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弘法大師
文學博士 三浦周行
緒言
私は數月前、本日の弘法大師降誕會に一塲の講演を致すやうにとの御依頼を受けて御引受をする事となつたので、その演題を何と定めたものであらうと考へて見たが、大師の事蹟は既に毎年の降誕會に御宗旨の諸大徳や諸博士から宗教、文學、教育等の諸方面に亘つて述べ盡されたことであらうから、自分は一つ大師示寂後の感化を主としてお話いたさうと、姑く此に掲げた通り「後の弘法大師」として御通知致して置いた次第である。ところが其の後段々と是迄諸家の講演筆記を拜見すると、大師生前の事實についても、吾々歴史家として純史學的見地より説明致したい餘地が多少殘つて居るやうに思はれる。これ單へに大師の人物事業の偉大なるが爲めであらう。そこで今日は先づ私の大師觀を主としてお話することゝしたい。
先月大谷大學で親鸞上人の降誕會の催された時も、私は頼まれて「宗祖と時代」といふ題下に一塲の講演を試みた事がある。只今又大師に就いての同樣の御催に臨むに當つて、私どもの如き者が果して斯かる御催の講演者として適任なりや否やといふ疑念が胸中に往來して心中忸怩たるものがないでもない。申すまでもなく、この種の御催は平生宗祖に歸敬せられて居る方々が、降誕といふ記念すべき佳節に當つて、其の道徳を讃嘆せられる譯であるが、我々は宗旨に對しては全くの門外漢であつて、且つ平生あらゆる歴史的人物、出來事を批評的の眼を以て見やうとするものである。大師の如きは日本の宗教界に於てのみならず、一般文化史上にも傑出した偉人の一人たる事は何人も異議を挾まぬ方であるといひながら、其一生の事蹟を歴史的事實として取扱ふに於ては、或は諸君の目より見られて神聖を侵すが如くに取られぬでも無からう。是が私どもとして最も心苦う思ふ點である。それで委員の方に對つても、豫め此邊を御斷り致したのであるが、それは寧ろ主催者の望まれる事であつて、現に近年は毎年私ども同樣、門外漢の講演ばかりを聽かれることになつて居ると申す事で、此上最早御辭退すべき言葉が無くなつた次第である。諸君に於ても其の邊豫め御承知になつて、私の講演の中で自然大師に對して敬意を失ふといふやうな事があつても御寛容に預りたく、又諸君の御信仰と一致しない部分があつても、他山の石として御聽取を願ひたい。
我々歴史家の目より見れば、總べて宗祖とか教祖とかいはれる人々は、後世になればなる程次第に超人化せられ神聖化せられて、其事蹟は種々の奇蹟として傳へられるものである。固より其の間には事實も加つて居ないとはいへぬが、又信仰上から假托、誇張、捏造などせられたこともあるを否定する譯にいかぬ。たとへば大師の遺告に、高野山の丹生明神が大師の登山を悦ばれて、神領を寄せ仰信の情を表せられたことは神託となつて居るのに、後の傳記には、明神が親く現はれて、大師に物語せられたことになつて居る。總べて宗教には大師の眞言宗の如き、法然上人の淨土宗の如き多生の取除は別として、宗祖の一代に宗運の隆盛を來すといふことは先づ望まれないものであるから、其の當時若しくばこれを去る事さまで遠からざる時代の確かな記録には宗祖の事蹟を載せたものは概して乏く傳記の如きも備はらないのが常である。然るに後世に成つた各種の傳記には宗祖の胎内に在つた時の事から誕生前後の奇蹟まで、さも明細に書き立てられて在るのが多い。今佛教に因縁ある事で譬へて見れば、恰も彼の佛舍利の年々其の數が殖えていくといつたやうなもので、我々から見れば如何にも受け取りにくい話である。ことに此の後世に成つた記録の間には、それ/゛\傳ふる事實に相違があつて何れを眞、何れを僞とも定め難いことがある。若しも初から出所が一つであれば左樣の混雜は生ぜぬ譯ではあるまいか。早い話が、大師の撰述に成つた書物の目録にしても後世に往く程、色々のものが増して來て居るのである。大師の筆蹟の正確な極印附のものは、今日數へる程しか傳はらぬ事であつて、眞に一字千金といふべきであるが、大師御筆と稱する經卷等は御宗旨の寺院といふ寺院に大分藏せられて居るやうである。若し信仰の對象として見たならば、是等の事も然まで不都合を來さぬが歴史家の立場から見ると、飽までも事實を闡明して、如何なる程度までが眞に宗祖の事蹟であるか、又後世の附會であるかを判定せねばならぬ。大師についても、我々は史的人物の一人として成るべく正確なる史料を通して大師の面目を窺ひたいものと思ふ。
さればといつて後世如何はしい伝説の成立つた事も亦一つの歴史である。ことに宗教家としては死後の感化影響は最も重んずべき價値をもつて居る事であるから、附會にもせよ、假托にもせよ、社會の各方面に及ぼして感化は決してこれを度外視する事が出來ぬ。それ等の後世の傳説も、多少は宗祖の事實に根據を置いて居るもあり、然らざるも時代思想の反映として成立つて居るものであるから、よしんば宗祖の事蹟として受取り難き事がらであつても、他の意味に於て全く參考の價値がないとは言へぬ。私の所謂「後の弘法大師」について注意を拂ふはこれが爲めに外ならぬのである。
大師の修養
これから私は大師の事蹟について逐次所見を述べたいのであるが、大師の一生は眞濟の空海僧都傳、眞雅の贈大僧正空海和上傳記以下の次々に世に出でた傳記に盡きて居る事で今更委しい説明を要しないと思ふ。大師は御承知の如く、讃岐の豪族なる佐伯氏から出られたのであるが、この佐伯氏は昔から大伴、佐伯と並び稱せられて軍人の家筋であり、現に先代も敵地を征して領地を賜はつたと大師自身いはれて居る。然るに氏族の間には大連として國政の樞機に參與せられた人々もあつた。又大師の外伯父阿刀大足は學者であつたといふから、大師の如きもあのづから武士的氣魄、政治家的才幹に加へて、文學的素質を備へられて居たらうとの想像を廻されぬでもない。大師の降誕前後の事蹟については、種々の奇蹟も傳はつて居るが、是等は既に諸君の知らるゝ所であるから、姑く措いて、大師の出家の時期については、或は十九歳の時といひ、或は二十歳の時といひ、また二十五歳の時ともいひ多少の異説がある。大師の自傳とも見られる遺告の文に據つて見ても、外伯父阿刀大足は大師の出家について餘り賛成であつたやうに見えぬ。此の人の意見によつて大師の少年時代には經書や史傳文章を學ばれ、一通り素養が出來てから、十五の時に上京して大學に入られ、書博士等に就て更に經書や歴史を究められたが、尚又時の知識勤操から佛典をも受けられたと見えるから、大師自身にも將來の方針を定められる上については、多生の煩悶に月日を送られた事であらうと思はれる。