|
動物の爪痕のような網目模様が、しわくちゃの紙の上に描かれている。 左上、右上にはそれぞれ性別を表す文字が記されている。『男』の隣には網目模様が一際多く引かれており、その本数は『女』のそれよりも圧倒的に多い。手のひら程の大きさの紙の、半分以上の面積が『男』の線で覆われている。 殺し屋はベッドの上に寝転がり、ぼんやりとその紙面を見つめていた。身につけている黒のシャツと黒のズボンは生地が安物で、体を動かすと肌に擦れて痛みが走る。苛立って強く頭をかくと、黒い髪からフケが飛んだ。 何度も数えた線の数は、男が四十五、女は十七。今まで殺し屋が殺してきた人間の数。 それは仕事の標的として殺した人間はもちろんだが、なりゆきで殺した人間も入っている。仕事の最中、不運にも殺し屋の姿を見てしまった人間。標的が雇っていた用心棒。裏切った依頼主。でなければ、右下に書かれた文字の説明のしようがない。 子ども(男) 四 子ども(女) 二 このご時世でも、さすがに子どもを標的とした仕事は、殺し屋は受けたことがなかった。そう考えれば、邪魔な跡継ぎを平気で殺していたかつての王族たちの方が、よほど性質が悪かったといえる。彼らは情報が漏れるのを恐れるため、専属の殺し屋を抱えていた。 殺し屋は紙から視線を外し、部屋の中を一瞥した。比較的新しいアパートメントの一室。部屋の中にあるものと言えば、ベッドと木製のデスク、それと小さなクローゼットだけだ。こんなボロアパートでも、出稼ぎの人間が住むところに比べればまだ良い方ではある。個室だけでも確保しなければ、殺し屋としてはやっていけない。 窓の外を見ると、外は薄暗く、太陽の光は鈍かった。新しい燃料の発見で、工場から排出される煙がここ数年さらに濃くなってきている。しかし残念ながら、この煙から離れた場所に住むわけにはいかなかった。人がいないところに、殺しの依頼は生まれない。 ふと、殺し屋は顔を上げて、自室の扉を見つめた。廊下の方から耳障りな音が聞こえる。 殺し屋は紙を脇に置き、上半身を起こした。廊下にはあらかじめ、不自然にならない程度に砂をまいてある。無用心な侵入者が踏むと音が鳴るというわけだ。そもそも殺しの仕事は、いつも酒場の主人を介して請け負っていて、自分の住処(すみか)については基本的に誰も知らないはずなのだ。だが、情報というのはいつかどこかで漏れる。ここを住処にし始めてから既に半年は経っている。 そろそろ転居の時期だろうか。 殺し屋はベッドから降り、腰につけたナイフを静かに抜いた。基本的に、拳銃は仕事の時でも使わない。大きな音が苦手というのもあるが、引き金一発で人の命を奪ったときの、あの呆気なさが嫌いだった。ナイフで皮膚を突き破り、肉を切り裂き、骨をえぐり取る感触を味わってこそ、人を殺す仕事に意味があると言える。 だが、殺し屋が快楽殺人者というわけではない。要は達成感の問題だ。情報を集め、張り込みを行い、満を持して計画を実行し、標的を殺す。張り詰めた緊張をそのままに帰宅し、例の紙に丁寧に線を引く。楽しさとやりがいがなければ、どんな仕事もつまらない。もちろん、拳銃と対峙しても絶対に死なないという自信が必要ではあるが。 足音をひそめて扉の真横に立つ。扉越しに相手の息づかいが感じられる。警戒している空気。 コン、コン。襲撃者にしては丁寧だ。 「掃除屋(殺し屋)のハッグさんですね?」 女の声だった。若くもなければ、それほど歳をくっているわけでもない。 「セレナ・ウェンデルと言います」 殺し屋は眉をひそめた。銃弾が飛んでこないと読み、扉の前に体を移す。節穴を利用した覗き穴を見ると、廊下にいる女は毛織物のローブを着込んでいた。頭にすっぽりとフードを被っており、顔の部分は死角になっていて見ることができない。 殺し屋は鼻をひくつかせた。