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漢詩を楽しもう
――七つのハードルを越えて漢詩を読む――
初めに一冊の本の紹介をします。昨年(二〇〇四)の三月出版の『一海知義の漢詩道場』(岩波書店)という本です。これは、漢詩を読む読書会での問答を記録したものです。輪番で、発表者が漢詩を解釈して、その解釈がいかに間違っているかが、漢詩解釈の師匠、半解先生によって明らかにされるという内容です。陥りやすい間違いが指摘され、非常に参考になると思います。半解先生というのは、読書会の主宰者である一海知義先生のことです。この本の中に、先生の書かれたコラム「七つのハードル――漢詩を読むコツ――」という文章がありますが、今日は、その内容に沿って、一首の漢詩を解釈してゆこうと考えています。
まず、「七つのハードル」とされるものを、次に挙げますと、
一、漢字の判読
二、漢詩のリズム
三、難解な漢語
四、典故
五、作者についての知識
六、作詩の背景
七、中国古典語(漢語)についての知識
以上です。
解釈する詩は、次に掲げる書です。

ここに書かれた字は、非常に達筆で、なかなか読めません。これを一字一字楷書にする作業が、七つのハードルの第一「漢字の判読」にあたります。楷書にすると、こうなります。
小葺蝸廬便著家槿籬莎徑任欹斜
爲生草〃僧行脚到處悠〃客泛槎
孤蝶惜衣晴曝粉穉蜂貪蜜晩
争花有書嬾讀吾堪愧睡起何
妨自磑茶
実を言いますと、この楷書に直す作業が、私にとっては至難の業です。私はこの書の写しをいただいたとき、もとの詩を知っていましたから、難なく判読できました。ところが、なんとか判読できたとしても、このままでは漢字が並んでいるだけで、どのような意味なのか、分かりません。
次にすることは、字数を数えるのです。数えると、五十六文字あることに気づきます。五十六という数は、ちょうど7×8に当たります。ということは、一句七字が八句で、五十六字になりますから、これは多分七字八句の詩であろうと、予想して、七字八句に並べます。並べてみましたら、七言詩では第一句と偶数句の最後の字が韻を踏むのですが、それを、確かめます。それらの字は、「家 ka、斜 sya、槎 sa、花ka、茶 tya」です。音の頭の子音を除いた部分、それが韻に当たるわけですが、すべてaであり、同じ韻であることが、お分かりのことと存じます。ということは、韻を踏んでおり、この五十六文字は、七言八句の詩であることは間違いありません。七言八句の詩は、おおむね七言律詩ですが、ここではまだそうとは断定できません。とにかく七言詩であれば、各句のリズム、つまり切れ目が分かります。これが、二つ目のハードル、「漢詩のリズム」にあたります。
七言詩の句のリズムは次の二つのどちらかになります。
A型 2+2+2+1
B型 2+2+1+2
この二つのどちらかを、各句に当てはめ、分かち書きをして、さらに旧字体を常用漢字に改めると、次のようになります。
1 小葺 蝸廬 便 著家 (B型)
2 槿籬 莎径 任 欹斜 (B型)
3 為生 草草 僧 行脚 (B型)
4 到処 悠悠 客 泛槎 (B型)
5 孤蝶 惜衣 晴 曝粉 (B型)
6 稚蜂 貪蜜 晩 争花 (B型)
7 有書 嬾読 吾 堪愧 (B型)
8 睡起 何妨 自 磑茶 (B型)
すべてB型になりました。これは、非常に珍しいことです。普通は、A型とB型とが、混ざって存在しています。例えば、李白の詩に、
両人 対酌 山花 開 (A型) 両人対酌すれば山花開く
一杯 一杯 復 一杯 (B型) 一杯一杯 復た一杯
「山中与幽人対酌(山中にて幽人と対酌す)」
とあるように、どちらのリズムもあるものです。すべて同じB型になるとは、珍しい。この詩は、リズムの説明には不都合な詩です。
