漢詩を楽しもう ――劉希夷「白頭を悲しむ翁に代わる」――
こんにちは。本年度も、漢詩についてお話をさせてもらいます。本日(二〇〇九年一月十九日)と来週と、二回話をしますが、昨年度同様、それぞれ一回で完結しますので、二回とも出てくださらなくて結構です。本日は、唐代の詩を一首読みます。準備した詩は、李白や杜甫といった、唐代、いや、中国を代表する詩人の詩ではありません。唐代(六一八〜九〇七)は、三百年ほど続きました。その三百年を四期に分けるのが一般的です。初唐、盛唐、中唐、晩唐の四つです。初唐は唐の前、六朝の詩から唐の詩に変化する過渡的な時期です。盛唐は李白・杜甫が活躍した、唐詩と言いますか、中国の詩の最盛期です。中唐は、安禄山の乱で唐王朝はガタガタになるのですが、少し持ち直した時代で、白楽天や韓愈・柳宗元が活躍しました。空海が中国に留学したのも、この時期です(八〇四〜八〇六)。晩唐は、衰退して滅亡するまでの時期です。杜牧と李商隠が代表的詩人です。唐詩で李杜といえば、李白と杜甫ですが、晩唐の李杜は李商隠と杜牧です。
前置きが長くなりましたが、本日読む詩は、一番はじめの初唐の詩です。この時期は、唐代の典型的な詩である絶句とか律詩とかというものは、あまり見られず、歌行体と言いまして、比較的句の数が多い詩が流行りました。今日の詩も、七言二十六句ですので、律詩三つ分ほどの長さになります。それでは、その詩を読みましょう。
代悲白頭翁 白頭を悲しむ翁に代わりて 劉希夷
洛陽城東桃李花 洛陽城東 桃李の花
飛来飛去落誰家」 飛び来たり飛び去りて誰が家にか落つる
洛陽女児惜顔色 洛陽の女児は顔色を惜しみ
行逢落花長嘆息」 行くゆく落花に逢いて長嘆息す
今年花落顔色改 今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在 明年花開くも復た誰か在る
已見松柏摧為薪 已に見る 松柏の摧かれて薪と為るを
更聞桑田変成海」 更に聞く 桑田の変じて海と成るを
古人無復洛城東 古人 洛城の東に復する無く
今人還対落花風 今人 還た落花の風に対す
年年歳歳花相似 年年歳歳 花相い似たるも
歳歳年年人不同 歳歳年年 人同じからず
寄言全盛紅顔子 言を寄す 全盛の紅顔子
応憐半死白頭翁」 応に憐れむべし 半死の白頭翁
此翁白頭真可憐 此の翁の白頭 真に憐れむべし
伊昔紅顔美少年 伊れ昔 紅顔の美少年
公子王孫芳樹下 公子王孫 芳樹の下
清歌妙舞落花前 清歌妙舞 落花の前
光禄池台開錦繍 光禄の池台 錦繍を開き
将軍楼閣画神仙 将軍の楼閣 神仙を画く
一朝臥病無相識 一朝 病に臥して相い識る無く
三春行楽在誰辺」 三春の行楽 誰が辺にか在る
宛転蛾眉能幾時 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ
須臾鶴髪乱如絲 須臾にして鶴髪 乱れて糸の如し
但看古来歌舞地 但だ看る 古来歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲」 惟だ黄昏鳥雀の悲しむ有るのみ
比較的わかりやすい詩ですけれども、長いので切って解釈してゆきます。七字目に○や△の印を付けたのは、押韻の印です。途中で印が変わっているのは、韻の種類が変わっているということです。途中で韻の種類をかえることを、換韻といいます。換韻しているというのは、古詩であるということです。金の切れ目が縁の切れ目とよく言われますが、中国の詩は「韻の切れ目が意味の切れ目」だと、私は教わりましたので、その切れ目に分けて解釈してゆきます。全部で六種類ありますので、六段に切ります。
