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遠くの空で、渡り鳥の群れが弧の形を成している。 秋の終わりの風は冷たく、ロゼッタは二度首を振った。海風に押された波が激しく岩礁にぶつかる。足元にまでしぶきが飛んできたので、ロゼッタは波打ち際から数歩離れる。風が穏やかになる夕方までには、まだ少し時間がある。 鳥乙女(セイレーン)のロゼッタにとって、岬の岩礁は都合の悪い場所ではない。人が寄りつかないことは当然だが、足もひっかけやすいし、波も見ていて飽きることはない。時折、海鳥がやってきてはこちらを不思議そうに見つめてくる。警戒されるほど鳥乙女は人間に近くないが、鳥と会話ができるほどそちらに近いわけでもない。 ロゼッタは翼を広げて埃を落とし、ていねいに翼をたたんだ。息を吸って、三回ほど声を出す。音をひとつひとつ確認しながら、喉と腹を徐々に慣らしていく。体が熱を帯びてくるのを感じると、ここ数週間ほど練習を続けている歌曲を歌い始める。 誰も見ていないことを良い事に、翼を広げて目を閉じる。自分の声が海風に乗り、波の音と混じり始めた。小刻みに翼が震え、力で羽根が抜け落ちそうになる。喉に負担をかけないように、気持ちを抑える。鳥乙女なら誰でも知っている歌。女性の名前を何度も呼びかける、悲しみを押しつけるような自由詩。 歌っているとき、ロゼッタは自分の声がどんな風に伝わっているのかと不安になることがある。声を出すたびに自分の声に驚く。それは恐らく、理想としている声と自分の声とが大きく離れているからだ。いちど自分でも驚くほどきれいな声が出せたかと思えば、鳥の鳴き声の方がましだと思うこともある。近頃はその不安が徐々に大きくなってきている。不安を隠すように気持ちを高ぶらせる。力を入れ過ぎて声が裏返りそうになる。 最後の転調を歌い終わってから、一羽のかもめがロゼッタの上を通り過ぎた。かもめの姿を目で追いながら、歌えることが幸せなのかとふと思う。鳥乙女は歌うことに大きな喜びを感じると言われる。だが自分は時々、歌っていてどうしようもなく息苦しくなる時がある。思い通りにならない自分の声を捨てたくなる。そんなときはたいてい海を眺めた。波の音を聞くと、なぜか歌いたくなる。 かもめが飛んでいくのを見届けると、背後の陸の上に黒い影が見えた。鳥乙女は普通の鳥と同じく目が良い。影の正体を確認して息を飲む。放っておこうかと迷ったが、影は明らかにこちらを見ているし、ロゼッタの視線にも気がついただろう。練習を見られるのも癪な気がして、ロゼッタは翼を広げて岩礁から離れた。なるべく影に視線を向けずに丘の方へ向かう。傍を通り過ぎようとすると、影の正体がこちらを見上げた。 「邪魔してすまないね、ロゼッタ。どうしても早く君に会いたかったんだ〜」 影の形は上半身が人間、下半身が馬だった。眼前の半人半馬(ケンタウロス)は手にリラを持ち、つばのあるソフト帽を被っている。どう見ても、山岳地帯にいる野生の半人半馬とは違う。ロゼッタは仕方なく地面に降りた。 「いつ戻ってきたの」 「ワーオ。ロゼッタはこの吟遊詩人ジルベルトのことを覚えてくれているのか!」 ジルベルトが微笑んでリラの弦をひとつ弾く。やはり無視しておくべきだったかとロゼッタは目を細める。 「成鳥の儀が近いんだね、ほかの鳥乙女たちも練習していたし。みんなが南に渡る前に聞かせてもらわなければ!」 質問をぶつけてみたものの答えが返ってくる様子もないので、ロゼッタは黙っておくことにした。「まさにキミは僕のアマリッリ〜」放っておいてもこの男は勝手に話を続ける。ジルベルトは前足で軽く地面を打った。つやつやとした鹿毛が変に綺麗だ。 「ロゼッタ、前よりも素敵な歌声になってるじゃないか。鳥乙女はやっぱり歌ってるときが一番エレガントなんだね!」 「あなたが言うと嘘くさいわ」 ロゼッタは眉をひそめた。この男に褒められても嬉しくないどころか、何とも言えない感情が喉の奥からこみ上げてくる。