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過去に漫画クラブと漫画クラブ以外にブログなどで書き連ねた「放言」を集めてみました。
的外れのことを書いていたり、予想や妄想が当たってしまったりと、まさに放言ですが、その時代を振り返るのも面白いかと思い、ここに再録することにしました。

−2006年−


日    付 初期掲載
2006.1.7 「男尊女卑の精神を覆い隠すいやらしさ」

日本政府の女性閣僚は今たったの二人。
少し古いデータだが、2005年1月1日現在の各国の下院(衆議院)女性国会議員の比率で日本は184ヵ国中の98位の7.1%。
これはG8諸国中では最低。
大企業の経営者の女性比率も先進国中で最低クラス。
たとえ家庭における女性の役割を別にしても、昔も今も女性の労働力なくしては、日本の経済など成り立たなかったのに、負担に見合うだけの地位が与えられていない実情はいつまでたっても良くならない。
殖産興業の明治時代どころか、高度成長時代も日本の大半の企業は「コトブキ退社」というもっともらしい名目で女性労働力を使い捨てにし、「機会均等法」で使い捨てが難しくなると「正社員」から「契約社員」「派遣社員」に労働力をシフトして実質的に女性を幹部昇進の道から遠ざけてきたきた。
自営業ではもっと女性の役割は大きい。
それにもかかわらず、いまだに男尊女卑の思想が残っていることが歴然としているのに、日本の政府も国会も本気で改善しようとしていない。
それどころか「ジェンダーフリー」という国際的に認知された概念さえ、不適当な言葉だから公的な場では使わないようにしようなどと時代錯誤のことを言ったりする政治家・役人が横行している。
実に卑怯極まりない。
男尊女卑という下劣な精神を言葉巧みに覆い隠して、女性の社会参画を狭めておこうとは。

漫画クラブのコラム
2006.1.12 「野菜の価格高騰で困る前に」

豪雪・厳寒の影響で野菜の価格が高騰している。
被害を受けた人たちには気の毒としか言いようがない。
だが改めて思い直すと厳冬期に新鮮野菜が低廉価格で日本国中に流通してきたことの危うさが露呈したと言えなくもない。
野菜にしても果物にしても、一年中流通しているものが実に多いのだが、このこと自体が実に不自然なことだ。
たしかにこの冬の気象は記録的な異常さだが、長期の気象変化の振幅からすればありえないことではなかった。
しかも国際原油価格の高騰という気象以外の要素までが加わってのことだ。
今回の野菜価格の高騰で、日本の食糧供給が人工的で不安定な条件に支えられていることに、一般の国民の関心が少しでも向けば良いのだが。

漫画クラブのコラム
2006.1.15 「伝統的天皇制と皇位継承問題は別」

「男系男子継承でなければ天皇制の伝統が守れない。」という雑音を発する者たちがいる。
何を勘違いしているのだろう。
伝統的な天皇制などはどうでもいいのだ。
現在の日本国憲法には天皇の地位は世襲制ということと継承方法は国会の定める皇室典範によるとだけ規定されている。
つまり天皇制の持つ抽象的意味など、立憲国家である日本は議論の対象にする必要がないのだ。

漫画クラブのコラム
2006.1.21 「巨悪は衆人環視で行われる」

ライブドア・グループ企業の不正な株価操作がひと騒ぎ起こしている。
その前にひと騒ぎ起こした「耐震設計偽装問題」も国会の証人喚問と参考人招致で、またマスコミが取上げている。
どちらもこそこそ隠れてやった不正なことが露見して大問題になった。
たしかにそれによって引き起こされた被害は大きな社会的問題には違いない。
しかし所詮、一企業あるいは一握りの人間の我欲が起こした「小さな悪事」に過ぎない。
これに比べると、小泉独裁首相は堂々と衆人環視の中で日本国が国際的に表明した歴史的過ちに対する反省の意を否定するという巨大な悪事を行っている。
国や地方公共団体や公共事業体にしても、その一部の人間たちが結託して堂々と不正な予算支出で私利を得るという巨大な悪事を働いて国民の財産を収奪している。
こそこそ隠れてやった悪事が露見すると大騒ぎするが、そんなバカ騒ぎのために、ほんとうの巨大な悪事が白昼堂々、衆人環視の中で行われていることに対しての国民の関心が高まらない。

漫画クラブのコラム
2006.1.25 「雅子さんの離婚問題」

週刊誌の新聞広告によると皇太子妃の雅子さんの離婚を取り沙汰する向きがあるようだ。
皇太子妃でいる限り病気が治癒しないからなどということらしい。
もしほんとうに皇室関係者が雅子さんの離婚(ということは皇太子の離婚)を考えているのだとすれば、本音は病気回復のためなどではなく、皇太子を再婚させて男子を誕生させようというところだろう。
仮に雅子さんの病気回復のために皇室を離れることが本当に必要だとしたら、その責任は皇太子も負わなければならない。
なぜなら外交官としての志を持った女性を口説き落として皇室に迎えたのは皇太子だからだ。
男子として愛する妻を守る責任を果たすのなら一家三人で皇籍離脱をするべきだろう。
この場合、女性を愛することは私事で、皇位継承は公的な義務である、などと論じるべきではない。
愛する女性を守ることもできない人間が国家の象徴となることの方がよほどおかしいのだ。
もし皇太子がその地位を秋篠宮に譲ってでも雅子さんを守るとしたら、快哉を叫ぶ国民もさぞ多いことだろう。

ブログ「滅びゆく日本」
2006.1.27 「牛肉流通規制の世界標準は?」

日米政府間合意で再開された米国産牛肉の輸入があっけなく中断した。
合意条件を無視して輸出したアメリカの業者はもちろん問題ありだが、その前に一つ大きな疑問がある。
米国産牛肉を輸入していたのはもちろん日本だけではないのだが、他の国での米国産牛肉の輸入規制はどうなっているのだろう?
イギリスなど他のBSEが発生した国からの牛肉輸出も再開されつつあるらしいが、世界全体ではBSE発生国の牛肉輸出規制は今どうなっているのだろう?
別に他国と日本と安全基準が違うこと自体はかまわないと思うのだが、比較するとか世界的な大勢を知るとか、そのぐらいのことは必要ではないだろうか。
なぜかテレビでも新聞でもそのような比較資料を見たことがない。
まるでマスコミが一丸となって国産牛肉と豪州産牛肉を保護しているかのように見えるのだが、これは政府による報道コントロールでも働いているのだろうか?
実に不思議だ。

漫画クラブのコラム
2006.2.4 「ゴミ有料化で"万事解決"するわけがない」

"エコ"の時代の流れと、自治体の負担軽減化の思惑が一致して「ゴミ収集の有料化」が全国的に広がりつつある。
たしかに過大なゴミを出す人や団体に応分の負担を求めるのは当然のような気もする。
しかしこれには大きな問題があることが議論されていない。
ゴミの不法投棄が拡大するだろうということだ。
今でさえ分別収集やゴミ集積指定箇所や指定日について守られない例があまりにも多い。
その一方、ゴミ収集を仔細に規定している自治体によっては、町会や住民グループにゴミ出しルールの責任を負わせ、違反ゴミは当番に当たった住民が無償奉仕で始末しているという。
これではまるで第2次大戦前の国民総動員体制の連帯責任ではないかと思うぐらい、ちょっとおかしい。
今の日本で一般ゴミの収集まで有料化すれば、不法投棄もルール無視のゴミ出しも当たり前になってしまうだろう。
そうなった場合、一部の者たちの無責任な行為の始末はいったい誰がどのように取るのだろう?
まさか地域住民の連帯責任で費用負担しろとまでは言われないだろう、などと思わない方がいい。
まさかと思うようなことを次々にやってしまうのが今の日本という国だ。

漫画クラブのコラム
2006.2.8 「紀子さん妊娠で何がめでたいのか?」

数年前宮内庁の役人が秋篠宮に第3子を期待する旨の発言をして(恐らくそんなことも皇太子妃の今の病気の原因ともなったのだろうが)、一般人がその発言を忘れた頃に現実のものになった。
皇室典範改正反対論者はまるで鬼の首でも取ったように喜んでいることだろう。
しかしこれでまた男子が誕生しなければ逆にもっと皇室典範改正を押す世論が強くなるだろう。
よしんば男子が誕生したところで、その親王が成人して次に男子を作らなければ、また同じ議論が蒸し返されるだけのことだ。
新聞では自然妊娠と報じているが医学的に男女の産み分けの処置をしないで秋篠宮夫妻がセックスをしたと信じていいものなのかどうかもよく分からない。
どちらにせよ、今の皇室典範では皇室に嫁ぐ女性に種付け馬の役割しか期待されていないし、女性としての人権への配慮がないというのに、紀子さん妊娠でもろもろの問題点が全部あいまいにされそうになっている。

ブログ「滅びゆく日本」
2006.2.8 「不敬とは時代錯誤な」

最近の皇位継承問題などで見過ごすことのできないことがある。
皇族の発言に対しての批判や皇室改革の提言に対して「不敬」であるとする者達がいることだ。
「不敬」とはなにごとだ。
皇室と国民の関係は君臣の関係ではない。
戦前はともかく今の日本では西欧諸国と同様、国民が皇室の存在や発言についてどのように批判し否定しようと自由だ。
一般国民に戦前のような皇室尊崇を強要する風潮をもたらしかねないのに、少なくともマスコミが思想弾圧につながる「不敬」などという言葉をためらいもなく使うことがあって良い筈がない。
今のところ大新聞までが「不敬」などと書いてはいないからいいようなものの、油断をするといつの間にか国民が「臣」に戻る流れが出来上がっているかもしれない。

漫画クラブのコラム
2006.2.11 「無期限に貸すのは占領されているということ」

香港が「一国二制度」という形にしろイギリスから中国に無事返還されたのは、香港の大半が99ヵ年の期限を定められた租借地だったことによるところが大きいだろう。
戦争に破れるなどで他国に領土を占拠される羽目になった例は世界史上に無数にあるが、99年以内の有期限の租借という条約を結んでいた例が非常に多い。
100年を超えるとは永遠の意味というのが外交史上では常識らしいが、それからすれば期限を定めない米軍用地の提供とは事実上の日本領土の割譲ではないだろうか。
日米安保条約が永遠不変であることがあたかも国是のようになりつつあるのだが、これを側面から見れば日本の国土内にアメリカ領土が点在することを日本国が是認しているようなものだ。
こういう現実を固定化しようとする人々が唱える「愛国心」の「国」とはいったい何を指しているのだろう?

漫画クラブのコラム
2006.2.18 「安倍官房長官の政治的資質はまともなのか?」

2月17日に都内の講演で安倍官房長官が「ライブドア事件は規制緩和の結果ではなく、教育の結果だ」という主旨の発言をした。
戦後の教育の行政を牛耳っていた自民党の党員のくせに(それも三代に亘って党幹部となっているのに)よく言うわ、と思う。
無責任というだけではなく、戦後民主主義教育そのものを否定する安倍個人の思想が発露されていて見過ごすことのできない発言だ。
戦前の日本社会に横溢していた男女差別、他民族蔑視、部落民差別、封建的階級秩序といったものを是正してきた戦後教育を否定して、いったいなにを良しとするのだ。
こんなやつが次期首相の最有力候補というのではこの国はいつまで経っても良くならない。

漫画クラブのコラム
2006.2.22 「日本を蔑視するアメリカ」

米農務省が公表した牛肉輸入再開の日米合意違反事件についての400頁以上もの調査報告書の結論は、「食品加工業者と検査官が日本向け輸出条件を十分に認識していなかったことによる人為的なミスにすぎない」のだそうだ。
日米合意にも農務省にも問題はなくて単なる個人的なミスだとは、いったいどういう理屈なのだろう。
輸出条件を関係者に徹底できなかったわけだから、これはまさに体制の欠陥と言うべきだろう。
知っていながらうっかり見逃してしまったとか、間違えたというのなら人為的なミスとの言い訳もできるかもしれないが、それ以前の段階での問題なのだから。
こんなまともではない報告書を平気で出してくるということは、要するにアメリカという国が日本をここまで見下しているという現れだろう。

漫画クラブのコラム
2006.2.24 「オリンピックは面白いのだが」

オリンピックなど見る側からすれば所詮ただの娯楽だ、と言うと「ただの娯楽とは何だ」と怒る人もいるかもしれない。
だが娯楽は文明の大切な一部なのだから、逆に「ただの娯楽で何が悪い?」とも言いたくなる。
しかしオリンピックはただの娯楽と呼ぶには少しグロテスクな化け物じみた大会になりすぎた。
いったいオリンピックゲームというのは、スポーツなのか、お遊びなのか、ギャンブルなのか、見世物なのか、曲芸なのか、何なのだろう?
たとえば今回のように日本選手の成績が振るわないと、早速あれこれ批判する輩と、選手や団体を身内としてかばう者たちが出てきて、挙句の果てに競技団体の内紛だの選手のスキャンダルをほじくり出してマスコミが喜んだりする馬鹿騒ぎを毎回のように繰り返すのにはいい加減うんざりする。
そんな中に競技環境が整っていないことを日本選手が勝てない理由にあげる競技関係者がいたりする。
しかしこれは本末転倒だろう。
競技人口も愛好者も少なく、競技施設も数少なく、賞金もろくに無く、国際的な大会も少ないし、海外の大会に参加するためのスポンサーもつかない。
ということは要するに人気が無いのだ。
人気の無いスポーツが弱いのは当たり前としか言いようが無い。
それなのにオリンピックとなると日頃はさして関心も示さなかった競技にメダルを期待する(とマスコミが煽る)。
期待されて負けるものだから、関係者はつい勝てないことの言い訳をする。
日本選手が負けるのを見るのは仕方が無いのだが、言い訳など聞きたくは無いものだ。

