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さても、平敦盛の奥方は、都の西山の傍に深く忍び給ひけるが、敦盛の討たれさせ給ひぬると聞こしめし、夢か現か、こはいかなることぞと、臥し沈み泣き給ふ。世の常のことならねば、叫べど声も出でざりけり。身に余り悲しく思ぼしめし、衣を引きかぶり臥し給ふ。いたはしや敦盛、かつて奥方に、「源氏謀叛を企て、あなたはいかならん東男に見なれ給ひて、敦盛がことをば、忘れこそ候はんずらん」と、戯ぶれ給ひけり。又「御身はたゞならぬ身なり。男子にて有るならば、これを形見に取らせよ」とて、黄金作りの太刀、「女子にて有るならば、十一面観音を取らせよ」とて、取り出し残され給ふ。かやうにいろいろの思い出あり。又何につけてもあはれさを、これに譬へん方もなし。 さて月日を送り給ふ程に、御産の紐をぞとき給ふ。見ればいつくしき若君にてまします也。さる程に、いかなる所にも預け置き、夫の形見に見ばやと思ぼしめせども、平家の子孫をば、厳しく探し出し、十歳以後は首を斬り、二歳三歳をば水に入れ、七歳八歳をば刺し殺す。他人の事さへ悲しく思ひけるに、自ら此若君を取られ、憂き目を見んことも悲しきやと思ぼしめして、袷の着物にくるみて、紫檀の柄の刀を添へて、泣く泣く一乗寺の下り松にぞ捨て給ふ。折ふし、法然上人御弟子十余人を引きつれて、賀茂の大明神へ御参りありけるが、下り松にて、幼きものゝ泣く声を聞こしめして、立ち寄り御覧ずれば、いつくしき若君にてましますなり。法然上人御覧じて、不思議や、刀を添へ、衣に巻きて捨てけるやうは、たゞ人にては有るべからず、きつと、これは賀茂の大明神の御利益也と喜びて、拾ひ給ひ、御下向ありて、乳母を添へ、大切に育て給ふ。さる程に成人ましまして、学問人にすぐれ、一字を二字と悟り給ふ児なり。 ある時、熊谷入道、此児を見申し、「さても人多しとは申せども、一の谷の合戦に討たれさせ給ふ敦盛に、此児少しも違ひ給はぬ不思議さよ」とて、常に涙を流し給ふ。さて此児、宣ふ様、「われは父母も無き、みなし子にて有りけるを、上人とりあげさせ給ひて候」と申されければ、近づく法師このことを詮議せめぼやと思へども、今更命失ふに及ばずして、差し控へしけり。さて、若君涙を流し仰せけるは、「他の小人には父母を持ち給ふが、自らはいかなるらん、父母ともになかりけるぞ」とて泣き給ふが、上人の御前へ参られて、「さても自らは、いかならん、父母とてもなかりける」とて臥し沈み泣き給ふ。上人、共に涙を流し、「無慙や汝は、父母といふ人もなし、みなし子にて有りしを、この愚僧が今迄育ておきぬるぞ。かやうにいふ言の葉を、汝が父母とも思ふべし」とぞ宣ひける。若君、聞こし召し、あら父母恋しやと臥し沈み、湯水をさへ呑み給はず、煩はせ給ふ事、七日にぞなり給ふ。上人仰せ有りけるは、「もし面々の中に、不審なることを見出したる人も有るか」と、御尋ねありける。 さる程に、御弟子の熊谷入道申すやう、「六歳の年、説法の御時、年の齢二十ばかりの上臈の、容顔美麗に御あり候が、十二単衣に出で立ちたる御方の、此児を召して愛し侍りけるが、人目多かりければ、さらぬやうにもてなして、帰らせ給ひけるを、見参らせてこそ候へ」と申しければ、上人、聞こし召し、「さらば明日より説法を述ぶべし」とあり、必ず、聴く其中に、此児の母とおぼしき人有るべしと思ぼし召して、御説法をぞ述べ給ふ。その時、上人、やがて涙を流し、御衣の袖をぬらし給ふ。やゝ有りて宣ふやう、「此中の聴聞の人々、聞こし召せ。先年、賀茂の大明神へ参り候時、下り松にて幼き者を拾ひ、乳母を添へ育てゝ候が、七歳にまかり成り候が、此程何とやらん父母を恋ひて、今日七日が間物をも食はず、湯水をさへ呑み給はず、はや存命不定にて候。この聴聞の中に、行方を知りたる人や居り候。