扉越しに匂いが感じられるわけではないが、彼女が身分の高い人間であることがわかる。少なくとも、この汚れきった町の住人ではない。 「殺した人たちのことを覚えていますか?」 女は扉の前で淡々と語る。まだこちらの気配に気づいたわけではないはずだ。 「五年前に、あなたが殺したウェール・ウェンデルの妻です。そしてあなたは、私たちの子どもまで殺しました。男の子と女の子、あの子たちは双子でした」 外から工場の騒音が聞こえてくる。その中で女の声は妙にはっきりと聞こえた。いつもはうるさい下の住人も、今日に限っては鳴りを潜めている。 「貿易商だった夫は、政治家への賄賂を嫌い、それを良く思わない人間たちから疎まれていました。夫はいつも、自分はいつ死んでもおかしくない、と言っていました。 でも、子どもたちは関係なかったはずです。あの子たちは、夫と同じ部屋で死んでいました。あなたは最初から、子どもたちを殺すつもりだったのですか?」 殺し屋はナイフを強く握った。一番面倒なタイプの襲撃者だ。 職業柄、復讐や逆恨みの標的にされることは、これまでにも何度かあった。現場にいた人間を全員殺したとしても、情報というのはどこかで漏れる。襲撃者に尾行を許したことはないが、毒入りの酒を飲まされそうになったことはあった。執拗であれば返り討ちにしてやるのが常だったが、相手が女一人というのは初めてだった。 殺し屋は沈黙を保った。答える義理はない。 女は返事がないことが分かると、衣擦れの音をさせて体勢を変えた。一瞬だけ、覗き穴から刃のようなものが見えた。 「答えないのなら、私はこのナイフで、死にます」 女の声が空気を揺らした。否、女の声が震えていたのだ。自殺とは珍しい。女が息をひとつふたつ吐く。 女は勢いをつけて、ナイフを自分の腿(もも)あたりに突き立てた。肉を突き破る音と、女のうめき声が混じって聞こえる。嗅ぎ慣れた血の匂いが漂ってくる気がする。 掃除屋は目を閉じた。こいつは何をやっているのか。聞かれているのかどうかもわからない口上を述べ、見られているのかどうかもわからない自虐をやってのける。扉を開けさせるための演技か、それとも本物の阿呆なのか。放っておくと廊下一帯を血の海にしかねない。転居を考えているといっても、自室の前に死体を置かれるのは困る。 殺し屋の頭の中の天秤が、微妙な傾きを保ったまま、ぐらぐらと揺れる。女が肩を揺らしながら呼吸し、腿に刺さったナイフを抜こうとしたところで、殺し屋は扉をわずかに開けた。 すぐに中を覗いてきたその女の目を、殺し屋はじろりと睨む。女が一瞬目を見開き、ぽかんと口を開けたところを、殺し屋は見逃さなかった。こういう反応を見たのは久しぶりだ。 「やっぱりいらしたのですね」 「何をやっている」 「ハッグさんでいらっしゃいますね」 「悪いが人違いだ」 女の碧色の目は多少暗く見えたものの、気品を漂わせる目をしていた。右頬と左まぶたにある痣らしきものに目をつぶれば、綺麗と称するに値する容姿だった。肌は白く、腿から流れている血が艶やかに見える。 「嘘ですね。それなら私が、ここは掃除屋ハッグの住処だと言いふらしますわ。本当に違うならそうしても構わないでしょう?」 セレナと名乗った女は薄く笑った。脅しのつもりで言っているのだろうか。もし本当にそんなことをすれば、真っ先に自分が殺されるということを、この女は知っているのだろうか。 「ウェンデルのことを覚えていますね」 「掃除屋が何のために人を殺すと思っている。いちいち覚えていられるか」 拳が入るか入らないかぐらいの扉の隙間から、殺し屋は女を睨んだ。自分が殺し屋ハッグであるということは認めてしまうが仕方ない。他人に成りすますというのはひどく体力を使う。 殺し屋が女をひと睨みすると、セレナと名乗った女は薄く笑った。 