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漢詩を楽しもう――陸游「山西の村に遊ぶ」――
昨年に引き続き、宋代の詩人、陸游の詩を読んでゆきたいと思います。昨年は、誰にも知られていないような詩でしたけれども、今年は一万首ある陸游の詩の中で、最も有名な詩を紹介したいと思います。それは、「山西の村に遊ぶ」という題の詩です。高校の古典の教科書にも、よく採られています。
遊山西村 陸游 山西の村に遊ぶ 陸游
(1)莫笑農家臘酒渾 笑う莫かれ 農家の臘酒渾れるを
(2)豊年留客足鶏豚 豊年 客を留むるに鶏豚足れり
(3)山重水複疑無路 山重なり水複わり路無きかと疑うに
(4)柳暗花明又一村 柳暗く花明るきところに又た一村
(5)簫鼓追随春社近 簫鼓 追随して春社近く
(6)衣冠簡朴古風存 衣冠 簡朴にして古風存す
(7)従今若許閑乗月 今より若し閑に月に乗ずるを許さば
(8)※杖無時夜叩門 杖を※き時無くして 夜 門を叩かん ※:手へんに主
題の「山西の村」ですが、山の西側にある村ということです。山とは、陸游の故郷である紹興の郊外にある三山という山のことです。陸游が、この詩を詠んだのは、南宋の乾道三年(一一六七)、数え年四十三歳の時ですが、その前年に三山の近くに居を構えて、八十五歳で亡くなるまで、故郷を離れて官職に就いている時を除いて、そこで暮らしています。三山とは、行宮山、韓家山、石堰山という三つの山のことです。以前、私は陸游の故居を訪れたことがありますが、そんなに遠くない所に三つの丘のような山が見えました。それが三山とのことでした。この詩ですが、題名は陸游が居を構えた三山の村から、そう遠くない西側の村を訪れたことを詠んだという意味になります。「遊ぶ」は、遊戯の遊でなく、遊説の遊と同じ意味で、行くことです。
一句目ですが、「臘酒」は旧暦十二月に仕込んだ酒です。臘は旧暦十二月を意味します。「渾」は濁る。濁の字のほうがわかりやすいですが、ここは、韻を踏まなければならない所なので、渾の字を使っているのです。濁り酒は清酒に比べて上等ではありません。「手前どもの酒が、ふん、二級酒か、とお思いでしょうが、どうぞご安心を」ということです。二句目の「客を留む」ですが、客を留めてもてなすという意味です。「鶏豚足る」は、鶏肉豚肉がたっぷりあるということです。豚の字を辞書で調べますと、子豚という意味が出てきます。しかし、ここも韻を踏む字として使われていますので、子豚と限らずに解釈してよいでしょう。それで、第一、二句は「農家の造り酒が質の悪いドブロクだなどとお笑いくださるな、豊年続きで、お客様をもてなすのに鶏肉や豚肉はたっぷりありますぞ」ということになります。ここは、農家が、村を訪れた陸游にかけた言葉と解釈できます。
第三、四句は、有名な対句で、陸游がこの村を訪れる途中の情景を描いています。「山重水複」とあるとわかりにくいですが、「山水重複」とすると、わかりやすいと思います。意味は変わりません。山や川が、幾重にも重なっているということです。「路無きかと疑う」は、ゆきどまりかと思う。「疑」は、ある事柄をうたがうのでなく、そうであると思うという意味です。四句目の、「柳暗花明」は「柳花暗明」とか「花柳明暗」とかにはできません。柳と花とが明るかったり暗かったりするのではなくて、柳は葉を茂らせて陰を暗くし、花は明るく咲いている、ということです。この二句全体は「山が重なり川が入りくんで、もう行き止まりかと思っていると、柳がこんもり茂り花がパッと咲いた所に、また一つの村があった」ということになります。
