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クオレ・マッキナ






 夜。塾から帰って自宅の廊下を通り過ぎようとしたとき、リビングに見慣れない人物がいた。その人影の周りには、自分以外の家族が勢ぞろいしている。
「おかえり」
 麻美の姿に気がついた父親が顔を向ける。
「驚いただろ。ヒューマノイドだぞ」
 父親が自慢げに話すのを見て、麻美は目を細めた。父親の思いつきの買い物には、これまでも何度かうんざりさせられている。
 ソファの隣に突っ立っていたのは、見たこともない女性だった。第一印象としては、でかい。女性だが身長は一七〇センチぐらいある。目の端で見る分には普通の人間だが、直視すると、どこか人間と違うということがはっきりとわかった。
「試験的に使わせてもらえるんですって。掃除もできるのよ!」
 妙にテンションの高い母親の声を聞いて、鳥肌が立つ。このロボットを普通に受け入れているこの家庭が、おかしく見えた。
「変なの、きもちわるーい、きもちわるーい」
 はしゃぎまくっている弟の声で我慢がならなくなり、麻美はどこの部屋にも入らずに自室へと急いだ。


 下校の途中で買ってきたパンを自室で食べていると、ノックの音が聞こえた。麻美はとびあがり、マウスを操作してパソコンの画面を閉じる。何の用だろう。洗濯もの、お風呂、用事は全部済ませたはずなのに。麻美はのっそりと体を起こして扉を開ける。
〈初めまして、アサミさん〉
 麻美の耳に入ってきたのは、やたら大きな合成音声だった。麻美は思わず「うわっ」と後ずさり、その場に尻もちをついた。
〈先ほど、ご挨拶が遅れました。家庭用ロボットのマキと言います。しばらく、試験運用を兼ねまして、このご家庭のお世話になります。よろしくお願いします〉
 マキと名乗ったロボットは、三十度ほど腰を折り曲げてお辞儀をした。この動作だけでも、どこか人間とは違うというのがわかるほど、ぎこちない。白のワイシャツと藍色の大きなエプロン。足にはちゃっかりとスリッパを履いている。歳は二十代くらいの設定だろうか。肩までの長い黒髪や肌は人間のそれと遜色ないが、目だけはどこかウツロで、マネキンのようだった。
 麻美は呆けた顔で「はあ」と一言だけ吐き出した。顔を上げたロボットが少し首を傾げる。
〈どうかされましたか?〉
「う、うっさい。ってかちょっと声落とせないの?」
 ロボットの、ちょうど機械と人間の狭間くらいに聞こえる合成音声は、やたらとでかく、麻美はこちらの会話を家族に聞かれたくなかった。ロボットは両手をお腹のあたりで組み、
〈すみません、このくらいで良いでしょうか〉
と少し音量を落として答えた。
 麻美はガクガクと何度もうなずくと、急に疲れを感じた。初めての人間と話すのも疲れるのに、ロボットとの会話などそれ以上だ。立ち上がって部屋から出ていくように促す。
「わかったから、とりあえず向こう行って」
〈わかりました。ご用のある時はいつでもお呼びください〉
 とてもではないが麻美はロボットに触れることはできなかった。嫌だったというよりも、押せばそのまま倒してしまいそうだった。
 マキは危なっかしく踵を返し、ふらふらと階段を下りて行った。