漫画クラブのコラム
2006.3.1 「団塊の世代は使い捨てか?」

団塊の世代が社会に出た頃の日本はまだ年功序列型社会で、普通に俸給生活者となった若者たちのほとんどはいつか高給取りになれることを願いつつ、薄給に甘んじて働いていた。
数十年働いて、かつて羨んでいた管理職者たちの年代に自分が差し掛かる頃に、リストラと実力主義人事の時代になった。
管理職に到達する以前に会社から放り出されるのも、やっと管理職者になったもののかつての上司たちほどの楽な生活は約束されないのも当たり前になった。
それでも多くのものたちが真面目に働き続けているのは、そうしなければ家族も養えないし、家も持てないし、老後の蓄えも作れないからだ。
そうして働いた挙句、前世代の「つけ」を払わされて、税・社会保険の負担増と福祉の切捨てという目に遭わされる。
別に団塊の世代に始まったことではないが、この国は国民をただ使い捨てるだけの国でしかない。

漫画クラブのコラム
2006.3.3 「中国の脅威を煽り立てて何になる?」

ちょっと前の話になるが、2月17日に外国特派員協会の記者会見で民主党の前原代表が「中国の軍事力に多くの国民が脅威を感じている」という主旨の発言をまた繰り返した。
しかしそのように世論を煽っている当の本人が世論を代表するかのような発言しても少しも説得力が無い。
しかし日本にとって最大の軍事的脅威とは実はアメリカなのだ(だからこそ今の日本はアメリカの属国と成り下がっている)という事実を塗り隠すための中国脅威論など無用にしてもらいたい。

漫画クラブのコラム
2006.3.9 「民主党に野党としての存在意義があるのか」

近代民主主義の政治はすなわち政党政治だ。
だが政党政治はいったい何のためにあるのか?
階級、地域、産業、職業、宗教、思想など、ひとことで言えば「利益」によってグループ分けされた国民の代表が政党ではないのか。
代表する利益の違いがあってこその政党政治ではないのか。
そもそも自民党が代表している利益という代物は、相反するものを一緒くたに抱え込んでいるのが昔からの問題点だった
今の民主党に自民党との違いを見出すことが難しいのは、自民党が代表している呉越同舟の利益と、民主党が代表しているそれとが重なりすぎているからだ。
民主党はそうすることで自民党の支持層を奪ってきたのかもしれないが、やはりどのような国民の利益を代表しているのかをもっと鮮明にしなければ、自民党を凌駕するには至らないだろう。
そうした意味で政治性、思想性が確立されてない政党がいつまでも政権をとることができなければ、所属政治家の中からボロを出すものが呆れるほど次々に現れるのは必然的な流れだ。
今のままでは「自民党対社会党の2大政党時代の方がよっぽど良かった」という評価がいずれ下されることになるだろう。

漫画クラブのコラム
2006.3.11 「基地反対で安保賛成」

岩国市で米軍施設移転の是非を問う住民投票。
住民の過半が反対しているからこういう事態が起きる。
米軍の基地・施設・訓練地の移転問題が起きると移転先の候補にされた自治体とその住民は当然のように反対する。
それでは彼らが日米安保体制もしくは安保条約に反対するかというと、そうでもないらしい。
こういう問題は何も米軍関連だけではなく、公的利益と利益享受に対する負担の偏りの矛盾という普遍的な問題の一つに過ぎないのだが、日本の国民はいつの時代もこの本質について議論したことが無かった。
むしろ公的利益にしか関心を持たなかったといって良い。
いや公と私の区別さえつけていなかった国民も少なくは無い。
それは、ひとまず良い。
より大きな利益をより少ない負担で、と望むのは誰しも当然なことで、それを公正に議論し調整するのが議会制民主主義というものの筈なのだが、この国の議会主義はそのように機能していないようだ。
かくして「基地反対で安保賛成」という矛盾はいつまで経っても解決されない。

漫画クラブのコラム
2006.3.14 「小泉奇人首相から安倍おぼっちゃま首相へ」

5年前、アメリカの原潜に日本の船が沈められたと知らされて、その後2時間もゴルフを楽しんでいたようなアホウを、われわれは総理大臣と呼んでいた。
あまりに愚鈍な人物だったことに呆れて、次に国民が総理大臣として期待し支持したのは威勢のいいスローガンを連呼する英雄気取りの「世襲議員」だった。
国民があまりにも支持するものだから、選挙に勝ちたかった自民党は党内から「奇人」とまで評された男を、党総裁・総理大臣に担ぎ上げた。
今、その任期が半年を切って国民の大半は続投を望まず、また別の威勢のいい英雄気取りの「世襲議員」に再び期待しているようだ。
まったく政治に関して、この国の大半の国民には学習能力が無いのだろうか。

ブログ「毒々日記」
2006.3.15 「不景気に効用を認められるか」

デフレを脱却しつつあるとはいえ不況が続いたお陰で、消費者はより安い物を買うようになった。 
より永く物を使うようになった。 
しかしよく考えるともともと日本の物価水準は高いし、物を大切にしてなかったのだから、本来あるべき姿に近づいたと言うべきだろう。
と、それだけならば不景気も悪いことばかりではないように思える。 
しかし安かろうと、永く使おうと、それ自体がそもそも無駄なもの・くだらないものだったとしたら、そんなものを節約したぐらいで消費者が利口になったことにはならないだろう。 
そうなると不景気に効用を認めるのはむずかしい。

ブログ「毒々日記」
2006.3.15 「皇族の公務なんて必要ない」

皇太子妃の雅子さんの「病気」問題で「公務」という言葉がしばしばマスコミで取上げられている。
「公務」を勤められないだの復帰するだのと喧しい。
さてこの「公務」なるものなのだが、皇太子夫妻に限らずいったい皇族の公務って何なのだろう。
天皇または天皇代理としての皇太子が国会の召集や総理大臣等の任命、外国大使公使の認証などを行う以外に、この国が必要としている皇族の仕事など無いはずだ。
もしあるとすれば天皇の血統を絶やさないということだけだろう。
どこかの植樹祭に出席したり福祉関係の催しで挨拶したりしているようなのだが、あんなものが国家予算から歳費を負担してまで、彼らにやってもらわなければいけないようなことなのか。
何か公的な催しというと権威や重みをつけるための伝統的な「装飾」を施したがる封建的な風土が日本にまだ残っているからこんなことになる。
大多数の国民にとって皇族の公務などなんの役にも立ってはいない。
国民の負担拡大が問題となっている昨今、国家予算の無駄遣いを減らす必要があるという議論の中にこうした問題が取上げられないのは奇妙ではないか。

漫画クラブのコラム
2006.3.16 「規制緩和で促進される弱肉強食」

小泉構造改革のためばかりではないが、規制緩和と行政の過剰介入の是正はかなり進捗した。
だがこれでほんとうに得をするのは誰だろう? 
今まで以上に、より弱いものは淘汰される社会になるのだ。 
淘汰されるのは弱体企業や零細小売店だけではない。
消費者だってより弱いものが保護されなくなるのだ。
そのことだけは承知しておこう。

ブログ「毒々日記」
2006.3.18 「努力の足りない日本のプロ野球界」

もうじきプロ野球が開幕する。
昨年の1試合あたりの平均時間は2004年より若干短縮されたらしい。
といっても相変わらずナイター中継が番組表どおりに終わらない悪弊は解消していない。
バレーボールは昔はサーブ権を持つ側しか得点できなかったのに、テレビ中継の時間枠内に終わるようにすることを大きな理由にして、国際的に「ラリーポイント制」の導入が推進された。
大相撲では既にラジオでの実況中継の時代から、時間内に終わるように、かつ早く終わり過ぎないように、観客にそれと意識させないよう土俵の進行を巧みに調整している。
それに比べると日本のプロ野球は何百万という視聴者が見ているテレビ中継に試合時間を合わせようという工夫がない。
ただスピーディーにしろというだけではあまり効果はない。
サッカーのように遅延行為をしたらファウルを取るとか、大相撲の審判のようにアンパイアがタイムコントロールするとか、もっと具体的な策が必要だ。
つまらん試合にダラダラと3時間以上もかけるわ、生で観たいと思ってもやかましいマニアックなファンが我が物顔でスタンドを占領するわ、こんな今の日本のプロ野球をどうにかしなければ、イチローや松井のようなトップ選手が日本のプロ野球ファンを見捨ててもしかたがない。

ブログ「毒々日記」
2006.3.18 「小泉もおかしいが中国はもっとおかしい」

3/14の全人代後の記者会見で中国の温家宝首相は「日中関係が悪化した原因は、中国にも日本の人々にもなく、日本の指導者(=小泉首相)にある」と発言した。
これはちょっとおかしい。
これではまるで日本が中国のような全体主義国家でもあるかの如くに聞こえる。
民主主義国家である日本では、小泉を首相にしたのは国民であり、小泉の外交姿勢は先に行われた総選挙で支持されている。(「郵政」だけが焦点の総選挙なんていう理屈は国政選挙では通用しない。)
だから「日本の人々に日中関係悪化の原因はない」筈がない。
この程度ことぐらい十分認識しているはずの中国の首脳が、あんな発言をするのは中国政府が日中関係の改善を望んでいるというのは外見上のことだけで、(領海問題などで外交上妥協するつもりがないのに)関係改善など望む理由がないことの表れだ。
それに次の日本の指導者選びを牽制するような発言に日本国民は当然反発するから、むしろ関係悪化が進むことぐらいのことは承知しているだろう。
「温家宝発言」はまあ遠回しに「日中関係の改善など望むな」と言っているのだと解釈するべきだ。

漫画クラブのコラム
2006.3.19 「世襲議員が日本を牛耳る」

次の首相(自民党総裁)は誰かというツメが着々と進行しているようだ。
だが有力な候補が揃いもそろって世襲議員というのは困ったものだ。
これと言うのも二世議員がますます増殖しているからなのだが、こういう連中は「政治貴族」とでも呼ぶのがいいのだろう。
貴族だから安部晋三のように一般人の常識がないのは仕方がないとしても、「御曹司」を担ぎ上げたがるバカどもがいる限り日本は衰退するばかりだ。

ブログ「毒々日記」
2006.3.21 「大学入試の時期は遅すぎる」

受験シーズンもほぼ終わったが、今年もセンター試験の日に各地で大雪が降って若干の混乱があった。
センター入試の日に大雪が降ることがあるのは今に始まったことではない。
だが時期を変えようという議論が広く真剣にされたことは無い。
いや、いったいなぜ大学入試の時期そのものが風邪で体調を崩しやすい、雪や凍結による交通混乱が起こりやすい冬でなければならないのか。
入試時期が早くなると、
1.大学入試問題にまだ履修していない内容が出題されることになる。
2.入学が内定した3年生が卒業までの授業に身を入れなくなる。
という問題があるから、今の方がいいのだというのが理由になるかもしれない。
しかしこれもおかしな話で、高校の履修課程を厳密にして3年生の前期までの履修内容から出題することを大学側に義務付ければいい筈だし、高校側も履修不十分な生徒に卒業証書を安易に渡さなければいいのだ。
義務教育である小中学校はともかく高校は履修し終えていない生徒を卒業させる必要はない。
いや卒業させるべきではない。現に大学ではそれが普通に行われているではないか。
むしろ受験生にとって高校3年の限られた時間に、入試教科以外の科目を入試科目と併行して、履修しなければならないことの方がよっぽど苦痛ではないかとさえ思うのだが、どうだろう。

漫画クラブのコラム
2006.3.25 「久しぶりの賃上げの意味」

今年の春闘では自動車・電機の大手企業で賃上げ回答が相次いだ。
とは言ってもたったの500〜1000円だ。
しかも能力給主体の時代だから1000円程度の昇給では、個人別の収入アップが保障されるとは、とても言えたものではない。
半面年間一時金の回答は6ヶ月前後と、はっきり労働者の俸給は業績主義・能力主義の方向性を強めるものになった。
一見すると当然のことのようなのだが、実はこれにはトリックがある。
日本の大半の企業の労働力は今や期間従業員(契約社員・アルバイト)によって支えられていると言っても良いのだが、「労働内容が同じであれば処遇も同じ」にせよという厚生労働省の指導においそれと従う企業などない。
したがって正規社員と期間従業員との「時給」での較差はなるべく少なくしておいて、期間従業員はほとんどその恩恵を被らない賞与で処遇に差をつけるというトリックを使うのだ。
多くの企業は長い不況を正規従業員から期間従業員にシフトすることによって労働コストを引き下げて乗り切ってきたのだが、お陰で現代の新しい身分制社会は固定化しつつあるといって良いだろう。

漫画クラブのコラム
2006.3.26 「野放し状態の米兵犯罪」

婦女子暴行、殺害、轢き逃げと、この1年足らずで、また米兵の犯罪がおきている。
轢き逃げ事件などは犯人を引き渡してもらえるどころか、米軍の軍事法廷にさえかけられず無罪放免だ。
外国人の犯罪が日本国内で頻発するようになり、身柄を拘束され送検される外国人が多くなっているこの時代に、米兵だけが特別扱いされなければならない。
あまりにも異様で理不尽ではないか。
グアム移転費用の負担要求額の莫大さにしてもそうなのだが、アメリカ軍はこの国を独立国家と見なしてはいない。

ブログ「毒々日記」
2006.3.29 「F1復帰のホンダ不振の意味するもの」

ホンダがF1に復帰して7年目になるが、まだ1勝もしていない。
昨年までパートナーとしていたチームにも問題があるのかもしれないが、前回F1に復帰した時に比べると勢いが感じられない。
トヨタもF1参戦4年目になるがインディカーシリーズのようには行かないようだ。
今の日本が、いつのまにか技術先進国としての地位を低下させていることを、象徴しているように思えてきた。

ブログ「毒々日記」
2006.3.29 「無駄遣いという言葉でごまかすな」

報道ワイド番組などでしばしば税金や年金の「無駄遣い」を取上げている。
しかしその内容を良く聞けば「無駄遣い」などではなく、官民一体となっての公費の「横領」だ。
不要な行政組織や外郭団体を作って業界有力企業を抱き込み税金や年金をつぎ込んで、身分を安泰化しOBとなった後の安逸な暮らしを確保した役人たちや、それで潤おうとした企業人の行為がどうして「無駄遣い」なのか。
露骨な横領ではないか、犯罪ではないか。
もちろん迂闊に「横領」などと言えば名誉毀損で訴訟沙汰になったり政府から干渉されたりするから、言えないというのは分かる。
だが「無駄遣い」と呼ぶのは明らかに間違っている。
せめて「不当支出」とか「国民の利益を犯す行為」とか呼ぶべきだろう。

