The North of the Border<4>
脱出を図って失敗し、砂埃に塗(まみ)れた衣や手足───
侍女達が身を拭って、汚れた衣は取り去られ───
用意された新しい衣に替えられる───
自分でできる、と主張するキャロルだったが多数の侍女のこと、あっという間に事は運ばれた。
「キャロル様、こちらへどうぞ」
そう言って開けられた道の先には食卓があり、皿に温かそうな食べ物が用意されていた。
「お食事をご用意いたしました。お召し上がりください」
そしてキャロルをさあ、とばかりに引く侍女達。
「わたしは要りません。今すぐここから出して!」
その主張は通らず・・・若く利発な侍女達に席に着かされ、食べ物を勧められる。
「王子のご命令ですから、キャロル様」
だが言う通りにする道理はない。
肩を押さえる背後の侍女達に精一杯訴える。
「あの!ねぇ!わたしがこんな目に合ってるのになんとも思わないの!?王子は酷いんだから!わたし、このままじゃ殺されるわ!!」
「王子はお優しい方ですよ。何を仰います?」
キャロルの椅子を囲んでなんの疑いもなく背後で侍女達が笑う。
それに苛立つキャロルだったが・・・納得もする。
それもそうよね・・・
わたしは捕虜なんだからどう扱われようとこの人達には関係ない事だったわ・・・
味方を得ることはできなかった。
だが甘んじて食するほどキャロルの神経は太くなかった。
そうよハンストよ。
何も貰わないわ。
食べないんだから!
吐き気がする!
「全部下げて───。何もいらないわ」
キャロルの高飛車が始まった。
「それはなりません。王子のご命令です」
「ご命令ですから、キャロル様」
背後の侍女達はこぞって言い聞かせた。
「ご命令ご命令って───。もう何も要らないからみんな出て行って!」
王子憎ければその侍女達も憎いようだ。
当り散らしている。
だがそこは有能な侍女の事、あれやこれや宥めすかしてキャロルに食事を勧める。
「朝から何も召し上がっておられませんよ?お腹が空いていますでしょう?」
「身体が持ちませんよ?」
「特別にご用意したものなんですよ。ご賞味ください」
キャロルの脇から侍女達が皿を勧めて目の前に置く。
手間がかかっていそうな・・・滋養がありそうな具の煮込んだスープ。
違う種類の喉通りの良さそうなものばかりがいくつも並んでいた。
瑞々しい色とりどりの果物も───
この時代にしては贅沢な内容だとキャロルには思えた。
しかも食べ切れない程目の前にはある。
「王子のお申しつけなのです。体力が落ちている貴女様の為にご用意するようにと・・・」
優しいところもあるじゃない。
でもそれが何よ。
食べないんだから!!
拗ねたように取り合わない娘の様子に猶も侍女達は取り繕う。
「貴女のお体の為にお取りください」
「そうです、倒れられでもしたらどうなさいますか」
侍女達は飽くまで労わりを持って諭そうとしている。
同じ年頃の若い侍女達だ。
自然キャロルも話せば分かるんじゃないかと意見する。
「あのね!わたしは嫌なの!分かって!貴女達だってもしわたしの立場だったら素直になんかしないでしょ?」
急に立ち上がって物を言い始めたキャロル。
ここで初めてキャロルは侍女と真っ直ぐ向き合った。
向き合って目にするキャロルの大きく見開かれた青い水晶のような瞳。
室内は静まった。
平気に見返せる者はまずいない。
「わたしは納得いかずにここに連れて来られたのよ?」
訴える。
白い肌に青く澄み渡る瞳。
訴えが切々となる程、しかも間近で見るキャロルの容姿はその珍しさに息も呑むものだった。
「納得いかないことって貴女達だってあるでしょ?そんな時は黙ってられるの?はいそうですかって我慢できる事ばかりだったの?」
言い返せる者は居なかった。
言い切るその姿には迫力があった。
気色を紅に染める侍女達の様子に、キャロルが気付く。
───わたしの眼?
眼の色が珍しいのね?
そう・・・それなら!
