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大阪万博公式記録映画

オールドキャメラマンの回想

 

 1970年に開催された日本万国博(通称大阪万博と呼び親しまれていますので、これから大阪万博と記述します)は、インターネットのHPやブログの中で数多く見受けられるように、今も根強い人気を保ち続けています。その中で、公式記録映画の、特に製作者側から見た記録なり思い出話はありません。この情報発信がたやすく出来る時代に、これはさびし過ぎます。もちろん、この映画製作に携わったスタッフの一員として、これまで何度かホームページを立ち上げて、まとめてみたいと考えたことがあります。ただ、HP作成のわずらわしさや、その思い出話が止め処もなくなりそうで尻込みをしていたのです。ですがここに来て、再びその気を起こしたのは、世界の先進国の仲間入りを願って、国を挙げて取り組んだ一大イベント万国博、その公式記録映画製作の裏話は、やはりぜひ知ってもらいたい、ただそれだけのためでした。もちろん、おそらくこのままでは記録映画製作についてのいきさつは埋もれてしまう、そう考える、先行き短い年寄りの焦りもありました。 と同時に、このHPを通じて、この記録映画製作のために、それぞれの持ち場で力を尽くしたスタッフへの思いもありました。なおこのHPは、特別に構成を 考えて作成したものではなく、多分に、気の向くままに書いてありますのでご容赦ください。

 さて大阪万博は、1970年(昭和45年)3月15日から9月13日の183日間にわ たって、大阪市千里 丘陵を会場として開催されました。この、世紀の一大イベントを記録し後世に残すために、社団法人 日本万国博覧会協会は、ニュース映画製作者連盟に委託して公式記録映画の製作を企画したのです。協会は、日本初めての万国博を記録に残すと共に、これを一般に公開して、万博を見ることの出来なかった人たちにも、広く見てもらいたいと思い立ったのです。まだ映画全盛の時代でした。この製作を請け負ったニュース映画製作者連盟は、当時ニュース映画を製作していた、新聞社系報道、記録映画のプロダクション7社で構成する団体で、讀賣映画社、毎日映画社、理研映画社、中日映画社、朝日テレビニュース社、日本映画新社、スポーツニュース社7社が所属していました。この団体は万博以前にも、同じ国家的イベントだった「東京オリンピック」の製作を担当したことで知られています。またこれ以降も「札幌オリンピック」、「沖縄海洋博」の製作に当った、当時の優れた記録映画製作集団でした。

 ここで一応、その公式記録映画の仕様を説明しておきましょう。最初に、国内向けの一般公開用として製作されたのが「日本万国博」で、

   企画     社団法人 日本万国博覧会協会

   製作     社団法人 ニュース映画製作者連盟

   仕様     35oフジカラー・シネマスコープ (16巻)4.735b

   上映時間   2時間52分37秒 

   完成年月日  1971年3月15日

 となっています。この「日本万国博」が完成した後、この作品の英語版、フランス語版、それにスペイン語版 が作られました。この他に、日本万国博に参加した国々へプレゼントするたに再編集し、上映時間を短縮した英語、スペイン語版、各1時間39分の作品があります。また保存用として、テーマごとに製作された、たとえば「「お祭り広場催し物編」とか「中南米編」「美術編」のような、一般には公開されていない作品14編もあります。こうして最終的に作られた映画は、全部で20種類にも上りました。

 さてぼつぼつ映画製作の話に入りましょう。私が、この映画製作にキャメラマンとして参加したのは、今となっては日時が定かではありませんが、万博開幕の半年前ごろだったと記憶しています。当時読売映画社九州支局勤務だった私は、本社製作部長からの電話で、万博記録映画制作本部への出向を命じられました。五反田の東洋現像所(現イマジカ)の別館二階にあった、ニュース映画製作者連盟の事務所です。この時点での関係者といえば、ニュー映連の会長でもあった田口助太郎総プロデューサだけ。監督も脚本家も、誰もまだ正式には決まってなく、全てこれからだという時点だったのです。ニュー映連の関係各社は、製作部長クラスで公式記録映画製委員会なる受け皿を立ち上げて、総プロデューサからのスタッフ派遣要請を待ち受けていました。各社とも、本来の劇場用の週一ニュース映画の製作、テレビ局向けの、デーリーのテレビニュース製作、そのほかに記録映画や、国や自治体、そして企業のPR映画製作などの本来の業務もあり、早く必要スタッフと機材の情報を欲しがっていたのです。そうした中での監督の決定遅延は、いろいろな方面の計画が狂ってきます。開場が近づくに連れて、すでに現地に入った協会広報からは、一応記録に残して置いて欲しい行事などの撮影要請が出始めていました。このため急遽わたしが大阪に行くことを命じられました。まだスタッフ、機材の動員計画も出来上がってない状態でしたが、協会広報との当座の取材対応や、現地の状況も早く欲しいという総プロデューサの意向で、もやもやとしたものが残った状態で大阪に向かいました。

 こうして、大阪に入ることになったのは、博覧会の始まる4、5ヶ月前だったと思います。千里丘陵の会場近くに万博ビルが出来上がり、その一室に記録映画製作本部現地事務所が入り、私のほかにアシスタントキャメラマン、事務関係では、事務局長と新しく雇った二人の事務職員が詰めることになりました。これで、しばらくの間は、協会広報からの注文の対応に当ることが出来る場所と組織が出来上がりました。その後、総監督が谷口千吉さんに決まり、事務局に着任したのです。

