"主の回復"の精神病理的・社会心理的一考察





    資料にある長老たちの発言の記録から分かるとおり、ウイットネス・リーの問題は明白であるにも関わらず、かえって彼らは真実を語る人々を排除し、ウイットネス・リーの真実を埋葬しようとした。ここで問題となるのは何故彼らは自分の良心を敵に売りわたしてまで,ウイットネス・リーを正当化しなくてはならなかったのであろうか.事実関係については彼らのことばからわかるとおり単なる噂などでは決してありえない.それを否定するためには証拠が揃いすぎている.なぜ彼らは自分の良心のままに振舞えなかったのか.これが最大の謎であり,したがってここに回復の問題を解く鍵もあるものと考える.この問題には次のような精神病理学的側面と社会心理学的側面の2面から考察を加える必要があるものと考えられる.(注:本稿は89年時点での考察)




    1.精神病理学的側面

    彼らの発言をフォローするとき,一つの事に気付く.それは常にリー兄弟に対する評価に保留があり,一歩退いた逃げの姿勢が伺われるのである.そこにはリー兄弟の権威に直接触れることへの深いところでの恐れが感じられる.何故であろうか.この点につき少しく個人及びその集合としての団体の精神病理学的構造に,精神分析的考察を加えてみたい.

    1)この団体の構成員は一般にきわめてまじめ,良心的,従順で,主イエス・キリストを求めることにおいて熱心であり,神の権威を恐れる傾向が強い.反面主体性において若干不足することも否定できない.これは長年にわたるリー氏のメッセージを聴き続けた結果,彼らが次のような一つの価値観によって拘束されているためである.それはリー氏が繰り返し強調している事である.すなわち“新約聖書の中心は教会の建造であり,これが神の御心である.そのためには各自の個性とか,自我が捨て去られなくてはならない.自分の感覚・意見・主張は十字架に付けておろさなくてはならない.神は今日ご自身の権威を私に置いている.私の言葉は神が語るものである.これに従うべきであり,従わない場合は反逆者として神の裁きを受けるであろう”事実私自身もこのようなおそれを抱いていたことがあり,これから解放されるためにはかなりの努力を要した.つまり神に対するおそれが(これは正当なものである),巧妙にリー氏に対するおそれにすり替えられているのである.

    2)彼らの良心は,したがって,神の権威・聖書の権威によって肯定されていないと不安を惹起する傾向が強い.本来主は信者の中におられるのであるから,外部の基準によって確認される必要はないのであるが,構成員の性格的特性により,そのことを自信をもって主張することができない.このとき外部にカリスマ性を有した人物が現れ,しかも確信をもって聖書を語るとき,そこにその確証を求めようとする.すなわち彼を神の権威の代表と同一視することにより,彼の発言内容に自己の思想・行動が合致するときに自己の良心が平安を得られるのである.ここで問題となるのは,神の権威はすべてキリストにあり,しかも彼は私たちの中におられるのにも関わらず,外部にそうした権威を持ちたがる傾向である.

    3)2)の様な傾向は個人の良心が過敏すぎるときにしばしば生じる.良心は精神分析学においては超自我と呼ばれ,幼児期において両親,特に父親の価値基準を自己の内部に取り込んだものであり,厳格すぎる父親だった場合超自我が肥大し,過敏な良心を形成することになるという.これは自己の存在にとってある場合脅威となり,不安定な精神状態をもたらす.しばしば強迫傾向,すなわち,きまじめ,神経質,きちょうめんなどのパーソナリティーが形成される.このようなパーソナリティーは常に父親の権威によって肯定されていないと不安を呈する傾向が強い.そこで自己を権威の代表である父親と同一視し,父親の自我までも自分の自我の一部に取入れ,自我の安定化を計ることになる.そのように形成された自我はいわばお仕着せの自我であり,本当の自分自身では有り得ない.そこで超自我と自我の葛藤は免れたものの,今度は自分の本来の欲望・願望の源であるイドとの間がしっくりいかなくなり,葛藤が生じることになる.