一人一人にお願いを始める。
その手を取って言う。
「貴女達には分かってほしいの。お願い。わたしは、わたしらしくありたいの。貴女達なら分かってくれるわね」
そう言ってキャロルはにっこり微笑む。
色仕掛けだった。
キャロルのこの手に敵う者は、男女問わずいないだろう。
キャロルの眩しい笑み、くるくる変わる表情に虜になった侍女達は───
「キャロル様ってお優しいんですね・・・」
「なんてお美しいんでしょう」
「キャロル様は本当にエジプトからいらしたんですか?」
すっかりおしゃべりに花が咲きそうな雰囲気となる。
「ええと、それは・・・」
キャロルの表情が翳ったのを見てその侍女が慌てて言う。
「す、すいません!キャロル様!お心苦しいことをお聞きしてしまって・・・!」
「いいのよ。そう・・・わたしはエジプトから来たの。あのイズミル王子がね、わたしにエジプト王宮の事を聞き出そうとしてね!わたし、何もお話しする事ないのによ!」
キャロルがおどけて言うと思わず侍女達も和む。
「エジプトってどんな所ですか?」
「エジプト?エジプトはね、・・・えとここに座って話しましょうか?」
立ち話も何なので座談会すべく腰を降ろす。
キャロルを交え輪になって敷き物の上に落ち着いた。
総勢五人だ。
「先ずみんなのお名前を聞かせてくださらないかしら?」
キャロルが提案する。
「先ず貴女から順番にこう回って・・・。それからおいくつでどこのお生まれで、どんな事が好きかを教えてほしいわ」
女同士ほのぼのだ。
はい、私は、と順番に自己紹介が始まる。
「生まれはこのアナムールです」
「そう・・・」
そうやっぱりここはアナムールなのね!
キャロルの思い付きは項を奏していた。
「好きな事は・・・えーと、別にありません」
一番バッターは思い付かないものかもしれない。
「嘘っ」
別の一人が声を上げた。
「王子様の事が好きなくせに!」
「そ、そういうロリアだって王子様の前ではっ!」
「キャロル様、この子はね、今度いつここに王子様がご滞在なさるかっていつもそればっかりなんですよ」
「まぁそうなの?」
・・・そんな事はどうでもいいんだけど、と苦笑いを浮かべるが。
『滞在』なのかここは、と冷静に分析するキャロル。
どんな事でもいいわ。
情報を集めなくては。
「それは待ち遠しいわね?このお城のお付きなのね?」
「はい。ここは国内でも大きな城の一つですから常駐なんです」
「大きくて立派だから王子様も王様も王妃様も頻繁にお見えです」
別の侍女が言う。
ふぅん、そうなんだ・・・
王子の両親はご健在か・・・
どんな人だろう・・・
「王妃様がお見えの時はミラ様はじめ首都の侍女の方々がご同行ですから・・・私達出る幕がないんですけどね・・・」
「?」
その侍女の沈む様子にキャロルが注目していると横から切り出す侍女が居た。
「ミラ様は王子様のお気に入りの方なので───」
「───」
そんな人がいるくせに───
あの人───!
よくもわたしに『本気だ』なんて!
冷静に怒るキャロル。
だが別の侍女が声を上げた。
「あら、でもミラ様は王妃様のお気に入りで『王妃様付き』だけのようよ?」
「嘘!王子様はミラ様にとてもお優しいわ!」
「そうそう!」
「どこ見て仕事してるの?」
冷静な侍女が言う。
「前々から思ってたんだけど、王子様はミラ様をお妃様候補からお外しになったに違いないわ」
「そうよね。私もそう思うって話してたのよね。愛しいって感じでミラ様をお見詰めになりませんもの!」
何の話だ・・・
キャロルは少々うんざりしてきた。
この部屋から出るには・・・、とそっちの事を考え始めていた。
「お気に入りの方って今はどなたなのでしょう?」
「王子様はいつも旅先から隠密にいらっしゃいますもの。ほとんど国外で過ごされていて・・・。首都に専属の侍女様もいらっしゃらないようだし・・・(注:ムーラ様除く)」
いつも旅先?
隠密?
・・・ほとんど国外?