幼き者に行方を知らせて給はりたる事ならば、何かは差し支へあるべき、明日になり、六波羅へ聞え、平家の末なればとて、殺し給ふとても苦しからず、行方を知らせて心残りなく殺して賜び給へ」と仰せもあへず、御衣の袖をぬらし給ふ。見る人聞く人、共に涙を流し給ふなり。その時、左の方より、十二単衣に出で立ちたる女房の参り給ふが、此人の御姿を見れば、育黛の眉墨、丹果の唇にほやかに、菖蒲の姿にて、太液の芙蓉の紅、未央の柳の緑、眉墨にほひきて、白朮の肌、蘭や麝香のにほひ、容顔美麗にして、心も心ならず、いつくしき女房の参り給ひて、此児を見参らせ給ひて、そのまゝ膝の上にのせ愛し給ふが、幼き人は、はや、目もふさがり消え入り給ふやうに見えければ、容顔美麗の女房も、流涕こがれ給ひけり。上人も椅子よりころび落ち、流涕こがれ給ひけり。その時女房仰せけるやうは、「自らをばいかなる者とか思ぼしめす。御恥づかしながら、少納言入道信西にとりては孫の局の妹、ならのないでんとは自らが事なり。敦盛は十三、自ら十の年より、便りの文をとりかはし、夫婦の仲となりしに、はかなくも、元暦元年一の谷の合戦に討たれさせ給ひし時、自らたゞならずありしを、男子にて有るならば、これを形見にとらせよとて、その刀を置かせ給ふ。また女子にてあらばとて、十一面観音を、紅の母衣に包み給ひて残し給ふ。かやうにいろいろあり。さて、やうやう産の紐をときしかば、見れば敦盛に少しも違ひ給はぬ男子なれば、いづくにも隠しおき、形見に見ぼやと思へども、平家の子孫をば、厳しく探し取り出し、おとなびき者をば首を斬り、いとけなきをば水に入れ、二度も悲しき思はするならばとて、捨て子せしが、生きてめぐり会ひしは歎きの中の喜びなり」。さる程に若君、母の名残りの声を聞こしめし、仏神三宝の加護とおぼしくて、甦りし給ふかと、憂きにも涙、嬉しきにも涙、先立つものは涙なる。 さる程に、その後、若君、人目を憚りながら、賀茂の大明神へ御参りありて、祈誓申しあるやうこそあはれなれ。「願はくは父の敦盛に、今一度あはせて賜び給へ」と、肝胆をぞ砕き給ふ。満ずる暁、年の齢八十ばかりの老僧、鹿杖にすがり、かの児の枕上に立ち仰せ有りけるは、「あはれや汝、いまだ見ぬ父をかほどに思ひけるか。これより先の摂津国の昆陽野、生田と尋ねよ」との御夢想ありけり。 さる程に小人は起き上り、斜めならず喜び、夜明くれはやがて下向申し、足に任せて行く程に、都を出でゝ十余日と申すには、摂津国一の谷にぞ着き給ふ。折ふし雨は降る、雷や稲妻激しければ、心細さは限りなし。磯うつ波の声、かれを聞きこれを見るに、いとど辛さは限りなし。それより行く手を見給へば、小さき堂あり、灯火かすかなり。いかなる天魔魔縁のものゝ火か、または人もあらばと嬉しくて、行きて見給へば、薄化粧に眉つくりたる気色にて、いかにもはなやかに装ひたる人の、縁行道しておはしますなり。若君、ほとほとと叩き、「物申さん」とありければ、「誰そや、この人も住まぬところに、物申さんといふは、いかなる者ぞ」と有りければ、小人泣く泣く宣ふやう、「これは都の者にて候が、父の行方を尋ねて、此十余日と申すに、足に任せて来り候が、雨は降る、暗さは暗し、行くべき方もなし、今宵一夜の御宿を、御貸し候へ」と宣ふ。「さて父はいかなる者ぞ」と宣ふ時、小人仰せけるは、「父にて候人は、平家の一門、修理大夫敦盛の御子、無官大夫敦盛と申す人なり。一の谷の合戦に討たれさせ給ひ候を、自ら恋しく思ひ申し、賀茂の大明神へ参り、百日祈りければ、効験あらたかに霊夢をかうぶり、足に任せて迷ひ申すなり」とぞ宣ふ。敦盛、聞こしめして、やがて倒れ伏し泣き給ふ。やゝありて起き上りて、泣く泣く小人の手を取り引き寄せて、召したる物の雨に濡れたるを脱ぎ替へさせ給ひて、きつく抱きつかせ給ふ。敦盛仰せ有りけるやうは、「無慙や、汝はいまだ見ぬ父を、かほどに思ひけるこそあはれなれ。汝胎内にして、七月と申すに、一の谷の合戦に出で、熊谷が手にかかり、十六の年討たれて、此八年が間、死後の苦患申すはかりなし。