「家庭用ロボットぉ?」
 次の日。高校の教室で友人の美沙子とお弁当を食べている間、話のネタにも困っていたので、麻美は件の話をした。美沙子は眉をひそめて口をぽかんと開ける。麻美は慌てて注意した。
「声がでかい!」
「それって何、犬の形してるやつとか?」
「一応、人間の形。まあ、一目でロボットってわかるけど。動きおかしいし」
「あんたんとこ、そんなもの買えるほど金持ちだったっけ」
「父さんの知り合いが、どっかの研究者だからじゃないかな。うちで動かしてデータとるんじゃないの。二週間くらい」
 麻美は首を傾げながら答える。よくわかっていないのは、ろくに家族と話をしていないからである。この情報は、リビングから漏れ聞こえてきたものだ。
 美沙子は両手で何かを持つ仕草をした。
「ほえええ。じゃあ掃除とか料理とか、今この瞬間に家で洗濯してんだ」
「さあ、どこまで出来るかはよくわかんない」
「その弁当もロボットさんが作ってくれたわけ?」
「いや、さすがにそれはないよ……たぶん」
 つっついている自分の弁当を眺める。今朝、いつものようにテーブルの上に置いてあった弁当だが、確かにそれを疑わなかったわけではない。しかしおかずの味やら配置のセンスやらはいつもと変わらない。それすらもあのロボットが真似ているのかもしれないが。
 いま、家で掃除機を動かしている彼女を想像する。両親は共働きなので、いま家には彼女しかいないはずだ。
「ロボットかあ。名前は? ロボットさん?」
「あれ、名前なんだっけ。昨日教えてもらったんだけど、忘れた」
 麻美は眉をひそめるしぐさをした。あのロボットの人間らしいところ、有能なところをあまり美沙子に教えたくない。おそらく彼女が考えているよりは、あのマキはかなり「人間らしい」だろう。女性型の人形と一緒に住んでいるなどと、学校で噂されたら情けなくて死んでしまう。
「あんまり言わないでよ、頼むから」
「ざんねん。もう明日になったらクラス中の人間が知ってるかもね。マシンガンに弾込めたらもうダメ。もうすっごい話したいもん」
 美沙子がにやりと笑う。やはり話さなければよかったかもしれない。
「でもいいじゃん。あたしもイケメンロボットと一緒に住みたいよ。勉強教えてもらおうかな。ああ教えてくれなくていいや、面倒見てくれるだけでいい。勉強しないとおしおきですよミサコさま、みたいな」
 美沙子は自分の言ったことに吹き出して笑う。そんなにいいものではない、と麻美はため息をついた。
「なんでああいうことするんだろ、バカなのかなうちの家族は。あたしなんか昨日まで、あれが来ること知らなかったんだよ?」
「まあ、それはあんたが悪いっつーとこもあるけど。ひょっとしたらあんたの部屋もいま片付けられてるかも」
 一瞬、体が固まった。家族には部屋に入るなと厳命してある。しかしあのロボットは知らない。机の引き出しなどあさられてはたまらない。
「大丈夫だって、ロボットなんだから、エロ本みつけてもわかんないよ」
「困る! わかんないから困るんじゃないの!」
 意外に大きな声が出てしまい、慌てて口をつぐむ。今日帰って、部屋の中の配置が変わっていたらどうしよう。自分はロボットに対して怒るのだろうか。彼らは怖いという感情も、申し訳ないということもわからないのに。


 夕方。学校から帰ると、ダイニングにマキがいた。
〈おかえりなさいませ。今日は早いのですね〉
 マキはテーブルに座って本を読んでいた。麻美は答えずに、テーブル越しに尋ねる。
「本なんか読むの」
 彼女はわずかに眉を上げて本を閉じた。いちいちオーバーなので、表情の変化はすぐにわかる。自然かどうかは別として。
〈正確に言うと、読んでいるふりをしているだけですが。何もすることがない昼間と、充電中はこの格好をしています〉
 よくよく見ると、本の背表紙には何も書かれていなかった。真っ白な本。おそらく中身も何も書かれていないだろう。
〈充電をしながら、学習か休息をしています。皆様が寝ているのと同じと考えていただければ結構です。この格好は、いちばん皆様の迷惑にならないと思われますが、いかがでしょうか〉
 いかがって言われても、と思いつつ、麻美は「別にいいんじゃないの」と答えた。本当は視界の中にいるだけで気になってしまう。彼女をどういう目で見ればいいのかよくわからない。ただの同居人、近所の女性、さすがに実のお姉さんというのは難しい。椅子に座った彼女の姿、肩までの黒髪。何かおかしいと思ったら、昨夜見た服装から変わっていて、今はゆったりした深緑のワンピースを着ている。自分で着替えたのだろうか。
 マキは椅子から立ち上がった。
〈伝言がございます。ご両親は今晩遅くなるそうです。夕食が冷蔵庫に入っています。レイくんと一緒に食べるようにと〉
 麻美はその言葉を無視した。毎週末は決まってこうなのだ。だから麻美も早く帰ってきたのであって、今さらロボットに言われるまでもない。
 弟の玲は既に学校を終えているはずだが、家にいる気配はない。友達の家にでも行ったのだろう。
 麻美は自室に戻るまえに振り返った。
「私の部屋、入ってないよね」
〈どうしようかと考えましたが、遠慮させていただきました〉
「絶対入んないで」
 マキは一瞬だけきょとんとしたような気がしたが、すぐに小さくお辞儀をした。
 いつも両親がいないときは、小学三年生の玲と一緒に夕食を食べるのが常だったが、今日は参加者が一人増えた。
 オムレツとホウレン草のソテーをレンジで温め、ベーコンのスープをテーブルに並べる。マキはまだ詳しい家具の配置をインプットされていないらしく、母親もいないので自分たちでやるしかない。ただ麻美にとって、玲を部屋から呼ぶことが果てしなくめんどくさかったので、それをマキがやってくれただけでもありがたかった。
「食べねえの?」
 玲がスプーンでカツカツと音を立てながら、隣のマキに尋ねる。いつもはTVアニメにかじりついている玲だが、今日はその気にならないらしい。マキは微笑んで答えた。
〈基本的には、食べ物を取る機能はついてないんです。ごめんなさい〉
 見るに、どうもマキの玲への対応が麻美と少し違う。相手が子どもということで態度が変わるらしい。食事中、マキはテーブルに着いて二人を眺めているだけだった。彼女の目の前には当然なにも置かれていない。ただそこにいるだけだからか、妙な緊張もなく、玲はいつもより多く喋っていた。
「あとでゲームしよーぜ、ゲーム」
 二階の自室でマキと遊びたいと弟は言い出した。リビングの方がいいんじゃないの、とも思ったが、姉弟の部屋は隣同士なので、何かあってもすぐにわかるだろう。「怪我しないでよ」
 玲が先導し、マキはダイニングを出ていく。食器でも洗おうかと思い、麻美が蛇口をひねってしばらくした後だった。部屋の向こうから大きな音が聞こえた。
 鈍い音だった。すぐに考えたのは、マキのことだった。どこか壊れてしまっては親に叱られるし、どこか破損したヒューマノイドを見るのも怖かった。外見もそうだが、プログラムの方も。
 麻美が玲の部屋の方に足を運ぶと、階段のところで二人と出くわした。玲が頭を抱え、マキが膝を折っている。
「あんた、大丈夫?」
 麻美はしゃがんで玲と目線を合わせる。
〈額を強く打ったようです。あと右手を擦って〉
 玲は歯を食いしばって呆然としていた。額を触りながら何度もうなずく。しばらく床を見つめていたが、次に廊下を走り、どこかの部屋に消えてしまった。どたどたと足音が反響する。
 マキは階段前で膝をつき、誰もいない虚空を見つめていた。いや目がウツロであるのはいつものことなのだが、何を考えているのか、表情からは読み取れない。人間だったらもっと心配した顔をするだろうか。
 マキがふとこちらに顔を向けた。
〈レイくんはどこへ行ったのでしょうか〉
「隠れたいんじゃないの、情けなくて。前もあんなことあった気がする。階段から落ちたの?」
〈落ちてはいません。私と手をつないで階段を上がっていましたが、私の上がるのが遅く、足を滑らせたようです〉
「で、額を階段にぶつけたと」
 麻美は自分の額を手でたたく。さっきちらりと玲の頭を見たが、出血はしていなかった気がする。昔、自分もこの階段で何段か落ちたことがあった。
「とりあえず冷えピタでも貼った方がいいかな」
〈冷却剤ですね。患部を冷やした方が良いでしょう〉
 弟の名前を呼びながら、麻美はリビングの方に戻る。麻美は自覚していた。こんなに玲の世話をしたのは何年ぶりだろう。とてもあのロボットに世話は出来ないとわかっていたので立ち回ったのだけど、不思議な感じがする。要するに、親戚の大人たちが来た時、妙にお姉さんぶってしまうあれと同じだ。 
 自分はあのロボットに、どういう反応を求めていたのだろう。