 もちろん私が大阪に行き、総監督に谷口さんが決まるまでには、いろいろな動きがあったようです。つまり、初め監督を内田吐夢さんにお願いしましたが、固辞されたという事件?もありました。なぜ内田吐夢さんだったのかというのは、残念ながら聞き漏らしました。こういった記録映画の監督に劇映画の監督を起用するというのは、東京オリンピックの市川 昆さんに前例があります。ある程度著名な監督を起用して欲しいという協会側からの希望と、映画を配給する東宝の方から、一般上映するのだから、そのためには観客動員が見込まれる、知名度の高い映画監督にして欲しいという要請があり、市川 昆さんが総監督に決まったいきさつがあります。このとき、市川総監督では、スポーツの演出に未知数な物があり、また、あまりにも個性的過ぎることが問題視されていました。前者の問題点のためには、連盟は、各社のスポーツ、ドキュメンタリに精通した演出陣を監督部として送り込み、総監督の、経験したことがないスポーツ取材分野の相談補助、さらに、競技現場の直接取材に当たらせました。これは、このような多種競技の取材現場では当たり前の組織でした。総監督は、この東京オリンピックをどのように捉え、どのように描いて行くかの大所高所に立った視点が必要です。それを全スタッフに徹底させ、撮影現場はその意を受けて取材し、後は編集仕上げの段階で、総監督は自分の考えを映画に反映させればいいのです。それはそれでよかったのですが、市川総監督の見識が逆目に出てしまいます。オリンピック取材中に、その恐れを感じ取っていた監督部は、昆さんの意図を満たすと共に、オーソドックスな編集にも耐えられるような画面を用意していたのです。抽象的な言い方になってきましたが、この件について触れるのが本意ではありませんので割愛します。しかしこのことは、次の事件にも関係してくる のです。

 問題は後者です。この件では映画完成後に、当時新聞を賑わせた河野オリンピック担当大臣との軋轢があります。が、この問題も長くなりますので割愛します。いずれにしても、個性的な市川総監督とワンマンの田口総プロデューサとの間を、誰が心配して起用したかわかりませんが、二人の間のショックアブソーバとして、同じ劇映画の監督であり、穏健な谷口千吉さんをプロデューサ補佐に任命したのです。この組み合わせは、ある程度うまく機能したようでした。こういった前の苦い経験から、内田吐夢さんに断られた総プロデューサは、急遽谷口さんを、万博の総監督に起用することにしたようです。監督としての力量よりも、協会との調整能力に期待したのかもしれません。そして東京オリンピックでも成功したように、各社の演出陣を、監督部として貼り付けることによって、実際の撮影の現場を受け持たせたのです。取材体制としてはそれでよかったのですが、谷口総監督の起用が、完成した大阪万博公式記録映画の個性を弱めているといっていいかもしれません。

         さてここ で、まずこの記録映画の製作に当たったスタッフを紹介しましょう。

           総プロデューサ  田口助太郎

  プロデューサ補佐 徳永三千男 藤本修一郎 熊田朝男

  総監督      谷口千吉

  監督       山岸達児 亀田利喜男 下坂利春

  監督補      大久保秀洋 豊島輝雄 加藤友久 小倉邦夫

  脚本構成     田口助太郎 伊勢長之助 谷口千吉

  撮影監督     植松永吉

  撮影  諌山雄幸 土屋武彦 丸子幸一郎 宮田公哉 阿藤長冶

     栗林 剛 本間輝久 柏田 勲 竹内輝男 高木宣夫 黒川真澄 橋本実

江口明秀  酒井一満 浅川敬三 田村修一 内藤宏 松田重蓑 大野克己

     長島良人 大山照夫 山本孝 渡辺威 松本道人 池雅之 宮本征治 秋元亮一

     河内豊英 三橋好博 鈴木正

照明   山根秀一 荒井定衡 吉村進 岡本健一 中氏伊三郎 

橋本数一 倉田有造 古川博久 吉村吉雄 藤山弘明 

山野照雄 津田宏治 佐々木政弘 

録音   水野充 甲藤勇  田村禧幸  磯山次雄 川端敏彦

     石川昌夫 由良幸一 本田孜

編集  伊勢長之助 篠塚清 上中春代 田中君江 高島雅子 浜田敬子

記録    扇 瑞枝

渉外  阿部信一 西田宣子 榊紀子 池田美代子

製作進行 滝 質 梶田良次 小林隆哉 谷光 章 長谷川勇吉

藤木源次郎 安木吉信 森直樹  

音楽    間宮芳生

演奏    読売交響楽団

ナレーション 石坂浩二 竹下恵子

録音     東京テレビセンター

現像     東洋現像所  

フィルム   フジカラー

事務局    事務局長 森脇 正

          江前則之 金子竹男 瀬尾あい子 坂東明代 若林成子

公式記録映画製作委員会

        委員長  釜原 武

   土屋太郎 井上雅夫 岸 寛身 藤本修一郎 草壁久四郎 清藤 純

 (以上、ニュー映連の資料から) 

 

常駐スタッフ

      

 開幕が近づくに連れて、スタッフもボツボツ現地製作本部に顔を揃え始めました。ロケハンや先撮りに対応するためです。製作本部も、協会ビル本館の小さな部屋から、会場正面入り口に近い別館に広々とした部屋をあてがわれました。まずやることはロケハンです。この頃になると、各パビリオンともプレスプレビューを行って、新聞、放送などのメディアにパビリオンを紹介します。これに乗じてわれわれスタッフもロケハ ンを行いました。パビリオンの展示コンセト、展示内容やレイアウトなどは、「公式ガイド」などの資料によって大体わかりますが、照明がつけられ、実際に動く状態では、このときでしか見られません。実際に見てみますと玉石混交。十分に練られたコンセプトの元に、きめ細かい展示をしている国があるかと思うと、その国の産物を並べた、お土産品店のようなパビリオンもありました。ですが、その全てが撮影対象です。総監督を中心にした監督部が受け持ちを決め、監督とキャメラマンが組になって詳細を見てまいります。この下りは、あまり一般の人には興味がないでしょうから割愛して、そのときの裏話をしましょう。