次に第五、六句ですが、「簫鼓」は祭りのお囃子の笛や太鼓です。「追随」は後を追う。「春社」は、土地神に豊年を祈る春の祭りで、立春後、第五の戊(つちのえ)の日に行います。戊は十干十二支の十干の一つ、甲乙丙丁の次の、五番目です。十干は十で一回りしますので、五回目の戊の日となると、四十数日経った頃になります。現在の暦ですと、立春の二月四日から四十数日ですから、三月二十日あたりで、春の彼岸の頃ということになります。その祭りの日が近づいているのですから、この詩は彼岸の数日前に詠まれたことになります。
ところで、戊(ぼ)の字ですが、よく似た字に、戍(じゅ)と戌(じゅつ)があります。戍の字は、あまりなじみがありませんが、「まもる」という意味です。戌は、十二支の十一番目、「いぬ」ですね。大学で中国文学を学んでいた時、こういう間違えやすい字は、気をつけるようにと先生から注意を受けました。中国文学を学んだ人は、この手の字は間違えないはずですが、間違える人がいるんですね。前野直彬(一九二〇―九八)という、東京大学の先生をされていた方のご本、集英社刊「漢詩大系」というシリーズの『陸游』(一九六四)という題の本ですが、この詩の「春社」を説明する脚注で、「五回目の戊の日」としているのに、戊の字に「いぬ」とルビを振っています。つまり、誤植がありました。前野さん、ご本人でなく、中国文学に詳しくない人がルビを付けたんでしょうね。
第六句に移りますが、「衣冠」は、着物とかぶりものです。村人の身なりを指しているのでしょう。「簡朴」は、簡素という意味です。第五、六句の意味は、「春の祭りが近づいてきて、笛や太鼓があとを追いかけあうように聞こえてくるし(注)、村人の身なりは簡素で古式ゆかしいものである」となります。耳に聞こえたり、目に見たりした村の様子が描かれています。
(注) 第五句「簫鼓追随春社近」の訳は、一定しない。鈴木虎雄訳は「簫を吹き鼓を打つて人人があとあととつづいて遊ぶ春の社日も近づいた」と、お囃子の人々があとをつづくと解釈している。一海知義訳(『陸游』岩波書店「中国詩人選集二集」一九六二)は「笛や太鼓の音が追っかけあって春祭の日も近く」と、音同士が追いかけあうとしている。前野直彬訳は「笛太鼓の音が、私のあとを追うように伝わってくる。春の祭りも近い」として、音が陸游のあとを追うと解釈している。
最後の二句ですが、「閑(かん)」は、なすべき仕事に就いていないという状態を指します。陸游は前の年に官職を辞めさせられて、帰郷しています。官職に就いていないので、まさに、閑の状態なのです。「月に乗ずる」とは、月明かりに出かけることです。「※(手へんに主)」は、なじみがない字ですが、杖をつくことです。「無時」とは、時を定めずに、という意味です。「門を叩く」とは、門を叩いて訪問する、ということです。二句全体としては、「もしこれからヒマにまかせて月明かりに出かけてもよいというのならば、時を定めずに夜にお邪魔しますぞ」ということになります。ここは、陸游から村人への返事として解釈されています。
もう一度、解釈致しますと、
山の西にある村を訪れる。
(1)農家の造り酒が濁っているなどとお笑いくださるな、(2)豊年続きでおもてなしするのにトリやブタはたんとありますぞ(、と村人より招きを受けた)。【村人の招き】
(3)山が重なり川が入り組んで、もう行き止まりかと思っていると、(4)柳がこんもり茂り花がパッと咲いたところに一つの村があっ(て、この村に到ったのだっ)た。【村に到る風景】
(5)笛や太鼓が追いかけあうように聞こえるので春の祭りの日が迫っているとわかるし、(6)村人の身なりは質素で、古い習俗を残している。【村の様子】
(7)(私はこの村が非常に気に入り、村人に言った、)これから、ひまにまかせて月明かりに出かけてもよいというならば、(8)杖をついてふらっと夜に参りますぞ。【村人への答え】
さて、この詩がなぜ、陸游の代表作とまでになるほど有名なのかといいますと、それは、第三、四句の対句が非常に評価されているからです。
(3)山重水複疑無路 山重なり水複わり路無きかと疑うに
