The North of the Border

<6>













ヴィスタは思い返して呟いた───

思わず呼びかける───

確かめるように───


「───イシュタル」


「え?」

我に返り訂正する。

「───いいえ、では、失礼してお手を」

そう繕うとヴィスタはキャロルの言う手首の痛みを検(あらた)めた。


イシュタル?

バビロニアの───?

イシュタルって確か───


記憶を探る。
キャロルの事だ。
ヴィスタの一言に問い返すところを・・・
『イシュタル』───
響き渡る自分の知識の中、共鳴するものを追いかけた───


イシュタルは───

バビロニアで主に信仰される───

『女神』だ───

オリエント全域でも『金星の神』として信仰された───

『愛の女神』

『豊穣の女神』

『戦いの女神』

『大娼婦』とも───





「では一度縄を解(と)きましょう」

ヴィスタの声に思考を止められる。

この人は信じているんだろう・・・

古代の神々を───

そこまで考えてキャロルは隔たりを感じながら・・・ただ穏やかに笑んでお願いに代える。
戒めから解放されて礼を言う。

「ありがとう」

キャロルが相好を崩すとヴィスタはまたも目を奪われていた。


真っ直ぐに向けられる白い面・・・

子供を思わせる笑顔・・・

柔和な笑み・・・


この境地は不思議だった。
相手を安らがせる、癒す、というところだろう。

自由になった・・・

キャロルはひとつ溜め息を吐くと痛む手首を擦(さす)る。
それに合わせヴィスタが懐から出した皮袋の───薬草を混ぜて作ったと思われる傷薬。
指に取り用意する。
だが。

「ごめんなさい、ヴィスタ。わたし、このまま逃げたいの。見逃して」

凛とした声。
豹変を見せてキャロルがヴィスタを見上げる。
その面もまた意思を湛え見る者を引き込んだ。
侍女達が血相を変える。

「キャロル様!」

「それはいけません!お見逃しなどできません!!」

走り寄って口々に説く。
呆気にとられ言葉を失っていたヴィスタがやっと口を開いた。

「何故それ程まで?・・・まだ諦めないのですか?」

城の庭先で一度、執務の間の前で二度目・・・と、王子に捉えられその前にたじたじに見えた娘だった。

「諦めるなんてできる訳がないのよ、わたしには!絶対諦めない!わたしを見なかった事にして!」

ヴィスタが難色を見せるのは当然だった。

「何をそう焦っているのですか?・・・無謀ですよ」

自分が無謀なのは分かっている。

「わたしはここにいてはいけないの!大きな迷惑が掛かるわ!分からないの?」

「貴女はもはやヒッタイトにとって無くてはならない存在ですよ」

落ち着き払ってヴィスタが微笑んでみせる。


『無くてはならない存在』───?

