アナハイムに在る教会の長老たちの辞意声明文
1989年3月19日
これらの長老たちはウイットネス・リーの片腕として、20年以上にわたり仕えた人々であり、共に神学の素養があり、ギリシャ語、ヘブル語に通じ、リーが誇る"回復訳聖書"の翻訳に当たった人物である。ジョン・インガルスはリーとの個人的交わりと事件の詳細をすべて記録しており、この辞意表明をした後、"Speaking the Truth In Love"という著作にまとめた。この記録を見るならば、リーによる発言やリビング・ストリーム・ミニストリーの実態と息子の蛮行の有り様、さらにアナハイムに在る教会の実態が詳細に理解できる(邦訳なし)。
ジョン・インガルスとアル・ノックのアナハイムにある教会への言葉
T.ジョン・インガルスの言葉:
先週アル・ノック兄弟と私が教会の事について祈り,交わっていたとき,私たちはアナハイムの長老職から退くべきであるということが主の前で非常に明らかになった.今朝,私たちはそのことをお知らせしたいと思い,また長老職の責務と義務から解放されたいと思う.いま,なぜこのような歩みをとりたく感じたのか少し説明したいと思う.
第一に,私は心からあなたがたすべてに対して小さな証をしたい.私がキリストと教会の幻をはじめて見たのはいまからおよそ28年か29年前で,それはきわめてすばらしく,私はそれでリバイブされた.キリスト,すべてを含むキリストと彼の体である教会,さらには一の基盤を見ることができたのは何というあわれみであろう! その幻はその年月の間私をとらえ続け,私を守り,強め,そして前進させてくた.私はその幻を今も決して失ってはいないし,むしろそれに従いたいと切望している.
しかし1年半程前から,そして特に今月になってわれわれの実行がその幻と異なり,それていることを感じ始めた.われわれの幻は同じ,教えも同じ,真理はつねに同じである.しかし私たちの実行が変質した.われわれの実行は私たちの教えに合致していない.このことはわたしにとって一つの深い悲しみ,関心事である.主はそれがいかばかりのことであるかご存じである.
そればかりでなく,1年半程前から私は,いわゆる私たちが主の回復と呼ぶところのものの本質が変質してしまったことに気づき始めた.このことはきわめて重大な問題である.その本質が変質するとき,それは深刻,きわめて深刻なことである.
昨日,今日と簡単に申し上げたいいくつかの点を,十分な推敲はしていないが,書き留めた.これらの点は私の関心事をまとめたもので,今朝このような決断にいたった根拠を与えるものである.
1.地方教会を建てあげることよりもミニストリーの業務を建てあげることの方に強調点が移ってしまった.はじめ私たちが幻を受けた時,何度も何度も繰り返し,ミニストリーは諸教会のためにあることを聞いた.しかし過去数年間この点が反対になったかのように見える.諸教会はミニストリーのためであると強調されている.ミニストリーが推進され,賞賛され,そして建てあげられ,そして諸教会がその過程で非常に苦しんだ.
2.聖徒たちと教会を一人のリーダーと組織にまとめる大きな努力と扇動がなされてきたが,これには私たちは賛成できない.
あなたがの幾人かはリビング・ストリーム・ミニストリーから出版されている小さな本をよく知っていると思う.それを私たちは何年も前から持っている."地方教会の信仰と実行"である.私は確かにこれらは私たちの信仰であることには同意するが,しかし,これらのいくつかの点に関しては,それらは私たちの実行ではないと言いたい.ここで短い章を読んでみたい.その本の終わりにいくつかの質問項目があるが,その一つにこうある:“誰があなたがたの指導者ですか?”(日本語版 25ページ)
答えは次のとおりである:
“私たちのただひとりの指導者はキリストです.私たちはどんな職務上の,永続的な,組織された人間的指導権も地位もありません.なおまたどんな教職階級制度も,世界を包括するひとりの指導者などもありません.私たちは何人をも,彼に絶対に間違いがないなどとは考えませんし,だれにも盲従的には従いません.それどころか私たちは,その人の教えと実行とが神の言葉の真理と一致している人たちにだけ従います....”
今,私たちはこのことに同意し,それは私たちの信仰であると言えると信じる.しかし,残念ではあるが,これは私たちの実行ではないと私は言いたい.