 プレスプレビューにしろ招待者向けのプレビューにしろ、招待者には、帰りに記念品が渡されました。今手元に残っている記念品は、日本館が、万国博のシンボルマークをかたどった、五つの円形模様の金銀象嵌のカフスボタン。三洋電機は、真珠の付いた銀の鯉のぼりのネクタイピン、三菱未来館は、パビリオンの形状を打ち込んだメダル、電力館は、七宝のネクタイピン、そしてガスパビリオンは銀の、パビリオンを打ち込んだキーホルダーなどなどです。このほかに、東芝IHI 館は、ソフトボールを一回り大きくしたような、球状のトランジスタラジオ、ある社は、電気剃刀などという、時代を反映した、当時としては画期的な記念品もありましたが、長く使っているうちに、寿命が来たりしてどこかにいってしまいました。

 このロケハンと平行して開幕前の先撮りが行われました。私の担当したのは、開会式当日、天皇陛下が開会を宣言し、高らかにファンファーレが鳴り響く、と同時に祝砲。特設の台上で名誉総裁の皇太子殿下(現在の天皇陛下)がスイッチを入れられると、大天井のくす球 が割れて、紙吹雪と千羽鶴が舞い降りてきます。このシーンの中にワンカットですが、この千羽鶴を折る小学生のクローズアップが出て参ります。この千羽鶴は、大阪市内能勢の小学校(だったと思います)で、寒い二月ごろに撮影したもので、田舎の子と、この近未来的な万博会場との対比に思いをはせながら撮影したものです。当時、小学校も低学年の子供だったと思いますので、あれから35年、その子は今40歳を過ぎているかもしれません。この記録映画を見るたびに、その子、いやその方は、小学校当時の自分に、それも国家的イベントの公式記録映画に、自分がこうして出演していたのかという、めぐり合わせの不可思議さと、1970年に、まさしく自分が生きていて、こんな大事業にかかわっていたのかという、感慨にふけっておられるかもしれません。この取材は、私の思い出深い仕事の一つでした。

 映画を見られた方は、イントロダクションがあってしばらくすると、画面は一転して空撮に切り替わり、その上に赤い、踊るような字で「日本万国博」のタイトルが浮かび上がるのをご存知だろうと思います。キャメラはだんだんと会場に近づき、近未来都市のような万博会場を延々と映していきます。実はこの空撮も私が担当しました。

 空撮は安全上の理由から、会期中は会場内への進入は禁止されていました。それも高度は 300メートルまで、それから下に降りることは出来ません。初めの撮影設計では、なるたけ超低空で、観客のあふれる会場をなめて行くことを考えていましたが、これではまったく当初のイメージと程遠いものしか撮れません。取材というのはえてしてこんなものです。いくら頭の中で自分のイメージを膨らませていても、数々の規制によって涙を呑むことは、報道取材の中では日常茶飯事でした。ただ、私たちの仕事は、出来上がった物が全て、画面の上に、こうこうの理由で自分の意に反したものしか撮れませんでしたとは書けません。それがキャメラマンの辛さであり宿命でもあります。結局、次善の策として、この開幕ぎりぎりの撮影となったわけです。というのも、あまり早く撮影しても、まだ建設途上のパビリオンもあったり、建設の車両が右往左往したりしているようでは様になりません。それに天候もあります。天候がよくても、ヘリコプターの手配があります。こうして撮影された会場の空撮は、私としてはさまざまな妥協の産物でした。それでもおそらく、観客の皆さんは映画の雰囲気に飲まれて、これが観客のいない開会前の空撮であるとはお気づきにならないでしょう。それならそれで構いません。そのことはあまり気にすることではないでしょう。気にしているのは担当のキャメラマンだけです。

 古い写真をパソコンに取り込んでいるときに、すこし退色した万博会場の写真が出てまいりました。夜の万博会場です。あまり真っ黒なHPですので、読むのに嫌気がさされている方も居られると思いますので、目先を変えて、それらの写真を取り入れてみました。これは開場前に、スチール写真で撮ったものです。ロケハンを兼ねて、アシスタントキャメラマンと、数日かけて楽しく撮影しました。

        夜の万博会場               電気通信館

       

       クボタ館                 フランス館

       スイス館             池面に映ったスイス館

        住友童話館                  松下館          

 

 こうしていよいよ開会式となりました。これから後、時系列で撮影日誌を紐解いていったのでは、会期と同じくらい膨大なものになります。それは退屈な話でしょうし、またそれを書くだけの資料も残っていません。もちろん書くことはたくさんありますが。

 ニュース性を持った事件であるシンボルタワーの目玉男もその一つでしょう。これはあまりの奇抜さに、記録映画の中にも挿入しています。開幕前、千里丘陵に雪が降りました。万博会場もうっすらと雪化粧、どころか、かなり降り積もりました。開幕前であまり撮影するものもなく、手を拱いていた撮影スタッフは、それっとばかりに思い思いの場所に飛び出していきました。映画の中に出てくるガーナの子供が、初めて見る雪と戯れている画は、何台かのキャメラによって捉えられていますが、やはりキャメラマンの視点は同じです。が、そのほか、これが記録映画として残されるのはまずいと、お蔵になった事件もあります。あるパビリオンの、従業員ストもその一つです。われわれは、ニュース映画の取材を本来の仕事とする集団ですので、ニュース性のある話題にはすぐ飛びついていきました。記録映画への取捨選択は、最後の段階で、総プロデューサや総監督の考えに任せておけばいいのです。個々のエピソードはたくさんありますが、このHPではとても書ききれません。大まかな話にしましょう。