聞いたことがあるわ───

嫌だ───

嫌な予感がする・・・


僅かに身震いするキャロルに説く。

「王子にお仕えする我らにそのような願い・・・・・・実に無謀です」

王子に忠誠を誓って揺らがないのは分かっている。
それでも諦めることはしない。

「お願い!ここに居ては貴方達の為になることばかりじゃないのよ!もしかしたらわたしは災厄の元かもしれないわ!だから!」

お願い、見逃して、と繰り返す。
流石にヴィスタには理解に苦しむようで成す言葉がない。

「わたしはこの世界に居てはいけないの!今に天罰が下るわ!」

そうあって欲しいとキャロルは望みもしたが───
まだ神は気付かぬまま。
いつまでも掛けられた呪いを踏襲している。

「災厄?───天罰?」

ヴィスタの真剣な顔。
見開かれた目。
固唾を呑むのが分かった。
そしてキャロルの本心を見抜こうと言うように凝視する。

「まさか本当に・・・・・・?イシュタルなのか?」

古代の人間だ。
神はいつ何時現れても不思議はなかった。

「・・・・・・イシュタルって?さっきも言ったわね?バビロニアの民の信じる神の一人───」

「───はい。貴女はまるでイシュタルだと。皆言っています」

「───え」

絶句して連想する。
嫌な予感が本物になろうとしているのを。

「ちょ、ちょっと待って!神はいないのよ!わたしはただの人間!未来から来ただけのただの人間よ!」

キャロルの話を飲み込めずヴィスタが首を捻る。
ただ───
『神はいない』と断言する───
そこに反感に似た異質さを覚えた。
この娘は普通ではない、と。

「未来ではわたしは普通の人間!時間の歪みに落ちてこの世界に来たけれど!戻るためにはエジプトに行かなければ!戻りたいのよ!!」

必死になってヴィスタを掻き口説く。

「お願い!もうわたしの事は諦めてって王子に言って!わたしは行くわ!通して!!」

突破を決め、そう言ってヴィスタの脇を抜けようとしたが、ヴィスタは逃さない。
簡単にキャロルの腕を捉えて言う。

「それは!できません!何を叫ばれても意味が分かりませんが貴女を逃がせられません。貴女は我々のものです」

キャロルの顔色が一気に青褪める。

「や、止めて!わたしは誰のものでもないわ!もう一度言うわ!よく聞いて!」

ヴィスタに喰い下がって言う。

「わたしは未来の人間なの。帰らなければ!・・・わたしは生きていけないの!ここでは生きていけないの!!わたしを諦めて!!王子にもそう言って!!」

「言うことはできませんし・・・やはり貴女は普通の人間ではないとしか理解できません!貴女は本当に貴重な、計り知れない存在です」

「やめて!誤解しないで!!」

言い合いは繰り返し───目途が尽かない。
ヴィスタはその有り難さが本人には分からないものなのかもしれない、と思うのだった。
キャロルは・・・理解してもらえず信奉がかった目で見るヴィスタに困り果てた。
呟く。

「神扱いなんて・・・・・・予想外のそんな事・・・・・・エジプトでの二の舞いだ・・・・・・」

思い詰めて繰り返す。

「お願い!もう誤解しないで!それは間違いなのよ!!わたしを過大評価しないで!!もうたくさん───!!」

腹が立って感情が溢れる。

ヴィスタの返答は否。
訴えても聞き入れてもらえない───
その無情さに涙が零れた。
ヴィスタに捕られた腕を取り戻そうと押し返して訴える。

「もうやめて!もうほっておいて!!みんなに言って!わたしは無力だって。何もできないし古代(ここ)に居る事が間違いな人間だって!!」

物音がしたかと思うと扉が開く。

現れたのは───

「王子・・・・・・」

侍女達がそう呟いてキャロルの周りに作っていた人垣を崩す。
頭を垂れる侍女達の中で掴み合うキャロルとヴィスタが佇む。
徐(おもむろ)にヴィスタがキャロルの手を取り自分から解く。
キャロルから縋り付かれていたという状況を主に示さねばならない。
そして恭しく胸に手を当てイズミルに向かって畏まる。

「何をしている」

畏まったままヴィスタは不興を買ったことをありのまま主に詫びた。

「王子、申し訳ございません。侍女に頼まれまして・・・・・・。キャロルの手が痛むので診て欲しいと」

「それだけか」

「はい」

「では何故───」

とキャロルの涙を目に留めて言う。
視線を受けたキャロルはその潤む青い瞳を隠そうともせず睨み返した。

「キャロルがここから逃がして欲しいと涙ながらに」

ヴィスタの言をキャロルは唇を噛んで聞いた。
イズミルの問いが降ってくる、そう思って構えるが───
真っ直ぐに向けられたままのイズミルの視線。
息苦しさに先にキャロルが捲し立てた。

「わ、わたしをもう自由にして!もう止めて!」

ヴィスタの傍から一歩後退さり───
活路を見出そうと目の端で辺りを窺った。

「何を探している?逃げ道はないぞ」

イズミルが宣告する。

「もう解放して!ここから出して!!」

必死の叫びだった。
活路はない・・・が───
ヴィスタの腰の短剣をその目の端が捉えていた。

剣があれば───

固唾を呑み、間合いを計る。
一瞬が長い。
勝負に出るしかない。
僅かな隙はヴィスタがイズミルを仰いだ瞬間だった。
キャロルが飛び付いた。
ヴィスタに飛び付き剣に手を掛ける。
が、左腕をヴィスタに捕られる。
剣を取り同時に鞘も抜け・・・光る切っ先を振るう右腕で彼の胸を押そうとしたが───
剣の切っ先に身を引くヴィスタに、彼の喉元で手を止めたキャロルは───
ヴィスタに剣を突きつけた犯罪者のようになっていた。
剣に驚いたヴィスタより驚いた表情のキャロル。

「キャロル、止めよ。何のつもりだ」

僅かに手の届かなかったイズミルが言う。
キャロルが唇を噛んで───
刃をヴィスタの喉元に当てがったたまま・・・彼の腕を振り解(ほど)き・・・ヴィスタの胸をどんと押す。

