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高 野 物 語
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そもそも高野山と申すは、帝城を去つて二百里、郷里を離れて人声無し、晴日の山気梢を鳴らさずして、夕日の影しづか也。霊地ことにすぐれたるにや、弘法大師この地に居をしめ、入定ありし時は、承和二年の春とかや。まづ高野山金剛峯寺中央より奥の院へは三十七町の道、それは兜率の三十七品を表せり。その暁を松風に、うき世の夢をさまし、されば心ある人は、世を捨て後生を助からんと、大師の業を学び、金剛、胎蔵の両部の道を積むもあり、或は坐禅の床に坐し、工夫をする人もあり、念佛三味の道場をしつらひ、窓の前には佛の臨終の来迎を待つ輩もあり。其心ざし、まちまちなりといヘども、源は同じくして、有縁無縁の亡者、一佛浄土の縁とぞ祈られける。 

こゝに往生院谷の萱堂と申すは、不断念佛の道場にて、六時の勤め怠らず。かの坊主は本国伯耆の国、東伯南条の豪族の総領にて、三千町の主たる上、其ほか国に拝領の所領多かりければ、家門の繁昌申すに及ばず。しかりといヘども、前生の因縁にや、三十三と申すに此萱堂にて出家して、六十二と申すに往生の素懐をぞ遂げられける。     

この聖、存生の時、頃は長月十日あまりの事成るに、八葉の峰高しといへども、修行の妨げとなる五障の雲かゝる事なく、明月の影清々として譬へん方もなく、うき世の月もかくやあるらんと、さすが昔も思ひ出、涙のかゝる墨染の、何故残る心あてぞと、何ということなく愚痴もかこたれて、心も乱れるばかり也。同宿の人々、三百余人に及べり。其中に聖にも劣らぬ人々には、伯耆守の嫡子しゆん阿弥陀佛、宇都宮の一阿弥陀佛、結城のかう阿弥陀佛、佐々木のせい阿弥陀佛、公家には深草のさい阿弥陀佛、月輪のみやう阿弥陀佛、此人々をはじめとして、夜の念佛も過ぎしかば、聖に申されけるは、「いかゞ此月をば虚しく明かし候べき。はかなき言の葉をも申し慰み候はばや」と申しあひて、心ある御坊たち、南面の蔀をあげて、短冊或は懐紙にとり向ひ、一句を請ふ人もありけるところに、聖申されけるは、「和歌よ、連歌などもさる事にて候へども、狂言綺語の誤りは皆罪たるべし。面々の御有様を見奉るに、いやしき人々とは見申さず。国々所々の自分も他人も皆かやうに一所に寄りあひ奉る事、この世、あの世ならぬ契なり。一樹の陰、一河の流れをだにも多生長縁と承る。いかにいはんや、多年の故郷においてをや。いかでかその厚い友情にも劣るべき。なかんづく懺悔に罪滅ぶると申す事の候へば、いざさせ給へ。何故に遁世して候をも、われわれが佛が普通の人でありたる心中残さず懐悔して、互の罪障をも伺ひ候はん」と申さりたりければ、「もつとも然るべし」とて、末座に候ける伯耆のしゆん阿弥陀佛、懺悔の物語を始めける。




            

「それがし別の子細候はず。親にて候者、悪行人にすぐれ、科ある者は申すに及ばず、科なき者でも少し心に違ひ候へば、召し捕り、牢屋をこしらへ入れ置き、いつも五六十人絶えもせず。これを明け暮れに斬る間、首、骸絶ゆる事なし。恩愛夫婦の悲しむ声、耳に逆へて啼哭す。それのみならず、神社佛陀の領ともいはず、三宝僧の重文書をきらはず、心に任せておさへ取り、無智の臣に誘はれて、ひたすら悪行をのみす。ある時人をいましめて拷問す。竹の筒に大なる蛇を入れて、此筒を囚人の喉まで入れ、蛇を胸元まで押しこむに、すなはち気絶す。なかなか申すもおろかなり。それがし度々教訓候しかども、さらに承引なし。ある時何となく古き草紙を見るに、「花は咲きて盛りを見すといヘども、散りて再び枝に帰らず、人は生じてしばらく栄ふといヘども、光陰すみやかに来りて、百年胡蝶の夢さめて、墓場の苔、終にその屍を埋む」と書きたるを見るに、心肝に銘じて涙袖を浸す。夢幻の世の中に、親こそ悪行の身なりとも、それがし浮世を厭ひ、まことの道に人らんと思ひ、年十九と申す秋のころ、この御山に参りたる」と申ければ、人々感涙を流しける。