 万博などの記録映画撮影では、消えていかないものと消えて行くものとの、二種類の撮影対象があります。さし当って消えていかないものとは、パビリオンや展示物などの固定したものであり、消えて行くものとは、さまざまな行事や観客の動きなどの、一過性、流動性のあるものです。正直言って、そこにあって動かないものはいつ撮ってもよく、また撮影もあまり面白いものではありません。ですが、各出展国、出展企業とも、いろいろ知恵を絞ってその展示に力を入れています。何らかの形で、それら全てのパビリオンならびに展示物を紹介しなければなりません。このために、各班が手分けして、受け持ちの国、パビリオンの撮影に当りました。と同時に、消え行くもの、たとえばナショナルデー、スペシャルデーなどの公式行事から、お祭り広場で、毎日毎晩のように繰り広げられるお祭りや踊り、それに時には水上ステージや野外劇場で行われる催し物などなど、撮影対象は数限りなくありました。

 これだけではありません。観客の動向です。日本経済の成長期、今まで日本の中に閉ざされていた市民は、この頃から外に目を向け始めました。手っ取り早い外国旅行、そんな感じで万博に押しかけました。この観客の動向を記録するという事は、とりもなおさず、当時の日本人に、万博が、どのように受け入れられたかというリアクションの表現です。そんな観客の目に、行動に「日本人」を見る思いがしました。そしてそれを表現する現象は、場内いたるところで見受けられました。映画の中で観客の皆さんが、思わず噴出したくなるようなスナップなどの多くは、本来の、ニュース映画、記録映画製作集団であるキャメラマンたちの、確かな目や嗅覚があったからと自負しています。記録映画としては、きわめてオーソドックスなつくりになっている「日本万国博」の、唯一の見所になっているといっていいかもしれません。

 消えていかないものの撮影、つまりパビリオンと出展展示を、もう少し詳しく見ていきましょう。まずパビリオンの撮影です。このHPのメインタイトルのバックに見るように、パビリオンは、近未来的な都市、またはおとぎの国を想像させます。この中に点在するパビリオンをどう撮影するか、キャメラマンにとっては難題であったと同時に、取り組み甲斐のある仕事でした。

 難題はパビリオン外観の撮影でした。最初に見たときは、そのユニークなパビリオンの外観は大いに撮影意欲をそそらせましたが、いざロケハンをしてみますと、これがなかなか大変な代物です。この映画はシネマスコープで撮影されています。専門的になりますが、シネマスコープの画面は、アナモフィックレンズという特殊なレンズを普通のレンズの前や後ろにつけて、フィルム画面の横の比率を圧縮して記録する方式をとっています。フィルムサイズは変わりませんから、映写時には、圧縮された横の部分が広く写るわけです。スタンダードの比率が1:1.33であるのに対して、1:2.35になっています。つまり横長、シネスコサイズです。この画面サイズでパビリオンを撮ろうとすると、何しろ上へ上へと伸びて、偉容を誇示しているパビリオンの撮影は困ったことになります。横はシネスコ画面ですと十二分に対応できますが縦が入りきらない。およそ110bもあるソ連館などはどうも始末に負えな い。それでもソ連館の場合は、割とすそ野が広がっていましたので、ある程度収まりがつきますが、あの樅の木を立てて並べたカナダ・ブリティッシュ・コロンビア館とか、日本専売公社の虹の塔、それに、天平文化のシンボル、七重の塔をそのまま模して建てた古河パビリオンなどは、全くキャメラマン泣かせでした。普通記録映画の中でパビリオンを紹介するときには、まず外観を見せて中に入っていくことが多いのですが、その外観が縦長だと、そのパビリオンだけを捉えることは出来ません。他の周囲のパビリオンまで入ってきて、狙いのパビリオンの印象を弱めてしまいます。それをどうフレーミングするかという事がキャメラマンの腕の見せ所です。

 縦長のパビリオンだけでなく、アメリカ館の横長の建造物も困りました。あれだけの大きな平べったいパビリオンの全景を入れるためには、カメラポジションを、撮影対象から離さなければなりません。ところが、カメラを遠くに持っていけば、つまり撮影用語で言えばキャメラを引けば、上下に、周囲のパビリオンが入りこんできます。どちらも撮影対象としては困ったパビリオンでした。と同時に、この冷戦時代の東西の雄同士の、威信をかけた戦い?は、こんな平和な祭典の中にまで持ち込まれていた気がします。 

 とくに撮影対象として頭を悩ましたのが、わが日本館です。このパビリオンの撮影は私が担当しましたが、下から見ると石油タンクみたいです。絵にならない。絵にならないと言っても撮らないわけにはいきません。空撮で処理することにしました。上から見ると、万博のシンボルマークを象った桜の花びらのようです。事実、そのコンセプトで設計されたパビリオンです。これなら何とかなる。しかし上から見る人はいないわけで、この石油タンク群は、観客にとっても我々キャメラマンにとっても、悪評のパビリオンでした。

 もちろん撮影していて楽しくなるパビリオンも数多くありました。せんい館がその一つです。なだらかな大屋根の上に、赤の、未完の大ドームが乗っかったパビリオンでした。建築家などの芸術家は、大仰なコンセプトを振りかざして設計に当ります。それをわれわれキャメラマンは、面白いか面白くないか、画になるかならないかといった、単純な二者択一的な見方で、まず対象物を見てしまいます。つまり、そのキャメラマンの持っている美意識でアプローチし、やおら、映画の求めるテーマとの関連において、どのような角度からどのように切り取れば表現できるか考えるのです。そのためにも、キャメラマンとしての美学が確立されていなければなりません。もちろんこのパビリオンは、画になりました。

 オー ストラリア館の、北斎の版画、富士山と大波をモチーフにして造られたパビリオンも、撮影意欲をそそ るものでした。そして、住友童話館のメカニカルなパビリオン。みどり館の虹色のドームなどなど、夢のあるパビリオンがいっぱいでした。

