〜 ラオリーでの出来事 〜 |
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ラオリーでの出来事 第 1話 家を建てた 第 3話 お茶を飲む 第 4話 アカ料理 第 5話 犬を食べる 第 6話 お茶を摘む 第 7話 天の川が見える 第 8話 クリスマス 第 9話 旧正月 第10話
最近の出来事 2004年08月(1)
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妻の実家に新しく家を建てた。私の家ではない。家を建てたのは妻と約束したからだ。ただそれだけの理由だった。私自身は家を欲しいと思ったことはない。初めは10万バーツで出来ると言っていたが、結果的には20万バーツになった。私が怪我で日本に一ヶ月間、一時帰国したときから造りはじめ1ヵ月後チェンライに戻り実家に行ったときにはほとんど完成していた。家は30度近い急斜面を200mほど登ったところにあった。斜面を登る道は溝が出来ていて、バイクで登るとき怖かった。おそらく雨が降ったらスリップして登ることは出来ないだろうと思われた。 午前中、10月の末雨期明け直後のワーウィーまでの荒れた道を3時間かかって家に着いたときちょうど私の部屋にタイルを敷いていた。家族は家を建てている向かいの庭先に小屋を建てて寝泊りしていた。私は今晩どこに寝たら良いのだろうかと思った。タイルを敷き終わって、妻の義兄は今晩はここで寝られるよと言う。どうしたらよいのかと思って見ていると鉄製の枠で作られたベッドを部屋に入れた。部屋に入って大丈夫なのかと思ったが仕方ないので手伝った。最初の一足をゆっくりとつけるとそこはただのタイルの床でべつにフカフカとかした感じはなかった。それで安心して中に入りベッドの設置をした。バイク事故直後で恐怖感のあるまま悪路を長時間走った疲れでベッドに横になるとそのまま寝てしまった。 私の右ひざはまだ全く力が入らなかった。本当はあと数ヶ月はリハビリのために日本に滞在しなければいけなかった。日本から帰ってくるとき松葉杖は欠かせなかった。あせってチェンライに戻った結果だった。チェンライのカセムラートスブリン病院で1週間ほどリハビリを受けた。90度しか曲がらないひざの可動範囲を広げるため、ベッドにうつぶせになってひざを曲げられるとき、私は痛みのため大声を出し脂汗をかいた。廊下を通る人々が部屋を覗き込んだ。英語の話せるオカマのリハビリ療法士は私にしきりに話しかけてきた。最初の日こそ連れ添いつきで来たが後は一人で病院にやってきた。おかげでひざは平常通り近くまで曲がることが出来るようになった。西洋トイレしか使えない体から和式というかタイ式トイレが使える体になった。 夕方、むくっとおきだして薄暗くなった坂の勾配の少ないごく近くを散歩した。村の子供達が学校から帰ってきて私を取り囲んだ。私の手を引いてどこかに連れて行こうとした。お腹がすいていた。家に戻った。妻が料理したアカ料理をランプの明かりの元で食した。が、ご飯が冷たくて硬くてのどを通らなかった。豚肉のスープをかけてかき込んだ。タイ料理のように辛くなくておいしかった。二杯三杯と同じようにかき込んだ。満腹になって部屋に戻りひざの感染症の再発を防ぐ抗生物質を飲んで眠った。部屋の外では村人が大勢30人ほど集まってビデオCDの映画を見ていた。村で唯一電気の通っている家だった。深夜、蚊の飛ぶ音で目を覚ました。壁の上部は通気のためか日本でよく壁に使われている模様入りのブロックで出来ていて網は張ってなかった。そこから自由に蚊が部屋に入り込んでくるのだった。眠れず考えた私はこの山に来ることを誰にも知らせずにやってきた。ここは山岳民族の村だ。もし夜襲われたとしたら私はそのまま誰にも知られずに、この世を去ることになるかもしれないと思った。その晩はうつらうつらしながら良く眠れなかった。 朝子供達の騒ぐ声で目を覚ました。朝の5時過ぎから中国語の学校に通うためだ。妻の下には5人の妹と一人の弟がいた。すぐ下の3人はチェンライの街に住んでいた。残りの3人がこの家に私と住むことになった。