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上 卷 朱雀天皇の御時に、俵藤太秀郷と申して名高き勇士侍り。此の人は昔、大職冠藤原鎌足の大臣の御裔、河辺の左大臣魚名公より五代の孫、従五位の上村雄朝臣の嫡男也。村雄朝臣田原の里に住しけり。然るに秀郷十四歳に成りしかば、初冠をさせて其の名を田原藤太とぞ呼ばれけり。若輩の頃より朝廷に召され、宮仕へし侍ること年久し。 或時秀郷父の許に行きければ、村雄朝臣いつよりも心よげにて秀郷に対面し、御酒を様々に勧めて申されけるは、「人の親の身として、我が子を自慢申す事は、おこがましくや侍らん、さりながら御事は世の人の子に勝れて、立ち居振舞い風采ゆゝしく見え給ふものかな、如何様にお前は、先祖の誉れを継ぎ給ふべき人とこそ見れ、それにつき我が家に鎌足の大臣より相伝し来りし霊剣あり、我老耄の身として、従へ持つべきに侍らじ、只今お前に譲り侍るべし、此の剣を持つて高名を極め給へ」とて、三尺余りに見えたる金作りの太刀を取り出して、秀郷の前に差し置かれければ、秀郷此の由承り、余りの事の嬉しさに、三度戴き謹んで退出す。されば此の剣を相伝して後は愈々心も勇み、何事も思ふ儘なり。打物取つても、弓を引くにも、肩を並ぶべき輩もなし。君の御為忠孝を励ます事甚だしければ、下野の国に恩賞を賜はつて、罷り下るべきにぞ定りけるこそ有がたりけれ。 然るに其の頃、近江の国勢田の橋には、大蛇の横はり臥せりて、上下の貴賤行き悩むことあり。秀郷怪しく思ひて行きて見れば、誠に其の丈二十丈もや有るらんと思ぼしき大蛇の橋の上に横はり臥せり。二つの眼の耀ける様は、天に日の並び給ふが如し。十二の角の鋭利なる事は、冬枯の森の梢に異ならず。鉄の牙上下に生ひ違ひたる中より、紅の舌を振り出しけるは、焔を吐くかと怪しまる。 もし世の常の人見るならば、肝魂も失ひ、其の儘倒れぬべけれども、元来秀郷は大剛の男子なれば、少しも憚らず、彼の大蛇の背をむずむずと踏んで彼方へ通りけり。 されども大蛇は、敢へて驚く気色も無し。秀郷も後を顧みず、遥かに行き隔たりぬ。それより東海道に赴き、日も西山に入りぬれば、或宿の応接間に宿られける。既に其の夜も更け行く儘に、夢も結ばぬ仮寝の枕傾けんとし給ふ所に、宿の主の申す様、「誰人にやらん、旅人に対面申さんと申して、怪しげなる女房一人、門の辺に佇みておはします」と申す。秀郷聞きて、「あら思ひ寄らずや、そも何処の人にてましませば、我に見参せんとは宣ふぞ、更にこそ心得ね、さりながら思ぼし召す仔細のましませばこそ、これまで御出であれ尋ね給ふべき事あらば、此方へ入らせ給へ」と有りければ、主、彼の女性に斯くと申す時に、女性言ふやうは、「いやいや是は懸念なし、都の方の者なるが、此処にて聊か申し入れるべき事有り、恐れながら是まで御出であれかし」と申す。 去る程に秀郷辞退するに及ばねば、居たる所を突き立つて門外に出て見てあれば、二十余りの女性只一人佇み居たり。その形貌を見るに容顔美麗にして辺も耀く程なり。髪のかゝり麗はしう、さながら此の世の人とは思はれず怪しさは限りなし。秀郷、面はゆげにて、「日頃物申したりとも覚えぬ人の、夜更けて殊更尋ね給ふこそ覚束無く候へども」と申されければ、彼の女房、藤太か側に差し寄り、小声に申す様、「誠に妾を見知り給はぬこそ道理なれ、我はこれ世の常の人にあらず、今日しも勢田の唐橋にて見え申せし大蛇の、変化したる女なり」とぞ申しける。 藤太、此の由聞きて、さればこそと思ひ、「さて如何なる事の仔細にか変化して来り給ふ」と申されければ、女房申すやう、「日頃は定めて聞こし召し及び給ふべし、妾は近江の湖に住むなり、昔、久かたの天の道開け、あらがねの土固まりて、この秋津洲の国定まりし時より、かの湖水に居を占め、七度まで桑畑となりしにも、形貌を人に見せず、然る所に人皇四十四代に当つて、元正天皇と申す帝の御時に、日本第二のゐんこの神、彼の湖水の辺三上の嶽に天降らせ袷ふ、それより、をちつかたかの山に百足といふもの出で来て、野山の獣、江河の魚を貪る事年久し、これにわらはが類度々彼に食せられ、三熱の苦しみの上に、愁歎の涙乾くひまなし、如何にもしてこの敵を亡ぼし、安全の古へになさばやと許り、謀を廻らすと雖も、わらはが類としてたやすく平らげん事叶ひ難し、もし人間に然るべき器量の人ましまさば、縁を結びて頼み侍らばやと思ひ、勢田の橋に横はつて往来の人を窺ふに、遂に近辺へ近づく者もなし。斯かる処に今日の御辺の御振舞誠に堪へ難き御心根かな、此の上はかの敵を亡ぼさん人は御身に限りて有るべからすと、頼み申して来りたり、我が国の安危は御辺の御言葉によるべし」とて、誠に余儀無き有様なり。 藤太此の由をつくづくと聞き侍りて、さても難儀の事かな、世の常ならぬ物の頼みて来りしを違変するも恥なり、又大事を仕損じたらんは、先祖の名折れ末代の恥辱なるべし。さりながら我が頼む神の恵みのましませばこそ、日本六十余州にぬきんでゝ我を目当てゝ来るらめ、なかんづく龍宮と和国とは金胎両部の国なれば、天照大神も本地を大日の尊像にかくし、垂迹を蒼海の龍神に現はし給へりと承り及ぶ時は、異議に及ぶまじ。