3.全ての聖徒たちと諸教会はミニストリーの負担に従い,それを遂行するために,実行においてまったく統一し,同じでなくてはならないという圧力が大きな期待とともに加えられた.このことに私たちは同意できない.
4.1986年2月,アナハイムで長老の訓練があった.アル兄弟と私はそこにいた.その期間中,一つのリーダーシップのもとに絶対的にすべての教会は同じであり,すべての者はミニストリーに従うべきであるということに関する強い言葉が語られた.訓練の終わりに2,3人の例外を除いて兄弟たちは文書を書き,それに署名した.アル・ノック兄弟と私はそれに署名した.そこには419人の長老の署名があり,よってそれらを納めるのに27ページを要した.その文書はもし見たければ,‘長老の訓練8巻’に収録されている.
現在,そして一年半前から,私はその手紙に署名したこと,さらにはそのような文書が書かれた事をひじょうに後悔している.神の言葉にそのような先例はないし,さらにはその文書の内容には何等の聖書的な根拠もない.その文書の中で,私たちは,すべての諸教会は同じであり,ミニストリーに絶対的に従い,リー兄弟の指導は私たちの一にとって不可欠のものである,ということに同意した.そして,その文書の終わりで,すべてのこれらのことは神の言葉の教えに従っていると述べた.しかしこれらのことは神の言葉に従っていない,そして私はそのようなことを書いたことをとても後悔している.私はその署名を撤回することを公に宣言し,そのことを明確にしたい.
5.少なくとも実行において諸教会と働きの中心のようなものに強調がおかれてきたが,それは神の言葉に反することを私は見いだした.
6.諸教会に対して広範なコントロールがなされている.いま私はアナハイムについてだけ語ることができる.私はこのことが事実であることを知っているし,それを知りうる立場にもある.外側の働きかけが教会になされ,主からの直接の導きにしたがって前進することがきわめて困難になった.このようなコントロールは直接的にというよりも,むしろヴィデオ,カンフェレンス,訓練,そして長老の訓練のようなものにより間接的になされてきた.
教会歴史において次々に宗派が生じたが,それらははじめから宗派として始まったのではなかった.主の新鮮な動きがあったのである.主はご自身の民の間で,ご自身の臨在と祝福と共に何かをなされたのである.しかしそのグループの聖徒の数が増え,そして他のグループが形成されると,彼らは自分たちの獲得したものを守るために団体をつくることに決定したのである.
彼らのくりかえしした第2のことは,訓練センター,聖書学校,あるいは彼らの得た真理の中で人々を教育するセミナーをはじめたことである.そのときからそれはまったくの宗派になった.最初のステップは一人の指導者のもとで団体を組むことであり,次には訓練センターを作ることであった.そのようにしてどのグループもみな過ぎ去り,そして残念ではあるが私たちもまたそのような途上にある.私は真実に言っているし,とても後悔している.その過程をやりなおせたらと思う.最近アービンからきた2人の全時間者がダラスにある教会で研修期間を過ごしたということを聞いた.私は思う:“一体全体これは何だ!”
8.私はリー兄弟の分については心からとても評価していることを真実に言わねばならない;それは私たちに祝福をもたらした主からの大きな分であった.しかし,正直に言うが,彼はIコリント 4:6 による,書かれているところを越えて賞賛され誉れを受けたのである.このことは確実に誤解のないことであり,私はそのことをとても後悔している.私たちもそれに関わったことを悔い改める.
あるとき一人の兄弟が私に次のように言った,“私はここで,集会所の外で,ウイットネス・リーの地方教会に加入するつもりだ”.私はこのようなことが実際にあることを忌み嫌うが,しかしこのような強い傾向が存在するのである.教会は誰のものでもなく,キリストのものである.
9.私たちの一はどんな霊的指導者,才能ある人,あるいは教えにも基礎を置いてない.霊的指導者であれば決して分裂の原因や要因をつくるべきではないが,リー兄弟と彼のミニストリーは私たちの間できわめて大きな分裂の原因と要因をつくってきた.
10.マタイ22章で主はパリサイ人に語っている.彼らは様々の質問で主を惑わし,わなにかけようとしていた.そのとき主は質問の中の質問をした,“キリストについてどう考えるか? 彼は誰の子か?”誰もがその質問,キリストについてどう考えるか? に答えなくてはならない.しかし私はその質問が私たちの間で次のように変質されていることを恐れる:“ウイットネス・リーについてどう考えるか? あなたと彼との関係はどうか?” そしてそのような質問は決してされるべきではない.そのような質問が私たちの間で,私たちのやり方あるいは聖徒たちと教会との私たちの関係が,彼(リー兄弟)との関係に依存することになるような原因あるいは要因になってはならない.しかしこれが実状である.これがなされるとき,一の基礎が何か他のものにすりかわってしまうのである.
