松本高太郎小伝


ニコライ堂
松本高太郎は1866年(慶応2)年1月3日上総久留里新町で生まれた。
上総久留里は千葉県君津市久留里にあり、かつての城下町で今でも昔ながらの風情が残っている。また、ここは雨に恵まれ久留里の銘水として知られている地でもある。
1883(明治16)年4月1日、東京駿河台ニコライ会堂に於いて洗礼を佐藤秀六司祭から受け、同年9月15日東京北甲賀町正教神学校に入学し、 1890(明治23)年7月1日に正教神学校を卒業する。
正教新報230号に「神学校卒業試験及証書授与式 駿河台の我が神学校七年生諸氏は既に其全課を卒へしを以て同校にては去月廿三四両日に卒業試験を廿六日卒業証書授与式を執行せられたり」と掲載されている。
同年8月副伝教者として浅草教会に赴任した。月給12円。
1892(明治25)年2月に「正教談 詰難弁駁」(セイキョウタ゛ン キツナン ヘ゛ンハ゛ク)コラブレフ編 十堂 松本高太郎訳補 松本高太郎刊を刊行している。
十堂とは、本人の号か或いは別人なのか解らないが、この初めての翻訳書は松本高太郎が翻訳し、十堂が監修したものではないかと推察している。正教新報436号に聖名ニコライ高木(本名 高木久吉)が潜心居士の号から十堂に改める旨の告知を掲載している。この翻訳書の出版にあたり高木氏の協力があったかは不明ではあるが、他に十堂の号を用いた執筆者は見当たらない。
1892(明治25)年9月1日、足利教会に転任する。
翌年8月6日に東京駿河台女子神学校を卒業した不二と足利教会で結婚した。
1894(明治27)年11月3日、館林教会に転任する。
正教新報337号に「上州足利教会伝教者松本高太郎君はかねて館林地方にも出張布教し居られし処同地は布教上大に望みあれば常駐布教を試みんとの決心」と転任の決意が掲載されている。
1895(明治28)年10月12日、宇都宮教会に転任する。
1896(明治29)年6月に2冊目となる「正教要理問答」を翻訳している。同年8月12日、郷里の久留里に転任となり、久留里新町に家屋敷を購入している。
正教新報378号に「上総の新布教地なる久留里に赴任せられたる松本伝道者は去月十二日を以て居を字安住に卜して講義所を設けられ布教上先好都合の方なりといふ」と掲載されている。
1897(明治30)年5月発行のうらにしき(婦人向け文芸雑誌)5巻55号に「警醒逸話」の連載が始まり、5回完結で5巻60号まで続いた。
同年7月、正教に関する世間一般の疑問を問答体に説明している小冊子「正教雑話」を刊行した。
1898(明治31)年には正教新報428〜429号に「シベリアの教化者イルクツトスクの初代主教聖インノケンテイの伝」を執筆している。
1899(明治32)年4月、正教雑話の初版が売切れたので増補訂正して再版するとの広告が正教新報440号に掲載された。同年8月、八王子教会に転任する。
翌年3月には「公祈祷問答」を翻訳・刊行した。
1901(明治34)年8月、公会において東京詰めを命ぜられ、愛々社に入社し、東京府下豊多摩郡千駄ヶ谷村に移住した。
愛々社は、「正教新報」を通じて全国の伝教者や信者に対して教理や正教会の動きを伝えるために機関誌の編集・発行していた。専ら翻訳に従事し傍ら雑誌の編輯を補助することになった。
この翻訳者時代は1908(明治41)年まで続き、その間に翻訳・著作したものは、「正教談 詰難弁駁(再版)」、「教会祭日問答」、「公祈祷講話」、「須氏教会史」、「神の観念の本源を論ず」、「真理の弁証」、「神の役者の聖任」、「聖大ワシリイ教訓抄」がある。
正教新報に連載したもので訂正を加えて一冊の書として発行したものとしては「神の摂理を論ず」、「霊魂の不死を論ず」がある。
その外、正教会でかつて聖職者座右の書とされた「神の役者」が正教新報に連載された。
名古屋ハリストス正教会HPで一部を見ることができます。
「東方キリスト教の世界」森安達也著の中に”日本人とギリシャ正教”の演題で講演したときの記録があり、その一文に「須氏教会史という本は、一部ですが原書も入手できましたので、比較してみますと、日本語への翻訳の質が高いのには驚かされます。私の推定では、この時代の正教会の出版物の翻訳はかなり高い水準にあったと考えております。」と評価された。
国立国会図書館では明治期に刊行された図書のデジタル化に取り組み、近代デジタルライブラリーで公開している。なお、「神の観念の本源を論ず」、「神の摂理を論ず」、「公祈祷講話」、「正教要理問答」、「霊魂の不死を論ず」は全文が閲覧できます。
1908(明治41)年8月、公会に請願して翻訳者と伝道職を兼任することになり、伝道者として福井県敦賀港に赴任した。
1910(明治43)年8月、神田教会に転任する。
1912(明治45)年に正教新報が終刊となり、時代が明治から大正に変わり正教時報1巻1号が11月に発行され、社友として引き続き翻訳・執筆している。
1914(大正3)年8月11日、品川教会に転任する。
1915(大正4)年4月、司祭に選任と敦賀への赴任が内示され、臨時在任として南品川を担当することになった。
7月8日の公会議事で敦賀に司祭派遣の件が審議され、松本高太郎伝教者を司祭に叙聖し派遣する事が決まった。ただし、12月まで東京に於いて諸祈祷を練習することを課せられた。
8月1日輔祭に叙聖され、8月28日の生神女就寝祭で司祭に昇叙した。暫らく敦賀赴任を見合せ臨時四谷教会の聖務を兼務することになった。
1916(大正5)年7月、敦賀に赴任する。
1918(大正7)年6月、千葉県東葛飾郡手賀村字手賀正教会に転任する。
手賀正教会は首都圏では最も古い建物で、修復され旧手賀教会堂として保存されている。
1919(大正8)年7月に休職を出願し、司祭職停止を命ぜられた。
同年陸軍通訳に任ぜられ、沿海州各地に同行した。
1923(大正12)年7月、高岡新報 高岡新報社(富山県高岡市)に「十五歳の露国少年の書いた 勘察加旅行記」の翻訳が連載された。
連載の予告案内には「此の原文は露国通の松本君が直接筆者なる少年の父から得たもので松本君は我社片山江南君の同窓関係で我社へ寄稿したものである」と掲載されている。
翌年の元旦から「露国沿海州『秘密の山奥』冒険家露国大尉の実査手記」が連載された。
連載の予告案内には「筆者は帝政時代の露国二等大尉アルセニエフ、訳者は前回の冒険少年日記で読者既知の露文学者松本高太郎氏であるから行文の妙と事実の奇とは復蝶々するに及ばぬ」と掲載されている。
これ以後は、随想を正教時報に年2回程投稿している。
松本高太郎は、明治から大正期にかけて数多くの正教会宗教書の翻訳を行い、併せて伝道活動にも積極的に取り組んだ「伝教者(司祭)・翻訳者」として果たした役割は大きいものと言えます。

※国立国会図書館及び大学図書館等の著者標目では「マツモト コウタロウ」となっていますが、正式な読みは「マツモト タカタロウ」です。

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