其結果として著はされたのが即ち三教指歸であつて、儒佛道三教の優劣を比較論難して結局佛教の二教に優越する事を説かれたものである。大師の出家を二十五の時とする説は贈大僧正空海和上傳記や朝野群載に收められて居る傳記の文などであるが、近頃はまた此の三教指歸の文に忽經三八春秋也と見えて居るのを楯に、此の書の撰述が大師の三八二十四歳の時であるとして二十五歳出家説を主張するものもある(佛教史學第一編所載鷲尾順敬氏の「弘法大師の事歴並性格」)これに據ると、大師は延暦十六年に三教指歸を書かれて佛門に入られる大決心を示され、其の翌延暦十七年に出家して沙彌となられた譯である。大師の具足戒を受けられた時期についても、同樣二十歳、二十二歳、三十歳、三十一歳等の諸説があるが、此の二十五歳出家説を載せた傳記は最年長の三十一歳説となつて居る。若し二十五歳出家説を取るべきものとしたならば、三十一歳の受戒説にも從つた方が穩當であらう。果して然らば大師の出家受戒は何れも普通の塲合より十年程遲れられた事になるのである。
さりながら此の説も事實として如何かと思はれるのは、大師の同船入唐せられた遣唐大使藤原葛野麻呂等は、最初延暦二十二年に出發する筈であつて、同年三月に別宴を賜はつたが、其の後、風波の爲め、船が壞れて、翌二十三年に延び、同年の四月に再び別宴を賜はつて、六月に船出をして居るのに同年の四月九日に、東大寺の戒壇で具足戒を受けられた大師が其の船に便乘せられて居るとは、餘りにきはどいやうではあるまいか。何れにしても、大師の出家、受戒が餘り早い方でなかつた事は事實らしい。大師の遺告の文意から推して見ると、三教指歸を書かれてから、諸國に修業せられて備さに苦行を積まれた上、師の勤操に伴はれて、和泉國槇尾寺で出家せられ、それから大和國高市郡久米道塲で大毘盧遮那經を感得して研究せられたが、日本には其疑問を解くべき程の人がなかつたので、遂に入唐求法の志を立てられたと見えるから、大師の入唐以前は全く修養時代であつた。此の時代の大師の名が未だ世間に顯はれなかつたのは寧ろ當然であらう。彼の天台宗の開祖たる傳教大師が大師と同時に入唐せられながら、當時既に盛名を馳せられて居たのに比すれば餘程の懸隔といはなければならぬ。さりながら此の修養時代は大師の一生に取つて實に貴重のものであつた。出家に時期が※[(來攵)/心]じ早くなかつたが爲めに、儒教や道術をも兼ね學ばれて、これを佛教と比較研究致される事も出來たらうし、其間世間の事情にも通ぜられ、民心の歸嚮をも洞察せられたらう。大師自身にも少年の日好んで山水を跋渉せられて、早く既に高野を見定めて置かれたといはれて居る。大師の書道の如き矢張少年時代よりの嗜好であつたのである。大師が入唐後僅かに二年で歸朝せられたのは他に理由のあつた事と思はれるが、一つは入唐前の修養蘊蓄が、他人程長く留學を要せなかつた爲めでもあつたかろ思ふ。
大師の入唐
大師は在唐二年で大同元年十月歸朝せられた。其の間大師は長安の青龍寺の惠果大阿闍梨について灌頂を受け、胎藏、金剛兩部の秘密法を學ばれ、又天竺の般若三藏等から梵語などを學ばれた。當時日本から唐に留學の爲め派遣せられた留學生の留學費は至つて不足勝であつたと見え、大師が同じ留學生の橘逸勢に代つて作られた本國の使に與ふる書にも、日本から支給せられる衣料は僅かに露命を繋ぐだけで、束脩讀書の用に足らぬと書いてある。大師自身も長安滯在中に經文や曼荼羅を寫されるに費用をかけられた爲めに、最早人を傭ふ事もかなはぬやうになられ、寢食を忘れて、自身で謄寫に骨を折られて居ると書かれて居る。(性靈集所收與二越州節度使一求二内外經書一啓)然るに其の間に毘盧遮那金剛頂經二百餘卷を讀破せられ、(遺告)又經論疏等三百餘軸、大悲胎藏金剛界等の大曼荼羅各一舗をも寫された。大師將來の書類、佛像器物等は大師が大同元年十月歸朝後、間も無く奏進せられた請來目録に委しく見えて居る通りである。彼の仁和寺に傳はつて居る三十帖策子等は即ち其の中の一である。勿論中には人を傭うて書かせられたものもあるが、自身に筆を執つて書かれたものも尠しとせぬ。加之其の間また書道、梵字、詩文をさへ研鑽せられて、將來目録に見えない書類とか拓本等でこれに關係したものも少からず請來せられたのである。僅々二年の間に斯の如き各種の學科を履修されるのは餘程の精力を要した事で、前にも述べた如く留學前の素養の大にこれを助けた譯でもあらうが非常の苦學をせられた事は十分に認めなければならぬ。大師は入唐して二十年在唐請益される積であつたやうであるが、そのうち本國の使が參つたので、請うて共に歸朝せられたのであるこれは抑々如何なる事情から出たものであるか。大師自身と雖も僅々二年の留學を以て滿足せられた譯では無からう。折角の留學の事であるから、成るべくは長く滯在せられたかつたであらうが、前にも述べた經濟上の事情などがあつて、心ならずも歸朝の期を早められた譯であらうかといふに、決してさうでは無かつた。大師の本國の使に與へて同行歸朝を求められた手紙(啓)には此の上最早長く他郷に居つても詮がないから、これまでに修めた所を以て復命しやうとの意味を述べられて居る。私の見る所では此が大師の眞面目の十分に發揮せられて居る所と思ふ。
私は佛教の教理については至て不案内ではあるが、專門家の研究によつて考へると、大師以前の所謂南都佛教は何れも小乘、權大乘で其の説くところ極めて深邃幽遠であつたから、到底普通の人間に理解し得たとは思はれぬ。傳教大師の天台宗とても、また同樣であつた。これ等の宗教は朝廷及び上流社會の保護歸依があつたればこそ成立はして居たものゝ、それでは人類一般の安心立命を目的とする宗教本來の使命を果すに十分であつたと申されぬ。弘法大師の眞言宗は如何といふに、其の教相に於ては世俗の智より天台、華嚴等、從來存在した一切の教理を悉く其の中に含まれて居つて、印度密教よりも一層深奧のものとなり、或つ者は宗教といはんより寧ろ哲學といふべきであると論ずる人さへあるが、彼の顯教が、成佛に長年月の修行を要すると説くに反して現身成佛を説き、其の形式も極めて卑近なるものに約せられて居る。而して大師自身も空を修する道としては、顯教よりも密藏の方が捷徑であるとして頓中の頓とは密藏是に當れりと申されて居るのである。