先ず第一段は、はじめの二句。七字目の花・家が押韻しています。「洛陽」というのは地名です。「洛」は、黄河の支流、洛水のことで、「陽」というのは、山の南側、または川の北側を言います。ですから、洛水の北側という意味ですが、そこにある都市の名前です。後漢など九代の王朝が都を置いた都市です。唐代には都長安に次ぐ都市でした。ご存知の通り、中国の都市は城壁で囲まれていました。「城」というのは、都市のことです。「洛陽城東」で、洛陽の町の東。「桃李の花」はモモとスモモの花です。春を代表する花です。日本では春を代表する花はサクラですが、中国にはあまりサクラはないようです。一般的ではありません。中国では、モモかスモモか、あるいはアンズの花が春の花として一般的です。今の暦では、三月の末から四月の初めに咲きますが、旧暦では二月の末から三月の初めになり、三月三日の桃の節句と時期が合います。第二句は難しくありませんね。モモやスモモの花びらが飛んでいって誰の家に落ちるのか。「誰」という疑問詞があるので、ここは疑問文です。
次の第二段も二句だけです。色・息が押韻しています。「女児」は若い女性、乙女です。「顔色」は、容貌、かおかたち。道を通ると「落花」落ちる花びらを目にして、時の推移を感じてしまい、長いため息をついてしまう。小野小町の「花の色は移りにけりな」の和歌と同様の趣です。
第三段は四句。改・在・海が韻字です。前の二句は、花が散るように容貌も移ろい、来年花が咲いても誰が生きているやら。時の推移から、老いと死に連想が移ります。後ろ二句の「松柏」はマツやヒノキの針葉樹林。『論語』子罕篇に次のような言葉が見えます。「歳寒うして然る後松柏の彫むに後るるを知る」。夏では他の木々が葉をつけているのでわからないけど、冬になるとマツやヒノキが寒さに堪えて葉をつけたままでいる、そういう強い木であることがわかる。この言葉を発した孔子は、そのマツやヒノキのように人間性を強くしなさいというつもりだったようです。ですから、マツやヒノキは簡単には姿を変えない強い木、たくましい木だけれど、長い時間の経過によって薪になってしまうことはあります。さらに、「桑田」つまり桑畑です。中国語の「田」は水田だけでなく、畑も指します。畑とか、畠の字は日本製の字です。桑畑も長い時間の経過で海になってしまうそうだ、という意味です。そんなこと聞いたことがない、眉唾物ではないか、と思う人もいるでしょうが、中国の西域には、動く湖があって、都市が沈んでしまうことだってあります。日本にも、芭蕉が奥の細道に行った象潟は、松島のような景色だったそうです。ところがその後に起こった地震で、土地が隆起し、今は水田になっています。桑畑が海になるという話は、「滄桑の変」といって、六朝時代の仙人の世界を描いた書物に見えます。マツやヒノキが薪となり、桑畑が海となるというこの二句ですが、このもとになった句が、六朝時代に編纂された詩文集に『文選』がありますが、その中の「古詩十九首」と呼ばれる詩の中に見えます。その第十四首、「去る者は日に以て疎し」で始まる詩の中に、「古墓は犂かれて田と為り、松柏は摧かれて薪と為る」というのが見えますので、ここの二句は、この句を発展させて作っていると言えるでしょう。マツやヒノキが薪になったり、墓が畑になったりするけれども、その畑も海になるという話がある、ということです。
第四段は六句。東・風・同・翁が韻を踏んでいます。「古人」は昔の人、つまり死んだ人です。「復」は動詞として読みます。「洛城」は洛陽です。次の句「落花の風に対す」と、風に目を向けても見えないと思うかも知れませんが、「風」は押韻の字なので、句末に持ってこなければならないために、こういう語順になっているのです。意味は、風に吹かれて散る花に目を向ける、ということです。昔の死んだ人は洛陽の町の東に戻ってきて花を見ることはない、今の人は風に散る花びらを見ているけれども。次の二句は、非常に有名な句なので、聞いたこともあると存じます。「年年歳歳」も「歳歳年年」も、毎年という同じ意味です。毎年同じ花が咲くのに、人は代わってゆく。最後の二句、「言を寄す」とは、呼びかけの言葉。