「寝たと思う、たぶん」
 玲の部屋からリビングに戻ってきた麻美はつぶやいた。マキはテーブルの隣に突っ立っている。
〈すみません〉
「別にあんたのせいじゃないし。あいつがアホなだけで、あいつも明日になったら忘れてると思うよ」
 玲の怪我の世話など久しぶりだ。昔はもっと多かった気がするが、本人が大きくなったのと、親にまかせっきりだったのとで忘れていた。冷えピタを貼ってやっているとこちらが泣いてしまいそうだった。
 麻美はテーブルについて、突っ立っているマキを見た。すみません、という彼女の言葉を聞いた瞬間、妙な安心感と違和感があった。変な顔して黙ってたけど、やっぱり申し訳ないとは思ってるんだ。謝った方がいい状況っていうのはわかってるんだ。さきほども言ったが、別にマキが謝るべきことではない。勝手に玲が足をすべらせて怪我をした。ただそれだけのことだ。
 しかしそれは人間に対しても思うことだった。一方で麻美は、申し訳ないなんてさっぱり思ってないんだろうな、と思った。それほどマキの声は無機質だった。
「カナシイってことは思うの?」麻美は考えていることをストレートに尋ねた。マキは少し眉を下げた。
〈正直に言うと、わかりません。思うふりをすることはできますが〉
「正直だね」
 しかし、謝るべき瞬間がわかっていれば、それで十分なのではないか。たとえ何をどう思っていたって、相手に謝意が伝われば、それでいいのではないかと思う。麻美はテーブルについた。
「でも、今日はわりと助かったかも。いつも二人だったしさ。あいつも楽しそうだったし」
 なんで自分はロボットをフォローしてるんだ、と思う。マキは少し微笑んだ。
〈そう言って頂けると、助かります〉
麻美は驚いた。なぜかマキの嬉しいという感情は、すんなりと信じられそうだった。何とも都合がいい。
 ねえ、と言おうとして、麻美は言葉につまった。どうしようかと考えた末、素直に尋ねた。
「……ねえ、あんたのことなんて呼べばいいの」
〈マキ、と呼ばれています〉
 じゃあマキ、とつぶやいて、麻美は眉をひそめた。さっき何を言おうとしていたかは、忘れていた。