 夜間撮影を通じて目に付いた異色のパビリオンはスイス館です。特殊加工を施したアルミニュームで構成されたパビリオンは、精密工業の国と、白銀のアルプスの国を象徴しています。昼間は日の光を受け、夜は 32.000個の電球でまばゆいばかりに輝きます。「調和の中の多様性というスイス館のテーマを表現した建物でした。古河パビリオンと同じく、天平の建築様式をとっている松下館も、 その時、夜間撮影したパビリオンの一つです。5,000平方メートルの池に張り出したこの天平の館は、周囲に1万本の孟宗竹を配して、近未来的な各種パビ リオンの多い中で、かえってひときわ目を引きました。夜になると、障子に模した壁面の窓に灯が入り、優雅な姿を池の面に映して夏には涼を誘い、またアベックの語らいの場所になりました。フランス館は、宇宙を覗く天体望遠鏡のドームを思わせる、半球状のパビリオン4個で構成されていて、夜にるとフラッシュが点滅し、これもロマンチックなムードを漂わせていました。このほかに、夜景がきれいなパビリオンは、電気通信館、クボタ館、住友童話館などでした。

 再びここで、長くなった退屈な話のインターミッションとして、暇なときにスナップした会場の写真を入れておきましょう。

     せんい館      日立グループ館         電力館

    オーストラリア館      みどり館と古川館     住友童話館

   

 ブルガリア館       富士グループパビリオン     英国館

 

 アルバムを整理しているときに、面白い写真を発見しました。お祭り広場で繰り広げられるお祭りの演技やア トラクションの撮影は、私たちが受け持っていましたので、よくロケハン称して行ってみたものです。あるとき、宝塚のヅカガールによる踊りのリハーサルがありました。撮影の予定はなかったのですが、手の空いて連中が大勢見物にいきました。そのときに撮ったスチール写真が出てきたので入れておきましょう。宝塚の何組で、どんなスターが来ていたやらわかりません。おそらくファンの方なら、何組のだれそれさんと、一目で言い当てられることでしょう。彼女らは、今おそらく55歳前後、もしこのHPを見たら、35年前の自分が、物見高い男によって写真に撮られていたことに、驚きを感じることでしょう。懐かしく見ていただけたらと思います。わたしとしてはこの写真が、いいメモリアルになることを念じるばかりです。

 

      リハーサル中のヅカガール         同    

 さて話を戻して展示内容に移しましょう。大阪万博では映像展示が一つの頂点を示しました。前回行われたモントリオール万博で、大型スクリーンやマルチスクリーンによる展示映像が話題を集め、展示映像は近い将来、これら大型マルチスクリーンの時代になるだろうと予測していました。日本の出展企業は早速これに飛びついて、大金をつぎ込んで、全天周映画とか、アストロラマとか、グローバルビジョンとか、オーディトリウムとか、派手な名前を付けて映像を出展したのです。

 ところが、見る人には楽しい、このとてつもなく大きなスクリーンは、わたしたちにとっては厄介者でした。と言うのも、このスクリーンでかすぎて、とてもシネスコ画面でも入りきれません。その上画面が暗い。映画館と同じで、観る分には不自由しませんが、これを撮影しようとすると困る。少々増感してもいい色は出ないし、大きすぎてその規模が出せない。ですが、これがメインの出展ですから、思うとおりに撮れないので止めますというわけにはいきません。担当のキャメラマンは、記録として残さなければならないので、泣く泣く撮影したようです。

 富士グループパビリオンは、当時流行のマルチビジョンと、これにコラボレートした、マンダラと名付けられた大型のスライドで「21世紀へのメッセージ」を伝えている意欲作でした。サントリー館は、オーディトリウムの中で「命の水」というテーマの映画を、マルチスクリーンで見せていました。東芝IHI館は、グローバルビジョンとかいう球形劇場。このほかにも数多くの展示映像があって、いずれが菖蒲か杜若かというほどの狂演?振りでした。この映像展示は、大阪万博の特徴の一つで、優れた作品が多かったのですが、これも記録に残すのは難物でした。画面が暗いために増感現像をしなければなりません。増感現像をするとそれだけ画質が落ちます。その上現像コストもかかります。現像コストの上昇はプロデューサが心配することで、我々は画質が落ちることが気に入りません。しかし画質が悪くなるからといって、展示品が目玉のパビリオンで、それを撮らないわけにはこれまたいきません。増感現像をしたり、駒落としで撮影したりと、これも四苦八苦の撮影だったようです。

 このほかに、われわれがお手上げしたのは鉄鋼館です。なんと音の出展。当時の音響技術の粋を尽くして完成させた大ホールで、当代一流の現代音楽作曲者の作品を響かせていました。映画は、目に見える現象を、フィルムというメディアの上に定着して作業を進める芸術ですから、この音響の出展には困りました。おそらくパビリオンの外観だけの撮影で終わったと思います。

 次に展示物の撮影に移りましょう。展示品は、その展示意図に基づいて照明家が照明設計を立て、展示品に効果的な照明を当てています。この照明はもちろん、記録映画に撮影されるということは計算に入れていません。だから暗いのです。当時の映画用のカラーフィルムの感度はASA64。フイルムは人工光用として作られてあり、室内でライトを使って撮影する場合は、この感度で写るくらいの照明であれば良好な結果が 得られるわけですが、感度を2, 3倍からそれ以上に上げないと展示物が写らないほどの、全体としては暗い照明でした。当然増感すれば粒子は荒れ、担当のキャメラマンは、ラッシュ試写を見 るたびにいやな思いをしたものです。 