ロゼッタは踵を返して翼を広げた。 「ああ、待っておくれハニー! 今年はこれだけを言いに来たんだ」 ジルベルトの声を聞いて、ロゼッタは動きを止めた。頭の中では警鐘が鳴っていたものの、体を動かすことが出来ずに次の言葉を待つ。 「僕と一緒に来るつもりはないかい?」 ロゼッタは一瞬だけ翼を下ろして、それからすぐに地面を蹴った。後ろから自分を呼び止めるハイトーンの声が聞こえる。 やはり逃げ続ければよかった、とロゼッタは嘴を閉じた。 ![]() ![]() 鳥乙女の主食は魚だ。群れで歌を歌い、水中の魚をおびき寄せて別の鳥乙女が魚を捕らえる。これらは大人の鳥乙女、成鳥の仕事である。幼鳥と成鳥の間の鳥乙女を若鳥と言い、ロゼッタはこの若鳥の位置にいる。若鳥が成鳥となる儀式の事を、成鳥の儀という。 「今年は冷えるねえ」 ロゼッタの隣に、少し年上の鳥乙女が降りてくる。ロゼッタは彼女を一瞥して、すぐに沖の方に視線を移した。 「早めに渡らないと大変だね。水の中に足突っ込むのも楽じゃないし」 「この間まで、水浴びはわりと好きだって聞いてたわ」 それはそれ、と彼女が微笑んで翼を震わせる。鳥乙女に人間のような腕はなく、足も鳥足で、嘴もある。頭から胸にかけてはわずかに人間の面影が残っているものの、肌はほとんど羽毛に覆われている。魚を取るには十分な構造だが、魚をおびき寄せる歌唱を習得するには、相応の訓練が必要である。目の前の彼女はもう、ひとつ前の冬から狩りの訓練を受けている。 成鳥の儀では若鳥が歌声を披露する。群れの長たちがそれを聞き、若鳥の将来を決める。将来といってもそれは二つしかない。ひとつは成鳥の一員として狩りを行い、群れの中で余生を過ごす道。つがいを作り、子を生み、生涯群れに尽くすことが、大部分の鳥乙女の一生である。 もうひとつ、特別な歌唱の才能を持つものは、人間の社会の中で生きることを許される。裕福な商人や劇団に飼ってもらうということだ。その鳥乙女は狩りをする必要もなく、群れの中では英雄視される。 (……断罪の日のようだわ) ロゼッタは沖を見つめながらつぶやいた。この鳥乙女の道が生まれた理由に、その昔、美声を目当てに人間が鳥乙女をさらう時代があった。鳥乙女は報復として人間の船を沈めた。そこで交わされた契約が、鳥乙女は才能ある若鳥を人間の社会に送り、代わりに利益として餌を頂くというもの。昔は生贄のように思われていた道だが、自由に歌が歌える道として、今では多くの若鳥がその道にあこがれている。 成鳥の儀は大体、冬の渡りが完了したころに行われる。ロゼッタは今年、成鳥の儀を受ける。あと数週間で自分の運命が決まるというわけだ。 緊張してる? と目の前の鳥乙女が首をかしげる。ロゼッタはゆっくりと首を縦に振った。ロゼッタは群れの中でも、人間社会での生活を強く希望している鳥乙女だった。対して目の前の鳥乙女は、成鳥の儀を受ける前から、群れの中で生きることを望んでいた。 「そういえば、寒いときに賑やかなやつが来たね。ある意味で寒いやつだけど」 彼女の言葉に、ロゼッタは目を閉じた。嫌悪を隠すつもりはない。 「昔はわたしも苦手だったけどさ、最近は見直しちゃったよ。ジルベルトが旅に出るって言い出したときは絶対無理だって思ったけど、いまだにしっかり生きてるんだもん」 「……それはそうかもしれないけど」 急に風の強さが気になり始めて、ロゼッタは羽の手入れをした。 「でも彼は群れを抜け出したのよ。普通じゃない」 あの半人半馬は数年前に、群れを抜け出して旅に出た。半人半馬は集団で山に棲み、何よりも規律を貴ぶ。当然ふたたび群れに戻ることは許されない。 「まあ良いことだとは言えないけど、あいつらしいと言えばそうじゃない? 自分の考えを持てるってすごいじゃん。ナンパっぽいところは変わってないけど」 年上の彼女が目を細める。人間は昔、声の美しい雌の鳥乙女に衝撃を受け、『鳥乙女』の名をつけた。しかし鳥乙女にも雄はいる。目の前の彼女には既に、将来を決めた相手がいる。 