眞言宗の教理も儀式も印度の婆羅門教其のまゝであると説く人もあるが、それは間違で、大師の眞言宗は印度や支那の密教から來ては居るものゝ、自ら異なつた點のある事は專門家の研究によつて段々明白になつて來て居る。支那の密教は金剛智、不空三藏等によつて印度から傳はつて來た事で、惠果大和尚は之を大師に傳へたのである。當時密教の支那に入つてから餘り年數もたつて居らぬに拘らず、隆昌に向つて、早くも宮廷の佛教となり、大師の師たる惠果和尚の如きも内供奉、十禪師の職に就いて居つた。和尚は深く大師に期待して眞言秘藏を傾けて悉く大師に傳へたが、大師も是によつて多年の宿疑が全く晴れて充分に入唐の目的を達したとの自覺を得られたらしい。されば和尚も大師に向つて「早歸二郷國一以奉二國家一、流二布天下一、増二蒼生福一、然則四海泰萬人樂、是則報二佛恩一報二師徳一、爲レ國忠也、於レ家孝也、義明供奉此處而傳、汝其行矣傳二之東國一、努力努力、」といつて、斯道の爲め其歸朝を促したと見える。(請來目録)大師は和尚の寂後なほ暫くは滯在せられて居つたが其の當時から既に歸朝の意を決せられたものであらう。それは和尚の勸めによられた譯でもあらうが、また大師自身にも、前に儒教や道教や佛教を比較研究して佛教を優れりとせられてから、猛然として佛門に入られた如く、眞言密教が將來日本の宗教として第一のものであるとの確信を得られたが最後、矢も楯もたまらず、一日も早く歸朝して國家に貢獻し人心を救濟しやうと決心せられた譯であらう。
歸朝後の大師
大師の歸朝せられる前年に、傳教大師は在唐僅かに一年足らずで、我が大使と共に歸朝せられて居つた。傳教大師は大師よりは先輩であつて、年齡も六つ上であり、朝廷の御歸依も大師の上にあつた。天台宗は延暦二十五年正月の勅に於て、既に華嚴や法相などの南都佛教の諸宗と同一に取扱はれて居るが、眞言宗が始めて諸宗に準ぜられたのは、大師の示寂から實に二十三年の後であつたのである。さりながら大師歸朝の後は名聲頓に揚つて傳教大師と頡頏せられることゝなつた。わたしはこれから大師の此に至られた徑路について聊か歴史家としての所見を述べて見たい。
南都佛教が朝廷の厚き御保護によつて次第に腐敗を來し、横暴跋扈を極めて、所謂地として寺ならざるはなき有樣となつたのは、桓武天皇の御遷都について、有力なる一原因と觀測されて居る程であつて、天皇以來は寺院や僧侶の取締を充分嚴重に致され、或は寺院が財利を貪つてはならぬとか、或は人民が妄に寺院に寄附をしてはならぬとか、さま/゛\の法令が出でゝ、僧侶の不行跡をも嚴しく戒飭致され、さなきだに遷都によつて打撃を蒙つた南都の諸寺院は一層疲弊を來したやうである。天台宗なり眞言宗の開立はそれ等の南都佛教以外、清新なる宗教の意義に於て、政略上よりするも正に歡迎せらるべき地位に在つた。佛教の純粹なる教理は必ずしも國家主義とばかりはいへまい。さりながら如何なる外國の宗教道徳も、一度日本の國體や國民性の洗禮受けると、何時しか國家主義の色彩を添へて來るが、佛教も亦其の數に漏れなかつた。聖武天皇が三寳の奴と仰せられた奈良朝時代の如きは殊に甚しかつたので、政教一致と申すも差支なかつたのである。然るに段々と其の弊害が増長した揚句、玄※[日方]や道鏡等を始め非國家的非行を敢てする不心得な僧侶が多く輩出して心あるものを顰蹙させた。傳教大師や弘法大師の平安朝の初期に出られて、鎭護國家を高唱せられ、朝野の歸敬を受けられたのは、又宗教界の反動的現象と見たいのである。大師の文にも忠孝を説かれて、家を忘れ國の爲めにする忠臣を擧げられて居るが、大師以外にも當時佛者の口から國家主義を説いて居るのを見かける事の多いのは注意すべき現象であらう。
次に天台宗でも眞言宗でも修禪とか練行とかいふ事に重きを置いて居つて、寺を建てるにも、都市よりは寧ろ山嶽を擇んだのは、また同一の意味に解釋せられやうと思ふ。よく奈良朝の都市佛教が平安朝に至つて山岳佛教になつたといはれるのは是を指したものである。桓武天皇延暦十七年の勅にも、平城の舊都には元來寺院が多く、僧尼も無暗に餘計に居つて亂行が屡聞えるから取締を加へるやうにと見えて居る。いふまでも無く僧侶の修行には都會の地よりも山間僻地に清淨閑寂なる塲所を良しとする事であるから、彼等が深山幽谷を跋渉して苦修難行したのは奈良朝時代とも變はつた事はない。(類聚國史、佛道部、淳和天皇天長六年三月乙未の條、和朝臣宅繼の曾祖赤麿が養老年中、心を佛道に歸して身を深山に練りし事見えたるが如きは其の一例である)さりながら眞紹律師も申して居る通り山中は寂寞で久しく住持し難いから、後代に至つて頽毀する憂があるので、維持修繕の必要上、自然と都市附近に寺を構へる譯にもなつたのである。(類聚國史、佛道部、清和天皇貞觀五年九月六日の條)加之、奈良朝時代には朝廷の宗教方針から山林寺院の頽廢を來した事實のある事を認めねばならぬ。續日本紀を見るに、不心得の徒が山林寺院で私に一僧已上を聚めて讀經悔過する者があると、僧綱は天平寳字八年の勅を奉じて固く禁制を加へ來つた結果、山林樹下長絶二禪迹一、伽藍院中永息二梵響一、俗士巣許猶尚二嘉道一、况復出家釋衆寧無二閑居者一乎と申して、光仁天皇の寳龜元年十月二十八日に僧綱より長住の徒の爲めに山林寺院の修業を許されんことを奏請して許された事が見える。併しこれには實際弊害もあつたと見えて、其の後桓武天皇の延暦十八年六月の勅にも、沙門が檀に本寺を去つて山林に隱住し、人の屬託を受けて邪法を行ふものが段々あるからとて、諸國の國司に部内を巡檢させ、あらゆる山林精舎及びそれに居住の比丘優婆塞を改めて、漏れなく届出づるやうにと仰せ出されて居る。事情は兎も角、奈良朝時代の末期に山林寺院の衰運に傾いて居たのは事實であつた。然るに傳教大師は支那の天台山を模せられて比叡山寺を開基せられ、大師自身申されて居る如く山林の精進修練を專一にせられ天台宗の年分度者の如きも、得度受戒の後、十二ヶ年間は出山を許さぬ制度を設けられたが、大師も弘仁五年には、比叡山に久住して學行共に勤められた廉を以て賞典に預られて居る。眞言密教の修法はなほ更清淨閑寂を必要としたので、弘法大師も高野山に入定の所を賜はりたいと奏請に及ばれた上表には、當時高山深嶺に修禪入定の人の稀なるを嘆ぜられ、深山の平地が最もこれに適して居ると申されて、高野山に修禪の一院を建てむ事を願はれて居る。また少僧都を辭せられる表にも大師が弱冠より知命に至るまで山藪を宅とせられて居つたに、僧統の職に居られるは其の任で無いから、山嶽に入りたいと願つて居られる。(性靈集)此くの如く兩大師の名山に於て修練入定の目的を達せられて居るのは南都の諸大徳と比して大に其の選を異にして居る點である。