 展示品だけの撮影ですと、結果はともかく、増感現像を考えて撮れば何とかなりますが、その展示品に対する観客の反応も同時に入れ込んで撮ろうとすると、展示品にはライトが当たっているが、観客の方にはライトが当たらず写らないという問題がでてきました。こういった場合、展示品の照明効果は無視して、こちらから持ち込んだライトを全体にぶっかけたり、ものが写るように照明をこちらの都合に合わせたりして撮影することになります。色とりどりの効果的な照明で浮かび上がる展示品の多くは、一つの芸術としての存在感がありますが、ライトをぶっかけてしまいますと、それらは単なる物に変わってしまうことがあります。しかし、映像効果を度外視しても残さねばならない。それが記録映画製作の宿命です。例えば、私が関係した太陽の塔の内部に展示されてあった「生命の樹」。それから「世界の仮面」。おもしろいが地の照明だけでは写りません。また観客を入れ込んで欲しいという演出の指示があると、生のライトをぶっかけざるを得ません。ライトを当てるとバックの張りぼてが見えて来るのです。アミーバや仮面を取り付けたバックの構造物が、猥雑に見えて来るのです。そうしなければフィルムに写らないとすればそうするより仕方がありません。美しく撮りたいというカメラマンの本能的な欲求と、事実を 伝えることの大事さとの間の葛藤。常に様々なせめぎ合いの中で、わたしたちは仕事をしているのです。

 こうしたキャメラマンの苦悩の跡を、この記録映画の中に随所に見ることができます。わたしは、これを苦悩とだけ受け止めて、決して苦労とはとりません。わたしは、この仕事に苦労はなく、むしろ楽労と考えています。本来記録映画の撮影というのはハードなもので、肉体的苦労は当たり前のこと、苦労がなければ仕事にならないと言う職業です。ですから、よく苦労話をといわれることがありますが、この質問には困ります。この万博の仕事で、あるのは皆楽しかった思い出ばかりです。

 考えても見てください、こんなキャメラマン冥利に尽きる仕事は滅多にあるものではありません。万博という国家的行事の記録映画の撮影、その上、キャメラマンの弾薬であるフィルムは、半ば無制限だったのです。

 この万博の仕事では、富士フィルムがスポンサーになって、10万bのフィルムを提供してくれました。10万bと言えば、キャメラをぶっ続けに回しても、55時間かかるだけのフィルムの量です。当時イーストマンコダックが、世界の消費映画フィルムの大部分のシェアーを握り、新興である国産のフジは、それに追いつき追い越せと目の色を変えていた時代です。この機会にその存在をアピールしようと、フィルム提供を 買って出たのです。

 必要なだけのフィルムが使えるというのですから、キャメラマンにとってこんなにうまい話はありません。ハンターが、撃ち放題の猟場に、使い放題の弾をもって行くようなものです。普通我々の仕事は実行予算に縛られて、あまり潤沢にフィルムが使えるわけではありませんでした。フィルムの許容量も、仕上がりの3倍から5倍ぐらい。そのためには、いい獲物を、狙いを定めて撃たねばなりません。「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」と、親方日の丸式の猟をしていたのでは、制作費はいくらあっても足りません。まあいずれにしましても、我々は毎日楽しんでキャメラを回していました。ネタは日本で初めての国際博という特別上等の素材、それにフィルムは使い放題と来れば、苦労などあろうはずがありません。

 さてキャメラマンという仕事は、映像に関してすべて責任があります。劇映画のように、コンクリートされた シナリオのない記録映像の撮影現場では(このコンクリートされたシナリのない、という言い方は、たぶんに誤解を招くと思われますが、記録映画脚本論は、相当数のページを使わなければ説明しきれないでしょう。今は誤解を承知の上で記述しています)、演出はキャメラマンに自分の狙いを伝えるだけで、現場ではカメラマンに任せっきりになることが多いのです。いまそこに起こりつつある現象を記録するわけですから、監督にはどうしようもないのです。ある監督は、記録映画の撮影の現場では、監督ほど孤独なものはいない、と嘆いていました。キャメラマン、録音マン、ライトマン、これらクルーは、現場では監督の指示から離れて、それぞれの職責を全うします。まるで勝手気ままに動いているようですが、監督の意図の表現という点で、監督とつながりを持っています。記録映画撮影現場での監督のやることといえば、その場に起きている現象で、自分の意図に沿ったものをキャメラマンに指示して撮影させるか、キャメラマンの視野以外の、関連のある現象をキャメラマンに伝えるか、キャメラマンが働きやすいような作業環境を作ってやることぐらいです。キャメラマンは、決して鵜飼いの鵜のように、監督と紐で結ばれ操られているのではありません。紐があるとすればそれはお互いの信頼と、意志の疎通という目に見えない紐でしょう。キャメラマンは、その場で次から次と起こる現象を、演出の狙いに沿って切り取っていきます。つまりこうしてフィルムの上に定着させたものが、その場では指図されない演 出への回答であり、メッセージなのです。

 さて万博のパビリオン内の撮影は、特に展示物だけの撮影は閉館後になりました。照明機材を搬入するトラックは、閉館後でないと会場内に入れません。その上撮影用のライトを使うのに、館内の電気の許容量の問題もあります。このため夜の11時頃から撮影を始めました。このため、終わるのはたいてい明け方です。大きなパビリオンではそれが何日も続きました。私は「日本館」と「お祭り広場」、それに「太陽の塔のテーマ館」を受け持っていましたが、「日本館」の撮影では3晩かかりました。

 各国展示館は53、その他ECやアメリカやカナダの州、市他、これが9、この他にインターナショナル・プレースが4、これらを規定によりすべて収録しなければなりませんでしたから、最初に組んだ各社7班のキャメラクルーでは足りず、すぐ新たに応援のキャメラ マンを要請して撮影に当たりましたが、これが8月までかかりました。この間にもナショナルデーや、催し物が次々に入りますので、2班はそれに当てておかなければなりません。この間の取材で、一番先に悲鳴を上げたのがライトマンです。夜間撮影のためにカメラ班が3班出るとしますと、少なくとも2,3人から、大掛かりな撮影の時には、それ相応のライトマンが出動しなければなりません。十数名のライトマンは、連夜の徹夜撮影のためにダウン寸前でした。徹夜の仕事ですので昼過ぎに出てきても、もしその時にライトを必要とする仕事が出てくれば、そちらにも出動しなければなりません。まったく休む暇もありませんでした。だから万博の撮影は、ライトマン残酷物語といっていいほどでした。