・・・活発なのね・・・
「今回船から護衛兵を引き連れてご入城って驚きましたよね・・・」
「そうそうキャロル様を抱えて・・・」
部屋を出たいわね・・・と思うキャロルの上に侍女達の視線が集まる。
「?」
次に侍女達が顔を見合せる。
「そうよね、貴女もそう思う?」
「うん、そう思う・・・だってキャロル様はこんなにも・・・」
わたし?
「私もびっくりしたわ・・・あんな風にお見詰めになるのって・・・」
「うん、でもお気持ち、分からなくもないわよね・・・」
「そうよ、王子様のお気に入りは・・・」
そして一斉にもう一度見た。
何・・・ですって?
『お気に入り』───?!!
色をなくして絶句しているキャロルに侍女達が取り成す。
「あ、あのキャロル様?」
「私達ここ数年この城で王族お付きですから分かるんですが・・・!」
「そうです、安心してくださいませ。王子様はお優しい方です」
安心!?優しい?
「キャロル様の心配なさるような事は何もございませんよ」
心配!?
何も!?
貴女達見てなかったの───!?
侍女達はこれまでいつでも様子を窺って控えていたはずだったが。
絶句のまま・・・言葉もなかった。
侍女達が尚も取り繕う。
「そう!王子様は女の方は冤罪をと、王様に仰っておいでですもの」
「この前のアランヤ公国攻めの捕虜ですよね」
「きっと今にキャロル様も・・・」
きっと何よ───
「キャロル様もお優しい方ですから王子様とお似合いで・・・」
「ど、どういう意味かしら・・・?」
震えるキャロル。
互いに顔を見合わせ・・・ハタと我に返った侍女達は立ち上がる。
「そろそろ私達仕事・・・」
「キャロル様失礼いたしました・・」
「では私達お食事をお下げいたします」
「では・・・私とエスティとでお下げいたしますわ」
「え、そう?私も行きましょう」
「え、でもここを守らなくては・・・」
───これは・・・
それとなく煙(けむ)に巻けば・・・チャンスに・・・!
キャロルは逃げる気を見せずに動いてみることにした。
「もう、みんな駄目じゃない。仲良くしなくては」
打って変わって穏やかに微笑んでみせそう言うとキャロルは立ち上がり、素知らぬ顔をして食器をひとつ手に取った。
「みんなで片付ければいいのではないの?」
え?
侍女達は狐に摘まれたような顔で───
キャロルの言うことを理解できなかったようだ。
「わたしを見張るんでしょ?じゃ全員一緒に居ればいいのじゃない?さぁ行きましょ」
「え、それは・・・」
困惑気味に侍女達がお互いの顔を見る。
それを横目にキャロルは部屋の扉に滑り込んで外に出た。
繋ぎの間があった。
すぐにそこも出ようと扉に向かう。
内心焦るが歩みは優雅に───
侍女が追って急いで入って来たが一足先にそこを出た。
扉の外へ。
踏み込んだのは───
回廊かと思っていたのに───
「キャロル様!お留まりください!」
「キャロル様!隣は王子の居室ですから!」
え?
王子の居室?
王子の部屋?
柔らかそうな腰掛に優雅な敷き物。
広い間取り。
これまた優雅な調度品の数々───
今にも王子の声がしそうな王子のお部屋。
なんなのこれは!?
出口が王子の部屋?
「お戻りください、キャロル様!」
「お部屋からお出しする事はできません!」
「他に出口は?あそこから出られるの?」
二方面にある扉の一つ、大きい方をさしてキャロルが言う。
「え、いいえ、あちらは今王子の執務の間になっています」
執務の間?
じゃあ・・・まだ夜も浅いこんな時間は・・・
「王子がいるの?そこに?」
「はい、いらっしゃいます。その次の間も居室になっております。出口はずっと先です」
なんですって───?
では───
「こっちの扉は?」
小さい方の扉をさして言う。
「王子の寝所になっています」
・・・・そんな───
・・それはどういう───
「・・・どういうこと!これは!!」
「はい。キャロル様のため今一時この階のお部屋に移っていらっしゃってます」
なんて周到な・・!
いつの間に・・・!?