漫画クラブのコラム
2006.4.1 「負けたのを不利なルールのせいにする」

冬季オリンピックの日本選手の獲得メダルが金1個に終わったことに関連して、日本選手が不利なようにルールが改定されていることを理由に書いている週刊誌があった。
特定の国が不利になるようなルール改定など、何も今に始まったことではないのに、、、。
それにかつてのように、日本人の体格的ハンデがルール改定で増すとばかりいえない時代になっている。
欧米人並みの体格をしたスポーツ選手など、もう当たり前で、ただ体格と競技選手としての才能の両方に恵まれた選手が、日本代表クラスに少ないだけのことだ。
荒川選手などは2位3位の選手よりも恵まれた体格だったではないか。
ルールの適用でさえ正しく行われるとは限らないし、まして原田選手のようにルールをろくに理解できていない選手が参加しているようではどうにもならない。
どんなルールでも勝てるだけの選手を派遣することが先決だろう。

ブログ「毒々日記」
2006.4.2 「税金と社会保険は別物か?」

消費税は遠からず上げられることが当然のようになっている。
俸給生活者の所得税も上がる。
直接・間接トータルで見た場合、日本の税金は高いのか安いのか? 
中流以下のわれわれにとっては税率は高いとは言えない。 
だが年金・健保といった社会保険を加えると負担はけっこう重い。 
だいたい25年以上も払い続けて60歳以上まで生きていなければもらえない年金を保険と呼べるのだろうか? 
税金と社会保険と分けることで、国は国民に掛けている負担の重さをたくみにごまかしている。

ブログ「毒々日記」
2006.4.3 「安保体制が日本を守っている?」

安保支持者たちはふたこと目には「安保体制抜きで日本を守ることができるのか?」と言う。
だが逆に安保体制がなければ日本が危ないのかという疑問を解消できているわけでもない。
周辺国の軍事力や核兵器保有は確かに脅威には違いないが、だからと言って敵対国扱いする必然性がどこにあるのか、もっともらしい説明を並べても所詮仮説の上に成り立った理屈という印象は免れない。
こうした仮説で国防体制を組み立てて失敗した過去を日本人は、もう忘れている。
明治維新を推進したのも、「征韓論」で国論を二分した挙句西南戦争を引き起こしたのも、北満に「インド帝国もどき」の満州帝国を創って日中戦争から太平洋戦争までの泥沼に堕ち込んだのも、全て日本を中心に東アジアをまとめて欧米列強の侵略から守る防衛圏を形成するという「大東亜共栄圏」構想から出たことではなかったか。
なるほど確かに欧米列強はアジアの非市民化社会の国々を虐げたが、大東亜共栄圏でそれに対抗するという構想は、仮説を積み重ねて作り上げただけの虚構に類するものだったではないか。
市民化社会を形成しないで軍事力で国家を強固にしようという点では、大東亜共栄圏も安保体制も変わりがない。
強固な市民社会を確立することの必要性は何より世界の歴史が証明しているのに、今の沖縄県をはじめとする基地問題のどこに、この国の成熟した市民社会らしさがあると言うのだ。(それどころか自民党の政治家の多くは「市民」という言葉さえ大嫌いのようだ。)
ある脅威が実在するとして、それに対抗する手段を特定のものに凝り固めた場合、結局悔やまれる結果を招いた実例は世界史上にいくつもある。
その一つの事例としての悲惨な敗戦を経験していながら、日本人にはそのことに対する深刻な反省がない。
もう一つ、「安保抜きでは日本を守れない」という現実主義の危うい問題点がある。
アメリカという粗暴で傲慢な国(この半世紀、アメリカという国は世界のどこかで軍事力を行使し続けている)の支配下に置かれ、国としての尊厳を失った状態でよいのかという点だ。
ある脅威に対抗するためには、より凶暴な国の傘下に入るしかない、というのでは暴力団の発想のようで、「力こそ正義なり」という倫理を国が標榜しているようなものだ。
そのような国であることと、今の日本の精神風土から、弱者をいたわり悪しきを正す本来の正義が失われ、「力」−金や暴力や絶対多数−で何事も解決する風潮が蔓延してしまったこととが無縁であるはずがない。
ホリエモンのような人間が出現するのも当然だ。
国を象徴するものに対して敬意を払うことを国民に強制し、周辺国に対する敵愾心を煽るといった暴力的な手段でしか、自民党の言う「国を愛する心」を育むこともできない情けない国になってしまった。

ブログ「斜真館」
2006.4.3 「ユーザー無視の技術競争」

次世代DVDの規格はブルーレイ陣営とHD陣営両方が今年度中にも再生専用機と録画再生機を発売することになりそうだとか。
結局ユーザー無視のメーカーのデファクト・スタンダード争いに突入した。
地上波デジタル放送が始まってハイビジョン放送が本格化しようというのに、ハイビジョン用の録画再生機をいつ買ったらいいのかというユーザーの悩みは解決しない。
選択を誤れば、かつてのベータビデオのように「ババ」をつかまされることになるのだが、メーカーはそんなことにおかまい無しだ。
もっともこれは次世代DVDだけの問題ではなく、ハイテク商品全般に言えることだし、こうした技術競争が活発でなければ、たちまち世界的規模では技術後進国になるのだからしょうがない。
いったい技術進歩は人を幸福にするのか、それとも不幸にするのかどちらだろう?

ブログ「毒々日記」
2006.4.4 「国内産業の空洞化で日本の未来に希望が持てるか?」

製造業の日本企業の生産拠点の海外移転がどんどん進んだ。
コストが低くてしかも豊富な労働力を求めて、国内産業の空洞化を加速させた。
長い不況を通して日本企業は正社員から期間従業員に労働力をシフトした。
その一方で国内の失業率は上昇し、新卒の就職難が深刻化した。
新卒者の就職事情だけ見れば、今年・来年は好転したかのように見える。
しかし教育水準の低下が顕著になって高い労働能力という日本の唯一と言ってよい資源も失われつつあって、日本の労働事情の将来は雇用者にも労働者にも決して明るくはない。
なんだか八方ふさがりのような状態で、これでもこの国の将来に希望が持てるとしたらよっぽど楽天的な性格なのではないだろうか?

ブログ「毒々日記」
2006.4.5 「エアコン嫌いでは済まされない時代」

30年も昔、一般家庭ではエアコンはおろか電気クーラーをつけていることも少なかった。
暖房も炭火のコタツや火鉢から、ようやく電気コタツや石油ストーブに主力が移り変わっていた時代だ。
今はエアコンで済む時代だが、この人工的な環境を嫌う人たちは結構多いし、エアコン嫌いを自慢にしているかのような人もいる。
しかし我々東京人にとっては空気も日光も、雨さえも本来の自然なものではない。
大都市が放出する炭酸ガスなどのガス類や微粒子や熱気、幹線道路に充満する排気ガスと熱と騒音、夜でも明るい空。
一般家庭がエアコンで防いでいるのは自然ではなく人工気象なのだ。
窓を締め切り、エアコンを通して外気を取り入れることで、汚れた空気、異常な熱気と騒音から家庭を守っているのだ。
高層マンションの上階などに住み、窓を開け放してエアコンに頼らない快適な暮らしが遅れるのは恵まれた人々なのだ。

ブログ「毒々日記」
2006.4.5 「前原民主党は若すぎるのか、愚かなのか?」

ジリ貧に対する焦りから民主党が若い前原を党首に選出して半年で早くも党首交代。
辞任の原因を作った永田議員も若手。
こうして見ると、功をあせった若手政治家の未熟さが露呈したようにも見えるので、やっぱり若手に任せてしまうのは心配だという声も起こる。
しかし前原代表の発言を読むと、安全保障体制については自民党の右派なみだし、「中国軍事脅威」などと言わずもがなのことを言うし、小泉内閣の問題点は整理し切れていないし、今回の事態収拾策は稚拙だし、2大政党の党首にしては呆れるくらい愚かな印象を受ける。
永田議員にしても若さゆえに逸ったための失敗を犯したというよりも、やはり責任ある地位には相応しくない拙さを感じる。
今回の民主党の失敗は、若さではなく愚かさによるものと言うべきだろう。
若くて活力があろうと、経験豊富であろうと、愚かな人間を党首に担いでいたら、いや身内に抱えていたら、国民は民主党を信頼しなくなるばかりだ。

漫画クラブのコラム
2006.4.7 「新聞までが民主党の品格落としに加担する」 
民主党の新しい代表を決めるのに選挙が必至となって、管・小沢両者のグループが支持者集めを本格化させたのを受けて、朝日新聞が一面トップで「激しい多数派工作へ」と見出しを掲げた。
政党代表選出の際の慣例表現なのだろうが、「多数派工作」と呼ぶのは疑問だ。
選挙に向けての運動であれば、「票集め」とか「選挙運動」というべきだろう。
「多数派工作」では選挙という公明な手続きではなく、陰でこそこそ談合して代表選びをしているかのような印象だ。
確かに小沢側は自民党的「談合」で一本化を画策しているから、それに限って言うのならば良い。
だが管側はあくまでも選挙による選出を求めて活動しているのだから、それまでひっくるめて「多数派工作」と呼ぶのはおかしい。
民主党の持つ自民党的体質をことさら強調して、国民の期待感を喪失させようとしているとしか思えない。
民主党の体質そのものには大いに問題があるが、新聞が政党の品格を必要以上に貶めることは許されない。
漫画クラブのコラム
2006.4.7 「巨人のナイトゲームのテレビ中継」

あいかわらず巨人のナイトゲームがあるとテレビ中継がある。 
メジャーリーグを見ると野球というのは本来青空の下で見るのがいいということがよくわかるのだが、巨人というチームは馬鹿の一つ覚えのように夜に試合をする。 
テレビ局も土曜日曜くらい野球中継など昼間だけにすれば良いと思うのだが、こちらも馬鹿の一つ覚えのようにゴールデンタイムに放送する。 
これで40年以上も続けてきたのだから呆れてしまう。

ブログ「毒々日記」
2006.4.7 「民主主義的でない民主党」

前原辞任後の民主党代表選出は選挙になった。
小沢側は話合いによる一本化で小沢が代表に就任するように画策していたらしい。
しかし代表就任の意志がある人間が二人以上いて、選挙による代表選出というルールがあるのに、なぜ話合いで選出しなければならないのかが、部外者には理解できない。
選挙になればしこりが残ると言う者がいるらしいが、選挙という民主主義的な方法でしこりが残るというようでは「民主党」の看板が泣こうというものだ。
話合いというと聞こえはいいが、公開の場で行われない密室的な話合いなど、所詮「談合」ではないか。
小沢側近と小沢支持者達といった元自民党・旧民社党・旧社会党のメンバーが画策していたらしいが、いかにも日本の古い政党体質が残されている印象だ。
ともかくこんな自民党的体質を一刻も早く払拭することが民主党には最も必要だ。

ブログ「毒々日記」
2006.4.10 「お茶くみは女性社員だったことの意味

」昔と言っても20数年前、自分のセクションの女性社員が「お茶くみ」の当番だのでグチャグチャもめているので、ワゴンにお茶を入れるセットを用意させるだけにして、個々の社員にお茶を入れる習慣を止めさせてしまったことがある。
その後、本社に転勤してみたら、本社では個人のお茶は個人で勝手に好きなものをいれて飲むことになっていて、そのコーヒーだの紅茶だの費用の一部を否応なく毎月何百円だか徴収された。
今では「お茶くみ」とは来客があったときだけのもの、というのがその会社ではどの職場でも当たり前のことになった。
たぶん、まともな会社ならどこでもそうだろう。
それでもまだ来客のための「お茶くみ」は残っていて、総合職採用の女性がそれを仕事とされれば抵抗感を感じることだろう。
「お茶くみ」が必要かどうかは、その企業の考え方なのだから一概に決め付けられない。
問題はむしろ「お茶くみ」が女性社員(場合によっては女性社員の中でも特定の身分やキャリアの人)に限定された仕事とされることだろう。
「お茶くみ」が男女差別や身分制社会を象徴するものであって良い筈がないのだが、現実的にはむしろそうしたものを積極的に肯定したい古い人間がこの日本にはまだ多い。
今、「ジェンダーフリー」という言葉が世間に認知されないように、政府や一部の保守主義者たちが躍起となっているのだが、「お茶くみ」の問題一つとっても、「ジェンダーフリー」の意識を広める必要があることぐらい、よほどのバカか石頭でない限り分かりそうなものだ。

ブログ「毒々日記」
2006.4.10 「"大"が好きな東京都知事」

慎太郎都知事が3月31日の定例会見で、東京マラソン(来年2月)の概要と大会イベント「東京大マラソン祭」の開催を発表した。
慎太郎は東京国際マラソンをつぶして開催する新大会の名称に「東京大マラソン」を推したが、日本陸連の反対もあって断念。
だが、転んでただで起きるわけもなくイベント名を東京大マラソン祭にして、日本陸連に意趣返しをした。
所詮、小人物だから70歳を超えても、まだこんな子どもじみたことを止められない。
「首都大東京」とか「大江戸線」とか「大」をつけるのがお好きなようだが、本音は「大日本帝国」復古というところだろうか。

漫画クラブのコラム
2006.4.12 「支離滅裂な道路行政」

民営化したと言いながら、赤字必至の高速道路計画は全部推進されることになっている。
多額の費用をかけて建設し、その上運営赤字を生み出す高速道路を作れと主張する人間の頭の中は、いったいどうなっているのだろう。
いやこの場合ハラの内と言うほうが正しいだろう。
赤字になるということは需要が少ないということで、需要が少ないということはそもそも建設する必要がないということではないか。
そんなことより、国道でさえいまだに片側1車線が当たり前、幹線道路の交差の立体化も不十分、幹線道路の排気ガス汚染問題も未解決というおそまつな一般道路をどうにかする方が先決だろう。
小泉が首相になって間もない頃、「もう自動車関連税を道路特定財源とする必要はない」などと言っていたが、いったい何を根拠にこんな馬鹿げた発言をしたのだろう。
嘘で塗り固めた「改革」を唱える首相と国民の負担を食い物にするあくどい連中に国を預けるしか今の国民に選択肢はないのか?