「ヴィスタも下がって」

一同が息を呑む。
人質を取らない。
ヴィスタが下がると後ろを取られないように壁をちらと確認してキャロルが刃を構え直した。
イズミルが一歩踏み出し告げる。

「その剣を返すのだ」

「近付かないで!そこをどいて!!」

キャロルが剣を振り翳(かざ)す。

「そなたに敵うものか」

猶も近付き───
腕を捉えようと伸ばしたイズミルの腕に───
切っ先は───
向かわなかった。

向かったのは。
切っ先は───
キャロルの胸の上に───
両手で柄を握り、高々と構える。

「───何をする!」

驚きの声がイズミルに上がる。
悲鳴を上げる侍女達。

「下がって。誰も来ないで。でないと、死にます」

気迫は覚悟を滲ませていた。
迷いはないかのこちらを見据える青い瞳。

「キャロル様!」

侍女が悲鳴を上げる。
ヴィスタが言う。

「キャロル!自ら死ぬのですか!?お止めを!!」

「どういうことだ」

イズミルが視線だけを流しヴィスタに問う。

「キャロルが逃げたいのは・・・・・・ここでは生きていけないから、と」

「何のことだ?意味が分からぬ。キャロル、どういうつもりだ」

イズミルの怒気を一身に受けるキャロルが言う。

「わたしは!この世界の人間じゃないわ!!何度も言ったわ!だから消えるのよ。未来に帰れないのなら死ぬしかない───」

静まる室内。

「下がっていて。わたしは外に出ます」

「・・・それは無理だ。諦めよ、今のうちだ」

覚悟の娘は答えない。
扉にその足を向けようとしたキャロルがその低い声に振り仰いだ。

「未来は───」

イズミルが問うていた。

「未来はそんなに良い所なのか?ここでは生きる価値もないと?」

キャロルが静かに答える。

「・・・・・・どんな未来でもわたしは未来の人間。古代(ここ)では・・・だめなのよ。居てはいけない。生きて居てはいけない人間───」

逡巡する。

だめだと言われても───

できれば生きていたいわ・・・・・・

でも───!

「代償が大きすぎるのよ・・・・・・。もうどうにもならないのよ!」

強気を持ち直して言い募る。

「ここでは生きてはいけない!ここでは・・・わたしは災いの元!だから生きていてはいけないのよ!!」

何度も繰り返される言い合いに行き着くところはないのか。
イズミルが受けて言う。

「そうか。───そなたの頑なな思いは分かった」

「───」

「運命を呪っているのもよく分かった」

「!」

キャロルが少し驚いた表情を見せた。

「だが。そなたをここで離したところでどうなる?その先はあるのか?」

「───もちろんエジプトへ帰るわ。どんな障害が待っていようと」

キャロルが冷静に答える。

「申すのは簡単だが?」

「何としても帰るわ!ここから出て考えるわ!!」

「思いつきのままか」

「───ここで死んでもいいのよ?もう死んだと思えばこの先怖いことはないわ」

「奇跡的にだが───思う所へ帰れば、そなたはそれで満足か?」

「───満足よ!わたしは古代(ここ)で罪を犯さずに帰れた!こんな嬉しいことはないわ!!」

「果たしてそうか?」

「そうよ・・・・・・わたしは何も・・・・・・何も狂わせていない」

「何も?そうだと言えるのか?私は聞くぞ?───狂った者はどうすれば良いのだ?」

「───え?」

「私に忘れろと?前に現れ、そなたの言うところの災い、この身に受けたが?それを許せと?このままなかった事にできるとでも?」

一気に捲し立てる。

「・・・・・・そんなこと・・・・・・。会ってしまった事を言ってるの───?」

・・・・・・迷惑、大迷惑───?

下手に予言なんかして───

そして消えようとしている自分───

「いいえ、まだ今なら───」

キャロルが呟く。

「まだ間に合うから───何も罪を犯していないから───そうなのよ?違う・・・の?」

駄目なの───!?

何も変えずに守ってこれたのじゃないの───?