3人のうち上の妹は小学6年生で私に特に良くなつき私の面倒を良く見てくれた。この村はキリスト教の村で水曜日と土曜日に夜、ミサが行われる。そこに私はわけもわからず参加していたが、この妹は私の手を引いて連れて行ってくれた。私は小さな女の子から親切にされたことはなかった。この妹がいとしくていとしくて仕方なかった。残りの二人の弟と妹は外国人の私を少し怖がっているようであった。 実家に着いて3日後ガーンクンバーンマイ(新築祝い)をやった。何をするのか知らなかった。村中から人が集まってきた。中国系らしい人から英語で話しかけられた、後で聞くとマレーシア人だということだった。「ハレルヤ、ハレルヤ」と歌を歌って、踊っていた。私は何の儀式?とわけがわからぬままマネをした。周りの村人は喜んでいた。その日私は体調が優れなかった。なれない環境、なれない食事でなれないことの繰り返しで食欲が全くなくなってしまった。儀式のあと食事になったが私は部屋にこもって眠った。村人は食事が済んで帰っていった。キリスト教式のガーンクンバーンマイで、この村というかこのキリスト教の宗派の人々は酒を飲まないのだと知った。 私はこの家でひざの様子を見ながら過ごす事にした。チェンライの街にしなければいけないことがあったような気がしたがどうでも良くなった。坂だらけでどこにもいけないのは幸いに思えた。それにも増して妻の弟妹達がかわいくて仕方なかった。
実家で1ヶ月半ほど過ごしたとき、突然電気がが来なくなった。家の建築のため臨時に谷の下の中国人の住む村から引いていたのだが、家も出来たことだしもうだめだと断られたらしい。ないと一日がこんなに短いものかと身にしみて感じた。朝は6時過ぎに目を覚まし、夜は9時頃には寝てしまう。そういう生活だった。もともと各部屋に電灯の類はなかった。部屋に入るとろうそくで本を読んだりしていた。ろうそくの明かりで本を読んだことはなかった。慣れると結構ろうそくの火は明るくて本を読むには十分だった。ただ、ろうそくの蝋がたれて床や置いた台を汚した。日本語の本は3冊しかなかったのでもっぱらタイ語の漫画を読んでいた。絵があるのでわかり易くてタイ語の勉強にもってこいだった。私は学生の頃よくバイクでキャンプに出かけた。そのときでも携帯用のガスランタンや小型の蛍光灯を持っていたのでろうそくの明かりの元で暮らしたことはなかった。初めての電気のない暮らしだった。電気のない村は暗い。暗いからこそ良く見えるものもある。夜空に輝く星の明るさにびっくりした。日本でよく昼寝に出かけたプラネタリウムの比ではない美しさだった。 食事も無論ろうそくもしくは空き缶で出来た油ランプの明かりでする。食事は家族そろってお祈りの後でとった。妹は私の正面に必ず座った。目をあわすと微笑んでくれた。瞳がろうそくの明かりに輝いていた。幸せな時間だった。洗濯も手洗い私はどこにもいけないのでいつも家で留守番をしていた。午前中はずっと家族の服の洗濯をし部屋を掃除していた。午後はもっぱら昼寝して、夕方家で飼っているニワトリにえさをやったりしていた。電気がないということは現代的な生活を全く出来ないということなのだった。何もないがなんとかなる。私はこの生活が好きだった。
ラオリーに来ると始めにお茶を出されるはずだ。お茶碗でなくコップで出て来る。ちょっと試しに暑いのを我慢してすすってみると、緑茶ではない。ウーロン茶に似ている。お茶の葉を見ても日本の緑茶のものとはまったく違う。製法は摘んできたお茶の葉を軽く日で干す。嵩の減ったそれを茹でてしまう。ゆでた茶葉を今度はからからになるまで干す。そういう工程である。おそらく、お茶工場で製品として出荷されるものとは全く違った製法だろう。また茶の入れ方はまず茶の葉をあぶって香りを出し、ポットに入れて、最初お湯を少し入れ、ゆすいでそれは捨てる。それからお湯を入れてしばらく待ってから飲むというわけである。これは始めのうちはおいしいとは思わないだろう。でも毎日毎日飲むうちにこれなしではいられなくなる。お茶に含まれるカフェインのせいだろうか。ラオリーにいる間私は朝昼晩夜4回このお茶を飲んでいた。要は水は飲みたくなかったからである。