ブログ「毒々日記」
2006.4.13 「日本の警察は優秀という神話」

韓国人すりグループの催涙ガス事件で、犯罪の検挙率が主要5カ国の中で4番目(最下位は当然アメリカ)になっているという2002年の報道を思い出した。
検挙率低下の原因には、この事件のように犯罪そのものが外国人による組織的なものが増えるなど多様化していることもあるだろう。
だが同時に警察が腐敗しているということも原因に含めてもいいだろう。
おりしも「栃木リンチ殺人事件」の民事訴訟の宇都宮地裁の判決では、警察の怠慢が被害者の死亡を招いたことの責任を厳しく認定されたばかりだ。
昨今の警察の怠慢ぶりとずさんさは目を覆うばかりだ。
たしかに日本人は水と安全はただ同然だと思っているという時代は終わった。
だがその要因を不法滞在外国人や異常性格者の増加で片付けてしまうことは絶対にできない。

ブログ「毒々日記」
2006.4.13 「北朝鮮の一見物騒な外交カード」

国家財政を覚醒剤の密輸やドル紙幣などの偽造に頼らざるを得ないようなみすぼらしい国が、「六者協議の再開が遅れれば、その間にわれわれはより多くの抑止力(核兵器)を作れるだろう」と言ってもなんの脅しにもならないのだが、北朝鮮にはもはやそんな恫喝以外に出すカードがなくなったらしい。
アメリカ国内に直接テロを仕掛けたわけではないから、バカブッシュが北朝鮮を「ならず者国家」と決め付けていようと、イラクのように武力侵攻するはずもないのに、北朝鮮が「核」による抑止力を唱えたところで、それを戦争抑止だと納得するようなバカがいるとも思えない。
北朝鮮が恐れているのは、食料とエネルギーの援助を断たれ、資金ル−トも押さえられて深刻な経済封鎖に陥ることであることはほぼ間違いない。
経済封鎖を、もし武力で打開しようと企てれば、かつての日本のように惨めな敗戦が待つだけのことで、その意味では北朝鮮の核兵器など所詮沖縄に特攻して無駄花を散らす羽目になった戦艦大和のようなものでしかないのだ。
馬鹿げたことに、「脅威」の内に入らないそんなもの(所有しても決して使用できないもの)を誇大妄想に騒ぎ立てて、やれ「有事体制の整備」だの「安保体制の再編強化」だのの必要性を得々として語る「有識者」のなんと多いことか。
こんな状況を冷静に見ると、日本の復古的保守主義者とアメリカの産軍複合体と北朝鮮とは実はグルではないかとさえ思えてくる。
そこまでは疑いすぎかもしれないが、一応の常識的な見方をすれば、油断のならない国と交渉するのは困難だが、粘り強く冷静で安易に妥協しない態度こそ必要だと思う。
なにしろもう相手には「恫喝」以外のカードがないのだ。

ブログ「毒々日記」
2006.4.13 「愛国心より愛民心」 

自民党がかねてから念願していた教育基本法への「愛国心」の盛り込みについて、公明党との調整が付けられそうだとか、まだグチャグチャごねてるバカがいるとか報道されていた。
表面的にはどんなに柔らかそうで優しそうな条文だろうと、ひとたび法制化してしまえば、従わないものには報復をもたらす恐怖の魔王と化すだろう、ということは国旗・国歌の法制化の例を見ても明らかだ。
それはまあいいとしよう。
選挙という手段で(間接的に教育行政を制御することによって)「魔王」を封じ込める可能性だけは国民に担保されているのだから。
だが、そんなことよりも「国民が国を愛する」ことを法で義務化することばかりが関心事になって、「国が国民を愛する」ことを規定しないことの方がよっぽど問題だ。
この国の憲法にも(恐らく)どの法律にも、「国が民を慈しみ愛する」ことが規定されていない。
国家と国民の関係も基本的には「契約」によって成り立っているというのが近代国家観だろう。
片方の義務だけが規定される契約などあってたまるものか。
戦前戦後を通じて、いったいこの国が民を愛したことが一度でもあったのか。
血の通わない政策と法理だけの顔しか持たないこの国が、「民よ我を愛すべし」などとよく言えたものだ。

漫画クラブのコラム
2006.4.15 「スタンドプレーで首長を選んだ国の末路」

小泉内閣や石原都政は一般国民から高い支持率を受けて誕生した。
どちらも肝心な政策や政治性よりも、派手な言辞、スタンドプレー、かっこ良さが大衆に受けた。
その結果はどうだ。
小泉も慎太郎も議会での野党質問や自分の意にそぐわない意見に対する答弁やコメントは議会制民主主義における政治家のそれとは程遠い。
「はぐらかし」と「開き直り」と「バカ扱い」ばかりだ。
昨年の郵政選挙が顕著な例だが、反対議論を封じ込めるためには大衆を扇動するという手段を取る。
ヒットラーに似ているという評論もある。
ヒットラーに代表されるような(古代ローマ帝国から続く)扇動的独裁者の系譜に連なるもの達という意味だろう。
古代ローマ帝国だってシーザー以前は共和制だったが、アウグストゥスが(軍隊を背景としていたとは言え)事実上の皇帝となったのは何もクーデターによるものではなかったことも忘れてはならない。
古代ギリシャの都市国家でも民主主義的な手続きであるはずの「陶片追放」や陰謀や扇動によって、巧みに民衆を利用したものがしばしば独裁的な地位を得た挙句、国家を危うくしたりしている。
ナチスドイツや古代ローマ・ギリシャのような道を辿ることになるかどうかは分からないが、日本の国民の多くがわざわざそのような可能性を選択したような気がする。

ブログ「斜真館」
2006.4.16 「天皇制が永遠なら、いつかは金髪碧眼の天皇も誕生か」

秋篠宮に第3子が生まれそうになって皇室典範の改正は棚上げ、男子男系継承論議も先送りになりました。
まあ男子誕生となって問題先送りになること自体はかまわないです。
仮に男子が生まれても、これから数十年後にその人がどうなるのか、誰も予想がつかないからです。
もしかしたら皇位なんか継承したくないと言うかもしれないし、今の皇太子がそうしたように外国留学して、もしかしたら現地で外国女性と恋愛に落ちて外国人皇族が誕生するかもしれません。
男系男子の伝統は守られても、金髪碧眼の天皇が誕生するかもしれません。
まあそう考えれば、たかだか2世代先の天皇についてああだこうだと論議することなど、全くバカらしいことになります。
でもほんとうに将来の皇太子が白人や黒人の女性と恋愛に落ちたら面白いことになるでしょうね。
多分それまで生きていられそうにないのが残念ですけれど。

漫画クラブの不定期日記
2006.4.16 「戦場は最高の兵器開発実験場」

アメリカ軍は湾岸戦争時の情報公開を後悔して、イラク戦争では戦争の詳細を極力隠すようにしたので、どのような最新兵器が使用されたのかという報道をほとんど眼にしていない。
最新兵器の威力を測るのに実際の戦争ほど最適な実験はない。
そういう意味でアメリカは決して正義の戦争などやってはいないということは歴史を見れば明らかだ。
太平洋戦争の原爆投下、朝鮮戦争のジェット戦闘機やナパーム弾、ベトナム戦争での枯葉剤やパイナップル爆弾、湾岸戦争の劣化ウラン弾やステルス戦闘爆撃機。
アルカイダ殲滅のためには湾岸戦争の実戦に使われたトマホークの改良型を投入した。
莫大な費用を投じて開発し実用化した兵器の費用効果を実証したくない軍と軍需産業などありえないのだから、イラクでも最新兵器は投入されていると考えるのは自然なことだろう。

ブログ「毒々日記」
2006.4.16 「東京都教育委員会は狂人集団か」

4/13に都教委が都立校に職員会議での採決行為を禁止すると通知した。
学校運営権は今さら言うまでもなく学校長にあるのだから、職員会議の決議は学校長に対しての判断材料を提供するだけのものでしかない。
教鞭をとって生徒にじかに接することのない校長が絶対的な決定権を行使するに当たって、教育の実務を担当する人間の意見を尊重するのは当然のことであるし、そのための場として半世紀も全国の教育現場で職員会議が機能してきた。
であるのに、職員会議ではいっさいの採決行為をしてはならないとは。
物事を決めない会議など、ただの懇談会に過ぎないが、職員会議そのものを禁止すればさすがに問題が大きくなり過ぎるから都教委もそこまではできない。
だがどう考えても今回の都教委の通知は異常、ほとんど狂気じみている。
こんな問題が起こるのも、教育委員が自治体の首長に任命される存在だからだが、都知事が慎太郎のようなヒットラー追従者でなければ起こらなかったことなのだ。
逆に言えば、慎太郎のような強権主義者の行政、つまり石原都政と呼ばれているものの正体がこれなのだ。

漫画クラブのコラム
2006.4.17 「都立高校を没落させた結果はどうなった?」

東京都の進学重点校とされた都立高校の今年度の進学状況は、東大を初めとする難関大学の合格者数が増加するという結果だったらしい。
今は昔、名門と呼ばれた日比谷高校、戸山高校なども、中高一貫で進学教育を行っている私立校に3年間で対抗するのは容易ではないから、そう簡単にかつての進学実績を取り戻せるわけではない。
名門と呼ばれていた頃には、各校それなりの蓄積された進学教育のノウハウがあった筈だから、失われた時間はあまりにも大きかったと言うべきだ。
しかし単に昔日の栄光を取り戻すために、進学重点校になるというのでは情けない。
公立校である以上、学校経営の経済原理などに束縛されることのない、あくまでも高い志を持つ高校生を育成する学校であって欲しい。
それにつけても、今さら公立学校でこのような方針を立てる必要が起きたのは、数十年前に都立高校に学校群制度なるものを設けて、都立高校間の学力格差を(おそらく受験産業と教育行政者がグルになって恣意的に)平準化したところから始まる。
この間に得をしたのは私立校と進学塾と子供の教育にいくらでも金をかけられる裕福な家庭だ。
高校に限らず個人の能力に応じた教育を受けるのは児童の当然の権利であり、それをいっさい否定した東京都の「教育行政の不正」が是正されるのに30年以上もかかったことの罪は大きい。
都立高校からの難関大学の合格者が増えればそれでいい、などという単純な問題ではないのだ。
進学重点などという狭い視野からではなく、個人の能力にふさわしい公教育の在り方を目指すためには、小中高の各段階で飛び級や複数学年併行在籍などの弾力的な制度が必要だろう。
その意味では公立の中高一貫校や小中学一貫教育などの試みは積極的に行われていい。
地域格差をどうするかという問題は残るにしても、児童が個人の能力にふさわしい教育を受ける環境が用意できる地域で、それを行わないのはむしろ教育行政の怠慢と言うべきだろう。

ブログ「毒々日記」
2006.4.18 「皇太子を立てられない天皇即位という事態が起きるかも?」

皇室典範の改正が最近になってあわてて諮問されたのは、3年前に天皇が前立腺癌の摘出手術を受けたことと無縁ではないだろう。
それに前後して皇室の人が亡くなったばかりだったから、当時の関係者はさぞひやひやしたことだろう。
もし万一皇室典範が改定されないうちに今の天皇が急死したら、今の皇太子が天皇に即位した後の皇太子は秋篠宮になるはずだ。
そうなると皇統はともかく秋篠宮家に移る。
となると話がややこしくなるから、その前に(つまり今の天皇が死んで、この次の皇太子を立てる前に)あわてて皇室典範を改定することになるのだろうか。
どちらにしても万世一系の天皇制などという眉唾な伝統を守るために、余計な苦労をする人が多いことだ。
(今の天皇家の血統・親子関係についての奇奇怪怪な噂や怪文書は巷に溢れているようで、捜して読んでみるとけっこう暇つぶしになる。あくまでも暇つぶしにしかならないけど、、、)

ブログ「毒々日記」
2006.4.20 「選挙でわざわざ泥棒を選んだ品川区」

4/14東京地裁は品川区の自民党区議団が「政務調査費」を使ってしゃぶしゃぶ店などで飲食したのを「目的外支出」であると断定する判決を下した。
品川区民オンブズマンの会が起こした行政訴訟の結果なのだが、呆れたことに自民区議団は「一部返還しているのに敗訴は意外」などとコメントしているらしい。
いったいどこの世界に「盗んだものの一部を返したから、もういいじゃないか」などと言う泥棒がいるのだろう。
選挙で選んだのが実は泥棒だったのか、泥棒となるべきヤツを選挙で選んだのか、どちらかは分からないが、品川区民が税金泥棒を選挙で選んだことだけは紛れもない事実だ。

漫画クラブのコラム
2006.4.23 「国民の福祉よりもアメリカの侵略戦争に加担するのが優先か」

バカな首相を何代も続けて選ぶハメになったのは日本国民の自業自得だからしょうがないとして、無責任な政策のツケを払いたくないと思うことが2つある。
1.アメリカのイラク侵攻に一方的に加担したために、イスラムテロリスト集団からの報復的テロを警戒して、多くの私鉄の駅のゴミ箱が撤去され、東京都庁の入り口が警備上の理由で何箇所か閉鎖されるなど、余計なことに神経をビクビクさせ、都市生活そのものも多少不便になっている。
いや万一ほんとうに爆弾テロでも起きて死傷したとしたら、その責任を政府は取りっこないし、保険会社は「戦争・テロ」を免責事項にあげて保険金も出さないから、被害者は泣き寝入りするしかない。(まあテロよりは米軍機の事故に遭うことのほうがよっぽど確率は高そうだが。)
おまけにこの状態がいつまで続くのか分からないときた。
2.日本国の財政は今でも健全ではなく、為政者の不始末と不正と無能のツケを国民が負担させられている状況なのに、イラク侵攻開始の頃「戦費は日本円で9兆円に及ぶだろうがその内20%は日本が負担することになるだろう」などと言われていた。
実際に日本政府が拠出する戦争と復興の資金と自衛隊派遣の費用が総額でいくらになるのかは検討がつかないのだが、実はもっと恐ろしい見方もあるらしい。
冗談じゃない。
税金も医療費も保険料も何もかも上げて福祉水準は下げて、そんなことまでしてアメリカの侵略に手を貸してよいなどと、どんな浮世離れしたヤツが言ったのだ。
空想的理想主義に踊らされて、自分たちの現在未来の生活を犠牲にしてでも、他国に追従するなんて、そんなアホな。

