家庭、友人、自分の持ち物や家や土地、 銀行預金、株券債券、仕事上の地位、自分の恋人、自分の達成した ものや知識など「我執」と呼ぶものです。これらはすべて「自分に とって重要なもの」の中味であり、「私という記憶」にすぎません。 そして自分にとって重要でないものは見えていない、というか見な いのです。つまり、自分にとって何も重要なものはない人は何も見 ていないのです。ところが、すべてのものが同じように重要だとし たら、すべてのものが見えるわけです。例えば母とボールペンでは どちらも同じように重要になるし、わが子と他人の子でも同じです。 この時、意識の変革が現れます。これを無我といいます。このこと をブッダは人に伝えるために説いたのが十二縁起です。これを知ら ない人を無明といいます。 ●「私あり」という自己中心の我エゴ利己心を捨てて、より 普遍的で客観的な「生命が」と考えればいかがでしょうか? 「生命が」と考えれば、これもあれもすべて生命です。そこ に自分と他者の区別はなく、対立は生じません。だから、心 安らかに生きたいのであれば、「私」という単語で考えずに 一個の「無自性の生命体」の立場で考えればよいのです。こ の生命体は無我であり、自分のものではありません。 そこで突然、自分の周りに無数の生命が出現するのです。そ のすべてが自分に協力してくれて、成り立たせてくれる生命 です。生命のネットワークが出来上がってしまうのです。「 無数の生命の中で、自分という一つの生命が、他からやさし くされたいと思っている」のです。生かされているのではな くて、成り立っているのです。生かされているというのは、 神の奴隷のようですが、一切の生命は対等なのです。本当の やさしさは、我エゴのない「生命」という次元なので、必要 以上を求めません。「欲しい」というところまではいかない のです。一つの「生命体」の立場で、他の一つの生命体との 関係を見ると、相手から何を要求されているか見えてきます 。お互いの生命を大切にすること。これが慈悲という本当の やさしさです。本当のやさしさは自然のネットワークの中で 、我エゴがない状態でいて、すべての生命とつながりの関係 を持っていて、生命を成り立たせてくれているそのつながり こそ縁起というとても大切でありがたい存在です。自他不二 ●無我を実現した時、そこにはもはや不満や焦り、怒りや憎 しみ、虚無感や劣等感、嫉妬心や孤独感はありません。穏や かで安らかな心境となります。 ●ブッダの場合、はっきりと「私の自我欲望なんだ」と意識 しているところに、ブッダの偉さがあるわけです。私どもも 社会に生きておりまして、何か言おうとする時や行動しよう とする時に、そこに自分の自我エゴや執着というものの有無 を意識し、それに対決していくところに、より進歩した生き 方ができるのです。 ●御飯を食べたり生きたり、自我欲望を振り回している自分 という存在を否定しているのではないのです。主体としての 私というものは常に現としてあるわけです。ところが私とい うものがここに存在していながら、その私が本当の自分では ないということです。本当の自分は無我だということです。 この「無我」は文字通り「自分が存在しない」ということで はない。今ここに存在している現実世界の自分は何かという と、我エゴ欲と執着で生きている無明という虚妄の自己です 。それは自己中心の仮構築された自分であって、無我という 「ありのままの真実世界の自分ではない」ということです。 「無我」という言葉よりも、「我に非ず」という「非我」と いう言葉をあてた方がいいですね。そして、無我のときに「 真の自己」真我という無自性の生命体が実現するのです。 ●仏教では「無我」を説くとして、世間一般に理解されてい ます。本当の趣旨は、「我執をなくする」ということですね。 我々は、日常の生活を見ましても、始終自分の欲望とか利益 とか、そういうことにとらわれて行動する場合が非常に多い ですね。それは我執つまり煩悩にとらわれているからです。 仏教では、それに支配されないで本当の自己を実現すべきで あるということを、説いているわけです。 自己を愛する ●この「真の自己」は、護るべき自己であり愛すべき自己で あり、同時に他人を護ることでもある自己です。もはや互い に相対立して相争うような自己ではない。自我と他我との観 念を無にしたとき、自己の利が実現し同時に他人の利と合致 する。例えば、怒らない人は自己と他人の利を行うのです。 ここから慈悲の理想が出てくる。したがって善を行うことが 、実は自己を愛することにほかならない。その立場に立つな らば、自己を害し傷つけ滅することは悪なのです。 慈悲の実践 ●耐え忍ぶこと忍辱は、布施と並んで慈悲行の両翼といえま す。 ●「我がものという観念を捨てて、心を統一し、あわれみに 専念する」ディーガ・ニカーヤ わがものという我執を離れると、自然と利己心が減少します ので、気持ちの上で他者と相通じる感情の交流が成立します 。そこからさまざまな人間の美質が湧いてくるのです。その 最も純粋なものが慈悲ということです。 ●まず生きとし生けるものに対する慈しみの心とは、みだり に殺生しないということになります。 むやみに暴力を振る わないということです。ブッダの弟子だちは「足ることを知 り、生活を簡素にして、もろもろの五官を静め、心を平静し て、聡明で、高ぶることなく」して慈しみの心を習得してい ったのです。 ●私共は簡単に「慈悲」とこう言葉を使いますけれども「慈 」というのは「慈しみ」と読みますが、これは〈相 手の身になって喜びを与える。安心を与える〉という意味な んですね。それから 「慈悲」の「悲」というのは「悲しみ」 と書きますけれども、これは「哀れみ」という言葉で、元々 の意味は「相手の苦しみの呻うめき」〈呻きを感じ取って、 その人の苦しみを取ってあげるという、そういう心持ち〉を 言うんです。従いまして、「慈悲」というのは、〈喜びを与 え、そして同時に相手から苦しみ、悩みを取り除いてあげる 〉という、二つの言葉の合成語なんですね。