神性と人性の"混ざり合い(mingling)"について


    -「人が神化する」根拠とすること−



    本文書はリビング・ストリーム・ミニストリーから出版されている季刊誌 "Affirmation & Critique", Vol.1, No.3 (July 1996) の記事の全文引用の訳である。一部だけ引用すると彼らは、文脈から切り離した引用による歪曲された主張である、と反論するので、あえて全文引用の形で訳出する。これから理解できる通り、"人の神化"はまさにこのキリスト・イエスにおける"人性と神性の混ざり合い (mingling) "を根拠として導き出される"啓示"である。リーは1コリント12:12を根拠に、キリストの体である教会が"団体のキリスト"としてキリストご自身でもあると結論し、この延長線上に「父、子、御霊、そして教会は四で一である」とし、ついには「神と人が混ざり合って人(教会)が神化する」となるわけである。リーの"啓示"の導出過程は、たとえば"三一性"についても見られる通り、ある聖句を"文脈から切り離して"解釈を与え、それを根拠にして、あたかも点を線でつなぐようにして、一つの体系を組み立てるわけである。この究極、あるいは底流にはつねに「人が神になる」という"啓示"が頑固に留保されており、すべてはここに至るように組み立てられている。この際のキーワードはまさに"混ざり合い (mingling)"にある。



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    Affirmation & Critique

    Vol. 1, No. 3 July 1996




    "Mingling (混ざり合い)"


    −これに勝る適語があろうか−




    この問題を扱う時に,私達はこれまで混ざり合い(mingling)をもって、キリストの人格における神性と人性の結合 (union)と、キリストと信者の結合 (union)を言い表すために用いてきている。私達がこの単語を用いるにあたっては十分なる考慮を怠ってはいない。なぜなら神と人間の結合(訳注:彼らは"連合"と言うかも知れない)を記述する為の単語に関しては、しばしば議論が企てられるからである。この混ざり合いという単語を用いる時に、私達がエウティケス(Eutyches)論とか極端な単一実体論(monophysitism)などの古典的異端に陥っているとする批判に対しては反論を呈したい。ここで私達は私達の言うところのキリストにおける人性と神性の結合についての理解を説明し、すべての疑惑を払拭したいと願う。

    私達はキリストにおいては、神性と人性の二性のうちに一人格あるいは一つのヒュポスタシス(hypostasis)が存在することを認める。私達はアポリナリス(Apollinaris)による、キリストの高次の理性的霊のみが神聖であり、彼の低次の魂と体は人間であるとする説を排する。そうではなく、キリストは完全なる神であり、完全なる人であり、純粋で完全なる人間の霊、魂,体を有していたことを認める。私達は(多分誤って)ラベルを張られたところのネストリアニズム(Nestorianism)、すなわちキリストにおいては二つの人格があり、一つは永遠なる神の子、もう一つが暫時的な人の子とする説を排する。それに代り、私達はキリストには一つの人格、一つの形而上学的なヒュポスタシスが存在することを認める。キリストの一つの人格は外見上の一個の外観を持つだけではなく,本質的にして実体的な存在、そのアイデンティティーは神聖な神のロゴスたる方であると認める。私達は単一実体論と呼ばれたり、エウティケスに起因すると見られる、その極端な形、すなわちキリストにおける神性と人性はあまりにも完全に結合された為に、キリストの神性はその人性を吸収してしまい、ただ一つの属性、すなわち神性のみが残ったとする説を排する。そうではなく、その受肉と復活においてキリストは二性を有しており、神性においては御父と同一の本質を有し、人性においては私達と同一の性質を有していることをと認める。私達は第三の性質、すなわち完全に神性でもなく、完全に人性でもないものになったとする混合性質説(a tertium quid)を排する。そうではなく、キリストは受肉と復活において完全完備に神性を有し、また同時に完全完備に人性を有することを認める。このようにキリストにおける神性と人性の関係を理解するならば、今日多くのクリスチャンは混ざり合いという単語をエウティケスとか単一実体論に帰しているが、キリストのあり方を混ざり合いと表現することも適切であると私達は感じる。私達はその単語とそれらの説の連関は適切でないと感じ、混ざり合いという単語こそが、キリストにおける神性と人性のあり方を最も適切に記述し得ると考える。