山嶽に寺院を開かれる事に關聯して少しく説明をしたいのは兩部習合に對する傳教、弘法兩大師の態度である。從來本地垂跡の説は兩大師が提唱せられた事で、傳教大師は山王一實神道を始められ、弘法大師も金剛界、胎藏界の兩部を習合して兩部習合神道を唱へられた事になつて居るが、此の本地垂跡説の起源については近來段々研究を積んで參つて、兩大師の時にはまだ左樣な垂跡説は成り立つて居らず、其の唱へ始められたといふ神道説が全く後人の假託である事が明かになつた。元來國民固有の信仰を打ち捨てゝ新い信仰に移つていくに就ては新宗教の傳導者の最も苦心を要した事であつて、基督教の如きも希臘、羅馬に入つた最初は「アリアン」人種の固有信仰たる神々と妥協を圖つたものであるが、後には次第に是を部下とし、更に外道として排斥するに至つたのである。佛教が日本に傳來してから後も、國民固有の敬神信仰と調和を圖る事については、朝野の佛教信者の間に苦心慘憺たるものがあつて、聖武天皇が大佛建立の大事業を御始めになつた前後から、段々神佛の調和に向つて具體的の計畫が實現されるやうになつた。宇佐八幡宮の神が天神地祇を率ゐて大佛の造立を成就させんとの神託があつたなどは、この意義から來て居るのである。そこで初めの中は日本の神々は佛法を喜んでこれを保護せられるといふ風に説いたのが、次第に主客を轉倒して、神明が佛法に依つて擁護せられ、衆生の一として苦患を出離せられるといふ風に唱へ出された。一例を擧げると、古來神事には一般に佛法、僧侶を忌む例であつたが、其の神事中の神事ともいふべき大甞祭には猶更嚴重の制であつた。近世の如きは當日宮中では僧尼の繪に紙を貼られ、諸寺諸山の鐘を鳴す事をさへ差止められた位であるが、稱徳天皇の大甞祭の時は出家も供奉して苦しうないとの古今無類の詔が出た事がある。其の理由としては諸の神等は佛法を護り尊び奉られると經文に見えるからだといふことであつた。これが正しく奈良朝時代の神明が佛法を擁護せられるといふ思想を代表せられたものである。然るに平安朝時代になると神明の威力が弱くて佛力の加護を仰いでこれを補はねばならぬ。(類聚國史、佛道部、淳和天皇の天長元年九月壬子の條)また神明も衆生の一として始終煩悶苦惱があるので、佛法に歸依して是を免れやうとせられる。(同六年左月乙未の條)斯樣に思想の變化を生じて來たのである。其の間に出られた兩大師はまた同樣の思想を抱かれて居つたのに相違は無い。日本の神々は古くから山嶽に祭られて居られるものが多い。大三輪の神、熊野の神、阿蘇の神、富士の神、筑波の神を始め奈良朝時代に出來た風土記の記事を見ても到る所の山々に祭られて居る神々の如きは枚擧し難き程澤山に載つて居る。それが、この山嶽に寺院道塲を建立しやうとする傾向に伴つて一層神佛調和の形勢を助長する事となつたのである。傳教大師が比叡山に寺を建てられる前には既に大比叡(三輪神)小比叡(大山咋神)が鎭座せられて居り、弘法大師が高野山に寺を建てられる前にも丹生大明神が鎭座せられてあつたが、何れも朝廷に請うて其の土地に寺を建てられて、それ等の神々の守護を仰がれた。弘法大師は遺告の中に此の事を述べられて、吾居住の時頻りに明神の衛護ありと申され、丹生津姫命が佛道によつて威福を増たいから神領を寄せんとの託宣があつたともいはれて居る。即ち神明が佛法を喜んで之を保護されるといふ思想であつて、本地垂跡説の過程に外ならぬ。大師が新に國家的宗教として眞言の法門を立てられるに當つて、以前の諸大徳の遺緒を繼がれ、時代思想を善導して固有の信仰と調和を圖られる方針であつたことは、これを以て窺ふことが出來る。從つて兩部習合神道の創立者として、神道者流の大師に加へた批難は筋違となる譯である。
さりながら是等の事どもは大師の眞言宗に限つた譯ではない。大師の眞言宗が頓に朝野の間に尊信せられるやうになつたのは、その深遠廣大なる教理にも依つたであらうが、一般には寧ろ加持祈祷の靈驗について渇仰されたものと思はれる。我國では古來原始的信仰に伴ふ現世的祈祷があつたが、其の後佛教、道教、陰陽道等の諸形式を混入して、禁厭祈祷を行ふ事が社會人心を支配して居つたのである。支那の密教も印度に於ては原始的な婆羅門教の儀式を交へて居り、支那に傳來して間もない佛教の新派であつたのに、朝野の歸敬は頗る盛であつて、是に歸依すれば法驗あらたかなりとの聞えの高かつたものである。密典の我國に傳來したのは由來頗る古く、其の寫經は既に奈良朝時代に見えて居るとはいへ、大師によつて日本の眞言宗が樹立せられてからは、時代の人心に投じて、到る處觀迎を受け、稍進んだ形式の下に、一層加持祈祷の風を助長する事となつた。尤も傳教大師も在唐中、内供奉順曉阿闍梨等から密教を受けられたから、密教の始めて日本に傳はつたのは、傳教大師を第一人としなければならぬが、傳教大師入唐當初の目的は、天台法門を求められるにあつて、密教は入唐の序に受けられたばかりか、前にも述べた如く僅かばかりの滯在の間であつたから、無論大師程に深くはなかつた事申すまでもない。さりながら傳教大師は後進であるからといつて、弘法大師に密教を質すを耻とせられるやうな狹量の方ではなかつた。大同四年、弘法大師がまだ和泉の槇尾山に居られた時分、傳教大師は態々弟子を遣つて見舞はせられたと申すことであるが、弘法大師のやがて上京せられる運びになつたのは、或は傳教大師の斡旋の力もあつた譯ではあるまいか。併し大師の保護者ともいふべき人は傳教大師のそれと同樣、和氣氏であつた。高雄山神護寺は舊神願寺といつて、延暦年中、和氣廣世の國家の爲めに建つた寺であるが、傳教大師が歸朝せられてから間もなく、此の寺で法壇を建立して、秘密灌頂を修して居られる。弘法大師も上京の後は此の寺に居られて、弘仁元年十一月以後此の寺で金剛、胎藏兩界の灌頂を授けられ、傳教大師も實に大師について灌頂を受けられた一人であつた。或は此の一事を以て傳教大師の品位が弘法大師よりも下つたかの樣に説く人のあるのは笑止の至である。然るに類聚國史を見ると、天台、眞言兩宗の建立は參議和氣眞綱と其の兄但馬守廣世との兩人の力であると明かに記されて居る程であるから、此の宗教界の二大高徳を握手させたのは、又和氣氏であつたかとも思はれる。何れにもせよ、兩大師の交情の、後々までも渝らずに極めて濃かであつた事は東寺所傳の風信帖、同じく請來目録の傳教大師の手寫と認められる事などに據つても窺はれる。多年の因襲的勢力ある南都佛教に對して平安朝時代の新興佛教たる天台、眞言二宗の隆運に向つた事は決して偶然でないのである。
