大和市内の庚申塔・地神塔・道祖神について

大和市資料叢書1「大和市の石造物」に記載されている庚申塔、地神塔ならびに道祖神のうち、造塔年代のわかるもの(庚申塔60基、地神塔19基、道祖神25基)について、庚申年を中央値に含む10年毎に造塔数をまとめたのが下記のグラフと表です。また、塔の正面の写真を年代順に並べて示します。
これらから、次のことがわかります。
 市内の庚申塔で年代がわかる最古のものは寛文七年(1667)に造られたもので、碑銘から、小菅、市川、田辺氏により造られたことがわかります。これら三氏は1500年頃、市内福田に移住してきた人たち(福田開拓九人衆)の子孫です。現在、山神社境内にありますが、三氏が当時居住していた地域は上福田付近なので、そのあたりに建てられたものと考えられます。1667〜1750までの約100年の間に、現存する60基のうちの半数にあたる30基が造られています。時は江戸幕府の四代将軍家綱ならびに五代将軍綱吉の時代です。何故この時代に多くの庚申塔が造られたのか、おいおい調べてみたいと思います。 その後は、一時的なピークはありますが、造塔数は少なく、明治以降は6基しか造られていません。

 地神塔は、1789年から1882年のわずか90年間に19基造られたのみです。「地神」は「地鎮」と同じ意味を持っており、現在でも「地鎮祭」として継承されていますが、塔の造立は明治15年(1882)が最後となっています。地神塔の造塔が19世紀だけに限定されているのは全国的な傾向のようです。

 一方、道祖神は、庚申塔より70年程遅れて1743年に初めて造られました。碑銘から芝田、田辺、小菅の三氏により造られたことがわかりますが、これら三氏もまた福田開拓九人衆の子孫です。庚申塔とは異なり、明治以降に全体の40%が造られ、最近では昭和四十五年(1970)にも造られています。

 下に示した塔の正面写真リストからわかるように、庚申塔も道祖神も初期の頃は、像が主体になっていますが、1770年頃以降は文字が主体になっています。なぜでしょうか。
 市内の塔が示す傾向は、日本全体で見るとどのようになっているのでしょうか。大和市だけの固有の特徴があるのでしょうか。また、ある時期集中的に作られた時期があったり、同じ年に3基とか4基とかの塔が造られた年もあります。何か理由があるのでしょうか。これ等についても、おいおい調べてみたいと思います。

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大和市内の庚申塔・地神塔・道祖神の造塔数推移を西暦を軸にしてあらわした表を以下に示します。

庚申塔の造塔数は、当然庚申年の前後に多いものと予想されます。事実、左図4を見ると、相模地区の庚申塔造塔数は、庚申年の前後が突出しています。
しかし、大和市内の造塔数は上図に示すように庚申年の前後に多いわけではありません。どうしてでしょうか。

「国東半島の庚申塔」と云うホームページに、次のような記述があります。
ところで、60年ごとに巡る「庚申年」は、庚申信仰が開花する以前の元和六年(1620)を除けば、それ以降には延宝八年(1680)、元文五年(1740)、寛政十二年(1800)と万延元年(1860)の 計4回巡っているが、これらの年の造立数に目立った増加傾向は見られない。
(URL:http://homepage2.nifty.com/koba843/kaisetsu/kaise3.htm)

国東半島との比較 (庚申塔)

国東半島には、年号が刻まれた517基の庚申塔があるそうで、統計的に見れば信頼度の高いデータと思われますので、全国的に見れば必ずしも庚申年に造塔数が多いわけではなさそうです。
  
国東半島ではいつごろ庚申塔が造られたのでしょうか。上記ホームページ「に「国東半島庚申塔造立年表(年号別造立数)」が出ています。これと大和市の場合を比較してみました。
グラフは累積造塔数推移をパーセント表示したものですが、実に良く似ています。
両地域とも、庚申塔の造塔が本格化した寛文年間から享保年間までの70年程の間に、全造塔数の50%を越える塔が造られています。そして、その後江戸末期までの130年間に残りの50%弱が造られています。その間の推移(増加状況)もよく似ています。1,000km以上離れた九州の国東半島と関東の大和市で、このように良く似た状況が見られると云うことは、庚申信仰の盛衰が全国的に良く似たパターンであったであろうことを推測させます。その裏には、寛文年間から享保年間にかけて庚申信仰を布教した人々の精力的な活動があったものと思われます。 
また上記ホームページでは次のように述べています。
庚申塔出現の前期(元和〜延宝:1615〜1680)においては、 西国東地区を中心に「文字塔」が多く、『現世安穏』『二世安楽』を願うものが多い。また、『又見仏子 経行林中 未嘗睡眠 勤求仏道』(法華経序品)など、法華経の偈文を刻んだものが数例あり、初期の庚申信仰の普及に際して、六郷満山の天台僧が関与しただろうことが想像できる。半島内最古のものは、寛永元年(1624)の「文字塔」で、有名な熊野磨崖仏に近い豊後高田市平野に残されている。
 その後、元禄から宝永、正徳を経て享保にかけての半世紀は、国東半島における庚申塔造立の最盛期で、同時に「青面金剛刻像塔」の全盛期となった。この時期には表現様式も実に多様化し、変化に富んだ作例が多く残された。当時の人々の信仰心と、エネルギーの強さを感じ取ることができる。
大和市内の庚申塔は最古のもの(寛文七年(1667))から像が刻まれており文字塔は後世まで見られません。国東半島より40年ほど遅れて出現したため、既に像を刻んだものが主流になっていたものと考えられます。

自然石の塔が少ないのはなぜ?

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庚申塔47
大和市の石造物では自然石に彫られたものは、庚申塔47,49など数点を除けば殆どありません。例えば、「栃木県の石仏巡り記」を見ると、自然石に彫られた塔が多々見られます。大和市には大きな川がなく、塔に適した丸みを帯びた楕円形の石が少なかったからでしょうか。あるいは七沢(ならさわ)石と云う加工しやすい石が容易に入手できたからでしょうか?
 大分県などには磨崖仏が沢山あるようですが市内にはありません。市内は関東ローム層に覆われ、磨崖仏を彫るのに適した崖などが無いので仕方ないでしょう。

市内の道祖神には「性」に結びつくものが無いのはなぜ?

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双体道祖神
各地の道祖神には「性」をイメージしたものが見られます。道祖神のことを「セエノカミ、サイノカミ」とも呼ぶようですが、「セエノカミ、サイノカミ」は「セイノカミ」を意味するようです。例えば、ずばり男性や女性のシンボルを表したもの(性神のおわす風景)があります。
しかし市内には、ずばり「性」をイメージした道祖神はありません。わずかに男性と女性が並んだ双体道祖神があるだけです。それも肩を抱いたり手を握るわけでもなく、ただ並んでいるだけです。民俗信仰の中に性に関する表現を忌避するような教えでもあったのでしょうか。(そんなことがあったとは思えませんが・・・。)
丸石は女性のシンボルを表すと云う説があります。それに従えば、上和田にある道祖神29は祠の中に丸石が納められています。婉曲的な表現ながら「性」に結びつく道祖神かもしれません。
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