ブログ「毒々日記」
2006.4.24 「日本に独裁者が出現しないと言い切れるか?」

独裁者が産まれるのは民度あるいは市民社会化レベルの低さを物語るものなのか?
イラク、北朝鮮を、あるいはかつての中国を見ているとそう思える。
ドイツ・イタリアも深刻な市民革命を経験しなかったことが独裁者を産んだと言えなくもない。
フランスでは革命後にナポレオンという独裁者の出現を許したが、これは国内外の革命反動勢力と革命派の対立による混乱という事情を考慮する必要があるだろう。
日本はどうか。
太平洋戦争は少なくとも独裁者によって引き起こされた戦争ではなかった。
日本が明治から昭和にかけて引き起こした戦争は、江戸末期の積極的開国論者の何人か、中でも島津斉彬が提唱した西欧列強に対するアジア防衛圏いわゆる大東亜共栄圏構想の残像と決め付けても間違いではないだろう。
となると、近代以降の日本は独裁者によって他国と戦火を交えることはなかったと言って良い。
だから、日本人にはフセイン時代のイラクも今の北朝鮮も理解できないのかもしれない。
では日本には今後も独裁者が出現しないかとなると、そう簡単に安心できるものではない。
近現代の独裁者は必ずしも軍や暴力的集団を背景に誕生している訳ではなく、民衆が積極的に強力な政治リーダーの出現を望んでそうなった例も多いからだ。
何より心配なのは今の日本が決して市民社会化レベルの高い国と言えず、むしろ後退しているような印象さえあることだ。

ブログ「毒々日記」
2006.4.25 「次期首相候補もまたアメリカの操り人形」

小泉政権が誕生したのはアメリカの意向あってのことだろうということは、当初から想像していた。
何と言っても前任者があの愚物だから、えひめ丸沈没事故の際の不始末もあって、アメリカが進めようとしていた(戦争という)外交政策にとって、自民党の政権が不安定なことは好ましくないので、党内での基盤は弱いがアメリカに受けがいい小泉をマスコミの寵児にすることで首相にさせるよう指示があったのだろう。
だから、アメリカが何をしようとブッシュがどんなにアホウだろうと、小泉がそれを無条件で支持しても、まったく驚くに値しないと予想していた。
結果は予想以上だった。
小泉改革の要点は郵政民営化のようにアメリカ国内で要求されていたものだったし、イラク戦争への協力の仕方は、これまでの自衛隊についてのタブーを(防衛庁幹部でさえ驚き危惧したらしいほど)打ち破るものだった。
劇場型政治と呼ばれている小泉のスタイル自体、イギリスに留学していながら、ろくに英会話も身につけられなかった程度の貧弱な頭脳の持ち主である小泉が編み出したものではなく、アメリカからの演出指導を受けてのものに過ぎないようだ。
その意味で、政治的にはろくな実績のない安倍晋三に次期首相としての国民の人気が高いことも、恐らくアメリカ流の政治的演出の賜物だろう。
アメリカ大好きの人間にとってはまことに結構なことと言うべきか。

ブログ「毒々日記」
2006.4.27 「共謀罪が成立したらオメデタイことになりそうだ」

最近は「共謀罪」新設関連法案を巡って多少(ほんとに多少としか言いようがない程度)の論議が交わされているらしいが、ほんの3年前には「有事法制化」についての論議が、多少(ほんとに多少としか言いようがない程度)交わされていた。
小泉カッコイイ首相の「強力なリーダーシップ」に大半の国民が重大な判断をゆだねてしまったから、将来の国民生活を左右する重要法案がさしたる問題もなく悠々と国会を通過している。
だから有事法制の問題にしても、あっさりと「国民保護法」という実に美しいタイトルで2004年から現実のモノになった。
「国民が国を保護する」とはなんと美しい響きだろう。(「国が国民を保護する」と聞こえる人もいるらしいが。)
これで、いざ戦争がおきたら戦闘のために自分の財産である家屋敷を自衛隊に接収されても取り壊されても、抗議でもしようものなら逆に罰金刑が課せられるという、実におめでたくもありがたいことになった。
しかし心配することはない。
日本という国は他国から戦争をしかけられたことが有史以来、元寇のただ2回しかない。
それさえモンゴル帝国という地の果てまで征服しつくさずにはおかないという世界史上でもまれに見る侵略大国あってのことだ。
無いことについての有事法制などを心配するより、前年より減額しているとは言え、赤字国債を発行して多額の国防費をつぎ込んでいるわが国の財政を心配した方がよいに決まっている。
この国があまりにも平和なのに、軍事に金をつぎ込む理由もなくなったものだから、国内米軍基地再編とか称して、日本政府はアメリカ政府に3兆円(一切合財計算すると4兆円になるとの見方もある)もの大金をうやうやしく献上するらしい。
もちろんムキになってこんなことに反対運動を起こそうかと話でもしようものなら、たちまち「共謀罪」で身柄を拘束されることになるという訳だから、まったくこんなにおめでたい話はない。
誰にとっておめでたいのかは知らないけど、、、

ブログ「毒々日記」
2006.4.27 「女性差別訴訟の決着に見る反省のなさ」

4/25大阪高裁で、住友金属工業の女性社員4人が、女性であることを理由に昇給や昇進で差別されていたことに対しての賠償を要求していた訴訟の和解が成立した。
1995年から住友グループ各社で起こされていた女性差別訴訟は全て高裁での和解という形で終結することになった。
最高裁まで行った場合の社会的影響を憂慮して企業側が譲歩したのだろうが、そのことはまあいい。
問題は「差別の実態はなかったが、訴訟が10年以上に達しているから和解案を受け入れた」との住友金属工業のコメントだ。
ほんとうに後ろめたいことがないのならば和解に応じる必要もないだろうに、これでは原告女性たちに対する露骨な侮辱ではないか。
住友グループの体質を想像させるコメントだったが、同時にこうした企業が「ジェンダーフリー」という国際的な用語を抹殺しようとしている政治家たちと同根であることを感じさせもした。

漫画クラブのコラム
2006.4.30 「怪しげなものが人々を引き付ける不思議さ」

3年前にパナナンチャラとかいう白装束の新興宗教らしい一団が世を騒がしたが、最近週刊誌で「今アレはどうなった?」式の記事が書かれているらしい。
そのぐらい一時的に騒がれただけで、もう世間全体からは忘れられてしまった。
それはそれでいいし、オームほどの害は無さそうに思われるのだが、やはり不気味で自分勝手という性格は共通しているので、オーム同様監視が必要な気もする。
ところで不思議なのは、21世紀にもなってまだ非科学的であやしげな言葉やら教えやらに傾倒して一身を投げ打つ人達がいるということだ。
彼らにはそれなりの理屈があるのだろうが、現実社会を忌避して不条理の世界に逃げ込んでいるだけの人にしかみえない。
これはなにも新興宗教だけではなくスピリチュアルナンチャラとか唱えているのも同じ印象なのだが、、、

ブログ「毒々日記」
2006.5.1 「東京裁判が無効だとはなにを今さら」

敗戦60周年だった昨年をピークに「東京裁判は法的に無効だ」と唱える意見がメディアを多少にぎわしたらしい。
A級戦犯の判決を受けた者たちの復権を主張する人もいるらしい。
それならそれでいいが、連合国側が裁いたものを無かったことにするのなら、では代わりに日本人自身があの戦争責任を追及して、改めて天皇を初めとする戦争遂行責任者たちに罰を下す必要があると論じる人もいるようだ。
どちらにせよ、この際「あの戦争はアメリカやソ連の陰謀によって起きたのだから、わが国に責任はない」などというギミックめいた論理は通用しない。
日本では伝統的に(軍隊を含めて)国や公共に奉職する個人が職務上の過ちを犯しても、なんのかんのと口実をつけて責任を負わされないで済むようになっているから、戦争責任についても同じだなどと考える輩もいるのかもしれないが、それで良い筈がない。
敵国民であれ自国民であれ人間を故意に殺傷する戦争責任と一般的な行政責任とを一緒くたにして良いわけがない。
だが皮肉なことに、むしろ保守主義者たちにとっては、東京裁判は適当に特定の人間だけに責任を負わせて死刑にすることで永久に口を封じ、国体護持(=天皇制の維持)を実現するためには好都合だったみたいだ。
死刑を免れた戦犯の多くがわずかな服役期間で赦されて、何食わぬ顔をしてその後日本の政界官界財界の一線に立つことになったことを考えると、いかにも東京裁判そのものが予め示し合わされていた演出のようで、いっそうそのように思わざるを得ない。
その意味では保守主義者にとって十分満足すべき「茶番劇」のような裁判だったのに、なにを今さら不服を申し立てる必要があるのだろう。
まったくばかばかしい議論としか言いようがない。

ブログ「斜真館」
2006.5.1 「東京ドームで公営競輪を復活させたいという独善」

つい3年ほど前、赤字で公営ギャンブルを廃止している自治体も多いというのに、われらがおぼっちゃま都知事殿は東京ドームで競輪を復活させようとしていた。
東京ドームのある文京区の区長が公然と拒否するなど、反対の声が多かったようで、その後は話が聞かれないのは幸いだった。
驚くのはその時おぼっちゃま都知事閣下は都の財政を競輪復活の理由の一つにあげていたことだ。
競輪で財源を増やしたいというほどの財政状態であれば、オリンピック招致などとんでもない話だろう。
しかも、メーンスタジアムの予定地は中央区が今年度から5億円をかけて運動場を整備する予定だったそうで、今回もまた地元とのすり合わせも済ませずに独善的に計画を進めている。
だいたいオリンピックなんて今や商業主義の権化のようになったスポーツイベントで、平和の祭典とか国際友好などという理念などもはやかけらほども見当たらないので、東京で開催すること自体なんの意義も見出せない。
おぼっちゃま都知事閣下がオリンピック招致を唱えるのも、もちろん巨額の金が動くところに政治権力者としての旨みがあるからなのだろう。
いや仮にご本人はもう老齢だからそうではなくとも、周りで旗振りをやっている連中にはそのような期待があると思うのが常識というものだろう。
独裁的権力者の周りでどろどろ汚らしいものが陰でうごめいているのが見え見えで気持が悪い。

ブログ「毒々日記」
2006.5.2 「利益誘導で黙らせるやり方」

空軍機や海軍機の離着陸する米軍基地の近くで時間を過ごすと、その騒音に辟易させらる。
戸外では人との会話もできないことに苛立ちもし、機体に書いてある米軍標識を見てとれるほどの低空で急旋回を頭上で繰り返したりすることに危険を感じもする。
もし自分が基地近辺の住民だとしたら、地元に経済的利益をもたらすことと引き換えに、基地を拡張したり離着陸回数を増加したりする、と言われたら無条件に反対すると思う。
それを住民エゴと呼ぶ者がいれば、きっとその人間に対して「人でなし」と呼び返すだろう。
4/23の合併岩国市長選挙で「米海兵隊空母艦載機岩国基地移転反対」の井原氏が圧勝したのは、その意味で当然だと思う。
その反対に、自民党の立てた対抗候補が、移転賛成の見返りに利益誘導を図ることしか対案を住民に提示できなかったことの古臭さにはやりきれない気がする。
基地問題でも公共事業でも原発でも、この国は昔から恫喝と利益供与で反対住民を黙らせる手口を全く改めようとしないからだ。
たとえ諫早湾の干拓事業のように政策そのものが間違っていてもだ。
政治家や役人の口にする「反対住民の理解を求める」とは「沈黙と忍従を強要する」と同義語に過ぎないことは、今回の市長選挙やその前の住民投票の結果を受けて「反対があっても進める」と安倍官房長官がコメントしたからよく分かる。
次期首相候補として人気の高い安部が、利益誘導で反対意見を封じるという旧い自民党的体質を変える意思などないことぐらい、国民は良く認識しておく必要があるだろう。

漫画クラブのコラム
2006.5.3 「南北宥和は本気なのか?」

東西ドイツの統一と単純には比較できないが、他人事ながら朝鮮半島が統一されて韓国人朝鮮人に良いことがあるとは思えない。
何と言っても北朝鮮が貧しすぎる。
統一されたら韓国側の負担が大きすぎるだろうと思う。
おそらく労働賃金格差もべらぼうにあるだろうから、韓国人労働者は賃下げ圧力に苦しむだろうし、韓国よりも民度も教育水準も低いと思われる北朝鮮の労働者が大量に韓国に流入すれば、韓国内のモラルも治安も大いに乱れるだろう。
北朝鮮にとってもあまりいいことはなさそうに思える。
韓国も日本同様低コストを求めて中国などとの経済的関係が深まっているから、北朝鮮側が期待するほどには工場進出などによる雇用創出と資本投下は行われないだろう。
今の北朝鮮に資本主義国の退廃的文化が流入すれば、上昇できなかった民衆は若い世代を中心にモラルのたがが外れてしまうだろう。
もし南北両国民に良いことがあるとすれば、全てこの逆のことが起きるということだろうが、現実的な仮定ではない。
だから、何十年も先ならばともかく、今の韓国が南北統一を急ぐ理由はなさそうだ。
となると、今の南北宥和政策の狙いは対日・対米外交ということになるのだろう。
日本は韓国に日韓外交のカードとしての南北協調など持たせるべきではないと思うのだが、どうなのだろう。

ブログ「斜真館」
2006.5.4 「大手企業の決算内容ばかりが良くなって」

大手企業の2005年度決算発表では、増収増益はもちろん史上最高益の企業も珍しくないらしい。
2006年度の新卒採用者数も軒並み増加していると聞くし、景気は回復していると言えるのだろう。
しかし業績回復の企業の多くが正社員から契約社員・派遣社員へと労働力をシフトするなどの方法で、人件費の圧縮を行ったことが多くの識者や報道で指摘されている。
そうした問題の中に、目に見えない形での賃下げとしてのサービス残業がある。
企業は人件費抑制のために残業を禁止しつつ、従業員の無許可残業という形で実際には残業を強要する。
タイムカードを打刻してから残業させている例もある。
フレックスタイム制を導入しタイムカードそのものを廃止して勤務時間を自己申告制にしている企業では、まして残業の実態をごまかしやすい。
人員整理で仕事が増えても首切りされるよりはましという事情や個人の仕事への責任感から、残業を認められなくとも時間外まで仕事をせざるを得ないという従業員も多い。
従業員が高齢化して管理職待遇が増え、管理職ゆえにいくら働いても残業手当などつかないというサービス残業も多いし、このために過労死した例もあると言う。
多くの企業では本社の人事担当部門などが各職場ごとの残業の抑制に厳しく目を光らせる一方、成果主義の厳密な適用と利益・売上の目標達成を強要するから、末端の職場ではサービス残業で凌ぐしかなくなるのだ。
最近では新卒社員でもそうした実態を承知しながら企業に入社してくるらしい。
もしサービス残業の摘発に当局が本腰を入れたらいったいどうなるだろう?
赤字倒産の企業が続出するだろうか?
それとも意味のない無駄な仕事が減ってかえって企業の活力が復活するだろうか?