宇都宮の一阿弥陀、「それがしは三歳の年、父を従兄弟に討たれて、成人するにしたがひて、仇、大くまの蔵人を心中に忘るゝ事なし。ある時持佛堂に立ち入りて、花を手向け焼香して、父の菩提を弔ひ候につけても、敵を討たざる無念、しきりに思ひ出で、不覚の涙おさへがたし。師にて候し人、この有様を御覧じて、われに近づき宣ひけるは、「そなたの心中、この法師推量して候。親の敵大くまが事をぞ思ひ給らん。そなたを助け世話せぎりしさきは、かの大くまがもとに祈り祈祷のために行き通ひしかば、案内はよく知りすまして候。御身のかくてわたり候へばこそ、仲違ひもして候へ。年すでに六十に余り候へば、頼み甲斐ある事こそ候はずとも、討つ事思ひたち給へ、御供申し討ち候はん。師弟は三世の契りと申し候へば、この世ならぬ事どもなり」と、ねんごろに申されしかば、斜めならず嬉しくて、「さては身の思ひ内にあれば、色外に現れ候けるぞや。かく又仰せ候御心ざしの至り、なまじ申すに及ばず候」と申し、貧しき坊なれば、同宿の一人もなし、たゞ二人、宵より出で立つ。今を限りと思はれ候けるにや、師にて候し人、持佛堂なる両界の曼荼羅に一首の歌を書きつけけるに、 

明日知らぬ老の命の今宵しも

消えなば草の陰やとはれん

と書きとゞめ、肌には白き帷子に白綾の小袖、軽装の鎧に同じき甲着て、左右の籠手さし、秘蔵の剣左手にさし、二尺八寸の小長刀持ち、五条の袈裟をぞかけける。この袈裟に一筆かくぞ書きつけける。「てうらん寺北谷の阿闍梨めいはん、年六十一、児力寿丸十六、今宵親の敵大くまを討ちて、本望を遂げぬ」とぞ書きける。それがしも練貫の小袖に精好の袴、練貫縅の胴丸着て、三条の小鍛冶六文字が作りし七寸ほど候刀を、赤木を柄にして、琴の糸にて強く巻き、端紅の扇取りそへさし、二尺七寸候鬼丸を作りし、粟田口国綱が作りを脇にはさみ、心細くもたゞ二人、手に手を取り組み行くほどに、その間三里ばかりを、丑の時ほどに大くまが館に着き、忍び入り見れば、折節大くまは応接間の奥なる小座敷に連歌して、思ひもよらぬ事なれば、うちとけてぞ居たりける。うれしくも佛神の引き合せ給ふかと、敵の座り居るを見すまして、師匠先に立たんとし給ふ袖をひかへて、「まづ大くまをわが手にかけ候はんずるこそ、本望にて候へ」と、それがし先に斬って入るほどに、座敷の者ども慌て騒ぐ。大くまも側なる太刀を取り、間の障子を引き開けて、内へ人らんとするところを、右手の高股斬って落しければ、障子に倒れかゝりしを、二の太刀に首を討ち落す。うれしき事いふはかりなし。さる程に家の子若党逃がすまいと討ちてかゝるを、師匠ともに斬って廻りければ、矢庭に九人斬り伏せ、われら二人手をも負はざりければ、敵の首を取りて引く。少し追ひける者ども斬りしらまかし、名乗りして、これまでなりと、しづしづと引くところに、大くまが兄弟甲冑で身を固めたる廿人ばかりにて、逃がすまじとて追つかくる。二人又取つて返し、散々に戦ひしかども、多勢に無勢にかなはねば、めいはん、そこにて討たれ給ふ。それがしも三所まで手を負ひしかば、勢いよくこそ候はねども、散々に戦ふ折節、「われはなんぢが父ぞ」と言ふ声、耳に入り候しより、俄かに光り物おびたゞしく、震動雷電して、大雨降り来り候へば、敵も御方も見分かず候程に、敵同士討して喚き叫びひきあひ候。師にて候人討たれ給ふ上は、惜しからぬ命と思ひ、腹を切らんとするところに、はるかの道の末より、「めいはん、これにあり、力寿こなたへ引け」と言ふ声を聞きつけて、さては討たれ給はずと嬉しくて、坊へ帰り行くに、坊中まで師にて候人の声はして、見え給はず。こはいかにと、欺きても甲斐なき事なれば、その夜いまだ明けざるに、夜べの道のまゝ死骸を尋ね行けば、合戦場にいまだありける程に、取りて帰り、その遺骨を取り、この御山に参り、今年十余年」と語りければ、