11.神はこの地上で私たちのキリストにおける一の証を求めておられることは疑いの余地がない.それゆえすべての聖徒たちと真の一の実行をなすべきである.しかし残念ではあるが,私たちはそれを十分実行していない.私たちは一の基礎やそれについての教えを持っていて,それはもちろんとても貴重である.しかし,正直に言って,私たちはこの教えを分裂的な,分派的な方法で適用してきたのではないかと恐れる.その結果私たちは他のクリスチャン達から自分を切り離してしまった.これは不適切な態度と真理の不適切な適用によるものである.私達はこの点悔い改めなくてはならない.私は悔い改める,なぜならそのことに寄与していたからである.諸地方教会において,私たちはとても偏狭で,歪小,すなわち見解において,外見において,そして他の聖徒を受け入れることにおいて狭くなってしまったと感ずる.体はそんなにも大きいのに,私たちはそんなにも偏狭になってしまった.このことは他のクリスチャンに対する私たちの態度に表れている.
12.他のクリスチャンにたいする私たちの態度は彼らを見下し,私たちが彼らにまさっていると考えるのである.私は何度次のような表現を聞いたか数え切れない,すなわち,“貧弱なキリスト教!” 私たちはそのシステムのことを言っていたのであるが,私たちの態度はいつのまにか人々のことを言うようにそれていってしまった.私たちが必要とするのは一の実際であり,教えとか,スローガンではない.私たちは人々に与えるばかりでなく,それよりももっと他人から学ばなくてはならない.
13.“ですから,私たちはキリストの辱めを身に負って,宿営の外に出て,御元に行こうではありませんか.”このヘブル13:13 はこの数週間とても私と共にあった.私はそうしたい.私は全ての宿営を,特に私自身の宿営を出たい.そして出るだけでなく彼の御元に行きたい.私たちが出ても彼の御元に行かないことを恐れる.それは意味のないことである.主は今でもご自身の羊を囲いから出し,一人の牧者のもとに一つの群れにするように招いている.どうか主が私たちをすべての囲い,すべての宿営から出し,ご自身の元へ導いて下さいますように!
14.私たちの一はキリストの体全体の大きさでなくてはならない.それよりも小さい一については,私たちはそれから離れ,それを保持すべきではない.
15.地方の行政.これは私たちは,他の聖徒達と,他の教会と,また主のしもべと交わりを持ちながら,自分のいる教会で主の導きを求めて直接に主の御元に行けることを意味する.このことに関しては,"地方教会の信仰と実行"にあるいくつかの文章を読んだ.その質問はこうである,“あなたがたの本部はどこですか?” 回答はこうである:
“それぞれの地方教会は,その行政では自主的です”(日本語版26ページ)
私は今まで決してこの言葉,自主的を使ったことはなかったが,“自主的”という言葉はリビング・ストリーム・ミニストリー(1978)によって出版された本の中で使われているのである.
“どの地方教会もその行政においては自治的であり,したがって何の中心的な本部もありません.”
そして他のところ(日本語版 26ページ)では,
“このことでは,すべての行政上のことと同様,地方教会は自主的であり,地方ごとに行政を行います.”
16.聖徒達及び教会の間に,聖徒達の良心を束縛することで,ある種の恐れの雰囲気がかなりの程度に浸透している.これは過度に強調され歪曲された権威の代理人に関する教えによってなされたものと私は信じる.このことは聖徒達を,自分の良心に従い,自分の霊に一つになり,そしてあるときには自分の正直な関心を語ることを恐れるような状態にもたらした.
17.内側の油塗りよりも外側の方法に,また内面生活の経験よりも外側の大きな成功に強調がおかれた.これはまったく神の御計画の中心路線から逸脱している.
18.いわゆるニュー・ウエイなるものは私たちの問題ではない.福音を伝えることとか,家庭集会をもつこととか,全ての人が分け与える相互性の実行とかは聖書的である.これらのことでは何の問題もないし,それを実行したい.そして実際実行してきた.これらのことは別に新しいことではない.もちろん私たちがそれらを実行するのは新しいかもしれないが.