ブログ「毒々日記」
2006.5.5 「反中では解決しない問題もある」

今年の春の黄砂はかなり多くて、東京にもかなり降り積もった。
中国農地開発とダム建設が内陸部の砂漠化を急速に推し進めるものだから、黄砂現象は年々ひどくなっているらしい。
その上、急速な工業発展で粗悪な石炭による火力発電と規制の緩い工場排煙で硫化ガスなどの有毒気化物や微粒子が大量に排出されて、日本へと流されてくる。
日本だけが被害を受けるわけではなく、朝鮮半島も中国国内も被害を受けるのだが、なにしろ中華思想の国だから周辺部のことなどはおかまいなしだ。
こんな問題が日中外交でまともに取上げられているのかどうか、と心配になるのは何もこれだけではない。
大量の不法入国者(と日本での組織的な犯罪)もそうだし、中国に進出した外国企業が多かれ少なかれ被害に遭う各種のトラブル(模造品問題、技術流出問題、企業誘致特典の突然の打切り等々)もそうだ。
日本の一般国民が反中感情を煽り立てられても、こんな問題は何一つ解決しないし、まして「個人的な信念」を外交問題よりも優先させて平然としているようなような総理大臣に外交を任せておいて解決するはずがない。
こうした問題の原因は全て中国国内にあるのだからこそ、中国の内政にまで踏み込んで率直に主張すべきことを主張して問題解決を促さなければならないはずだ。
「反中」では何も解決しないし、時間をかければそれだけ日本の被害は増すばかりなのだ。

ブログ「斜真館」
2006.5.5 「自分が経験しないで他人の痛みが分かるものか」

子供相手の犯罪が頻発しているということもあるし、子供人口が減ったということもあるが、今の時代は公園で遊ぶ子供の数が少ない。
たまに見かけると親がそばにいて犯罪や事故が起きないように監視している場合が多い。
子供の屋外遊びが減ったことは間違いないのだが、心配なことがある。
屋外遊びが減るということは子供が怪我をする機会が減るということだ。
命にかかわったり大きな傷跡が残ったりしない限り、子供はなるべく怪我をするべきだ。
怪我をすれば痛い。
だが痛みを経験しないことには、他人の痛みが分かるようにはならないし、痛みに耐えることで我慢を知るという機会も減る。
この10何年間かの犯罪報道を見ていると、傷みを理解しない人間・我慢のできない人間が昔より増えたせいではないかとつい思ってしまう。
ゲームで何の抵抗もなくバーチャルに暴力をふるい、人を殺してしまうのに慣れ親しんでいるのもそれに拍車をかけているような気がする。
異常犯罪が子供を家に閉じ込め、閉じこもった子供が成長して異常犯罪を起こすのだとすれば、これはもうどうしようもない悪循環というものだ。
やはり子供は外で遊ばせよう。
犯罪から守るのであれば、幸いこれから大量に会社人生をリタイアする中年男性たちが監視すればいい。
母親と違って怪我に対して過保護にすることもないだろう。
そうしたボランティアをやってもいいと思う大人たちは少なくないはずだ。
問題はそんな環境を作っても、母親たちが子供からゲームを取上げて「外で遊びなさい」と言うかだが、、、

ブログ「毒々日記」
2006.5.6 「多すぎるオリンピックの競技種目」

さすがのIOCもオリンピックの競技種目の制限に動いて野球とソフトボールがその血祭りにあげられてしまったが、個人種目では同じ競技の中での細分化が進んだままだ。
いったいなぜこうも個人競技の種目は次々に増えてしまったのだろう。
たとえば柔道に体重別など必要だったのだろうか?
柔道に限らず、同じ競技で世界チャンピオンが何人もいるというのは納得できない。
非常に極端なたとえだが、例えば水泳など自由形だけ、それも50mと1500mだけあれば十分だという気もしないでもない。
わざわざクロールより遅い泳ぎ方を規則で決めて、その中での順位を競う意味というのが、さっぱり理解できない。
まあ、これはあくまでもたとえ話で、柔道と水泳の関係者は気を悪くするかもしれないのだが。

ブログ「毒々日記」
2006.5.6 「金の卵を産むメンドリを殺すバカがいるか」

日本は今のところ中国や北朝鮮にとっては金の卵を産むメンドリのような国だ。
日本国内や東南アジアの生産拠点を中国に移して資本と雇用と外貨をもたらしてくれるし、中国製品を湯水の如くに消費してくれるし、犯罪者の出稼ぎにはもってこいの近さだし、大衆遊技産業での儲けを仕送りしてくれるし、覚醒剤はじゃんじゃん使ってくれるし、こんないい国は世界中捜してもそうあるものではない。
ところで、軍事力で国を守るというのは勇ましくてかっこいい。
外交努力で国を守るなんていうのは、どこか卑屈で他力本願みたいでかっこわるい。
そう思っている人たちはさぞ多いだろう。
「憲法9条改正反対」とか「安保体制反対」とか主張する人を、空想的平和主義者と決め付けて軽蔑したり、無責任と罵ったりする人も多いようだ。(お人よしの平和主義者がむきになって反論すると、ますますバカにしたりするらしい。)
だがほんとうに軍事力と軍事同盟がなければ国を守れないのだろうか?
素朴な疑問だが、本質的な疑問でもある。
なにしろ、この国防政策をかつて決めた連中も、現在これを守っている連中も、私利と権力のために国民を食い物にしてきた大嘘つきとその係累ばかりなので。

漫画クラブのコラム
2006.5.7 「情報機能の進歩で世の中が変わる」

テレビが普及する以前と以後とでは文化が変わった。という以上に生活も経済までも変わった。
家族観など価値観やモラルにまで影響を与えたと言っていいだろうし、恐らくその影響力は自民党文教族などの保守主義者が目の敵にしている「戦後民主教育」などよりも強いだろう。
少なくとも日本では文明が変わったといっても良いだろう。
これほどの変化は明治維新と太平洋戦争の敗北によるそれに匹敵する。
(コンピュータ)ゲームも以前と以後との変化が大きかったが、こちらも日本人の生活や経済や価値観までも変えたといって良いだろう。
ただ世帯の所有率という点ではテレビがほぼ100%であるのに比べると、はるかに低い。
ゲームがテレビを超える前にゲームを超す勢いでパソコンが登場した。
パソコン以前と以後の変化を語る時代は、まだずっと先になるだろう。
テレビのそれに匹敵する以上のものになるとは思うのだが、パソコンの歴史的な役割を予想する前に、パソコンを追い越す勢いでケータイ文明が発達している。
「パソコンで世の中が変わる」とまで言われていた機能の内の多くが、手のひらサイズのケータイで実現されてしまった。
ゲーム機がパソコンの普及に追い越されたのは、情報機能での差にあるだろう。
テレビもパソコンもケータイも全部情報機器で、情報機器がこれほど人間の生活に影響力をもたらしたということは、逆に言えば人間の文明は何万年もの歴史を経ていながら、つい半世紀前までは情報伝達については実に貧弱な手段しか持っていなかったことの現われと言うべきだろう。
世の中を変えるかもしれない文明の利器は、まだこれからパソコンやケータイ以上のものが現れるかもしれない。
ただそれによって人々が幸福になるかどうかはまた別の話だ。

ブログ「毒々日記」
2006.5.8 「クルマで便利になって足は弱くなった」

今の時代、地方から出て東京やその近辺で生活するようになった人は、東京の生活は意外に歩くことを要求することを知ることになる。
マイカー通勤は地方よりはるかに不便だし、繁華街の駐車設備も不足していて料金はバカ高いから遊びでもマイカーは利用しにくい。
たしかに公共交通機関は発達しているが、利用するために歩く距離や階段はけっこう多い。
大昔から東京に住んでいた人間には、足弱な人でなければ電車の駅のひとつ分やバス停の2・3個分は歩くのが当たり前のことだから、歩いて10分から15分程度のわずかな距離を地方出身者が遠いと言うことに戸惑うことがある。
ちょっとした距離でもすぐタクシーを利用したり、ビルの中の1・2階をエレベーターで移動したがる人は、どちらかと言えば地方出身者に多い。
モータリゼーション以前は地方の人は都会人よりはるかに健脚だったはずだ。
クルマなしでは成り立たないほどになった今の日本の地方の生活は、昔より便利になったかもしれないし、まして昔の方が良かったがというつもりも無いが、今の時代の健康志向の生き方から見ると全く「?」無しとは言えない。

ブログ「毒々日記」
2006.5.10 「領土問題に安保体制は役に立つのか」

竹島や尖閣諸島は日本政府によるとわが国の領土なのだそうだ。
ところで笑ってしまうことには、竹島には韓国の警備隊が常駐していて、日本の船舶が近づいたり上陸しようとすると武力で阻止しているそうだ。
最近では竹島周辺海域の海洋調査をめぐって、日韓両政府が対立して「排他的経済領域」の境界交渉を再開しようか、という雲行きになったらしい。
韓国による竹島の実効支配については、日本政府のスタンスはあくまでも領土問題としているようだが、竹島がわが国の領土であるのならば韓国が武力をもって占拠している事実を日本政府が「侵略」と呼ばないのは不思議な気もする。
今の政府の憲法9条の解釈に寄れば、領土問題などの解決には武力を用いないが、自衛のための戦力は保持する(保持するし行使もする)ということになっているから、竹島を武力占拠されていても「侵略」と呼ぶわけにはいかないのだろう。
侵略されているとなると、「自衛」のための戦力を行使せざるを得なくなってしまう。
しかし「わが国固有の領土」を話合いによることなく武力で占拠し、わが国の船舶が接岸することを防ぐために武力行使するという状態を「侵略」と呼ばずに、いったい何と呼ぶのだ。 だが、まともな政治家だったら怖くってとても「侵略」なんて口にする筈がない。
実質的に日本の国土が侵されても、解決のためにはあくまでも外交に寄らねばならず、戦力を行使することも、まして日米軍事同盟に救いを求めることもできない一つの極端な例だ。
「自衛」のための戦力を保持し、莫大な国費で軍事同盟体制を堅持していながら、政府の外交能力が伝統的に拙劣であるばっかりに、こんなお笑いぐさを生じている。
これと同じことが尖閣諸島でも起きないとも限らないが、さてどうなることか。

漫画クラブのコラム
2006.5.11 「問題教師を生む地域的な背景」

最近また問題教員の報道が多くなっている。
教え子への性的事件を起こすのなんかは論外で、「教師も人間だ」で済むようなことではない。
そうかと思えば、教育者でありながら生徒の人格を育てるのではなくて、むしろ人格をゆがめ、生徒の人としての尊厳を踏みにじっている教師も多い。
イジメにあった子どもの父兄からの訴えを聞かずに「弱いからイジメにあうのだから、もっと強くなれ」と、いじめられる側に責任があるような物言いをする教師も多いと聞く。
生まれつきの赤毛を好ましくないからと言って、女子生徒の髪をむりやり黒く染めようとした教師もいた。
生徒を体罰や言葉の暴力で抑圧する例などは今でも珍しくもないが、曽祖父が外国人だったという生徒を「けがれた血が入っている」とイジメた教師までいたのには、まったく呆れてしまった。
教師の適性以前に個人の人格そのものに、社会人として必要なものが欠けているとしか言いようがない例だった。
問題はこれらの教師だけではない。
父兄、生徒からの訴えがあっても、こうした問題教師に対して適切な処置を取らず、事件が起きてマスコミ沙汰になるまで放置し、時には隠蔽しようとさえする学校や教育委員会があることだ。
ひどい例では、地域ぐるみでむしろ被害者を疎外して問題隠しをしている例まで聞く。
知る限りではそうした例は大都市周辺の住宅開発地域で、旧在民と新住民の子どもが混在する学校にあるらしい。
教育の問題としてよりも、日本社会に残る封建的体質のいやらしさをうかがわせる話だ。

ブログ「毒々日記」
2006.5.12 「百年以上は続きそうな沖縄の米軍基地問題」

稲嶺沖縄県知事の国に対する抵抗の姿勢は、結局県民に対してのポーズだけで、地元への経済的利益をいかに引き出すかの落としどころを探っていただけのような印象だ。
どちらにせよ沖縄県知事程度の微弱な権力者の言辞など、日米軍事関係の強固さに比べたらごまめの歯軋りのようなもので、普天間基地移設問題にせよ米軍基地再編への日本の負担問題にせよ、日本はアメリカの同盟国などの生易しいものではなく、属国に過ぎないことが明白になったような気がする。
米軍による統治から形の上では独立して50年以上たち、日本人の大半は日本が独立国家であると思っているかもしれないが、それは幻想じゃないだろうか。
戦後の日本の指導者たちに比べれば、豊臣秀吉の方がよっぽど優れた政治家のようだ。
豊臣秀吉はキリシタン宣教師が日本の国土の租借権を大名から得たことを、キリシタン国家に日本侵略の意図ありとしてキリシタン大名を追放し、後世に二十六聖人と呼ばれることになるキリシタンを処刑したが、外国交易だけは維持した。
スペイン、ポルトガルという国々がそうした手口で東アジアやアメリカ大陸を侵略していった歴史を見れば、この時期に秀吉の採った政策がいかに当を得たものであったかは、徳川幕府の稚拙で愚劣な鎖国政策と比べるといっそう際立っているように見える。
昔も今も、いったん外国に国土の支配を許せば半永久的な属国の立場に陥り、そこから抜け出すことがどれほど困難なことか、今の日本を見ると改めてつくづくそう思う。
イラクの人民がアメリカ支配に抵抗してテロをやめないのもむべなるかなだ。

