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ラトザール物語
第九話 勝利の女神(その二)
透き通った壁の中に捕らわれた少女の仕草を一人の男が眺めていた。エダマ=ルンカだ。少女からはエダマの姿は見えない。見てはならない物を見ている。そんな感情がエダマの心を快くくすぐる。少女は、篭の中で手足を曲げたり伸ばしたりしている。時折、篭から抜け出て、部屋の中を歩き回る。ひとしきり歩き回ると、床に座り込んで、色とりどりのガラス玉、積木などを手にもてあそぶ。少女の顔にあどけない笑いが浮かぶ。エダマの視線は裸の少女のふっくらと膨らんだその下腹部に集中した。そして、その自然の造形美を目でなぞった。 正常な男なら、こんな時、しかるべき生理反応を示すのだろうか? エダマは、自問した。しかし、彼には反応すべき肉体の一部が無い。彼は、生まれてから今まで一度も髭の生えたことのない自分の顎を手でさすった。去勢された男。男であって男でなきもの。エダマの人生に常に付きまとってきた言葉だ。十三才の時、自ら志願してその運命を受け入れた彼は、その運命そのものによって現在の地位を築いたといってよい。 エダマは、彼の言葉一つで、立派な一物をぶらさげた男たちを虫けらのようにあしらうことが出来る。彼らは、喜んでエダマの前に這いつくばって、殺人さえも難なくやってのける。エダマの持つ強大な物質的な権力に魂を抜かれているのだ。いまや、カトマールの王宮の周りには数万の武装兵が集結している。手に手に武器をとり、エダマの一言一句に忠実に従う。堅固な王宮の建造物の数々、城を囲む城壁、今ではその全てがエダマ自身のためにある。 目の前の裸の少女は、エダマによって選ばれた生贄なのだ。十五才の少女の持つべき全ての生活をエダマによって奪われ、その子宮を提供させられた。悪しき魔王の復活の儀式のために。彼女の運命は文字通り、エダマによって踏みにじられたといえる。人間としての扱いなど受けていない。単なる袋、歩く子宮なのだ。それなのに・・・。 この笑顔は、一体何だ? エダマは、そう考えていた。少女の笑顔は、まさしく美しいもの、愛すべきものとしてエダマの脳の奥深くにしみこんでくる。ならば、いかにして愛すのか? エダマは、自問を繰り返した。エダマは、三十年前に死んだ妹のことを思い浮かべた。満足に食べさせてやることさえ出来なかったたった一人の妹。そして、隙間風の入り込む小屋の中で病に侵され、がりがりに痩せ細って、消えてなくなるようにその短い生涯を閉じた。幼い少年エダマの頭でも理解出来ることが一つだけあった。全ては、貧困のなせる仕業だったのだ。金と物、その二つがこの世界で生き延びるためには必要だという思いが骨身に染みわたった。人として存在するためには、まず、物が必要だ。物なくして、人としてあり得ない。少年は、幼い心にそう考えた。 それは、彼が城下の屋敷に奉公に出されて一年目の出来事だった。少年は、病気の妹を見舞うために無断で屋敷を抜け出したかどで罰を受けた。なに不自由なく遊び暮らす人もいれば、病気になっても医者を呼ぶ金さえなく食べる物さえなく死んでゆく者もいる。少年は、その格差を世の中の仕組みとして受け止めざるを得なかった。許す、許さない、の問題ではなかった。それが少年にとっての世の中の全てだったのだ。もしも、その仕組みを許さないとしたら、少年は自分自身を世の中の外へと弾き飛ばしてしまうことになる。 それから二年間、城下の屋敷を転々とし、とある有力な大臣に見い出された。その容色を買われてのことだったのだ。大臣は、エダマを大切に扱ってくれた。そして、大臣に勧められるまま、少年は、男としての自分に決別を告げた。エダマ少年は国王陛下への献上物として王宮に上がった。王宮内において、エダマは、小性として国王に常に付き従った。後宮に入ることも許されていた。男ではなかったからだ。国王は、少年を男ではないものとして、愛した。それが、狂王として名高いブルーノ=コルテリアスである。 エダマの受けた肉体的な寵愛は、決して他の臣下たちの嫉妬をかう類のものではなかった。そして、後宮の女たちは、少年の存在を完全に無視した。少年は女ではなかったからだ。エダマは、いつしかその宙ぶらりんな位置に自分の存在を落ち着ける術を身につけていた。