 ノックの音を聞いて、麻美は自室の扉を開いた。部屋の前ではマキが洗濯物を抱えている。
〈しまってもよろしいでしょうか〉
 麻美は適当に扉を開け放してデスクに戻る。マキが家にやってきて数日、最近は彼女も母親からレクチャーを受け、家事にも慣れたようだった。料理はさすがに難しいが、掃除や洗濯は彼女の担当になった。
「母さんにさ、明日は朝いらないって言っておいて」
〈わかりました〉
 がたんがたんとタンスがしまる音がして、麻美は顔を上げる。マキがこちらを見つめている。
〈ひとつお伺いしても良いでしょうか〉
 マキが音量をやや落として尋ねてくる。向こうの方から話してくるなど珍しい。麻美はうなずく。
〈アサミさんは、ご両親とお話しないんですか〉
「は?」
 麻美は眉をひそめた。ぽかんと口が丸く開く。
〈最近、お互いに伝言が多い気がします〉
 何を思ってか、マキが目を細める。麻美はため息をついた。
「……別に、なんでも」
 思い当たる節があるだけに、麻美は口をつぐんだ。恐らくマキは、こちらが思っているほど深く考えてない。たぶん母親という話題に関連付けて、『ただ質問してみた』だけだろう。言葉に深い意味はない。しかし事実をもとに行動するだけに、間違いは少ない。
 麻美が意識をして首を横に振ると、マキは意図をくみ取ったのか、部屋から出て行った。


 高校の教室に入った瞬間から、どこか違和感はあった。自分が浮いていると感じることは、今までも結構あったので気にしないことにした。
 しかし、教室の端から聞こえてきたこの言葉を、無視することは難しかった。
「ロボットと遊んでんじゃねーの?」
 その瞬間、何人の視線を感じたことか。自分の席についていたが、金縛りのように動けなくなる。
 体が熱い。
 噂というのはどこかから漏れるにしても、早い。やはり情報源は美沙子だろうか。確かに彼らからすれば格好のネタだ。話してしまった自分に腹が立つ。部活の連中とはもう付き合いがないし、どうしたものか。唯一の話し相手だった美沙子も、今日は自分に寄りつくつもりはないらしい。
 もし自分が、クラスの中で人気者だったなら、最先端のヒューマノイドは羨望の的だったかもしれない。それなりにあのロボットは便利だし、何より珍しい。テレビで大々的に取り上げられてもいいくらいだ。あれほどのヒューマノイドを見たことがある人間が、この学校の中でどれだけいるか。
 しかし残念ながら、麻美は人気者でもないし、むしろ浮いている存在だった。美沙子からの情報によると、何を考えているかわからない、と皆から思われているらしい。わからないことは不安につながる。羨望はねたみに変わり、最後には笑いの対象になる。そういう意味では、女性型ヒューマノイドは格好の材料だった。
 どこから歯車が狂い始めたのだろう。
 二か月前に部活をやめてから、どうも生活が上手くいかない。頭の中がぼんやりと霞んでいる。
 一人は恐ろしい、とよく思うようになった。つらいことも、なかなか笑い話に変えられやしない。苦しいことはそのままの形で心に染みる。孤独はさらに孤独を引き寄せる。学校でも一人で、家でも一人。居場所がないとは言いたくない。しかし、絶望的に居場所がない。
 生きている意味があるのだろうか。