ブログ「毒々日記」
2006.5.12 「道州制なんて必要か?」

今年の2月、内閣総理大臣の諮問機関である地方制度調査会が、「道州制のあり方に関する答申」で道州の「区域例」3例を示した。
そう簡単には実現しそうにはないとは言え、道州制実現へ一歩踏み出したようだが、「何のために?」という疑問が大きすぎて道州制には賛成できない。
都道府県を廃止して道州を置くと言うが、国と市町村の間の地方自治体なんてそもそも必要なのか。
今の都道府県は幕藩体制から中央集権国家に移行した名残のようなものだからいつかなくなるのは当然だとして、こんな狭い国をわざわざいくつものブロックに分けなければいけない理由がよく分からない。
交通通信手段が発達した現代に地域で日本を分割することに何の意味があるのだろう。地域性を云々するのなら、今の都道府県制の県単位の中でさえ大きな地域差があるのに、もっと大きなブロックに分けたらブロック内の地域差はもっと大きくなるではないか。
今しきりに言われている地方への財源移譲問題や公共サービスの国から自治体への移管問題の論議を聞いていると、地方分権のほうが中央集権よりも未来的であるとも、効率的であるとも、はたまた国民のためになっているとも思えない。

地域格差の是正を考えたら、むしろ中央集権制のほうが優れているようにも思えるし、べらぼうな地方債の発行残高を考えると財政的には地方自治は最小限にした方が良いと思える。
だから道州制論議の前に、まず国の行政と地方自治の区分がどうあるべきかを、きちんと結論付けて国民に説明してもらいたいものだ。

漫画クラブのコラム
2006.5.13 「作ったやつより使ったやつのほうが悪いはずだが」

Winny利用者から個人情報が流出したという事件が絶えない。
ネットワーク犯罪の始末の悪さが良く表れている。
従来のウィルスやスパイウェアの事件では、ネットワークの脆弱性に責任ありとする議論が起きたものだが、Winnyではもっぱらこれを使用している人間のセキュリティに対しての認識の甘さが問題にされているようだ。
もともとネットワークの脆弱性に責任転嫁することはおかしな話だった。
例えば、電話の盗聴などやろうと思えば秋葉原あたりでどうどうと売られている盗聴器を買って電話線の中継器に仕掛ければ簡単に出来るので、盗聴犯罪はあとを絶たないのだそうだが、電話線の脆弱性に責任転嫁できるだろうか。
例えば、泥棒に入られた家の防犯設備が貧弱だったとして、そのために泥棒の罪を軽くして良いなどと言う理屈があるだろうか。
その点Winny問題ではWinnyの使用者に責任があるということに対する異論は、少なくとも新聞テレビでは目にしない。
WinnyはPC使用者自身かご親切な知人友人が使用者の希望でインストールしている筈のものだ。
各種のニュースでもネット上でもあれだけ騒がれているのに、仕事にも使用しているパソコンにWinnyを入れっぱなしにしたのでは弁護の余地がないと誰もが思うだろう。
(多少の弁護の余地があるとすれば、仕事を自宅に持ち帰らなければならないという事実上のサービス残業の実態や、仕事に必要なパソコンもろくに用意しない職場に問題はある。しかしこれは労働問題でPCセキュリティとは別に論じる必要がありそうだ。)
仕事に対して無責任なのか、よっぽど一般世間で起きていることに関心がないのか、AVファイル収集が他の何より大切なのか、自分にだけは起きないと思っているのか、被害にあうのがタカラクジ並みの確率に過ぎないとでも思っているのか、単に面倒くさいのか、、、いったいなぜだろう。

ブログ「毒々日記」
2006.5.15 「責任能力がなければ何をしようと刑罰の対象外で良いのか?」

猟奇的な犯罪や変態的な犯罪が昔より増えたように思う。
そうした犯罪のだけとは限らないが、殺人や傷害事件の裁判で、しばしば被告の精神状態が異常であったとか性格形成に障害があったなどの理由で被告に責任能力がないと弁護側が主張する場合がある。
しかし重い罪を犯した人間をそうした理由で、刑罰を与えずに治療・矯正させるだけで良いと言うのが、よく分からない。
少年でも成人でも、責任能力がなかろうと罰は罰として与えるべきではないだろうか?
そんなことを心配しているのは、2年前にも性的犯罪の前歴者による猟奇的な小1女児殺害事件が起きたりしているからだ。
3年前に日弁連などが精神障害者に対する差別であるとして反対した「心神喪失者等医療観察法」が成立し、昨年から施行されるはずが強制入院させる病室数が不足するなどの問題が起きたらしい。
犯罪を起こした精神障害者の人権擁護も大切だが、現実に起きた再犯の被害者の人権も守られなければならないと思う。
刑罰を与えるのはダメ、治療・矯正するのもダメ・・・ではいったい精神障害者の犯罪の防止と、被害者の救済とはどうすればいいのだろう?
それとも、こうした心配をすること自体が偏見と差別に当たるのだろうか?

ブログ「毒々日記」
2006.5.16 「税金も年金も本質は権力者による民衆からの収奪」

将来の負担が増えることばかりが問題にされている年金制度だが、そもそも年金というのは国民が必ず負担するべきモノなのだから、税金と同じではないか。
だったら年金と税金とは一本化する方が正しいのではないだろうか。
厚生年金や共済年金のように国民基礎年金に対して加算している部分は公的年金ではなく、民間企業に任せればいいのではないだろうか。
やはり自分の将来は自身の責任において、貯金なり民間の年金保険なりに個人が資金を投入するのが正しいだろう。
もし政府がやるべき部分があるとすれば、間違っても個人年金を扱う企業の倒産が起きないよう監視し、万一の時に加入者を救済することだろう。
自分の老後は自分で保証するとなれば、アリとキリギリスの話のようになるかもしれない。
国は国民が健康で平穏に生きられる最低の生活レベルをしっかりと規定し、それを守る義務を果たせば良いのであり、国民年金給付はそのような性格のものであって、それ以上のものを国の制度として行なおうとしてきたところに、今の年金制度の歪みの原因があるように思う。
そうなった理由の中に天下りや外郭団体との官庁の癒着や縦割り行政などがあるとは、国民の多くが思っていることだろうが、個々の問題ばかりに注目してばかりいても、国の国民からの収奪システム全体に関心を持たなければ、将来この問題が良くなるはずがないだろう。
国はあの手この手で国民から収奪しているものが、所得税、住民税、消費税のような国民の目にみえる形に集約されることを嫌っているようだ。
民主国家の政府や公共団体だろうと封建主義時代の領主だろうと、権力者は常に民衆から収奪するものだということを忘れるべきではない。

ブログ「毒々日記」
2006.5.17 「民団・総連和解の不思議」

5/17民団と総連が初のトップ会談を実現し、半世紀以上に及ぶ対立の歴史に終止符を打つ姿勢を共同声明で明らかにした。
このこと自体はいい。
イデオロギー対立で国家が分裂したとはいえ、他国(この場合は日本)にいる同国人がイデオロギー以外のことで対立するのは哀しい。
ただ民団も総連ももともと在日の韓国朝鮮人が全く自主的に組織した団体ではなく、それぞれ南北政府の意向で動いている団体だと指摘もされている。
今回の和解にしても両政府の意向を受けてのことだと冷ややかに評する向きもあるようだ。(それが正しい評価なのかどうかは分からない)
国際的な封じ込めから少しでも逃れ経済援助を確保しておきたい北朝鮮政府と、支持率低下を食い止めるために南北融和を進めたい韓国政府の思惑が、在日にも反映したのかと苦々しい思いで見る人も多いだろう。
それはまあいい。
ただ不思議なのは日本の「拉致被害者の会」の横田さんらが訪韓して韓国の「拉北者家族協議会」会長らと面談して、拉致問題での日韓連帯を強めようというこの時期、韓国の報道でもそれなりに取り上げられ関心を呼んでいるらしいこの時期に「民団・総連和解」なのだろう。
単なる偶然なのか、いやもし偶然だと言われたらかえってそうじゃないと思ってしまうような気がするのだが。

ブログ「斜真館」
2006.5.20 「駐車違反摘発強化は当然」

駐車違反の摘発強化が間近に迫って新聞テレビで取上げられるのをよく目にする。
駐車違反に迷惑している側からの賛成と、摘発強化で困る側の反発の両方の声を、紹介している例が多いように思うのだが、あまりに報道の基本姿勢に固執しすぎた取上げ方のような気がする。
れっきとした法令違反の取締りを強化することが問題の焦点であるべきなのに、賛否両論を平等に扱うのなんておかしい。
確かにどんなことでも規制強化には困る人間が出てくること自体は無視できない。
駐車違反問題にしても、一般の自家用車使用者が例えば幼稚園児の送り迎えなど日常的にやむなく路上駐車している場合だの、小型トラック主体の運送業者だの、クルマ利用客に頼っている商店・飲食店だの多くの人たちが困るだろう。
だが駐車違反の車両によってどれほどの危険があるのかを忘れてはいないか。
駐車している陰から飛び出してくる人や車両に気付きにくい危険、駐車車両を避けて通る歩行者・自転車・バイクを引っ掛ける危険、走行している自動車が車線を変えたり反対車線にはみ出すことの危険、道路標識・表示を見えにくくする危険、火災時に消火栓を使えなくしてしまう危険、その他駐車車両に起因する無数の危険について、もっと声高に言うべきではないのか。
道交法上の危険箇所の駐車違反以外では、こうした危険性が事故を招いたとしても駐車していた車両の運転者はほとんど責任を問われていないのではないだろうか。(もしそうなら警察のそうした統計の数字はもっと高いはずだ)
全国で駐車車両に起因する事故がどれほどあって、どれだけの犠牲者が出ているのかを、具体的な統計数値で公共側も報道も一般国民にもっと知らせる必要がある。
アメリカ産牛肉のBSE感染の可能性とそれで日本国民が被害に遭う可能性に比べたら、圧倒的に高い危険度があるだろう。
BSEでは一般国民も公共も報道もあれほど大騒ぎして、危険確率0%の保証を要求しているというのに、駐車違反に対してはあまりに日常的な違法行為であるために危険感覚が麻痺しているとしか言いようがない。
こうした状態の最も大きい理由は、報道機関も一般国民の多くも自身が日常的に駐車違反を犯す側の人間だからということにあるのだろうか。

漫画クラブのコラム
2006.5.27 「クールビズで、まだ古い常識にこだわることの愚」 

クールビズという提案自体は悪くない。
英語もどきのカタカナ語をまた一つ、ほかならぬ政府が作ってしまったことには抵抗があるけれど。
自然条件の異なる西欧の服装文化を墨守した不合理なマナーで、暑い季節でも暑苦しい服装を強いるものだから、冷房を必要以上に効かせているオフィスや商業ビルの何と多いことか。
女性社員は冷えを防ぐためにひざ掛けをしたりウールの下着を穿いたりするような馬鹿げたことが少しでも改善されるのなら、何も省エネなんかを錦の御旗に掲げなくとも賛成したいと思う。
だが昨年政府がこれを提案したときに、早速アパレル業界と服飾評論家が反応した内容はちょっといただけなかった。
上着なしネクタイなしでは襟元がルーズになるからとか何とかいう理由で、シャツの襟(カラー)は高くなければいけない、というのがそうだ。
おかげで襟ボタンを2段にしたシャツまで、どっと売り出された。
なにを勘違いしているのだろう。
襟元をゆるめなければ、いくら技術進歩でシャツ素材が優れた吸湿通気放熱性を持つようになろうと、ネクタイをしない意味が半減してしまうではないか。
暑さ寒さ調節の服装のポイントが襟元の通気性にあるくらいのことは常識ではないか。
クールビズ先進国であるフィリピンのバロンタガログやインドネシアのバティックシャツだって、わざわざ襟を高くしたりなんかしていない。
日本にだって昔は失礼にならない程度の夏の服装として白い「開襟シャツ」があった。
アパレル業界はともかく、ここぞとばかり西欧流の服装の常識をひけらかして、くだらないだけではなくクールビズの本来の目的をないがしろにするような愚劣なファッションを提案する服飾評論家など、全く世のため人のためにならない存在としか言いようがない。
しかしこの手のクソの役にも立たない評論家が幅を利かせるのが今の時代だ。
その意味では今年のクールビズ向けのシャツ類では去年よりハイカラーが目立たなくなった気がするのを良しとしたい。

漫画クラブのコラム
2006.5.31 「国政調査活動費で芸者遊びをしても良いという素敵な常識」

衆議院事務総長が慣例的に議長、副議長等の人間を料亭等の高級飲食店で接待し、芸者代コンパニオン代を料理代に上乗せして衆議院の国政調査活動費として不正支出してきた事実が5/25に報道で明らかにされた。
前事務総長はこれについて「カネのかからない場所でやれとの指摘は現実的ではない」と、実に呆れるほかはないコメントで開き直ってるらしい。
つまり彼らにとっては国費を芸者遊びに濫用することこそが現実的な「打合せ」であり「会合」なのだ。
トップがこうだから本来備品購入や光熱費などに充てられる「庁費」についても、衆院職員の高級料理店等での飲食に支出されていたのもまったく当然のことなのだろう。
何と(政治家・官僚たちにとって)素敵な常識なのだろう。
同じ国会を職場としているのだから、自民党などの政党政治家たちが院外活動を高級料亭で繰り広げることと常識感覚的には一緒なのだろうか。
一般国民からは所詮同類のように見えるし、国政が一般国民の生活とはかけ離れた雲の上の世界で行われていることの証拠とも思える。
こうした連中が国政を担っているような「わが国を愛する」とは、いったいどのような意味を持つものなのだろう。
一度、前衆院事務総長とやらに訊いてみたいものだ。