    4)このように外部の権威を代表する存在と自己を同一視し,自我の安定化をはかる性格傾向を比較的顕著にもつ人々がこの団体には多い.中でも吉○兄弟の場合,その性格傾向から見て上記のような心理機制が特に強く働いていたものと考えられる.もちろんこれらの性格傾向は一面美徳でもあるが,他面きわめて脆弱であるとも言える.すなわち権威と自己を同一視できている間は安定しているのであるが,それが不可能になる場合問題を生ずる.例えば権威そのものに疑点が生じた場合,自己の良心がそれを許容できなくなり,再び不安を惹起することになるのである.つまり,その権威は完全であるべきなのであり,完全な存在によってのみ自分の良心は安定していられるのである.本来そのような存在は神以外には有り得ないのにもかかわらず,人に求めた点が悲劇であった.しかし,その心理機制は何分にも無意識的なプロセスであるためにどうしようもなかったとも言える.

    5)一方,ウイットネス・リーの自我を自己の自我の中に安定的に取り入れることに成功した者はこの集団においてはきわめて強い発言権を有する事になる.その発言は非常に確信に満ち,ウイットネス・リーの語り口から受ける印象と同一のものを醸し出す.この集団において認知された外部の権威,あるいは強力な他者の自我を自分の自我と同一視することにより,結果として自分の自我を肥大させている.ウイットネス・リー自身はいわば自分をパウロと同一視し,聖書の権威をバックにして自分の自我を拡大しているのであるが,それと同一の心理機制を彼の追従者達も反復している.そこでリー氏に対する批判をこの同一視の心理機制の結果,自分が批判されていると感じるパラノイド傾向を生む.この心理機制は強力な指導力・影響力をもつ新興宗教の教祖などに良くみられ,これが発展すると誇大妄想を呈し,パラノイアにまで進む.これが単なる分裂病患者の妄想と異なるところは,その妄想内容がきわめて強固に論理的に体系付けられていることである.

    6)しかしこのようにして実質を伴わずに肥大した自我はいわば幻想的なものであり,仮に4)のように自己の内部で葛藤が生じない場合であっても,本質的な脆弱性を有する.すなわち,この場合は外部の他者の批判・非難に対する耐性が低く,それらに非常に敏感に反応する傾向を示す.それらの批判に対して客観的な態度で対応する容量がないために,自己防衛反応としてまず攻撃的な反応が先行することになる.その内容が十分客観的なものであっても,またはまったく関係がないことすら,それをそのまま受け取ることは自分の自我を損傷することになる場合は,それを受容できないのである.そこでその内容を自己に有利な方向へと歪曲して解釈をし,逆に批判者に非を見つけ出して,それを自己の攻撃反応の正当理由にするという心理機制が作用する.このような場面がこの集団においては非常にしばしば観察される.これによりますますお互いのコミュニケートが損傷され,問題を複雑なものにしていく.

    7)ウイットネス・リーについては,意識的か無意識的か分からないが,このような心理傾向を持つ人々を巧妙に自己の手中に納めることに長けている.ある面において神の権威と自己の権威を分からないようにミックスして,私たちに提供するため,知らず知らずのうちに彼の存在が主の存在と同一視され,私たちの内的領域の多くを占めてしまうのである.その最たる犠牲者が吉○兄弟であると言える.Subliminal Brain-Washing(意識下洗脳)と言ってもよいかも知れない(ロサンゼルス・タイムズ紙の1978年12月11日付の記事参照).



    2.集団社会心理学的側面

    1)このような外的な共通の存在を自らの支えとして採用している集団内では,それをいわば統一的価値基準としていることになり,この基準から逸脱することが無意識的に避けられ,団体の存続を維持しようとする無言の圧力が存在することになる.その基準に沿うものは受け入れられ,そうでないものは教育によって啓発し,その基準に合致する行動をとるようにオリエンテートされる.もしうまく改善した場合はいわゆる‘成就された’なる言葉で表されるようにそこの団体の一人前の構成員として認知される.改善しない場合,‘主に対して忠実でない,教会の幻を見ていない’等の理由で,その団体の構成員として認知されないことになる.すなわち主イエスを受け入れただけでは不十分で,この価値基準の源であるウイットネス・リーを受け入れなくてはならないのである.この段階で淘汰が行われ,したがって同一の傾向を有するメンバーのみが残ることになる.こうして,きわめてhomogeneous (単一・同質的な)集団が構成されて行くとともに,ますます閉鎖的になって行く.