    混ざり合いに対する批判者たちはカルケドン会議(AD.451)の定式化に根拠をおく。それはキリストにおける神性と人性の結合があまりにも完全であって二性の区別が消失することを否定する。カルケドン会議ではキリストが神性と人性の二性を「混合されず(incofusedly)、変わることなく(unchangeably)、分割されず(indivisibly)、分離されず(inseparably)」に有していることを宣言した。この前半の2語はエウティケス説に対するものであり、後半の2語はネストリアニズムに対するものである。最初の単語が今日キリスト教において混ざり合いに対する警告を与える用語とみなされている。しかしながら、ここで用いられているギリシャ語 (asygchytos) は単に混ざり合いを意味するだけでなく、化合物にまで至ることを意味する。したがってそれは"混合されず (incofusedly)"と訳されてきているわけである。実際、私達の単語confusionはカルケドン会議の定式化の起草者によって用いられたギリシャ語単語に相当するラテン語単語に語根を有している。ギリシャ語単語もラテン語単語も共にそれぞれの動詞"一緒に注ぐ(to pour together)"から派生しており、その外延的意味として、混ざり合うがそれぞれの性質を失うことがないという意味を有する。

    しかしながら混ざり合いという単語はこの意味だけを持つのではない。私達はその意味に対して次の証拠を提示したい。The American Heritage College Dictionaryにおいては、「混ざり合わせること、一緒にすること、ただし通常はそれぞれの性質を失うことなく」とあり、Webstar's Third New International Dicitonaryではmingleの意味として「何かと一緒にすること、結合すること、それぞれの要素が区別される形のままにおいて」と定義する。同辞書には、同義語の"mix"において「Mingleは諸要素が混合の前と後でその性質を失うことがなく、<a mixed marriage>と<a street displaying mingled architectual styles>の違いのように、mixよりはゆるくかつ完全さにおいて劣る」とある。今日の用語学の専門家の提示する例の他にも、次のような一般的用法、"joy mingled with tears"とか"hope mingled with fear"などから見ても混ざり合いは混合した結果、それぞれのアイデンティティーを喪失することがないことを意味することとは容易に分かる。混ざり合いに対する批判者は、専門家の用例とか慣用句の用いられ方から見る限り、反例を挙げることはできないであろうことは明らかである。

    私達はもし新約聖書の啓示に従うものであるならば、私達の言うところのminglingは私達が告白すべきであるところのminglingであると言うべきことを期待する。歴史的に教会は聖句から見て,キリストを二性にある一人格であると認めてきた。しかしどうしてこのことが可能であるかを十分には理解しては来なかった。カルケドン会議の定式における条項は、この結合を消極的に説明するのみであり、二性の結合のあり方の定義というよりは、そうではないあり方を定義したののみである。よってそこでは「混合されず(incofusedly)、変わることなく(unchangeably)、分割されず(indivisibly)、分離されず(inseparably)」と記述されている。私達の理解し、その用例を見ているところの意味における単語によると、minglingは「混合されず(incofusedly)、変わることなく(unchangeably)、分割されず(indivisibly)、分離されず(inseparably)」に混ざり合うことであり、よって私達はキリストの神性と人性の結合のあり方をminglingと記述することができると感じる。私達は批判が行われる理由は、二性の区別に対する過度の強調と人格の一性に対する強調の欠如から生じるものと考える。キリストについてminglingを適用する時、彼を一つの、完全な単一のアイデンティティーを有する存在とみなし、しかして彼の内にはそれぞれの本質を失わない形である種の区別が存在することを意味する。これらが彼の二性である。

    私達がキリストの受肉と復活におけるあり方に対してminglingという単語を用いる時、神性が人性に持ち込まれたこと、人性が神性に持ち込まれたことを意味する。私達は彼の二性が融合したり、神性でもなく人性でもない第三の性質になったことを意味しない。ある者たちは私達が古典的異端を連想させる用いるべきではないminglingなる単語を用いるから不適切な誤解を生じるのだと言うかも知れない。私達がminglingを強調する理由は単に言葉遊びをしているのではなく、キリストのパースンに対するできる限り究極的な真理の理解と宣言を志向する姿勢を表わしているのである。私達は聖書の啓示を誤解され得るからとか、誤解されてきたからの理由で閉ざすことはできない。聖書においてキリストの人格と信者のうちにおいて神性と人性が混ざり合っていることを見ることができるので、私達は混ざり合いを宣言するのである。