さりながら大師にとつて眞に最大有力なる保護者とも申上ぐべきは嵯峨天皇であらせられた。支那の密教が宮廷佛教として歸依の盛んであつたことを目撃せられた大師は、日本の密教たる眞言宗をも將來それと同等若しくはそれ以上の地位に置きたいと望まれたに相違ない。當時の教界の大勢からいつても此の希望の早晩實現せらるべき運命にあつたが、其の氣運を迅速に開展させる事になつたのは、矢張政治上の事情に基いた事と思ふのである。桓武天皇の崩御後、平城、嵯峨、淳和の三帝は何れも桓武天皇の皇子で交々皇位に即かせられた。天皇の御大漸に當つて、皇太子(平城天皇)を御召になつて、細々と御遺勅のあつた趣は國史にも見えるが、東寳記の説では此の御連枝三代の帝は各十ヶ年づゝ御在世あるやうにとの桓武天皇の御遺勅であつたやうに見えて居る。果して然れば彼の鎌倉時代の大覺寺、持明院の兩皇統の迭立に似通うて居るけれども、事實としては受取れぬ。平城、嵯峨の兩帝は御同腹の御兄弟ではあつたが、水鏡に據ると、桓武天皇には嵯峨天皇を御鐘[#「鍾」?]愛になつて居たやうに見えて、平城天皇の御不平もあらせられたであらうか、其の邊の事は明かでないが、御在位僅かに三年にして、大同四年に不豫のために御位を嵯峨天皇に讓らせられた。然るに平城上皇は尚侍藤原藥子を御寵愛になつて、御讓位後も政務を御親裁遊ばされ、縁に繋がる藥子の兄仲成も權力を振うたので此の藤原氏の一門なる式家と、同じく北家の内麿、冬嗣等との間におのづから勢力爭を生じたが、上皇の南都に遷都復祚を圖られるに至つて事態重大に赴いた。此の時大師が屡嵯峨天皇の密勅を承はられて、高雄山に於て、寶祚の安全を祷られたと申す事が、東寺百合文書や東寶記に見えて居る。即ち東寺百合文書に收められて居る應永二十六年七月日東寺の申状に、東寺八幡宮の事を述べて、右社者延暦遷都之初、當寺草創之時、爲二鎭護國家一、雖レ有二勸請儀一、不レ及二神體安置一、而嵯峨天皇與二大師一有二御談話一、有二御立願事一、平城天皇爲二御位諍一、御願成就之日、令レ建二社壇一重有二御勸請儀一、于レ時三所御體親現二空中一、大師則先奉レ寫二紙形一、件紙形、後代奉レ渡二于石清水内殿一、後彫刻之、被レ奉レ安二置社頭一云云と見え、嵯峨天皇が大師と御密談の上、御立願があつて、八幡神の加護を仰がれたが、官軍勝を得て、間もなく藥子の亂が平いだので、天皇には御奉賽の爲め、東寺に於て社壇を御建立に成つて八幡大菩薩を勸請せられ、大師彫刻の神體を安置せられたといふのである。此の説は餘り古い確かなものには見えて居らぬが、當時の事情から推せば如何にもありさうな事と思はれるのである。それかあらぬか、同年(弘仁元年)十月二十七日に大師は上表して高雄山寺に於て國家の御爲に仁王經等の大法を修せん事を願はれて居る。其表文には唐の開元以來皇帝三后が親しく灌頂を授かられ、長生殿を喜捨して内道塲に當てられ七日毎に僧侶に持念修行させられて居る例を擧げられて、仁王經等が佛の特に國王の爲に説かれた妙典である事を説かれ、暗に早晩朝廷に於かせられても唐に倣つて内道塲を設けられん事を望まれて居るのである。(性靈集)
藥子の亂が鎭定すると共に、嵯峨天皇は平城天皇の皇子で皇太子であつた高岳親王を廢せられて、異母弟で御同年の大伴親王を皇太弟となされた。これが後の淳和天皇であつて、嵯峨天皇の皇女正子内親王が其妃とならせられた。されば上皇も高岳親王も嵯峨天皇を御恨みに相成つて居たかと申すに、嵯峨天皇は藥子の事から兩宮の間、御中違にならせられた事を深く御軫念あらせられ、皇女有智子内親王を賀茂の齋院として上皇との御融和を祈らせられた位であつたから、上皇もつひには其の御温情にほだされ給うて、御うち解け遊ばされたと思はれるが、それにつけても大師が兩宮の間に斡旋せられて、御調停を圖られたかと思はれる節がある。平城上皇には弘仁十二年に大師につかせられて灌頂を受けさせられて居る。これはやんどとなき御方の秘密灌頂を受けられた最初であつた。(一代要記、元亨釋書)加之皇子高岳親王にも、また太子を廢せられてから佛門に歸せられて密教を大師に受けられて居る。彼是思ひ合せるに、大師は嵯峨天皇の旨を承けられての事か如何かは詳かで無いにもせよ其の上皇御父子の御感情の御融和について盡された事が、嵯峨天皇の叡慮に協はせられた事申すまでもあるまい。弘仁十四年に嵯峨天皇は淳和天皇に位を御讓りになつた上、なほ思召を以て、同天皇の皇子恒世王を皇太子に立てられやうとなされたが、王は固く御辭退遊ばされた。前には嵯峨天皇の皇子の在らせられたにも拘らず、淳和天皇を皇太弟とせられたるさへあるに、此の度も亦、御自分の皇子をさし措かれて、淳和天皇の皇子を皇太子に立てられやうとは如何にも嵯峨天皇の御本意とは思はれぬ。縱し恒世王が此の時皇太子になられても、當時の事情は、將來高岳親王の如き御不幸に遭はせられぬにも限らなかつたので、或はかやうに御辭退遊ばされたのも淳和天皇の思召であつたとも察せられる。そこで淳和天皇には更に嵯峨天皇の皇子正良親王を皇太子となし給はんとしたが、今度は嵯峨上皇の思召で、此の立太子を辭退させられたけれども、勅許がなく、結句[#「局」?]正良親王が皇太子になられた。これが仁明天皇であらせられる。嵯峨天皇の御滿足は一入であらせられたであらう。然るに淳和天皇の御即位の時、大師が賀表を上られて居り、又天長二年宮中で仁王護國般若經を講説させられた時、大師は此の東宮の講師として呪願文を作られた事が類聚國史に見える。嵯峨天皇の御信任厚き大師がその御氣に入の東宮即ち後の仁明天皇の講師になつて居られるといふのは注意すべき事であるまいか。
是等の政治上の原因に關聯して考ふべき事は大師と政變に依つて勢力を得た藤原氏の一門北家との關係である。弘仁元年の藥子の亂の鎭定して間もなく、同四年に北家の冬嗣が藤原氏の氏寺たる興福寺に南圓堂を建て不空羂索の木像を安置して、大師を請じて供養を行つた事があるが、これは父内麿の遺命を受けたものであるといふ。また遺告に據ると、弘仁十四年正月十九日に朝廷から眞言密教の道塲として東寺を大師に給はり預けられたが、その時勅書を奉じて勅使に參つたのは藤原冬嗣の子の良房であつた。良房は後文徳天皇の御代に外戚として、臣下で最初の太政大臣に任ぜられ、次に清和天皇の御代には攝政となつて、攝關政治の基を作つた人である。これだけの事實を以て大師と藤原氏との關係を説くは稍々穿ち過ぎた嫌が無いではなからうが、又決して度外視せられぬ事實といはねばならぬ。