「嘘、そんな───貴方の記憶が何かを変える───?わたしの所為!?」

剣を握る手を震わせてキャロルがはっきり問う。

「何をすると言うの!?」

「私は何でもしよう。そなたを求めてな」

イズミルが意味深に答える。

「嘘よ───そうやってわたしを責めるのね!?」

「責めもしよう。私にこのままを強いるのならな」

「───やめて・・・・・・惑わすのね!?───わたしを惑わすつもりでしょう!?」

どうかもうこのままで───

「このままで───。そうよ!ええそうよ!このままで!!お願い、もう許して。わたしのことはもう忘れて。もうわたしを解放して!!───駄目だと言うのなら、もう───頼まないわ!!」

今にもその白い胸に剣が突き立てられそうにキャロルの覚悟は高まっていた。
誰も手が出ない。


小癪な娘───

本気・・・か。


イズミルの琥珀色の瞳が細められ、内心を読まれまいと自然青い瞳が視線を外す。
外した視線を侍女の一人に止め目で合図しながら言う。

「貴女、お願いがあるの。扉を開けて外まで案内して」

イズミルの手が制止を意味して上がる。

「いや、その勇気感心だ。皆の者、人払いをせよ。私が案内する」

イズミルが獲物を逃さぬ眼差しで言う。

王子が進むほうが城内の者に邪魔されないかもしれない・・・・・・

「いいわ」

イズミルを促すキャロル。
イズミルが進み、扉を開け、続くキャロルを誘導する。
ぎこちないながらも恐れもなく堂々と短剣を胸に構えるキャロル。

どこまでも本気か───

この世に居られぬと?

ほとほと只では通らぬ娘だ。

譲歩、してもいいだろう。

稀有な能力をそなたには要求しない。

ただの娘としての自由が欲しいのだろう?

その叡智をその口から奏でなくとも良い。

未来を語らずとも良い。

だがキャロル、そなたにも妥協は必要だ───


言い続けてきたキャロルの言い分がイズミルに功を奏しているのかもしれない。

だが───

『娘は極秘』

そう言ったイズミルに全面降伏するつもりはない。

考えは変わらない。

策の上だけでなく───

価値を秘めた宝を───

ただ愛(め)でることもできるが───

だがそれでは鳥は生きてはいけぬ。

イズミルはそれを知るゆえに───

苦しみ───折り合いを見出せない───



イズミルが第一の扉で衛兵に扉を開けさせる。
閂を外す音がする。

外からしか開けられなかったのか・・・・・・

周到さをここでも目にする。
敵でなければ解き明かしたいところだ。
その秘めた全貌を───

衛兵にその場を引かせたイズミルに続いてキャロルが回廊に出る。
ここは高く土台を組んだ上、空に浮くような宮───
窓から地上へは降りれなかったように。
回廊は石造り。
昇り切った陽光の差し込む灯かり取りの窓が細く連なるが───
石造りは重厚で空気はひんやりとしていた。
前を行くイズミルとの間合いを保ちながら───
剣を胸に翳(かざ)すキャロルはまだ冷静だった。
心は凪いでいる。
覚悟はできていた。
後ろから取り巻きながら付いてくる者達は手が出せない。
今にも自分に短剣を振り下ろしそうなキャロルに辺りは凍りつく。

覚悟は揺らがない。

自分に誇って死ねる。

キャロルは本気だった。
長い階段を降りきり───
地上を踏むと駆けつける側近や衛兵が一人また一人と取り巻く。
人払いをした上の事、人数は極少ないが───
このまま手を拱(こまね)いている訳にも行かずイライラが募っていた。

「焦るな。後ろから手を出すでない」

イズミルが側近達を諌める。
続けて肩越しにキャロルに諭す。

「もう諦めたらどうだ?そなたには呆れてしまったぞ」

可笑しみを含んでイズミルが言う。
死ぬことの無意味さを説いている。

「その容貌で娘が町に出てみよ、只では通れぬぞ」

人攫いか誘拐か───
その先は奴隷か慰み者か───
何を意味したのかキャロルは考えはしない。

「黙って!前を向いてて!」

イズミルに向かって命令する。

「馬を用意して。それにエジプトまで行けるよう用意を積んで」

後ろの見知った侍女に向かって要求を出す。
それを待っていたかのように踵を返してイズミルがキャロルに向き直る。
キャロルに立ちはだかって言う。

「では私が連れて行ってやろう」

「!?」

「私もエジプトに用がある。一人旅より良いであろう?心許ない旅よりも」

「ふざけないで!貴方から解放してほしいのよ!?第一信じられない!」

怒りを込めてキャロルが言う。

「この剣を取られればわたしは無力!また籠の鳥となるに決まっている!」

「約束しよう。でぬとこの先に構えるヴィスタらがそなたを取り押さえる。簡単に生け捕りだが?」

回廊の先に見える角の陰か、並ぶ柱か。

「脅し───?」

目を凝らしてもそれが真実かどうか判別できないが十分有り得る。

「それだけではない。幾重にも待ち構えた者はおる。そなたには無理だ」

「!」

「そなた一人容易いのを敬意を払って申しておるのだが?信じられぬ?」

穏やかに、だが威厳をもってキャロルに問い、見詰めるイズミル。
キャロルの思いは揺れた。


わたしをエジプトへ連れて行くと言った───?