でも本当に次の間にいるのかしら───
そう思いながらも足は進まなかった。
連れ戻そうと侍女達がキャロルの持つ皿を取り上げようとする。
揉み合ったために・・・皿は空を舞って床に落ちた。
大きな音を立てて・・・粉々になった。
一同は沈黙した。
扉の向こうの物音。
こちらへ駆けつける者に全員が気付いた。
ガチャリと扉が開く。
「王子、娘が居ります」
側近のエファリだった。
王子は居るのか───
侍女達が自分から離れて扉に向かって畏まる。
生きた心地がしなかった。
「何をしている」
イズミルは居た。
「申し訳ありません、王子」
侍女達が申し開きをする。
成り行きを察しイズミルが言う。
「もう良い。そなた達下がるが良い」
侍女達が辞去する。
床の残骸やキャロルの部屋に残された食事の皿を携え運び出す中、キャロルは王子に見竦(すく)められていた。
「な、なにか用!?・・・ここを通してちょうだい!」
威勢良く声を上げた。
だが後退りし始めるその足。
歩をゆっくり進めて近付くイズミルに、言葉とは裏腹に後退するのだった。
壁に行き当たる。
もう後はなくなった。
「諦めるのだな」
イズミルの腕にキャロルは捉えられるが───
勿体振って緩慢なその動作に───
恐ろしいと心底思うのだった。
「やめて!───諦めないわ!!死んでも諦めないから!!」
白い面(おもて)に嫌悪を露わに叫ぶ。
いつもながらの平行線を辿るかに思われた。
だがもうそれに敢えて乗ることなくイズミルは言う。
「エファリ」
「は」
扉の前のエファリが傍に来て控えた。
「先程の続きだ。エファリ、ミタムンの捜索はどうなっている?今一度キャロルに聞かせてやれ」
「は」
エファリが言上(ごんじょう)を立てる。
「ミタムン様の捜索は難航しておりました。先のエジプトへの正式な調査依頼も功を奏さず・・・一次報告ではこちらの意向に沿うことなくエジプト側は知らぬ存ぜぬ、帰国したはずと主張するばかり───」
エファリはキャロルの知らないエジプトとヒッタイトの遣り取りの顛末を展開した。
身につまされる思いでキャロルは聞く。
「二次報告では一変。ミタムン様お目付けのアコード様に接触していたエジプト側の侍女が判明───」
キャロルが固唾を飲む。
「ミタムン様がアコード様を従えず早々に帰国したと、途上ににあるのを追いかけるように、とのミタムン様の言伝を取り次ぐ侍女がいたのです。究明し詮議の場に引き出したのですが───」
色をなくしているキャロルをエファリが窺い抑揚をつけて言う。
「───ですがその場で『女王アイシス』の手打ちに。詮議はならず闇の中となっています」
「─────」
押し黙っていたが・・・『アイシス』の言葉に見て取れる反応をするキャロル。
してやったりのイズミルだった。
「アイシスは何故ミタムンを殺したのだ?」
「!え───!」
「何故アイシスにミタムンは殺されねばならなったのだ?」
「そ、それは・・・」
目の前に否応なく甦る光景。
王女が階下からアイシスに食ってかかり───
悪魔のごとき笑みのままにアイシスは───
灯火の油に・・・火を───
キャロルの目はいっぱいに開かれたまま何も捉えていなかった。
・・・正直な娘だ。
イズミルは確信を深めた。
キャロルを間近に見下しとどめを刺すように言う。
「ミタムンはよほど惨(むご)い仕打ちで死んだのだな」
「!」
一瞬言葉を失うキャロル。
「な、何を言うの!!・・・わたしは、わたしは何も知らない!!」
キャロルの首根を掴みイズミルが問いただす。
「アイシスなのか?」
「────」
言い淀むキャロル。
「なるほど───女王アイシスか」
「アイシス・・じゃないわ!!」
不自然に引っ掛かって怯んでしまう。
イズミルは確信を持った。
「アイシスの手の内にか・・・」
キャロルを壁に押さえつけ直すが・・・その琥珀色の瞳はキャロルから逸らされた。
「・・・エジプトで・・・か、ミタムン・・・」
一変した苦しげな呟き。
優しげな言葉で。
妹を思う兄らしく。
労わりがあった。
イズミルはその瞳を閉じ妹を思っていた。
表情は苦しげでその心情が垣間見える。
王女は王子の妹だ・・・
妹の事をそんなに・・・
『妹』・・妹?・・・
懐かしい響きに自分を重ねてしまう。
心がふんわり温かくなるが、すぐにそんな気持ちを振り払う。
・・・何優しい気持ちになってるの、キャロル!
