The North of the Border<8>
俯いて───
肩に掛かる黄金色の髪を波打つままに垂れ───
淡く色付く形良い唇を噛み───
苦しげにキャロルは呟く───
「許して・・・・・・もうどうにも、どうすることもできない・・・・・・」
自分の主張はどうあっても曲げられない事をイズミルに訴えて。
「駄目だ」と言われれば「そうかも知れない」と思えて。
イズミルの言い分ももはや無視し得なく───
呟きは板挟みの苦しみで悲哀を色濃く孕(はら)むのだった。
隔たりが深いのだと、邪魔をしているのだと分かって・・・・・・
わたしにはもうどうすることもできない・・・・・・
キャロルは言を重ねる。
「これ以上はもう―――言うことは同じ・・・・・・」
抱える問題は言い尽くしてしまった。
後は王子が「分かった」と言えばいい、話は楽だ、と思考が投げ出しもする。
もう言い尽くしてしまったキャロルは固唾を呑んでただ願う。
分かって───
片や琥珀色の瞳は俯く娘を映しながら、その心をも覗いていた。
この様子では時間の問題。
「分かった」と言えば楽になれるものを───
「許してほしい」と願ううちにキャロルの瞳が潤み透明な滴を湛えようとしていた。
───こうまでしても何故手放せない?
叡智(現代倫理)に裏打ちされた熟慮した言動、何を秘めるのか内面から輝く娘を手放す者がいるのだろうか。
王者であればなおの事であるが、それだけではなく、
知らず知らずながらその言動から物事の真理を覗かせる娘は、求道者をそこに憩わせる。
正しい道理を求めて彷徨える者はやっと得たのだから。
そなたが必要なのだ。
諦めなどしない。
そなたさえ居れば他に何も要らぬほどに───
この先の未来が不安で仕方ないと言う事なのであろう?
私と共にそれを越えられぬのか?
「無に返せない」と認めたのだから───
「分かった」と言わせてやろう。
楽にな───
部屋に満ちる重い沈黙の、そのうわべだけの静寂を払うように、
イズミルが衣擦れの音を立て長く逞しい腕を優雅でもって衣の袖を払い、背後の扉を振り仰ぐ。
「これ以上は待たせられぬ。───誰かある!」
返事とともに侍女達が姿を見せ扉の前にて控えた。
「討議はどうなっておる?どの者か呼んで参れ」
「はい。お待ちを」
腕組みするイズミルにその視線を離さず置かれ、キャロルは潤んだ瞳のまま居心地の悪さに座り直す。
程なく、部下の一人がその大きな青い瞳に映る。
イズミルが横顔だけをそちらに向け、肩越しに声を響かせる。
「間もなく参る。待たせておるな、どうなっておる?」
イズミルの御前に膝を付く側近。
若いがヴィスタより年嵩(としかさ)があるように見え凛々しげで、「クレスタと言った」とキャロルに記憶されている。
「は。皆、王子をお待ちしております。情勢にご判断を」
それだけを言うと慇懃にイズミルの指示をクレスタが待つ。
「この後すぐ参る。待って居れ」
「は」と返答しクレスタが御前を下がっていった。
キャロルはイズミルが対エジプトへの算段を整える最中であることを今窺い知った。
執務の間でのその途中を置いて、ここへ来ており、もうかなり時間を過ごしていた。
イズミルが問い掛ける。
「そなた、もう勝手に逃げる気はないな?」
「え・・・・・・?な、ないわ。・・・・・・貴方に分かってもらってからでないとならない・・・・・・」
「そうだな。───そなたにもう拘束は要らぬな」
一つ好転した事を密かに満足するイズミル。
「だが、何も無かったように私がそなたを忘れ得ると、そなたは思うのか?」
「・・・・・・他の誰かを。他を当たって・・・・・・。きっと見付かってわたしを忘れるわ」
「───簡単に申すが、これでも私は十分な経験を積んでこれまで生きてきておる」
私の事を知ってみた方が良いな、とイズミルは思うのだった。
「私について参れ」
意味が分からず不信な面持ちのキャロルに構わず、イズミルが侍女を呼ぶ。
「ベールだ。誰かベールを持て」
返事を返して数人が用意に立つのを見届けてから、イズミルが思案のままに呟く。
「しかし・・・・・・討議の場、皆の手前、そなたは自分で自分の首を締めかねぬな」
「───」
連れ行かれる所はどうやら討議の場、しかも尤もな事を言われ言い返せない。
「私以外には何も申すな。───本意ではないのであろう?軽はずみに出るなど」
「ええ、もちろん、態(わざ)とではないわ・・・・・・」
「では私と来るが良い」
「でもそんな所に出て構わないの!?」
「では自室で待つか?」
「ええ、待ってもいいわ」
「逃げぬと誓うか?」
「誓う───」
「諦めたのだな?」
「いいえ・・・・・・諦めた訳ではないわ・・・・・・貴方に分かってもらえばいい」
「・・・・・・堂々巡りだな。やはり私と来るが良い」
「───でも、そんな」
────────
同じ言い合いを繰り返すうちに、指示通りの物を携えて侍女達がさわさわと居室に戻る。
その手に色とりどりのベールを見繕って。
「王子、こちらでよろしいでしょうか?」
白く透けて繊細で、図化した花の柄が織り込まれる高貴なそれは、侍女達がキャロルに見立てたベールだった。
だがイズミルは別の布を指して言う。
「いや、それだ。肌を寸分も見せぬようにキャロルを包め」