まことに汝供養の心ざしあらば、善根をして、敦盛が後生に得さすべし」とぞ宣ふ。その時若君、「さては我父にてましますか」とて、斜めならず喜びて、縋りつき給ふ。その後敦盛、宣ふやう、「我ことをかほどに思ひ給ふべからず。汝肝胆をくだき、祈り申す心ざしを、賀茂の大明神あはれに思ぼしめして、閣魔王に仰せありて、刹那の暇を乞ひて、今、汝に姿を見せるなり。決して、今より後、我ことをかほどに思ふべからず」と宣ふ。若君仰せけるは、「閣魔王に御頼みありて、自ら御前に参るべし、父は是より都へ御上りありて、自らが母に今一度見えさせ給へ」と申されければ、敦盛、御涙を流し宣ふやう、「あら無慙やな、生れてよりして、この死別の道は、たゞでさへ名残惜しき習ひぞ」とて、髪かき撫でゝ涙を流し宣ふやう、「若君は、さては、これより都へは上るまじき」とて、流涕、悲しみ歎き給ひけり。敦盛、思ぼしめしけるは、心弱くてかなふまじ、ことに時移りいかがせんと思ぼしめしけり。若君はいまだ慣れぬ旅のくたびれに、敦盛の膝を枕として、少しまどろみ給ふ。さる程に敦盛名残の惜しさは限りなしとは思へども、よき折と思ぼしめして、心強くなして、腰より矢立を取り出し、若君の左の袖に一首の歌をあそばして、さて、行きては帰り、帰りては行き、名残をぞ惜しみ給ふ。さて、あるべきにあらざれは、かき消すやうに失せにけり。 やゝありて、若君起き上り給ひ、父に抱きつかんとし給へば、有りつる堂なり。夜もやうやう明けければ、やもめ烏も告げ渡る。こは、いかなるぞ不思議や、父の膝を枕として、臥したると思ひしが、五寸ばかりの膝の骨の、苔むしたるを見つけて、さてはわが父の骨にて有るよと思ぼしめして、天に仰ぎ地に伏して、流涕こがれ、いかなる事ぞとて悲しみ給ふ。たゞ「われをも連れて、死出の山、三途の川の御供申すべし」とて、声も惜しまず泣き給ふ。さて有るべきにあらざれば、せん方もなく力及ばず、父の膝の骨を頸にかけて、泣く泣く涙をしるべに行き給ふ。さて左の袖より一首の歌をあそばしける。 何歎く昆陽野生田の草枕 露と消えにしわれな思うそ 此歌を顔にあて、臥し沈み泣き給ふ。しばらくありて、正気を取り戻し給ひけり。かくて有るべきにあらざればとて、御歌と膝の骨とを頸にかけ、泣く泣く都へぞ上りける。さて御歌を母御前に参らせられ給へば、敦盛の日ごろあそばしたる御手跡なり。別れの時の御面影、今見るやうに思はれて、再びものを思はする、欺きの中の喜び也。とにかくに、命捨てばやと思ぼしめすが、待てしばしわが心、自ら空しくなるならば、若君何とかなるべきぞ、また、かの人の後世をも、誰か弔ふべしと思ぼし召し、思ひ返へしてとどまり給ふ。 さるほどに、奥方は、よくよく物を案じ給ふに、いたづらに月日を送らんよりも、いかなる所にも堂を立て、敦盛の御跡を弔はばやと思ぼし召し、都あたりに柴の庵を結び、わが身は、再びうき世にかへること難し。まことや、此世にて、敦盛に逢ひ奉らん事は及びなしと、流涕こがれ給へば、共に若君も天に仰ぎ地に伏して悲しみ給ふなり。奥方、思ぼし召しけるは、釈迦仏の御教へに、後世を願ひて極楽に参れば、同じ蓮の上に生るゝと説かせ給ふと承る。是を極楽に往生する機縁として、御身を改めて、花の袂を墨染の袖となし、若君をば形見として世話したくは思へども、見ればなおも辛きに、法然上人へ返さばやと思ぼし召し、辛きことにまた辛きことを思ひ続けて、泣く泣くこそ別れ給ひけり。 かくて今は早や、わが身一つになり給ひ、いつまで物を思ふべき、いかなる淵瀬へも身を投げばやと思へども、柴の庵を結び、敦盛の菩提を弔ひ、御骨を納め水を手向け花を折り、仏道修行して、つひに極楽往生を遂げ給ふ。いよいよ是を見る人々、よくよく後生を願うこと肝要なるべきなり。 |
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