・・・王子が妹思いでも関係ないじゃない!
王子が確信してしまっては駄目!
止めないと!
「王子・・違うのよ・・!」
イズミルにキャロルは取り繕うが───
だがもう遅かった。
「何が違う?許しはしない・・・。エジプトへは報復だ」
「!」
「報復を覚悟するが良い」
王子は本気だ───
エジプトに何を───
わたしを───見せしめに───?
イズミルは深い怒りの中、対エジプト姿勢を決めた。
「エファリ」
「は」
「至急主立つものを集めよ。───許しはしない。私の望むらくはエジプト攻略だ」
「!!」
王子はヒッタイトを率い、エジプトを───!?
え、でも、と思考の端でキャロルは思った。
───『王』でもないのに?
『世継ぎの王子』のはず───
この権力者ぶりは何───?
すべてを手中にしているようだった。
そう、現王は頼もしいイズミルに全幅を寄せ実権を委ねていたが───
それは今のキャロルには知る由もない───
・・・戦争・・・!?
戦争になるの───?
そんな───
王女の弔い合戦を───?
メンフィスはどうするの───?
戦争を受けて立つ───?
愚かな───
賠償を償えばいいのよ!
王女の見返りに───
多大な見返り───
領土を───?
富を───?
・・・そんなのあのメンフィスが応じる訳ない!!
キャロルは瞠目した。
『戦争』
その一言でキャロルの目の前に広がるのは嵐。
たくさんの血が流れ、荒れ果てる大地───
苦しみと恐怖と憎悪と───
この状況を前に自分は・・・?
どうすれば───
駄目だ、無力だ───
止める事もできるのかどうか───
して良いのかどうかも・・・分からない───!!
歴史は・・・どうなのか───
自分が関わってしまったのか───?
そうじゃないのか───?
分からない───
分からない───!!
もう・・・どうにもならない───?
・・・わたしはどうすれば───
キャロルの目に今浮かぶのは消えていく自分の帰るべき未来の街、懐かしい顔達、人々の暮らし。
歴史上の年号と共に浮かぶ史実の情景も次々真っ白になって消えていく。
歴史を変える罪はどんなに大きいのか計り知れない思いだった。
呆然と立ち尽くすばかりだった。
王子を止めなくてはいけない───?
それさえも分からずキャロルの頭の中はどこか遠いところでしか状況を考えられなかった。
エファリの消えた扉を見詰めているキャロルにイズミルが言う。
「ここの侍女は役に立たぬか」
キャロルが逃げ出そうする事を指し、思案するように呟いた。
「え・・・」
役に立たないって・・・
どうするの!?
まさか・・・
エジプトでのメンフィスが侍女を叱りつけ乱暴を振るうのを思い出す。
「どうすればそなたは大人しくしているのだ?」
「そんなこと、できる訳ないじゃない!!」
「これ以上私を悩ませるな・・・。この手の中におれば良いものを」
キャロルのふっくらと艶やかな白磁の頬に触れる。
「・・・まるで愛を乞う愚か者だな」
くすくす笑うイズミルの前で、言葉の意味不明さにキャロルは憤慨した。
「何、訳の分からないこと言ってるのよ!もう放しなさい!」
心の底から怒って声を上げるがイズミルは続ける。
「・・・愛を乞いはしない。そなたには私が必要であろう?メンフィスから救ってやったのだからな」
「!!」
絶句するキャロルにイズミルが高笑いする。
ま、またそんなことを───!!