イズミルの目に適(かな)ったのは藍色のベール。
即座に侍女達がキャロルを取り巻き、その黄金色の柔らかい髪、白磁の肩を腕を、包み隠す。
イズミルに連れられて行く体裁と相成った。
侍女達によってその人に捧げ上げられる。
重々しい纏いとなったキャロルを満足気に見下ろし静かに言い付ける。
「その目は伏せて居れ。その面(おもて)も。───何も申してはならぬ」
大きた掌が近付き、その長い指でキャロルの目元のベールを深く手繰(たぐ)った。
「しかし我ながら苦肉の策だ。そなたに守れると良いのだが?」
試すようなイズミルに心中決めかねるまま、キャロルはその手を取られ同意させられるのだった。
居室を出、執務の間に入るとそこにはエファリやヴィスタ、クレスタその他数名の側近達が幾枚もの広がる、中には丸まったままの書類や粘土板の入り乱れる机上を囲んでいた。
姿を見て椅子から立ち上がった一同にイズミルが声を掛ける。
「皆待たせた」
上座の椅子に着き、隣にキャロルの座を取らせる。
「王子、キャロル───様も討議に?」
「そうだ。手の内隠さずとも良い。キャロルは我が妃も同然」
「な・・・っ」
「妃だから心置きなく討議し作戦を立てよ」の意味と、「妃だからその身を詮索するな」の意味と、二重に意味のあるものであった。
「御意」と一同の声が揃う中、当然憤慨するのはキャロル。
色を成し身を乗り出しかけたところをイズミルが片手で制する。
「忘れたか?」とでも問いたげな眼差し。
キャロルは目だけを怒らせ言うとおり座り直すのだった。
何の受け答えも反応もしない方が無難なのだ。
目の前に広げられているのは地図。
町、山、湖、砂漠、オアシス、そして上下にヒッタイトとエジプト。
両国を結ぶと思しき街道を記した大きな地図だった。
ヒッタイトは現シリアの国境とほぼ重なって国境を持つ国。
対するエジプトの版図はシナイ半島までである。
両国は接している訳ではなく、ビブロスやシドン、ティルス、ガザなど地中海沿岸の交易都市が間に栄え位置し、その支配に争う両国である。
領土は互いに遠い敵対国である。
地図はキャロルに痛感させた。
エジプトは遠い。
この距離を車もない古代に於いて、これから進んで行かねばならない。
少々落胆して見入った。
様々な文献が頭に浮かびもする。
何百年もシリアの覇権を巡って争ったとされる二大国の事は多く検証されている。
地図を見て得意の考古学が顔を出し思考に夢中になる。
今は一体、いつなのか───?
イズミルに国の歴史、歴代の王の名前を聞けば分かるだろう。
そしてふっと気付く。
すっかり自分の世界に入り、ついつい身を前に乗り出すキャロルに周りの目という目が集まっていた。
顔を上げたキャロルにイズミルの言が振る。
「言いたい事がありそうだが何も申すな。分かっておろう?」
そうして乗り出しているキャロルを押し下げる。
またも身を竦(すく)め、すとんと座に戻るキャロルだった。
こんな所へ置かれながら何もするなとは拷問であった。
言いたいこと、聞きたいことが溢れ出るは流石なキャロル。
そしてその知識を垣間見た者達は囚われていくのが過ちの轍(てつ)なのだから、とキャロルは思う。
いけない、とんでもない・・・・・・
王子以外には聞かせられない・・・・・・
イズミルを背後からそっと窺う。
長い銀灰の髪が垂れるのは上背のあるその人のしなやかで逞しい肩、優雅に結わえられ腰まで届く。
時折見せるは精悍な横顔。
しなやかな長い指が討議の場、時折空に翳(かざ)されるのを見ていた。
近付く未来の波乱に向けた討議は猶も続き、
キャロルはその一つ一つに耳をそばだてていた。
エジプトとの交渉場所は『シナイ半島』。
王都ハットゥシャからの軍勢は1万。
まずそのうち3千はミタムン王女の救出の為着々と整えられてきたこともあって、捜索と交渉に向け昨日はや第一師団として出立していると言う。
総指揮を執る王子イズミルの合流を期待しつつ急速に南下しているのであった。
合流地点はここアナムールから1日の距離の国境オロンテス川下流である。
この第一師団は即行シナイ半島まで南下の途に率いられる。
第二師団以下となる残りの軍勢は国内・属国各地で動員を加え編隊を増強しながら、糧食や馬匹などの補給線・補給地を確保しつつ進軍する。
ヒッタイト軍は最終的に2万になる計算だった。
戦争。
戦争を辞さない構えがそこに広がる。
東西に長い地中海沿岸の中程に位置するこの地アナムールを出立するのは明日早朝。
国境までイズミルは持ち前の隠密さで動く。
側近達と少数の護衛兵で迅速に向かうと言う。
対エジプトの全権を統べ手にし、全軍を指揮する王子イズミルの出立までもう暇はなかった。
王都とそして進軍を始めた軍の統制・連携のための情報が錯綜する中、エジプトの情報にキャロルは思い深く耳を傾けた。
アイシスの行いはまだはっきり訴追されていなかったが、
ヒッタイト勢も加わった王宮内捜索でひたひたと追い詰められてはいた。
キャロルは止めなければいけないものなのか、そうではないこれが本来の事態なのか判然とできないままながら、キャロルが証言に引き出される心配はなく、もはや事実の露呈は時間の問題に思えた。
もはやイズミルにキャロルを駒として使う考えはない。
キャロルを随行する理由は何なのか?
