グノー「アヴェマリア」(click)
シューベルト「アヴェマリア」(click)
★★★ BGM by ☆ Lei ☆ of Paradise Cafe ・・・ Refer to: 素材リンク ★★★

HOMEへ泳いで帰ろう


自然との関わり合いが多かった幼年、少年期から現在に至る自分の過去を綴った駄文、雑文をご紹介します。ご笑読ください。***** <アオリイカ>11年前にさる雑誌に掲載されたものです。酒に酔った勢いで、思いっきりふざけたものを書いてやれ、と一気に書き上げ送ってしまいました。後日、活字になったものを読み返し、よくこんなものを載せてくれたものだと赤面することしきり。


** 白いブランコの釣れづれ草子**
(click)
★アオリイカ(1) ★(2) ★(3) ★(4) ★(5)
★山鳩と焼き鳥(1) ★(2) ★タナゴのいない川 ★ボウズ ★落ち鮎 ★蜂の巣取り ★テンカラ釣り
★灯ぶり ★ライギョ釣り ★かい取り ★ズンバ釣り ★テイラー釣り ★モロコ釣り







オーストラリアの面積はアラスカを除いたアメリカ合衆国とほぼ同じである。日本の21倍である。この広大な国の人口が東京とほぼ同じ。大自然の豊かな恵みを受けながらかつ文明国としての生活を楽しむことができるのは、たぶんこのオーストラリアとカナダぐらいしかないだろう。私は自分の人生の半分を祖国日本と半分をこの新大陸で過ごしてきたことに悔いはない。 かつて、仕事で知り合いになった大阪のある実業家が、「ブランコさん、男は後ろを振り返っちゃいけません。そんなことをしているひまはないはずです。未来だけを見つめて歩くのです」と、言われた。一代で中堅企業を築き上げた人だけにその言葉には重みがあった。 この方の教えに背くようだが、自分の過去や現在を駄文にたくして残しておくのも私にとっては意味があると思うようになった。ブランコ、そりゃ歳のせいだ、とおっしゃる方もおられようが、あなた、そこまで言ってしまってはみもふたもないじゃありませんか。情熱と覇気ではまだまだ若者に負けんぞ。あなた、恋を語ることができるか、息切れなしで腕立て伏せ30回できるか?ブランコはできる!ん?なんか、必要以上にりきんでるな。これも歳のせいか?


★★ いブランコのオーストラリア日記 ★★
(Click)
★カモの一家 ★バニー・ザ・ラビット★Seasonal Greetings


ステテコと甚平
その(1)

抜けるように青い空、湿度の少ないすがすがしい気候、安くて美味しい果物や海産物。気さくな豪州人気質、安定した政情、緑に囲まれた清潔な街並み。無公害のインド洋からはゆったりとした波が、寄せては引き、寄せては引いて、長大な白砂の浜辺を洗っている。
西オーストラリア州、パースを賛美する言葉のリストはまだまだ続く。州観光局などが作ったパンフレットを見ているとパースはまさに地上最後の楽園である。そしてそれはおおむねまちがっていないと思う。
しかし、日常生活のレベルで考えると、現地に住む日本人からは無いものねだりでいろいろ不平、不満が口をついて出る。
ー ああ、赤提灯でメザシの焼いたのを肴にして飲みてえなあ。
ー ったく、車を修理に出したら修理代だけ一人前に取って前より悪くなってもどってきたじゃないの。
ー なによ、あの店のおばさんは。つり銭をまちがえて渡しておいて、すみませんの一言もないんだから。
ー お持ち帰りの握り寿司を買った客があくる日の夕方やってきてさあ、この寿司、色が悪いから返す、おれの金返せ、って言うんだから、いやんなっちゃうよ。一日以上も車の中かどっかにほっといてだぜ。寿司というのはすぐ食べるものです、と言ったら、そんなのはおれの勝手だ、金返さなきゃ保険局に訴える、って意気まくんだからな。ツカレルよ、こっちも。
ー 方向指示器も出さずに、急に左折するのよ、その車ったら。それでバンパーどうしが接触して。そのおじいさん、顔を真っ赤にして怒鳴るから、こちらも必死の抵抗よ。だって、いいかげんにイエスなんて言ったらこちらの負けでしょ。でも、興奮すると、もともとつたない英語だからうまく言えないのよ。くやしいったら、ありゃしない。

復活祭(イースター)は公官庁、商店などは金曜日から四連休である。
息子が子供だった頃は、休みともなれば三人そろってキャンプなどに出かけたものだが、最近はそれぞれが勝手に動いている。
金曜日の朝、息子は友人三人とマウンテンバイクのツーリングに出ていった。大型のワゴン車に自転車やキャンプ用品を積み込み、カーステレオから音楽を道路に撒き散らしながら威勢よく飛び出して行く。
昼になると、今度は女房の仲間が二人やってきた。パッチ ワークとか称する手芸の同好会で田舎町へ二泊三日の旅行だとのこと。フレンドシップ キルトと言って、各人が作った小品をつなぎ合わせて大きな作品にするワークショップに出るのだそうである。
丸い木枠だとか、端切れだとかを車に積み込み、「フレンドシップ、フレンドシップ」と、これまた大騒ぎしながら出て行くのである。
小娘じゃあるまいし、いい歳のオバン連中がかくなる「友情ごっこ」に夢中になっているのであるから理解に苦しむ。まあ、御苦労様なことではある。