これを「利他行 」と言いまして、「人の為になることを率先してやりなさい 」と言いますけれども「何故人の為にするのか」という疑問 が出てくるんです。ブッダはこういうふうに言われた。 ●ブッダは「誰でも自分自身を一番可愛いと思っている。み んな自分を一番可愛いんだと思っているように、周りの人達 も自分自身を一番可愛いいと思っている。だからそこから 人のことを考えて、そしてその人の気持ちを読みとって、そ こから慈悲心を起こすのだよ」と説く。 「自分を一番可愛いと思う心があったら、先ず自分の心口意 の三業「身体」「言葉」「心遣い」を慎み、そういう心で行 いをしなさい」「自分を守るものは自分が守られる」、「自 分を正しく律する人は、他の自分である相手の人(自他一如) を守ることにもなる」と説かれた。 たとえば、「交通ルールを守る人が守られる」という。「あ の人が守っていないんだから、私も破ったっていい」と言っ て違反をやっていたら、渋滞を起こし、事故は多発するわけ ですね。人が守っていないけれども自分は守るという気持ち を、みんなが持てば、自ずからにして、それはお互いを守る ことになり、自分を守るということになります。ですから 「律する」ということ、例えば〈親が子供に躾をする場合も 、親が言ったら親自身が律していなければいけない〉んで すね。 ●何人にとっても自己よりもさらに愛しきものはどこにも存 在しない。同様に他の人々にもそれぞれ自己は愛しい。故に 自己を愛するものは他人を害してはならない。例えば殺人が 悪であるという理由を考えてみると、全ての人々は生を愛し 、死を恐れ、安楽を欲しているから、自己に思い比べて他人 を殺してはならぬ。また殺させてはならぬのである。したが って自己を愛する人は、実は他人を愛する人なのである。 「かれらもわたしと同様であり、わたしもかれらと同様である」と 思って、生きものを殺してはならぬ。『スッタニパータ』 --------------------------------------------------- 無我を実現するにはどうすればよいか ●答えはいうまでもなく自己浄化の道であり自己コントロー ルの道です。自己を妄執から守るには、自己をつつしんで清 浄行を実践し続ける日常の修行が必要です。 人々は見たり、聞いたり、識別したり、知識や情報を得たり して快感を得ます。それを価値あるものとしています。そし て快感を増大させて価値を拡大します。しかしブッダはそう した快感は、貪むさぼりを起こさしめ、欲望を増大して執着 するから、それらを除去せよと教えています。眼耳舌身意の 快楽についてブッダは「眼を縁として快楽と喜悦が起こるこ と、これが眼の耽溺であり患いであり妄執である」と。五官 そのものをブッダは否定していませんが、五官から生じる執 着を排除しているのです。 人間の内には、排除されるべき妄執と煩悩に仮構築された自 己と、浄化された無我という守り育てられるべき無垢な自己 とがあります。本来は無垢な真実の自己があるのみでした。 仮構築された自己を砕けば、同時に無我は実現するのです。 ●ある修行の積んだお坊さんが病気になります。比丘たちが お見舞いに行く。そうしますと、修行者が「あなたは病気に なって苦しんでいますか。痛いですか?」「痛い、苦しい」 。「だって無我じゃありませんか。我がないんですから、痛 いとか、苦しいということを感じる方がおかしいんじゃあり ませんか」と言いますと、「それは違うよ」と言うんですね 。そうじゃなくて、例えば花に匂いがあります。で、花の匂 いはどこにあるか、というと、求めようがないんですね。花 弁とか、蕊(しべ)とか、いろんなものの集まったものの中に 、匂いというものは現としてあるわけですよね。つまり自分 という一つの論理主体はあるわけですね。その私というもの が、五官のひとつの鼻の匂いが自我意識の欲望を振り回すと 言うわけですね。その自我意識の欲望をしかるべき形で制御 していく。つまり無我に自分をならしていく。日常の生活で 無我に徹するということは、そういう無いものをねだる自我 意識の欲望を制御コントロールすることなんですね。 たとえ無我であっても肉体的苦痛を生じさせる因と縁は止ま ないのだから、肉体的苦痛を感受する。しかし心的苦痛はそ れを生じさせる因と縁とが止むことによって、心的苦痛を感 受しないのです。 --------------------------------------------------- 恩恵 私どもは「私は誰にも、迷惑かけていませんよ」というよう な言い方をします。そして、つい自惚れてしまうわけです。 本当の意味で自分の自己を知る、あるいは自己を求めていく と、むしろ自分が非常に多くのものの関わりの中で成り立っ ている、ということをまず認識しておかないといけないわけ ですね。「私は誰にも借金していませんよ」「他人には迷惑 を掛けていません」と言っても、その人がそこまで到達する までには、無数の多くの人の恩恵を受けてきているわけです 。それは、その方が自覚しておられる恩恵もあるでしょうけ ど、目に見えないところで受けている恩恵もあるわけですね 。そう思えば、それに対する感謝の気持ちが独りでに出てく るんじゃないですか。そもそも自己というものが今ここに存 在するのは、無数に目に見えない過去からの恩恵が集約して 、生きているわけですから。そこまで思いを馳せることによ って本当の生き方ができると思いますね。 よくいろいろな正しい生き方が説かれていますが、ややもす ると、慈悲だとか、愛だとか、言葉だけ抽象的な観念で終わ って、自分の生活に戻ってこない。それだと、汝自身を知れ 、ということにはならない。やはり、自己を知る一番大切な ことは、自分で「徳を積むという実践」をしていくというこ とでしょうね。 -------------------------------------------------- 「三つのおごり」増支部経典マッジマニカーヤ 「若さのおごり」年老いた人を見ると、〈あんまり奇麗じゃ ないな〉〈なんか哀れなもんだなあ〉〈ああ、嫌だな〉と思 うわけですね。