「わたしらの群れに来るのは今年限りにするって言ってたけど、それってやっぱりロゼッタを――」 彼女が言い終わるより前に、無数の鳥乙女が海面に突っ込んだ。色とりどりの翼が水しぶきを受けて輝く。上昇した鳥乙女の足の中で、銀色の鱗がきらきらと光った。 ![]() ![]() 唯一、理由とも目標とも言えない記憶がある。小さいころから孤独を好んでいたロゼッタを、よく気にかけてくれる鳥乙女がいた。今考えれば姉という存在に近かったかもしれない、その鳥乙女は群れの中でも歌が上手く、自分が歌を始めたのも彼女の真似からだろう。彼女はよくロゼッタの歌を褒め、またバラよりはぶどう酒の色に近いロゼッタの毛色を褒めた。ロゼッタが幼鳥から若鳥になるころ、その鳥乙女は人間社会に降った。 月日が経てば経つほど、その鳥乙女がどれだけ恐ろしい存在であったかがわかってきた。どうしてあんな張りのある声を出すことが出来るのか。どうすればあんなに呼吸をするように歌い、周りの視線を釘づけに出来るのか。当たり前のように隣にいた鳥乙女が、どれだけ異常だったか。 その後ろの道を歩くことが当然だと思っている自分が、どれだけ浅はかなことか。 気づいたところで、歌をやめるという考えを認めるわけにはいかなかった。悩んだときにはひたすら岬に向かい、喉を震わせた。おそらく今も人間社会のどこかで、目を閉じて歌声を響かせている彼女の姿を想いながら。 ![]() ![]() 一日の練習を終えてロゼッタは海岸に向かう。空気の震えを通して聞き覚えのある音が耳に入る。一瞬引き返そうとも思ったが、翼が疲れていたので、見つからないように低く飛んで着地する。 多くの鳥乙女が岬の先端を取り囲んでいる。その中心では半人半馬の影が、小型のリラを弾いている。リラの音色は、凪で静まり返った海面を撫でているようだった。歌いたがりの鳥乙女が、黙って他人の演奏を聴いているのは珍しかった。 数秒、ジルベルトの音色を聞いただけで、ロゼッタは呼吸が苦しくなった。わずかに吹いている風の音の中で、その音色は手に掴めるほどはっきりしていた。彼の手元からこぼれてくる三連符の波が、ゆるやかに、しかし迷うことなくロゼッタの耳に流れ込んでくる。その音色の鎖はどんなに引っ張っても切れることはない。恐らくこの音色を聞いて、振り返らずにいられる鳥乙女はいないだろう。 後から聞けばそれは、鍵盤なら片手で演奏できるほどの単純な曲だったらしい。自分たちの声に誇りを持っている鳥乙女の前で、そんな曲を演奏するとは実にジルベルトらしいと思ったが、眼前で四肢を折って座り、目を閉じてリラを弾いている彼の姿は、本当に自分の知っているジルベルトなのかとロゼッタは疑った。最後に目にした彼の姿と同じとは、どうしても思えない。 気が付けば一匹の鳥乙女が、音色に乗せて歌を口ずさみ始めていた。この中でいちばん歌が上手い鳥乙女だ。周りの者がそれに合わせて副旋律を重ねていく。彼女らの歌声がジルベルトの音色を消してしまうことはなかった。むしろ周りの声が儚く聞こえるほど、そのリラの音はしっかりと響いていた。 と、ジルベルトが突然目を開き、はっきりとこちらを見つめてきた。彼がわずかに口の端を上げる。ロゼッタは全身の毛が逆立つような感覚を覚えて、反射的に目を見開いた。 ロゼッタは物音も気にせずに、踵を返して地面を蹴った。思った通り、いくらその場から離れても、リラの音色が耳から離れることはなかった。 群れを抜ける、とジルベルトが宣言したのは、今から春を三回ほど遡ったころの事だった。旅に出る前から彼はよく群れを抜け出し、海岸に来ては他の鳥乙女と歌声を重ねていた。群れに来るたびになぜか彼は必ずロゼッタの前に現れ、執拗にデュエットを迫ってきていた。 あの宣言を聞かされたとき、自分は何をしたのだったか。思い出したくない記憶がよみがえり始め、ロゼッタは首を振る。 先ほどのリラの音から離れるよう、どこに降りるかも決めずに空を飛び、すぐに翼が疲れて草むらに降りる。夕焼けはほぼ沈んで暗くなりつつある。