と思ひ定めければ、「時刻を廻らさず今夜の中に罷りて、かの敵を亡ぼし侍るべし」と申しければ、女房斜ならず悦びて掻き消すやうに失せにけり。 さるほどに藤太は約束の時を違へじと、祖先伝来の太刀を佩き、一生身を離たず持ちたりし重籐の弓の五人張ありけるに関弦かけて脇挟み、強力なる十五束三伏ある三年竹の大矢の、鏃半ば差し込みたるを、たゞ三筋手挟んで、勢田をさして急ぎけり。 湖水の汀に打ち臨みて三上の山を眺むれば、稲光すること頻りなり。さればこそ、件の化物来るにこそと守り居ける所に、暫く有つて雨風夥しくする程に、比良の高嶺の方よりも、松明二三千余り焚き上げて三上の山の動く如くに動揺して来る事あり。山を動かし谷を響かす音は、百干万の雷もかくやらん、恐ろしなんどは計りなし。 されども藤太は少しも騒がず、龍宮の敵といふはこれならんと思ひ定めて件の弓矢を差し加へ、化物の近づくを待つ程に、矢頃にもなりしかば、あくまで引きしぼり、眉間の真ん中と思ぼしき所を射たりしに、その手応へ鉄の板などを射るやうに聞えて、筈を返して裁たざりければ、安からず思ひて、又二の矢を取つて番ひ、同じ矢的を心掛け、忘るゝ許り引き絞りて射たりけるが、此の矢も又踊り返つて、身には少しも裁たざりけり。只三筋持つたる矢を二筋は射損じたり。頼む処は只一筋、これを射損じては如何せんと、とりどりに思ひ廻らしつゝ、此の度の鏃には唾を吐き掛け打ち番ひ、南無八幡大菩薩と心中に祈念して、又同じ矢的と心掛け、よく引いてひようと放ちければ、手応へして、はた、と中ると覚えしより、二三千見えつる松明一度にはつと消え、百千万の雷の音も鳴り止みけり。さては化物は滅したる事疑ひなしと思ひ、部下共に松明を点させ、化物をよくよく見れば紛ふべくもなき百足なり。二三千の松明と見えしは足にてやあるらん。頭は牛鬼の如くにて其の形大なる事譬へむ方もなし。件の矢は眉間の只中を通つて喉の下まで抜け通りけり。急所なれば道理と言ひながら、かほどの大きなる化物、一筋通る矢に、痛み滅びける弓勢の程こそゆゝしけれ。
さる程に、初め二筋の矢は鉄を射る如くにて立たず、後の矢の通りし事は唾を鏃に塗りたる故なり。唾は総じて百足の毒なればなり。日頃勢ひを振ひし物なれば、尚も仇をなす事もやとて、件の百足をばずたずたに切り捨て、湖水にこそは流されたり。それより藤太は宿所に帰り給ひけり。 明の夜、又夕べの女性来りけり。此の度すぐに応接間まで入りて、「藤太殿に見参せん」と言ふ。藤太やがて出で会ひ対面しければ、女房うらやかなる声にて、「さてさて貴方の勇力に日頃の敵を平らげ、安全の代となし給ふこそ返す返へすも神妙なり、悦び身に余りて侍れば恩を報ずるに物なし、せめては私に持つ所の物にても、まづまづ参らせんと思ひて来りたり」とて、藤太が前に据ゑ並べたる物を見れば、巻絹二つ、口結びたる俵、赤銅の鍋一つぞ候へける。 田原藤太は此の由を見るよりも、「誠にありがたき御志かな、然れば今度の御事は神佛の方便によつて高名を極め候へば、御身の悦びは申すに及ばず、我等の家の面目何事かこれにしかんや、其の上斯様に御宝物賜はり候事、悦びの中の悦びにて侍る」と挨拶して申されければ、さて女房も心よげにて、「さらば先づ今宵は帰り侍るべし、返す返すも今度の悦び、我が身一人にてはあらず、千万人の為に宜しければ、重ねて其の徳を報じ申さん」とて、女房は何処ともなく帰りけり。 秀郷、件の女房に得たりし巻絹を取り出し衣裳に仕立たるところに、裁てどもく尽きず。又米の俵を開きつゝ米を取り出すに、これも遂に尽きざり。さてこそ藤太をば俵藤太とは申しけり。さて又鍋の内には思ふ儘の食物沸き出でけるこそ不思議なれ。 藤太は「猶も奇特を見る事もこそ」と思ひて待つところに、案の如く月明き夜の更け方に、件の女性訪れ給ふ。藤太急ぎ立ち出でゝ、中門へ請じつゝ、其の有様を見てあれば、美麗なること前の姿には様かはれり。伝へ承る、天竺の耶輸陀羅女、唐の西施、李夫人と申すとも、これにはいかでか及び給ふべければ、只喜見城の天女の天降り給ふかと、初めて驚く計りなり。 さても龍女宣ふ様は、「最前に申し如く、長年の大敵をたやすく亡ぼし給へる事、吾等が一門眷族共に悦び侍ると雖も、数多の物の悉くこれまで現はれ来りて、御恩を報じ申さん事、いと易き様にてかえつて障りあり、されば恐れ多き事なりといへども、君を我が故郷に具し参らせばやとの願ひにて、これまでわらはが御迎への為に参りたり。とてもの芳志を蒙りし上は、御遠慮置かせ給ふまじ、とくとく御出であれかし」と申しければ、藤太此の 由承り、「これ程に大切に侍るなれば、よも我が身の為は悪しからじ」と思ひて、彼の龍女と打ち連れ龍宮へと急ぎけり。 さる程に龍女は俵藤太を伴ひ、漫々として涯もなき湖水の中に入りにけり。直下と見れども底もなく涯も見えぬ海底の、煙の波を凌げば、雲の浪静かならず、雲の波を分け行けば水輪際も極まりぬ。水輪際を打ち過ぎて金輪際に及べば、風輪際に近くなり、風輪際をも過ぎしかば、浮世の中と思ぼしき国に出でにけり。「これなん我が住む所」と言ふにつけて見れば、五丈そばだち、七宝の宮殿黄金の楼門赫き渡れり。龍王の眷属、異類の異形の生物は役割に従つて楼門楼閣に徘徊す。我か国の帝城禁門警固の衛士に異ならず。藤太を伴ひし龍女の門に入らせ給へば、諸々の龍神は頭を傾け礼をなす。門より内には種々の樹木花咲き開けて、一々の花の中よりも七宝の果実満ちたる、極楽世界もかくやらん。 さて楼門を打過ぎて歩む足も香しき玉の階、攀ぢ登れば、紫宸殿と思ぼしくて、数千間に造り磨ける宮殿あり。庭には瑠璃の砂、真珠の砂、際もなく撒き満てり。黄金の柱、玉の垂木の端、七宝の欄干、玉の石畳、温かなり。御殿の綺麗さは、荘厳は目に見る事は申すに及ばず、かつて耳にも聞き及ばず。