さあて、久しぶりに静かな二、三日が過ごせるわい、とほくそ笑んで裏庭に出る。ここには、戸外用のテーブルセットが二組置いてある。大勢の来客があったときなどにはたいていここで食事をするのである。
冷蔵庫からキューンと冷やした酒を取り出す。先週、XX大のさる教授が日本からわざわざさげて来てくださった地酒である。
肴は、前日パースの日本食料品店で買い求めてきた辛子明太子と青森産の薄塩イカ塩辛である。と、言うと、いっぱしの酒飲みのように聞こえるが、実際は下戸の方である。普段はアルコール、ゼロの日の方が多い。ちょっとビールでも飲んでみようかという時も、ご飯を食べながらお茶がわりにビールを飲むといった按配であり、推して知るべしである。ただ、時折こんな具合に酒飲みの真似をして粋がるのは嫌いでない。

辛口の地酒をチビチビやりながら、書をひもとく。塀越しに隣家の庭からはみだしたビワの枝で野鳥がさえずっている。わが家の小鳥小屋にはヘチマの蔓が這っていて、その下にできた午後の陽だまりで飼い猫の弁慶が惰眠をむさぼっている。時折、耳をピッピッと動かす。ハエがつきまとうのである。豪州というのはハエがやたらに多い文明国なのである。
しかしハエの十匹や二十匹、そんなに邪険にすることもなかろう。
「やれ打つな、はえが手をする、脚をする」と、一茶かだれかも言っている。まあ、風雅の心を解する者にとってはハエもまた愛(いと)しである。

さて、私は書に目をもどす。字面を追う目の輝き、そしてしばし沈思黙考するかんばせ、これらは紛れもなく大哲学者のそれである。
この感動的な光景を目にした者は、私がユングの心理学書だとか、あるいはあの難解な吉本隆明の評論でも読んでいるに相違ないと思うのではなかろうか。
が、私が読んでいるのは柴田錬三郎の「眠狂四郎無頼控」である。
聡明そうな目の輝き。これは、最近老眼が進んできたにもかかわらず、この事実を認めたくないがために老眼鏡なしで無理をして目を見開いているからである。
沈思黙考の方は、市川雷蔵演ずる黒の着流しの狂四郎が血刀をさげて飄然とたたずんでいる映画のシーンを頭に思い浮かべているにすぎないのである。
家の中で電話が鳴っている。柴錬の世界から現実に引き戻され、あわてて受話器を取る。
停年退職をして、こちらに移住してこられたS氏からである。
「休みでしょうが。囲碁でもやりにいらっしゃいませんか」
(連休最初の日でもあるし、今日は家でくつろぐことにして、、、、、)
「じゃ、明日の午後ということでいかがでしょうか」と、電話を切る。

その時、なぜだか私は二年ほど前におふくろが送ってくれたステテコのことを思い出したのである。
湿度の少ない国でもあるしズボンの下にステテコをはく機会などない。さりとて老母がわざわざ送ってくれたものをすぐ捨てるのも忍び難く、そのままになっていたのである。整理箪笥の引出を開けてみると、あった、あった。昨年のクリスマスに弟の嫁が送ってくれた甚兵衛羽織もある。これもまだ袖に腕を通したことがない。

(その2)

ジーンズを脱いでステテコをはき、Tシャツの上から甚兵衛を羽織ってみる。下はステテコだけであるから、なんとも珍妙なスタイルである。しかし、爽快である。
一度こういう格好で家の中をウロウロしてみたいと考えていたのである。
普段は、これができそうにない事情がある。豚児には友達が多くて、四六時中誰かがやってくる。夜の十時を過ぎているというのに、女の子が三、四人どかどかと踏み込んでくることだってめずらしくない。
ステテコ一枚のあられもない我が姿を金髪、碧眼の可憐なオーストラリア娘の目に晒すにはいささか勇気を必要とするのだ。
自分の家でくつろぐのに何の遠慮がいるものか、と言ってしまえばそれまでであるが、こう見えても私は結構繊細な神経の持ち主なのである。 それに、かくなる蛮行をあえてやってのけ、パース娘のひんしゅくを買い、ひいてはパース在留邦人全体に対する評価をおとしめる結果に立ち至るとなれば一大事である。海外生活というのもいろいろ気苦労が多いものである。
私は自分のステテコ姿にいたく満足し、念のため表のドアをロックした。
最近わが家では自分が在宅している時はあまり鍵をかけない。愚息の部屋が奥の方にあり、若い連中が来るたび、立って出るのはたいてい家人か私になるからである。
誰かがドアをたたけば、
「カム イン、イフ ユー アー ビューティフル(美人だったら、どうぞお入りください)」と言うことにしている。
「サンキュー」と言いながらためらいなく入ってくるのはたいていヘチャな女の子で私は吹き出しそうになるのを抑えるのに苦労する。