「本当に覚えていないなら、私をこの場で殺してみなさい」 「断る」 殺し屋はそうつぶやきながら、扉を半分ほど開け、彼女の腿に刺さっているナイフを足で押した。爪ひとつ分ほど刃が奥に沈む。女が声を上げてその場にへたり込む。腿の内側は急所だ。ローブの下の方がどす黒く染まっているが、ナイフを刺したのはこの女自身なのだ。 セレナは数秒体を震わせた後、顔を上げて殺し屋を見た。目尻を濡らし、唇をきつく噛んでいる。交渉中の相手から目を逸らすと舐められてしまう。だが、この女の目を見つめるのは苦痛だった。彼女の口元がわずかに歪んだ。 「殺さないんですか。それとも出来ない?」 殺し屋は目を細めて逡巡した後、扉を大きく開けてセレナの腕をつかんだ。体を引きずり、彼女を部屋の中に入れて扉を閉める。セレナのフードが取れ、長い金髪が背中にこぼれる。腕を放しながら自分のナイフを腰にしまい、彼女の白い首に手をかける。女の言葉が安っぽい煽りであることはわかっていた。だが、今まで裕福な家で安穏と暮らしてきたこの女が、どこまで苦痛に耐えられるのか、少し興味が湧いた。 セレナの体を押し潰すように、首を絞める手に力を入れる。二秒、三秒、四秒。気管を潰すことにためらいはない。五秒経ったあたりでセレナが歯を食いしばり、殺し屋の手首をつかんだ。彼女がきつく爪を立てる。殺し屋の両手に、小さな赤い傷がつく。 セレナは幾度か殺し屋の手をひっかいた後、右手を腿に当て、自分の体に刺さっていたナイフを抜いた。赤黒い血がさらに溢れる。今際(いまわ)の際の力か、逆手に持ったナイフで殺し屋の手を切ろうとする。 殺し屋は手を放した。反応が少し遅れ、手の甲に指一本分ほどの切り傷が出来る。思っていたより力が残っていたようだ。セレナは激しく咳き込んで体を二つに折った。上半身を犬のように上下させる。 「悪いが、どうやってもあんたは復讐なんぞ出来やしない。それに、あんたが死んでもこっちは何の感慨もない。死ぬなら別の場所で死んでくれ」 次に挑発してきたら今度こそ殺す。殺し屋はセレナからナイフを奪い取り、ベッドに深々と腰を下ろした。暗殺なんかよりよっぽど疲れる。 「……本当に、大切な子どもたちだったのです」 まだ呼吸を整えきれていないセレナが、長い金髪をだらりと前に垂らしたままつぶやいた。顔を真っ赤にさせ、唾液と涙で頬は濡れている。腿からの血がじわじわと床に染み込む。 「ふたりともまだ六歳でした。ニコはとても優しい子で、よくお姉さんのミリの後ろについていっていました。ミリが首飾りをつくるために野原で花を摘もうとすると、ニコは花がかわいそうだからと言って止めていました。ミリは困っていましたが、泣き出すニコを必死で慰めていました」 殺し屋は目を閉じた。まさしく夢のような話だ。 「私は本当の事が知りたいのです。子どもたちは、はじめから殺される予定だったのですか。それとも夫が殺されるところを見ただけ?」 「それを知ってどうする」 両膝をついているセレナに向かって問う。彼女は静かに息を吐いた。 「もし、あなたがあなたの都合であの子達を殺したのなら、私はあなたを許さない」 殺し屋は片眉を上げた。右手で軽くこめかみをかく。面倒な女だ。問答無用に斬りかかってくれば、こちらも対処がしやすいというのに。 「それを聞くということがどういうことか、わかっているのか」 殺し屋は視線を彼女から外し、しばらくしてから再び彼女の方に向き直った。セレナの瞳は少しも揺らいではいない。愚問だった。 「その通りだ」 殺し屋は静かにつぶやいた。しっかりと彼女の目を見つめる。 「あんたの子どもは、自分たちの父親が殺されるところを見た。ナイフで頸動脈を切られるところをな。だから殺した。仕事の実行をあと三十分早くしていたら、あんたの子どもは今も元気にはしゃぎ回っていただろう」 セレナの瞳の色が薄くなった気がした。