龍女、藤太の袖を控へ、神殿の真中に玉の曲彔という椅子を構へて、「是へ」と言うて据ゑ置かる。暫くあつて音楽を奏する事あり。其の後八大龍王の第一娑竭羅龍王、八万四千の眷属を引き連れ、玉座に直り給ふ。龍女も同じく玉座に直り給ふ。玉座に定まつて互の一礼事濃やかな り。時に髪を両側に束ねた龍女、百味の珍膳を捧げ出づる。龍王の御前に据ゑ、其の次には藤太、其の次には龍女に据ゑたり。其の飲食世の常ならず、服するに心よく、香しき事類なし。暫し有りて又黄金の盤に、仙家の杯を据ゑ、白銀の銚子に、天の酒盛りて出でたり。之も先づ龍王の飲み初め給ふ事三度、其の後藤太の前に持ちて参る。藤太も同じく三度受けたり。其の味ひ天の甘露なれば申すにや及ばず、「ふらん、うつゝらと云ふ苦行者が八万歳を経たりしも、此の酒の徳にこそ有りつらめ」と、いと有り難くぞ思はれける。酒宴の儀式日本には様変りて杯も廻らさず、思ひざしもなければ、只心のゆく程さし受け飲みけるなり。山海の珍菓を蓬莱山の如くに積み上けて饗応し傅きける上に、様々の引出物をせられけるこそゆゝしけれ。藤太心に思ひけるは、「さても斯程の楽しみは梵天王の宮殿の栄華と申すとも是れにや及ぶべき、か程有り難き国土にも苦は侍るか」と問ひ給へば、其の時龍王の御諚には、「中々の事、申すにや及ぶ、天人の五衰、人間の八苦、龍宮の三熱とて、何れも苦のなき国は無し、なかんづく此の国に長年重き苦患の侍りしを、御辺、此の度神変を振ひ、容易く滅亡し給ひける事、佛神の御助けに等しく有り難く覚え侍るなり、一死萬生の悦びとは、然しながら是をぞ申すべき、この御恩は報じても報じ尽し難ければ、未来永遠に限るまじ、御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」と宣ひて、黄金札の鎧、同じく太刀一振取り添へ、藤太に与へ給ふ。此の鎧を召し、此の剣を持つて朝敵を滅ぼし、将軍に任じ給ふべし。又赤銅の釣鐘一つ取り出させ、此の撞鐘と申すは昔大聖釈迦如来が中天竺に出でし給ふ時、須達長者と申す人、祇園精舎を造りて佛に供養し奉りし時、無常院の鐘の音をば鋳うつしたる鐘なれば、諸行無常と響くなり。此の鐘の声を聞く時は、無明煩悩忽ちに消滅し、菩提の岸に到るなり。斯かる不思議の重宝なれば、此の国に星霜年久しく保つと言へども、此の捧げ物にこれも同じく奉る。日本国の宝に為し給へ」と宣ひければ、藤太此の由承り、「鎧剣は誠に家の宝なり、釣鐘の事はわれ武士の身なれば、さのみ望み申すには有らねども、由来を詳しく承れば、末代我が朝の宝何か是に勝らん、これ猶以つて有り難し、さりながら斯程の重き釣鐘を、いかでか賜はり帰るべしや。是ぞ難儀なり」と申されければ、其の時、龍王微笑みて、「いみじくも申されたる物かな、弓矢を取つて強き者を滅ぼす手段こそ、方々には及ばずとも、斯様の物を持ち扱ふ事は、我が眷属の習なり。心にかけ給ふ事なかれ」とて、すなはち異類異形の魚共におほせて水中に引かされけり。 既に時刻も移りければ、藤太心に思はれけるは、昔丹後の国与謝の郡水の江の浦島が子とやらんも、少女に遇ひて、思いかけず、此の常世の国に到りしに、かゝる快楽に耽りつゝ、いにしへ行く末を忘れて年を経る事三年なり。或る時故郷の恋しさに少女に暇を乞ひ、水の江に帰りて見てあれば、住みし故郷も変り果て見知れる人も無き程に、斯く有るべしやはと訝しく、よくよく問へば、「それ昔三百余年の事なり」と言ふ人あるに驚きて、遂に空しくなると聞く、かゝる、ためしも有るぞかし。我は殊更朝家奉公の身なり、殊更故郷に年老いたる父母のましませば、時の間も見まほしくて、早々御暇を申されければ、龍神は猶も名残惜しげにて、様々の興を尽して慰め給ふ。 中 巻 さる程に、龍女は俵藤太秀郷を様々に饗応し慰め給ひける程に、漸々時刻も移りければ、藤太は大王に暇を乞ひ龍宮を出でられける。 海中を歩む事刹那の程と覚ゆれば、勢田の橋にぞ着かれける。それより父の許に行き村雄朝臣に対面して、此の程の有様始めより委しく語り給へば、父母不思議の思ひをなし、斜ならずに悦び給ふ。 「それに就き龍王の引出物に黄金作りの剣、黄金札の鎧、赤銅の釣鐘を賜はりたり。剣、鎧は武士の重宝なれば、末代子孫に相伝すべし、鐘は寺院の物なれば俗の身に従へ詮もなし、佛へ供養すべし、されば南都へや奉らん。