"地方の立場"について

    (彼らが最も大切とすること)



    本文書はウイットネス・リーに従うある"地方教会"が89年の混乱の最中に出したニュースレターです。この内容を見ますと、彼らの"立場"に対するコダワリの程がよく観察されます。クリスチャンの間における一致を担保し得る唯一の"地方合一の立場"こそが、教会の"状態"、真実、さらには個人の良心よりも優先されることが理解し得ます。これは最高責任者吉○氏において観察される通り悲劇的な結果を招来します。できる限り原本通りに再現いたします。

    このようにある行政区にはひとつの教会のみがあり得るとするのが、ウイットネス・リーの『地方合一の立場』であり、これ以外の土台を教会のひとつの立場とすることは許されないと言う主張である。例えば、某市においてすでに「某市に在る教会」があったとすると、後発の人は勝手に集会を始めることはできず(それは分裂の教会となり、神の裁きの対象となる)、「某市に在る教会」との交わりの上で開始する必要がある。

    したがって、現在彼らはウイットネス・リーのミニストリー(これには聖書にないはずの勝手な名称"リビングス・トリーム・ミニストリー"がつけられているのは不思議だが)のみを受け入れているので、リーのミニストリーを受け入れ、それに服することを意味する。かつてリーは、自分の教会がない地方において「○○に在る教会」を自分の登録商標にしたほどだった。また東京23区が独立行政区となれば、「東京に在る教会」は23に分かれて、「新宿に在る教会」、「渋谷に在る教会」・・・となる必要があることにある。



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      主の1989年 <<新庄にある召会ニュース>> 5月21日


      [新しい集会所] 新庄市五日町字清水川1×72−1× 電話22-0×22 
      【連絡先】(0233)23-07××[○藤]


      <<召会であるかどうかは、
          その霊的状態によるのではなく、
                  立場によります>>



       『エルサレムに在る教会[the church in Jerusalem]に対して・・・・(使徒8:1)

              アンテオケには、その地に在る教会に、・・・・・・・・(使徒13:1)

              コリントに在る神の教会へ、・・・・・・・・・・(第1コリント1:2)

                  ガラテヤ【州】の諸教会へ。・・・・・・・(ガラテヤ1:2)』



      一つの教会が正しいかどうかを判断するのに、‘状況’は二次的なことであり、‘立場’こそ第一の問題です。所が惜しいことに今日、多くの人は教会の‘状況’に根拠を置き、彼らが熱心で聖潔で非常に霊的であればもう問題が無いものとし、教会の‘立場’をおろそかにしています。

      ガイオン夫人が霊的に深い人であったことは多くの人が認めています。沢山の人が彼女から助けを得ましたし、彼らが一緒に集まって交わり祈る時には、実に主の臨在が豊かでありました。‘状況’から言えば確かに霊的です。しかし、彼等はどこにいたのでしょう。ローマ・カトリック教の中にいました。その人が霊的であるからその‘立場’も問題が無いとすることは出来ません。

      兄弟姉妹よ、もし私達がただその‘状況’によってのみ教会を判断するならば、その見方は必ず曖昧になってしまいます。教会が別れることの無い為には、必ず‘立場’の問題を重視しなければなりません。・・・何故ならば、‘状況’は絶えず変化するものであり、その善し悪しはあくまでも相対的なものだからです。霊的であるかないかにも一定の基準はありません。

      もし神の子供たちが、全ての状況に捕われること無く地方の立場【教会が地元において一である立場】を守り抜くなら、教会は決して分裂することはないと信じるべきです。‘立場’よりも‘状況’に注意を払う時はいつでも、教会は分裂に近づきます。・・・もし分裂が起ったとすれば、その原因は、みんながあまりにも教会の‘霊的状況’に注意を払って、‘立場’をおろそかにしたからなのです。

      これは決して、私達が霊的に良くなるべきではない等と言うのではありません。もちろん私達は毎日進歩し、段々と良くなって行くように主の憐れみを願うものです。私が言いたいのは、教会の正確さは霊的‘状態’の‘善し悪し’によるのではなく、【地元合一】の‘立場’の上にあるということです。私達は‘霊的になる’ことや‘命の追求’に絶対に注意を払うべきです。併し、この追求の足は永遠に‘教会の立場’の上に踏み止まっていなければなりません。‘立場’を離れて霊的になることの上に足を踏み出すなら分裂が始まり、私達の追求はかえって危険なものとなります。このことは非常に重要です。

      私達が教会(召会)を認識する為には必ず、教会の‘立場’というものがその‘状況’よりもどれほど重要であるかを見出されなければならないのです。【「教会の認識」p.73〜79】




    −−−−−−−−<<以上引用終了>>−−−−−−−



      【注】このような教えで聖徒たちを縛ることにより、ウイットネス・リーは陰でやりたい放題ができたのである。




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