そこで聖徒達,あなたがたすべてに正直に,主に対して正直に,そして私たち自身に正直に言うが,上記した点に基づいて,私たちは長老職から退くべきであると感ずる.私たちはあなたがたをこのような方法で導くことはできない.またこれとは違う方法でも導くことはできない.あなたがたの多くはある方向をとりたいと強く感じているが,長老として私たちはそのような方向にあなたがたを導くことはできない.私たちはあなたがたを不満足状態におきたくないし,むしろあなたがたが行くべきであると感じた道を主とともに自由に歩ませたい.
私たちは聖徒達がますます主の言葉に入り込んでいることを本当に幸せに感ずる.それはきわめて重要なことであり,私はあなたがたができるかぎりそのように前進することを励ましたい.私は主にあってあなたがたを本当に愛していると言いたい.主はこのことをご存じである.私たちはあなたがたを顧みるし,主にあってあなたがたのためを思っている.あなたがたは私たちの祈りの中にある.あなたがたはいつも私たちの祈りにある.そしてあなたがたも私たちのために祈って欲しい.アル兄弟と私のために祈って欲しい.もしあなたがたをつまずかせたりしていたら,どうかゆるして欲しい.私たちはあなたがたの誰をもつまずかせようとしてしたのではないから.私たちはあなたがたすべてとキリストの体にある同僚として交わりを維持して行きたい.
私はいまとても感謝している.私には私自身と平安がある.主とも平安がある.そしてあなたがたすべてと平安があるから.
U.アル・ノックの言葉
ジョンがこのようにそれらのポイントを分け与えてくれたことを感謝する.なぜなら私にはそのように明確にはできないから.私も同様の関心を持っていて,それについて去年から多くの交わりを持ってきた.ゴッドフリードが退く以前,彼と交わりを持ったが,これらのことは同じ関心事であり,それについてはリー兄弟と過ごすときはいつも彼の前に持ち出したことである.だから彼(リー兄弟)はこのことはすでによく知っているはずであるし,彼はそれを考慮し,そしてサンデイデゴで,彼はこれらのすべてのことを主の前に持ち出してが,何の問題もないと感ずると言ったのである.
回復にある長老として,私たちの実行において多くの問題があるし,また正しい良心に従うとき,実際もないのにその地位にとどまることはできない.どのようにあなたがたを導くことができようか? 私たちはそのような方法であなたがたを導くことはできないし,しかも回復はそのような状態にあるのである.そこで私たちは,ジョンが言ったように,いま私たちが長老職から退くことが私たちのために,あなたがたのために,そして主のために良いと感ずるのである.私たちが,去年の12月に退くべきであるとはっきりしていたのであるが,なぜもっと早くにそうしなかったかというと,私たちはこれらの関心事のためにもう少しここにとどまり,何がなされるか,そしてどのように聖徒達がこの種の状況に対応するか見る必要を感じたからである.しかしそうすればするほど,このとき回復は何の変化もしないであろうということが明確になったのである.
主が私たちを導かれていると感ずる道をあなたがたは尊重するであろうことを私たちは理解し,また望んでいる.私は25年間ここにいるが,この外のクリスチャンとの接触がなかなか持てなかった.私たちが知っている通り,実際上の私たちの交わりは,主の回復にある聖徒たちとのそれだけであった.私は他の数人のクリスチャンと交わりを持っているが,主はいろいろな場所で私が知らなかった方法で働かれていることを見るようになった.
私はまた,主はご自身の時期また人々の命における導きをもっておられ,彼は彼らをある状況におかれ,ある経験をとおして彼らに,他人が理解できないようなあることをなさしめることを理解した.私たちの引退はこの種のものであると私は信じる.私たちを知っているあなたがたの何人かは,なぜ今朝私たちがこのような立場にあるのか理解できないことであろう.あなたがたが私たちは軽薄にこのことをしたのではないことを見て,主に信頼することを私は懇願する.私たちは外側の強制によって退くのではなく,内側のそれによるのである.それに状況的にも主は私たちをこのような立場におかれた.