さて、このように切って並べると、先ほど漢字の羅列に見えていたのに比べて、何となく意味が分かりそうな気になりませんか。まだまだ意味の分からない字があり、完全には分からないでしょうが、分かち書きをすると、解釈の助けになります。このリズムに従って、書き下し文を示すと、次のようになります。
1 小しく蝸廬を葺きて便ち家を著け
2 槿籬 莎径 欹斜に任す
3 生を為すこと草草たり 僧の行脚
4 到る処 悠悠たり 客の泛槎
5 孤蝶 衣を惜しんで晴れに粉を曝し
6 稚蜂 蜜を貪りて晩れに花を争う
7 書有るも読むに嬾くして吾れ愧ずるに堪えたり
8 睡りより起きて何ぞ妨げん 自ら茶を磑くを
ここで、第三、四句と第五、六句を見ますと、それぞれの句が互いに同じような構造になっていることが分かります。律詩の条件として、第三、四句、及び第五、六句をそれぞれ対句にすることが求められます。この詩はその条件を満たしており、七言律詩であることは、まず間違いありません。煩雑な規則として平仄がありますが、調べてみると、ちゃんと満たしています。特に、この対句の部分ですが、平声を○(◎は押韻の字)で、仄声を●で示せば、
3 為生草草僧行脚 ○○●●○○●
4 到処悠悠客泛槎 ●●○○●●◎
5 孤蝶惜衣晴曝粉 ○●●○○●●
6 稚蜂貪蜜晩争花 ●○○●●○◎
と、それぞれの二句において、同じ位置の字の平仄が入れ替わっています。音声的にも美しい対句であると言えます。こうして、対句と平仄から、この詩が七言律詩であることも分かりました。
ハードルの三つ目は、「難解な漢語」の解釈となります。第一句の「小葺」は「小しく葺く」と読みます。葺の意味は、屋根を葺くだけでなく、家を修築することです。「蝸廬」とは、カタツムリの殻のような小さな家。「便」は「すなわ(ち)」と読み、そのままという意。「著」は「着」の異体字で同じ意味、着ける。家をつけるのか、家につけるのか、解釈が分かれますが、どちらにしても、家として住みつくことです。第二句に入りまして、「槿籬」はムクゲの垣根。「莎径」の莎は、ハマスゲという草のことで、莎径で、その草の生えた小道。「欹」は、傾くという意味です。ムクゲの垣根の状態を述べているのでしょう。「斜」の斜めは、草の小道が大通りまで斜めに走っていることだと思います。第一、二句の解釈は、狭い廬を少し改修して、そのまま家として住むが、ムクゲの垣は傾き、草の生えた道は斜めに通ったままである、ということです。
第三句、「草草」は、粗略なさま。生活することが、粗略で、僧侶が行脚しているのと同じである、という意味になります。第四句、「悠悠」は、あてどないさま。「客」は旅人。「槎」は、いかだ。舟の意味にも用います。どこに行っても、あてどなく旅をする、旅人の舟のようだ。これまでの、或いは現在の、自分の生活を述べているのでしょう。
第五句、一匹の蝶々が「衣」、羽根のことですが、それを大切に扱って、晴れの間に日に曝している。第六句、「晩」は「くれ」と読み、夜でなく、夕方の意味です。幼い蜂どもは蜜を求めて、暮れるまで花から花へ競い合っている。目の前に見える、家の表の風景を詠んでいるのでしょう。
第七句、「嬾」は「ものう(し)」と読みます。面倒くさい、という意味。「堪愧」は「愧ずるに堪ゆ」と読み、非常に恥ずかしい、という意味。書物を持っているけれども読むのが面倒くさいのは非常に恥ずかしい。第八句、「睡起」は「睡りより起く」。読書が面倒で、眠ってしまったことが分かります。「何妨」は「何ぞ妨げん」と読み、してもよい、という意。「磑」は、いしうす。「磑茶」で、茶の葉をうすでひき、抹茶にすること。一眠りから起き上がって、茶の葉をうすでひいて飲むくらいは許されるだろう。