    特にキリストを信じる者における神性と人性の混ざり合いについては新約聖書の明確な根拠を要する。一旦混ざり合いの意味が適切に理解されるならば、正統的クリスチャンであるならば、キリストにおける神性と人性の混ざり合いに疑義を呈する者はほとんどいないであろう。しかしながら、多くのクリスチャンにとっては、信者に対しては混ざり合いを適用すべきではないと思われるであろう。これは不要な警告である。新約聖書においてはキリストと信者の結合を混ざり合いと言える用語で説明しているのである。信者は神から生まれた者であり(ヨハネ1:13;1ヨハネ5:1)、それぞれの誕生において(父と母の)二つの命が混ざり合わされたように、神から生まれた者にあっては神の神聖な命と信者の人間的命の混ざり合いが確かに存在するのである。信者はまたキリストの体であり(ローマ12:5;1コリ10:17;12:12−13、27;エペ1:22−23;5:30;コロ1:24)、キリストがその頭であり(エペ1:22;4:15;5:23;コロ1:18)、この体にあってキリストは分離されることなく信者と混ざり合わされているのである。キリストとその体における信者の混ざり合いは、あまりにも完全であるので、パウロはキリストの体をキリストご自身とさえ呼んでいる(1コリ12:12)。キリストとその信者の結合はあまりにも完璧であるために、ただminglingという単語のみがそのことを完全に記述し得るのである。他の用語でそれを記述するならば、キリストの信者に対する完全なあり方の意義を削減するものとなり、彼との神秘的結合を楽しみ享受することから妨げられることになろう。


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    【解説】

    リーは1コリント12:12「からだが一つでも・・・キリストもそれと同様です」を次のように解釈する。リーはこの御言葉についてその"回復訳聖書"中の脚注において「ギリシャ語のキリスト、キリストを頭とし、肢体であるすべての信者としての教会を、その体として構成する団体的キリストを言う。すべての信者はキリストと有機的に結合されており、彼のみ体、彼の器官、彼の表現となるために、その命と要素で構成し込まれている。よってキリストは頭であるだけでなく、体でもある。私達の体が多くの肢体を持っていても一つであるように、キリストも同様である」。すなわちリーはここで「キリスト=教会」とする。ここから三位一体において触れたように、「父=子」かつ「キリスト=その霊」かつ「キリスト=教会」と等値され、ついに「父、子、御霊、教会は四で一」となり、さらには「人は神と混ざり合って神化する」と至る。ところがリーは「神格を持たない」としつつ、神格の三格位と共に教会を父・子・聖霊と共に四で一にするわけだが、そこにある自己矛盾に気が付いていない。

    この推論の前提はすべてこのminglingにあることは明白である。彼らはここでminglingの語義と用例をもっともらしくあげているが、彼らの例証で言うと、水と紅茶を混ぜても、水は水の性質を保ち、紅茶は紅茶の性質を保つように、第三の性質を持った化合物になることはないように、神性と人性はイエスにあって"混ざり合っている"というわけである。しかしここで"三位一体"のところでも触れたが、"性質"を何か物質化して、"混ざり合わせる"ことが元々ナンセンスである。「2種類の物質を混ざり合わせて、その性質が失われることはない」という表現は可能であるが、「2つの性質を混ざり合わせて、その性質が失われることはない」と言ったらおかしなことになる。minglingを定義するのに二つの要素の"性質"の変化のあるなしを基準としているのにも関わらず、リーがmingleしようとするのは人性と神性なのである。ここでもリーは「神であること」や「人であること」をあたかも物質と同じように考えており、したがって人が神と混ざって神化も可能となってしまうのである。神性はあくまでも神においてユニークであり、人性はあくまでも人においてユニークなのである。すべて異端はかのような些細ではあるが、しかし重大な愚かな考え違いに起因するのである。言葉のトリックに載せられること自体は小さなことのように見えるが、ヒットラーにおいてなされたように、パライノア的人物の偽りの扇動によって躍らされた結末はしばしば悲惨なものとなる。





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