 撮影現場の照明は、京都の嵯峨映画が担当していました。ここは、関西における唯一の照明専門の会社で、たとえば九州あたりでも、大掛かりな照明を必要とするロケを行うときには、ここに発注していました。急ぐ場合には、5kwとか10kwサンといった、大型の 照明機材をトラックに積んで、徹夜でも走りとおし、時間通りに間に合わせてくれた記憶があります。みんな穏やかな人柄の人たちで、チーフを中心に、陰日向なく働くライトマンたちでした。このように、ライトスタッフとは旧知の間柄でしたので、私にとっては仕事のしやすい環境を作り上げることが出来ました。先日たまたま、インターネット上で、嵯峨映画のHPを見かけ、今なお健在であることを知り、感無量でした。 

 次にあえて大変だったことといえば、暑さとの戦いだったかもしれません。通常、撮影には35oのアリフ レックスキャメラに、400フィートのマガジンと10倍ズームのレンズを装着し、トライポッドに付けてアシスタントキャメラマンが担いで回ります。本当にずしりと肩に食い込む重さです。それだけではありません。予備のフィルムをマガジンに二本ぐらい入れて、その上、さらにスペアフィルムを少し。助手さんのバッグはこれだけでも相当な重さですが、これにキャメラ・メインテナンスの小道具が、バッグにはち切れんばかりに入っています。その上さらにカメラ駆動用のバッテリー。これだけは必需品です。その上ローアングル撮影のためのベビー三脚。コンクリートの上の撮影が多いために、三脚を固定するためのアングル。これだけの機材になると、通常2名のアシスタントキャメラマンが必要ですが、そんな贅沢は許されません。ディレクタ、キャメラマン、アシスタントキャメラマンの三人で分けて持って行くのです。ディレクタが付かない取材の時には二人で持って回ります。もちろん私たちには、手押し車の使用が許されていたの で助かりましたが。

 会場はコンクリートジャングル。照り返しがひどくて暑いこと暑いこと。あまりの暑さに逃げ込むところはたいていパビリオンです。冷房が効いている上に、手の空いているきれいなコンパニオンのお嬢さんたちが、冷たい飲み物をサービスしてくれます。まるでオアシスみたいでした。若い助手さんたちにとっては、それが唯一の楽しみだったかもしれません。

 アシスタントキャメラマンの残酷物語はまだあります。例えば迷子のシーンとか見物客のスナップショットなど、映画の中では、笑いを誘う爽やかなショットになっていますが、これらを拾うためには、くまなく会場を歩き、目を皿のようにして探さなければおいそれと撮れるものではありません。犬棒式に歩き回るか、当たりをつけた場所で、ねばり強く網を張って待つ。取材の鉄則です。いくら暑かろうと何時間粘ろうと、キャメラマンはいいショットさえ撮れれば、それで疲れも吹っ飛びますが、助手さんは大変です。荷物を担がないでいいだけ楽ですが、キャメラマンが何を、何処を狙っているかわからない。ただキャメラマンの素振りに注意を払って、キャメラを構えれば、何処の何を狙っているか察知し、絞りをきめ、時にはキャメラのスウィッチを押す。この真夏の会場のスケッチ、観客のスナップショットを撮影するのは、特にアシスタントキャメラマンにとっては残酷な取材でした。

 もう一つ苦労した職種のスタッフがいます。それは録音マンです。前にもお話ししましたように、多くのキャメラを動員しなければならないイヴェントの記録映画は、特に35oの記録映画撮影は、同時録音の出来るキャメラは使いません。と言うより、厳密にいえば当時、と断っておきましょう。劇映画によく使われたミッチェルやベルハウエルなどの、同録の出来るカメラは高価だし、第一重くて機動性がありませんから初めから除外します。ほとんどが同録の出来ないアリフレックスキャメラでした。こんな、同録の出来ないキャメラで記録映画を撮っていたなんていうのは、今のテレビ界では信じられない話でしょう。どうしても同録画必要な場合は、シンクロナスモータの準備とか、録音機との結線とか、カチンコとか、その他もろもろの煩雑極まりない準備と作業をしなければなりません。今目の前で、次から次に起きている事件、現象を、臨機応変に撮影して行くためには、こんな重い機材の使用、煩雑な手続きは出来ません。しかし映画は音、現実音がなければ臨場感が出ません。切り取られたワンカットの映像の中には必ず音があるはずです。町のシーンで、歩く人の声も自動車の走る音もなかったら、その絵は死んでしまいます。その時、その画面に必要な音は、録音マンが、キャメラと一緒に動いて全て収録し、音付け作業の時に、これら収録したテープから抜き出して、まるで同時録音されたように音付けをしたのです。パビリオンの前で、呼び込みをするコンパニオンの声が、まるで同録で撮ったかのように撮影されていましたが、これも、録音マンのてだれのなせる業です。