もしもし、とか、これこれ、ということです。「紅顔」は、赤いほっぺたの顔。若々しい、美しさを形容する言葉で、男性にも女性にも使います。前に「女児」という言葉が出ているし、後で女性の容貌を形容する「蛾眉」という言葉も出てきますから、ここは、女性に呼びかけていると解釈できるでしょう。もしもし、今が盛りのうるわしき若いおかた、この半ば死にかけの白髪の老人を憐れんでおくれ。二句をまとめて聯といいますが、ここの六句、つまり三聯ですが、すべて対句です。人の命は有限なのに、時間は容赦なく推移してゆくこと、無常観を畳みかけています。
第五段は八句。憐・年・前・仙・辺が韻字です。ここは、白髪の翁の描写になります。初めの二句の「伊」は、指示語です。「これ」と読みます。この爺さんは白髪で本当に気の毒だが、この人も昔は紅顔の美少年だった。紅顔の美少年という言葉は熟しているので、そのまま訳しますが、「少年」は、今の日本語と少しずれます。青年とか、若者というくらいの意味です。次の四句は、翁が若かりしころを描きます。そしてそれぞれ二句ずつが、対句になっています。「公子王孫」は貴公子たち。「芳樹」は、花かおる木。「清歌妙舞」は上手に歌ったり踊ったりすること。「光禄」は「光禄勲」という役職名。高官です。「台」は屋敷に造った見晴らし台。「錦繍を開く」とか「神仙を画く」とかは、贅を尽くしているということです。花の咲く時期に貴公子たちが集う中で歌ったり舞ったり、高官や将軍の屋敷は豪華なものだった。最後の二句は今の状態に変化したことを述べます。ある朝病気に臥せたあと知り合いが消え、春の行楽もどこへやら。「誰が辺にか在る」は、疑問文です。誰の所に行ったのか。ということは、自分の所にはないという意味です。
第六段は四句。時・絲・悲が韻を踏んでいます。「絲」とあえて古い字を使ったのは、もともと「糸」と「絲」は別字で、音も「糸」と「絲」というように違っていました。それを示すためです。前の二句、「宛転」は美しい眉の形容で、弧を描いている様。「蛾眉」は、蛾の触覚のような美しい眉で、女性の美貌を表します。そう言えば、「宛転たる蛾眉」という言葉は、白楽天の「長恨歌」にも使われています。「宛転たる蛾眉馬前に死す」。楊貴妃が死んだことを表す句です。「能く幾時ぞ」は、反語でどれほどもない。「須臾」は短い時間。「鶴髪」はツルのように白い髪。「乱れて絲の如し」は、もつれた絹糸のよう。美しい娘さんだって、すぐに白髪頭の婆さんになるじゃないか。最後の二句、むかし舞って歌ったところに目を向けると、「黄昏」は、夕暮れ時、寂しさをつのらせる時刻です。「鳥雀」はスズメなどの小鳥のことで、それが悲しくさえずるばかりだ。
以上、語釈を交えて説明しました。長い詩ですが、同じ言葉を何度も使ったりして、比較的容易に解釈できると思います。私は、この詩の口語訳として、次のようなものを作りました。
まちのひんがし ももすもも はなびらとんで どこへゆく
まちのむすめは いろをめで ちるはなみては うちなげく
いまはなちって けしきかえ つぎはなさけば だれがいる
まつやひのきも まきとなり くわばたけすら うみになる
むかしのひとは すがたけし いまもひとびと はなおしむ
まいとしまいとし おなじはな まいとしまいとし かわるひと
ひとこともうす むすめさん ごらんくだされ このおきな
このよぼよぼの おいぼれも むかしはわかく おとこまえ
きこうしつどう にわのうち みごとにうたう はなのまえ
ごうかなうたげ あやにしき ごくらくせかい あらわれる
やまいにたおれ だれもなく たのしいはるは どこにある
びじょのかんばせ いつまでか たちまちおいて しろいかみ
かつてうたった ところには ひぐれさびしく ことりなく