(4)柳暗花明又一村 柳暗く花明るきところに又(ま)た一村
清朝の学者であり詩人である趙翼(号は甌北、一七二七―一八一四)という人が、陸游の詩句で優れたものを集めている(『甌北詩話』巻六、「陸放翁詩」摘句)のですが、この対句は、もちろん採られています。趙翼は詩句を「使事」「写懐」「写景」の三項目に分けて集めています。使事は故事を使うことです。写懐は心情を、写景は情景を、それぞれ述べることです。この対句は情景を述べた写景の中に見えます。それを見ると、二句の後にどこから採ったのか、詩の題名を注しています。ところがそれには「遊西山村」と、誤って注されています。趙翼はうっかり間違ってしまいました。
戦後、日本で陸放翁の詩が翻訳されますが、その早いもので、鈴木虎雄(一八七八―一九六三)という京都大学の先生に、『陸放翁詩解』(一九五〇、弘文堂書房刊)という著書があります。そこには、この二句について、「柳暗といひ花明といふことは唐の王維にも李商隠にもある、さがせば他にあるかも知れぬ。しかるに作者の此句によつて千古に名高くなつてをる」と、評価されています。中国の学者、銭鍾書(一九一〇―九八)も同様のことを言っています。「這種景象前人也描摸過、例如王維(中略)。不過要到陸游這一聯纔把它写得『題無※義』(この種の情景は前人も描いている。例えば王維(中略)。しかし、陸游のこの一聯(二句)に到ってはじめて情景を『題して※(あま)れる義無き』ほどに表現している。)」(『宋詩選注』一九五八、北京)。二句の境地は、先人がすでに述べているけれども、陸游の表現によって、多くの人々の心の中に留められることになったというわけです。
※は謄の言の代わりに貝
これをたとえてみると、鴨長明の「方丈記」の冒頭のようなものかと思います。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しく留まりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」という表現は、多くの人に無常観という考えを心の中に留めさせています。しかし、無常観の考えは、鴨長明以前から説かれていました。その先人たちの表現は、多くの人の心に留められなかったのです。ある事柄を述べるのに、いかに表現が大切かがおわかりいただけると思います。多くの人が認めている事柄でも、これ以上ないというほどに巧みに表現したがために、千古に名を残す人がいるのです。誰が先に言ったのか、ということよりも、どれだけ巧く表現するか、ということが大切なのかもしれません。
小川環樹(一九一〇―九三)『陸游』(一九七四、筑摩書房刊「中国詩文選」)では、さらに加えて、次のように述べています。「二句は風景の描写においてすぐれているのだが、私はこれを読んで感じることが、もう一つある。その中に人生の行路についての譬喩がふくまれていると解せられることである。水路をゆくほどに、平野から山あいにはいり、両岸はせまり、前途のみとおしがきかなくなって、もう路の終りになったのかと心配しているところへ、ひとつの山の曲りかどを折れたと思うと、にわかに目の前はひらけ、まばゆく花がさきみだれている。それはほとんど絶望と思われた前途に、意外に明るい光がさしたのに似ている。陸游は悲観主義の人ではなかった。(中略)彼は楽天的な人生観をもっていて、終生それを失わなかった」。つまり、人生観が詠まれているというのです。
さらに一海知義(一九二九―)『漢詩一日一首』(一九七六、平凡社刊)では、「『山重水複』、『柳暗花明』の対(つい)が、状景描写としてすぐれているだけでなく、『疑無路』、『又一村』が、一見対に見えずしてたくみな対であるところがいい。日本語によみくだし、各語を品詞分析すれば、対でないように見えるが、原詩にもどって、一字ずつ機能を分析対比すれば、見事な対である」とあります。対句でないようで、実は絶妙な対句である、というのです。