    2)この際しばしば集団を結束させるための根拠,すなわち大義名分が必要になるが,この団体の場合,いわゆる‘教会の立場’なるものがその役割を果たしている.聖書という権威に記載されている‘地方ごとの教会’をことさらに強調することにより,それに基づく‘一’を旗印とし,団体の結束の要としているのである(ここではその聖書的正当性そのものについては考察していない).そして,表面的にはきわめて熱心なクリスチャンの団体の観を呈することになる.しかしながら,ある個人がその統一的価値基準そのものについて触れるや,それはタブーを犯すことになり,きわめて情緒的な反応が彼に対して引き起こされるようになる.その反応はしばしば理解不可能なものであることが多い.なぜなら,その反応は理性的プロセスをへて生み出されたものではなく,皮相的・直情的な単なる情緒的反応に過ぎないからである.それは自らの価値基準としての絶対的存在を保護しようとする,したがって自己を保護しようとする反射的自己防衛心理反応である.そこでは自由な発言が封じられ,対話はけっして成立しない.

    3)このような団体においては,その大義名分を維持するためにきわめて厳格な言論統制がなされる.この団体の場合,いわゆる“一”を維持するためという口実のもとに個人の意見・主張を排除する圧力がきわめて強く働いている.“体の感覚にアーメンすべきである”,“意見はサタンから出たものであり,建造を破壊する”というようなもっともらしい口実によって,多くの構成員に圧力が懸けられ,このため構成員は自分の感覚・意見を表現することにとても臆病になっている.その結果,個人の感覚よりも,権威としてのいわゆる使徒なる人間の発言が相対的に強調されるようになり,ますますその人物が統一的価値基準としての傾向を強め,個人崇拝の色彩すら帯び,1),2)の傾向を助長することになる.

    4)以上のような社会心理学的構造はしばしば社会主義国のような独裁的傾向の強い社会において見いだされる.最近(本論文執筆は1989年)の例では中国の争乱がある.体制を維持しようとするためには何でもなし得ることが確認された.学生・市民に対してのあの行動の後,当局は虐殺の事実をすべて否定し,ジャーナリスト,テレビなどの報道はすべてデマであると発表している.例えば“NBCの記者が虐殺の場面を膨大な量のテープに録画してあると言うと,政府スポークスマンの猿木(ユアン・ムー)は,それらはすべてでっちあげであり,現代の技術を使えば真実はどうにでもゆがめられる,と反論した.”(ニューズ・ウィーク誌 1989.6.29)また長老支配のトップ・ダウン指向の風通しの悪い政治が腐敗の土壌となり,中国における賄賂はリクルートの比ではないとも言う.登小平も結局は毛沢東と同じ誤りを犯したのであり,これは文化大革命と同じ性質のものである.自分に都合の悪いものを粛正し,取り巻きを自分の身内や都合のいいもののみにし,個人崇拝の傾向を強め,今回の狂気に至った.中央大学姫田教授は“小生はこれを‘情念の政治’と表現したことがあります.それには二重の意味があります.一つは毛沢東の個人的理念・理想あるいはもっと端的に言えば妄執が,集団的な多数の意見を飛び越え,無視して,政治路線や政策となって現実政治の場で実現されようとしたことを指します.もう一つはその実現の方法として,指導者集団やその実践機構である官僚組織が信頼できなくて,自分が個人的に信頼できるものだけを指定し,抜擢して政治をやらせたこと,その結果,自分の妻や取り巻きだけの側近政治,一族政治になってしまったことです.もちろんこのようなことができる背景には,例の個人崇拝があったのであり”(AERA 1989.7.10)と言う.

    5)またもう一つの特徴として“極端に情報操作されて,今の権力側の情報,選択された情報だけが流れるようになったために,受け手は一面的判断しかできない.一種の無知状態にされてしまう”(ibid)という,情報のコントロールがある.中国の権力者は,もし人民にすべて任せたら混乱を引き起こすとして,民主化にはまだ時期が早いとしている.私たちも次のような発言を何度聞いたろう.“真実を語ったら弱い人をつまづかせる”と.そこには個人への信頼が見られない.つまづくかどうかは,その個人と主の間の問題である.かつて権力を握った者達はそれを維持するために重要な情報は自らが把握し,一般には流さなかったのである.その結果一般大衆は主体的な自分の判断をなすすべを奪われ,権力に隷従せざるを得なかったのである.いわゆる“主の回復”にはまさにこれと同一の構造が見いだされるのである.結局これらの要素の根底には,大義名分に根拠を置く,言論の自由を否定する土壌が存在する.個人よりも体制が優先されるとき,必ず行われることである.実際,私たちのあるものがリー氏にまつわるスキャンダルを公表しようとしたところ,広○兄弟に呼び出され,もしそうした場合泥試合に陥り,血を見る事になると圧力をかけられたのである.