 学校から帰ると、件のロボットがいた。
 ぎこちない動作で掃除機をかける彼女の、およそ人とは似つかしくないずんぐりとした図体を見て、麻美はうんざりした。動きはどこか不自然で、要するにとろい。明らかにセンサを駆使しているとわかる、手探りのような動きなのだ。この動きを見てしまうと、こちらが常に緊張を強いられる。どこかに消えてほしかった。人間相手に抱く感情とは違っていた。ロボットは消していいものだ。人間がうっとうしいと思えば、いさぎよく消えるのがロボットの義務だ。ロボットは人間のために存在しないといけない。この「物」のせいで、どうしてこんなにイライラしないといけないのか。
〈どうかされましたか?〉
 掃除機を止め、小首をかしげるマキを見て、クラスの人間が面白がるのも仕方がないかな、と思う。苦しさで吐きそうになっている自分でさえ、この光景は笑えてくる。
 麻美は噴き出しそうになる感情を抑えて、自室に引っ込んだ。とりあえずあの姿は見たくない。家のどこにいても目につくので、よけい腹が立った。
 とりあえずお風呂に入って、お腹に何かを詰め込んだら少し落ち着いた。ベッドに横向きに体を倒す。明日は授業をサボってもいい。自分の中でそういうことにしておく。課題をやる気にはさっぱりなれない。家族の前に出るつもりはまったくない。
 コン、コン。機械的なノックの音。何回叩いてもリズムは変わらない。
ストレスは収まったが、いま一番会いたくない人間だった。返事をする気力はない。
 数回ノックの音が聞こえたが無視していると、ドアを開く音がした。しばらくの沈黙のあと、静かに扉を閉める音が聞こえる。彼女はまだ部屋の中にいる。
 声をかけられる前に麻美は起きた。なるべく彼女を見ないように顔をそむける。
「いまあたし、すんごい機嫌が悪いんだよね」
〈すみません、わかりませんでした〉
「たぶんあんたに怒ってる」
〈すみません、何か間違ったことをしてしまいましたら、訂正をお願いします〉
 訂正って言われても、と麻美は歯を食いしばる。残念ながら洗濯物のたたみ方や、食器の並べ方に腹を立てているわけではない。気にくわないのは容姿だったり声だったり動きの気持ち悪さだ。つまり全部、存在自体が気持ち悪いのだ。
「全部よ、全部。ぜんぶぜんぶぜんぶ」
 言葉で表現できず、子どものように反抗してしまう。ぜんぶよぜんぶ、何もかも。
 マキは案の定、いつもの困った顔で小首を傾げた。マキにそんなことを責めても、どうしようもないことはわかっていた。しかし言わないままではストレスで死ぬ。たとえロボットだろうと人間だろうと。
 麻美はベッドに仰向けに倒れて、声を抑えて泣いた。だいぶ疲れていた。どうせ泣いているところを見られたって、メモリに記録されるだけだ。その記録だってゼロとイチの電子データだし、適当に配列をいじれば消えてしまう。ロボットに対して恥ずかしがってもしょうがない。
 ベッドの隣にマキが座ったのがわかった。マキは長い間だまっていた。意図的なのか、そうでないのかわからない。玲のときと同じく、判断に困る場面では黙ってしまうのだろうか。どちらにしても、今の麻美にとってはありがたかった。
 しばらくして落ち着いたが、マキは部屋を出ていく気配がなかった。恐らく命令さえすれば素直に出ていくだろう。麻美は起き上がって、マキの肩に頭を乗せた。彼女はよろめく気配がない。
「なんで、親と話さないかってこと」
 マキの首が動いたのがわかる。ロボットのくせに、ちゃんと肩や胸は呼吸とともに上下していた。服越しの人工皮膚は、体温のように温かい。
「あたし吹奏楽部だったの。……吹奏楽知ってるよね」
〈はい、ブラスバンドのことですね〉
「うちの吹奏楽部、結構キビしくて、わりと有名なんだけどさ。それでもあたしは結構、優秀な方だったわけ」
 こんなことを話すのは、皮肉にもマキが初めてだった。人に向かって話すというより、ペットに向かって話す感覚に似ていた。彼女は話を聞いて指摘もしないし、反論もしない。
「演奏が上手いってこと、自慢してたわけじゃないけど、調子は乗ってたかもね。けっこう周りにキツいことも言って、恨まれてたの。それはさ、あたしが上手かったから許されてたわけなんだけど、このあいだ、大会で思いっきり失敗しちゃってさ」
 麻美はため息をついた。一言で言って、あのときは緊張していた。本番中、血のにじむような練習の日々を思い出してしまった。いつも通り、いつも通り、と自分を戒めた時点で、だいぶ上の空になっていたのかもしれない。指揮者がタクトを振り上げる、演奏の始まり。ありえない自分の失敗。動揺した麻美は、その後のソロパートも納得のいく演奏ができなかった。
 確かにそれだけが原因で、コンクールの結果が散々になったわけではない。もしかするとほかの部員も多く失敗したのかもしれない。それは麻美にも誰にもわからなかったが、何より麻美自身が自分を責めていた。
 退部するとき、顧問は引き留めてくれた。そんな失敗はよくあることで、これを糧に努力をすることが正しい事なのだろう。部に留まることが正解だったが、麻美は部から離れた。それが自分の失敗を認めることになったのか、クラスの連中にもその噂は広まった。
「それで、その大会も親が見てて、そのあと、言われたことがあってさ。それが、あんまりあたしの期待してた言葉じゃなくって。その後すんごくしんどかった時も、いまいち噛み合わなくって。ああこれはダメだなって」
 それだけなんだけどね、と麻美はつぶやく。耳をすますと、かすかにマキの駆動音が聞こえた気がした。ただの振動とも取れる、不思議な音だった。
 よくよく考えると、面と向かって非難してきた部員は誰もいなかった。結局、自分の技量を鼻にかけて、甘えていた自分が良くなかったのだと思う。こんな失敗をした人間は、部にいる資格はない。部に居場所がない、と感じたのは、半分ていどは自分のせいだった。
 マキの頭が動いた。
〈アサミさん、すみません。よくわかりませんでした〉
 マキは少し声を落としていた。麻美はがっくりと肩を落とした。マキの肩の上で、ゆらゆらと頭を揺らす。確かにロボットは、長い話を理解するのが苦手だという。こちらもまあ途中から理解させるのも面倒になっていたし、とりあえずマキのメモリに言葉を記録しただけでも、良しとするしかない。
〈ご両親は、心配なさっています。アサミさんが怒っているのではないかと〉
「んなこと聞いてたの」
 人のことは言えないが、親もロボットに相談するなよと思う。しかしマキも思ったよりお喋りだ。
「ま、あのときショックだったのは本当かもね」
 怒っているかどうかはわからない。ただもう両親に期待することは難しくなった。ちょっと前までは、もう少し気楽に話せていたと思う。このまま行けば、自分が疲れてしまうということもわかる。だけどどうすればいいかわからない。いつか自分が病気になり、消えてしまってもいいとさえ思う。
〈私ができることは、言葉をお伝えすることだけです〉
 マキがぽつりとつぶやく。マキは心配しているのだろうか。さすがに泣いた人間を見ればそう思うかもしれない。マキは反論も指摘もしないが、なぐさめることも励ますこともできなかった。ただそこにいるだけだ。いまマキの顔を見ても、何も感情は読み取れない。
 麻美はどうしようかと黙っていたが、やがて目を細めた。
「……別にいいよ」
 自分でいつか言うし、と麻美はつぶやき、腕を回してマキの右手をつかむ。マネキンほどではないが、作り物めいた感触だった。しかし他人の手の感触など、どれもおかしなものだ。わずかにマキの手が握り返してくる。妙な人間らしさを感じる。

