番外編・上海バイク事情@







中国。
悠久の歴史と広大な国土をもつこの国は、私にとっていつも特殊な場所だった。
初めて訪れたのは1985年の4月。
NHKの「シルクロード」が放映された直後で、巷には「シルクロードブーム」とも言うべき
関心が沸き起こっていた。
私もこの番組を見て中国への憧れを募らせた一人である。
万里の長城や北京の故宮、古都西安や敦煌の石窟群をこの目で見てみたい。
しかし中国はまだ厚い鉄のカーテンの裏にあり、一般人は易々と訪れることの出来ない
場所だった。
いや、現地ガイド(兼監視役?)付きの団体旅行で行くのは可能だったが、個人で行くことは
不可能に近かった。
ましてや辺境のシルクロードなど・・・。

ところが1985年のある日、私が書店で立ち読みしていた「地球の歩き方」
(ちょうどその頃刊行が始まっていた)の中国編に、
中国がいよいよ個人旅行を解禁、と書いてある。
それによると中国はその前年(84年)頃から個人の自由旅行を受け入れるように
なったらしい。
旅行者は原則自由に中国の「開放都市」(北京・上海などの大都市)を訪れる事ができる。
また、許可証があれば地方の準開放都市にも入れるという。
許可証は現地の公安局から簡単に入手できる。
但し中国入国のルートは香港から深センを経由するものに限られるようだ。

よし、これは思い立った時が行く時だ。
今行かなければ二度とチャンスは来ないかもしれない。
そう思い、さっそく旅行社に「中国自由旅行パック」を申し込んだ。
これには中国ビザ取得料と香港までの往復券、香港一泊のホテル代と翌日の
香港−深セン−広州間の列車チケットが含まれている。

そして1985年の4月のある日、バックパックにわずかな衣類と日用品、ウォークマン、「地球
の歩き方」中国編を詰めこんで、一路香港へと飛び立ったのだった。

*

初めての中国は、まさに驚きの世界だった。
広州の市場では、猫やフクロウや山椒魚などあらゆる生き物が売られていた。
桂林の水墨画のような山並み、神秘的な西安の兵馬俑遺跡、敦煌の石窟群、
西遊記の舞台となったトルファンの火焔山、巨大な万里の長城・・・
それぞれが圧倒的なスケールで私に迫ってきた。
本場の中華料理(それは私の慣れ親しんだ日本の中華とは少し違うものだったが)も、
もう一つの驚きだった。
成都の元祖麻婆豆腐、北京の全聚徳の北京ダック、上海の豫園の小籠包、
西安の羊のしゃぶしゃぶ、西湖の桂魚、ウルムチのバザールのシシカバブ、
ハルピンの朝鮮族の店の犬料理、名もない小さな店で人民達と食べた惣菜や
どんぶり入りの温いビール、朝飯代わりの包子・・・。

そして何よりも私の関心を引いたものは、その広大な国土に暮らす十億の人々の
暮らし振りだった。
改革解放前の中国は貧しい。
現代の中国はどの都市にも自動車があふれ返っているが、当時はバイクさえ少なく、
市内の主な交通手段は自転車と二両連結のバスだった。
その自転車が朝晩北京や上海の市内にはあふれ、その間を縫ってこれも乗客を満載した
バスが走り抜けてゆく。
女性は化粧もせず、粗末なブラウスとスラックスを身にまとい、男性は仕立ての悪い
背広か人民服だった。
都会の若者は私の持っていたウォークマンを珍しそうに見ていたが、
それは彼らの給料の半年分にも相当するものだった。

しかし彼らは誰もが明るい表情を浮かべ、一生懸命に仕事に汗を流していた。
社会主義国には競争がないため誰も本気になって働かず、経済が停滞するという説を
信じていた私には、それは意外な光景だった。
彼らが懸命になって働くのは、明日の豊かな暮らしを信じていたからなのかもしれない。
私の目に映る彼らの姿は、昭和20〜30年代の日本人が国を建て直すため必死になって
働いた姿とだぶってくるのだった。

一方、田舎に行くと、そこには別の中国人の姿があった。
貧しい住宅に住み、原始的な道具で畑を耕し、裸電球のともる人民食堂で
強い白酒を飲みながら大声で賭け事に興じる彼らは、まるで文明の進歩から
取り残された人々のように思えた。
いや、実際、中国の民衆は四千年も前からこんな生活をしてきたのに違いない。
統治者がどう変わり、世界がどう変わっても、この人達はこのようにして何千年も
生きてきたのだ。
名もない十億の民衆の姿とそのパワーは、私に深い感銘を与えた。

見るもの聞くものすべてが珍しく、気が付くと2ヶ月が過ぎていた。
その間に私は陸海空とすべての交通手段を使って中国をぐるりと一周した。
広州−桂林−成都−西安−敦煌−トルファン−ウルムチ−北京−ハルピン−大連−
上海−蘇州−杭州と13の都市を巡り、5月の下旬に上海から帰国した。


20年前のルートと今回のルート

悠久の中国。
その印象は20代の私には実に強烈なものだった。
2ヶ月の旅は私の人生の中での大きなエポックだった。
いつか再びこの地に帰ろう。
そしてもう一度、もっとよく中国を見てこよう。
帰国してからしばらくすると、その思いが日毎に強くなり、私を捉えるようになった。

*

時が経つのは早い。
気が付けばあれから20年が経っていた。
その間私は世界の国々を旅して歩いた。
20代の頃はバックパックを背負い、インドや中米、トルコ、北アフリカを歩いた。
仕事の関係で東側諸国にも何度か訪れ、まだ共産政権下のチェコやハンガリー、
ベルリンの壁崩壊直後の東ドイツ、ペレストロイカの只中のソ連、
独立後間もないウクライナも訪れた。
東南アジアやヨーロッパ、北アメリカなどは数え切れないくらい訪れた。
結婚して家族ができてからは、オーストラリアや太平洋のリゾート地を毎年訪れる
ようになった。