ところで、この詩は突然できあがったのではなく、これに先立つ詩があって、それらの詩の情趣を取り込みながら作られました。語釈であげた古詩十九首の第十四首、「古墓は犂かれて田と為り、松柏は摧かれて薪と為る」という句が、その一つです。それ以上に、強く影響している詩があります。六朝時代、『文選』とほぼ同時期に編集された、『玉台新詠』と呼ばれる詩集の中に、宋子侯という人の作とされる詩「董嬌饒」があって、この詩にもとづいて「白頭を悲しむ翁に代わる」は詠まれています。少し長いですが、以下に引用します。
董嬌饒 宋子侯
洛陽城東路 洛陽 城東の路
桃李生路傍 桃李 路傍に生ず
花花自相対 花花 自から相い対し
葉葉自相当 葉葉 自から相い当たる
春風東北起 春風 東北より起こり
花葉正低昂 花葉 正に低昂す
不知誰家子 知らず 誰が家の子ぞ
提籠行采桑 籠を提げて行くゆく桑を采る
繊手折其枝 繊手 其の枝を折れば
花落何飄颺」 花落つること何ぞ飄颺たる
請謝彼姝子 請う 彼の姝子に謝せん
何為見損傷 何為れぞ 損傷せらるると
高秋八九月 高秋 八九月
白露変為霜 白露変じて霜と為る
終年会飄堕 終年 会ず飄堕せん
安得久馨香 安くんぞ久しく馨香あるを得ん
秋時自零落 秋時には自ら零落するも
春月復芬芳 春月には復た芬芳あらん
何如盛年去 何如にぞ 盛年去りて
歓愛永相忘」 歓愛 永く相忘れらるると
吾欲竟此曲 吾れ此の曲を竟えんと欲す
此曲愁人腸 此の曲 人の腸を愁えしむ
帰来酌美酒 帰り来たりて美酒を酌み
挟瑟上高堂」 瑟を挟みて高堂に上らん
※「如」字原文作時、拠芸文類聚改
押韻は一韻到底といって、すべて同じ韻で踏んでいます。しかし内容は三段に分けられます。まず初めの十句。洛陽城東の桃李の花の描写。そして、娘が花の枝を折ると花がこぼれ落ちるという内容です。次の十句は、その娘に対して、ある人が枝を折るのをとがめ、世の無常を説く。最後の四句は、終わりの決まり文句のようですが、愁いが生じて、酒と音楽で慰める、という内容です。洛陽城東という場所といい、娘に対して説くところといい、非常に類似性があります。岩波文庫に『玉台新詠』を翻訳された、鈴木虎雄博士は、「唐の劉庭芝の「代悲白頭翁」が此詩に本づいてゐることは明かだ」と題解に書いておられます。劉庭芝とは、劉廷芝、つまり劉希夷のことです。庭の字が間違っているように見えますが、ある書物にこう記してあり、鈴木博士はそれによっているからです。劉希夷は伝統の上に載って詩を作りました。この詩の場面設定が洛陽で若い女性が桃李の花にため息をつくというのは、先行する『玉台新詠』の詩を踏まえたからです。二つの詩を比べると、劉希夷の詩の方が、時間の推移をたたみかけるように、鮮明に詠み込んでいます。そして、強く人の感情に訴えてきます。完成度の高い作品だと言えます。
この詩は初唐を代表するほど有名な詩ですが、それは、「年年歳歳花相い似たるも、歳歳年年人同じからず」という二句が、人口に膾炙しているからです。この二句にまつわるエピソードがありますので、それを紹介します。唐の詩人の伝記集に『唐才子伝』という書物があります。できあがったのは、その序文から、元の時代、大徳甲辰(八年、西暦一三〇四)で、辛文房という人が編纂しました。この書の中に、作者劉希夷の伝記があります。その中の関連するところを引きますと、
希夷、字廷芝、潁川人、(中略)嘗作白頭吟一聯云、今年花落顔色改、明年花開復誰在、既而嘆曰、此語讖也、石崇謂白首同所帰、復何以異、乃除之、又吟曰、年年歳歳花相似、歳歳年年人不同、復歎曰、死生有命、豈由此虚言乎、遂併存之、舅宋之問苦愛後一聯、知其未伝於人、懇求之、許而竟不与、之問怒其誑己、使奴以土嚢圧殺於別舎、時未及三十、人悉憐之、(元辛文房『唐才子伝』巻一)