これら、難解な語は、辞書を引くことにより、比較的簡単に求めることができます。もう一度、繰り返し意味を解釈しますと、「狭い家を改修して住むが、外側は手つかずのまま。生活はそそくさとしたもので、どこに行っても、あてどない思いでいたものだった。家の表では、蝶が羽根を日に曝し、蜂が花の蜜を争っている。書物を読むのが面倒で非常にはずかしいが、お茶ぐらいは飲んでもよいだろう。」ということになります。表面的な意味しか分かりませんから、この詩は何を述べようとしているのか、今一つ分かりかねます。なぜかと言うと、一海先生の説明では、ここまでにハードル七つのうち、三つしか越えておらず、まだ越えねばならないハードルが、いくつもあるから、ということになります。
四つ目のハードルは、「典故」となりますが、これは後にまわします。それで次に五つ目のハードル「作者についての知識」ということになります。それについては、初めに呈示しました書の左端に書かれているものを見ます。
陸放翁詩辛巳晩春書閉戸閑人
読み下しますと、「陸放翁詩、辛巳のとし晩春に書す。閉戸閑人」となります。陸放翁とは、南宋の詩人、陸游(一一二五〜一二〇九)という人を指します。この詩人の名を初めてお聞きになる方もいらっしゃると思いますが、中国では結構有名な詩人です。広辞苑(第五版)の記載を引用しますと、
南宋前期の詩人。字は務観、号は放翁。浙江の人。金に対する抗戦を唱え、当局者に嫌われて不遇の生涯を送る。詩は慷慨の気に満ちた愛国詩人の面と、田園自然に親しむ風流詩人の面とに特色を見る。(中略)著「剣南詩稿」「渭南文集」「老学庵筆記」など。
とあります。当時の政権内部では、抗戦派は少数派で、そのために陸游は役人として不遇で、官職に就いても繰り返し弾劾されました。そのたびに、辞職しては田舎に帰り隠居生活をしたのです。そのため、田園生活を詠んだ詩をたくさん残しています。さらに政権から追い出された人ですから、農村の生活を脅かす政策には、強い憤懣をあらわにする、正義感の強い人でした。先ほど、中国では有名な詩人と申しましたが、陸游は歴代の詩人の中で最も多作として知られており、現存する詩の数は、九千二百首にのぼります。それから、清(しん)朝の乾隆帝の時代に、勅撰の詩集『唐宋詩醇』が編集されますが、それに選ばれたのは、唐宋時代を代表する六詩人です。その中の一人に入ったほどです。ちなみに陸游以外の詩人は、李白、杜甫、白居易、韓愈、蘇軾です。これらの詩人は、名前ぐらいは耳にされているのではないでしょうか。陸游は、この詩人たちと肩を並べるほどであると、当時見なされていました。現代中国でも評価されています。第一級の詩人と言っても、かまわないでしょう。
ところで、閉戸閑人というのは、経済学者河上肇(一八七九〜一九四六)博士の号です。陸游の詩を愛し、注釈書まで作りました。辛巳は十干十二支です。辛は十干(甲きのえ乙きのと丙ひのえ丁ひのと戊つちのえ己つちのと庚かのえ辛かのと壬みずのえ癸みずのと)の一つです。十年ごとに巡ってきます。ということは、実は西暦紀元の年の、一の位と対応します。甲の年は、四の年です。昨年(二〇〇四)は、甲の年でした。辛の年は、甲の三年前、または七年後、つまり何千何百何十一の年にあたります。対応を表にすると、
甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
四 五 六 七 八 九 〇 一 二 三(紀元後年の一の位)
となります。十二支(子ね丑うし寅とら卯う辰たつ巳み午うま未ひつじ申さる酉とり戌いぬ亥い)のほうは、ご存知の方がほとんどと思います。今年(二〇〇五)は、酉年ですね。十二年ごとに巡ってきます。西暦の一の位が五ということは、乙の年でもあります。ですから、今年は「きのととり」、音読みで「イツユウ」の年とも言います。十年ごとと十二年ごと、その最小公倍数は六十ですから、乙酉の年は六十年ごとに、巡ってきます。他の組み合わせも、六十ごとに循環します。一巡りすることを、還暦と言いますね。人生五十年の時代では、長寿とされました。自分の生まれた十干十二支の年に戻ることを言います。今年から、四年さかのぼりますと、二〇〇一年、この年が辛巳の年に当たります。二〇〇一年では、河上肇は亡くなっています。六十年さかのぼると、昭和十六年(一九四一)、河上博士数え年六十三歳。さらに六十年さかのぼると、博士は数え年の三歳ですから、これを書くのは難しいですね。つまり、この書が書かれた年は、十干十二支によって、昭和十六年と特定できるわけです。