エジプトへ行ける───?

本当に───?

どうする!?

信じてもいいの・・・?

いいえ───

「信じるかどうかではないわ。わたしを帰す気があるのかどうかを聞かせて」

「帰す気はない」

その即答さ。
キャロルが言葉を失う。

「だがエジプトに行かねばならぬ。そなたを置いて行くつもりもない」

「エジプトまでは利害が一致しているだけ・・・・・・なのね・・・・・・」

一人はその王に挑み───
一人はその王の足元を抜け───
自分の世界に帰る為に───

迷いが生まれる。
イズミルの前で剣をどうこうすることはできなくなっていた。
選択肢は一つしかなくなる。
剣を振り下ろす強行は実行不可能となっていた。

少しでも希望があるのなら生きていたい。

生まれたからには生き続ける義務がある。

瞳を閉じ───
胸に突き立てていた短剣を───
胸の上に寝かせたキャロル。
近付いたイズミルがふわりとキャロルの肩を抱く。
白い胸の上の刃を押さえ剣を取る。
イズミルの溜め息の中・・・・・・心無しかキャロルの溜め息も安堵のものとなるのだった。
剣を現れたヴィスタに差し渡し───、

「それで良い」

腕の中のキャロルの髪に口付ける。
瞬時に蒼い瞳に光が点(とも)って抵抗をみせて言う。

「放して!」

「そうはいかぬ。エジプトまで安全に連れて行ってやるのだ、少しはそなたも敬意を見せねばな」

「な───!」

「エジプトに着くまで───そなたは私の妃だ」

「───え」

余りに唐突。
言葉をなくすキャロル。
一瞬辺りがざわめく。

「誰にも勝手はさせぬ・・・」

「勝手!?町に出たらどうのこうのと言って脅して、その追い討ち?治安の悪いのはもう分かってる!脅迫!?」

だが言い募るキャロルに対してイズミルの自分を見詰める瞳は理由明白だった。
逸らされず光が翳る事もない琥珀色の瞳───


『愛している』


そんな───

まさか───

止めて───!

聞きたくない───!!


「冗談はやめて!!」

耳にする前に必死に打ち消そうと言い切った。

「冗談でこのようなことは言わぬ」

だがキャロルは真っ向から打ち消し思う。


違うわ───!

王子はわたしの独占をここで宣言するつもりなのよ。

やはりこの人達の中に不安要素があるのよ!

『妃』と簡単に言うけれど『妻』だ。

王子の妻───


きっぱりはっきり言う。

「お断りよ!そんなの!!」

イズミルの胸を押し返す。

「逃げずにゆっくり考えるのだな」

何も義理はないわ!

考えたくもない。

あからさまに他方を向き取り合わないキャロル。
促され来た回廊を連れ立って戻る。
だがキャロルは考えていた。


エジプトに着いたらナイルに行って帰ればいいのよ。

終わるのよ、古代での苦難が───

それ以外構ってる場合じゃない!

妃だなんて───

既成事実みたいな事───

とんでもない!!


頭の中は意気込んでいるが、見た目は大人しくイズミルに付き従い少しは従順になるかのキャロル。

『エジプトに帰れる』

その一言でこうも変わるか、と思えるイズミルだった。

衛兵が守る元の扉が見え、戻ってきた、と思ったキャロルの足が止まる。
イズミルの手の届くあんな所に戻るのは抵抗があった。

「部屋を別に───!」

「承知ならぬ。私から離れたければ『妃』になるのだな」

イズミルは面白がっていた。

「冗談はよして!!そんな取り引きなんか聞いたことないわ!?結婚をなんだと思っているの!?」

可笑しみを収めたイズミルが言う。

「来るんだ」

ペースを掴んでいるイズミルに腕を引かれる。

「食事の用意を持て。それと直ちにルカを呼べ」

後に従う侍女に告げるイズミルにうやむやのうちに連れ込まれるキャロル。
元の部屋の手前、広い居室で落ち着くイズミルにやっと腕を解放される。

また戻ってきてしまった・・・

侍女達が窓を開け爽やかな戦(そよ)ぐ風を取り入れる。
それに大きく溜め息を吐く。
傍らに居るイズミルをちらと見て、言いなりの自分に怒りが再燃する。
向き直り繰り返す。