中国人の若者でルン君というのがいる。雲つくような偉丈夫で、彼が立ちはだかればかなり大柄なオーストラリア人でもたいてい道をゆずる。 このルン君、ほとんどの場合ノックもしないでいきなりドアを開けて入ってくる。
「ルン、人様の家に入る時はノックぐらいしろ」
「おう!」
一声吠えて、にこにこする。顔だけは童顔なので憎めないやつである。
先日来た時は、それを憶えていたのか、殊勝にもドアをたたく。ドアの上の方をガンガンやるから大男のルンだとわかるが、こちらも意地悪してやる。
「美人だったら、どうぞ」
「おう!」
と言いざま、もう中に入ってしまっている。
「今、そのあたりの店に行っているから、十五分は帰らんぞ」
「おう!」
もう一声吠え立てると、あっという間もなく居間を横切り、キッチンを突っ切り息子の部屋に消えてしまった。
コヤツの辞書には遠慮などという言葉はないにちがいない。
二十分もたったろうか、愚妻が思い出して、
「ルンはまだ待っているのかしら」
と、様子を見に行く。
「どうだった?」
「T(愚息の名前である)が食べさしたポテトチップスをばりばり食べながら、おう、おう、唸ってコンピューターゲームで遊んでいますよ」
あきれたものである。
しかし、こういうのは後々大成するタイプではなかろうかと思うのである。私はふと三国志の豪傑を思い出した。

「美人だったら、、、、、」で赤面したこともある。
その日私は、大学から持ち帰った学生のレポートの山を前にして、せっかくの週末がだいなしになってしまったのを嘆いていたのである。
誰かがドアをたたく。私や家人の知り合いが予告なしに訪れることはまずないから、
「美人だったら、入れ!」
と、不機嫌などなり声をあげる。
やや、あって、ドアが開かれ、私のようなものでお気の毒さまなんですが、と言って顔をのぞかせたのは右隣の奥さんであった。
裏の菜園で採れたピーマンのおすそわけだと言って、篭をさげておられる。
私は大いに恐縮して平あやまりにあやまったのである。それにこの奥さん、半年前に整形手術をされた。顔のまわりの皮膚を切り、四方八方に皮膚を引っ張って皺をのばすという大がかりなものであったと聞く。
男性としては、美人が一人でも多くなればまことに喜ばしいことであり、何ら文句を言う筋合いなどない。ところが、ご婦人方の方は、必ずしもそんなふうに受け取らない。
「孫が三人もある歳でそこまでがんばらなくても」とか、
「そこまでやらなきゃ、ご主人をそばに引き付けておけないのかしら」
などと、向こう三軒両隣、あれこれ取り沙汰して姦しい。
そんな事情もあり、美人だったら、という言葉を嫌みとして取られたのじゃないか、と心配になり、二日ほどは寝付きが悪かったのをおぼえている。

とにかく、私はステテコに甚兵衛のいでたちで裏庭に出ると、柴錬の小説にもどった。
地酒をトクトクと注ぎ、塩辛をつまむ。実にシアワセナなひとときではないか。今や狂四郎が指定された決闘の地へ赴くところである。
突然、塀をへだてた裏の家が騒がしくなった。どうやら、両親が休暇で出かけていて、留守番をしているおてんば娘がバーベキューパーティーを始めたもようなのである。
すでにどこかでアルコールを入れてきた様子で、十数人もいるのだろうか。若い男女が騒いでいる。
うん、いいだろう。二度ともどらぬ青春、大いに楽しみたまえ。赤き唇あせぬまに、恋せよ、乙女。
ソーセージとステーキの焼ける匂いがただよってきた。思いなしか、私のメンタイコにまで脂の臭いが移ってしまったような気がする。
これはちょっとこまる。何しろ、二腹で大枚、十五ドルも払ったのであるから。
しかも、この「私の」明太子を買うにあたっては、相当な決意が必要だったのである。
これを買った日本食品店主はN子さんといって、二十年来家族づき合いをしている。それにもかかわらず、最近はここであまり買い物ができない。これひとえに円高のせいである。日本からの輸入品はやたらに高くなってしまったのである。
円高の被害をもろにかぶるのは海外に住む三百五十万の邦人であることを大蔵、通産の官僚は理解しておるのであろうか。
ガラス扉のついた大型冷凍庫から明太子を取り出し、ながめ、またもどして、ということを繰り返しているものだから、N子さんが言った。
「センセ、さっきから、そのメンタイ、出したり引っ込めたりしてずいぶん悩んではるみたいやけど。どないしはります」
「そやなあ、どないしょ」
彼女の関西弁を聞くと、こちらも京都時代の言葉にもどる。しかし私の場合、友人がいろんな所から来ていたから優美な京ことば一本というわけにはいかぬ。浪花商人のことばや、あらっぽい河内弁や播州弁さえまじっている。
「フグは喰いたし、命はおしし、メンタイ喰いたし、財布は軽し」
「何、ブツブツゆうてはるの」
「いや、なに、こちらのことだす。トウー ビー、オア、ノット トウー ビー。ハムレットの心境やがな、これは」
なにしろ十五ドルあればs、ヒレ肉が九百グラム買える。スイカであれば十個、オレンジなら大バケツ三杯分である。諸般の事情を鑑みると、慎重にならざるをえないではないか。
「メンタイコ、塩辛、シシャモに納豆、どーんと買いなはれ。日本男児やったら、もっと気宇を大きく持たなあかんわ」
「あんまり手きびしいこと言わんといてえな。よおし、わいも男や、このメンタイ買うたるわ!」
「なんや、清水(きよみず)さんの舞台から飛び降りるようなことゆうてはるわ」
N子さんや従業員の方々の失笑をかったあげくに、手に入れたメンタイなのである。
しかるに、このメンタイと塩辛が今まさに危機に瀕しているのである。