川の水を直接引いているので、雨がふったるすると濁ったりする。それを飲むのはちょっと気がひけたからだ。それで朝起きてお茶を飲み昼食後にのみ、夕食後、夜、本を読みながらこれを飲んだ。1杯ではない2杯3杯と飲む。結果、すっかりこのお茶が好きになった。妻は余りたくさんお茶を飲むと頭が痛くなるからよしなさいというが、他に飲むものはないし、癖になるのだ。この間日本にお茶の葉を持ち帰り家のもの飲ませた。まずいといって始めの一回以外は飲まない。大量に作ってしまったので、ペットボトルに入れ冷やしてウーロン茶代わりに一人で飲んだ。こんなにおいしいのにと思いながら。
私はアカ族の村に約半年住んでいたその間。食べていたのがアカ料理である。アカ料理と言っても特別なものはない。基本的に畑で採れた野菜と豚肉を炒めるか、煮るかしてちょっと濃い目の塩加減と若干の唐辛子で辛味をつけただけのものである。畑で栽培している野菜は菜の花、大根、小さくて辛くない輪切りにしてナムプリックにつけて生のままかじる、結構いける。キャベツ、ニンジンと日本の野菜と大差ないのである。故に日本人の舌にはあうように思われる。激辛のタイ料理に比べれば相当にあっている。そして主食は米なので、私としては普段食べていて問題なかった。その米は家の茶畑の空いているところに植えている、陸稲である。これはちょっと固くて、おいしいといえるものではなかった。炊き方は独特である。はじめに蒸してころあいを見はかりボールにあけて水を吸わせるのだ。米はみえるみる水を吸っていく、世の中にはいろいろなやり方があるものだ。そして円筒形のおひつに入れておしまい。炊きたては、米を炊いた直後のいい香りがしておいしくいただける。しかし夕方ともなると固くなってちょっとまずい。でも、人間慣れるもので私としては平気で食べていたが、ときどき胃にもたれて仕方ないときがある。腹持ちが良すぎるのだ。その時は1食抜くか、おかゆにしてもらえば翌日は調子が戻っている。私の一番の好物は豚のラープ。生の豚肉と各種のハーブやら何やらを包丁でたたいたものである。これがうまい。でも豚の生肉は寄生虫がいるので危険らしい。好物でも怖いので少しだけ食べる。危険と隣り合わせ、これがうまさの秘訣かもしれない。
アカ族のこの村ではではどこの家も犬を飼っている。私の家にも犬が数匹飼われている。防犯と食用のためである。村の犬達は知らない人が来ると怖いくらいの勢いで吠え立てる。私も他の家に行くと吠えられるし、しばらくチェンライに言って留守をした後などは帰ってきて村の入り口を登ってくるとやはり猛烈に吠えられる。しかし自分の家の犬は絶対にその家の住人に反抗したりしないし吠えることもない。それが子供や、赤ちゃんであってもだ。最近はタイ人の家でもペットとして可愛い犬を買ってきては猫可愛いがりに飼ったりしているが、この村の犬は名前などつけてもらえないし、一緒に遊んでもらえるわけでもない。しかしここの犬は従順で日本風の"お手"や"お座り"などはしないが行儀がいい。鎖でつないだりもしないし、どこに行こうと勝手だ、それでも逃げてどこかに行ったりしない。逆に日曜日の教会のミサについて来たり、畑まで着いてきて周りで遊んでいたりしている。鎖につながれてドッグフードを食べさせられてあげくに糖尿病や神経症を発症したりしているどこかの国の犬たちと比べてどちらが幸せか明白である。しかしその幸せな犬たちにも災難と言うかアカの村に生まれた運命がある。それはアカの人々は犬を食べるのである。どういうことから犬を食べるのかはわからないが中国の食文化の影響からなのか、アカの人々は犬を食べるのである。 私も犬を食べた。ある朝起きてみると、いつも家の前で寝転んでいるはずの犬が見えない。この犬はお母さんで他に5匹の子犬がいる。一ヶ月もすると子犬は悪戯盛りであちこち噛み付いたり、サンダルをどこかに持っていってしまう。私も日本から持ってきたスポーツサンダルを裏山に持ち逃げされしまいにサンダルのマジックテープを通すプラスチック製の部分を食いちぎられてしまった。それは妻のお母さんが直してくれた。