比叡山へや奉らん」と申されければ、父の朝臣此の由を聞きて、「げにも誠に一々の稀代重宝なり、中にも彼の撞鍾を精舎に寄進し奉り、来るべき世の値遇を祈らんこそ有り難けれ、諸佛菩薩の御悟り、何れも衆生を救い導く手立てと言ひながら、殊更三井寺の本尊へ奉り給へ。それを如何にといふに、一つは当国なり、又かの寺の鎮守新羅大明神と申すは弓矢神にておはしませば、子孫の武芸を祈るべし。さて又彼の寺の御本尊は弥勒菩薩にておはします。此の度の功徳によりて、五十六億七千万歳三会の暁、弥勒菩薩の出でし御時、見佛聞法の結縁となるべし、其の上南都も比叡山も撞鐘既に成就せり、かの三井寺と申すに今に鐘の響きもなし、速やかに思ひ立ち給へ」と有りしかば、藤太委細に承り、さらば三井寺へ参らすべしとて園城寺へ遣はさる。秀郷五男の千常、三井寺へ参り、時の長史大僧正に謁して件の趣申しける。僧正大いに悦び給ひて、寺中の衆徒達を会合し僉議まちまちなり。僧正仰せけるやうは「当寺は伽藍草創の後、有力な保護者、繁昌して、佛法最中の道場なれば、鐘の響は心に任せて、龍宮より取りて帰りし鐘なれば、天下無双の重宝、末代の名誉なり、兎角の沙汰に及ばず報謝を受け給ふべし」とありしかば、満座の大衆一同に皆尤もと了承し、「吉日を選んでかの釣鐘を寄進し給へ、即ち供養をなすべし」とて千常をば返されける。 藤太此の由承り唐崎の濱へ行き、見れば、夜の間に龍宮より上げ給ふと思ぼしくて、件の釣鐘おはします。「是より三井寺へ引きつけんには、数多の人夫を持ち給はずば、容易く引きつくまじと案じける処に、明日供養と相定めし今宵、海より小さき蛇来りて、彼の釣鐘の龍頭を銜へ、大講堂の大庭までいと易く引きつけて、掻き消すやうに失せにけり。僧正、大衆達も奇異の思ひをなし給へり。 さる程に園城寺には龍宮より釣鐘上りつく、今日供養し給ふ由、兼ねて諸国に聞えしかば、近国は申すに及ばず、遠国の僧侶、俗人、我劣らじと参詣す。都よりは殊に程近ければ、貴賤老若群集してけり。時の関白、大臣、公卿、女院、御息所、女御、更衣に至るまで、三会の暁、慈尊出世の結縁の為と思ぼしければ、道場に車を軋らし、佛前に続々と続きて、五障の雲をはらし給ふ。既に時刻にもなりしかば、すなはち供養の儀式厳重也。当日の導師は当寺の長吏大僧正、呪願は天台座主とぞ聞えし。其の外、諸寺の名徳、碩学数千人、会座に連なり給ふ。
導師高座に上り、発願の鐘打ち鳴らし、「秀郷の朝臣、この善根に応へて、今生にては無比の楽しみを極め、来世にては上品蓮台に生れ、乃至七世の父母速やかに三界の苦輪を出でゝ、天上の快楽を極め、法界衆生、平等利益、出離生死、頓生菩提」と、回向の聴聞有り難く、皆感涙をぞ流しける。聴聞の道俗押しなべて、随喜の涙を流しけり。 有り難や、此の鐘と申すは、祇園精舎の無常院に響くなり、諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽の四句の音をうつされたれば、これを聞く人おしなべて、無明長夜の夢を醒し、発心菩提の岸に到る。誠に末代不思議の奇特なり。 そもそも当寺草創の濫觴をとぶらへば、昔、人皇三十九代天智天皇の御時、此の湖に近き大津に郡を移し給ふ。こゝに帝、御夢の告げましますにより、皇子大友の太子に詔して、さゞなみや志賀の花園に霊地を占め、一つの伽藍を建立し、丈六の弥勒菩薩を安置せらる、其の名を寿福寺と号す。其の後皇子大友、事に遇うてかくれ給ひしかば、その御子与多の王、帝へ奏し申しつゝ、彼の寺を移して、父の家跡に造りつゝ、園城寺と改め給ふ。此の寺の傍に清潔なる岩井の水あり、此の水を持つて、天智、天武、持統三代の帝の御産湯に用ゐる故に三井寺とは申すなり。 斯くて星霜を経る事、漸く二百年になんなんたり。時に智証大師と申して有徳碩学の名僧まします、此の人は弘法大師の御甥、讃州那賀郡の住人宅成の嫡男也。竹馬の頃よりも其の相、世人に勝れ、両の御眼に各々瞳二つぞおはします。御年十四にて都に入り給ふ。十五歳にて叡山に登り、天台座主義真和尚の門弟として髪を剃り、三密瑜伽の道場の中に、一乗円頓の教法を究め給ふ。其の後仁寿三年の秋の頃、求法の為に入唐し給ふ所に、悪風俄に吹き来たつて、海上の御船忽ちに覆らんとせし時、大師舷に立ち出でゝ、十方を一礼し、誓請を為し給へば、佛法護持の不動明王、金色の身相を現じ、船の舳に立ち給ふ。又新羅大明神まのあたり船の艫に現じて、自ら舵を取り給ふ。是によつて御船恙なく明州の津に着きにけり。 御在唐、六年の其の間、国清寺の物外、開元寺の良諝、青龍寺の大徳、興善寺の智慧輪、斯かる名徳、高僧に顕密の奥義を学び、玄旨を極め給ひつゝ、天安二年に至つて御帰朝ましましけり。 斯くて御法流盛んにして、一朝の綱領四海の倚頼として、天皇の位の護持を為し給ふ程に、帝より詔して園城寺を賜はりけり。大師、園城寺に入らせ給ふ時、一人の老僧立ち出でゝ名のりて曰く、「我はこれ教待和尚と言ふ者なり、此の寺に住して大師を待つ事二百余歳」と言ひ終つて、所有地の券契を授けて、虚空をさして飛び去りぬ。大師は奇異の思ひをなし、此の寺に住持して、真言秘密の教法を行ひ給ふ。 