作者について分かると、作詩の背景も比較的簡単に導き出せます。陸游は、よく研究されています。現在では、一字索引もあります。調べてみると、この詩は『剣南詩稿』巻二十一に見える「蝸廬」という題で、紹煕元年(一一九〇)の秋、陸游が六十六歳に詠んだものと分かります。陸游の年譜を見ますと、前年の暮れに弾劾され、職を辞して都より帰郷した、とあります。政権内部から煙たがられて弾き出されたわけです。陸游は辞職して、どう思ったのでしょうか。策略の渦巻く政権内部から離れることができて、せいせいした、と詠んだ詩があります。それで、陸游は辞職して喜んだかというと、人間の心は、そう単純に割り切れないもののようです。当時の知識人は、正しく行われる政治に参画することを理想としていました。陸游も、せいせいした反面、政治に加われなくなったことについて、自分の無力感を嘆いたはずです。辞職してから一年弱、しばらく政治から離れていると、嫌なことも忘れてしまい、戻りたいという気も起こってくるでしょう。帰郷した陸游は、落ち着いてよくよく考えてみると、今の政治に参加できない歯がゆさを感じたのではないでしょうか。この詩には、弾劾され辞職させられたことへの恨みが込められていると解釈すべきです。
自分の無力感を詠んだとする解釈では、第三、四句の意味がはっきりしてきます。「生を為すこと草草たり」とは、自分の生活が粗略極まる、つまり達成感の得られないものだと訴えています。「到る処悠悠たり」。陸游は地方官として各地を巡りました。だから、到る処、どこに行っても、あてどなく、目的に到達することがなかったと、これまでの人生を振り返ったのでしょう。自分の生涯は何だったのか、いま自分は何をしているのか、と抑えきれない心の内を詠んでいると解釈できます。さらに、第七句でも、「書有るも読むに嬾くして吾れ愧ずるに堪えたり」。自分は幾らか書物を持っている。それは本来世の中をよくするための政治に有益なものであるが、読むのが面倒になってしまって誠に恥ずかしい、ということです。時の政治に貢献したいけれど、それもかなわない立場におかれて、自分の気力も弱ってきたのです。
こんな陸游の思いに、河上博士は共感を覚えたことでしょう。博士自身も、治安維持法違反で投獄されました。昭和十六年は釈放されているけれど、保護観察を受けていて、自由にものも言えない立場に立たされていたのです。
次に、後回しにしていた四つ目のハードル「典故」について、お話し致します。典故とは、詩中の語が踏まえる故事来歴です。
まず、「悠悠」という言葉ですが、これは非常に古く、中国最古の詩集『詩経』に見えます。「関雎」と題する詩は、寝ても覚めても美しい女性を探し求める男性を描きます。
求之不得 之を求めて得ざれば
寤寐思服 寤めても寐ねても思服す
悠哉悠哉 悠なるかな悠なるかな
輾転反側 輾転反側す
『詩経』国風・周南・関雎
美しい女性を求めて得られなければ、寝ても覚めても思い焦がれる。服は思と同じ意味です。「悠なるかな悠なるかな」つまりあてどなく思い続け、「輾転反側」、寝返りばかりうつ、という解釈になります。出口のないトンネルを通っているようなものです。陸游は、今までの地方役人としての生活が、あてどなく続けた旅のようなものだった、と表現しています。
それから、第五、六句に、「孤蝶」と「稚蜂」が出て来ます。これは、完全には一致しませんが、杜甫の詩にもとづく表現です。
穿花[虫夾]蝶深深見 花を穿つ[虫夾]蝶は深深として見え
