直線上に配置


音 な し 草 紙
直線上に配置

 

近き程のこととて、世に粗忽なるおかしき事の由来を申し上げる。詳しく語り伝へけるは、京、西の洞院の河近き辺に住み馴れし人の侍るが、その昔、見初めしより、互に浅からず思ひ、どのような岩の峡、水の底までもと思ひて、年月を過しつゝ、少しの間も旅立つことなき夫が、俄に思はずも遥々と、未知の筑紫への旅に思ひ立ちぬれば、いと心細くも覚ゆるに、又後に残る妻の眺め入りたる様も道理ぞかしと、形見に袖を絞りつゝ、「末の松山浪越ゆべし」とも思はずして、立ち帰るべきほどを遥かに打ち歎きつゝ、「わが行く方は西なるに、都は東の空なれば、月の出で入る山をこそ、戀しき方のしるべには互に眺め侍らめ」と、やつと宥めすかし立ち出づるに、早や如月も半ば過ぎ、弥生も近き程なるに、都の花の梢ども見すてゝ行くは、鴈がねの帰る空には似たれども、それは越路の故郷に、急ぐ心も有明の、我は尽きせず物憂くて、引きかへ辛き旅衣、立ち出で難き心地して、名残りは多く思へども、とゞまるべき道にあらずとて下りけるが、先へはさらに行きやらで、後にのみ心の残りければ、

たつよりも心つくしの旅衣

露けき袖をいつかはらはん

女が返して、

      言の葉の露おきそへていともなほとまる

浮身ぞ濡れはまされる

 女も名残り忍び難く、徒然の寂しさに、旅の空をのみ思ひやりつゝ、眺め暮し侍る折節、程も近くて常に見し人なるが、忍び入り来りて語るには、「思ひの色をかうとだに云ひたくはありしかど、人目の関に洩らしわび、徒らにのみ蘆垣のま近きながら甲斐もなく、明し暮して過ぎの門、さすがに忍びはてずして、名に立つとてもいかゞせん、かゝれる道の惑ひには、品位(しなくらい)にも依らざるにや、数ならぬ身に便りなくも、擬(よそ)ふべきにはあらぬとも、光源氏は本心でもなく、御継母の藤壷に、いとわりなくも如何して、忍び忍びの御わざに、設けの君の御名をば、冷泉院とぞ申しける。それのみならず春の夜の、朧月夜のあやまちに、須磨の浦へぞ流れゆく、浮寝の床の浪枕、思ひ明石のうたゝ寝も、人憎からぬ住居とて、問はず語りの夢をこそ、又も結ばせ給ひけれ。さて在原の中将も、鬼一口の辛き目に、都の中に住みわびて、東の方に旅衣、遥々行きて宇都の山、思ひをいとゞ駿河なる、富士の煙とかこちつゝ、なほ行末は武蔵野の、はてしもあらぬ戀路ゆゑ、身は徒らに業平の、男に今の世の、我も何かは変らまし、幾程あらぬ夢の世に、はかなく思ひ消えぬべき、あはれを知らせ給ひなば、露の情をかけ給へ」と、いと口慣れて言ひ寄れば、人の心の奥も見ず、はや花染の仇にしも、うつろひ易くなりにけん、百夜千束の例より、いとあり難く侍らめ、篠の小笹のかりそめを、人を欺き馴れし人やらんと、思ひもあへずいつの間に、移り果てぬる心ぞと、頼み難なき世なれども、人の心は様々に、一様であらねば変りける。

妻に別れて海に入り、共に自害をするもあり、歎きわびつゝ程もなく、慕い死にする人のあるものを、命までこそあらずとも、などかは同じ世に、変る心の情けなさよ、たゞ何事も一筋に、思ひ定めぬ世の中や、風もまだきに糸すゝき、はや乱れつゝ打靡き、夕暮ごとを松虫の、吹き来る笛を合図にぞ、閨へも入らで元結に、霜置くまでも侍りければ、心安くも今ははや、其の関守もあらばこそ、夜な夜な毎に通ひ来て、長年なれし人よりも、猶睦ましく打ち解けて、思ひ交はせる其の色を、深く包むと思へども、浮名は殊に洩れ易き世の習ひなるに、まして「阿漕の浦に引く網」の、度重なりて人目にも、余るばかりの其の気色を、いかでか人の知らざるべき、いとも愚かなる心にこそ。

