虎姫観音由来
前橋城の西、利根川の流れが城につきあたったところ旧競輪場あたりをお虎が渕とよんでいた。
酒井氏の頃とおもわれる。城内にお虎というそれは美しいおなごがいた。赤城さんろくの農家の娘だった。殿様の鷹狩りの際みそめられて城に召された。殿様はたいへん気に入って身近において世話をさせた。こうなると奥女中は嫉妬してとんでもない悪だくみをかんがえた。殿様のご飯椀の中に針を忍ばせた。給仕役のお虎はそのお膳を殿様の前に・・・・・・・
こうしてお虎は身に覚えのない罪をきせられ蛇やムカデをつめた木箱に入れられ利根川の渕に沈められた。
その後毎年秋には利根川は洪水になり本丸まで川底にしずんでしまった。人々はお虎の怨念にちがいないと、お虎の霊をお虎稲荷大明神として祭った。
お堂の中には150cmほどの愛らしい観音様と水の神である弁財天を右には幾重にもとぐろをまいたヘビがまつられている。 ぼけ封じのご利益もある。
虎姫観音堂と福田源四郎氏
前橋公園幸の池を見おろす県庁裏の利根川のがけ下に、高さ15メートルもある奇妙なお堂が出来あがった。 そばを通る人たちは場所がら似つかわしくないこのお堂見て[なんだこれはと立ち止まっている] これはいまから290年ほど前に、幸の行け付近に沈められたという,お虎が淵の伝説の悲劇の 主人公お虎の悲しい運命を供養してやろうと一老人の悲願がみのって立てられた虎姫観音。 前橋市表町二丁目、会社会長福田源四郎さん82歳は今月中に虎姫観音の開眼式を迎えるまでにこぎつけ [やっと肩の荷がおりた。これで前橋も救われます] 福田さんはお虎が淵の伝説を知った。信仰家だった福田さんはたびたび大火に会うのはお虎のたたりだ。 慰霊観音をたて供養してやなれば[前橋はうかばれない。]と虎姫観音を立てる事を思い立った。 それ以来60年間福田さんはお虎にとりつかれちように、お虎ケ淵の伝説を調べた。 お虎は延宝六年10月13日厩橋城主酒井雅楽頭が赤城山にまき狩りをしたさい。 給仕にでたのが縁で、一目ぼれした城主に腰元にさせられ、特にかわいがられた。 ある時お虎をねだんだ他の腰元が、城主の召し上がる御飯の中に針を入れた。 これを知らずにお虎が城主にさしだしたため、お虎は無実の罪をきせられ、へび責めの極刑で、 いまの幸の池に当たる利根川の深瀬に沈められ、[城を取りつぶして七代の城主にたたる]といって 死んだという。このため県庁裏のがけは大水のたびにけずり取られているとともいわれている。 福田さんはもしこれが事実ならこんに無残な事はない。 お虎の霊をなぐさめて世を救わなければ成らないと、じっとしていられず巳年の昭和40年一月 虎姫観音堂建設委員会を発足させ。商売上の関係者など約1500人に呼びかけ建設費約80万円を集めた。 観音様の彫刻は東京の彫刻家に依頼し、お堂の設計は市都市計画化の大島昭技手にたのんだ。 翌41年福田さんはお堂の建設費として百万円を市観光課に寄付をし、幸の池付近に建ててほしいと依頼した。 同じころ、158センチの観音像と高さ80センチの弁財天、同50センチのへび姫石像が完成した。 福田さんは観音像を自宅の一室に安置しお堂の出来るまでの間供養を続けて待った。 一年たった昨年11月、市でもお堂の建設費として50万円を負担し、 このほど銅板ぶき屋根のついた鉄筋コンクリート造りの六角堂が出来上がった。 福田さんは{今後の前橋公園の名物にして交通安全の祈願に利用してほしい}といっている。昭和43年4月11日新聞記事より
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故 とら姫供養 昭和39年 晴秋 前橋市市民代表 福田源四郎 号 赤麓 供養塔所在地 前橋市一毛町 宗念山 教徳寺 |
霊魂結婚式挙 1 新郎熊本藩士の遺児 太市殿 当 23年 1 新婦 富士見村時沢 庄坐左右衛門殿 久子殿長女 虎姫殿 当 17年 上記 新郎新婦は両親が許婚として延六年秋正式結婚挙式準備中のところ 厩橋城主酒井雅楽守の腰元として入城を余儀なくせしめられ 両人結婚挙式も出来ず入城後虎姫はじめ一家四名無実の罪により 恨みをのんで城中に於いて虎殺されたるを以っ本日太市殿虎姫殿の 霊魂を慰め申されんと致す次第であります 前橋市田中町46 虎姫観音堂発願発起人 大講義城導一心神鏡女行司 施主 福田源四郎 80歳 昭和40年3月25日 発起人代表 前橋市堀川町67 湯山 作治 80歳 勢多郡富士見村時沢 安楽寺 住職 大沢真祐 (記録書より) |

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お堂内 |
虎姫観音のお顔 |
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弁財天 |
へび姫 |