「あんたってさ、寝たりしないの?」
〈スリープモードがあります。電力を最小限に抑えます〉
「そうじゃなくて、横になったりとか」
〈添い寝の機能はついているので、横になることはできます〉
「じゃあ一緒に寝てよ」
 麻美が言った途端、マキが目を丸くした。本当に目を丸くしたので、麻美は吹き出しそうになった。驚く表情を見るのは初めてだ。
〈アサミさんとですか?〉
 自分でも変なことを言っていることはわかったが、どうせ泣き顔を見られたのだ。これ以上気にしてもしょうがない。
〈お仕事がありますから、夜中になりますが〉
「うん。ってか親が寝たら静かに来てよ。あんたと一緒に寝てるのバレたら嫌だし」
 わかりました、とうなずいて、マキはゆっくりと立ち上がった。


「変なの」
〈私も初めてです〉
 ごろり、とベッドに横になる。マキがどうやって寝るか気になったが、いつもの不自然な動作で一度ベッドに腰掛け、体操のあん馬よろしく両足を乗せて横になった。
 ベッドの上で、お互いに向き合う。まばたきの音が聞こえるくらいに、目の前にマキの瞳がある。近くで見ても、やはりその目はウツロだった。暗闇の中で、黒の瞳がゆらゆらと揺れている。
〈先ほどから学習のために、似たシーンの動画を検索しているのですが、女性同士のものがなかなかなくて困ります〉
「……あんまり変なもの学習しないでよ」
 麻美は微笑みながら、マキの胸に顔をうずめる。固いのか柔らかいのかはよくわからなかったが、暖かかった。人間と寝ているというのと、大きな人形を抱きかかえているというのと、ちょうど半々くらいの感覚だった。
 麻美は自分の額を、マキの額と合わせようとした。もう少しで鼻同士がくっつきそうなところで、マキが一瞬身を引いた。麻美は視線を落とす。
「あ、ごめん」
〈ごめんなさい。少し驚きました〉
 麻美は黙ってうつむいた。そのあとマキが〈アサミさん〉と呼んでから、もう一度顔を合わせた。唇同士が触れ合う。今度はマキはぴくりとも動かなかった。
「あたし、変なのかしらね」
 まるで部屋の隅にとりつけたビデオカメラで、自分自身を見つめているような。マキはロボットで、人間は自分ひとりしかいない。こんなにも胸がいっぱいになっているのに、外から見れば、自分は生きている人間とは誰とも関わっていない。自分はひとりなのだ。
 マキは両腕をまわしてきた。背中をさすられる。
〈アサミさんは、愛されたいのだと思います〉
 は? と麻美は胸の中で答えた。
〈誰かから愛されるべきなのです〉
 それはまるで、マキの声ではないようだった。冗談にも聞こえないし、何か変な会話を学習したのだろうか。
「つっても、愛してくれる相手がいないしねえ」
〈誰かから愛されることも大事なことです。しかしもっと大事なことは、自分自身を愛するということです〉
 麻美は口の端を上げる。マキの言葉を理解するのは難しかったが、なんとなく難しいことだと思う。自分でもわかるくらい、今は自分のことがどうでもよかった。食事の量もだいぶ減り、体重も落ちた。減っている体重を見て、むしろ安堵している自分がいる。自分の受けたストレスが、我慢した分だけ、目に見える形となって現れているからだろう。
〈私は心理学も学習しています。しかし私はアサミさんを愛せません〉
「わかってる。別にあたしも、あんたにそこまで求めてないし」
 ただこうしたいだけだから、と心の中で呟いて、もういちど強く抱きしめる。固くなった心臓が解けていくように感じる。麻美は目を閉じた。