点水蜻[虫廷]款款飛 水に点ずる蜻[虫廷]は款款として飛ぶ
杜甫「曲江」(二首の二)
この詩は、「人生七十古来稀なり」という有名な句を含みます。詩の内容は、七十まで生きられる者はほとんどいないから、借金作って酒を飲みまくろう、というもので、杜甫らしくない、不真面目なものです。この時期は政権中枢部から疎んぜられて、真面目な杜甫も、やけを起こしていました。そんな心満たされない時も、自然の風景は心を和(なご)ませると、蝶々とトンボを詠みこんでいます。陸游が心満たされない状態であったことは既に話しました。そんな自分の心を和ませてくれるものとして、蝶と蜂を第五、六句で詠んでいるのでしょう。これは、まさに杜甫の詩を踏まえています。ただ、家の表の風景を詠んだだけではありません。
典故の三つ目は、「読むに嬾し」。これについては非常に面白い話が、『後漢書』文苑列伝第七十上に見えます。
辺韶先生、通常呼ぶ名前は孝先といった。学問で名が知られ、何百人も弟子がいる。先生は弁舌が達者である。昼間に仮眠していると、ある弟子が悪口を言った。
辺孝先 腹便便 辺孝先 腹便便たり
嬾読書 但欲眠 書を読むに嬾く 但だ眠らんと欲す
辺孝先は、腹ぶくぶく。書物を読むのが面倒で、眠るだけ。これは、よく練られた悪口で、先、便、眠の三字が韻を踏んでいます。
ところが秘かに聞いていた先生は、すぐに言い返します。
辺為姓 孝為字 辺を姓と為し 孝を字と為す
腹便便 五経笥 腹便便たるは 五経の笥
但欲眠 思経事 但だ眠らんと欲するは 経事を思うなり
寐与周公通夢 寐ねて周公と夢を通じ
静与孔子同意 静にして孔子と意を同じくす
師而可嘲 師にして嘲るべしとは
出何典記 何の典記にか出(い)ずる
姓は辺、呼び名は孝。腹がふっくらなのは五経を収めているからだ。ひたすら寝るのは経典の故事を思っているのだ。寝ては聖人の周公と夢で出会い、孔子先生の行いにあやかっているのだ。孔子が、夢で聖人周公に会っていたことは、『論語』に見える、有名な話です。先生に対して悪口を言うとは、何を根拠にしているのか。こういう意味の返答をしました。これも、字、笥、事、意、記の字が韻を踏んでいます。先生の方が何枚も上手だったようです。悪口を言った者は大いに恥じいったといいます。辺韶先生が寝ながらも、世の中をよくしようと、夢で聖人に会っていたのとは違い、陸游自身は書物を持ちながら、読むのが面倒で寝てしまったことが、非常に恥ずかしいと、うたっています。
以上が、主な典故についての説明でした。
最後に、七つ目のハードル、中国古典語についての知識ですが、もう既に述べています。一つは、「著」です。古典では着と著とは形が違っているだけで、実は意味は同じなのです。現在では使い分けをしますので、現代人にとっては、落とし穴であると思います。それから、「悠」という字ですが、プラス価値とマイナス価値、両方の意味があります。陶淵明の「飲酒」二十首の第五首「悠然として南山を見る」の悠は、プラス価値ですが、この詩の「悠悠」はマイナス価値です。これも、落とし穴だと思います。
ところで、この詩ですが、結局何が言いたかったのでしょうか。第八句で、茶を飲むのはかまわないと、述べていますから、茶を飲むことを言いたかったのでしょうか。それでは、詩としては、主張が弱くて、読む側としても、物足りない気がします。第七句では、自身の世の中に対する関心が弱くなったことを恥ずかしいと詠んでいます。世の中に関わってゆくということは、当時の知識人にとっては当たり前のことでした。それが、陸游は自身の主義主張が祟ってしまい、中央政朝の内部から占め出され、隠居を余儀なくされました。そして、自分の世の中への関心も薄れてしまったことを嘆いた、それこそが詩の中で最も述べたいことだったとすると、詩の主張がはっきりします。では、どうして第七句で書物を読むのが面倒で恥ずかしいと言い、第八句で、茶を飲むのはかまわない、とするのかというと、それは押韻のためです。第八句は茶の字が韻を踏みます。よって、茶を飲むことは韻を踏まない第七句で読めません。書物を読むのが面倒なのは恥ずかしいけれど、茶を飲むのは許される、と順番に解釈せずに、ここは七句と八句をひっくり返して、眠気覚ましに茶を飲んでもいいだろうが、書物を読むのが面倒なのは非常に恥ずかしい、と解釈すべきなのです。