冷たい風が羽毛を揺らすと、ようやくロゼッタは、自分の心臓が恐ろしく暴れていることに気づいた。息を吸って鎮めようとするが、自分の動悸を感じれば感じるほど脈が速くなる。羽毛についているごみを嘴で落とし、全身の手入れが終わる頃に、ようやく平静を取り戻す。しかしそのときには、背後で蹄の音が聞こえていた。 「やっぱり鳥乙女の声は美しいね」 振り返って反射的に後ずさる。似合っていないソフト帽が目の前で揺れている。ポロン、と弦をひとつ弾いてジルベルトが眉をひそめる。 「驚かせてすまないねマイスイート。そんなに僕の演奏が魅力的だったかな?」 「いいえ」 即座に返答をして、なぜこんなに感情的になってるのか、とロゼッタは浅く呼吸をした。ジルベルトは微笑んだ。 「僕と一緒に来てくれたら、毎日でも聞かせてあげるよ。いや、僕の演奏に君の歌声が重なれば――」 「やめて」 ロゼッタは首を振る。ポロポロと漏れるリラの音を聞くたび、これがあの曲を演奏した楽器の音なのかと疑ってしまう。先ほどの音色とは似ても似つかない。しかし、胸の辺りがざわつく。 「……前から言ってるはずよ。そんなこと出来る訳がない」 ロゼッタは首を振って答えた。夕陽は完全に落ち、空は藍色に染まりつつある。 鳥乙女の将来は二つある。群れの中で一生を過ごす道と、人間社会に降りていく道。ただし、穿った見方をすれば、もう一つだけ生きる道がある。無断で鳥乙女の群れを抜ける道だ。 鳥乙女の狩りは一人ではできない。幾重にも重ねた歌声で魚をおびき寄せ、もう一方の鳥乙女がそれを捕まえる。その狩りの技術も一朝一夕で身につくわけではない。しかも鳥乙女は、半人半馬ほど手先が器用ではなく、人間社会の中でまともに生活はできない。群れから離れて生きる鳥乙女など、ロゼッタは見たことがなかった。 ジルベルトはリラをかき鳴らす手を止めて微笑んだ。群れを抜けたときから、彼はロゼッタを旅に誘っていた。 「生活のことなら大丈夫さ。人は芸術を欲している。確かに僕も少しは苦しい時期もあったけど、こうして三年間生きてこられたんだよ」 人間があの曲の美しさを理解できるとは、ロゼッタには到底思えなかった。旅をしながら美しい歌が歌えるはずもない。それは成鳥の儀で歌声が認められなかった、才能のない鳥乙女がすることだ。 「ロゼッタ、キミも広い世界に憧れているんだろう? 世界には人間だけじゃない、森に棲むラミア、好奇心旺盛なハーピー、大道芸をするキマイラなんてのもいた。面白いことに、みんな歌が好きなんだ」 ジルベルトは目を細めて語った。様々な種族の生き物と意気投合するジルベルトの姿は容易に想像が出来た。しかし、その場に自分がいるイメージはどうしても出来ないし、したくもない。 ロゼッタは首を振った。 「私は鳥乙女よ。ここで生きるのが普通だし、歌を歌うことが普通。旅なんてしなくても」 「キミは本当に鳥乙女かい?」 ジルベルトが小首を傾げてロゼッタを見つめる。ロゼッタは顔をしかめた。 「キミは本当に鳥乙女だろうか。ちなみに僕は半人半馬じゃない。ジルベルトさ」 「いいえ、あなたは半人半馬だわ。それはあなた自身も気づいてる。でもそれを認めるのが嫌で、あなたは群れを抜けたのでしょう?」 半人半馬は種族に対する誇りが高く、石槍を巧みに使う優れた狩人が、群れの中では重宝される。歌や演奏が好きなジルベルトは、群れの中で異端者として扱われた。 「そうじゃない、ロゼッタ。キミは鳥が空を飛べなければ意味がないと思っている。鳥はずっと空を飛び続けるべきだと思っている。でもそうじゃないだろう? どんな鳥も、生まれたときは誰かに卵を支えられていただろう? 水が欲しければ水面に寄るし、誰もが最期は地の上で迎えるんだ」 ジルベルトが前脚で地面を打った。ロゼッタの方に歩み寄り、手で翼に触れる。 「僕にはわかる。キミは誰でもないロゼッタを探している。でもそれはどこにもいない。僕には本物のロゼッタが見える。それはいま目の前にいるロゼッタだ」 「自分を偽ってるのはあなたの方でしょう。