(その3)

インド洋から吹きつける微風が裏の家から焼き肉の煙とにおいを運んできて、私が座っている裏庭のパティオにもうもうとたちこめ、町内のハエというハエが結集してきたのである。
追えども、追えども、皿の上の肴めがけて殺到してくる。
沖縄めざして出撃した帝国海軍の虎の子、戦艦大和にむらがる米軍のグラマン機さながらの様相を呈してきたのである。
これらに混ざって、大型の銀バエも羽音勇ましく威風堂々と飛び交っている。小さいハエが艦載機とすれば、こちらはさしずめ爆撃機B−29である。
小さい方は、食べ物にたかるだけではなく、皮膚にとまってチクリと刺す。特に黒や茶色の大型犬の耳にむらがって血を吸うという習性を持っている。予防措置を講じてやらないと耳が血だらけになってしまう。
私はキッチンから殺虫剤のスプレーを持ってきてめったらやたらに撒き散らす。
「思い知ったか、無礼者。まいったか、下郎め!」
ハエが手をする、脚をする、などと風流なことを言っている場合ではない。髪振り乱して獅子奮迅の働きである。
ハエは一部が撃墜され、その他はあらかた退散していったが、私はなんだか急に疲れをおぼえた。ソーセージの脂と殺虫剤の臭いにまみれた「私の」メンタイを味わっていると、二、三日前に読んだ東海林さだおの漫画に出てくる間抜けな主人公と自分のイメージがはからずもぴったり重なるよう思えてならないのである。

やっと眠狂四郎の虚無の世界にもどる。狂四郎は無想正宗を抜きはなつと、下段地擦りに構えた(さあ、いよいよ、円月殺法である)。
と、突如、「ズンドッ、ズンドッ、ズンドコ、ズンドコ」と、耳を聾する大音響が裏の家からまき起こった。高出力ステレオのヴォリュームを一杯にして得体のしれない音楽が始まった。
庭の隅で昼寝をしていた犬の陸奥が耳を垂れ、尻尾を巻いてこそこそと私の足元へ逃げてきた。猫の弁慶もどこかへすっ飛んでいってしまった。
「スンダッ、ズンダッ、ズンダダ、ズンダダ」
勝手場の窓ガラスがビビーン、ビビーンと打震えている。
小心な私は、家の土台や赤レンガの壁がゆるむのではないかと不安になった。なにしろ、我が家は相当な安普請なのである。
それに二十年分割払いのローンをやっと払い終えるところまで漕ぎつけたところである。
このうえ出費がかさめば、女房を日本に送り赤坂の外人バーあたりで働かせねばならなくなる。
(もっとも、彼女はかなりのヒネ生姜になってしまっているから、これを雇う物好きなど絶えてあろうはずもないが)。
「ズンドッ、ズンドッ、ズンドコ、ズンドコ」
はっと、気が付くと、私はつり込まれて、音楽に合わせて足踏み鳴らして調子を取っているではないか。頭の中では眠狂四郎もズンドッ、ズンドッ、に合わせて無想正宗の切っ先をゆっくり廻し始めてている。
私は大きくため息を一つして、本を閉じた。
家に入って、電話をする。
「Sさん、先ほどの囲碁の件ですが。明日と申しあげたんですが、今日はご都合いかがなものでしょうか。はい、それじゃ、すぐお伺いしますから」

1997年K文学新人賞随筆部門 佳作

2002年09月27日16時30分30秒



古本
(その1)


二年ほど前、ここパースにも日本書籍の古本屋が開店した。新刊本や専門書は日本にいる妹や知人にたのんで送ってもらっているが、ちょっとした文庫本などは結構この古本屋で間に合うので重宝している。
毎日、郊外にある大学と家の往復でパース市中は素通りであるが、月に一度は時間を作ってこの古本屋を訪れることにしている。
数日前にこの店を覗いてみると、岩波新書の古書が数十冊入っていた。そのうちで最初に目についたのがレオ ヒューバーマン著の「アメリカ人民の歴史 上下」であった。
店内の客は私の他に若い日本人女性一人だけであったが、この本だけは自分が確保しなければという気持ちがはたらき、とりあえずその二冊をカウンターへ持って行った。
私がこの本を読んだのは三十年ほど前である。その後何回も引越しを重ねる間に、本は紛失していたし、内容もあらかた忘れている。ただ、書名とそれにまつわる思い出だけは鮮明に記憶に残っている。 