今は早や、忍ぶる事もやうやうまけぬれば、色に出でゝぞ辺りの人々は、此の事をのみ囁き合ひけるを、こゝに、さる若き人が聞きつけて、我もいかさま言ひ寄りて見ばやと思ひ侍るが、げに浮船の御方へ匂宮こそ薫の御真似し給ひつゝ、紛れて入らせおはしませと、思ひ出して我も又、彼の男の気色をなむしつゝ、行きて見んとぞ思ひたち、月のしばしば遅き夜の更くるを待ちて彼の家の、軒端ま近く木がくれて、笛吹き鳴らし佇めば、女は夢にも知らずして、早く来なましと、待つ程なれば笛の音を、只其の人と思ひつゝ、姿さだかに見分けもわからず、袖を引きつゝ内に入り、杯肴取り出し、「興ある事のめでたきは、昔も今も変らない、『三百杯も強ちに、辞すな』と詩にも作りける。世の憂き時も侘しきも、酔ひてこそしばし忘らるゝ。殊に酒は不死の薬にて、心を延びるものなれば、空しくする事なかれとは、げにもと覚え侍る」と、いと馴れ顔にもてなして、互に強ひて飲むほどに、後の覚えもあらぬまで、共に酔ひてぞ伏し竹の、夜半もすぐと思う頃に、いつも通ひ馴れたる男が来て、いつもの如く笛を吹き、咳払い声作りつゝ音なへど、戸締りをして寝ければ、如何なる事の有るらんと、覚束なくは思へども、しばしが程は待つ宵の、更けのく鐘の声きくに、昔の人の言の葉も、思ひ知られて徒らに、帰らん事の本意なきに、忍ぶ妻戸も忘れつゝ、叩けど音の聞えぬは、耳無しか怪しやな、いつの間にかは昨日に今日は替る瀬の、飛鳥の川と誓ひつゝ、東路ならぬ此の宿に、今は「勿来曾(なこそ)の関」(来るなという意味)すゆる、人の心ぞいと辛きと、打ち恨みつゝ、

頼みなき人の心を果なくも

後の世かけて何契りけん

と云ひつゝ帰りにけれど、女はここに臥したるを、あの人とも知らずして、「あな煩はし戸叩きけるや、夜はいたくこそ更けぬるに、辺りなる人も如何思ふらん、そ奴こそ、いとよくなん、聞き知りて侍れ」とて、其の男の名を云ひながら、「あの辺りには、生悪戯なる人の、あまた侍る中にも、取り分けて仇めきたる色添ひ、ここかしこの軒に立ちつゝ隠れ居て、行き来の者を招き寄せ、人を弄ずる心ありて、かかる好からぬ業をなし侍る」と、悪くげに語りなしけるを、此の男つくづくと聞きて、「俺が事よ」と思ひぬれば、いとおかしきを念じつゝ、名乗りをしてや行かましと思ひしかども、さすが咎めを憚りて、「木の丸殿にあらばこそ」と独りごちつゝ言葉少なに云ひ紛はして、まだ夜深くも帰りつゝ、実に賢くもなし済しけるよと、いと嬉しさ限りなくて、

思はずも契りし事ぞ忘られぬ

後の情けは知らずながらも

女は、此の人違へたる事は朧気にも知らずして、夜深く叩きけるを安からず思ひて、こゝにさる者の侍るを語らひよせて、有りし夜の様を聞えつゝ、「よし自らをこそ侮らせ給ふとも、辺りへの思ひ憚からで、夢驚かし給ひたる憎さを恨んで賜べ」と言ひければ、「畏まり侍る」とてぞ行きにける。

使も、もとより、此の人違ひの事をば夢にも知らずして、過ぎし夜深く叩きける事を恨み顔に行きて、かの女の言ひし儘に伝えければ、人して云はする程もなく、泊りし主が出で来りて、「実に御咎めはさる事なれども、それは平常親しく通へる人の業なれば、そこへこそ行きて恨んで給はめ、当方は更に知り侍らず、さりながら私も、過ぎにし宵は何と無くやすらひ出でゝ侍るに、招く気色の見えし儘、誰とも知らで立ち寄るに、袖を引かせ給へるは、いと意外に覚ゆれど、さすが嬉しき恋の道なれば、いかでか辞退申すべき、一夜参りて、夜伽を申せし事も違いなし。又、殊に珍らしき、肴数々取り出でゝ、酒の威徳の有ることを、様々語り給ひつゝ、御杯を重ねければ、数をも知らず飲み酔ひて、現も更に無かりしが、かくては人の御為も如何と思ひ憚りては帰りしながら、あの人の事のみ思いしに、今更かかる御使の有るべしとは、少しも思ひよらざりし、ゆるし給はぬ御ことを押しても参りたらばこそ、身の過ちにも侍らめ、田舎におはする殿にも此の故を、たとひ罪には沈むとも、いかさま歎き聞えん」と、論じつゝ云ひければ、いと道理に覚ゆれば、言の葉も無くて、「しかじかの其の故をも知り侍らで、かかる御使を申し、面目を失ひたるこそ口惜しけれ」とて帰りぬ。