大講堂は八間四面、三重一基の宝塔、七間四面の阿弥陀堂、四足一宇の宝殿には山王権現勧請す。唐本の一切経七千余巻をば、当院にこめ給ふ。其の外、今熊野御社護法善神の御拝殿、普賢堂、青龍院、尊星王塔、大法院、四面の廻廊、十二間の五輪院、総て堂舍の数は六百三十余、佛の数は二千体、清浄堅固の霊地なれば、大師此の寺の井花の水を汲んで、三部灌頂の閼伽として、慈尊三会の暁を待ち給ふ故に、三井寺とは申すとかや。 斯程めでたき道場、如何なる事の仔細によつて火災に及ぶぞといへば、彼の大師御入滅ましまして後、御門徒の大衆、戒壇興隆の事を申し行ひしによつて、山門の大衆が示威行動をなし、袈裟の衣を着し、志賀、唐崎に駆け合うて、或は討たれ、組んで落ち、道場に血をあへし、修羅の巷と為す事は、法滅の基と浅ましかりし事ども也。 さても俵藤太秀郷は、下野の国に居住して、国中を治めしかば、其の勢近国に振ひけり。斯かりける所に、下総の国相馬の郡に将門といふ人あり。 此の人は、桓武天皇の御裔、葛原の親王には四代の孫、鎮守府の将軍良将が子なり。承平五年二月、伯父常陸の大椽国香を討つて勢漸く八州を呑み、相馬の郡磯津の橋をかぎりて王城を構へ、我が身自らは新皇と号し、百臣を召し使ふ。舎弟御廚の三郎将頼をば下野守、同じき次郎大葦原の将平をば上野介、同五郎将為をば伊豆守、多治見の経明をば常陸介、藤原の春道をば上総守、藤原の興世をば安房守、文屋のよしかねをば相模守に赴任せしむ。 斯くて大軍を催して帝都へ打ちて上り、日本国の主となるべしとて、其の催し有りけるを、藤太秀郷つくづくと聞きて、「実にも誠に大剛の勇士なる上、猛勢を靡け従へり、此の人に同心し、日本国を半分づゝ管領せばや」と思ひて、相馬の郡に下りけり。 かしこにも着きしかば、館へ人を差し遣はし、「下野の国の住人俵藤太秀郷御寮の御目にかゝり申し度き事侍りて、これまで参りて候」と申しければ、禁門警固の侍某、此の由を将門に申し上げけり。折節将門は髪をみだし、けずりて居給ひしが、如何思ぼしけん取り敢へず髪が乱れた侭にて、而も袴もつけず中門に出合ひ、秀郷に対面し給ふ。元来藤太は目賢き 人なれば、此の有様を見留めて、頼み甲斐あらずと思ふ所に、将門、秀郷を饗さん為に、椀飯を掻き据ゑて是を勧む。将門の食ひ給ふ御料、袴の上に落ち散りけるを身づから払ひ拭はれたり。藤太、心中に思ふ様、「是は偏に卑しき民の振舞なり、さて余り軽忽至極なれば、日本の主とならん事、思ひも寄らぬ事なるべし」と、初対面に心変りし、申し語らふべき言葉も出さず、疎み果てゝぞ帰りける。 それよりも秀郷は夜を日についで都に上り、案内申して奏聞申しける様は、「相馬の小次郎将門が叛逆を企て、東八箇国を横領し、あまつさへ軍勢を催し王城へ討つて上るべしと準備仕り侍るなり、速やかに追討使を下さるべし、もし事緩怠に及ばゞ、ゆゝしき朝家の御大事と罷り成り候べし、それに就き候ては、秀郷が身不肖に候へども、一方の大将をも宣下せられ候はゞ、兎も角も謀を廻らし、誅伐仕るべき」由、申しければ、帝大きに驚かせ給ひて、公卿殿上人を召され、此の事は如何あるべしとの僉議まちまちなり。 其の上、将門叛逆の事、東国より重ねて奏聞申しければ、「此の上は猶予すべからず、秀郷は東国の案内を存じたる者なれば、先づ彼を討手に差し下され、其の後大勢の討手を遣はさるべきか」と有りしかば、「此の議尤も然るべし」とて、すなはち藤太を皇居に召され、「今度梟賊追伐の事、然しなから汝が謀を頼み思ぼし召すなり、急ぎ罷り下りて、よく手段を廻らし、逆臣を誅伐し、君豊かに民安からしめよ、軍功は功によるべし、いかさま諸軍勢を重ねて後より下さるべし、汝は夜を日につぎて急ぎ下るべし」と宣へば、藤太、宣旨を承り、弓矢の面目何事か是にしかん」と、勇みをなして退出す。「さらば時刻を廻らさず急ぎ下るべしとて、都をばまだ夜をこめて白川や、栗田口をも打ち過ぎて、日岡峠に差し掛れば夜はほのぼのと明けにけり。四の宮河原を余所に見て、関の山路に差し掛り、三井寺に参りつゝ、講堂の御前に頭を傾け、「南無や弥勒大菩薩、此度もし秀郷が敵の為に討たるゝとも、頼みを掛けし一念の功力によりて、三悪道に返し給ふな」と祈念し、それより新羅大明神の御前に参り、「帰命頂礼大明神、願はくは藤太が謀に御力を添へられ、難なく敵を打ち平らげ、君も豊かに民栄え、国土安全長久の御世と為し給へ、然らば我々が一門永く当社の氏子となつて、信仰に頭を傾け奉るべし」と、丹心の誠を抽んでゝ暫く祈り給へば、誠に神慮も御納受ましまし、風もなくして御前の戸帳が揺らめき、左右に向へる獅子、狛犬も動く気色に見えければ、藤太有り難く尊く覚えて信心再拝す。それよりも藤太は駒に鞭を打つて、東国指して下りける。 さる程に内裏には公卿僉議ましまして、「今度将門が乱逆について、神佛の擁護を頼まずば、速やかに静謐すべからず」とて、諸寺諸山の碩徳に仰せて、調伏の法行はせられ給ふべしとて、先づ天台座主法性房の阿闍梨尊意僧正は比叡山に壇を構へ、大威徳の法を行はる。金剛寺の浄蔵貴所は横川に壇を構へて、降三世の法を行はる。根本中堂には碩徳、護摩を焚き、美作の明達は、神宮寺に壇を構へて、四天王の法を行はる。