彼は、空気の一部のような存在だった。どこにあっても、誰からもとがめられることはなかった。彼は、国王の所有物のような存在であって、誰もエダマ少年を一個の人として認識することはなかった。 国王ブルーノは、女を愛するのと同じ方法でエダマを愛した。青年エダマは、ブルーノの手により、珍奇な美しい生き物へと変貌した。当時、外国からの賓客の中にはエダマの評判を聞きつけ、その姿を一目見るためにカトマールへ足を運ぶ者さえ少なくなかったほどだ。 エダマは、ブルーノの腕の感触を自分の体に刻み込まれたその愛撫をまざまざと思い出していた。それは、数年前まで続いていた。 「美しいエダマ。人にはあらぬものよ。おまえを愛するのはわしだけじゃ。」 ブルーノの声が彼の耳元でこだまする。老王の責め苦は、気が遠くなるほど長く続いた。ミシミシと体の芯が軋むような激痛にエダマは絶叫する。そして、それが感情と呼べるものだとしたら、心の奥底に秘め続けていたものを、老王の求めに応じ、少しの間だけ開放する。エダマは、放心しきった頭を振った。微かな自嘲の溜息がエダマの口から漏れた。 いまや、かの国王ブルーノは、エダマの命令によって幽閉された。しかし、エダマにとっては、主君を取り替えただけのことだった。エダマは、ゼーダをマスターと呼び仕える身となった。今、部屋の隅で裸の少女を監視している模様女と同じ境遇だと言える。エダマは、マスター・ゼーダについて詳しい事は何一つ知らない。知る必要はなかった。マスターは、マスター以外の何者でもないのだ。 マスター・ゼーダの意志により生贄として捧げられたこの少女を観察することは、今では、エダマの日課の一つになっていた。しかし、柔らかい少女の肌に手を触れ、その生きる証拠を感触として確認することは出来なかった。その気もなかった。あと、二ヶ月で少女の胎内より魔王アーサーの肉体が復活するのだ。一度亡びた肉体が復活するなんて、エダマにはいま一つ理解出来ないように思われた。それは、どんな形をしているのだろう。人間としての形態を保っているのだろうか。出産の後、この少女はどうなるのだろうか。ふと、そんなことを心配している自分自身にエダマは、自嘲的な笑いを浮かべた。
サルテラ山塊の主峰、カンナ山の中腹に古い山寺がある。木々は紅葉し、あるいは、すでに葉を落し、長い冬へ向けて急速にその模様替えを進めている。山の動物たちも冬の支度に忙しそうだ。地上では人々が魔物に追われ苦渋の毎日を送っているのが、まるで、嘘のような静けさだ。カトマールでシャールの手を逃れたシュンラは、この山寺で、ふさぎ込みがちの毎日を過ごしていた。エルフの少女は、すぐに腹を立てるかと思えば、また、うつ向いたまま何時間でもじっとうずくまっていることもあった。修行僧たちは、そんなシュンラを出来るだけそっとしておくように努めているようだ。 「あんた、一体、何を食べてるのよ?」 シュンラは、チョウリョウの食膳を覗き込んでそう叫んだ。ダルマ老師の山寺では、老師を含め修行僧たちが決められた時刻に一斉に食事をとる。全員で、十数人ほど。シュンラも、黒っぽい僧服に身を包みその列に加わっていた。 「これですか? 草の根です。美味しいですよ。シュンラ様もおあがりになりますか?」 チョウリョウは、そう言って笑っている。彼の食膳には白っぽい繊維状の物が小量もられているだけだ。 「あんた、そんなことばかりしてると、本当に病気になるわよ。みんなと同じ様にちゃんとした食事をとりなさいよ。毎日そんな物ばかり食べてるの?」 シュンラは、今にも、チョウリョウの食器を取り上げんばかりの勢いだ。 「ははは。私の口には穀類は、ちと重すぎましてな。これぐらいで、十分なのですわ。」 チョウリョウは、草の根のもられた器を自分の手でかばった。シュンラは、ふいと席を立ち給仕室に消えると、他の修行僧たちと同じだけの食事を盛った器を用意して戻ってきた。そして、それをチョウリョウの目の前にドンと置いた。芋、かぼちゃ、米などを炊き上げたものだ。 「食べなさい! これを食べるまでは、ここから動いちゃだめ!」 チョウリョウは、シュンラの顔を見上げてからからと笑ってばかりいる。シュンラは、ますます意地になった。修行僧たちも食事を中断してざわざわと騒ぎ始めた。