半ば叫んで抗議の言を立てる。
「冗談はよして───!!わたしは一人で結構よ───!!ほっておいて!!!」
キャロルの元気良さに腹を決めたように言う。
「そなた、己の身の上を思い知るが良い」
冷たい声音。
先程浮かんだ侍女を処罰する考えがキャロルの脳裏を過(よ)ぎる。
まさか───?
「誰か縄を持て」
エファリと入れ替わりで侍っていた侍女に呼ばわった。
二つ返事で踵を返す侍女を横目にみながらキャロルは呟いた。
「縄って・・・」
不審な面持ちのキャロルを得意そうに見るイズミル。
「そなたを縛り上げるまで。観念するのだな」
酷い───
どこまで───!
わたしをどこまで拘束すれば気が済むの───!!
やはりまともに話しての打開は無理だ。
逃げれば追いかけたくなる?
そんなレベルじゃない───!
誰か教えて!!
抵抗しない訳にはいかないキャロル。
大いに暴れた。
イズミルを罵り身を捩ってその腕から逃れようと暴れていたが───
縄を侍女から受け取ったイズミルに両手を拘束されてしまう。
そのまま元の自室に連れ戻された。
天井から掛かる紗(うすぎぬ)を掻き分け・・・寝台脇にキャロルを押さえ付けると、意匠として施されている、だがしっかりとした金具にその白い手首を拘束した。
キャロルはその拘束に、ガシャガシャと金具から縄を引き千切らんばかりに解こうと足掻(あが)いた。
イズミルが冷たく言い放つ。
「観念せよ。身動きできるだけ有難いと思え。そなたは我が籠の鳥だ」
そんなこと認めないわ───!
勝手なこと言わないで───!!
屈辱に悔しくて精一杯イズミルを睨みつける。
青い瞳が今は白い光をまじえ極限の憎悪を呈していた。
だがイズミルは眺めていた。
眺めるキャロルの姿は───
乱れる髪───
乱れる衣の裾───
その白い足は艶(なまめ)かしく目に映り───
イズミルの前にキャロルはその姿で情動を誘っていた。
「そういうそなたも乙なものだな」
大げさな程キャロルが動揺を見せる。
片膝をついたイズミルがキャロルに手を伸ばし優美(たおやか)な背を長い指でなぞった。
「背も痛むであろうに」
「・・・や、やめて・・・」
か細い声で王子の制止を願う。
「どれ・・・見せるが良い」
イズミルが残酷に笑う。
「いや!!やめて───!触らないで!!出て行って!!」
キャロルは手首の拘束に身を寄せ小さくなって、斜に身構えた。
だが簡単に───
キャロルの衣はイズミルの指に掛かり引き下ろされる。
柔らかな曲線を描く白い背に真っ白な包帯が目に映る。
強張って寝台の隅に貼り付くキャロル。
包帯を巻き取る事はできない。
頑としてキャロルは前を向かないまま。
「そのままじっとしておれ」
腰の短剣を取ると鞘を抜き払い包帯を払った。
キャロルが声もなくただ頭を左右に振る。
いやだ、いやだ、やめて・・・!!