「ここは嫌よ。やっぱり居たくない!他の所に!」

「これ以上人目につく事はならぬ。分からぬのか?そなたは目立つのだ。髪も瞳も肌も」

イズミルの長い指が金色の髪を、白磁の頬をなぞる。
自分の元から逃げようと言うこの娘が愛おしい───
琥珀色の眼差しがそう語るように細められる。

「やめて!な・・・に・・・?」

今までにない───

思わせぶりなこれは何!?

キャロルの心中は穏やかではなかった。

「城内でもだ。人目に掛けておっては狙う者の餌食」

静かにしておれ、とその形良い薔薇色の唇に指を当てた。

「エジプトが間者を放っている。すぐそこにな。見つかっても良いのか?」

「え・・・いいえ、それは・・・」

困る───

エジプトには忘れてもらわなければ、と願った。


見つかったら───

どうなる───?

そうだ───

そうだった───

国家間の問題───


キャロルには話が大き過ぎて───見えない。
もはやイズミルの思惑も働き───
何がどう動くのか?
そうならないようにしたい、できるなら───とイズミルに只無言で答えていた。


静々(しずしず)と侍女達が食事を運び始めた。
色とりどりに皿が広い食台の上を彩る。
イズミルに引かれ椅子に腰掛けるキャロル。
不安な心をかかえ食欲は感じない。
横に座を取ったイズミルが問う。

「食べているのか?昨日は?」

食事に関心を示さず侍女の出入りする扉だけに関心を示すキャロルにイズミルが問う。

「要らないわ。わたしは何も要りません」

それを聞いていた一人の侍女が畏まって言上を立てる。

「申し上げます、王子。・・・キャロル様は全くお召し上がりではなく、昨日も何も手を付けてはいらっしゃいません」

二日昏睡していたキャロル。
薬湯と滋養のある物を流し込まれていたとはいえ取るに足りない。
考えてみるとその前は船で、テーベからこっちは絶食を強いられていた。

「病に掛かるぞ?ここの物は口に合わぬのか?」

「いいえ、そんなことはないわ。ただ・・・ただもう生きていたくないだけ。食べたくないわ」

「・・・・・」

またそれか───

内心イズミルは思った。
そして凝視するその視線がキャロルを突き刺した。
古代に生きる権力者だ。
思い通りにならない事に腹立ちも分からなくない。
でも、はいそうですか、と従えるものではない。
居心地悪く座り直すキャロル。
やっと視線を外し目の前の杯を取りワインを注ぎ、口に傾けるイズミルに言う。

「無理に生きたくないわ。それでわたしは結構よ」

「無理に?」

「───わたしの未来の話、分かってくれたんでしょ?わたしは未来から迷い込んだ・・・・・・所謂(いわゆる)迷子なのよ。ここでは駄目、無理なのよ」

「それは聞いて分かっておる」

「ただの人間なのに貴方達はわたしを特別な存在として誤解し利用しようとする!」

ワインの杯を手に肩肘付いてイズミルが言う。

「特別な存在でなければ構わないのだな?」

「───」

キャロルの青い瞳の前に人指し指を付きつけて言う。

「そなたはただの娘だ。何も特別な事をせぬ。それで良い。───それでも帰りたいか?」

「特別な事・・・・・・?」

神として扱われなくて、ただの娘だったら?