床に触れている手に、わずかに力が入ったのがわかる。 殺し屋は内心、セレナの行動に感嘆していた。殺し屋にここまで言わせるとは大した女だ。世間知らずと言えばそれまでだが、子どもへの愛情は本物なのだろう。 だがここからは違う。愛情が狂気に変わる瞬間。世間知らずが自分自身の殺意に気づいたとき、いったいどういう顔をするのか。殺し屋は興味が湧いていた。 緩みそうになる頬に力を入れながら、殺し屋はセレナの反応を待った。セレナは唇を噛んだ後、微笑んだ。 「やっぱり、覚えていらっしゃるのですね」 殺し屋は反応しなかった。頭の中で、ひっかき傷のようなあの幾本もの線を思いだしていた。 「そしてあなたは、今もそのことについて苦しんでいる」 「残念だがそれはない。その場にいた人間は全員殺さないといけない」 「本当にそう思っているの?」 セレナは首を振った。シラミの存在など知りもしないような、絹に似た金髪が優雅に舞う。 「私は初めてあなたを見たとき、確信しました。あなたは今も後悔していると。あのときのことを思い出して、自分の立場に苦しんでいると」 殺し屋は眉をひそめた。この女は、どうしても自分の殺意を認めたくないらしい。 「あなただって、子どもの頃があったのでしょう。お母さんの愛情を受けて、幸せに育ったときがあったのでしょう。どうして何も知らない子どもたちを手にかけられるの?」 「黙れ」 殺し屋は唇を噛んだ。セレナから奪ったナイフを握りなおす。 「あなただってお母さんのお腹の中にいたのよ。お母さんがお腹を痛めてあなたを産んだの。そうしてあなたが幸せになるようにと願って、あなたにも名前をつけたのでしょう?」 「黙らんと殺す」 いちいち頭に来る事を言う女だ。この平和ボケした女に、この国の現状を見せてやりたい。お前の安穏とした暮らしは、多くの虫と糞と泥のような飯によって支えられているということを。 口を閉じさせるなら、さっさと殺せばいい。だがここで殺せば、さっきの駆け引きに自分が負けたことになる。殺し屋は無意識の内にそう感じていた。 「あなたが忘れるわけがないわ。あなたは忘れるわけがない。だってあなたは……」 セレナは顔を真っ赤にさせ、息を切らしながらつぶやいた。 「あなただって、子どもが産める女なのでしょう?」 殺し屋はナイフを静かに抜いた。ベッドから下りて身を乗り出す。 「だからなんだと言うんだ。あんたは知らないかもしれないが、この世界じゃ、殺さなきゃこちらが死ぬんだよ。他人を殺すのをやめて、自分が死ぬのを受け入れろってか」 「いいえ、あなたは心の中では殺し屋を辞めたがってるの。殺しを好きでやっている女なんているはずがない!」 殺し屋は肩までの黒い髪を振り払い、セレナの元へ詰め寄った。ナイフを彼女の首元に突きつける。殺し屋ハッグの名前は自分でつけたわけではない。噂が噂を呼び、客たちが勝手に『魔女』の意味であるハッグの名を付けたのだ。 「認めなさい。後悔しているのでしょう。そうでなければ、子どもたちを殺すなんて、とても嫌なことだと思っているのでしょう?」 セレナが涙をにじませた瞳で見つめてくる。女は嫌いだ。女は、自分たちがどんな不遇な環境に置かれても、それを仕方のないことだと諦めてしまう。まともな生活を送るには、財と身分を持っている男に取りつくしかないと思っている。だから嫌いなのだ。 殺し屋は自分の手を見つめた。甲についた切創から血が溢れ、手首の方に垂れてきている。あと少しこの手を動かせば、この女の人生が終わる。今まで嫌というほど浴びてきた血の量が、多少増えるだけだ。何ということはない。 しかし、代わりに動いたのは、ひどく乾いた唇だった。殺し屋はセレナを睨んだ。 「後悔は、していない」 自分の言葉が、やけに部屋の中で響いた気がした。外のうるさい工場の音が、いつの間にか聞こえなくなっている。 