【episode 15】 迎撃せよ
第一日目 2002/04/08 19:00
1
壁にかかった時計が、その古びた容貌にはおよそ似つかわしくない、澄んだ音色の鐘を七つ、響かせた。
それで、高見広秋(たかみ・ひろあき/男子8番)と
五百扇慎一(いおぎ・しんいち/男子2番)は、
時刻が七時をまわったことを知った。
わずかに捻じ曲がった秒針は、鐘の音に動じる様子も見せず、淡々と時を刻み続ける。
今までにも、五時と六時の二回の機会があったはずなのだけれども、鐘の音を聞いたのは、これが初めてだった。
壁掛け時計の盤面を斜めにはしるヒビの向こうで、振り子はいかにも気紛れそうに、
間延びしたテンポで往復している。
灰色の埃が厚く積もっている有様から察するに、相当な年月をその壁で過ごしたのだろう。
少々とぼけているのも無理はない。
盤面のヒビ、秒針のねじれなど満身創痍のいでたちからして、落下、
もしくは硬い物体の突撃を受けるという憂き目にあったらしいことも想像に難くない。
腕時計のデジタル画面と比較してみたところ、時刻は一秒の狂いも無かったが
(高見の腕時計そのものが狂っている可能性はほとんど無いと言っていい。
なぜなら、中学生が所持するにはいささか大仰な感のあるそれは、
滅多なことで狂ったり壊れたりしないので有名な、とあるブランドの品物だからだ)――、
もしかしたら、鐘の鳴る仕掛けのどこかが、壊れてしまっているのかもしれない。
壁に背を預け、座った姿勢で高見は少し顔をあげた。
この二時間、ほとんど何もしていなかったにもかかわらず、ひどく体がだるい。
普段であればとうに夕飯にありついている頃で、
何も口にしていない今、空虚な胃が苦悶の叫びをあげても不思議はないというのに、
一向にその気配は無い。
空腹、なんていう感覚を、どこかに置き忘れてきてしまったみたいだった。
ただ、喉だけが、やたらに渇く。水分を失った舌が口腔内で縮こまり、ちりちりと痛んだ。
六時の定時放送に偽りがないならば、
出発地点の境内で見た佐久間徹(さくま・とおる/男子5番)、
津田まどか(つだ・まどか/女子8番)に加えて、
二名のクラスメイトが命を落としたことになる。
二十四名の少人数クラスにおいて、この二名を多いと取るか少ないと見るかは判断の微妙なところだったが、
高見にとっては、人数の多寡を問わず死者が加算されたことの方が、
重要な事実だった。
誰かが死んだということは、すなわち、誰かが殺したということで――、高見にはそれが我慢ならなかった。
殺し合いに身を投じる者のいること、そして、
それを制止する具体的な妙案を編み出せずにいる自分自身の脳味噌の不甲斐なさに、
苛立ちを隠すことができないのだ。
「ちくしょう!」
よく回らない舌で無理矢理作成したかすれた声を、
吐き捨てる(舌打ちもしたかったが、乾いた舌はすっかり痺れきっていて、
頭脳からの命令を怠惰に聞き逃すばかりだった)。
高見の脇でしきりにデイパックを覗き込んでいた慎一が、びっくりしたように顔をあげた。
あまりに勢いのよかったために、慎一の顔面上でメガネが一度、ぴょこんと踊り、長い前髪を跳ね上げた。
――どうして簡単に殺しあうんだよ!
乾ききった唇や舌は調音器官の用を成さず、言葉は声にはならなかった。
かわりに固めた拳を強く床へと打ちつける。鈍い音が、腹に響く。
本部の急襲で敗北を喫して以降、代替案は一つも思い浮かばない。
「とても快適とは言えない島で、ずっと神経を張り詰めてるんだから、
疲れない方がどうかしてる。疲れてるんだよ、高見君は。
疲れた頭じゃ、プログラムを止める方法なんて思いつかないのも仕方ないんじゃないかな」
まるきり高見の脳内を覗き込んで、思考を読み取ったみたいに慎一が言った。慎一は、笑っていた。
口元は緩やかに曲がり、ほんの少し開いている。
それから慎一は、右手の拳を高見の眼前に突き出した。
高見の眉が、訝しげに額の中央に寄せられる。
高見の眉間に刻まれた深い縦皺が、不機嫌そうにびくりと動いた。
慎一の言わんとすることが、高見にはさっぱり理解できなかった。
慎一が悪いわけではない。
なのに、体の内側にじわじわと充満していく奇妙な苛々が、口を開けば零れだしそうになる。
慎一の言うとおり、疲れているのだろうか。
高見の思考回路はすっかり寸断されているらしく、両目はただ、慎一の拳を呆然と
見つめる以外の仕事をこなさない。
瞳に映っているのは間違いなく慎一の拳そのものなのだけれども、
それの意味するところが、何一つ言語の体裁を成そうとはせず、
漠然とした不快感だけが高見の脳内を侵食していく。
にわかに拳が緩んだ。
勢いよく開かれたそこには、色とりどりの包装紙にくるまれた、こぶりの飴玉が六つ、寄り添って転がっていた。
赤、黄緑、青、ピンク、――鮮やかな色合いが、薄暗い室内をほんの少し明るくする。
「一つ、どう?」
言いながら慎一は、赤色をした飴玉を一つつまみ、手早く包み紙を剥き取ると、自分の口に放り込んだ。
左右の頬が、交互に飴玉の形に膨れる。飴玉を口に含んだまま、慎一は続けた。
「パンが喉を通らないなら、飴玉でも食べなよ。
糖分を取れば、頭も少しははっきりするよ。
というか、たとえパンが食べられたとしたって、糖分は大切だから、
いくつかデイパックに入れておくといいよ」
無意識に差し出した高見の両手に、残りの飴玉が次々と転がされる。
高見の掌の中で、それらはまるで命あるもののように、撥ねた。
包装紙の擦れあうかすかな音が、高見の心に何度も囁く。食べて。食べて。
きっとおいしいから。きっと心が落ち着くから。食べて。――それはたぶん、慎一の思い。
掌の片隅に、慎一と同じ赤の飴玉が一つあるのを見つけた。
包装紙を剥ぎ、放り込んだ飴玉が唇に触れた瞬間、甘酸っぱい安らぎが鼻腔を抜けるのを感じた。
乾ききっていた口内は、いつのまにか唾液が充分な湿り気を与えていて、飴玉の突入を歓迎した。
舌の上で早くも溶解を始める一塊の、穏やかな甘みが全身をほぐしてゆく。
ほのかにいちごの香りを含んだ、ささやかな甘みによって、両肩からは余分な力はすっかり抜け、
脳内を占拠していた苛立ちは嘘のようになりを潜める。
もちろん、摂取した糖分が一瞬で全身に行き渡ったわけではない。
完全に養分となり高見の活動力の源となるには、まだ幾ばくかの時間を要するだろう。
高見を癒したのは、甘みそのものを含めた、慎一の心遣いの功績が大きかった。
改めて高見は慎一に感謝した。慎一がこうして気を回してくれなければ、永久に冷静さを欠いたまま、
プログラムに取り込まれてしまっていたかもしれない。
また、同時に、改めて、慎一を含めたすべてのクラスメイトをプログラムから救わねばならないと、強く思った。
飴玉の威力で具体的な方法が脳裏に閃いた、なんていうわけではないけれど、頭を捻るだけの時間はまだ、
あるはずだ。
「ありがとう」
飴玉はすっかり形を失い、ただほんのりと、甘い空気だけが口腔内に取り残されていた。
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