このようにひっくり返すと、意味がすんなり行く例は結構あります。句のリズムで紹介した李白の詩も、前後を入れ替え、一杯一杯また一杯と二人が酒を酌み交わしていると花が咲く、とすれば、分かりやすくなります。もっとも、どちらが詩になるかは別問題です。漢詩には制約があって、どうしても順序を入れ替えて表現せざるを得ないことがあります。これを「倒装の法」と言います。中国文学者鈴木虎雄(一八七八〜一九六三)博士が、『国訳杜少陵詩集』の総説で、「倒装の法は句を通常の順序によりて置くことなく、前後を逆にする仕方をいふ」と説明しています。この二句も逆にして解釈すべきではないでしょうか。二句を逆にして解釈しうること、それは、古典語ではありませんが、漢詩についての知識と言えるでしょう。
もう一度、詩の初めから解釈すれば、次のようになります。
小さな廬を改修してそのまま家として住むが、垣根や小道は手つかずのまま。今の生活は行脚僧のように粗略なもので、どこに行っても、いかだに乗った旅人のように、あてどないものであった。そんな心の満たされない自分であるが、家の表は、蝶や蜂が飛ぶ、心を和ませるものである。書物を持ちながら読むのが面倒になったのは誠に恥ずかしい、眠気覚ましにお茶を飲むのはかまわないだろうけれど。
いくらかは詩の意味がはっきりしたのではないでしょうか。
それでは、陸游という人は、この後、社会への関心をなくしてしまったかと言うと、そうではありません。この詩を詠んでからも二十年間、自分の主義主張は、死ぬまで変えません。また、心を和ませる自然の風景や田園生活を詩に詠みこんでいます。前向きな詩が多いように見受けられます。たまには心の衰えを感じることもあるでしょう。弱気な詩を詠むのは、陸游自身の意識が高いことをあらわしてもいます。
ただの漢字の羅列のようだったものが、七つのハードルを越えることによって、意味のある漢詩に変わってゆけたでしょうか。皆さんが、そう感じられたのならば、私のお話は成功したと言えるでしょう。
最後に、この詩を現代中国語で発音します。
蝸廬 陸游 Wo1lu2 Lu4 You2
小葺蝸廬便著家 Xiao3qi4 wo1lu2 bian4 zhuo2jia1,
槿籬莎径任欹斜 jin3li2 sha1jing4 ren4 qi1xia2.
為生草草僧行脚 Wei2sheng1 cao3cao3 seng1 xing2jiao3,
到処悠悠客泛槎 dao4chu4 you1you1 ke4 fan4cha2.
孤蝶惜衣晴曝粉 Gu1die2 xi1yi1 qing2 pu4fen3,
稚蜂貪蜜晩争花 zhi4feng1 tan1mi4 wan3 zheng1hua1.
有書嬾読吾堪愧 You3shu1 ran3du2 wu2 kan1kui4,
睡起何妨自磑茶 shui4qi3 he2fang1 zi4 wei4cha2.
ご清聴ありがとうございました。
(大阪市立東高等学校)
【付記】 二〇〇五年十一月十五日、都島区民センターにおいて講演したものである。「蝸廬」詩の解釈については、『一海知義の漢詩道場』(一海知義編、二〇〇四、岩波書店)の「書あるも読むに嬾し」と題する拙文をあわせて参照いただきたい。出版後、担当した詩だから記念にと、先生より河上肇の書の写しをいただいた。よって、この話が可能となった次第である。
「新国語研究」50号 大阪府高等学校国語研究会 2006.6