 学校での昼休み。例に漏れずひとりで昼食をとっていると、女子生徒に声をかけられた。数秒、麻美は返事をすることができなかった。学校で人と話すのがとても久しぶりで、喋り方を忘れてしまったようだ。
「ご一緒していいかしらね」
 無言で机の上にスペースを作る。誰かと昼食を一緒にするのは、考えてみると一週間ぶりくらいだ。恐ろしく長い一週間だった。
「珍しいじゃん」
「まあね」
 美沙子は何も言わず向かい側に座った。お弁当をつっつきながら話をする。他愛もない会話。
 ようやく、ここ最近はクラスでロボットの噂が消えたようだ。しかし表に出ていないだけで、おそらくこれからずっと、自分は『ロボットと一緒にいる女」になるだろう。それでもいい気がしてきた。
「最近は、ロボットにも慣れてきたよ」
 美沙子が明らかに気にしているようだったので、麻美は努めて明るく話した。彼女はごくんとおかずを飲み込んだ。
「え、マジ? まさかアブないとこまでいっちゃった?」
 美沙子がもう普段の様子に戻っている。麻美は思わず先日のことを思い出した。結局マキと一緒に眠った次の日、朝起きるとマキはベッドからいなくなっていた。家事をしに行ったのだろうが、どうやってベッドから抜け出したのだろう。途中で起きなかった自分にも呆れる。もしかしたら記憶がないだけで、ちゃんとマキが起きるところを見たのかもしれない。
 よくよく考えると、あの夜のマキの話はどう考えてもおかしかった。マキ自身が考えた言葉ではなかったし、学習で得られた言葉でもない気がした。もしかすると、製作者か誰かが意図的にインプットしたのかもしれない。お遊びで。
 ロボットと一緒に寝たんだけど、なんて言えば、明日からクラスはどうなるだろう。これ以上、環境は悪くなりようがない気がするし、すでに怒りを通り越してどうでもよくなってきている。今は噂されることよりも、マキのことを悪く言われる方がつらいかもしれない。
 麻美は曖昧に笑った。
「まあ、色々あったんだけどね」
 さすがに悪いと思っているのか、美沙子はそれ以上追及してこなかった。


 マキが開発元の研究所に戻る日が近づいてきていた。今後どうするかはわからないが、とりあえず最初に契約した期間が終了するらしい。
 週末、いつものように姉弟とマキで食卓を囲んでいるときだった。弟の玲が今度、マキと一緒に外で遊びたいと言い出した。
「ああそう、父さんと車でどっか行けばいいじゃん」
「できないって。マキは外に出ちゃいけないんだってさ」
 玲がカツカツとスプーンを鳴らす。確かに、マキは室内での稼働を前提に作られている。これだけ家の中で自由に家事ができるのも、あらかじめ間取りをインプットしているからだった。移動範囲は家の敷地内のみ。それより外はセンサ類の誤作動が多く、なによりマキ自身の損傷の恐れがある。
 じゃあ無理なんじゃない、と麻美は言ってみたが、玲がふてくされているのを見て罰が悪くなる。こういうところは自分そっくりだ。変に憧れている夢は死んでもかなえたい年頃なのだ。一緒にテーブルを囲んでいるマキと顔を見合わせる。
 かと言って、両親を説得する気はさらさら起きなかったし、親と一緒に外に出るなど死んでもごめんだった。玲を満足させる代替案を考えてみるが、何も浮かばない。麻美はため息をついた。