使わないというのに何故?
障害はメンフィスである。
行方を血眼になって追うファラオとあれば、慎重にならざるを得ない。
常に自身と在るのが最良であった。
キャロルには大きな気掛かりがあった。
メンフィスはヒッタイトと直面した今の事態をどう捉えているのか?
ミタムン王女を殺したのはアイシスだと疑っているものだろうか。
アイシスを罰せざるを得なくなった時、メンフィスはどうするのか?
アイシスを断罪するのか?
アイシスを擁護し戦を辞さない構えなら、史実上宿敵のヒッタイト相手だ。
これを機に敵対関係、緊張状態が始まるのかも知れない。
まさか雌雄が決するなんてことに?
史実をもう狂わせている?
答えは否───そう願いたい。
メンフィスは一体どう出る?
キャロルの脳裏には───
漆黒の髪を靡かせ、緋色のマントを翻し───
身に付けた装飾品の輝きよりも風格に輝く精悍な面差し、こちらを威圧する黒曜石の瞳のその姿が浮かんで、消えた。
もうひとつの気掛かり、『ナイルの娘』の捜索は峠を越えそうであった。
依然国内をひっくり返した様に捜索隊が出ていると言うが。
隣国各地に出ている間者の捜査も必死の様子だと言ったが。
キャロルがいなくなって七日が経ったのだ。
イズミルは先に指示した他国での『黄金の娘』の陽動と撹乱の工作を即刻変更。
ナイル川にて陽動を講じていた。
まるでキャロルがナイルに消えたかのように目撃の証言を工夫しているようだ。
メンフィスが早々に諦め納得できるように。
「キャロル様は───」
側近の一人の声がイズミルの陰に隠され動かないキャロルをびくりとさせた。
「キャロル様はメンフィス王の言動を傍でご覧になっていたはずですが」
その言を呈するクレスタにイズミルはさし返す。
「キャロルはそのような事に申す事は何もない。前線の者に探らせよ」
「承知いたしました」
そう、わたしはそんな事、もう何も言わない───
王子は庇ってくれたけれど───
側近達はやはり聞きたい、利用したいとみえた。
そう言えば気になるのは、ヒッタイト側へのオーパーツ(発見された場所や時代にそぐわない場違いな遺物)ともなり得そうな粘土板。
その長い袖を引き、振り返ったイズミルに囁いて言及する。
「あの、王子、粘土板に記したわたしの話は害となる。早急に打ち捨てて」
「何の事だ?───だが今は申すなと言っておる」
そして「後だ」と囁いた。
そう、これ以上は側近達に聞かせられない。
キャロルが藍色のベールの中、口元も手で寄せた藍で隠し、深淵を見せる青い瞳だけ覗かせ小さく頷いた。
目と目がお互いを察し同意することに映し合った。
通じ合いを交わす事もできそうで、期待からかごく微かな微笑のように瞳を細め視線を交わした。
第一線からの一報を携えた者が知らせに入る臨戦態勢著しい室内。
ミタムン王女捜索隊の一団とエジプトとの交渉を一線で取り纏めている王女目付けの王の側近アコードをここから動かしていた。
キャロルは希望的観測のもと期待する。
ミタムン王女の件が早々に交渉だけで済むかもしれない。
そうなって欲しいと願う。
目の前で人が死んでいく戦争を見る事になれば黙っていられるのだろうか。
見上げると隣に座す、この事態の掌握者であるイズミルは苛烈な指示を飛ばしている。
エジプト側の出方を討議し、側近達の検討する上で、
最も打算的で、最も万能で、最も野心的な方策を講じる。
戦へ完全で手落ちのない構え。
一挙手一投足は妹王女を思ってのこと。
国民も息を潜めて王女の行方を案じていることだろう。
この交渉の支配権はヒッタイト───イズミルに握られている。
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