普通の人の場合には、それで終わってしまう わけなんですけれども、ブッダは〈自分もまたああなるんだ なあ〉と思った途端、そこに「おごり」というものが潜んで いると、そうみたわけですね。つまり、自分は「マダ」優れ ていると思うわけです。 例えば美人であるとか、自分には財産があるとか、あるいは 地位や権力があると思うのと同じように、「自分はまだ若い 」と思い、その「マダ」というのが「おごり」だというんで す。人間存在の奥にある「おごり」の潜在意識なんですね。 「健康のおごり」世の中で活動している方は、どなたでも一 応健康なわけですね。私ども日常の会話の中で、「歳をとる のは嫌ですね」とか、「病気になるのは嫌ですね」なんてい うんですけれども、実はそれほど悩んでいないんですね、他 人事みたいに。だから健康の有り難さということもあまり感 じないわけです。おごっているから、そういう気持にならな いわけです。いろいろの条件が整っているからこそ健康なん ですね。しかし、いつかは年取ればまた健康を失って老いる という運命が待っているわけですね。それならば、普段から 健康の有り難さというものを身に自覚をしていくことですね。 「生存のおごり」人が死ぬのを見ると、「あ、嫌だなあ」と 思いますね。それを見ている自分はまだ生きているものです から、だから自分は死とは別のものみたいに思う。しかし実 は人間の生というもの、生きているということは死に裏付け されているわけです。いわば生きているという一つの事実の 表と裏みたいなものですね。裏側をみようとしない。 生きているということ自体が、いろいろの条件、因縁によっ て可能となっているんですから、これは有り難いことですね。 それを「俺が生きているのは当たり前のことだ」と、もうそ こでおごってしまうんです。 ●「私が」と、「私のものが」という二つのものを常に私た ちは主張しているんですね。ですから「私の若さだ」と、「 私の命だ」と握り締めてしまう。ところが何ぞはからん、老 ・病・死の無常なる世の中でありますから、みんなそれが崩 れていってしまう。そのギャップが大変私どもに悩みの種に なってくるんですね。無理にこだわりしがみつくような立場 をとっていますと、苦しくて柔軟な心で生きていけないわけ です。 例えば車の運転も同じだと思うんですね。いろいろしてはい けない規則がいっぱいあるわけでしょう。けれど、それを身 に付けている人は悠々とドライブして、自分がドライブして いることをわざわざ意識しなくても、決して規則に反したこ とはしないわけですね。世の中に生きていくのも同じで、自 我や欲望というものを、抑制あるいは止滅させていくことに よって、ブッダの善を求めた生活、つまり涅槃という安らか な心が実現される、ということになりましょうね。 善を求めて ●「大般涅槃経」でブッダは「善なるもの」を求めて出家し たというのですね。ブッダは八十歳になる自分の一生を振り 返りながら、「私は二十九歳で善を求めて出家した。そして 正理と法の道のみを歩んで来たんだ」と。こうして自分の存 在の内部を見つめていって、バランスのとれた生き方つまり 「中道」というものを悟った。具体的には「八正道」です。 法を守り、怒り、むさぼりという妄執を捨てることです。「 三つのおごり」も自我と欲望が原因だ、ということはわかっ ているけれども、なんかその奥にある善きものに到達しなか った、と。その善なるものが「涅槃」なんですね。 「心が平静で、所有なく、執着して取ることがないこと。こ れが最後の拠りどころにほかならない」。 --------------------------------------------------- ●ブッダも昔は凡夫だった---修行 修行とは〈してはならないこと、しなければならないことを 反復して、自分の身体に植え付けるようにしていく〉ことで す。それは鏡を磨くようなことです。つまり、曇った鏡に自 分の顔を映しますと、そこには自分の本当の顔が現れません 。黒子(ほくろ)があるとか歪んだ顔に見えたりします。け れども、その鏡に積もった塵を拭い取ると、そこにパッと本 来の鏡の明るさが戻って、歪んだ顔だとか、黒子があると思 ったのは、実は塵の影響だったということが分かります。自 分の顔が、「ああ、これが自分の顔だった」と本来の形を映 し出す。 同じように、先程あった貪りを取り除くことによって、物へ の愛着執着が無くなります。「妄執を捨てなさい」捨てるこ とが大事であると。修行して悟りである無我を得、貪りを捨 てて、物ごとへの妄執・執着を離れたら、自分の本来ありの ままの姿・真実の自己が見えると教えているのです。 --------------------------------------------------- ●キリスト教 「神という虚構」 「人間が思考によってつくりだしたものは全て虚構である。 宗教そのものや神(とか天国とか天罰とか呪いとか)というものは 人間の頭脳がつくりだした思考の産物であり、人工構成概念である。 キリストは神という言葉を口に出さなかった。ブッダもまた神や如来・ 菩薩・極楽・来世などというものは一言も口にしていない。 不可知論 は神の存在を知るとか証明するというのは不可能であるという見解です。 後世の聖職者が体制の手先となり、既得権益のために、神を作ったので す。 聖書も仏典も神仏は信仰によって受け入れなければならないとし ています。そして架空の神を至上の高みまでまつりあげ、人間を最も低 い位置にまでおとしめた。神という仮説を利用して、自分たち聖職者を 神に近い存在とし、最高の頂にまで持ち上げたのである。 既得権益をもつ聖職者たちは神がいないことを完璧に知っていたし、統 治者や金持ちをはじめ既得権益をもつ者たちも神の王国が存在しないこ とを理解していた。「貧しい者は幸いなり」と彼らは言って、信者たち の生き血を吸っていた。そして彼らは可能な限りのこの世の快楽を享受 していた。人間を奴隷のままにとどめておくために神という虚構を容認 したのだ。 