三番に結城のかう阿弥陀佛、「申すにつけても恥ぢ入り存じ候へども、それがし十八の年より、本領相違の事にて、その訴訟のために鎌倉に滞在仕り候程に、塔の辻の遊君を二三年が程取り置きて、わびしい生活を年月をふる程に、すでに年の際に成りて候へ共、いかにして年を越ゆべきやうも候はず。なまじいに一人ならぬ二人まで子どもをさへまうけ、寒さと申し、ひだるさと申し、悲しむ程に、分別の方もなし。遊君云く、「男の習ひには、いかなる夜討、追剥をもして、妻子の命を養ふは、御身ひとりによも限りし事に候はじ。あの子どもを飢へかし殺さん事のかわゆさよ」とかき口説き、さめざめと泣きし程に、げにもと思ひ、ある所に金持ち候しを聞き、強盗にはいり、女多く慌て騒ぐを追いふせ追いふせ剥ぎ取る。さて屏風の陰を見れば、年十七八とおぼしき女房、宿直物を引きかづきて候を、取つて、がはと引く。この女房、「なんとしても許し給へ」とて、取り付きたりしを、持ちたる太刀にてうちのけて、取りて帰りて候へば、女にて候者、まことに嬉しげにて、「この小袖をば売り候はん。これをば置きて着候はん」とて、さて宿直物を見るに、先に取り付きたりし手を太刀の側面にてうちのけ候と思ひ候へば、腕首より打ち落して、いまだその手がしかと握りて候。あら浅ましき事、思はざりつる物をと、いたはしくて候つる。嫁にて候者、「あら不甲斐なや。これ程の事を哀れげに思ひ給ふか。死にたる物の手を強く握りたるはするやうの候」とて、もぐさを取り出し、指の節ごとに捻りすゑ捻りすゑ焼きければ、指はらはらと開きて、その手は下へ落ちにけり。うまくしたりと打ち笑ひ候し有様、ひとへに女とは見えず。あまりにあまりに恐ろしく浅ましくて、かくてはかなはじと存じ候て、わが宿を忍び出で、正月八日にこの山に参り、ことし十八年に成り候」と申す。