その頃私は京都のD大英文科での5年目であった。今流に留年と言えば、何か一年ほど海外留学でもしてきて卒業を遅らせたようにも聞こえるが、私の場合は紛れもない落第であった。
原因は三つあった。肺に穴があいて、空気が抜けてしまうという奇妙な病気(自然気胸)になりしばらく大学を休んだこと。クラブ活動ばかりしていて、あまり授業に出なかったこと。遊ぶための金が欲しくてアルバイトに精を出しすぎたこと、の三つである。
クラブ活動は、D大ESS(英語クラブ)、その下部組織である英語劇クラブ、関西四大学英語劇連盟、京都地区大学ESS連盟などに顔を出していた。英語劇連盟の方は、委員をしていたため、週一回開かれる委員会出席に時間を取られた。会合には大阪、ミナミの喫茶店「プランタン」が使われた(今でもあるかしらん?)。
そのうえ、教会のバイブルクラスにも出ていた。
牧師さんは美しいキングス イングリッシュを話すスエーデン人であった。私は英語クラブの仲間四人と一緒にこの教会に通った。そのうち、ちゃんと洗礼を受けたクリスチャンは一人だけであった。
私をふくめたのこり四人にとっては、聖書の教えなどはどうでも良かった。バイブルクラスという「無料の英会話レッスン」が受けられることに意義があったのである。
この牧師さんには、神戸カナディアンアカデミーに通う可愛らしいお嬢さんがいた。私たち四人はかなり長い期間この教会に通ったのであるが、英語の勉強ができるということ以外に、このお嬢さんと親しい友達になりたいという怪しからぬ動機をそれぞれが持っていたからである。
一度だけ学園祭か何かに彼女を引っ張り出すのに成功したことがある。私ではない。私たち全員がである。
薄汚いイモ学生がぞろぞろついてまわり、うるさくつきまとうのであるから、すっかり愛想をつかされてしまったのは言うまでもない。以後、個人的にデートの約束を取りつけることができた者は、もちろん、誰もいなかった。

私の下宿先は北白川田中春菜町の農家であった。家主一家は階下に、6人の下宿生は二階に住んでいた。周りにはまだ水田や野菜畑がかなり残っていて、アパートや建売り住宅がどんどん増えている時期であった。家主さんは田畑の一部を売った金で下宿を兼ねた家を新築したのであった。

私は当時、Mホテルのフロントで夜勤のアルバイトをしていた。K外大の学生と私が一日交代で勤務するのである。夜8時に出勤、黒の背広と黒のネクタイに着替え、フロントデスクに入る。すると数人の従業員が帰って行く。残るのは夜勤の正社員一人と私である。
最初の仕事は、二人前の弁当をもらいに行くことである。フロントの裏口から従業員用の通路に出る。空調や水道などのパイプが剥き出しで壁面や天井を這っている。そんな通路である。この迷路のようなトンネルをたどり、エレベーターで上階の大食堂キッチンへたどり着く。そこには、夜勤のフロント係、ベルボーイ、ルーム係、電話交換手、警備員などの夜食が昔ながらのアルミの弁当箱に入れて置いてあるのだ。
ドル高、円安で、アメリカの羽振りが滅法良い時代であり、こうした国際ホテルの泊まり客は8割方アメリカ人であった。
外から帰った客にルームキーを渡したり、電話の応対をしたり、観光や買い物についての質問に答えたりで11時ころまではかなり忙しい。正社員の方も予約や会計係の仕事を一人でこなさなければならないから結構大変である。
深夜になるとナイトクラブなどから帰ってくるアメリカ人夫婦だとか、東京あたりから夜行列車で着いた二人連れのお忍びの芸能人などがちらほら入ってくる程度なので急に静かになる。
交代で弁当を食べ、1時から2時のあいだに私は従業員室に引っ込み、服のまま3時間の仮眠を取るのである。顔を洗って、フロントに出ると、徹夜の社員がはれぼったい目をしょぼつかせて、推理小説を読んでいたりする。


(その2)
時には電話交換嬢(といっても30半ばのオールドミスであったが)が降りてきて油を売って行く。こんな時にはきまってどこかの階の不真面目なルーム係のボーイもさぼりに来ていて、夕べチェックインした大阪の落語家は新しいコレ(と小指を立てて)を連れてきたとか、コメディアンの誰某はあれだけ遊びまわっていたんじゃ借金で首がまわらなくなるのも当然だとか、祇園石段下のクラブ「B]の大柄なホステスは外人専門でかせぎまくっているだとか、そういった話をわいわいやって引き上げて行く。
客のプライバシーは絶対厳守の超一流ホテルでも朝の4時ころはこんなものであった。

キーを渡す時にいろいろ聞いてくる客が多い。オプションツアーにはどんなのがあるのか、ガイドを雇うにはどうしたらよいのか、七宝焼や象嵌細工を売っている店はどこか、神戸ビーフのステーキがうまいのはどこか、キャノンのズームレンズを買うにはどこへ行ったらいいのか、など、質問の内容も様々である。
昼間はこうした用件は大抵、ボーイ キャプテンがこなしてくれるが、夜になるとフロント クラークの仕事になるのである。
夜出かける客からよく受ける質問に、今気温は何度だ、というのがある。日本人客からはまずこのテの質問を受ける事はない。感覚的にちょっと寒そうだ、とか蒸し暑いとか判断してそれですますのが普通である。
ところが外人客の場合ははっきり数字で答えないと満足してもらえないことが多い。
ホテル側ではこうした質問をしょっちゅう受けるので玄関の車寄せのあたりに寒暖計がしつらえてある。ベルボーイにたのめば、気温を読んできてくれる。気温を聞いて、寒いと判断すれば、あわててカーディガンを部屋へ取りに戻るご婦人もいる。このあたり西洋人というのはきわめて合理的な考え方をするようである。