この虚構世界の仕組みを知っているほんの一握りの賢い人つまり無神論 者はこの宗教界という巨大な既得権益機構が権力と虚構の世界を信じる 社会一般である世間から敵にされないよう振る舞っていた。 大審問官の問題。 ある聖人が弟子から「極楽はあるのか」と尋ねられた時、次のように答 えた。「ないと思っている人は、死ぬときは無限の闇の中に落ちる。あ ると信じれば安心の極楽往生ができる」と。 ●キリスト教とブッダの違い ヨーロッパ人には仏教は「経済倫理をもたない厭世的な人生否定の 哲学で非実社会的」としか見えなかった。西洋文明の根幹は欲望肯 定のため、仏教に対して溌剌とした力を見出せなかった。仏教は悟 りの宗教、キリスト教は救いの宗教。 イスラム教とかキリスト教は天国を信じて神を信仰します。修行し ている人もいっぱいおられます。しかし、どんなに信仰しても修行 しても、神様になることは出来ません。ところが釈迦は〈誰でもブ ッダに成れる〉〈絶対の安らぎを得た清浄な人間であるブッダにな ることが出来る〉と説いておられるんですね。 キリスト教は「我有り」ですから、肉体は滅びても霊魂は不滅であ ると信じているので、死の恐怖は解決済みです。日本仏教でも極楽 へ行くと信じている人も同じです。しかし、死ねば終りと思ってい る人には死の恐怖があります。ブッダは「我無し」ですから、死す べき自分は消滅します。 イエスは最初から救世主として登場しましたが、ブッダはもともと 自分自身の苦しみを解決するために修行を始めたのでした。梵天勧 請で頼まれて伝道を決意しました。それも、外の力に頼らず自分の 力で人生の苦しみを切り開く点が特徴です。キリスト教では信者に なることはあっても修行するということはありません。 ●全ての宗教はその教義や説いている点において、オーム真 理教や過激なイスラム原理主義でさえなるほどと合点がいく。 問題は実践・実行である。他者を傷つけるような反社会的な 面があったり、生命や財産を含めて絶対服従させたりするこ とです。 ●仏になる可能性 では「どうすれば我々はそのブッダに、仏になれるのか」と いうことが、問題でございますけれども、簡単に言いますと 〈煩悩を払い除けさえすれば、仏になれるわけです。 しかし〈貪り怒り奢りという煩悩を取り除きさえすればなれ る〉と言っても煩悩は時々刻々に起こって来ますから、それ を起こらないように努力しなければいけない。それは〈起こ らないようにする習慣が身に付かなければいけない〉わけで すね。その修行する為には、必ず〈あなたはブッダになれる んですよという証拠がなくちゃいけない。「あるんでしょう か」と、こう訊かれた時に、お釈迦様は、「ある」と言った んですね。なれた人がいたわけです。つまり、お釈迦さんが 模範を示したんです。お釈迦様は「自分と同じようにブッダ になった人達が過去に六人居ます。みなブッダになる可能性 を持っている」「但し、修行しなければいけない。悪いこと をしない、善いことをしていく、心を清浄にしていく修行に よってでなければ、ブッダになることは出来ない」と言うん です。それが条件なんです。その場合に、大事なことは我執 をもつ自分の内面つまり心をみつめることと、人生は無常で あり苦であるということを観察し、それを八正道に則って克 服するということを理解して頂ければいいかと思います。 --------------------------------------------------- 政治への誘惑 ●この現実世界はあまりにも悲惨で理不尽で酷すぎます。ブ ッダの心の中に、自分が統治すれば、こんな悲惨なことはあ るまいとの想いが去来していました。この想いが聖者への道 に転がっている政治への誘惑という大きな障害物です。しか し政治の道は、汚濁の道でもあります。清浄行とは平行線で す。ブッダは決然として自らの道を歩んでいきます。 --------------------------------------------------- 慈悲喜捨の四無量心 「慈」他人に喜びを与える心。他人の幸福を願う心情。 愛情深い慈しみの心。 「悲」 他人の悲しみや苦しみを感じる心。共感する心 。その不幸を抜き取ってあげる。聞くことでも一助になる。 「喜」他人の喜びを自分の喜びとする心。他人の有徳の行為 を喜ぶ。妬まない心。何事も感謝し怒らない。 「捨」 我エゴを捨て去ると一切の生命を平等な気持ちで見ることが できます。自他の区別のない世界です。苦しんでいる生命や 喜んでいる生命などすべてを平等に観て「それぞれ自分の生 き方で頑張っているのだ」という平等な心をさす。我を捨て 去った後の、平等の悟り。 他人と自分とは生命の本質は同じです。だが、同一ではない ので環境や育ち、立場、価値観、考え方など違いがあること を認識し、比較・差別・区別など分け隔てしない平等な心。 ●優しさとは 「私あり」という我エゴを捨てて、より普遍的で客観的な「 生命が」と考えればいかがでしょうか? 「生命が」と考え れば、これもあれもすべて生命です。そこに自と他の区別は なく、対立は生じません。だから、心安らかに生きたいので あれば、「私」という単語を使わずに一個の生命体の立場で 考えればよいのです。 そこで突然、自分の周りに無数の生命が出現するのです。そ のすべてが自分に協力してくれて、成り立たせてくれる生命 です。生命のネットワークが出来上がってしまうのです。 「無数の生命の中で、自分という一つの生命が、他からやさ しくされたいと思っている」のです。生かされているのでは なくて、成り立っているのです。生かされているというのは 、神の奴隷のようですが、一切の生命は平等なのです。 本当のやさしさは、我エゴのない「生命」という次元なので 、必要以上を求めません。「欲しい」というところまではい かないのです。一つの生命の立場で、他の一つの生命との関 係を見ると、相手から何を要求されているか見えてきます。 お互いの生命を大切にすること。これが慈悲です。本当のや さしさです。 