今度佐々木のせい阿弥陀佛申されけるは、「それがしは女二人持ちて候しが、明け暮れ嫉妬の思ひに、二人が心穏やかならず。それがしは六月上旬に都へ上り、しばらく在京仕り候。その間に本より具して候者、はかり事をめぐらして、今の女にて候者のもとへ、文などにとかく誓文などして、「互に嫉き心をやめ、男の如く候はん」と、時々申しければ、京の女まことぞと心得て見参し、浅からず語らひ、毎日寄り合ひ、酒宴の遊びをして申しけるは、「わらはは、はるかに年まさり参らせ候へば、ひとへに姉とも思ぼし召せ。御身をば妹と頼み参らせん」と親しく語らひける程に、はたちに足らざる女心には、浅はかにも本の妻をうち頼みける。ある時本の女にて候者、長年仕へし中間左近の尉と申す者と語らひ、僧の道具を色々用意せさせて、京の女のねやに忍び入りて、本の女、「初雪の景色おもしろく候」とて、色々肴をこしらへ、さまざまに酒を勧め、「今は夜もふけぬ」とて帰りぬ。京の女、酒にくたびれて、前後も知らず寝入りたるに、首に小さい差縄をかけてくゝり殺し、三町ばかり東に、地蔵堂のありける墓地に、深く埋みて置きたりけり。翌朝、夜の明けない内に文をやり、「夜べの景色の忘れがたさ、今朝の雪の朝ぼらけ、こちらまで待ち見参らせん」とて、迎への輿をやりける。女房たちこの文を取り、「奥方より御迎への参りて候」とて、戸を叩けども、答へず。あやしくて入りて見れば人もなし。驚きて、乳母侍従に告げければ、慌て騒ぎて尋ねぬれどもなし。悲しむ事限りなし。さて、包み隠すべきならねば、この由申して帰しけり。本の女、期したる事なれば、急ぎ輿に乗り行き、いまだ下りざる前に、輿の内より大声をあげて泣き悲しみ、「何となりたる事ぞや」と天に仰ぎ地に伏し、欺く有様あはれなり。さて、あたりなる僧の道具どもを見つけて、「さればこそ。不思議や、夜べこれにて遊びし時、あの縁の端に立ちて、垣根のはづれを見れば法師の立ちて見えしが、この法師が鼠に似た鳴き声をして、「あの人の、出で来るの遅き」とて、わらはが側へ寄りて、その人でないと見なして、慌て候つる。さてはその法師が仕業」とて、袈裟袋、蒲団などを取り出し給へば、侍従をはじめて人々の心の内、悲しともいへばおろかなり。その頃しも、京の父の第三年の佛事のために、千僧を集め供養の摂待をし、無縁の僧には、いさゝか法会の食事を参らせしかば、一日に僧の廿人三十人出で入る事まことなり。かの父と申すは、花山院の御一族、中納言殿の御娘也。天下武家の世となりて、住みかね給ひしが、父がなくならせ給ひしが、御身を浮草の根を絶えてわびしき御住ひにて候しを、さるたよりありて、それがし盗み出し、三年がほど連れ添いて候しなり。さる程に、本の女の方より急ぎ人を上せて、「京の若人が親の供養するとて、さる若き僧と馴れ染めて、今宵連れて失せ給ひて候」と申し上げれば、取る物も取りあへず、まかり下りて見候へば、げにも女なかりけり。本の女しかじか語りければ、それよりは僧といふ者をば、皆わが敵と恩ひて、わずかな領内をば皆、昔よりある寺、庵をも壊し、科なき行脚の僧をも、なまめき形も尋常なる者をば、これにてやあるらんと思ひ、あまた討ち殺し、そうじて領内に千僧供養の僧という者入るゝ事なし。ある時僧一人、日暮れて通りけるが、宿を借るに、それがしに恐れて貸す者なし。仕方なくて、この墓地の地蔵堂にとゞまりぬ。小夜ふけ、風すさまじく吹きて、身の毛よだち、魔物の来る心地しけり。野中の古き墓地なれば、魔縁などもあるやらんと思ひて、一心に地蔵菩薩に向ひ、地蔵の御前に途方にくれて居たりける。さる程にいづくの山とは知らねども、遠山の鐘の声して、夜半ばかりも過ぬらんと思ぼしきに、後の墓地よりしほしほ泣きたる声にて、「あな苦し、あな苦し」と言ふ。恐ろしなどいふはかりなし。今にも失する心地して、いよいよどうなるかと思案して居たるところに、声次第に近づきて、正面の方より内へ入るを見れば、かげろふなどのやうなる物也。しばしは物もいはず。やゝありて、「なう御僧、われにおぢさせ給ふ事なく、申さん事聞き給へ」と言ふをよく見れば、若き女性の影などのやうなる物なり。「わらは都の者にて、父中納言はかなくなり給ひ、かすかなる住ひにてありしを、思ひのほかに佐々木の一族豊浦の四郎と申す者に具せられて、十六の年より此三年程ありしを、本の女房、わらはを嫉み、人を語らひて、くゝり殺し、この堂の後に掘り埋み、亡き後には、御身のやうなる僧を連れて失せたる由申す程に、私が死にたる事を知らざれば、亡き跡を弔ふ事も候はず。あまつさへ僧をば敵と討ち殺す程に、たゞでさへ女は五障三従の罪深し。われ故に多くの僧を殺し候へば、いよいよ罪障をたくはへ候なり。然るべき御慈悲に、この由を豊浦に御物語り候へ。さる程ならば、豊浦が悪心をとどめて、わらは菩提を弔ひ候はゞ、長年の罪も浮ぶべし。不審に申し候はば、この小袖を見せ給へ。紅梅に、枯葦に鴨を縫いたる也。これは前の月、十一月十五目に京にいた男より賜びて候」。その文に添へて古歌を申して、      