先の私たちの集会のテープを送りだした人たちを公の場で,私たちがなぜ非難しないのかと,とがめる他の長老達からの多くの手紙を受け取った.これらの手紙にはすぐに回答し,また何か間違った点についてはお詫びしたいと思う.しかしあのときは私たちは主に導かれて,それらの聖徒達をコントロールしたり,公の場に彼らを曝し,非難すべきではないと感じたからである.私たちは彼らがすべきだと感じたことをさせた.多くの場合,私たちもいまだに彼らが誰であるのか知らないのである.それを詮索したくもない.それは彼らの仕事である.彼らはすべきであると感じているのである.彼らは主の前で自分のしたことに責任を負うのである.いま私たちは長老職からおりるべきと感じ,この行動の責任を主の前で負うのである.
私は退く前にあなたがたすべてに感謝をしたい.あなたがたがこの何年間私と家族にしてくれた援助をどんなに私は感謝しているか,私は言いようもない.もし後悔があるとしたら,長老としての私の奉仕が適切でなかった点である.私はしばしば長老でなかったらと感じていた.私はそのことに向いていない.私はそうされたから,最前を尽くし,言われたことをなした.
しかし,内面的にも実際的にも,年月が明らかにしたように,私はこの地位にとどまるべきではないと感じている.何ヵ月も何ヵ月も,私はこのような点だけでなく,このような機能をするための私の不的確さの問題を持ち続けた.これが私の後悔する点である.他方において,私はキリストの体の一部であり,その一部として機能すべきであるし,他の機能のためにおかれてはいない.私は,けさ本当の自分でない何かから退くことができ,とても解放されている.私は単純な一兄弟であり,とても小さい彼の体の肢体である.
わたしはまたあなたがたに,私が過去25年間を後悔してはいないことを知ってもらいたい.私は地方教会での経験を後悔してはいない.主が私をここへもたらしたのである.あなたがたは,私がいかに内なる霊によってロスアンゼルスにある教会へ導かれたかと言う私の証を知っていると思う.私が初めて集会に来たとき,主は“あなたは家にいる”と言った.初めて集会に出た夜,聖霊が私に注がれた.そこで内側的にも外側的にも,私の教理的知識に反して,主はここが私に望んでいるところであると確証した.私は25年ここにいるし,また主がここにもたらしたことを疑ってはいない.いま主は,私は家にいるとも語らず,また彼の霊を注ぐのでもなく,私が語ったように,ある種の強要によって私を導いている.
私が祈っている一つのことは,私たちを長年知っているあなたがた親愛なる聖徒達が,今後私たちとの交わりをもつことを恐れることのないようにということである.私は明かな良心とともに主の前で,私は消極的な人間ではないと言うことができる.私はリー兄弟やその回復を破壊しようとも思わないし,むしろ彼らのために毎日祈っているのである.だから今後交わりを持つことを恐れないようにお願いする.私は教会を離れるのではない.それは私が再生されているかぎりはできないことである.私はすべての集会には来ないことだろう.それは主の許しを得てのことである.しかし,主が導けば私は来たいし,来れば外来客であるとは思いたくない.さもなければ,あなたがたは自分を地方教会と呼んだことを忘れることになり,宗派と呼ぶことになってしまう.
もし私が本当に消極的な人間で,私たちの交わりをとおして私が有害であると思うならば,私に言って欲しいし,今後交わりを持たないで欲しい.しかし私は何の否定的なことを言う意図はない;むしろただキリストと教会のことのみを語りたい.私たちの願望は主に従うことである.そして長老職から退かなければ,明かな良心とともに彼に従うことができないのである.そこでこのことが明らかになればもはや語る必要はない.あなたがたすべては主に従いたいという同じ願いを持っていると私は信じる.だから,主の私への導きを尊重してくれれば,私もあなたがたへの主の導きを尊重する.私は私たち全てが同じ場所で生涯をとじることを信じている.そこはキリストの体である.
私はとても幸福である.私はこのことを解き放ち,そしてあなたがたが私たちの引退を受け入れてくれるものと慰められている.私は誰か他の人があなたがたを導くように用意されていると信じる.私は何の問題もないと思う.
主が導くとき,互いに共に集まりできる限り祈ろう.主が来るべき終わりの前の数年間に彼の証を得ることができるように祈ろう.特にキリストへの親密な愛とキリストの知識が私たち各自の中で増し加わるように祈ろう.私たちは団体的側面はただ個人的側面よりのみもたらされることを理解している.個人的でなければ団体的でもあり得ない.主をもっと知るように,主をもっと愛するように,そして良い良心をもって主に明確な方法で従うことができるように祈ろう.