本当のやさしさの慈悲は自然のネットワークの中で、我エゴ がない状態でいて、すべての生命とつながりの関係を持って いて、生命を成り立たせてくれています。」 天上天下唯我独尊 釈迦が誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の手で天を、一方の手 で地を指して唱えたという『長阿含経』の話に基づく。 「我」は釈迦本人の意味ではなく、個々人であるとする。それぞれの 存在が尊いものであるということ。みんなそれぞれにお互い自分という のは、かけがえのない尊い存在であり、かけがえのない尊い生命を持っ ている生命体であるということです。 --------------------------------------------------- ●ブッダは「俺は悟りを開いたんだ。後は何をしなくてもい いんだ」というような生き方はされなかったわけなんですね 。生きている人は始終いろいろな問題にぶつかるわけですよ 。本当の道という立場からみれば、どうすべきかということ を常に考え、道を求める。その度に自分で解決し、また人に も教えを説かれたわけです。だから場合によって、また相 手によって教えが多少違うわけですね。だから八万四千の法 門があると言われるわけなんですが、根本は一つなんです。 「実践」、そこにポイントがある、とみてよろしいと思うん です。本当の仏道の実践ということは、自分の苦しみを除く とともに、他の人々の災い、苦しみを除くことである、と。 こういう話があるんです。ブッダが長くおられた祇園精舎に は修行僧たちが大勢住んでいたわけですが、その中に一人重 病のお坊さんがいた。病んでいますし身体が動かせないもの ですから、身の回りも汚くなっていたわけですね。あまりに 汚いので他の人が面倒を見てくれなかった。ところがブッダ はその病人の修行者のところへ行って、積極的に身の回りを 奇麗にしてやって、洗濯もして看病された、という話が仏典 に出ているんです。 皆さんは、出家したのですから、一つにまとまること、同じ 水や乳を飲んでいるという気持ちで、お互いに看病し 合ってください。他の人の病を看(み)ることは自分自身を看 ることにほかならないのです。『雑一阿含経』四十 ●結局、ブッダの教えは我執を離れ、精神を統一し、慈悲心 を抱いて、修行すれば解脱にいたるというものです。 幸福とは心が穏やかで悩みや苦しみや考え事のない状態です。 それは死んでいるのと同じです。 生きたまま死んでいるとは我執や我欲を離れている状態です。 一度、我執や我欲や自己中心の思考から離れてみましょう。 そのときあなたの精神に劇的な変化が起こります。解脱悟り。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 大乗仏教の考え方 大乗はブッダの教えではない ●ブッダの死後500年の後、現実の人間存在のあり方に限 りなく妥協し、修行を簡単にした大乗仏教が現れました。そ れが中国へ渡り、さらに500年の歳月をかけ、老荘思想の 影響を受け変質し、伝わってきたものが、日本の仏教です。 ●大乗仏教の法華経に説かれる「三車火宅の譬え」で、「声 聞」の学問で勉強する、「縁覚」の経験を積む、「菩薩」の 信じる、という三車の内、「菩薩」が一番早く「大白牛車」 という解脱・悟り・涅槃の境地へ達することが出来るとした 特に日本の大乗仏教は「極楽を信じる」ことが重要となる。 小乗の修行第一ではなく、信心第一となる。 願わくば此の功徳をもって普(あまね)く一切に及(およぼ)し 我等と衆生と皆共に仏道を成(じょう)ぜんことを『法華経』 --------------------------------------------------- ●空 大乗仏教の基本です。 般若心経(ヨーロッパでは偽経とされている)「色即是空 空即是 色」・法華経や華厳経も偽経 ●中道 大乗仏教の基本です。小乗では八正道となる。 大乗では「ほどほど」とか「まん中」という意味です。 大乗では苦行の無用なることを付け人の五人 に説得するため中道から始めたと考える。「二つの対立した 極端にとらわれるな。」という教えですね。肝心要めのとこ ろにピタッと当たるということが中道の精神なんです。 仏性 大乗経典の基本です。小乗には無い。 ●ブッダの時代「原始涅槃経」では世界にあるものに不滅の ものはなく、すべて滅するという。私のものである仏性はな いとされている。 ところが、後年に創作された「大般涅槃経」では「不滅の仏 性」があるという。山川草木有仏性。 ●さらに「大般涅槃経」では、女性は五障のためいくら修行 してもブッダにはなれないとした。しかし、ブッダは男性と 平等に修行できる機会を女性に与えたし、最古の小乗経典「 スッタニパータ」や「ダンマパダ」には五障の記載はまった くありません。 ●他力 仏を信じて全て任せきるのが大乗仏教。 --ブッダとは全く異なる考え方。 --------------------------------------------------- ●大乗仏教の一つ華厳経に「三界は虚妄にして、唯、是れ心 の作なり」というのがあります。この世の中の全てはみんな 偽りである。それはみんな〈心の現れ〉〈全て心の働きによ って出て来る〉といってます。唯識論。--ブッダは無我と修行 例えばデパートでキチッとした格好で行くのと、ボロ着を 着て行った場合では、ダイヤモンドの売るところでの応対が 違うというのは人間の見方です。つまり、それはボロ着を着 ている人は貧乏だというふうに見てしまう。スーツを着てい る人はいい、あの人はいい。私たちは、そういう外見だけで 人を判断するアーラヤ識を持っている。だから、そういう驕 りの汚れた心で人を見ないように、善智識からさまざまなこ とを聞いて良い心を身に付け習い性になることが大切です。 煎じ詰めれば、本来この世のことは何もかも美しい。 美しくないのは、生きることの崇高な目的や生命の尊厳を知らない 私たちの考え方・価値観や行動が原因である。チエーホフ 特に社会は複雑で不条理・理不尽だ。