「・・・・・・そんな事・・・・・・みんなが!ヴィスタやエファリやみんなは誤解してるわ!!」

「私を置いてそう言えるか?」

杯を口にするイズミル。

「で、でも!」

「でも?」

「・・・・・・みんなは・・・・・・わたしの言う事を分かってくれないわ」

「信頼できる者がいない?それなら私の傍にいるが良い」

「やめて!───お妃になんかならないわ!」

「私も嫌われた者だな」

可笑しそうにイズミルが笑う。

「ではそなたをエジプトまで連れて行く私に礼もなしか」

「何もないわよ!!元々人攫いをしたのは貴方でしょ!?」

「ではミタムンの事、黙ったままでは困るな」

「───!!そ、それは!!・・・・・・知らないのよ!?無関係のわたしを誘拐した貴方が悪いのよ!」

「アイシスの行いはそんなに言えない物か?───それに無関係か?───エジプト王の『寵姫』にこそ用があったのだが?」

そうだ、報復に殺されると思っていた。

キャロルが固唾を呑む。
イズミルがキャロルの顎に指を掛け掬い上げて見詰める。

「『寵姫』ではなかった。───『ナイルの女神の娘』でもなかった」

「!!」

キャロルの瞳が大きく見開く。
輝きが増す。

「そなたを駒ではなく自由にしてやろう。───それが願いだな?」

キャロルの瞳に拒絶がないのを見るイズミル。


自由?

わたしは自由?

人々を騙さない?

歴史を変えない?


「そなたの重荷はなくなったか?」

「重荷・・・・・・?」

「そう、重荷だ。───自由への藻掻きはもう必要ない」

ゆっくりと瞬く青い瞳。

「そう・・・・・・だわ・・・・・・藻掻いていたのは苦しかったから・・・・・・」

「───そうだな」

キャロルの自問自答を待つイズミル。

「・・・・・・歴史に関わらないようにできない自分が!周りに悔しくて!・・・・・・ほっておいてほしいのに!誰も理解できないのよ!?」

「誰もいないと何故決める?」

瞬く蒼い瞳。

「私が居る」

イズミルの本心を見極めようとキャロルが見詰め返す。

「止めて・・・・・・!言うのは簡単よ!!分かる訳ない!そうよ、いつもそうだった。貴方だってそう言ってるだけ!!信じてないわ?」

「愛した女を信じない者がいるか?」

「愛・・・・・・!?」

ガタンと椅子から立ち上がろうとするキャロル。

「逃げるな、話を聞け。───そなたは逃げの一手のみか?」

「・・・・・・そんな事!・・・・・・だって!!」

卓の上に手をつき逃げ腰で立ち上がったキャロルを横の座から見上げてイズミルが言う。

「ここに居る意味を考えぬのか?」

「───ここに?」

「そなたは私の元に来、そしてもたらした。───もはや代え難い───もう忘れえぬ。そなたは変えたのだ」

「・・・・・・え」

「愛している」

「───」

「そなたを愛している」

「───本気?」

「本気だ」

「───」

「そなたの傍に私は居たい。それが本心だ」

イズミルが立ち尽くすキャロルの腕を取り椅子に着かせる。

指を顎に掛けキャロルの青い瞳を捉える。

熱を帯びた琥珀色の瞳にキャロルもまた目を離せない。

吐息の掛かる距離でその低い声が囁く。

「本心はもう一つ」

そんな瞳───

わたしを見詰めないで───

「今度は逃げるな」

「!」

眼で射殺される。

思考が停止する。

「愛している」

敵わない───

この人に───

わたし───

敵わない───?


イズミルの瞳から逃げたくて───

青い瞳が閉じる。

重ねられる唇。

心が攫われる。

与えられるのは深い口付け。


どうして───?

心を許していく自分に問う。

どうして───?

───心が凪いで行くのか───


そう───

今一人じゃないから───?

『分かった』と聞けて───?

わたしの───

欲しかったものがあるから───?

わたしの欲しかったもの───?

わたしは───

愛が欲しかったのか───

真実の───

掛け値なしの───

理解してくれる誰かの───?