合理的といえば、こんな客もいた。10日ほどの長期滞在をした中年の夫婦であったが、外から帰ると、キーを受け取り、周りにあまり客がいないと、5分、10分と立ち話をしていく。
ある日、買い物袋からテングのお面を取り出して得意げに見せる。あの鼻の高い天狗である。同じものを五つも買ったと言う。
「友達へのお土産ですか」
と聞くと、
「いいや、これを玄関の壁に釘で打ち付けて帽子かけにするのさ」ということであった。
翌々日、また買い物袋から何かを出して見せてくれる。値の張りそうな織物である。ナゴヤ サッシュだ、と言う。こちらは和服のことなどわからないが、どうやらナゴヤ帯というものらしい。
「お客様の奥様は、着物をおめしになるのでしょうか」
「いいや、これをホームバーのカウンターに敷いて、豪勢なテーブルクロスにするのさ」
そのまた翌々日には、夜の11時過ぎにダンボール箱をルーム係のボーイに持たせて部屋からフロントに降りてくる。サウスカロライナの家に送ってくれというのである。
ベルボーイが荷造り用のテープ、ひも、名札などを準備している間に、例のごとく箱の中から取り出して見せてくれる。
白木で作った位牌である。20個買ったと言う。
これにはさすがにたまげた。受けた予約の記帳か何かをしていた正社員のHさんも、カウンターに置かれた位牌を目にして、怪訝そうな顔つきで近寄ってくる。
「それでお客様、これが何かご存知なんですか」
「うん、ガイドの話では、個人の戒名とかいうのを書いて仏壇とかにしまっておくものらしいが」
「今度はこれを何にお使いになるんでしょうか」
「うん、君に見せれば、そう聞くと予想しておった。実は、家で時々パーティーをやる。その時に出す料理のメニューを紙にタイプして、これに貼り付ける。それをテーブルに置くのさ」
「はあ?」
「そら、飛行機で機内食が出る前にはメニューを配ってくるだろうが。メニューと言ってもレストランだけとはかぎらん」
「はあ?」
こちらは飛行機なんてまったく縁のない貧乏学生だからわかるわけがない。
「そこで、この芸術品のようなメニューをテーブルに並べれば、南部の田舎者たちは仰天するというわけじゃ」
アイの音をアーとのばして発音し、南部人を真似ながら言う。どうやら北部からサウスカロライナへ出て商売でもしているらしい。
「どうです、すばらしい趣向(アイディア)だと思わんかね」
Hさんと私の顔を見比べながら得意げに言う。
「うーむ」
ここまで悪のりされては、私たちはうなるより他にすべがない。

(その3)
そんな毎日が続いていたある日の朝、下宿へ電話がかかってきた。
Mホテルの人事部長からである。労組がストに突入して、人手が足りないから至急出勤できないか、というのである。もしかしたら、2,3日ホテルに詰めてもらうことになるかもしれないということである。時間給は通常の3倍出すということ、ホテルの玄関でピケを張っていて従業員は中に入れないということ。したがって、蹴上げの坂からホテルに入る道のところで渋滞しているタクシーの中から親切そうな外人客を物色して事情を話し、観光ガイドだと偽って一緒にホテルへ入ることなどを手短に話し、
「すぐ来てくれますか」
と言うのである。
普段いっしょに仕事をしている仲間がスクラムを組んで労働歌を歌っている姿がチラと頭をかすめたが、3倍の給料という誘惑には勝てない。
人事部長が言ったとおりホテルの車寄せのあたりは労組員で埋めつくされ、タクシーの客を点検している。非組合員の出勤を阻止しているのである。
私はなんなくフロントへはいることが出来たが、後味は悪い。いずれ、ごまかしてもぐりこんだことはばれるからである。
さて、フロントに入ると、普段見かけない何とか部長だの、常務、専務まで、役員総出で業務をしている。
アルバイトは私のほかに、このホテルを定年退職したという老人と、K大文学部英文科大学院生だという30年配の男が来ていた。

ところが、この大学院生には閉口した。
給金をもらって働いているという意識があまりないようなのである。
どうも英会話の練習をしに来ているような、そんな印象を受けるのである。
午後、チェックインの客でたてこんでいるような時に、客の一人と何やら個人的な話を口角泡を飛ばす勢いでやらかしている。
「あなたの英語はワーラーに聞こえる。これはウオーターでなくちゃだめです。ウオーター」
フロントのカウンター越しにアメリカ人に英語を教えはじめたのには仰天した。
聞いていると、どうやらそのアメリカ人の言葉がうまく聞き取れなかったのに端を発しているようである。
「あなたの英語はわかりにくい。
わかりにくい英語はよろしくない。
ゆえに、あなたの英語はよろしくない」
今度は、お客様に訓戒を垂れはじめた。
A = B
B = C
ゆえに
A = C

(なーるほど。でもこの客の英語がたまたまあなたにとってわかりづらいという、それだけのことでしょが。理論に飛躍がありすぎやせんかい。馬鹿メ)