このことを私なりに考えてみますと、「疑無路」と「又一村」とですが、最後の「路」と「村」とは同じ名詞なので対になることはわかります。「無」と「一」とはどうか、一というのは、数字を表します。これは零、つまり無でないということです。よって無と一とは対になります。「疑」と「又」とはどうか、これは疑うという動詞と、またという副詞で、どう考えても対になりそうにありません。しかし、疑うとは、思うという軽い意味の動詞です。恐という字は、恐るという動詞にも読まれますが、恐らくという副詞にも解釈されます。疑という字も同様に、動詞のほかに、うたがうらくと、副詞的に読まれます。ここも、動詞で訓読されますが、副詞的に機能していると考えられます。そういう意味で、又という字と対になると考えられます。一見、対句でないようなところが、読者によく考えさせ、その実すばらしい対句なのですから、印象強く心に留まるのは、当然だと言えます。第三、四句に比べて、第五、六句は見るからに対句らしい対句です。見事な対句ですが、印象の強さは、この第三、四句にはかないません。
この詩は、多くの学者にいろいろと語られていますが、その一つに、桃源郷との関係を説くものがあります。石川忠久(一九三二―)『漢詩を読む――陸游一〇〇選』(二〇〇四、NHK出版刊)に「頷聯(三、四句)は、このあたりの地形をよく表現しているが、行き止まってはまた現れる村の景色に、知らず知らず誘われてゆくようすをたくみに詠う。こうして訪ねた村は、祭の古式ゆかしく、陶淵明の描くところの桃花源を髣髴とさせる。陸游の郷里近くの小桃源といった風情である。そうしてみると第四句の『花』もおそらくは桃の花なのであろう」と、桃源郷との関係に触れています。桃源郷というのは、六朝時代の陶淵明(三六五?―四二七)の「桃花源の詩ならびに記」という詩文に始まります。一人の漁師が川をさかのぼって桃の林に迷い込み、そこから桃源郷といわれる理想郷に達するという話ですが、「桃花源の記」という文章の記載に、次のようなものがあります。
林尽水源、便得一山。山有小口、髣髴若有光。便舎船従口入。初極狭、纔通人。復行数十歩、豁然開朗。(林水源に尽き、便ち一山を得たり。山に小口有り、髣髴として光り有るが若し。便ち船を舎て口より入る。初めは極めて狭く、纔かに人を通ずるのみ。復た行くこと数十歩、豁然として開朗す。)
桃の林がなくなったところに泉があって、そこに山があった。山には洞穴があって、ぼんやりと先が光っている。漁師は舟を置いて、洞穴に入った。穴は狭くてやっと人が通れるくらいだったが、さらに進むと、パッと開けた。以上のような意味になりますが、この部分が「山重水複路なきかと疑うに、柳暗花明又た一村」の境地と重なります。さらに、「桃花源の詩」では
俎豆猶古法 俎豆猶お古法にして
衣裳無新製 衣裳に新製無し
という句があります。「俎豆」とは、祭礼用の食物を盛るための、台とたかつきです。まな板とか食べ物の豆とかではありません。「新製無し」とは、今風ではなく、古風だということです。衣裳が古風というのは、第六句「衣冠簡朴にして古風存す」の部分が踏まえています。これら二つの部分によって、この詩が桃源郷を意識して詠まれていることは、おわかりのことと思います。
陸游は役人の職を辞めて帰郷して、この詩を詠みました。役人生活では、派閥間の足の引っ張り合いや、不本意な雑務が多かったに違いありません。それが、村の素朴な人々と付き合い、人と人との交流、本来あるべき信頼関係というものかもしれませんが、そのすばらしさを実感したんだろうと思います。そこに、桃源郷といわれるユートピアを見たのではないでしょうか。
この詩は律詩ですが、律詩も起承転結の形式にのっとっています。
起:首聯(第一、二句) 村人から作者への言葉
承:頷聯(第三、四句) 村に到るまでの景色[対句]