セレナはつぶやいた。 「……あなたの目を見れば、わかります。本当はあなたは、とても優しい人なんだって」 どうすればそんな確信が得られるのか、殺し屋にはわからなかった。自分が、人間は憎悪にまみれていると思っているように、この女は人間が慈愛に満ちていると信じているのだろうか。 セレナは息を吐き、喉に突きつけられていたナイフも気にせず、体をひきずって扉にもたれた。足が痛むのか、息が荒い。 「あの子たちに、会ってみて。そうすれば、気持ちも落ち着くと思うの」 そう言ってセレナは、ローブのポケットから小さな紙を取り出した。殺し屋に渡すことなくそれを床の上に置く。殺し屋はそれを一瞥だけした。 「あなた、あの子たちをどうしたか、覚えてる?」 顎を持ち上げてセレナが問う。殺し屋は答えた。 「横から喉を刺した。どちらもひと突き」 いつもと同じ、一番速く人間の息の根を止める方法だった。殺し屋は、女の子が最後まで男の子をかばっていたことを、セレナに言うべきかどうか迷っていた。良い思い出だとは言えないが、かといって後悔しているというわけでもない。殺した人間の数を数えるのも、満足感が欲しいからで、決して記憶に留めておきたいわけではない。 「私のお願いを、聞いて」 セレナは息を切らせながらつぶやいた。殺し屋はかがんで、彼女の口元に耳を寄せた。 この女がどういう生活を送ってきたのかはわからない。夫と子どもらを失くし、屋敷でひとり静かな生活を送っているのだろうか。詳しくは知らないが、裏の世界にわずかでも身を投げたことは事実だろう。そうでなければ殺し屋ハッグの事をつきとめられるわけがない。この世界に入るには、多少なりとも何かを犠牲にして信頼を得ないといけない。この女は一体何を失ったのか。いずれにしても、この女に生きる希望はなさそうだった。 殺し屋はナイフを握った。セレナが目をつぶり、何ごとかをつぶやいた。殺し屋は頭の隅でそれを理解して、左手で彼女の頭をつかんだ。 今度は止まることなく、むしろ吸い込まれるように、ナイフが彼女の首へと向かった。骨に当たらないよう、右手で横から刃を突き入れる。刃の先が皮に触れ、すぐにそれを突き破り、肉を貫いて、血管を引きちぎる。割れた水道管のように、彼女の首から血が噴き出る。反対の壁、天井の隅にまで斑点ができる。殺し屋の手が赤く染まる。 ナイフを刺した瞬間、たいていの人間は痛みで目を大きく開く。セレナも例外ではなかった。限界まで開かれた碧色の目は、ロウで固められたように動かなくなった。既にそれは何かを見つめている目ではない。否、それはもう人の目ですらないのだ。魂が抜けた瞬間、人はただの置き物に変わる。殺し屋は、先ほどまで自分が何と話していたのか、途端にわからなくなった。 殺し屋は左手で彼女のまぶたを覆った。初めは殺せと言われても断ったのに、今は死を望んでいる人間を殺すことが、当たり前のように思えた。この女は五年前に全てを失い、死に場所を求めていた。殺すことが殺し屋の仕事だ。依頼主と標的が同じ人間でも、それは変わらない。無報酬というのが気に食わないが。 この女が死ぬ理由をつくったのは自分だ。だがあの事を後悔しているわけではさらさらないし、もう過ぎたことなのだ。死にたがっている女をひとり殺した。それだけのことだ。 殺し屋は首を振った。死体の処理が面倒だった。この部屋のことがばれているなら、せめて死体だけでも消さなければいけない。血痕があっても、死体がなければ警察も動けはしない。 殺し屋は彼女の首の切り口にローブを押し込み、出血を止めると、床に落ちている紙切れに目を落とした。彼女が最期に残した紙片。彼女の言いようから察するに、子どもらの墓の場所か何かだろう。殺し屋が、殺した標的の墓参りに行く。笑えない冗談だとは思ったが、これで嫌な記憶と折り合いがつくかと思えば、頭の隅に留めておいても悪くはないと思った。 