「葦鴨の騒ぐ入江の白波の知らずや

人をかく戀ふるとは  

心の内を縫はせて参らせ候。春になり候はゞ、とくとく迎へを参らせ候はん」と書きたる文の言葉まで語りなどして、涙にむせび失せぬ。夜も明けぬればあたりを見るに、まことに小袖あり。出家の坊は人を助くるをもって本分とす。たとひ一命失ふとも行かばやと思ひ、此小袖を肩にかけ、三町ばかり西なりける豊浦がもとへぞ行きける。道にて会ふ人毎に、「あな浅ましや、たゞ今悲しい事を見給べき事よ。殿の御覧じたらば、露の命もあるべきか」とて、見る人毎に欺きけり。さて門にさし入り見れば、若党ども、詰所に鷹の朝裾へして、大火たいて居たるところに歩み寄りて、「案内申さん」と申ければ、人々これを見て、あな口惜し、主人の豊浦は、この僧をわれにや殺せと言はれんずらんを、手に汗を握りて、もの申す者もなし。押し重ね押し重ね高らかに「案内申さん」と申したりければ、出居の障子を荒く開けて、「人はなきか」とて出でたるを見れば、これぞ亭主の豊浦と思ぼしくて、年三十ばかりなるが、大刀左の手に持ちて、この僧を見、まことに嬉しげにて、「われは此程僧を見ずして気ふさがりつるに、珍しく御わたり候物かな。あれ召し捕りて、かの女の行方や知りたると拷問せよ。もし白状せずは、頭をはねよ」と怒りければ、若党、中間走り寄りて、僧を宙に提げ、庭上に引き据へたり。豊浦、縁に立ちながら、「とくとく拷問せよ」と言ふ。「拷問までもなし。お尋ねの女の御行方、この僧よく知りたり。それにつきて申べき事候て、参りて候」と申しければ、人々あきれて、「いかにいかに」と問ひければ、今宵の様をありのまゝに申して、小袖を取り出し、豊浦に取らせ、京よりの文の言葉までつぶさに語る。此小袖を取りて見るに、疑ひなきわが京より下したりし小袖なり。言の葉又さらに違はず。小袖の胸の引き合せに、刀の跡二所ありて、血つきたり。左の袂につきたる血、文字のやうに見えたりしを、よくよく見るに、「さても恨めしくなれそめ参らせさぶらひて、三年をだにも過ぐさずして、別れ参らせ候ぬ。しかも身もたゞならずなり候し事は、五月の頃よりにて候しかども、ならはぬ事に恥づかしくて、侍従にだにもかくとも申さず。孕みて空しくなりたる者はいとゞ罪深く候へば、急ぎ掘り起し、腹の内なる人を取り出し、よくよく菩提を弔ひて賜び候へ」と書きて、一首の歌あり。   

荒き風何かはらはんはかなくも

はらむ薄の露と消えつつ

と書きたるをよく見れば、まがふ所もなきわりなく思ひし人の筆跡なり。なかなかとかく申すに及ばず、急ぎこの僧を先に立てゝ、此墓地に行きて見れば、げにも新しく土を掘り、石を積みたり。掘り起し見れば、疑ひなきわが女なり。首に差縄をかけ、心前二刀通したる跡あり。げにも孕みて乳房の大なるを見るも、目もあてられず。さてあるべきにあらざれば、腰の刀を抜きて、腹かき破り見れば、玉を敷きのべたるごとくなる男子なり。目も暗く心も消えはてゝ、悲しともおろかなり。歎くにかひなき事なれば、そこにて葬礼の儀式取沙汰し、此地蔵堂を庵にこしらへ、この僧を庵主にて、一万僧供養して、女房の骨を取り、廿七と申すに、此御山に参り、はや七年に及べり」と申ければ、聖をはじめとして、墨染の袖をしぼらぬはなかりけり。