私は、わきで聞いていてだんだん腹がたってきた。
「とにかく、あなたの英語はアメリカなまりで、正統英語じゃない」
(アメリカ人だからアメリカなまりで当然でしょうが。それをいまさらどうせい、って言うんじゃい)
「私の習った英語はクイーンズ・イングリシュです。それに、私の大学の前身はナンバー・スクールだったんです」
(なるほど、一高、三高、八高などをこんな風に言うのか。スマートな言い方があるものだ)
と、私は感心してしまった。
(だが待てよ。日本の旧制教育制度に興味を持っている外人なんてあまりいないだろう。ナンバー・スクールなどという和製英語はわからんのとちゃうかな。わからんわ)
私は感心するのをやめにした。
「私の大学の前身は、ナバー・スクールと帝国大学だったんです。帝国大学!」
彼は、インペアリアル・ユニヴァーシティーというところで文字通りふんぞり返って胸を張った。
初めのうちは彼の会話がそれとなく耳に入ってくるという感じだったが、もうこうなると、彼が口を開くたびに聞き耳を立てなければならなくなる。
一組の外人客が彼のいるカウンターの前に来て、婦人の方が薬局へ行きたいのだが、と言った。
河原町四条の近くに有名な薬局があり、そこには英語の話せる店員がいた。こんなときにはそこの住所を教えることになっていた。
ところがこの男、
「何を買うんですか」
と、いらぬことを聞く。
その婦人はちょっとためらってから、ティシュ・ペーパーが欲しいのだと答えた。当時、日本では、いわゆるチリ紙というのが一般的で箱に入った西洋のティッシュは限られた店にしかなかった。
さあ、それからがいけない。
「ティッシュだったら、部屋にあるはずです。なければ、ルームサービスに頼んでください。持っていきます」
「いえ、やはり薬局へ行きますから」
「いや、ティッシュ・ペーパーを買うためにわざわざ薬屋に行く必要は全くありません。時間とお金の無駄だと思いませんか」
脇で聞いていた専務が割り込んで、すばやくメモ用紙に薬局の名前を書き、デスクのベルを鳴らしてベル・ボーイを呼び、タクシーをつかまえさせる。この間二分。
「君ね、人には他人にあまり言いたく薬が必要な時もあるだろうし、ご婦人の場合は男性に面と向かって言うのがはばかれる、そういう品物が必要になるときだってあるだろう」
さすがの専務も腹にすえかねたのか、文句を言う。
「は、そうですかね?」
と、男はまったくむとんじゃくなのである。
半分気が触れたようなこういう「秀才」が日本の官僚組織を牛耳っていたりすのか、と考えるとうんざりしてくる。

(その4)
スト騒動が終わってから数日後、私はいつものように夜勤を終え、午前7時にホテルを出ると、市電で百万辺まで行き、K大農学部グランド横の細い道を散策しながら下宿にもどった。
下宿では、私の同級生であったS,F医大のN,K大理学部大学院生のH,ニセ学生のWが前夜からの徹マンを続けていた。
11時ころまでうたた寝をして、朝風呂に出かけた。この時間に銭湯に来るのは遊び人か、夜の仕事をしている人が多い。
銭湯の近くにはかなり大きな学生食堂があり、昼食時にはバーやクラブのホステスが朝食を食べに来ていた。
その日も、私が食堂に行くと、そんなホステスが一人来ていた。サンダルをつっかけ、洗面器をテーブルの脇に置き、洗い髪にタオルをまきつけていた。それでいて、自堕落な感じがまったくない女性であった。
その女性はさるナイトクラブに勤めていた。私の下宿に住むTという学生がそのクラブのボーイ長をしていたので、食堂で顔が合うとTと彼女はいつも冗談まじりの挨拶を交わしていた。
源氏名はアケミといった。
Tによれば、彼女にはやくざのひもがいて、出入りの傷害事件で引っ張られて服役中ということであった。
私は隣のテーブルのアケミに目であいさつをした。すると、彼女は声をかけてきた。
「めずらしく、今日は一人なのね」
私は朝食を食べながらアケミととりとめのない会話を交わした。
その学生食堂は、その頃の京都ではめずらしく、ガラスケースの一品料理の中にいつも納豆があった。
彼女は納豆に生卵をかき混ぜながら、 「あなたたちの下宿って、児童公園の近くのすみっこでしょ、いつか遊びに行くかもしれないわよ、うふふ、といたずらっぽく笑った。
私は下宿部屋に帰ると、たたみにひっくりかえって、西脇順三郎の詩集を開いた。どういうわけか、西脇の詩のいくつかを絵画がテレビの映像で表現したらすばらしいものになるのではないか、ということを当時、時々考えていた。
「ブランコさーん、お客さんが来はったエ」
下宿のおばさんが下から大声を張り上げた。
二階には六つの下宿部屋があり、階段は階下の家主さん一家の玄関を通らなくてもいいようになっていた。普段ここへ来る友人なら、だまって階段を上がってくるのである。
私はとっさに十数分前に学生食堂で出会ったアケミが、含み笑いとともに言った「遊びに行くかもしれないわよ」という言葉を思い出した。
まさか彼女が本気でそんなことを言ったとは考えていなかったが、チラとそのようなことが頭をかすめたのはやはり若い男のうぬぼれであったのだろう。