本当に私を連れて行きたいと思ってるの?」 ジルベルトの眉が吊り上がる。下半身の鹿毛が逆立ったように見える。ロゼッタは今になって、ジルベルトの体が自分のそれよりもひと回り大きいことに気がついた。慌てて翼を引っ込める。 嫌な沈黙が降りて、ロゼッタは頭を引っ込めた。先ほどのような言葉が自分の口から出てきたことに驚いた。ばさりと翼を広げて、ロゼッタは藍色の空に飛んだ。 ![]() ![]() 成鳥の儀は、渡り先の土地で行う。普段から群れの中で存在感を表し、才能を見出された鳥乙女もいるが、ロゼッタはそれには当てはまらない。成鳥の儀で自分の実力を見せるしかない。 昼過ぎ、いつもの岬に立って練習をする。鳥乙女の、歌の練習方法は決まっているわけではない。歌声の巧拙はほとんど才能で決まるという噂もあるぐらいだ。しっかりとした歌の訓練を受けるために、人間社会へ降りることを希望する鳥乙女もいる。 喉の感触は悪くない。いつもの不安はまだ残っていたものの、今さら慌てても仕方がない。人間社会に降りることだけを夢見てきた自分が、成鳥の儀のあと、群れの中でひっそりと暮らしていく様子など、考えることはできない。 しかし、あのジルベルトの言葉に反論できなかったことも事実だ。疑問が消えなかったときはない。自分は何のために歌うのか。それがわかれば苦労はしない。 練習を終え、毛づくろいをすませると、背後で蹄の音が聞こえた。 「調子はどうかなハニー?」 彼が帽子を脱いで一礼をする。 「覚えてる? 僕らが初めて会ったときのことを」 歌うようにジルベルトが言い、ロゼッタは目を閉じた。同じような時間、この場所で、ちょうど同じようにこの男は気安く声をかけてきたのだ。 「悪いけど、初めはまるでお婆さんのようだと思ったよ。キミの中に流れている時間がとてもゆっくりのように見えたのさ。それは僕の中で足りないものなのかもしれない。だからキミに惹かれたのかな〜」 ジルベルトはいつもの微笑みをたたえてリラを弾いている。いつも胸をざわつかせる彼の音色が、今日は不思議と嫌ではなかった。むしろ動揺している自分を、上から冷静に見下ろしている気分だった。 彼の言葉が、先日の自分の言葉の返事だということに気づき、ロゼッタは頷いた。彼のリラを翼で指す。翼がわずかに震えていた。 「何か歌いましょう」 宣言した後にジルベルトの顔を見て、どうして自分が彼を苦手にしているのか、ロゼッタは何となく理解した。彼は今とても驚いたような顔をしているが、いつもの軽い態度が影響して、それが本心からの表情なのかがわかりにくい。他人との距離を縮めているように見えて、彼はある意味で他人と一定の距離を保とうとしている。それが自分には卑怯に見えて、腹立たしい。 自分の歌声を彼の楽器と合わせたことは一度もない。これまでロゼッタは合唱も伴奏も嫌ってきた。お互いの息を合わせるのが煩わしく、そんなことをして思い通りの歌が歌えるわけがないと思っていた。 何にする? とジルベルトは小首をかしげる。ロゼッタが数小節、メロディを口ずさむと、ジルベルトは頷いて四肢を折った。ロゼッタは翼を広げ、歌声で空気を震わせる。 鳥乙女が歌う歌は、楽譜に起こされているわけではない。親から子、成鳥から若鳥へ歌い継いでいくしか、歌を残す方法はない。この歌は幼いころに母親から教えてもらったものだった。人間の歌劇で使われている曲らしいが、詞の意味は知らない。歌のために生きた歌人が披露したものだったか、記憶は定かではない。 遠慮がちにジルベルトの音色が後ろからついてくる。自分の喉を触られているようで気持ちが悪い。しばらくして彼がロゼッタに合わせてくれていることがわかり、ロゼッタは自分の思うように喉を震わせた。一息吸えば彼の指が止まり、一つ高い声を出せば彼の手が跳ねる。ここと思う瞬間に弦の音が鳴り、それが彼の音かどうかわからなくなる。しだいに境界が曖昧になる。 目を閉じると、街の小さな通りで、自分と彼が音を重ねているところが見えた。