此の政事上の原因に次いで考ふべき事は、祈祷修法上の原因である。大師歸朝の後は天變、地災、疫疾等の災害が打續いたことであるが、當時支那傳來の思想として、上御一人の不徳によると自ら責めさせられて、御軫念一方ならぬ事であつた。斯かる塲合に佛力を頼まれるは當時の慣例であつて、修善に非ざるよりは何を以つてこれを禳はんなどいふ勅も出で居る程であるから眞言密語の法驗鮮かなりといはれた新歸朝の大師が得意の法力を現さるべき機會は屡々發生したのである大師自身の遺告に示されて居る所によると、平城、嵯峨、淳和、仁明四朝の間に、大師が國家の爲に壇を立てゝ修法せられた事が五十一箇度に及んで居り、又神泉苑の池の邊で雨を祈られた時も靈驗が明かであつたと申す事である。但し西寺の守敏と法力を爭はれたといふ話はやかましいばかりで一つも確かなものに見えて居らぬから、後世になつて大師の法力を示さんが爲めに捏造せられた架空の談と認めるのである[#ここに句点が必要]今正確なる國史に見えて居る所を擧ぐれば、淳和天皇の弘仁十四年十二月には、勤操少僧都等と共に内裏の清涼殿で徹夜大通方廣の御修法を行はれ、同天皇の天長二年閏七月には、宮中で、仁王護國般若經を講説させられ、同九年正月には、最勝會の終つた後で、天皇が紫宸殿に御して、大師を請ぜられ、護命僧正等と論議をさせられ、御被者を賜はつて面目を施させられた。されば朝廷の御優遇も渥く、嵯峨天皇は弘仁元年に、大師を東大寺の別當に勅任せられ、十二年には、讃岐國萬農池工事監督の勞を賞せられて、新錢二萬を大師に賜はり、淳和天皇は同十四年に、大師の奏請によつて、眞言宗の僧五十人を東寺に住せしめられ、其の翌天長元年に、大師が再三御辭退せられたに拘らず、直に少僧都に任ぜられ、同七年に大僧都に任ぜられ、仁明天皇に至つては、承和元年に、大師の奏請によつて内裏の内の勘解由ノ廳を眞言院となされ、唐の内道塲に准ぜられた。毎年一月の後七日の御修法は此の時から始まつたのである。同二年には又大師の奏請によつて官家の功徳料千戸の内二百戸を割いて東寺に捨入して僧供に充てさせられて居る。
是等の朝恩は承和二年に大師示寂の後まで御在世であつた嵯峨上皇の陰に陽に御眷顧を垂れ給うたのによる事が多かつたやうに思はれる。嵯峨天皇と大師とは實に水魚の御交と申し上げてもよい程であつた。天皇は天資英邁に坐し、政治上にも釐革せられた所多く、時の人材を登用せられて藏人所に出仕させられたが、かつて嘆じて「朝家無二英俊一、法侶隱二賢才一」と仰せられたとの事である。傳教、弘法の二大師の如きは必ず希世の賢才として御聖鑑に入つて居た事であらう。一體桓武天皇の御遷都以來、日本の文明は新なる方向に向つて一轉進すべき機運に向つて居たのである。今それに就て委しく説明すべき時はもたぬが、要するに奈良朝時代にはたゞ盲目的に支那の文明に心醉してこれを模倣するに止まつて居たものが、平安朝時代からは、一層進んで、分析的に彼の文明を攝取し咀嚼して、國民自覺の下に、これを取捨し調和するに至つたのである。斯かる時代に出で給ふた嵯峨天皇も、支那の文物の御研究については、極めて御熱心であらせられて、それに關した御逸事も彼是相傳つて居る人は詩文や書道に於て、大師が天皇と同一の趣味を有つて居られた事を御信任の動機とするが、私は支那に滯在中、其の獨特の鋭利なる觀察眼を以て當時の形而上、形而下の有らゆる文明を觀察した大師が、天皇の御諮問に答へて御滿足を買つた事は強ち詩文や書道などの上ばかりでは無つたらうと信ずる。些細なことではあるが、弘仁四年に嵯峨天皇が皇太弟を清涼殿の御宴に御召になつた時は全く唐の儀式を御採用になつて居る。同く九年には勅があつて、朝廷の節會の禮式及び常の服制、身分の卑い者が貴人に遇うて拜跪する例は男女を論ぜず、更めて唐制による事とせられた。是等を以て見ても、日本で最古の勅撰の「儀式」と申すべき「弘仁儀式」は亡びたが、恐らく今傳つて居る「貞觀儀式」などよりは一層唐の儀式に近いものであつたらう。又是に關聯して考へられるのは、大師が東寺を賜はつて教王護國寺と改號せられたのは、唐の青龍寺に准ぜられたものであるか、爾来堂舍佛像の造立を始め年中行事など總べて青龍寺の風を移された事である。是等も定めて天皇の大御心に協はせられた事であつたらうと思ふ。但し嵯峨天皇が弘仁三年十一月二十七日贈四品布勢内親王の御爲めに墾田若干を東寺に施入せられた、御起請符の文が「官符等編年雜集」中に弘仁格、東寳記等を引いて載録せられて居る。それには以二代々國王一爲二我寺檀越一、若伽藍興復天下興復、伽藍衰弊天下衰弊、若有二無道之主邪賊之臣一、若違犯[#「違犯」に「犯違イ」と注記]若破障而不レ行者、是人必得二破辱三世諸佛一切賢聖之罪一終當レ落二無間獄無數劫中一永無二出離一、十方諸天率土神明共起二大禍一、永滅二子孫一、若不二違犯一[#「違犯」に[犯違イ]と注記]者敬勤行者、世々累レ福、子孫繁昌、共出二塵域一、必登二覺岸一者と見えて、嵯峨天皇が東寺の盛衰を國家の盛衰と合致する程に思召して、其の保護を御後葉に望ませられた趣に見えるが、弘仁格は今逸して傳はらぬものであるし、其の逸文にも此事は載つて居らぬ。東寺百合文書に收められて居る弘仁三年十二月十九日の民部省符には此の十一月二十七日の太政官符を引かれては居るけれども、其本文は傳はらぬかして見當らぬ。日本後紀を見ると、弘仁三年十一月壬午に贈四品布勢内親王の墾田七百七十二町を東西二寺に施入せられたとあるのが正く是に當るのである。さすれば是は東寺ばかりに限つた譯でなく、同時に西寺にも賜はつたものである。殊に疑はしきは此の本文が、其右方に異同を註したのでも知られる通り、聖武天皇の天平勝寳元年東大寺に封戸水田を御施入に相成つた事を書かれた東大寺金銅碑文の文と殆ど同一である事である。東寺文書では文保元年十月の後宇多法皇の院廳下文などにも、此の文を引用せられて居るものゝ、恐らく東寺が隆盛に赴かれた後世の假託に過ぎまいかと思はれる。「官符等編年雜集」には日本後紀、弘仁格などの古書にあるとして隨分如何はしい文書が載つて居るがこれも其の類であらう。
弘法大師と傳教大師