今度は後なる入道、まことに下種深くあくまで色黒く、片頭焼けはげて、目は顔中までたゞれたるが、柿色の帷子のよごれたるに、墨染衣の膝きりなるに、足には大あかぎれ、ところ隙間なくきれて、脛はこびりつきたるが、進み出でゝ申けるは、「懺悔には、よも差別あらじ、もとの上揄コ種はいり候はじ。下郎も懺悔申さん」とて推参す。座敷の人々興をさまして、目くばせを引き鼻を動かし笑ひけれども、末座にかしこまりて申けるは、「われらは土佐の国に幡多(現・幡多郡)と申す所の者にて候。廿と申す三月廿八日に、親にて候愚かな入道、「やい、やれ源大夫、薪をもとらず、芋や野老、葛根をも掘りて来ぬぞ」と申して、騒動し候ほどに、「父よ、しばし、今行くは」とて、掘串を腰にさして、鉈に天秤棒を取り添へて、山路をさして行くところに、年十七八とおぼしき小女郎が、沢辺の根芹を摘みて候を、よくよく見れば、年月戀し戀しと思ひし近くの馬の入道が娘、姫熊と申す女なり。胸うち騒ぎ、立ち寄りて言葉をかけばやと思ひつゝ、ためらひたりし有様を、物によくよくたとふれば、伝へ聞く女三の宮の煙くらべ、相木の右衛門督御簾をへだてし猫の綱心ひかれしゆへかとよ。又夕霧の大将の、雲井の雁のそら頼め、忍ぶ通ひの折々を、大臣これをあやしめ、御仲をさけさせ給しひどい仕打ちも、さこそは心あくがれけめ。かの在原の業平の斎宮に参りつゝ、子に寝かける夜の語らひより、丑三つばかりの御契り、神社の斎垣を声立てゝ言ひ出さんも恥づかしくて、しばしは足裏踏みて居たりしが、男の心と内裏の柱は太うても太かれと申す物をと存じ候て、立ち寄り袖をひかへて、かくる言葉のやさしさよ。「いざさせたまへ、姫熊ごぜ、うらと夫婦にならう」と申して候へば、この姫熊、面を振りて、「夫になして、おのれがやうなる焼け面を何にかせん」とて、ひかへたる袖を振りきれば、力なくしてうち放しぬれば、立ち退きぬ。されども胸ふさがりて、仕事をすれども手につかず。げに早い蕨の折からや、物憂き業の悲しさよ。葛根を掘ればいつとなく、人をうらみの心かな。野老を掘れば戀しさも苦々しくぞまさりける。泣く泣く家路へ帰りても、朝夕食の橡餅、粟粥、稗粥、黍団子、つやつや食いもいれられず。たとへば四位の少将が小野の小町を戀ひわびて、思ひを寝所に通はせて、君が来ぬ夜はとかこちしも、かくやと思ひ知られたり。露の命も今ははや、危うきほどに成りにけり。局の隅にうつぶして、明け暮れ寝をる夢にだに、姫熊ごぜの戀しさを忘るゝ事はなかりけり。ある時われらが父の入道、「やい、やれ、おのれは地頭殿の馬の草をも刈らぬぞ」と、鳴り立ち、追ひ立ち、咎めらるゝ。力なくして、源大夫、あかゞりて足手さし隠る、ものくさながら起き上り、鎌に縄を取り添へて、野辺のあたりに立ち出でゝ、刈りける草は何々ぞ、まづ姫熊を忍ぶ草、われをば人の忘れ草、その涙はまさり草、戀しと思ふ面影に向ふ心は鏡草、われ堕落せしと人に語るなと、花山の僧正遍昭の、語らひ給ひし女郎花、げにその名さへ睦ましや。契りの末の深見草、うらやましきにいざ刈らん。戀ゆへ胸もふさがりて、物一口も食らはれず、鬼の醜草刈るとかや。君にあはでの浦波に、浮きぬ沈みぬ藻塩草、もしも逢ふやと思ひ草、光る源氏の大将の、むちにて露をうちはらふ、蓬は薬の草ならば、胸のあたりのせきあへぬ、戀の病を直せかし。さて大葉子をかく事は、たゞ姫熊にあひなれて、口を吸はるゝよしもがな、いつまで草のいつまでか、かかる思ひに臥し沈み、逢ふことなしの草ならん。かやうの草を刈り持ちて、地頭殿へぞ参りける。馬屋の前に伺候して、御亭の方を見渡せば、折節和歌の会ありて、飛鳥井、御子左、此家々のその流れ、読師、講師の役人は、筆に短冊取り添へて、増す紙くりてうめきしは、たゞ病人にことならず。ことさら、われらが地頭殿、左の手にて頬かゝへ、声高にうなるりてましますは、われらが祖母のともすれば、虫食らひ歯の痛みとて、苦みうめくにさも似たり。さもあれば、先の世にいかなる罪の報にて、かゝる苦痛をし給ふぞと、若殿ばらに問ひたれば、「あれこそ歌と申して、これを花に鳴く鶯、水にすむ蛙までも、これをよみ、猛きものゝふの心をもやはらげ、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲立ちともなり、戀する者はもつとも歌にてこそ言ひよるほど寄るたよりともなれ」と言ひ給ふ。その時われらが思ふやう、「此程にはかに戀をして、はや死ぬるばかりに成りて候へ。歌御教へ候へ」と申して候へば、「いか程も御身にしむやうに」と申され候程に、家に帰り廿日ばかり案じて、   

姫熊を思ふ心は瘡頭

塩とすゝとをにじりつけつゝ

と詠みて、「人に書かせて、姫熊がもとへやり候はん」と申して候へば、頼まれ候人、「これいかなる歌の心ぞ」と申され候程に、「戀の心はいか程も身にしむやうにと言ひ給ふ程に、瘡頭に塩とすゝ程、しみわたる物は候はじと存じて、詠みて候なり」と申して候へば、腹をかゝへて笑はれ候程に、戀の病の悲しさに、又うち添へて恥かきたる事よと思ひ、瘡頭剃り、此御山にてもはや三十余年に成り候」と申ければ、一度にどつと笑はれける。