その背中にはまだ赤い傷が大きくあった。
イズミルは紗(うすぎぬ)の向こうに声を上げて命じる。
「これへ───薬を持って参れ」
控えていたのだろう。
侍女が二つ返事する。
傷薬はこの部屋にその用意が持ち込まれていた。
それを携えて傍に傅(かしず)く侍女が言う。
「王子、お薬湯もまだなのですが───」
「そうか。持って参れ」
薬を受け取ったイズミルはそれを指に取るとキャロルの患部に塗布(ぬっ)た。
「やめて───!触らないで!」
キャロルは居た堪れなかった。
パニックとその扱いの慣れぬ事とで気持ち悪くて吐きそうになり、
震えて耐えた。
今は寝台に抱きつくような姿勢で耐えていた。
素肌の肩を押さえるイズミルの腕にその戦慄(わなな)きが伝わる。
塗布が終わっても要らぬ所をイズミルがその指でなぞり始めて───
猶もそれは伝わり続けた。
背後からその耳元に囁く低い声。
「何を怯えておる?そんなに私が恐ろしいか?」
囁きは残酷に───
相手を蕩(とろ)かせるものだった───
だがキャロルはただ吐きそうで───
横顔で見せたキャロルの顔色は真っ青で唇の色はなかった。
「や・・めて・・・」
それを言うのが精一杯だった。
みるみる涙が溢れてきた。
やっとの思いで訴える。
「は、吐きそう・・なの・・・」
見ると鳥肌が酷い。
白磁の肌、その頬を大きな掌で包んで言う。
「それは済まなかった。───そういうこともある、少し落ち着け。───私が怖いのだろう?」
暫(しば)しおいてから、こくんと頷く。
助けてほしさに真っ青な顔色のまま・・・キャロルは藁をも縋っていた。
「怖がらせるつもりはない。そなたに私を求めさせたいが・・・。そうか・・・そうであったな。そなたまだ誰の手も・・・」
ガタッとキャロルが身動(みしろ)ぎして振り返り身構える。
全身で抵抗を示していた。
ますますキャロルの心中は色をなくしていたが───
「なるほど。ますます真実味なことだ・・・」
イズミルがキャロルを気遣うのか少し微笑む。
そして言い放つ。
「ここに縛るのはそなた次第。分かるか・・・?そなたは逃げようとするが、逃げずに私と向き合え。それぐらい譲歩をしてみてはどうだ?」
哀れを誘うくらい身を小さくし自分を凝視するキャロルを見詰めて呟くように繰り返す。
「済まなかった───。私は女は間に合っておる。今後は何も強要せぬから安心いたせ。約束しよう。そなたをかけがえないと思っているが───。今はまだ分からずとも良い・・・」
混乱して表情のないキャロルに合わせ、今はそこで話を切った。
何か真剣な面持ちのその琥珀色の瞳に見つめられ動けない。
キャロルは動けなかった。
YESともNOとも───
イズミルが紗の向こうに向かって声を上げる。
「薬湯を持て」
侍女が進み出て、イズミルに手渡す。
器を手にしてキャロルに問う。
「自分で飲むか?」
それともまた口移しで、と言外に含んでいた。
「あ、当たり前でしょ・・・!」
口移しなんて堪らないので・・・やっとそこで言葉を発することができていた。
向こうを張って答えるキャロルにイズミルの手から器が傾けられる。
口を付け一息に飲み干す。
器からその青い瞳を上げたキャロルの心とは関係なく全く裏腹に───
今度は艶やかな唇が───
琥珀色の瞳にまたも要求した───
僅かに身にあたっている衣を不自由な腕を折り畳んで押さえ、身動きできないキャロルに───
その剥き出しの肩と───
白い頬に───
その長い指を掛けることを───
銀灰の髪が白磁の肌にしな垂れ掛かる。
要求のままに唇が触れ合う距離になっていた───
「い・や・・・」
キャロルが小さく声を発し身を離そうと身じろいだ。
今度は強張りをみせる体に拒絶の程がイズミルの手に伝わる。
「これも?」
「い・や・・・」
如何ともし難いほど強張っていた。
お互いの体温が感じられるその距離で───
イズミルが微笑んで言う。
「この次はないから覚悟しておくが良い」
キャロルの頬にその口付けを落とした。
イズミルがその衣を払って立ち上がる。
侍女達にキャロルをまかせた上に逃さぬよう、強く念を押して部屋を後にした。
隣の自室へと。
助かった──────
助かった──────?
不可解な安堵を覚えた。
そしてどうやって得た安堵か思考が巡り、
感じるのは納得できる感情ではなかったが、思考の中呟いた。
助けられた──────?
不可解な気持ちで紗の向こう、人物の消えた扉を見つめた。
侍女達が集まって来る。
「・・・キャロル様、何でもお言いつけくださいね」
「いつもお優しい方なのです・・・」
「そうです!すぐにご気分が良くなれば」
言いながらキャロルに包帯を巻き、衣を着付け直す。
だがキャロルが悟った事をポツリと返す。
「王子は単純じゃないわ───。残念だけど・・・」
そうだ───
国のためならなんでもする古代の王者だ。
今はそれだけを感じ、考えは纏まりそうになかった。
ただいろんな事が驚きで・・・
驚いてばかり───
まず、そう、この侍女達を見せしめに処罰するのかと思ったけど・・・
メンフィスとはタイプが随分と違うようだ・・・
それはそうね・・・
風土が違えば人柄も王のタイプも違う・・・って事かもね。
そして、王子は───
わたしに言ったのは何だった───?