傳教大師と弘法大師とは申すまでもなく、平安朝初期に於ける宗教界の大立物であつて、其の唐から歸朝せられてより後は、互に相提携して新教弘通に力められたのであつたが、兩大師の性格行藏は必ずしも同一ではなかつた。試に其の筆蹟を比較して見ても、傳教大師のは極めて温潤で、氣品の高いだけであるが、弘法大師に至ると、剛くも柔くも變化自在で、神采奕々、如何にも才氣煥發の趣が見える。これを其の事蹟に照して考へて見ると、前にも述べた如く、傳教大師は久住修練に重きを置かれて、餘り比叡山から出られる事はなかつた。弘法大師も常に山居を理想とせられたやうに申されて居つて、歸朝以來、密教を弘められるに相應の土地なく、荏苒として空しく日月を過されたが、漸く高野の地を得て道場を立てられ、其の目的を達せられたと申されて居る。さりながら大師は必ずしも都市の寺院を排斥せられた譯ではなかつた。大師が高野山に入定の所を求められた表文の中にも、歴朝心を佛教に留められ、寺院も朝野に櫛比し、龍象も毎寺に林をなして居つて、佛法の興隆はこれで充分である。たゞ恨むらくば高山深嶺に修禪入定の人がないといはれて居る。それで大師はたとひ其の本意でなかつたにもせよ都城の地なる東寺に於て佛教の事務を執られて、國家の教務に盡瘁せられつゝあつたのである。都市といひ、山嶽といふも、畢竟、其の事業の性質如何によつて、便不便、適不適を生ずる譯で、如何に山嶽が修練修法に都合がよいからと申して、都市に特有なる他の諸便宜を閑却する譯にはいかぬ。此の二者は必ず兩々並び立つべきものであらうと思ふ。
次に兩大師はもと南都の大徳に就いて經論を講究されたのであるが、傳教大師は歸朝後、大乘圓頓の大戒を説き、權實の相違を論ぜられて、南都諸大寺の學匠と衝突せられ、殊に戒壇の勅許を仰がれるに至つて、其の頂點に達した。有名なる顯戒論は此の時の作である。これに反して南都側と弘法大師との間がらは極めて圓滿であつて、東大寺では其の別當として大師を迎え、又寺中に眞言院を立てゝ灌頂を行つて居る。傳教大師と大師との戒壇問題が起つて、南都の諸大徳との間に辯難攻撃の正に酣ならんとした弘仁十一年に、弘法大師は都を後に關東に旅行をせられ、その翌十二年には更に生國なる讃岐國の請によつて萬農池の工事に從事せられて居たのは、何となく南北の論爭外に超然たらん事を期せられたやうに見える。私は兩大師の態度の相違について、榮西禪師が平安朝時代の末、京都に在つて、始めて禪宗を説かれた頃、山徒の駁撃に對して、興禪護國論を書かれて、手強く辯難せられたに反して、法然上人が常に妥協の態度を取られて、門弟をも戒め衝突を避けさせられた態度の相違を思ひ合せるのである。
斯くの如き大師の隱忍平靜なる調和的態度によつて、大師は南都佛教に密教を植附けられたのみならず、圓教を以て立つて居た山門にも、次第に密教が盛になつて、所謂東密、台密の名を生じ、慈覺大師は圓密の異同を判釋して、理同事異と申されたのを、智證大師は圓劣密勝とせられた程で、後には山門も全く密教の大道塲となるに至つた。斯くて大師の示寂後、都鄙の間に眞言の寺院の建立が一種の流行となつたと共に、此の旭日冲天の教運に憧憬する諸國の既設寺院で、眞言、天台の別院となり又は宗旨を改めたものも、國史に其の跡を次ぐやうになつた。
大師の社會的事業
大師はその少僧都を辭せられる表に、社會人事についての經驗がなく、自身の性格からいつても煩碎に堪へられぬと申されて居りながら、その一般社會に盡瘁せられた事は一通りでなかつた。その中でも弘仁十二年に讃岐國からの懇望で、朝命を承けられて萬農池の工事に別當として監督せられたのは一地方の事とはいひながら、大師に對する輿望の盛であつた事を證するもので、西洋の諺に所謂豫言者郷里に容れられずと申すとは反對に、郷人が父母の如くに慕つたので、さしもの大工事も難なく竣功したのである。當時の階級的社會に在つては京都に大學、地方に國學はあつたけれども、たゞ貴族や官吏の師弟に向つて開放せられるだけであつたのに、大師が不幸なる一般人民の爲めに、綜藝種智院を東寺の附近に立て、儒佛を兼ね授けて、教育の普及を圖られたのは、教育上の一大美事であつたその外專門の宗教々育については、常に弟子を愛せられ、教相、事相ともに指導を怠られなかつた。弘仁元年朝廷に請うて、高雄山寺で唐から將來せられた仁王經等の講説をせられる時にも、自身は師事を得られたが、まだ練行はせられぬから、國家の爲に且つは修し、且つは授けられたいと申されて居る。大師が高雄山や高野山に於て、專ら弟子達の修練に力められた事は今更申すまでもあるまい。
大師の性格
これまで段々説明した所によつて、大師の性格を考へて見るに、大師は不世出の天才であつて、極めて健全明晰なる頭腦を有たれ、あらゆる智識を受け入れられて、根本的に分析的に研鑽せられ、其の奧秘を窮めねば已まれぬ概があつた。たとへば彼の書道の如きも、當時の支那に於けるあらゆる書風を究めて、其の長所を取られたのみならず能書は筆を擇ばずといふ諺とは正反對に、良工先利二其刀一、能書必用二好筆一と申されて、字體に從つて筆にも各種の筆を使ひ分ける必要ありとせられ、在唐中、製筆の法まで仔細に研究せられて、歸朝の後、親しく筆工に授けて狸毛を以て作らせられた筆を見られて、本塲のものに讓らぬといつて、嵯峨天皇や東宮(淳和天皇)に献ぜられて居る。但し狸毛筆を大師の始めて輸入せられたやうに説く人もあるが、それは誤りで、正倉院文書には、奈良朝時代に既に狸毛筆の使はれて居たことが見えて居る。近世盜賊仲間で筆の隱語に大師の名を使つて居るといふがそれはひどい。斯樣に一事に執着するものは、兎角他事に疎かなものであるが、大師の趣味は極めて廣く、總べての事に通曉徹底せられねば止まぬといふ樣子が見える。而も事の緩急を察せられて、機を見られるに敏なる事、亦實に驚嘆すべきものがあつた。如何に素養があつたからとて、二年の在唐は決して十分の修養であつたとはいはれぬ。さればこそ大師自身も在唐中習得になつた眞言秘藏が多からずして講述に差支るからといはれて、後年弟子の康守に入唐して補寫させられた事がある。また高岳親王(後の眞如親王)は大師に從つて密教を受けられて居たに拘らず、密乘の奧秘は日本で盡されぬといつて、其の疑を質されん爲め、後年入唐して居られる。(元亨釋書)而も大師が自ら急いで歸朝をせられたのは、當時日本の宗教界に於て密教の一日も早く傳來すべきものと考へられての事で、大師の歸朝後、密教が滔々として我が教界に浸潤瀰漫したのを見ても、其の先見の明に富まれた事は申すまでもあるまい。斯くの如く鋭敏にして機鋒縱横とも申すべき方でありながら、大師はまた極めて調和的であり、包括的であつたから、大師の前には敵もなく、味方もなく、諸人の隨喜渇仰を其の一身に聚められた譯であらう。