私は部屋を出て廊下に立った。
階段を踏む足音がして、廊下の端に現れた人を見て、私は息をのんだ。
「キッ、キッ、北○先生!」
「何を驚いているんですか。部屋に入りますよ」
先生は当時D大若手教官の星と目されていた方で、現に翌年には三十代半ばにして講師から助教授に昇格された。
私は、この先生の授業では教養英語の英書講読を取ったぐらいで、しかもそれを落としていたのである。
個人的にお話をしたこともなかった。その先生がわが下宿に突然来られたのであるから驚かないほうが変である。
私はあわててたった一枚の座布団を裏返して先生にすすめた。
先生は立ったまま、本棚をながめると、
「君の本棚を見ていると、英文科というより国文科の学生みたいですね」
と、言われた。
そして、机の上に置いてあった原稿用紙を目ざとく見つけると、
「ほう、君は詩を書いているんですか」と言われた。
赤面して、
「ほんの遊びのつもりですから」と、答えると、
「ちょっと読んでもいいですか」と、否も応もなく、もう手に取って読んでおられる。
「本棚に現代詩の雑誌がずいぶんならんでいますが、投稿でもするんですか」
「はい、ニ、三度送ってみましたが」
「それで?」
「最後の一遍が佳作になりました」
私は「現代詩」と「現代詩手帳」という二誌を講読していたが、投稿したのは後者の方だったと思う。当該誌と原稿の控を先生に渡していった。
「作品が掲載されるのは入選作だけで、佳作の場合は、題名と作者名しか発表されません」
「それは残念ですね。自分の書いたものが活字になるのはうれしいものですからね」
原稿に目をとおしておられる先生を横目で見ながら、なぜ先生がここを訪ねてこられたかを必死になって考えたが、思い当たることは何もなかった。
ただ何となく自分の留年に関係があるのでは、という気はした。
斜め向かいの部屋から麻雀の牌をかき混ぜる音や、
「それ、チーや」
「よし、これ、捨てたろ、パイパン、どうや」
「ポン、ポン、それ、もろた」
先刻よりひときわ大きな声が聞こえてくるので私は気が気でなかった。
「ところでね、君の英文科の授業の方ですがね」
(そら、来たぞ!)
私は心の中で身構えた。
「実は、君のお母様からお手紙をもらいました」
「え、おふくろが先生に手紙を?」
「ええ、帰省したときに大学生活についてご両親にあれこれ話したことがあるそうですね。そして、お母様が憶えておられたのがたまたま私の名前だったんだそうです。そんなわけで、私のところに手紙が来ました。君は木○先生のゼミですから、木○先生にご相談しようかとも考えましたが、その前に君に会っておいたほうがよいと思い、こうして出かけてきました」
「うわ、すみません。もうしわけありません」
「いや、そんなことよりも、君、今年は卒業できますか。お母様がずいぶん心配しておられますよ」
「はあ」
「わざわざ私宛に手紙をいただいたのですから、君の成績をちょっと個人的に調べてみました・・・」
「それでね、君、A先生の米国文化史を取っているでしょう。A先生はよく存じあげていますから、君の成績のことを伺ってみました・・・」
「君、あれは落ちますよ。今期の成績は54点らしいです。何か提出したレポートがひどかったそうですよ・・・どんな本を読みましたか」
「レオ・ヒューバーマンの{アメリカ人民の歴史}です」
「たぶんそうだろうと思っていました。あの著者はかなり左寄りの思想を持った学者です。それにね、A先生は右寄り思想の先生ですから、ちょっと都合わるいですね」
「でも授業はあくまで自分の勉強の指針だと思っていますから」
「それはそうでしょうが、もう少し現実的に考えることも必要でしょう。特に今は、安保闘争の後で、右だ、左だと神経をとがらせている時期ですからね。あまり刺激的な内容のレポートだと心情的にも不利になります」
先生はちょっと間をおいてから、釘をさすように言われた。
「だいたい君のレポートには、先生が出されたテーマとあまり関係のないことばかり書かれていたということです。結論を先に言います。明日にでも、先生にお会いして、レポートの再提出をお願いしなさい。私の方からすでにお願いしてありますから、たぶん許してくださるはずです」

私は玄関先まで先生をお送りした。
そこには古びた自転車が置かれてあった。烏丸今出川のキャンパスから北白川まで自転車を漕いで来てくださったとのことで、私はますます恐縮してしまった。
「とにかく、教科書をもう一度良く読み返し、テーマと直接関係のある本をさがしなさい」
それだけ言って、先生は自転車で帰っていかれた。
実は、私はその教科の教科書さえ持っていなかったのであるが、さすがにそれは先生には言えなかった。


中国人の学生で私の教科を落第しそうなのがいる。先日、研究室に相談にやって来た。
アルバイトに忙しくて、というのが言い訳であった。
こういう種類の言い訳をいちいち聞いているときりがないので、ふだんは一切耳を貸さないことにしている。ところがこの学生、話の持っていき方がなかなかうまくて、私はついつい同情してしまった。
「それなら、何かレポートでも書いて、持ってきなさい」と、譲歩してしまった。
目の前にある本棚に先日古本屋で買ったヒュバーマンの本があり、この学生と話をしている時、視線がそちらに行ったことも原因の一つかもしれない。



(1997年・K文学新人賞・随筆部門 佳作)
*K誌に掲載済みのものとは固有名詞など、一部異なる部分があります。



私のホームページへ|