役人・官僚・既得権益者・暴力者 ・悪人などによって。 ●中村元「東洋の心を語る」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー これが大乗です 〈煩悩と共に生きる〉大乗経典の基本。小乗は煩悩を捨てる。 ●「煩悩」というものは、最初からあるものではないんです 。〈人間が生き様の中で感覚をしている中で出てくるもの〉 。機械でも動いていると垢が出てきます。 「恩愛の煩悩」というのは、親子の繋がりとか、兄弟とか、 夫婦とかという〈我々の身近にある者の人間の間における繋 がり〉で起こる煩悩です。 「欲界の煩悩」というのは、欲に満ちているこの世間におけ る人々を破滅に流し去る洪水のようなもの。 ●「煩悩即菩提」という言葉があります。煩悩即それが菩提 。菩提ということは解脱、悟りです。〈不浄な身体であるけ れども、これは捨ててしまっては解脱も悟りもあり得ない〉 この身体を土台にしなければいけない。 当たらんが良い触らんが良いのは清らかですが、触れば濁 る谷川の水というように、世の中のどろどろした中に首を突 っ込んで泥まみれになって、しかも尚修行の心を持ち続ける のが本物。自分だけ清ければそれで良いと言うのは間違 っている、と考えるのが大乗です。しかしこれは一方で、妻 帯し恩愛の情のため、欲と執着の泥田圃に首まで浸かって抜 き差しも成らず堕落し、汚濁のこの世を泥亀のように這いず り回って、一生浮かぶ瀬も無しという現実がある。 ブッダはみんなに「煩悩も大事だよ」とはおっしゃらなかっ た。それよりも煩悩を無くすということを一般の人達に説く ことを先決にして説法された。 ですけど、後世の者達はブッダのように生きることはなかな か出来ないので、やはり我々はもう少し煩悩を見直そうとい うことで、煩悩に対する考え方を改めて、煩悩を今度は〈生 かしていく〉煩悩即菩提つまり煩悩と共に生きる方法をとっ たわけです。これが大乗です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー セックス 小乗仏教では厳しく禁じている 大乗側では容認 ●セックスを認めている北伝(インド→中国→日本)の大乗仏 教は戒律の厳しい南伝(インド→スリランカ→タイ)小乗仏教 の百年後に成立しました。私どもが小乗仏教国(上座部)のス リランカや東南アジアを旅するとき、大乗仏教をバカにして いることがわかります。僧が妻帯していると聞いただけで、 それはブッダの開いた仏教ではないと言う。ブッダは明確に セックスを禁じていますから、それは正しいのです。 日本の仏教は宗派の祖師の教えによって創作された祖師仏教 です。ブッダの教えは葬式仏教とあだ名されるような下劣な ものではありません。 ●小乗仏教の「梵行」というのは〈綺麗な行い、正常な行い 〉、これは〈セックスを断つこと・不淫〉を指します。 ●「五欲」には、「食欲」「性欲」「睡眠欲」、「地位欲」 「名誉欲」と有りますが、その中で最も〈人間を迷わすもの がセックスである〉ということで、その性欲というものを断 つということで仏教の修行を中心に考えているんですから、 妻帯なんてとんでもないことでして、断固セックスを断たな ければなりません。妻子への恩愛の情が煩悩を生む。煩悩の 源である男女の性愛関係を断って、清らかな生き方をすると いうことが強調されている。 ●遊女アンバパーリがブッダと弟子たちを招待したとき、そ の美貌に激しく動揺する弟子たちに対してブッダは「皆のも の、わが身を観察しなさい。身体には鼻汁・粘液・汗・垢・ 脂肪・血・目やに・耳垢・痰・便など不浄がある。美貌を誇 る女性も人間の身体は本質的に不浄である。あそこに置かれ ている死体も、この生きた身体のごとくであった」と示しま した。 ●大乗仏教では、煩悩即菩提と煩悩も大事であると言う。煩 悩の最たるものは、このセックスですが、大乗仏教の仏典で は、ブッダも人間ですから、両親の交合によってから生まれ たのである。そうしますと、これはセックスを認めている。 つまり「ブッダでさえ、セックスの元から生まれてきたもの である」ということで、ブッダの教えとは異なるが、「人間 の子孫を残し、仏法を伝えていくブッダを生み出す元でもあ る」というふうに解釈して、決してこれも「捨て去ってはい けないものなんだ」と大乗では説くわけです。 但しそれを「快楽として、追い求めてはならない」と説いた んです。ですから、『華厳経』という中に、そのように説か れてあります。つまりセックスというものを遊び、快楽、そ ういうものに、頭をおいて求めてはならないと。或いは真言 宗の 『理趣経』の中にも、そういうセックスのことが書い てございますけども、これは決して快楽を追求することを教 えたんじゃないんです。 ですから、それをセックスの経典であるとか、興味本位で、 そういうものを取り出して、特に強調して、「仏教はこうい うものだよ」という、そこだけ強調して、仏教を説くことは 、これは断じて戒めなければならないところですね。 小乗仏教ではセックスというものを「快楽の方に利用した」 がゆえに執着するので、忌み嫌うものというふうになったも のなんですね。ですから、大乗仏教ではもう一回見直して、 セックスというのは、決してそういうものではなくて〈悟り への一つの生き方〉である、と。だから仏典の中に、〈セッ クスの行いも、決して醜いものではない。これは綺麗なもの である〉と『理趣経』の中に書いてあるんです。 これは余程仏教のことを理解し、そして修行が積んだ人でな いと、なかなかこの辺のところは、肯定し、それを実践する と言うか、そういうふうに自分を制することは出来ません。 ですから結局、ブッダの言ったように、「最初からセック スを断って、煩悩を削っていく」ようにしないと、到底ブッ ダに近づくことはできませんね。 ●「欲」についても同様で、大乗側の「欲もほどほどなら大 丈夫」という理屈は、人間には成り立たないのです。生活を していくためには必要だからとか、経験をつめば欲の限度が わかるのではないか、というのも疑問ですね。