「この度は聖の御番にて候」と、面々に申されければ、「さらば」とてぞ語られける。「それがし廿一の年、本領相違する事ありて、在京七八年仕つりし程に、本領の祈りのために清水へ参り、それより五條の天神へ参り、願はくは本訴かなへて子孫に伝へ、その身は無上菩提身とぞ祈りける。百日参らせんと、宿願を立て、今二三日に参りなしたりし時、五條西の洞院の橋づめにて、美しき元結を拾ひたり。取り上げ見れば、心ことばも及ばず、皆紅に金泥にて菖蒲に時鳥を下絵に書き、同じく山賤の垣ほあるとも折々にと書かれたり。これは源氏物語の歌に、情をかけよなでしこの花と詠まれたる心とおぼえて、片方の手には、未央の柳風悠々たりと書かれたり。これも桐壷の巻に、玄宗皇帝の古へをたとへて書かれし言葉なり。さて元結のふところに麝香にて、とめ(少女)と書かかゝれたり。さて主の年十六にぞなり候らんと推し量られたり。いづれも源氏の心とおぼえて候。そのにほひ、沈香と麝香ふんぷんとしてたとへん方なし。いかなる人のかゝる元結しつらんと、その主ゆかしく思ふところに、年廿二三とおぼしき召使の女、ものを尋ぬるけしきにて、道のほとりを見廻りけり。それがし立ち寄りて、「何を尋ねさせ給ふぞ」と問ひて候へば、この女、「もし元結や拾はせ給ひて候らん」と申す。それがし「元結はこれに候。御主を明かせ給へ。参らせん」と申す。この女うち笑ひて、「それは人につゝませ御事にて候程に、御名をば申し候まじ。たゞ御元結を賜はらん」と申す。「あら御心深や。かゝる御物詣の道にては、物を隠さぬ事にて候。はやはや御名を給はりて御元結を参らせ候はん」としきりに問ひ候へば、此女、「かほどに執心して申べき事にては候はねども、主人のはかなき御手なぐさみに、源氏とやらんの言葉をあそばして候程に、あながちには申し候。さのみは何をか隠し参らせ候べき。これは近衛殿の寝殿造りの西の屋敷で小少将殿と申す人にてわたらせ候。今は御親亡くならせおはしまして、よろづ便りなく思ぼし召し、良縁の事をや祈らせ給ふらん。この七日は清水より天神へ御参り候なり」とねんごろに語る。いとゞゆかしくおぼえて、とある民家にて硯を借りて畳紙に、それがしかやうに連ねて、

問はばやな宇治の社の宮人に

いかなる神の元結なるらん 

と書きて、元結を包みて召使の女にぞ取らせける。見れば、天神の斎垣の内に練貫かづきたる女房にぞ出しける。取りて歌をたゞ一目見て、やがて袖に引き入れつ。さて召使の女を呼びて、とかく説得して、「あはれ、おかしき事を申して候。御返しの歌を賜りてこの世の思ひ出にし候はばや。歌の返しをせぬものは、七生まで舌なき物に生れ候なる」などと申して候へば、この召使の女、何とやらん、互に物を言ひ交すけしきにて、来りて、「かく申せと候」とて、   

玉垣の光のさすが見えそめて

神の元結も現れにけり

と申せし程に、いよいよゆかしくて、そのまゝ、この召使の女と行き連れて宿を見い入れ、その後とかくすかし出して、さまざまの引出物などして問ひければ、「御主もいまだわたらせ給ひ候はず。二親ながらいらせ給ひ候はぬ」と申せし程に、「われいかゞせん」と申して、手紙の数をつくし、心の底を知らせしかども、露ばかりの返事もなし。いまだならはぬ事とおぼえて、言ひ出す物さへ恨めしげに申すなどと承りし程に、いかゞせましと案じ、此人の母方の叔母で比丘尼、今熊野の辺にありしを知り合いとなして、此事いかゞし候べきと、さまざまに申せし程に、この比丘尼情深き人にて、色いろの仲立ちとなり、忍び忍びに通ひしに、いく程なくて本領安堵仕りし程に、やがて女を具して本国へまかり下り候はんと存じ候折節、伯耆の国乱るゝ事出で来りて、俄にまかり下り候。ある時は長々在陣につめ、ある時は道ふさがりて、思はざるに二、三年を過し、その後迎へを上せ候しかども、その行く方も知らずと申す。さてはあらぬ方へ靡きけるにやと、無念申すはかりなし。