直してくれたと言うのはサンダルのそのプラスティックの部品のあった辺りに太い紐を縫い付けてくれたのだそれでなんとかマジックテープを通して履くことが出来るようになった。いまでもそれは現役である。子供の犬は数匹うろうろしているがお母さん犬は見当たらない、どこかなとあたりを探してみるがいない。そこで小用を催したのでトイレに行った。そこでは、なにやら動物を解体しているようである。よく見るとそれは犬であった、体毛は焼かれて丸焦げになっている。首の部分が赤く裂けたようになっているので首を切ってそこから血を抜いたのだろう。豚も同じように首を切り血を抜く、豚の場合、血もいろいろと食用に用途があるので無駄に捨てたりしない。また犬は少し臭いがする。たとえようがない、死臭ではないいやなにおいだ。見る間に解体されていく、この犬は1ヶ月ほど前に5匹の子供を生んだ。その子供たちがある程度大きくなるのを見越して今日の運命の日を迎えたようだ。この犬を食べてしまうというと言うことは聞いて知っていた。妻の弟は「殺さないで」といっていたようだが彼の思いは届かなかったようだ。きっと今、彼は悲しんでいるに違いないと思い、台所にいる彼を見てみるとそう悲しそうでもない。初めてのことでもないので慣れているのだろう。犬はやがて調理され、朝食の食卓に上った。細かくぶつ切りにされ、かなりスパイスが効かされている。犬は臭いのだ。アカの人でも犬は臭いといって食べない人がいる。でも私は食べた。そんなにおいしいものではないというか、正直この調理法では何を食べても一緒なのだ。味の素とロットディーという調味料をたくさんいれて、炒めてしまっては何を食べているのかわからないのが正直なところだ。私は少し食べて止めた。子犬が寄ってきたので、食べるかなと思ってあげてみたら喜んで食べてしまった。お母さんの味がしたのだろうか。しかしこの犬は少しして死んでしまった。余りにいたずらものなので妻の逆鱗に触れたのだ。なたの背の部分で頭を殴られてその次の日の朝冷たくなっていた。南無阿弥陀仏。ではないアーメン。
ラオリーというかワーウィーの名産はお茶である。妻の実家でもお茶畑を持っており、私もそれを時々手伝っていた。しかし手伝っていたのはお茶を摘み終わってお茶を買い取ってくれるお茶工場へ運んでいく作業である。この間、試しにお茶を摘んでみることにした。しかしはっきりいってやりたくはない作業である。というのはお茶畑は山の斜面にあるからである。わたしはバイクの事故でひざに問題がある上、運動できないため体重が日本にいた当時より10キロ以上増えていたからである。ここは標高1000メートル以上の高地であり、また日差しが半端でなく強い。したがって想像出来る結果は疲労困憊のへろへろということであろう。長靴を履き、麦藁帽子をかぶる。そしてお茶の葉を入れるための肩から下げる袋。たとえ暑くとも長袖長ズボンである。しかもぼろぼろの穴だらけの代物である。畑作業をするのに別にきれいな格好する必要はないし、ここは人の目など気にする必要のない本当の山奥なのだし、でも恥ずかしい気がするのは私に若干の日本人の意識が残っているからだろう。かような装備に身を固め妻と一緒に村の坂道を降りていく。途中、村の住民から声を掛けられる。「パイ、ケップ チャー ガ?」(お茶摘みに行くの?)「チャイ、テワー マイ ヤーク パイ」(うん、行きたくないけど)と言ってみる。ニコニコしながら私を見送ってくれる。その後アカ語でなにやら話をしていたがさっぱり分からない。私が理解できるアカ語は「ホジャジャマ(ご飯よ)」「ジョ サドミャリャー(元気ですか)」「アガイヤ(どこ行くの)」「ロボ(お茶)」「イチュ(水)」など数語に過ぎない。後で何を話していたのか訊くと私がお茶摘みにいくのはいいことだといっていたようである。お茶畑に行くには村の入り口の坂を下りて、今度は畑のあるところまで上っていかねばならない。非常に難儀するのである。いったん降りてさらに上る。その間にも小川に掛かった竹製の一本橋を渡ったりする。それだけで疲れてしまう。息が上がる。心臓がどっくんどっくんいっているのが分かる。ちょっと休憩する。お茶はまだ一枚も摘んでいない。というかお茶の木までたどり着いていない。