希夷、字は廷芝、潁川の人なり。(中略)嘗て白頭吟を作り、一聯に云う、今年花落ちて顔色改まり、明年花開くも復た誰か在ると、既にして嘆きて曰く、此の語は讖なり、石崇の白首帰する所を同じうすと謂うに、復た何を以てか異ならんと。乃ち之を除く。又た吟じて曰く、年年歳歳花相い似たるも、歳歳年年人同じからずと。復た歎じて曰く、死生命有り、豈に此の虚言に由らんやと。遂併せて之を存す。舅の宋之問は苦だ後の一聯を愛し、其の未だ人に伝わらざるを知りて、懇ろに之を求む。許すも竟に与えず。之問其の己を誑すを怒り、奴をして土嚢を以て別舎に圧殺せしむ。時に未だ三十に及ばず。人悉く之を憐れむ。
劉希夷、呼び名を廷芝といい、潁水の人。「白頭吟」という詩、これは題名が違いますが、「白頭を悲しむ翁に代わる」詩のことです。この詩の一聯に「今年花落ちて顔色改まり、明年花開くも復た誰か在る」というのがあって、「この言葉は予言である。むかし石崇という人が『白頭帰する所を同じうす』と言って、我が身の将来を不吉にしたのと同じである」と悲しみ、この二句を削除した。石崇というのは、晋の時代の人で、大金持ちであったけれども、天寿を全うできずに殺されてしまう運命の人です。ところがさらに「年年歳歳花相い似たるも、歳歳年年人同じからず」と詠んだ。「人の生死には運命がある。どうしてこんな作りごとの通りになるだろうか」と思って、前の二句とともに詩の中に入れた。舅とは、しゅうとではなく、母親の兄弟、あるいは妻の兄弟を指します。親戚の宋之問は後の二句、つまり「年年歳歳……」の句を大変気に入り、まだ人々に広まっていないことを知って、熱心に求めた。劉希夷は承諾していたが、結局あたえなかった。宋之問は自分をだましたと腹を立て、配下の者に命じて別宅で土嚢を使って殺させた。その時、劉は三十歳に満たなかった。人々はみなこのことを悲しんだ。このような内容です。自分が詠んだ句が不幸な運命を予言するというのは、後からのこじつけたような気がしますが、宋之問がこの詩に関わっているのは、どうも本当のようです。清の時代に唐代の詩をすべて集めたと言われる『全唐詩』というものが編纂されますが、宋之問の巻にこの詩とほとんど同じ詩が収められています。題名は「有所思」とあって違いますが、文句はほとんど同じです。ほとんど同じ詩が別人の詩集に収められているのは、どちらかが盗んだからです。宋之問も、大人げない気がしますが、実は劉希夷よりも若かったのです。宋之問は、人に知られないようにしたのでしょうが、結局みんなに知られてしまったわけです。やはり悪いことはできません。
この詩は、時間の推移に対する人の思いをかきたてます。いわば情の世界を描いた典型といえます。心に訴えるものがありますが、この詩から人々の心は安まるでしょうか。つらい思いを募らせるばかりではないでしょうか。どんどん行き詰まってしまう詩です。人生観が変わるとか、生き方の救いになるとか、正しい生き方に導くとか、そういう性質のものではありません。それが、この詩の限界でもあります。人としてどう生きてゆけばよいのか、どう対処したらよいのかとか、あるいは、どう考えてゆけばよいのか、というのは、「志」にあたります。これも中国の詩の主題として詠まれてきました。この志が本格的に詠まれるのは、盛唐と呼ばれる時期以降になります。
最後にこの詩を現代中国語で朗読します。
洛陽城東桃李花 飛来飛去落誰家
洛陽女児惜顔色 行逢落花長嘆息
今年花落顔色改 明年花開復誰在
已見松柏摧為薪 更聞桑田変成海
古人無復洛城東 今人還対落花風
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子 応憐半死白頭翁
此翁白頭真可憐 伊昔紅顔美少年
公子王孫芳樹下 清歌妙舞落花前
光禄池台開錦繍 将軍楼閣画神仙
一朝臥病無相識 三春行楽在誰辺
宛転蛾眉能幾時 須臾鶴髪乱如絲
但看古来歌舞地 惟有黄昏鳥雀悲
ご清聴ありがとうございました。
【付記】この文章は、大阪市都島区生涯学習推進委員会の依頼を受けて、二〇〇九年一月十九日、都島区役所で市民を対象に話した、「地域教育資源ネットワーク事業――漢詩を楽しもう」という題の講演を、書き改めたものである。