転:頸聯(第五、六句) 村の中の情景描写[対句]
結:尾聯(第七、八句) 作者から村人への言葉
私たちは、こう並べてありますと、起承転結に物事が運んだものだと思ってしまいます。だから、村人の言葉、つまり、招待(第一、二句)を受けてから、陸游は村を訪れ、到るまでの情景(第三、四句)を詠んだと考えられています。しかし、陸游が村をひょっこり訪れた後で、村人に誘われたとも考えられます。そのほうが、前四句と後四句との転換がはっきりします。それに、「桃花源の記」でも、突然現れた漁師が桃源郷の人に誘われて、もてなしを受けます。
それでは、時間的に第三、四句の出来事があって、第一、二句のことが起こったと考えられないかというと、それは、可能です。それは、律詩の約束事である、第三、四句と第五、六句とを、それぞれ対句にするという制約があるためです。第一、二句の村人の言葉は対句ではありません。時間的に並べたくても、第三、四句には置くわけにはゆきません。よって、このような配列になったと考えられるわけです。この詩は、村に到る情景の対句、村の様子を描写した対句を、村人からの言葉の二句と、陸游からの返事の二句とで挟み込んだ構造となっています。時間的な順序としては、舟で小旅行をしている陸游さんが、入りくんだ水路からパッと開けた所にある村を訪れた(第三、四句)。そこに村人から、「酒はドブロクだが、食べ物はありますぞ」と、家に招かれる(第一、二句)。しばらくもてなしを受けて、村人と会話をして、陸游は楽しんだことでしょう。祭が近いことを報せる笛太鼓の音を聞き、また古式ゆかしい村人の身なりを見て、この村が気に入ったに違いありません(第五、六句)。それで、陸游は、村人に「またやって来ますぞ」と答えた(第七、八句)、ということだと、私は思います。
この詩は律詩の典型といわれるほどのものですが、全くキズがないかというと、ないわけではありません。それは一字不重用を犯していることです。近体詩は限られた字数で表現するので、同じ字を使うことを避けます。ところが、この詩では、無の字を、第三句と第八句とで重ねて使っています。これは褒められたものではありません。しかし、不思議なことに、どなたもこのことを指摘していません。あまりに基本的すぎておっしゃらないのでしょうか。誰も触れられませんので、あえて私が触れました。しかし、この詩は内容、表現ともにすばらしく、少しのキズを物ともしないということは、言えると思います。
最後に現代中国語で読みます。
遊山西村 陸游 You shanxi cun Lu You
(1)莫笑農家臘酒渾 Mo xiao nongjia lajiu hun,
(2)豊年留客足鶏豚 fengnian liu ke zu ji tun.
(3)山重水複疑無路 Shan chong shui fu yi wu lu,
(4)柳暗花明又一村 liu an hua ming you yi cun.
(5)簫鼓追随春社近 Xiaogu zhuisui chunsha jin,
(6)衣冠簡朴古風存 yiguan jianpu gufeng cun.
(7)従今若許閑乗月 Cong jin ruo xu xian cheng yue,
(8)※杖無時夜叩門 zhu zhang wushi ye kou men. ※:手へんに主
ご清聴ありがとうございました。
【付記】この文章は、二〇〇六年十一月十五日、都島区役所市民活動推進課主催の「秋の夜長の文化講座・漢詩を楽しもう」という市民を対象とした講演をもとに作成したものです。
稿を終えた後、前野直彬氏の著書に重版(一九九七年、集英社刊「漢詩選」第十三巻『陸游』)が出ていることを知った。ところが、その重版には「いぬ」のルビのままで、漢字を「戌」に改めている。これではきずを広げてしまっている。
大阪府高等学校国語研究会「新国語研究」五十一号、二〇〇七年六月