長身の少女は、チョウリョウの前に立ちはだかって、青白い痩せた男の顔をにらみつけていた。ダルマ老師が仲裁に入った。 「シュンラもそのぐらいにしときなさい。それは、チョウリョウの悪い癖なのじゃ。一度や、二度言うたからとて、さっそく直るものでもない。」 ダルマ老師は、そう言った。 「必要なだけ食べなきゃ生きてゆけないことぐらい、子供にだってわかる理屈です。どうして、みんな、見て見ぬふりをするのよ。わたしは、許さないわ!」 シュンラは、そう叫んだ。カトマールの一件以来、特に怒りっぽくなっているのだ。修行僧の一人が心配そうな顔で、チョウリョウの耳に何事かささやいた。チョウリョウは、申し訳程度に、芋をひとかけら口にした。 「食べようと思えば、食べられるわけね。」 シュンラは、そう言って、チョウリョウの顔に手をのばした。彼の顎をとらえ無理やりに口を開けさせ、器の食べ物をその口の中に流し込もうとした。 「シュンラ様、それは無茶です! チョウリョウが死んでしまいます!」 修行僧たちが慌ててシュンラを制止した。 食事の後、シュンラとチョウリョウは、ダルマ老師の前に呼び出された。二人並んで板張りの床の上に座らされた。 「シュンラよ、なぜそうもすぐにむきになる?」 ダルマ老師が、静かにそう尋ねた。 「わたしは、むきになってなんかいません。当然の事をしたまでです。」 シュンラは、強い口調でそう言い返した。 「ははは、私は、穀物を絶ち身を軽くして、生きながら仙界に遊びたいと願っているまでのこと。」 チョウリョウは、すました顔で笑いながらそう言った。 「なにが仙界よ! そんなのあるはずないじゃない! 単なる自殺行為よ! なによ。男のくせにこんなちゃらちゃらした服なんか着て! わたしが、その腐った性根を叩き直してやるわ!」 シュンラは、本当に怒りだしたようだ。チョウリョウの長い袖を掴んで、彼に殴りかかろうとしている。チョウリョウは、悲鳴を上げて手で自分の頭をかばい、逃げ回った。 「待ちなさい。シュンラ。おまえに本気で殴られたら普通の男は即死してしまうだろうに。カトマールで暴れた続きを、この山奥でするつもりか?」 老師の言葉に、シュンラは、急におとなしくなった。細い肩を落として、うつむいてしまった。 「チョウリョウも、いつまでも世俗に背を向けてばかりいるものではない。このような、魔物どもが我が物顔で地上を歩きまわる時代にも、そろそろ、おまえを必要とする御仁が現れるはずじゃ。」 ダルマ老師は、そう言った。チョウリョウは、膝を進めた。 「昨夜、東の空に光り輝く将星が現れましたが、老師のおっしゃるのは、その御仁のことでしょうか?」 チョウリョウの言葉は、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかよくわからない。ダルマ老師は、シュンラの方に目をやった。 「エルドールの軍隊が動き出した。ラトザールの民を救うためにな。指令官の名はメルフィーヌ=サミエ。シュンラ、おまえの知り合いであろう。」 「そんな名の女がいたような気もするわね。とっくにくたばったと思ってたけど。もっとも、そう簡単にくたばるようなら。わたしが、この手で殺してやってたわね。」 シュンラは、そう言った。メルフィーヌが、生きていたなんて。しかも、あのエルドールの長老たちを説き伏せたとでもいうのだろうか? シュンラは、そう思った。でも、それほど不思議な事のようにも思えなかった。メルフィーヌというのはそういう女なのだ。ルーイの惚れた女だ・・・。 「シュンラ。おまえのことは、あのエドガー殿より頼まれた手前、わしにも責任がある。いずれ、おまえにもひと働きしてもらうことになるやもしれぬ。ラトザールの民あってこその我々だということを忘れるでないぞ。チョウリョウともども、心しておいてくれよ。」 ダルマ老師は、そう言って、シュンラとチョウリョウを見た。 「心せよ、ということは、私に食をとれということでしょうか? 私、シュンラ様じきじきの口移しでなら、もう少し食も進むと思うのですが。」 チョウリョウは、そう言って、シュンラに平手で殴られてしまった。でも、幸い頬を赤く腫らしただけで済んだ。
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