 かくて年月をふる程に、ある時宿願の事ありて、熊野へ参らんとて、大勢引き具し、本官の按察の僧正坊に着き、新宮にては高原の阿闍梨のもと、那智にては花山院の入らせ給ひし弁の法印の坊に着く。夜もすがらもてなさるゝ事限りなし。その上、稚児たち十四人出し、法印は容易に人に出会はぬ人なれども、それがしに対面し、色々の遊び、管絃、そのおもしろき事、言語道断なり。その中に年の程十二三ばかりなる稚児容顔気高く、心身さはやかで、梨花一枝春の雨を帯び、青柳の風にしたがへるに異ならず。心ざまも情深かりげに見えたり。それがし見るにつけていとおしく、あはれかゝる人をわが子と思ひなば、いかばかり嬉しからまし、いかにこの人の父母のいとおしく頼もしく思ひ給ふらんと、心の内に思ひあまり、「さるにてもこれにわたり候少人は、いかなる人の御子にてわたり給ひ候らん。さだめて公家三家、執柄家の御ふるまい、たゞ人とは思ひ参らせ候はず」と申して候しかば、法印うち笑ひて、「此者は父が名をば知り候はず。母にて候し者は、この法師がためには姪にて候しが、あの子をまうけて、世になき事のやうにいとおしく思ひ候つるが、つねには姪が父の事を恨み、明け暮れ思ひ沈みけるが、さやうの恨みのつもりにや、又前世の定業やらん、病につき候て、あの児の七歳の秋のころ、はかなくなり候て、みなしごと成りて候しを、此山に迎へ取り、此法師が養ひ親となりて人になし、学問人にすぐれ、心ざまも悪しからぬ物にて候程に、わが跡をつがせ候べし。御子孫当山に御参詣の折は、あの児を坊主にて置き候はんずれば、長き世までも、師僧と檀那の御契約候へ」と申す。「何となくうち聞くもあはれにて候。さてさて御里はいかなる御事にてわたらせ給ひ候やらん」と、なほなほ返して問ひければ、法印、「姪にて候し者は、近衛殿の寝殿造りの西の屋敷、小少将と申す者にて候成り」と語る。不思議や、それがしこそさやうの人には馴れ親しんたりしか、たゞし世には同じ名もあり、又それがしより後、いかなる人に契りて、まうけたる子にてかあるらんと、あやしく存じ候しかども、なをおぼつかなくて、この児をすかし出して、片傍に呼び、「さるにても御身の父はいかなる人にてましますぞ」と、問ひて候へば、此児うち涙ぐみて、「われは父もなし、母もなし」と答ふ。「今は父母が居候はずとも、もとはなどか御居候はでは候べき。語らせ給ひ候へ」と申しかば、「父をば知らず、母にて候し者は、近衛殿の御所に、小少将とて候けるが、父にて候し人に捨てられ、恨みて年月を経給ひしが、病となりて、今を限りと見えし時、自らを御側に引き寄せて、仰せ候しは、『不憫や、父には腹のうちより離れ、行方も知らず。たゞひとり頼みて思ふ母さへ空しく成りなば、御身何となるべきぞや。かほどに果報なき人ならば、何しに人界に生を受けけるぞや。この世の中も恨めしや。わが身の程も甲斐なければ、命惜しとは思はねども、御身十五にならんを見ずして、空しくならば、これこそ成佛の障りとなるべけれ。せめて父添ひたらんを見置くと思はゞ、いかばかり心安すからん。父母戀しと思はん時は、此二色のかたみを取り出し、われを戀しと思はゞ、この元結を見て慰め、父戀しと思はん時は、この文よみて慰め。これこそ父の筆のすさみよ』とて、文、元結を取り出し、自らに賜びて、『生死無常のならひ、あながちに欺くによるまじ、ぜひぜひ、つゝがなくて、わらはが跡をねんごろに弔ひ候へ。あら、名残り惜しや、南無阿弥陀佛』 と、これを最期の言葉にて、廿五と申せしに空しくならせ給ぬ」と、語りて涙にむせび、うち解けたるけしきにて、「父母戀しき時はこのかたみを取り出し、人に隠して見て慰み候。父母戀しと歎く時も、あはれむ人も候はず候。なぜか、あなたを御なつかしく思ひ参らせ候。かまへてかまへて今より後、御参りの時は、この坊へ御着き候へ」と、かきくどき語るを、よくよく聞けばわが子なり。「その歌見候はん」と申せば、肌の守りより取り出したるを見るに、それがしが筆の跡なり。元結も、疑ふところなき昔愛した人の元結なり。たゞ今のやうに思ひ出でゝ、あはれに存じ、「さては他の事にても候はず、われこそ汝の父よ」と名のりて候へば、しばしはあきれて、たゞ涙にぞむせびける。さて法印にこの由申しかば、ともに涙を流し給ふ。それがし、子を持ち候はぬ者にて候程に、やがて連れて下り候はんと申すを、法印、非常に深く惜しみしを、四五日逗留して、さまざま申して、連れて下向して、本領ことごとくこの子に譲り、それがし、一族どもに暇を乞ひ、都へ上り、船岡山に小少将の墓の下なる遺骨を取り、首にかけ、この御山に登り、すでに三十一年になり候ぬ」と語りて、墨染の袖を顔におしあて、さめざめと泣かれければ、座中の人々みな涙をぞ流しける。