  使帰りて彼のもとに云ひし事を、有りの儘包まず語りければ、自分のせいながら、俄に胸の潰れてぞ、我にも有らぬ心地して、物も覚えず今更に、世の人聞きを思ふより、増りて猶も苦しきは、哀れに深く思ひおき、心つくしに住む人も、斯くと聞かれば如何せんと、いと悲しきに打ち添へて、さらには忍び来ていた人も洩り聞かなんも恥かしく、気にくわぬ事なれば、返らぬ事の悔しくて、取り返すものにもがなやと、千度万度思へども、過言一度出でぬれば、駟も舌に及ばず(言葉は慎むべき・論語)、いふ言の葉は今更に前非を悔ゆる甲斐もなし、面目無さは限りなくこそ侍れ、と、「御身を深く初めより、頼み侍る事なれば、露いさゝかも此の事を、人に洩らさせ給ふなと、いとよく口止めしつゝ、数々の引出物を尽してぞ、彼の腹立てし心をもさるべき様に聞えなし、怒りや不満などをやわらげ静めて欲しい」と云ひけるに、かかるべしとは白雲の、跡果敢なき事なるに、由なく女に頼まれて、又は何とか岩橋の、夜の契りも絶えはてゝ、明けてわびしく憂き事の、今有りとてもいかにして、別の事の様には岩波の、云ひくだかんは難くのみ、思ひながらも様々の、引出物あまた賜びけるに、辞み難くて、「聊かも、疎略は更に侍らじ」と、軈て立ちてぞ行きにける。

女は更に現とも夢ともわかぬ心地して、いと浅ましさの余りにぞ、

今朝こそは有らぬ人ともしら露の

むすぶ契りを夢になさばや

いなみ難さのまゝにこそ、如才あらじと聞えつれ、行きては何といふべきと、言葉ぞ更に無かりける。人の頼むに身を捨てゝ、頼まれぬるも事に依る、笑はれ草に成り果てば、我さへ共に名取川、流し果てんも口惜しく、譬へば漢の古に帝尭と申し奉る帝より、許由と云へる賢人の、箕山に住むと聞こし召し、御位を賜ふべしと、御敕諚の有りけるに、其の返事をば申さで、剰へかかる事を聞きて、耳が穢れぬとて、潁川の水にて耳を洗ひしところへ、同じ山に住む隠者も此の川に来り合ひしが、左様に穢れたる耳を洗ひし水をば、牛にはいかで飼ふべきとて、牛を曳きて帰りしとこそ聞け、昔の賢人はかやうに心清かりしぞかし、いかなる我なれば片腹痛き事に頼まれけん、かく穢れぬる心をば、大海にてすゝぐとも、いかでか清からんと、古き例も恥かしく、悔しさ限りなけれども、今更異議に及ばずして、

又、その若い男の所に行きつゝ、「さても不思議なる卒爾をも知らで、申し出づるこそ返すがへすも口惜しく候へば、御詫言に参りて候。よしよし人は知らざれば、とにかく万事呑み込んでこそあらんずれ、哀れ此の事を音なしに深くも頼み侍る」と、俄に引きかへ詫びけるも、男、いと可笑くて、「私を世に徒らなる好き者と宣ひしさへ、御恨みは深く侍るに、ましてや故も無きことをかこち給ふは心得ず、いと珍しかなる事かな」と、論じつゝいひければ、「御道理にては候へども、かゝる過の侍ればこそ、かやうに御詫言をば申し候なれ、実に亦昨日今日までも鎬を削り戦へる敵なれども、降を乞ひぬれば御許しを給ふも習ひぞかし、是れは誠に幼き女心地の果敢なくて、乱れしすきに引かれつゝ、由なき事を聞えしは咎にあれども、さりとては浮節ながら、なよ竹の一夜をこめし御情も、此の世ならざる契りぞと思ぼし召し赦させ給へかし」と打笑ひつゝいひければ、さすが打ほゝゑみて、少し和らぐ言の葉のいと嬉しくて、女、「御僻事は無しとても、聞え顕はし給はんも、いはぬに劣る習ひあり。憎き者とて今更に辛き目を見せ亡はせ給ひなば、よしなき罪に侍るぞ、只さるべくは此の事を思ひ止まらせ給へかし」と、詞をつくして様々に詫びければ、悪きながらもさすが又、いと可笑きにすかされて、やうやうのことになん聞き入りて侍るとぞ。

  されば余りにけしからず、我が身の都合のよいように云はんとて、斯かる情けなき事をなん取り出でゝ、人笑はれになるぞ心憂き、たとひ斯かる事ありと、知らず顔にて忍びなば、かく憂き事はよもあらじ、死ぬるに増る恥ぞとは、げにかやうなる事をこそと、聞くも憂ければ、とにかくに容貌風姿は劣りても、心は下品ならず、只何事もつゝましく、忍びすぐしてさすが又、世の悲しい事や趣きのある事をも、情ありつゝ知る人の、只、かりそめに云ひ捨つる、言の葉ごとの末までも、露違へじと思ふには、心悪くも頼もしけれ。其の人柄は上品であり、整った様ながら、心の様はさしもなく、偽り勝ちによくなくて、鉄面皮な図々しい風情には、花の姿も何ならず、心の程にやつしつゝ、色香も消ゆる心地して、難波の事も深からず、思ひなさで浅くのみ、見劣りするぞ憂き。

されば高きも下れるも、おのが心のゆく儘に、人の誹りを知らざれば、遂に怪しき事出で来、世の言ひ種となるぞ憂き。又さりとても見聞く世に、露きずなくて萬にも、満てる人はない、唯何事も耳立てず斜なるぞ目安きや。余りに下しう何処までも取る方なきは口惜しく、人も落しめ侍れば、其の品あるも品なきも、只程々に従ひつゝ、心使ひなんいとよく嗜み侍るべきことにこそ。