これ皆朝家有験の碩徳なれば、行法何れも成就して、朝敵滅亡疑ひあらじと、頼もしくぞ覚えける。 斯くて東国の討手には源平両家の氏族の中に、文武二道の器量を選んで、大将軍の宣旨を下され、節刀を賜はるべしとて、先づ宇治の民部卿藤原の忠文を召さる。又鎮守府の将軍国香が嫡男、上平太貞盛、父が武勇をついで、殊更多勢の者なれば、副将軍にぞ召されつる。それ将軍に節刀を賜はり、外土へ赴くには、定まれる儀式の侍れば、主上南殿に出御なる。関白殿は小野の殿に出でさせ給ふ。大臣は九條殿、其の外大納言、中納言、八座七弁、諸司八省、階に陣を張り、中儀の節会を行はれ、節刀を出さる。時に大将軍、副将軍威儀を正しくして参内し、礼儀をなして是を賜はり、弓場殿の南の小門より光り輝いて出らるゝ、厳めしかりし有様なり。 時は朱雀院の御宇、天慶三年正月十八日午の刻の事なるに、今日諸大将朝敵追伐の為に、東国へ発向せらるゝ由聞えしかば、近き辺は申すにや及ぶ、遠国、他国の道俗男女、上下聞き及ぶに従つて、袖を連ね踵をついで、我もと巷に群集す。都をこの平安城へ移されてより以来、未だ世の中の激浪もなければ、武士は弓矢を知らざるが如し、今初めて干戈を動かす珍らしさに、馬、物具、太刀、刀、辺も輝くばかりに出で立ちければ、何れもゆゝしき見物なり。 路次に少しも障りなければ、多くの難所を馳せ越えて、やうやう二月の初めには駿河の国清見ケ関に着きにけり。此処にして大将忠文は暫く休らひ、富士の絶景、三保の入海、田子の浦の眺望を見物し給ふ折節、清原の滋藤といへる詩つくり、大将軍にて侍りしが、此の浦の有様を感じて、 漁舟の火の影はすさまじうして波を焼く 駅路の鈴の声夜山を過ぐる と作られければ、大将も士卒も感涙をなして、喜びの袖を濡らしたまふ。 こゝに副将軍、平の貞盛は、家の子郎従を近づけ、「汝等は何とか思ふ、かくて大軍と同じく路次に日数を経るならば、大事の肝心には遇ふべからず、殊更此の将門は朝敵たる上に、我が身の為には親の敵なれば、他に先駆けて、勝負を決せずしては叶はぬ儀なり、彼の藤太は謀賢き者なるが、先陣に向うたり、もし彼一人の高名となしなば、我等弓矢の瑕瑾なるべし、然る時は悔ゆとも益あらじ、いざや此処を馳せ過ぎて、夜を日につぎて藤太が勢に加はらん」と宣へば、兵共、「実にも此の儀尤もなり」と申して、駒を早め打ちにける程に、足柄箱根のけはしき山路を、朧月夜にたどたどと駒に任せて急ぎけり。 下 巻 去る程に平の貞盛は、官兵二千余騎を従へ、足柄箱根を夜の中に打ち越え、天慶九年二月十三日と申すには、武蔵野に着きにけり。こゝにして秀郷の勢と合はせて三千余騎、利根川を打ち渡して、明くれば二月十四日下総の国磯橋に陣を取る。将門此の由聞くよりも、我が城へ入らせては叶ふまじとて、舎弟下野守将頼、同じく大葦原の四郎将平に、上総常陸の勢四千余騎を相添へ、同じ日の午の刻に辛島の郡北山といふ所に出して陣を取らる。 貞盛、敵の陣に馳せ寄せ、大音揚げて申す様、「只今、こゝに進み出でたる兵を、如何なる者とか思ふらん、近くは目にも見よ、遠からん者は音にも聞け、人王五十代の帝の後胤鎮守府の将軍、平の国香が一男上平太貞盛なり、梟賊の乱逆を静めん為に、一天の君の宣旨を蒙り、只今こゝに向うたり、土も木も我が大君の国なれば、何処か兇徒の住処ならん、速やかに弓を伏せ兜を脱いで、君の御方に参るべし」と呼ばはりけり。 将頼聞いてからからと打ち笑ひ、「まさしく兄弟を捨てゝ君に参らば、忠臣とや申すべき、聖代の昔は王位も重くましますらん、今、将門の威勢に、帝と申すとも、いかでか対揚し給ふべき、なにはともあれ、軍神の御手向に、只一矢受けて見給へ」といふ儘に、五人張に十五束、剣のやうに磨いたるを取つて、からりと打ち番ひ、荒々しく放ちに放ちけり。鎧の胸板に弦や掛かれけん、思ふ矢壺には中らず、貞盛が乗つたる馬の背の後ろに当たつて、つとぬけにけり。馬は屏風を反す如くに倒れければ、貞盛は乗替え馬に乗つたりけり。将頼一の矢を射損じ、安からず思へば、三尺八寸の打物抜いて貞盛を目に掛けて打つて掛る。官軍には貞盛の兄弟村岡の二郎忠頼、同三郎頼高、余五の維盛、維茂なんどゝて、一人当千の兵三百余人打つて掛る。敵の方よりも、将頼討たすなとて、常陸守つるもち、武蔵守興世、坂上の近高以下の兵一万余騎、我も我もと攻め戦ふ程に、山河草木動揺して、ゆゝしかりし有様なり。 平親王将門は此の由を聞こし召し、「左程の奴輩を我が領内に引き入れて、駒の蹄をかけさするこそ奇怪なれ、斯様の奴輩を一々に首切つて捨てん」とて、大将の鎧を召されつゝ、葦毛の馬に打乗つて、鞭を揚げて出で給ふ、その有様殊に世の常ならず、身長は七尺に余りて、五体は悉く鉄なり、左の御眼に瞳二つあり。将門に相も変らぬ人体、同じく六人あり。されば何れを将門と見分けたる者は無かりけり。 将門、打つて出で給へば、将武、将為以下の軍兵一千余人前後左右に従ひ、寄手の真中へ会釈もなく打つて入る其の気色、魯陽が日を返し、項王が三将を靡けし勢ひにも越えたれば、面を合はする敵もなし。