大師の感化
茲に至つて私は大師示寂後の有らゆる感化影響について述ぶるべき順序となつた。此の問題は極めて趣味の多いことで、「後の弘法大師」と申す演題に對しても、成るべく委しく説明したいのであるが、今は時間が無いから、概括的に簡單なる説明に止めて置かうと思ふ。
大師直接の感化はあまたの英俊大徳を其の門下より輩出して益宗運を振ひ起されたのである。加之朝廷の御保護も愈渥く、大師の示寂後程なく、仁明天皇の承和四年八月には勅あつて、眞言宗は近年中央には流傳して居るが、未だ地方に普く行れぬから、同宗の僧侶で講演と修法とに堪へたる者より、毎年諸國の講讀師を拔擢して選任するやうにと仰せられ、文徳天皇の天安二年からは眞言宗を以て諸宗に凖ぜしめられた。斯くて日本の密教は唐のそれの如く、立派に宮廷の宗教となりすまして、後七日法を始め、恒例臨時の祈祷法を致す事となり、國家に大事ある時は、何時も精祷を抽んでたこと、天台宗と變りはない。但し山門の衆徒は、寵眷に馴れて、屡嗷訴を行ひ、天下を騷して居るが、眞言宗には左樣の事は殆んどないと申して宜しい。それ等も傳教、弘法兩大師の性格の後世門下に及ぼす感化の相違とでも申さうか。併し大師以後の日本の眞言宗は一般に事相の形式に流れて、加持祈祷を專一とし、廣澤流、小野流の分立はあつても、是亦儀式の小異同に基くだけであつた。其の弊は一方に南都の佛教の如く貴族的宗教となつたと共に、一般には支那の密教同樣、道教や陰陽説などゝ混同されて、護符呪言を聯想される加持祈祷本位となり、眞言宗といへば御呪をするものと解されて、精神的方面に於ける濟世利民の使命を果す可能力が乏しくなつた故に、平安朝の末期に及んで、念佛宗や禪宗の興隆を來すに至つたのである。是に於て平安朝時代新教の開立について衝突を來した南都北嶺も、今は互に聯合して、念佛、禪さては室町時代の法華、一向等諸宗の新興に向つて壓迫を加へる奇觀を呈したが、この塲合にも、眞言宗は敢て此の聯合に加はらなかつた。それについて面白く感じられるのは、高野山が大師の入定以來、三密加持の靈塲と仰がれて、宗旨の別なく、此の納髮、納骨のことは、平安朝の末から物に見えて居り、上至尊より下庶人に至るまで、貴賤尊卑の差別なく、押しなべて行はれたことである。少しく後の事ではあるが、文禄征韓の役後、島津義弘父子が朝鮮陣の敵味方戰死者の爲めに建てたる石碑が、儼然として今尚高野山の奧院路に立つて居るなど、亦大師の偉大なる性格の感化の一端と見る事が出來やう。而も政治家や軍人と接觸を保つて、其の地歩を占めるに妙を得た高僧は、多く此の宗から輩出した。足利氏や豊臣氏と三寳院諸門主との關係など即ちそれである。
大師は古くから本地垂跡の神道を開かれたといはれて、天地麗氣記と申す兩部習合の書も、大師の著作といはれて居るが、其の假托である事は即ち前に述べた通である。室町時代に現はれた神道界の一偉人吉田兼倶は從來の兩部神道に對して宗源唯一神道を唱へたが、其の實は矢張眞言宗の事相に學ぶ所が多く密教の灌頂式を眞似て神道灌頂を行ひ、又神道護摩などいふ事をやつて居た。大師が嵯峨天皇と同く神道灌頂を大中臣智治麿から受けられたといふ傳説の如きも、恐らく吉田家の言ひ觸らしたものであらう。
文藝上、大師の入木道に於て一家を成された影響は實に著しいものであつて、大師以後の日本の書風で其の流派の如何を問はず、多少とも影響を被らぬものは無いといつてもよろしい。たゞ近世に現はれた所謂大師流なる書風は大師の飛白を加味した一種の波點ある書風を眞似たもので、大師の眞面目と遠ざかること恰も御家流と尊圓親王の筆蹟との隔りの如きものがある。片假名や平假名の製作及びその年代については學者の間に兎角の異説がないでもない。彼の實語教等を大師の作とするは全く後の假托に過ぎぬ。さりながら斯かる諸説の世に顯はれたのは、畢竟大師が生前に平民的普通教育に盡瘁せられた反映とも見るべきものであつて、大師の偉大を加ふるとも減ずる憂は更に無いのである。最後に廣く密教の我が文化史に及ぼせる影響に就て一言しやう。それは固より東密、台密に通じての事であるが、由來密教は如來内證の眞理であつて、機根の十分に熟した人に限つて、神秘的儀式の下に、秘印、秘明を授くることゝしてあるが、日本に於ても、密教の傳播と共に、其の感化は社會の各方面に及んで居る。近世まで行はれて居た天皇御即位の御大禮に印を結ばせられることは、一種の秘密傳授となつて居つた事で、これを即位灌頂と申して居たのである。其の他又文武を始めあらゆる藝能の秘訣傳授を嚴重にして居た事も、其の影響の一つであつたかと思はれる。現に古今傳授の如きは古今灌頂ともいはれて居る。其の師資相傳嫡々繼ぎ來る精神と行事とに於ては本尊とも申すべきものゝ前に、他へ漏さぬとの嚴重の誓を立てさせて秘訣を傳ふるところ、傳法灌頂と一致するものであるこれには多少の弊害も伴はぬでは無つたが、それ等の伎藝が、長い年月の間に亡びずして、後世に傳へられることを得た上に、多大の貢献する所あつた事は否定されぬ。
結語
これを要するに、大師は實に渾然として大成せられたる大人格の人であつた。思ふにその法雨の後代に潤ひつゝあるも偶然ではない。今日の御催しの趣意は單に大師の遺徳を渇仰讃嘆せられるばかりでなく、此の機會に、一層大師の事蹟を窮められて、色々間違つた後世の傳説を排して大師の眞面目を拜せられるも一つの目的であらうと思ふ。大師の遺告を見ても、其の法流を受けて眞言秘密の法門に入つて居られる諸君は、皆和衷協同して、教法を護持せらるべき重大なる責任を附囑せられて居るのである。今の時勢は大師の出現せられた時と異なつて居るから、一々同一の條件にあてはまらぬとはいへ、諸君が、大師一生の努力と後代の感化とに鑑みて、社會人心の爲めに盡瘁せられるに於ては、其の効果は必ず大に觀るべきものがあらう。私は切に諸君の努力によつて千百四十一年の昔に於ける大師の誕生を此の末法澆季の世にまでも有意義ならしめられるに至らんことを望むものである。
(拍手大喝采)
底本:「弘法大師と日本文化」六大新報社
1929(昭和4)年2月21日発行
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入力:はまなかひとし
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