ローブの汚れていない部分で指先の血を拭き取り、殺し屋は畳まれた紙を開いていく。書かれていた文字を一読して、殺し屋は目を細めた。 『これ以上、罪を重ねないで』 数秒、体が固まった。言葉の意味を理解しようとして、ゆっくりと思考を巡らせる。口だけで大きく息を吸って、身体に空気を送り込む。首を何回か振り、蜘蛛の巣がかかっている天井の隅を睨んだ。 ただの嫌がらせだろうか。目の前で自殺しようとした人間のやることだ。嫌味を残して死ぬということはあり得る。だがそうなれば、『あの子たちに会ってみて』の意味がわからない。死に際に残そうとしていたこと。何かひっかかる。わざわざ紙に書いて伝えようとしたことがある。しかもそれが、あの女の本来の目的だったとしたら。 数分前に彼女は何と言っていたか。自分は何かを忘れてはいないか。 むせ返るような血の臭いと、耳が痛くなるような静けさの中で、殺し屋はようやく理解した。はじめに出たのは、苦悶の表情だった。 私はあなたを許さない、と。 殺し屋は唇を噛み、血まみれの彼女を睨んだ。青く染まった彼女の唇が、かすかに微笑んでいるように見える。 この女は、初めから復讐が目的だったのだ。 殺し屋は首を振って唇を噛んだ。手に持っていた紙切れを投げ捨てる。紙片が床の血を吸って赤く染まる。 セレナのような非力な女が、格闘で殺し屋を殺せるわけがない。寝こみを襲うとしても無理な話で、それは彼女もよくわかっていた事実だろう。かといって違う殺し屋を雇って殺してしまえば、事の真相がわからなくなり、意味がなくなる。 だが、重要な情報を聞きだしあと、彼女のような女でも殺し屋を殺せる方法が、ひとつだけある。感染による死だ。 恐らく、彼女は何か病気を抱えていた。しかも自殺をいとわなくなるほどの、生死に関わるとんでもないやつだ。はじめに彼女の顔の痣を見たときに気がつくべきだった。あれは暴力か何かで付いたものだと思っていたのだが、とんだ思い違いだったようだ。 そういうことなら、首を絞めた後の、彼女の異常な咳にも納得がいく。死に際に様子がおかしかったのもそのせいか。あの状況を作ってしまったのは自分ではあるが、それすらも彼女の思惑通りだったかもしれない。 この部屋には病原体が充満している。 殺し屋は部屋の中を見渡した。扉の前は、血の雨でも降ったかのように真っ赤だった。それだけならまだ良く、問題は殺し屋の両手だった。首を絞めるときに彼女がつけた爪痕と、ナイフの切り傷がはっきりと残っている。そのナイフは彼女の腿に刺さっていたものだ。あの自虐は、殺し屋を油断させるためのものではなかった。ナイフに自分の血液という、致死確実の毒を塗るためのものだった。 彼女の血が、自分の体の中に入ってくる。その様子を想像して、殺し屋は軽く首を振った。 あの女は、人間の慈愛など信じてはいなかった。殺し屋が今まで見てきた人間と同じ、自分の殺意を認めていた人間だった。 散々見下してきた、自分以外のただの女に寝首をかかれるとは。虐げられる側にしか回れないこの国の女に、自分の生を止められるとは。 何も変えようとしない女たちに怒り、何も変わろうとしないこの国に失望し、今の自分がいるというのに。 (自分に合っていると言えば、合っている、か) 人を殺すたび、自分はどういう最期を迎えるのだろうかと考えていた。警察に捕まるくらいなら暴れて死んでやろうかとも思っていた。それなのに。 殺し屋はベッドの方に寄って深々と座った。脇に置いていた、死者の数を書いたもう一枚の紙切れを覗く。いつも見ているこれらの線が、今は一際多く見える。古いはずの黒いインクが、突然にじみ始めたように感じる。 殺し屋は紙を取り、血のついたナイフで線を引いた。真っ赤な線がじわりとにじみ、ゆっくり下へとつたっていった。 |