    6)以上のような事柄の結果として“自浄装置が働くような組織でない”(本田勝一,朝日ジャーナル 1989. 7.17.)という状況に陥る.これは絶対的価値基準が悪を行った場合,その基準に自らの存在の基礎を置く者がそれを取り扱うことはできないのが当然だからである.もしも神が不義を行ったとしたら,われわれはもはやなすすべがない,絶対的絶望の状況に陥るであろう.彼らにおいてはまさにこれが現実の事となっている.神の教会と称される所でこの世におけるよりもさらに悪質なことがなされており,しかもそれを知りながら何等の手もうつことができずにいる.それどころか手を打とうとした人たちを脅しさえして,逆に異端者扱いして排除しているのである.

    7)吉○兄弟の場合次の事が推測できる.それは彼はこの集団内でしか生きられないであろうという点である.これには幾人かの聖徒の証言がある:吉○兄弟いわく,私は教会から給料をもらっている.もしいまここを出たり,リー兄弟に反対したりすると私は食えなくなる.この若さで曲兄弟のように養老院に入るわけには行かない,と彼らに語っている.実際彼に対しては教会から特別枠の予算から毎月定額が支給されている.私は吉○兄弟は完全に主に頼り,まったくの個人献金で生きていると教えられていた.また彼の意識の上では,大阪に対する彼の発言から明らかなように,自分が日本の代表であるというプライドもあった.そしてそこに彼は自分の存在意義を見いだしていた.彼の存在は内的にも外的にも統一的価値基準であるリー兄弟とこの集団に 100%依存しているのである.つまり,このシステムを否定することは,彼にとっては自己の存在を,内的にも外的にも否定することを意味したのである.まさに彼は哀れな存在であると言う以外にない.このような悲劇が今後ないことを望む.



    3.結 語

    この数カ月間はまさに教会問題とともにあったと言っていいくらいである.この問題を通して非常に多くのことを考えたし,主にも問いかけてきた.初期の頃は理解できないことばかりが続出し,翻弄させられた.いまここで私自信の内部においても一つの結論に到達し,一応のケジメがついたという感覚を持っている.

    このような文書を書くと言うことは,この作業を通して私自身の内部において過去を総括するという意味もたぶんにあった.なぜなら私はここで救われ,私自身もここがまったく正しいと一時期にせよ考えていたからである.私は他のところをまったく知らないからである.その意味においては私の価値基準も一元的であり,この文書で述べた状態にあったと言える.そこでその束縛から解放されるためにはかなりの努力とエネルギーを必要とした.この文書はまさにこのような個人的な内的な作業の副産物として生み出されたものと言える.したがってこれがすぐに普遍性を持つとも思わないし,これが他人の助けとなるとも思えない.しかしながら,もし私のこの中での考察が正当であれば,これに共感する人もいるはずであり,逆に共感があれば,ある程度私の考察は正しいことが裏付けられることになる.そこでこの内容の検証の意味で一般に問いかける次第である.

    この考察では問題をいたずらに複雑にしないために,信仰の真理の面についてはなるべく触れないようにした.例えば,私たちが信じて疑わなかった“地方の立場”なるものも検討を要するのではないかとも思っている.すくなくともその語句の使い方については現在どこか本質から逸脱している感じがある.私が探した限りでは,初期の聖徒達が自分をして,例えば“エペソにある教会”と呼んでいる場面はない.その呼び方は外部の人々が彼らを呼ぶときに使用しているのみである.なぜなら彼らは何等の名称も持たなかったために,そう呼ぶしか呼びようがなかったのではあるまいか.つまり彼ら自身がはたして自分は“地方の立場に立つ正当なクリスチャン”であると認識していたかどうか,私は疑問に思う.彼らは単なるクリスチャンであっただけであり,主イエス・キリストを受け入れていただけで十分であり,私たちの立場はキリストだけである.それ以外のものに立場を置く時,それがすべての問題の源になり得ると思う.



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