されば未の時より申の刻に及ぶまで、討たるゝ官軍八十余人、疵を蒙る者数百人、其の外半ばを落ち失せて、今は戦ふに術無かりしかば、貞盛は後陣を待ちて戦はんと思ひ、其の夜武蔵の国へ引き退きぬ。将門はもとより驕れる人なれば、官軍を見くびり、何程の事か有るべしとて、そのまゝ逃ぐるをも追はず、勝鬨を作りて城の中へぞ入り給ふ。 さる程に藤太秀郷は、将門の有様を見て、「是は人間の振舞には有らず、日本国を合はせて戦ふとも、此の人に勝負をせん事は叶ふまじ、元より将門は謀単純にして智恵浅き人と聞けば如何にも方便を廻らし、たばかり討たんには如かじ」と思ひ、貞盛によくよく言ひ合はせ、自らは只一人相馬の館へ行かれけり。 将門は藤太に対面して様々に饗応さるゝ。藤太へつらひて申す様、「君の御有様を見るに、誠に四天王の御勢ひにも越え給ふ、其の上まさしく葛原の親王の御子孫にてましませば、帝の位をふみ給ふに憚りなし、一天四海を治め給はん事程近く候べし、物の数に候はねども、此の藤太が身をも一方の御役に召使はれ候はゞ、弓矢の本意にて候べし」と、まことしかやかに申しければ、将門、思慮浅く悦びて申さるゝ、「殊に各々の力を頼んで一天を治め侍り、先祖の武勇を耀かさんと思ふなり、御辺とても先祖を問へば正しく淡海公の流れぞかし、国土太平の後は、君臣和合の政を為すべし」とて、数献の興に及びけり。理なるかな、将門は我が身悉く金体なり、敵にあうて恐るゝ所無ければ、今、藤太が来るをも憚り給はぬは、兎角申すに及ばず、運命の末と浅ましかりし有様なり。 藤太は館の南なる寝殿を預りつゝ、朝夕ばかり出仕しけり。或る時藤太詰所へ出でたりしに、年の齢は二十ばかりと覚えし上臈の、優に艶しきが、西の対の簾中より見出だし給ふ事あり。藤太此の有様を一目見参らせ、夢うつゝやる方かたなく、そゞろに覚えければ、宿所に帰りて前後を知らず臥したりけり。是や誠に夏の虫の焔に身を焦す思ひなれば、由なかりける恋路なりと思ひ返せど、さすがに猶、そよと見染めし顔容の忘れもやらず苦しければ、せめては斯くと知らせなば、死ぬる命も惜しからじと、思ひ沈みて居たりけり。 こゝにまた時雨と申して、館より通ひものする女房あり、秀郷のもとに来りて言ふ様は、「御有様を見参らするに、たゞ事とも覚えず、思ぼし召す事あらば、妾に仰せられ候へかし、力に叶ふ事ならば叶へ奉るべし、御心を置かせ給ふなよ」と懇に申すなり。 藤太、此の由聞きて嬉しくも問ひ寄るものかな、相手の心がわからずに、それを心配しないで、どうにもなら無き事を語り出し、とても叶はぬ物故に、身を亡き物と成し果てなば、後代の嘲りなるべしと思ひ廻らしけるが、待て暫し我が心、誰か百年の齢を越えし人やある、露とならば閻浮の塵、秋の鹿の笛に寄るも、妻恋ふ故ぞかし、我も此の人故と思はゞ、捨つる命も惜しからじと思ひ定めつゝ、起き来りてさゝやきけるは、「恥かしや、思ひ内に あれば色外に現はるゝとは斯様のためしや申すらん、自らが思ひの種をば如何なる事とか覚すらん、いつぞや御前へ参りし御局の、簾中より見出だされたる上臈の、御立姿を一目見しより恋の病となり、死生定めぬ我が身の風情、誰か哀れと問ふべきや」と、さめざめと泣きければ、時雨、此の由聞きて、偽りならぬ思ひの色哀れに思ひ、「さればこそ、自らがよく見知り参らせたるものかな、其の御事は我が主、将門殿の御乳母の子にておはします、小宰相の御方にてましますなり、色には人の染む事もあり、思ぼし召す言の葉あらば、一筆遊ばし給はれかし、参らせて見ん」と言へば、藤太いと嬉しくて、取る手もくゆる許りなり。紫の薄紙に、なかなか言葉は無くて、 恋ひ死なばやすかりぬべき露の身の あふを限りにながからへぞする と書きて、引き結びて渡しけり。 時雨この手紙を取りて、小宰相の御方へ持ちて参り、「是々の物を拾ひて候、読みて給はれ」と申しければ、小宰相何心もなく開きて見給ひつゝ、「これは忍ぶ恋の心を詠める歌なり」と仰せられければ、時雨さし寄りて、「何をか包み申すべき、しかじかの方より御前へ捧げ奉り、一筆の御返事をも伺ひて得させよと頼むに辞み難くて恐れながら捧げ奉るなり、何かは苦しう候べき、ほんの少しの間の御情はあれかし」と申し上げれば、女房、顔打ち赤めて、中々ものも宣はず、時雨重ねて申す様、「思い込みて恋ひ死なば、長き世の御物思ひとなるべし、天竺の術婆伽が后を恋ひ、思ひの焔に身を焦しけるためし思ぼし知らずや」と、やうやうに言ひ慰むる程に、女房もさすが岩木にあらねば、人の思ひの積りなば、末如何ならんと悲しくて、かの手紙の端に、一筆書きて引き結びて出されたり。時雨嬉しく思ひて、やがて藤太のもとに来りて渡しけり。藤太取る手もたどたどしく開きて見れば、 人はいさ変るも知らでいかばかり 心のすゑを遂げて契らん と遊ばしけるを見て、喜ぶ事は限りなし。それより忍び忍びに参りつゝ、わりなき仲とぞなりにけり。此の事深く包み隠しければ、御所中に知る人更にな し。 さる程に平親王将門、常に此の女房のよそほひ御覧じて、御心に染みて思ぼしければ、時々は此の御局へは通せ給ふが、折節新王此の局におはしける時、秀郷参り合うたり。秀郷、怪しく思うて物の隙間より窺ひ見れば、男の姿をしたる貴人、七人ひとしく座し給ふ。