気がついたら もう手遅れという限度にまで人生を破壊している可能性があ ります。 人を殴ってひどい目に遭わせておいて「これぐらい怒ればい いや」と経験を積んでも、司法のお世話になるのが落ちです 。複数の異性を持つのも同様ですね。原発でもよくわかりま した。事故を起こしたら終りなのです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「六波羅蜜」を説いたシャーンティデーヴァ 六波羅蜜 在家は八正道の代わりに六波羅蜜となる。大乗。 1.布施は、分け与え、教えを伝えること。財施・法施など。 2.持戒、正しい習慣を守る。戒律を守ること。 3.忍辱は、何事も耐え忍ぶこと。怒りを捨てること。 4.精進は、何事にも努力すること。 5.禅定は、何事にも心を集中して、心を安定させること。 6.智慧は、物事をありのままに観察すること。思考に依らな い、本源的な智慧を発現させること。道理を理解し救済する 働きを起こすこと。大乗独自 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 十善戒 1 不殺生 いかなる生き物も、故意に殺傷しない。 2 不偸盗 与えられていない物を、故意に我が物としない。 3 不邪淫 不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。 4 不妄語 偽りの言葉を語らない。 5 不綺語 無意味な追従、無益なきれいごとを語らない。 6 不悪口 他者を誹謗・中傷しない。粗暴な言葉を使わない。 7 不両舌 他者を仲違いさせることを言わない。 8 不慳貪 物惜しみせず、飽くことなくモノを欲しがらない。 9 不瞋恚 どんな時であれ、事であれ、怒らない。 10 不邪見 因果律や縁起を否定しない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 三毒 三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・しん・ち)。 三毒は人間の苦しみの根源とされる。 貪=むさぼり(欲深く 物をほしがる、際限なくほしがる)、 瞋=怒り(自己中心的 な心で、怒ること、腹を立てること)、癡=迷妄(物事の道 理であるブッダの教えに暗く、実体のないものを真実のよう に思いこむこと) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●禅宗 禅宗は完全に中国起源の宗教であり、大乗仏教の一 つに分類されながら小乗的な独覚性が顕著である。ブッダに 梵天勧請がなければ独覚者で終えたようなもので、禅問答や 十牛図のように、知的な論理で悟りを得た自我までが無にな るという。常住座臥、造次顛沛の間も自身が無我なることを 問う。座禅をする宗教ですが、荘子の思想が入っている。 人格神としての仏への帰依は希薄である。禅からは慈悲の思 想は導きにくい。また静かな快感を覚える座禅だけで終わり、 八正道の実践や勉強もしないのでは怠惰者と変わりはない。 中国仏教の禅宗はブッダの教えに少しだけ近い、 だが生活実態は世襲、妻帯、飲酒、檀家等ブッダの教えとかけ離れている。 禅の公案も我である区別・分別する心を問うたり、マールンクヤ経 のように、霊魂はあるのかないのか等という観念論や形而上学的な 質問が多い。ブッダは「私はこれらをいずれとも断定しなかったの は、煩悩を消滅する目的にかなわず、清浄行の基礎ともならず、心 の平安のためにもならないからである」と説いています。人間存在 は本来無我なのですから、我アリの考え方から問うたものに答える ことは、相手の形而上学的な土俵に上がってしまうことになります 。つまり仮構築された幻想の世界で論議することになります。禅の 入門者はみな「我アリ」を中心にこの世を見て判断しています。で すからこのような公案を出されるわけです。この我アリという「我 執」をとり去った時、「ありのままの世界」つまり「法界縁起の世 界が現成する」ことになります。 夏目漱石の実体験をもとに書いた「門」で、鎌倉円覚寺で参禅し、 「父母未生以前の本来の面目は如何」という六祖慧能の禅問答で苦 しみ下山した。答えが死ぬまでわからない人がほとんどでしょうが、 漱石でさえ難解だった。この禅問答の答えは「自身の無我」つまり 「本来無一物」を問うているのです。 この世のすべての事物は一瞬一瞬に移り変わっていくものばかりで、 固定化・実体化したものは本来何ひとつない。ところが、縁起とし てあらゆるものがかかわって、事物として存在しています。けれど も本来「空」「無」ですから執着する何ものもなく「本来無一物」 というわけです。 ●生死一如しょうじいちにょ 「生死一如」とは、「生きることは死ぬことである」という ことです。つまり、生と死の間に境界はないという意味。 禅の世界では、「生」と「死」を別のものとして分けて とらえることはしない。今生きているということは今死に つつあるということ。この二つをひっくるめて「生死」 といい、生死の差別を超えることを説いています。つまり、 生があるから死がある。確かに、死が怖いあるいは死にたく ない、というのが人間の本音です。しかし人間は、この世に 生まれてきた以上、必ず死ななければなりません。だから、 死にたくないことにこだわらず、今現在を懸命に生き抜いて 、いざ死を迎えるその時には、死にこだわらない。苦 しい時は、苦しんで死ねばいい。死に方よりも、むしろ死を 迎えるまでの生き方が問題。善なることに一瞬一瞬 をイキイキと情熱を燃やし、死の恐怖が心に入り込める余地 のないほどに、日々を命ある限り精一杯生き、そして死んで いくのがよいとする。いつ死んでも我が人生に悔いなしとい うような身になって始めて、大安心大満足の明るく楽しい人 生を送る事が出来る、というのが『生死一如』ということ。 