わたしに口付けを───
いいえ───
所詮わたしは対エジプトの駒で───
王子の好きなように扱われて───?
考えは全くそう簡単には纏まりそうもなかった。
思考はあやふやな問題を残して進む。
エジプトへの駒としての自分は、と考えると沸々と闘志が沸いてくる。
今を打開できること、自分の手元に目を向け直す。
見てなさい・・
自由を奪ったつもりでしょうけど、縄抜けができるようにした。
気付いていないでしょ?
わたしは諦めないわ!
キャロルが存外しっかりした口調で侍女達に告げる。
「もう休むのでみんなもういいわ。また明日ね・・・」
侍女達は、では、と退室する。
「次の間に控えておりますのでいつでもお呼びください」
「ええ」
侍女達が扉の向こうに姿を消すのを見送った。
一人きりになれたのは久し振りのような気がする。
いつも誰かに振り回されている。
エジプトでもここヒッタイトでも・・・
古代にやって来てからずっと・・・
現代ではあんなに平和な毎日・・・
当然のような事が古代(ここ)では何ひとつない・・・
今日はいろんな事があり過ぎた・・・
疲れた・・・
このまま今日は眠る・・・?
いいえ・・・
今できることはしておこう───
取り敢えずこの拘束を解いてみよう───
寝台の端に座り込んだままのキャロルは縄抜けを始めた。
上向きに束ねられている手首を擦り合わせるようにくっつけると外周が変わるのだ。
縄が余りそこから片手を引き抜くことが出来る。
そうして両手は自由になった。
溜め息をひとつ吐く。
バレたらもう使えないわね。
いざという時まで縛られたふりをしておこう、と思うのだった。
この部屋はどうなっているのかしら───
回廊に出られないなんて・・・
扉はひとつしかないけど窓からは?
窓を覗くと階が上層階で飛び降りられるものではないのが分かった。
伝い降りる足掛かりもない。
垂直に切り立った外観。
ロープになるような布は寝台回りに掛かる紗(うすぎぬ)のみ。
括(くく)り合わせて繋げたとして、自分を支える重りとなりそうなのは寝台のみ。
寝台の脚から窓の下、着地するには長さが足りそうもなかった。
気を取り直して部屋を見回す。
飾り棚や何枚もの敷物、円卓、腰掛、壷や彫像の置物、それに寝台、どれも価値が高そうな趣向を凝らした物ばかり。
じっとそれらを見詰めある考察をするキャロル。
隣はここよりずっと広い居室だった・・・
一方は出口に続いているが一方は寝室があると言う。
王子が咄嗟に連れてきたこの部屋は・・・・
庭に逃げた自分を格子の所で捕らえ連れ戻した所は。
・・・もしかして王と王妃の部屋?
と言うか・・・夫婦・・・家族の生活スペースのようだわ。
なんて所に───
もしかしたら寝室同士繋がっていたりして───
予感に壁際の天井からかかる紗を見て回る。
が、予想された扉はないようだった。
それを利用すれば今、居室までは突破できたわね・・・
キャロルは溜め息を吐いた。
キャロルの前には問題山積───
今これ以上道は開ける気はしなかった。
重い疲れがキャロルに圧(の)し掛かった。
寝台の脇の縄を拾うと寝台に腰掛け外した時の反対の要領で拘束された風に戻る。
拘束の許す範囲で寝台に身を横たえる。
天井から頭上にかかる薄絹が灯火の中優しく揺れた。
ゆっくり瞬きすると涙が滲んできた。
ママ、兄さん・・・・
会いたいわ・・・・・
涙に暮れながらいつしかキャロルは眠りに落ちていった。
夢見るのは現代の家族の笑顔───
懐かしい我が家───
以前のままの自分───
夢の中でのキャロルの笑顔をこの古代では知る者はいない───
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