心が浚われそうになりながらも───
まだ残る疑念がキャロルを引き戻した。
イズミルの胸を押し返して肩で息を継いで言う。

「でも・・・待って!わたしには信念がある。誰の命も大切で、歴史を守るという信念!」

青い瞳に光を戻し───真っ直ぐにイズミルを見上げる。

「貴方に守れる!?わたしに知識を要求しないと言えるの!?」

「約束しよう。だが私の言うことも聞くのだな」

「・・・・・・でも言うだけなら誰でもできるわ!」

「そなたの飽くなき精神に何度付き合わされたと思っている?私にも目指すものがあるぞ。───そなたの気概、掲げるは世のためなのであろう?」

キャロルの白磁の頬を撫でて言う。

「方向は同じだと言ったら?」

「国を共に治めよう、と言うの!?ちょ、ちょっと待って・・・・・・やっぱり王子のような権力者の前にはわたし、どんな影響があるか分からない───」

「何が不安だ?申してみよ」

「例えば・・・・・・」

「未来の知識は使わなくて良いのだぞ?そなたの姿勢が私には共に歩むに足る」

「待って・・・・・・例えば・・・・・・苦しんでいる人をその苦しみから救うためにわたしは知力を尽くすわ。見過ごしなんかにできない!でもそれは歴史を変える」

白い面が苦しげに訴える。

「案ずるな。それはそう教えてやれば良い」

「でも!!」

「何をどうしても救えと言う者は私が作らぬ。その上でそなたは私に申せば良い───『できぬ事だ』と」

「!!」

「申したであろう?強要はしない。それでもそなたの瞳に私の国は映せぬか?」

「・・・・・・どうして・・・・・・そんな事を?本当に・・・・・・?」

まだ信じ切れないキャロルは猶も続ける。

「・・・・・・王子、それは本心・・・・・・?どうして、そんな事が言えるの?理解できるの?」

「───何度も言っている。───愛している。そなたこそまだ分からぬのか?」

「―――」

「ありのままのそなたで良い」

「・・・・・・あの、でも。いいのかしら・・・・・・?待って!分からない、分からない!」

「───ゆっくり考えるが良い」

そう言うと、優しく頬を撫で愛惜しんで言い聞かせる。

「未来へ帰る方が簡単か?ここでの可能性を信じぬ?私に機会は与えられぬ?」

ゆっくりとキャロルが思いを紡ぐ。

「簡単・・・・・エジプトへ行けば・・・・・・ナイルに飛び込めば現代に帰れて簡単───そうかもしれない」

「必ずしも帰れるものでもなかろう?」

「・・・・・・今度は帰れないかも知れない・・・・・・」

「半々の賭け。───私には賭けられない?」

「王子に・・・・・・?でも───古代(ここ)で生きて行くのは・・・・・・王子の言うとおりならわたしはわたしの思う通りに生きていけるかも知れない・・・・・・?───選ぶ自由を・・・・・・少し待って・・・・・・」

「いいだろう。───だが何が起ころうと私もまた私の思う通りだ。無に返すことなく逃げるならば私はそなたを籠の鳥とする」

「・・・・・・」

「だがそれは私の信条ではない。大体そなたも逃げることが信条ではなかろう?本当にありたいそなたは?それは私と共には無いのか?」

「・・・・・・分からない、考えさせて・・・・・・。わたし、逃げたかった。わたしはできるものならわたしらしく生きたかった。守るべきものを守っていられる場所に!ただ帰りたかった。帰るしかなかった!!」

過去を思い瞳を強めて訴える。

「ここでは人は簡単に殺し合い、それはわたし、耐えられない!歴史を変える恐怖に苦しくて生きていけない!!わたしの願いとは全く違う世界に無力な事が悔しくて!助けてほしくて・・・・・・!!」

キャロルの溢れる涙。
イズミルはその目に映しキャロルを受け止め続けた。

「未来でしか生きられないと!帰らなければと!!」

己で導く答えに因ってしか人は納得できない。
イズミルは黙って見守っていた。

「一人だった!一人だと思っていた!!何故なの!?何故わたしは一人なの!?」

イズミルに詰め寄り溢れる思いをぶつける。

「王子、貴方はどうしようと言うの!?何をしようと言うの!?」

「───そなたが居なければ果たせない」

キャロルの涙をその指で拭ってやる。

「そなたの帰りたがる未来をここに作りたい」

「!!」

「そなたにそれ程の信念を抱かせる世界はさぞ素晴らしいのだろう。そなたに愛されるような国にしたい。見ることはなくとも憧れる」

「───」

「夢だな。そなたの瞳を私の国に於いて輝かせたい」

「・・・・・・」

「私の目指すものはそなたのような民のいる国を繁栄させ───守ることだ」

キャロルの頬を撫でて吐息の掛かるままに言葉を紡ぐ。

「悪くないであろう?───私の全力にそなたの嫌うところがあるか?」

キャロルに嫌悪の色はない。

「私の全力なら───そなたを引き止められる事を神に感謝しよう。───ただの人間としても、私はただの人間のそなたを愛したのだから。───なすすべてを愛している。───私にそなたの可能性を」


「可能性───」


そう呟くキャロルには見えていた。


キャロルにはイズミルの言う『目指すもの』は何時だって見えているのだから。


それを帰る事で目指し───


守ろうとしていたのはキャロル。


王子となら───?


イズミルが耳元に唇を寄せてその心を得るように言う。


「そなたを我が妃にする」












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