 通常録音マンは、スイス製のナグラと言う、オープンリールのテープを使う録音機で仕事をします。これがずしりと重い。当時はカセットテープレコーダにいいものがありませんでしたし、第一あったとしても録音マンは使わなかったでしょう。と言うのも音付け作業の時に、このナグラで取ったオープンリールのテープは、魔法のような役目をしました。これは専門的になりますからあまり詳しくは話しません。その重い録音機に、ピンマイク、ダイナミックマイクそして指向性のマイクの3本、それにオープンリールのテープをしこたま。暑いさなか、その上、頭にレシーバをのっけて、キャメラの側に張り付き、キャメラマンが狙った映像に付けられるような音を全て録音していくのです。それは蛇の道は蛇、キャメラマンの狙う獲物は何か大体察しが付いて、その音を拾うのです。この公式記録映画の中には、こうした、まるで同時録音したかのようなシーンがたくさん出て参ります。そのほとんどは同時録音ではなく、このようにして録音マンが拾った音を、後で貼り付けたものなのです。よく仕上げの音付け作業の時に、キャメラマンもディレクタも予期しない音が出てくることがあります。それは録音マンが密かに収録して、あらかじめつけていた音だったということが多々あります。その音によって、たいした画でもない画が生き生きしてくることもあります。また、せっかく苦労してつけた音が、ナレーションや音楽にかぶって聞き取れない場合もあります。まったく録音マン(私たちは録音さんと呼んでいますが)は、縁の下の力持ちです。映画の中では、映像がメインであり、音声は脇役であることが多いのですが、録音マンはただ黙々と、あの暑い中、汗を拭き拭き、収音に取り組んでいました。この記録映画で、高く評価するのは音声、効果音のすばらしさです。職人芸と言っていいでしょう。ちなみに彼らが回したテープは、7インチテープで500本、実に166時間分です。これも一日8時間ずつ聞いたとしても20日はかかりま す。すべてにおいて桁外れの物量、成果でした。

 さてこれで全てが終わったわけではありません。現場での素材の収集が終わっただけで、この後にまだ編集、音入れ、音楽録り、ナレ録り、仕上げと続きます。

 まず10万bのラッシュフィルを見なければなりません。10万bと言いますと55時間です。毎日8時間ず つラッシュ試写をしたとしても7日間、真っ暗な試写室にこもらなければなりません。好きとはいえこれは難行苦行です。これだけではありません、ある程度まとまったら、編集したものをまた試写してみます。これが、映画が完成するまで何十回と続くのです。見るのも大変ですが、整理編集するのはもっと大変でした。こうして映画が完成したのは翌年の三月。万博終了から半年たっていました。

 映画は総合芸術だとよく言われます。プロデューサから演出、脚本、撮影、録音、照明、音付けダビング関係のスタッフ、それに現像仕上げの関係者、この他にもちろん音楽家、ナレータなど、これらのオールスタッフが、それぞれ持ち寄った技術をすべて傾注して、一つの作品を作り上げます。ロケーションは、いわばまだ素材集めの段階です。その集めた素材は料理しなければなりません。演出またはシナリオライターが作ったレシピに基づいて、演出が自分なりに手を加えながら、スタッフと共に素材集めをしていきます。それが終わりますと料理を始めます。これが編集録音です。その間に最もその料理にふさわしい器も吟味しておきます。盛りつけは、最後のダビングの時、と言っていいでしょう。映画はこのように多くのスタッフの共同作業で出来ています。その映画に携わったすべてのスタッフの、その映画に対する理解力、そしてそれぞれの技術力が、如実に作品の上に現れてきます。ビデオ取 材が多くなった今日では、記録映画でいう録音マンという職種に、いい人材がいなくなっているような気がします。その意味で、35o記録映画の将来はないといっていいでしょう。第一、劇場公開がほとんどなくなったのです。劇場の大画面で見るだけの、いま流行の言葉で言えばコンテンツを持った作品がないからです。もしいい題材を得て、35oの記録映画を作り映画館で公開しようとしても、それを作るだけの、人材も機材も揃わない事態が来ています。事実、映画館で公開された35o記録映画は、この後1972年に制作された「札幌オリンピック」、1975年の「沖縄海洋博」位のものでしょう。映画館における興行が利益を生むような題材でないと、もう観客は映画館まで足を運んでくれません。わざわざそこまで行かなくても、お茶の間で済ませることが出来るメディアが台頭してきたからです。テレビ業界です。フィルムからテープへ。この技術革新による記録媒体の変化が、劇場公開用の記録映画の終焉と、映画用フィルム産業の縮小をもたらしました。こうして「大阪万博」までは何とか持ちこたえていた、フィルムによるニュース映画、記録映画の世界は、それ以後テレビに城を明け渡すことになりました。その上テレビメディアは、記録映画、ドキュメンタリ・フィルムという言葉さえ駆逐してしまったのです。今はただ単にドキュメンタリ、記録映像としか呼んでもらえません。記録映画と言う言葉はもう死語になりつつあります。その意味で、この裏話は、記録映画産業、およびそれらにかかわってきた、多くのドキュメンタリストへの墓碑銘といっていいかもしれません。

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 こうして、私の「大阪万博」は終わりました。この後また九州支局に復帰しましたが、ひと月もせず今度は、二年後に行われた「札幌オリンピック」の、プレオリンピック取材に駆り出されます。プレオリンピックは、正式名称を札幌国際冬季大会といい、オリンピック開催一年前に開催されます。大阪万博の終わる頃、すでに、札幌オリンピック冬季大会公式記録映画の話は、日本オリンピック組織委員会とニュー映連の間ではあっていたようで、田口会長はその話を匂わせていました。その話がどこまで進んでいたか、今となってはわかりませんが、ニュー映連が製作にあたるという了解の元に、そのリハーサルともいうべきプレオリンピックの取材が、急遽決定したものと思われます。こうして、私のカメラ無宿は続きました。「札幌オリンピック」については、あまりHPもなく、ましてや公式記録映画の記述は、これまた皆無といっていいほどです。次回は、この1972年、篠田正浩監督の「札幌オリンピック公式記録映画」について、そしてまた1975年、松山善三監督の「沖縄海洋博公式記録映画」についても、HPにまとめてみたいと思いますが、だんだん記憶も薄れていますので、詳細には記述できないと思います。そのときには、ちょっと大げさですが、私の記録映画脚本論、演出論、撮影論などで、薄れた記憶の空白を部分を水増ししながら、まとめてみたいと思っています、が、いつになることやら、気力と体力の問題でしょう。 (2005/09)

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