しかしなぜか、中国をまた訪れる事はなかった。
それはもちろん、2ヶ月もかけて中国を充分見てきたという気持ちがそうさせていたの
かもしれない。
だがそれ以上に強かったのは、あの時代の中国――1980年代半ばの、まだ西側の
文明にほとんど俗化されず、昔からの姿を保っていた中国の素晴らしいイメージを
壊したくないという気持ちである。
あの時代の中国を見ることができたというのは、私の人生の中で最もラッキーな
出来事の一つだった。
その旅の思いでは私の人生の宝である。
それを自ら壊す事がどうしてできようか。
――そう、テレビや新聞で見る限り、中国は変わってしまった。
昔の中国に会えることはもう二度とないのだ。
それなら私は思い出に生きよう(ちょっと大げさか)。
おそらくもう二度と中国を訪れる事はないだろう・・・。

*

だが話は思わぬ方向に転回する。
「まこぷんさん、月末に中国に行ってくれませんか。」
頼まれたのは、私と同業のO社長である。
ちょっとプライベートな事なので言えないが、私の働く業界はかなり人件集約的な産業で、
数年前より中国からの人材を受け入れて研修生の名目で就労させている。
受け入れのために「中日友好○○協会」という協会を数十社合同で立ち上げ、
そこが窓口となって年間数百人の中国人学生を日本に招聘している。
いや、別に安価にこき使っているわけではなくて、本当に研修の場を提供していると
私は思っているのだが。
で、その協会が今回中国側の同業者の協会と姉妹提携を結ぶ事になったのだ。
ついては6月末に中国の海南島で調印式があるので、私に代表として行って欲しいとのこと。
「いや、みんなちょっと忙しくてねえ。代役よろしくお願いしますよ。」

・・・え、俺が日本の代表?

なんと、私が理事長の代理で調印式に臨むのだ。
どう考えても私は日本を代表するにふさわしくない人物なのだが。
そう思いながらも、私はその場で二つ返事で承諾していた。
やっぱり中国に行きたいもんなあ。
この際昔のイメージなんてどうでもいい。
とにかく中国の「今」を見てみたい。
・・・ええと、それから、おいしい中華料理も食べたいしね。

*


海口(海南島)は近代的な町

そんなこんなで慌しく中国行きの日程が決まり、すぐに出発の日が訪れた。
中国での行く先は青島、海南島、そして上海。
青島と海南島は日本の北海道と沖縄くらい離れており、気候も風物も全く異なる土地柄だ。
この2都市に関してはこのレポートの主旨ではないので割愛するが、
どちらも観光客として訪れるには充分に魅力的な都市だった。
それから海南島での調印式とそれに続くパーティーは、私にとって忘れられないものとなった。

ホテルの大会議室の壇上に設えられた調印台。
200名ほどの日中両国の業界トップたち(実は日本人は私を含め2人だけ)が見守る中で、
私と中国代表とがサインを交わす様子は、まるで日中国交回復の調印式に臨む
田中角栄と周恩来のようだった(ような気がする)。

・・・しかし、本当に俺が日本を代表していいの?


ホテルは五つ星

調印式の夕刻に行われたパーティーには、山海の珍味が並べられ、20名掛けの巨大な
メインテーブルに座った私は左右からの乾杯攻めにあっていた。
お酒は白酒(パイチュウ)と呼ばれる強い蒸留酒で、50度くらいある。
中国式の乾杯は文字通りの乾杯なので、全部飲み干してグラスの底を見せるのが礼儀だ。
ショットグラスよりも小さな乾杯用のグラスだが、何十回とそれを傾けるうちに足元も
おぼつかなくなってしまった。

「友好を祝して乾杯!」
「中日友好のために!」

・・・しかし、なんとフレンドリーな人達だろう。
中国の人々は身近な人に対してはきわめてオープンで暖かい。
ちょうどその頃中国各地では反日デモの嵐が吹き荒れていたのだが、そんな事などまるで
嘘のように、一人一人がにこやかな笑顔で私に乾杯を求めてくる。
・・・そう、役人や政治家同士のもめ事などどうでもいい。
一個人として、あるいは一企業人として彼らは私と友好を深めたいのだ。
そして私の思うところも全く同じだ。
本来の日中友好はこんなところから始まるのだろう。

酔ってぼんやりした頭の中で私はそんな事を考えていた。


お酒・ごちそう・楽しい人達・・・

それにしても、私にはそんな状況の中にいる自分が不思議でならない。
20年前、中国に来てこんな事をしている自分を少しでも想像できただろうか。
日本と中国は、今とは比べものにならないほどかけ離れた世界だった。
社会も文化も経済も、まるで別世界だった。

そして20年が経ち、自由に、豊かになった中国。
まだ日本の水準には届かないものの、成長の活気にあふれ、生活の豊かさを享受する
までに成長した中国に、自分自身が訪れ、彼らと酒を酌み交わす事になるとは。
そんな私を私自身が不思議な目で見ていた。
20年間私は何をしていたのだろう。
仕事に就き、結婚し、子供ができて、あっという間に20年経ってしまった。
まさしく須臾の間の20年だった。
その間にこの国ではこれだけの変化が起きていたのだ。

次々と乾杯を求めてくる中国の友人たちと杯を重ねながら、私は別世界を彷徨っている
ような気分を味わっていた。
四千年の歴史と20年の発展。
この二つが共存する事の不思議。
私はこの国の持つ計り知れない魅力に、再び取り憑かれ始めていた。
20年前のあの頃のように。



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