こは不思議の事かなと思うて、其の夜は帰りけり。明の夜また御局へ参りて、様々に睦まじき事も言ひかはして後、藤太、「さても過ぎし夜この御局に人音のしけるを、誰人やらんと差し寄りて、物の隙より見てあれば、さしも気高き上臈のおはしまして候は、誰人やらん」と問はれければ、小宰相、「それこそ将門の君にておはしませ、見違ひ給ふにや」と宣へば、藤太重ねて申す様、「殿ならば只御一人こそおはすべけれ、同じ帯佩の上臈七人見えおはしつるこそ不思議なれ」と申す時に、小宰相、「さては未だ知り召さずや、殿は世の常に越え、御形は一人なれども、御影の六体まします故に、人目には七人に見え給ふなり」。藤太奇異の思ひをなし、「さて御本体とは御見分けのところ候や」と問はれて、女房、「人に決して語らぬ事なれども、御身なれば申すなり、うつかり、他人に漏し給ふなよ、かの将門は御形七人にて、御振舞かはる事なしと雖も、本体には日に向ひ、燈火に向ふ時、御影映り給ふ、六体には影なし、さて又御身体悉く黄金なりと雖も、御耳の側に、こめかみといふ所こそ、肉身なり」と語らせ給へば、藤太よくよく聞きて、「天晴れ、大事をも聞きつる物かな。是こそ誠に我が生国の大明神御託宣にてあるべし」と、いと有り難くて、そなたの方に向つて、祈念の様子をしたりけり。 さては此の度、将門を、只一矢に射伏せん事は、思いのまゝと思ひとり、其の後は夜な彼の御局へ参るには、竊に弓と矢を脇に挟み忍び窺ひけり。案の如く又将門、かの御局へ入らせ給うて、打ち解けて御物語などし給へり。藤太、物の隙よりよくよく見れば、げにも六人には燈火に映る影もなし、本体には影のありと言ふについて、目を澄まし見れば、時々彼のこめかみといふ所動きけり。藤太、天晴れ幸かなと弓と矢を打ち番ひ、ひようと射たりけり。元来、秀郷は強弓の手だれ、かの射術の名人、養由が百歩の芸にも越えたる上、矢頃は間近し、何かは以て射損ずべき、小耳の根と思ふ所を、あなたへづんと射通しければ、さしもに猛き将門も、のつけに倒れて空しくなれば、残る六人の形も電光石火の如くにて、光と共に失せにけり。
さる程に将門亡びぬれば、貞盛、秀郷は悦びの眉を開き、打ち取る処の首並に捕虜共を召し連れ、はなやかに上らる、威勢の程こそゆゝしけれ。道遠ければ、王城へは誠の左右は未だ聞えず、「官軍は戦に打ち負け、将門はすでに帝都へ攻入る」などと聞えければ、主上大きに驚かせ給ひつゝ、諸寺諸山に勅使立て、調伏の法頻りに行ふべき由、宣下せらるゝ。中にも八坂の浄蔵貴所は、「今度将門が攻上るといふ事は、全くもつて虚言なるべし、もしさもなくば、修法の効果は無用になるべし、但し、かの首の上り候にや」と勅答申されけるが、果して四月二十五日、貞盛、秀郷の両人、将門の首を持ちて上洛せられけり。これによつて君も御物思ひを安められ、臣も悦び勇みつゝ、一天四海の人民安堵の思ひをなしたりけり。 すなはち検非違使を遣はされ、将門以下の首受取らせて、大路を渡し、左の獄門の木に懸けさせけるに、将門一人の首は、未だ眼も枯れず、色も変ぜず、時々は切歯をなして怒る気色なり、恐ろしといふばかりなり。これを或従者の者が見て、 将門はこめかみよりも射られけり たはら藤太がはかりごとにて と詠みければ、此の首、からからと笑ひて、其の後色も変じ、眼も閉がりけるとかや。 さる程に内裏には、公卿、殿上人参内し給ひて、今度の兇徒退治につき、恩賞を行はる。僧衆には、尊意僧正、僧都浄蔵貴所なり。これ皆武士の賞にぬきんでらるゝには、平の貞盛、無位より正五位上に任じて将軍に任ずべき由の宣旨を下され、藤原の秀郷は従四位下に任じて、武蔵下野両国を賜はり、貞盛、秀郷の両人を召されて、宣旨を賜はる。儀式誠にゆゝしさ、子々孫々弓矢の面目とぞ見えし。 さても俵藤太秀郷は宣旨を頂戴し、一門を引き具して、下野に下りつゝ、本領に安堵し給ふ。其の繁昌は月日に増りて、門外に駒の立て所もなく、堂上に酒宴の暇もなし。国中の万民忠ある者をば、望まざるに過分の恩賞を当て行はる。罪ある者をば、速やかに是を懲らさしめ、賞罰正しければ、人のなつき従ふ事際限もなかりけり。其の上子孫もゆゝしくて、後、将軍に任ず。次に小山の二郎、字都宮の三郎、足利の四郎、結城の五郎なんどゝて、男子数十人に及べり、厳めしかりし栄華なり。 そもそも俵藤太秀郷の、将門を打ち滅し、東国に威勢を施し給ふこと、偏に龍神の擁護し給ふなるべし。それを如何にと申すに、龍神は女人に変化し給ふなれば、かの小宰相の御局、又時雨と申す女房、相手の心がわからないのに、それを心配せずして、秀郷大切にいとおしみ、大事を語り聞かせて、秀郷の高名を極めさせし事、よくよく思へば、彼の女の心にかの龍神が入り代り給ふか、わからねば不思議なことなり。其の上、三井寺の御本尊弥勒菩薩の御恵み深き故、子孫の繁昌相続す。日本六十余州に弓矢を取りて、藤原と名のる家、おそらくは秀郷の後胤たらぬは無かるべし。いかめしかりしためし也。 |
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