 結局、自宅近くの河川敷に行くことにした。マキはいつもの困ったような顔をしたが、あまり激しい動きをしなければ大丈夫だと言った。両親がいない夕方に、麻美は午後の授業を抜け出し、マキと並んで外を歩いた。マキは余計なセンサを使わず、麻美についていくように動いた。玲は飼い犬と一緒に先に行き、うれしそうに段差のない道を先導している。
 春だった。河川敷にはずらりと青々とした木が並び、麻美は目を細めた。マキの顔をちらりとのぞき見る。外の風景を見てどういう反応するのか気になったが、いつもの無表情からは何も読み取れない。今日は紫色のワンピースを着ている。何も知らない人が見ると、ちょっと変な人、くらいは思うかもしれない。
 並木道のそばにシートを広げ、マキを座らせる。玲はマキと散歩しただけで満足したらしく、飼い犬を連れて広場に出て行った。
 マキ、と麻美が呼ぶと、マキは振り向いた。彼女の表情はいつもほとんど変わらない。しかし見る時々によって、微笑みに見えたり物憂げに見えたりする。今はとても穏やかに見えた。
「そろそろいなくなるんだね」
〈そうですね〉
 このいまいちテンポの良くない会話にも、だいぶ慣れたというのに。マキは横座りで、遠くの玲の方を見ていた。
「これからあんた、どうなるの?」
〈今回得られた知見を使って、改良を重ねます。もしかすると私以外のロボットに利用されるかもしれません〉
 フーン、と麻美は首を傾げる。
「そのあとは?」
〈そのあと、と言うのは〉
 麻美は二秒だけ考えてから尋ねた。
「……ロボットの、最後ってこと」
 これでわかるだろうか、と麻美は眉をひそめた。マキはだいぶ経ってから答えた。
〈今まで作られてきた多くのプロトタイプが、解体されます。それか、稼働自体を終了させて、展示用に残される場合がありますが〉
「それっていつのこと」
〈遅くて、十年後くらいでしょうか〉
 マキはたんたんと答えた。
 そうか、と麻美は思い、シートの上に仰向けに寝そべった。確かに今の技術革新の速さで、半世紀後にマキが動いているとは思えない。十年でマキが動けなくなるというより、人から必要とされなくなるのだ。マキの後継機は、マキよりずっと効率よく、ずっと自然に仕事をするだろう。
 麻美はふうと息を吐いた。
「あたしは……どうなのかなあ。死にたいって思うことって、結構あるんだけど」
 こんなことを話すのも、マキが初めてだった。おそらく相手がロボットだからだ。マキは鈍感で正直だった。
〈アサミさんが亡くなると、ご家族が大変悲しみます〉
「それはそうなんだけどね」
 なんともロボットらしい答えだった。事実だけを述べる。マキ自身が麻美を慰めることも、励ますこともない。
 麻美は最近、市民サークルが運営している吹奏楽団に入った。吹奏楽部をやめたとき、二度と楽器には触れないだろうと思っていたが、毎日の孤独の苦痛に耐えかねていた。自分は演奏が好きなのかどうかはわからなかった。部の練習はきつかったし、今まで満足を得られたことはあまりなかったから。しかし、近ごろはだいぶ苦痛がマシになってきたので、好きと言ってもいいのだろう。確かに老若男女が混じっての合奏は楽しめそうだった。ようやく生活の意味が少し現れた気がした。
 だが、元々の不安がすべて払拭されたわけではない。問いの答えが見つかったわけではない。マキを見ているとそう思う。
 もっとネガティブな言葉を麻美は思いついた。しかしそれは言わなかった。きっとマキを困らせてしまう。彼女がいつもの困った顔をしたあと、沈黙に耐えかねて謝ってしまうのは自分の方だ。自分がいくら死にたいと叫んだって、おそらくマキの方が自分より先に稼働をやめる。それも自発的ではなく、強制的に、生きるのをやめさせられる。そのことをマキがどう思っているのかはわからないが、もうマキを悲しませるのはやめよう、と思う。少なくとも今だけは。
 麻美は代わりにぽつりとつぶやいた。
「あんたが死んだら、あたしだって悲しいよ」
 マキがそれを聞いたかどうかはわからなかった。マキは返事をしなかった。
 麻美はあたりを見回し、誰もいないことを確認してから、マキの唇にキスした。マキは機械的に、触れ合う瞬間だけ目を閉じる。そうするべきだと学習しているからだろう。
〈アサミさんは、好きな男の子はいないんですか〉
「うっさいわね。そりゃいたときもあるけどさ。それは別にいいでしょ」
 意図的に訊いているのか、ただ話題に関連付けて言っているのかよくわからなかった。ごろんとマキの膝に頭を乗せて横になる。目を閉じると、頭に手を乗せられた。この気持ちよさだけは確かだと思える。情けないけれど。
「あー! 姉ちゃん何してんの、おれもおれも」
「うっさいわねもー」
 玲が遠くからわいわい騒いできたが、麻美は目を閉じていた。弱い風が頬をなでた。


 結果から言えば、マキが外出したことを、両親にはすぐにばれてしまった。なぜばれたかと言えば、何のことはない。今日はどういう仕事をしたのかと親に尋ねられたマキが、夕食中に思い切りぶち上げてしまったからである。よくよく考えると、マキにごまかすということを期待する方が間違いだった。
 その場の空気が凍りつき、麻美は逃げ出したくなった。なるべく玲が嫌な思いをするのだけは避けたかった。しかしここで議論になるだけでも困る。というか自分がわりと耐えられない。
 マキの報告が終わった時点で、父親が尋ねた。
「……で、怪我はしなかったか?」
〈はい、誰にもお怪我はありませんでしたし、私にも損壊した部分はありません。機密の漏れもないと思われます〉
 麻美は弟に向かって、目だけで沈黙を指示した。気の遠くなるような長い沈黙のあと、父親が咳払いをした。
「それならいい。だけど、こんど外に出るときは、父さんか母さんにあらかじめ言っておきなさい」
 返事を求められた玲はガクガクとうなずき、麻美も三度うなずいた。母親がぶつぶつと何かつぶやいていたが、父親の顔色を見てそのあとは何も言わなくなった。麻美は二度とマキを外に出すまいと誓った。今になって、自分のしたことを恐ろしく感じた。
 マキがいなくなるまでもう少し、甘える時間があれば甘えよう、と麻美は思った。自分の傷は完全に癒えたわけではない。彼女の言葉を借りれば、自分への愛はまだまだ足りていない。
 彼女と別れるとき、きっと自分は立ち会わないだろうと麻美は思った。出会った時と同じように、彼女はいつの間にかいなくなっている。そのあとヒューマノイドも見ないようにする。悔しいが、自分の中からマキの記憶が消えることはない。おそらくずっと。





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