周りでは人間たちが不思議そうな顔をして歌を聞いている。街が森に変わり、海岸に変わり、聞く者は様々な種族に変わっていった。歌っている自分の姿を、ロゼッタは初めて真剣に見つめた。目を背けたくなるほど間抜けで、しかし、この上なく幸せそうに見えた。 全てを歌い終えた時、ロゼッタはいつの間にか伴奏が聞こえなくなっていたことに気づいた。深く息を吐きながら隣を見ると、ジルベルトが頷きながら立ち上がった。 「ロゼッタ、相変わらずキミは歌が下手だ」 ジルベルトは微笑んで蹄を慣らした。海の向こうの太陽が、ゆっくりと水平線に向かって沈んでいく。 「キミの歌う姿が好きだった。毎日見ても飽きないだろうな」 ジルベルトは弦を弾いて、丁寧な音階を奏で始めた。ゆったりと揺れる三連符の音が、驚くほど早く胸の中に染みこんでいった。 岬近くの森に佇んでいると、波の音が静かに聞こえる。森の方からは秋の虫たちの声が聞こえ、たまに煩わしく思うこともある。数匹捕えて食べてしまっても、大合唱がやむことはない。彼らは自らの意思で歌っているわけではないのだ。 夜の海は、ロゼッタはあまり好きではない。黒々とした海原が、怒っているようにしか見えないからだ。夜の海では、目を閉じておくに限る。海の音は耳にやさしく、考え事をするには良い場所ではある。 「こんばんは」 木々に寄りかかっていると、隣にあの年上の鳥乙女が舞い降りてきた。あまり心配をかけたくはないので、ロゼッタは薄く微笑む。彼女は首をかしげた。 あなた、まるで自分の雛がいなくなったみたいな顔してるわよ。 年上の鳥乙女がそう言うと、ロゼッタは目を閉じた。否定する気力はない。 「……彼、どうして私なんかにつきまとうのかしら」 頭の中でぐるぐると回っていた疑問の渦の中から、ひとつ落ちてきた言葉を口に出す。年上の彼女は羽を伸ばした。 「うーん、ロゼッタが昔の自分に見える、とか?」 流石にそれはないか、と彼女が笑う。ジルベルトの幼いころを想像すると、今と対して変わらない小さな半人半馬が思い浮かんだ。 「自分でも自分がわからないのに。私から歌を取ったら何も残らないわ。本当に、何もない――」 「後にはおマンマの食い上げちゃんが残るわよね」 鳥乙女がにやりと笑う。冗談かどうか、彼女の表情からは判別できない。 ロゼッタは嘴を開け、大きく息を吐いた。人間社会に降りるために、今まで誰よりもきれいな歌を目指してきた。それが、自分の生きている証明を得るためだとしても。 この道を諦めることは、今までの自分を、真っ暗な海につき落とすことと同じだ。 いつかこうなる日が来ることはわかっていた。自由な彼に対する気持ちが、嫉妬であることに気づいたときから。嫌悪の先は彼ではなく、夢を諦めきれない自分自身だ。 「あなたから歌を取ったら何が残るか、あいつはそれを知ってるのかもね」 彼女は微笑んで片目を閉じた。両の翼をロゼッタの頬に当て、まっすぐにロゼッタの瞳をみつめる。羽毛の暖かさが伝わってくる。 「あなたがどんな道に進んでも、わたしはあなたを覚えてるわよ。次に会ったときは、何も言わずに抱きしめてあげる」 ロゼッタは彼女を見つめて、弱々しく微笑んだ。自分でも情けなく思うほど、心臓が小刻みに震えていた。 ![]() ![]() 海岸から離れた丘の上で見ると、その群れは一羽の大きな鳥のように見えた。皆が同じ方向を向き、誰も海を渡ることに疑問を抱かない。越えた先では、夢を夢で終わらせるための儀式が待っている。 初めて後ろから注視する鳥乙女の群れが、ロゼッタには少しいびつに見えた。きっと自分が飛ぶことに疲れてしまったからだろう。あの列を崩さずに飛ぶことが、今までの自分の生きる目的だったというのに。 背後から蹄の音が聞こえ、隣に半人半馬の男が歩み寄ってくる。空を仰ぎ見ていたロゼッタは目を閉じ、顔を歪めた。 「ロゼッタ?」 ロゼッタはその場にくずおれ、隣の半人半馬の足に頭を預けた。次々に頬をつたっていく雫が、じんわりと鹿毛に染み込んでいった。 |