これから山の斜面を登っていかねばならない。下の木まではほんの15メートルほどなのでたいしたことはないのだが、妻は一番上まで行くのだという、何でだと訊くと「ミー トゥラッ(用事がある)」とだけ言う。仕方ないので息をきらせながらついていく。100メートルほど登って妻はここで待っていろと言い残し竹薮の中に入っていった。どうやら竹の子採りに行ったようだ。その竹薮の前には貯水用の池があった。コンクリートで出来ている。10メートル四方で深さは3メートルくらいありそうだ。家の茶畑の隣はリス族のみかん畑になっているそちらの給水用らしい。底の方から水色の塩ビ管で水を引いている。ここまでコンクリートやらの資材を運んで作ったのだろう。この辺の賃金は1日100バーツに満たないらしい。考えるだにおそろしいこと。そんな僅かな金のためにコンクリートやブロックなどを担いでこの山の斜面を登ってくる。しかし地元の人からすれば大したことはないのかもしれない。私には無理だ。いや困窮すれば生きるためにはやるかもしれないが...そんなことを考えているうちに妻が泥だらけになって帰ってきた。手には数本の竹の子を持っていた。成果は上々というわけにはいかなかったらしい。一緒にお茶の木の所まで降りる。そして一緒にお茶摘みを始めた。新しい茶の葉だけを摘むのだがコツがあるらしい、親指と人差し指、中指を使って上からつまむ様に摘みなさいと言われ、そのようにやってみるが同じようには行かない。とにかく摘めばいいのだろうとも思い、適当に摘んでいく。新しい茶の葉は新緑の緑色、ある程度時間が経ってしまった葉は深緑色の葉でこれは商品価値がないこれは持って来たなたで切り落としてしまう。この判断が難しい。初めどこまでを摘んでいいのか分からないので、新芽の部分だけを摘んでいた。それでは量をこなせない。キロ単位で買い取ってもらうので、量がなければ金にならないのだ。しかし私の感覚からすると妻の摘んでいるのはもうすでに深緑色になっている葉であり、商品価値はないはずだが、向こうはプロであるのだから文句は言えない。黙って従いほかない。適当に休み休みしないと疲れてどうしようもない。ちょっと移動すると息がハア、ハアとなる。休んでいるときに妻の袋を見るとパンパンに張っている。私のはほんのちょっぴりしか葉が入ってない。ヘタクソだといわれる。そのとおりだから仕方ない。黙ってうなずく。やがて妻のお母さんもお茶摘みにやってきた。お茶は芽が出てきたときに一気に摘まねばならない。そうしないと新芽はどんどん硬い商品価値のない葉になってしまう。摘んでしまうとしばらくは芽が出てこないので、仕事がない。別のお茶畑に働きに行ったりもする。働きたくなければ休んでいればいい。日本の生活に比べると生活レベルは確かに低い。生活は貧しいといわざるを得ない。しかし彼らの生活には笑いが満ち溢れているし、純粋そのものな子供たちを見ていると幸せとはこういうものかとも思えてくる。そういう想いを胸に抱きながら茶を摘む。午前中一杯茶摘をやった。昼食をここでとって。若干昼ねする。この畑には小屋というか雨よけ日よけのための屋根だけの場所があって、そこで休憩する。食事は家から持って来た米と玉子焼き、そしてその辺の草をとってきてナムプリックにつけて食べる。これだけで充分に美味い。畑仕事ははらすかしに調度よいのだ。こちらの米は固くて腹持ちがいい。労働者向けの米である。これがここの生活にあっている。本当に美味い飯だと思う。美味いものは味付けとか料理法とかそういうものではない。この美味さは食通などと呼ばれて人々には理解できない美味さだろう。以前どこかの本で本当に美味い食事は肉体労働者の丼飯だと書いてあったのを思い出した。まさしくそうだ。午後2時に茶摘を終えた。山を降り村の入り口の急斜面を上がる。そのまま私がバイクで茶の葉を売りに行く。三人の合計は25キロ。計250バーツであった。
ラオリーに来て、しばらくは夜は本を読むなどして、部屋の中に閉じこもっていた。ろうそくの明かりで読む本も
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