冬の日
冬の夕暮れ。深深と冷えていき、あたりも薄暗くなっていきます。そんな時にこけるととても痛いのです。すりむき傷と打撲のじんじんする痛みで全身震えるかと思いつつ、
慎太郎はとっさに周りを見回します。
「だっせえっ。」
と、自分に舌打ちをしつつ、自転車を起こします。
「おっかしいなあ、なんか光ったと思ったのに。」
交通量はさほど多くないけど、見通しの悪い交差点。サッカーの練習後、監督の説教が思いのほか長くていつもよりちょっと遅くなりました。終わりのあいさつを済ませた瞬
間、チームメイトは皆全速力で家に向かいました。一つ前の分かれ道で友人と声だけで別れを告げ(お互い相手を見るゆとりもないほどお腹が空いていたものですから)なお
スピードアップして交差点に差し掛かったのです。いつも足ブレーキで一時停止をするちょっと手前で突然光が目に入り、タイミングがずれました。交差点の角の歩道との段
差にひっかかり自転車ごと交差点に突っ込むところを、力技で体勢を立て直したその拍子に勢いあまって自転車が軸足に向かって倒れこんできたのです。おまけに前籠に入れ
ていたステンレスの水筒までが飛び出してきました。
「今度壊したら、妹のピンクの水筒を借りて行きなさいっ。」
母さんの怒った声が頭の中に響き渡ります。とっさに手を出して水筒をつかんだとたん、支えを失った自転車もろともひっくり返ってしまいました。
水筒を守るため、名誉の負傷をした右手の甲をなめつつもう一度辺りを見回します。誰もいないと確認した後、ゆっくりと自転車に乗ろうとすると、後ろから急に声をかけら
れました。
「元気がいいね。大丈夫かい。」
目の前に異様な姿の男の人が立っていました。薄暗く表情はよくわからないのですが、背が高く髪はゆっくりとウエーブがかかって肩にかかっています。真っ黒な服は風にあ
おられ旗のように翻っています。やばいっ、なんか変な人そう。とっさに自転車に飛び乗り、別の道に向かいます。曲がり角でおそるおそる振り向くと、・・・もういません
。なにか気配がすると思えば野良猫がにゃあとあくびをしているようです。首をかしげながら自転車をこぎ、家路を急ぎました。
「下手くそ。」
先ほどの男の人の足元で黒猫があきれたようにため息をつきました。
「返事もしてくれないなんてねぇ。こわかったのかな。ぼくは子供好きなんだけどな。」
のほほんとつぶやく男に追い討ちをかけるように黒猫が返します。
「あちらはお嫌いのようだな。」
ため息をついて、男は袖に手をいれなにやら探しています。
「ぼくは変身術は苦手なんだよ。しかたない、これをつかうかな。」
ゴムボールのようなものを取り出しました。両手でゆっくりともみ始めます。男の手の中でゆっくりとそれは膨らみ始めました。
「ただいまあっ。」
ドアを開けると暖かい空気が体を包みます。関節の一つ一つが弛緩してみしみし音を立てるようです。
「おかえりっ、あっ、お兄ちゃんまた怪我してるよ。おかあさあんっ。」
ちっ、あの言いつけ魔。知らぬ振りをして風呂場に駆け込みます。
「砂は玄関で叩きなさいよっ。」
あ、しまった。まあ、しょうがないってことで。と聞こえない振りをしてシャワーを浴びます。あったけえっ。がしがしと頭をこすると砂がじゃりじゃり落ちてきます。げげ
っ。
「お前が歩いた後は砂だらけねぇっ。」
脱衣場でかあさんが小言を言いつつ、箒で砂をはいているようです。ううっ、しまった、叩いてないのばればれだあ。
「怪我は大丈夫なの。」
「たいしたことないよ。あとで見せるよ。」
さっきの擦り傷はものすごくしみるけど血はもう止まっています。あの時じんじんした太ももとひざの下があざになっています。でも、泣き言を言うと、そんな乱暴なサッカ
ーなんてやめてしまいなさいと言われるとわかっているので、ぐっと飲み込みました。
こっそりとリビングに入っていくとハンバーグのいいにおい。
「やったあっ。」
「片づけが先よ。」