「生也全機現 死也全機現」 人身うけがたし、死の覚醒こそ生の全充実なり 運命を甘受し、更に運命の主人役たれ 随処に主となれば立つ処皆真なり(臨在録) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ●密教 後期大乗仏教の流れの一つ。密教とは深い理解力の ある者のみに説かれた特別の教えという意味。真言宗や天台 宗。 悟りを求めるために、実践を主体とする聖なる言葉である真 言マントラや陀羅尼などの儀礼と仏の世界を表現したマンダ ラなどが一体となった神秘主義的な修行体系を重視している。 しかしブッダには直伝の秘密教理なんかあったわけはない。 文化人類学者フレーザーは呪術に分類している。歓喜仏つま り聖天様などはブッダの不邪淫戒の教えとは正反対である。 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 「ブッダの教え」おわりに ●今日私たちの文明は欧米の「我有り」の欲望充足を基本と した社会です。西洋流の現代社会は個人主義・自我本位の考 え方に影響され、自己一身の利益・利己・栄達のために隣人 ・他者の福利を一切考慮しない。全ての人が利己的で闘争的 となり社会を害している。 例えば、そのことは資源の無駄遣い、環境破壊、生物の乱獲 、海洋と大気の汚染など人類生存をも脅かしています。利益 のあくなき追求は、人種差別を生み、宗教のエゴイズムと結 びついて、内乱や戦争に発展しています。言語人類学者は「 宗教は言葉のウイルスであり、脳の回路を書き換え、批判力 を鈍らせる」と。 こうした欲望充足への暴走を止めるには、もはや「我エゴあ り」の文明は許されず、「我無し」の価値観へと転換が必要 な時代です。 現代社会はお金をたくさん持つことが、価値ある生き方とさ れている。現実世界は物欲と我執の汚濁渦巻くシャバです。 自己中心で利己的な人間達の酷薄な社会です。現実世界にお いて一番大切なことは所有欲であり、二つには我ありとの我 執です。ブッダの価値観はこれと180度正反対で、それら の真向からの否定でありました。無所有などは世間の常識と はあまりにもかけはなれています。世間の人々がブッダの悟 りを理解し体得するには難解です。しかし苦を滅尽し、死を 超越し、清らかになる道はブッダの悟った「無我」のほかに ありません。 ブッダは我エゴと執着を捨て去り、清浄な心になることが価 値ある生き方だとし、生涯これを実践しました。 ●我有りから我無しへ ブッダの教えの根本は「自分の心の浄化」する清浄行です。 座禅などの修行はこの言葉の実践です。清浄行とは人間存在 に深く巣くっている我欲を浄化することです。そのためには 正しい生き方である八正道や「無我」清浄行が重要な行とな ります。ブッダはこの我執の克服を説き続けました。「我エ ゴあり」の自己から「我無し」の真実の自己への転換です。 ●質問 無我は不可能ではありませんか。 確かに日本では無我(無欲)・自我没却の実践は不可能です。 しかし、今も小乗仏教の国では幾百万の僧が我執の克服を実 践し、生活しています。 ●我々在家庶民はどうすればよいか ブッダには在家と出家という考え方はあった。しかし出家が 山奥に住み俗世間・社会から離れるということではなく、世 間における生活動因でもあった。つまり乞食によって食料を 得、庶民の悩みを癒した。ブッダは修行するにも衣食住の物 質を適度に用いることだとしている。 適度というのは寒いのに衣服を捨て、食物を断ち、病みて薬 を用いないことではない。不必要に多量にカネや貴金属や美 味な食料や華美な衣服や豪邸を求めたりすることではない。 生存欲という欲望も必要最小限度のものを用いることです。 無我というのは生活そのものを否定するものではない。 また無我は慈愛であるから、たけ狂う自我を抑えて整頓する ということです。自己をコントロールし、自己を浄化すると いうことです。社会とは自分も他人も含まれるのであり、 ブッダは自分と他人を分離していない。自己とは他者との関 係・縁があって成立するものであり、本来は自己・我という ものは無い。社会の網の目の一つとしての存在です。 我々庶民が我欲という妄執を捨て去ることは不可能であるな らば、誰もが苦悩の人生を泳がなければならない。そこから 逃避しようと走り回っても、かえって新たな苦悩が増すばか りで依然として元の苦悩は存在する。苦悩の人生から離れる には、言い換えれば少しでも無我無欲に近づくためには、ブ ッダの説く八正道を実践するしかない。完璧には実践できな くとも、一つや二つはできる。八正道は清らかな身口意にな ることだから、清浄な体・清浄な言葉・清浄な心を目指すこ ととなる。つまり日常生活の中で正しい倫理道徳生活をする ことが修行となる。正しさというのは清らかさであり、それ が私たちの最後の安住の地です。 ブッダは正午の食事のあと、林中で座禅静観し、一切の人々 に善き縁あれと慈念された。この静穏で平和な心が社会福利 への思念でもあった。もとよりこれだけで満足したのではな く人々の悩み苦しみを解き放つため奔走し実践した。 自己のみを利する所には平安はない。社会にのみ奔走する所 にも平安はない。八正道の清浄行を怠らない所にこそ安住が ある。 ●釈迦は最後の旅で修行時代に暮らした村の丘に立って言 った。「この世は美しい。そして人の命はなんと甘美な ものであろうか」。 -------------------------------------------------- ●一切の生きとし生けるものよ、 幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ、 一切の生きとし生けるものは幸であれ。 何びとも他人を欺いてはならない。 たといどこにあっても 他人を軽んじてはならない 。 互いに他人に苦痛を与える ことを望んではならない 。 この慈しみの心づかいを しっかりと たもて ブッダの最後の言葉です ●ブッダの生涯 (BBC放送) この動画は、仏教国ではないイギリスが制作しました ●仏教の本質 哲学者「中村元」 肉声 ◎中村元「ブッダ最後の旅」肉声です