もちろん、幸せな『いただきます。』のためにっ。とちゃっちゃと荷物を片付け、テーブルにつきます。そして、打ち身もさっきの男のこともけろりと忘れて、もくもくとす
きっ腹にハンバーグを詰め込む作業に没頭しました。
家中が寝静まった深夜、慎太郎も幸せに夢の中です。その布団の真横の壁がゆっくりとゆがんでいきます。そして小さな丸いボール状のものがころりと転がりでたかと思うと
、少しずつ少しずつ大きくなっていきます。直径が慎太郎の背ほどにもなったかと思うと花が開くようにぱっくりと広がり、掛布団を蹴脱いだ慎太郎をすっぽりと包み込みま
した。そしてまた、きゅうっと小さく縮んでそのまま壁の中にころりと戻ってしまいました。
夢の中の慎太郎はふやよん、ふやよんと体が浮いている不安定な自分に気づきます。なんだこりゃ、うっすら目を開けて見回すと周りは明るいベージュ色に包まれています。
パジャマのまま体勢を立て直そうと体をよじりますが、まるで水の中にいるように落ち着きません。どうにかして、どこかに足をつけようと思いっきり体を伸ばした瞬間、ば
ちんと空間がはじけました。尻餅をつくのを覚悟して身をこわばらせます。
「たいした反射だな。」
目の前に立っていたのは、あの怪しい男でした。あたりは暑い夏の日がさし、蝉の声が聞こえます。佇んでいるだけで全身からじわっと汗が噴いてくる気がします。
『・・・俺って結構気にしてたんだあ、繊細ってやつ?夢にまで見るなんてなあ。』と、慎太郎はじっと男を見つめます。傍らにいたネコがしゃべりだしました。
「夢で済ますつもりらしいぞ。都合がいいな。見かけより賢いようだ。」
ネコがしゃべるってとこがまた正しい夢なんだけど、なんかこいつむかつく。ネコをにらみつける慎太郎に男は苦笑しつつ話しかけます。
「夢と思っててくれて構わないんだけどね。まあ、説明を聞いてもらっていいかな。」
慎太郎の返事を待たずに男は話し出しました。
「この世界には季節が無くってね、で、まあそれでも構わないと思うんだけど、女王陛下は季節の移り変わりをご所望なんだ。それで毎度季節の変わり目には元気な子供の力
を借りてるんだけど・・・。この夏。すごいだろう。たまたますごいパワーをもった子だったみたいでね、なかなか変わってくれないんだよ。それで本当なら手伝ってもらわ
ないようにしてるんだけど分別のついた年頃の子にもご協力願いたいと思ったんだ。いかがかな、ご協力いただけるかな。」
慎太郎は考えました。どうせ夢です、どうなるわけでもないでしょう。でも、もしも・・・もしも、ということもあります。
「それって、サッカーに支障が出たりしない。俺今週末試合なんだよ。それも六年最後の公式試合で決勝なんだよ。」
男と猫は顔を見合わせます。
「さすがだね。」
「次からは顔で選ぶのはやめるんだな。」
「僕は元気がよさそうって事で選んだんだよ。ほら、機嫌を損ねちゃった。」
仏頂面の慎太郎の前にネコがついと進み出ます。
「なら、その『試合』の後ならどうだ。」
ちょっと首をかしげた後、ネコにたずねます。
「やっぱりなんか支障がでんの?」
「まあ、一週間くらい風邪にかかる程度と思ってくれたらいいよ。」
「そこまでのことして、俺になんにもメリットは無いわけ?」
「これだ。」
ネコが男を見上げると、男は腕を組み、空を見上げます。数秒後にっこり笑ってこう答えました。
「何かと限定されたら困るけど、ラッキーをあげるよ。」
にやりと笑う慎太郎の顔を見て、ネコがあきれたようにつぶやきました。
「商談成立だな。」
週末、見事に決勝ゴールを決めた慎太郎は、そのままゴールに激突して左足を捻挫してしまいました。バレンタインデーが近かったこともあり、お見舞い代わりの義理チョコ
とはいえ、生まれて初めてチョコレートをたくさんもらいました。
夢のことはもちろん覚えてはいません。でも、誰からもらったかは覚えていないのですが、チョコレートと一緒に燃えるようなきれいな赤い石をもらったということです。そ
してその半透明な石をのぞくと時折マントの端や、黒猫が見える気がするのでした。