漫画クラブのコラム
2006.6.3 「東京裁判が無効だとはなにを今さら」

敗戦60周年だった昨年をピークに「東京裁判は法的に無効だ」と唱える意見がメディアを多少にぎわしたらしい。
A級戦犯の判決を受けた者たちの復権を主張する人もいるらしい。
それならそれでいいが、連合国側が裁いたものを無かったことにするのなら、では代わりに日本人自身があの戦争責任を追及して、改めて天皇を初めとする戦争遂行責任者たちに罰を下す必要があると論じる人もいるようだ。
どちらにせよ、この際「あの戦争はアメリカやソ連の陰謀によって起きたのだから、わが国に責任はない」などというギミックめいた論理は通用しない。
日本では伝統的に(軍隊を含めて)国や公共に奉職する個人が職務上の過ちを犯しても、なんのかんのと口実をつけて責任を負わされないで済むようになっているから、戦争責任についても同じだなどと考える輩もいるのかもしれないが、それで良い筈がない。
敵国民であれ自国民であれ人間を故意に殺傷する戦争責任と一般的な行政責任とを一緒くたにして良いわけがない。
だが皮肉なことに、むしろ保守主義者たちにとっては、東京裁判は適当に特定の人間だけに責任を負わせて死刑にすることで永久に口を封じ、国体護持(=天皇制の維持)を実現するためには好都合だったみたいだ。
死刑を免れた戦犯の多くがわずかな服役期間で赦されて、何食わぬ顔をしてその後日本の政界官界財界の一線に立つことになったことを考えると、いかにも東京裁判そのものが予め示し合わされていた演出のようで、いっそうそのように思わざるを得ない。
その意味では保守主義者にとって十分満足すべき「茶番劇」のような裁判だったのに、なにを今さら不服を申し立てる必要があるのだろう。
まったくばかばかしい議論としか言いようがない。

漫画クラブのコラム
2006.6.8 「”ジェンダーフリー”をもっと使おう」 

いま話題の「ダ・ヴィンチ・コード」では、イエス・キリストが実は宗教上男女平等を実践し後継者に妻である「マグダラのマリア」を選んでいたのにペテロらとその後継者たちであるカソリック教会がその事実を抹殺したことを題材にしているのだが、日本でも似たような宗教的歴史がある。
言うまでもなく大和朝廷の母体が芽生えた頃、つまり魏志倭人伝に出てくる大和とおぼしき国の支配者は女性のシャーマンであったことであり、天皇家の祖神は女性である天照大神であることだ。
それが大和朝廷が国家的な体裁を整える課程で、いつのまにか男子男系の大王が聖俗の最高権力者を後継するようになってしまったのだが、狡猾な右翼的歴史論者たちはそのことについてそらっとぼけている。
ところで話を現代に戻すと、かつて在籍していた会社(一応、業界ではトップ企業を何十年も続けている)では、人権啓発委員というのが各職場に置かれていて、毎年人権啓発の研修を実施している。
当然のように、そんな中に「ジェンダーフリー」という用語も出てきて、参政権の平等や職業の機会均等だけでは解消しえない男女の社会的差別の深刻さを解決するには、この概念が広く社会的に浸透される必要がある、と説明される。
一部の人間が「ジェンダーフリー」を本来の意味から飛躍した用い方をしていることなどはごく些末なことで、重要なのはこの概念が国際的にも一般的に用いられている無着色の人権用語であることだ。
要するにこの問題は「ジェンダーフリー」という言葉の問題ではなく、一部の保守派が大きらいな「市民運動」を叩くための口実の一種なのだという側面を持っているんじゃなかろうか。
社会への男女の共同参画が本当に実現して、女性全体が税金や外交や経済政策や福祉などの政治全般により深い関心を持つようになって困っちゃうのは、男中心の村社会的伝統の上に成り立っている保守基盤の連中だ。
いままでだったら女性の大半は選挙ともなれば、ただのミーハー気分でカッコよさそうで頼りになりそうな候補者に投票してくれたけど、そうも行かなくなってしまう。
それでなくとも家の中では奥さんに頭が上がらないのに、、、
次期首相候補で最も人気の高い安部晋三が「ジェンダーフリー」を使わせない勢力の急先鋒だってことぐらい、女性の有権者たちは良く知っておくべきじゃないかな。

漫画クラブのコラム
2006.6.10 「スタンドプレーで首長を選んだ国の末路」

小泉内閣や石原都政は一般国民から高い支持率を受けて誕生した。
どちらも肝心な政策や政治性よりも、派手な言辞、スタンドプレー、かっこ良さが大衆に受けた。
その結果はどうだ。
小泉も慎太郎も議会での野党質問や自分の意にそぐわない意見に対する答弁やコメントは議会制民主主義における政治家のそれとは程遠い。
「はぐらかし」と「開き直り」と「バカ扱い」ばかりだ。
昨年の郵政選挙が顕著な例だが、反対議論を封じ込めるためには大衆を扇動するという手段を取る。
ヒットラーに似ているという評論もある。
ヒットラーに代表されるような(古代から続く)扇動的独裁者の系譜に連なるもの達という意味だろう。
古代ローマ帝国だってシーザー以前は共和制だったが、アウグストゥスが(軍隊を背景としていたとは言え)事実上の皇帝となったのは何もクーデターによるものではなかったことも忘れてはならない。
古代ギリシャの都市国家でも民主主義的な手続きであるはずの「陶片追放」や陰謀や扇動によって、巧みに民衆を利用したものがしばしば独裁的な地位を得た挙句、国家を危うくしたりしている。
ナチスドイツや古代ローマ・ギリシャのような道を辿ることになるかどうかは分からないが、日本の国民の多くがわざわざそのような可能性を選択したような気がする。

漫画クラブのコラム
2006.6.13 「南北宥和は本気なのか?」

東西ドイツの統一と単純には比較できないが、他人事ながら朝鮮半島が統一されて韓国人朝鮮人に良いことがあるとは思えない。
何と言っても北朝鮮が貧しすぎる。
統一されたら韓国側の負担が大きすぎるだろうと思う。
おそらく労働賃金格差もべらぼうにあるだろうから、韓国人労働者は賃下げ圧力に苦しむだろうし、韓国よりも民度も教育水準も低いと思われる北朝鮮の労働者が大量に韓国に流入すれば、韓国内のモラルも治安も大いに乱れるだろう。
北朝鮮にとってもあまりいいことはなさそうに思える。
韓国も日本同様低コストを求めて中国などとの経済的関係が深まっているから、北朝鮮側が期待するほどには工場進出などによる雇用創出と資本投下は行われないだろう。
今の北朝鮮に資本主義国の退廃的文化が流入すれば、上昇できなかった民衆は若い世代を中心にモラルのタガが外れてしまうだろう。
もし南北両国民に良いことがあるとすれば、全てこの逆のことが起きるということだろうが、現実的な仮定ではない。
だから、何十年も先ならばともかく、今の韓国が南北統一を急ぐ理由はなさそうだ。
となると、今の南北宥和政策の狙いは対日・対米外交ということになるのだろう。
日本は韓国に日韓外交のカードとしての南北協調など持たせるべきではないと思うのだが、どうなのだろう。

漫画クラブのコラム
2006.6.17 「反中では解決しない問題もある」

今年の春の黄砂はかなり多くて、東京にもかなり降り積もった。
中国農地開発とダム建設が内陸部の砂漠化を急速に推し進めるものだから、黄砂現象は年々ひどくなっているらしい。
その上、急速な工業発展で粗悪な石炭による火力発電と規制の緩い工場排煙で硫化ガスなどの有毒気化物や微粒子が大量に排出されて、日本へと流されてくる。
日本だけが被害を受けるわけではなく、朝鮮半島も中国国内も被害を受けるのだが、なにしろ中華思想の国だから周辺部のことなどはおかまいなしだ。
こんな問題が日中外交でまともに取上げられているのかどうか、と心配になるのは何もこれだけではない。
大量の不法入国者(と日本での組織的な犯罪)もそうだし、中国に進出した外国企業が多かれ少なかれ被害に遭う各種のトラブル(模造品問題、技術流出問題、企業誘致特典の突然の打切り等々)もそうだ。
日本の一般国民が反中感情を煽り立てられても、こんな問題は何一つ解決しないし、まして「個人的な信念」を外交問題よりも優先させて平然としているようなような総理大臣に外交を任せておいて解決するはずがない。
こうした問題の原因は全て中国国内にあるのだからこそ、中国の内政にまで踏み込んで率直に主張すべきことを主張できるようにして問題解決を促さなければならないはずだ。
「反中」では何も解決しないし、時間をかければそれだけ日本の被害は増すばかりなのだ。

漫画クラブのコラム
2006.6.19 「国家の過去の行為をただの歴史にするのは妥当か」 

歴史には多様な見方がある、と考えるのが一般的だ。
だから明治時代から第2次大戦にかけて日本という国がやったことについても多様な見方をするのは当然で、朝鮮支配や中国侵略についても肯定的な意見と否定的な意見が両立するのは当然なのだ、ということになる。
・・・のだそうだ。
でもこれはちょっと違うだろう。
本来は一個の団体として国家が過去に行なったことは歴史と呼ぶべきものではなく、事歴とか履歴とか呼ぶべきものだろう。
「民俗」とか「文化」とかあるいは学問的な意味で言うところの「政治」とか、そうした抽象的な概念の固まりの転変経緯を「歴史」と呼ぶのは分かる。
また記録性に乏しくて推論を加えなければ成立しない過去の記録を「歴史」と呼ぶのは分からなくもない。
だが日本がこの一世紀間にやった事柄はそうではないだろう。
むしろ多数の人間が寄ってたかって作為的に具体的な事柄を隠蔽しあるいは改ざんして、事柄の総体をあいまいなものと化することで、「歴史」に仕立ててしまったではないか。
これはなにも保守派だけについて言っているわけではない。
国家の履歴はそうであってはならない。
個人の履歴書に不実記載が許されないのと同じように、、、

漫画クラブのコラム
2006.6.24 「臨海副都心開発への乱脈投資のツケ」

約3500億円の債務を抱える東京・臨海副都心開発の第三セクター会社3社について、東京都は民事再生法の適用を申請し経営統合する方針だそうだ。
都や金融機関側に約2100億円の債権放棄をしてもらうなどして債務を圧縮するらしい。
鈴木俊一知事時代の乱脈事業投資がついにこういう結果になった(嘆息)。
地縁的利害的癒着体質で行政を動かすといういかにも民度の低い地方的な行政を、東京都政にまで持ち込んだ鈴木俊一と彼を担いだ自民党の罪は大きい。
第三セクター3社に投資された莫大な金額からして、東京都内の他の大規模再開発地域に比べて適正なものであったと言えるのかも、よく分からない。
初めっからバランスシート的には成り立っていないような投資だったんじゃないのかいな?
臨海副都心を実際に訪ねてみると、それほどの大規模投資の金が果たしてどこに消えたのか、率直な疑わしさがふつふつと湧いてきて、東京都が債権放棄するという3社への莫大な出資金のことを考えると、今まで納めた都民税のバカバカしさが倍加してしまう。

漫画クラブのコラム
2006.6.27 「教科書の厚さと教育の中身は別物か?」

6/7の新聞記事に、欧米の理科の教科書に比べて日本のそれは薄くて小さいらしいとあった。
教科書にある豊かな情報からつまみ食い的に教える欧米流と、学年ごとに履修すべき最低限の知識だけを教科書にまとめる日本との違いのせいらしい。
また教科書を学校に置いておく欧米と家庭に持ち帰る日本との違いも理由にあるようだ。
教科書がぺらんぺらんのものであることと日本の理科教育の水準が低下の一途をたどっていたこととの因果関係はよく分からないが、少なくとも子供たちが新しい知識に触れてわくわくするような内容がなければ家に持ち帰ったところで教科書を読みたいとは思わないだろう。
教科書がぎっしりと知識と情報と理解の手助けを詰め込んだものになれば、理科に限らず今よりもずっと分厚くて重いものになり、当然家に持ち帰るのではなく学校に置いておくことになるだろう。
だが、もしそうなればランドセル業界はきっと大いに困るに違いないだろうし、教科書では足りないところを補うことで利益を上げてきた受験関連出版業者も打撃を被るだろうし、何よりも教科書のコストが何倍にもふくれあがって、それでなくとも教育にしみったれたわが国の文部科学省が教科書無償を撤廃しようと考えるに違いない。
ただし日本の教育水準の低下を文部科学省が問題視していることなどは所詮役人の「仕事をしてますというポーズ」に過ぎないのだから、日本の理科の教科書が欧米並みの厚さにはたぶんならないだろう。

漫画クラブのコラム
2006.7.1 「靖国神社の宗教法人認可を取り消そう」

靖国神社擁護論者も一部のマスコミも曲解しているようだが、靖国神社に閣僚や国会議員が参拝することに反対するのは、なにも韓国中国などの外交関係を懸念している人間ばかりではないだろう。
靖国神社は軍国主義政策を推進するための施設以外の何物でもなかったにもかかわらず、敗戦後の日本が軍国主義国家から民主国家に脱皮したときに、宗教法人として存続させたことが欺瞞に過ぎなかったのだ。
むしろ宗教法人という形で国の手を離れたおかげで、現行憲法によって保障された宗教活動の自由を逆手にとって、あいもかわらず腐りきった軍国主義の権威を取り繕い旧悪を恥ともしない連中の精神的支柱であり続けているようなものだ。
だからA級戦犯の合祀という露骨な政治性のある行為によって国家に外交的な瑕疵をもたらしたのであれば、公共の利益に反しているのであるから宗教法人の認可を取り消すのが至当というものだろう。
これは何も韓中などの過剰なまでの被害者意識などは関係がなく、日本人自身が解決するべきだ。
そうでなければ我々の祖父母両親らが第2次大戦で奪われたものに対しての子孫としての恨みは消えない。
今の国の態度を見ていると「愛国心」などを唱えるよりもまず先に「国に対しての恨み」を晴らさせてからにしろと言いたくなる。

漫画クラブのコラム
2006.7.5 「馬肉を食わない愚かな文化」

動物であれ植物であれ、死して後は他の生命体の直接的な栄養源となるか、自然に還元されて新しい生命を育む素になるのが、大自然の摂理と言うものだが、地球上で唯一つこの摂理に逆らう死に方をする種がある。
言うまでもなくそれは人間で、火葬してガスと灰だけにしてしまうか、厳重な棺に入れて土葬してシデムシやバクテリアによる分解で土に返ることを拒んだりするのが立派な文化とされている。
人間はまあいいとして、ペットなどの愛玩動物にまで同じ文化を適用するのだから始末が悪い。
アメリカでは年間何万頭もの馬が死ぬそうだが、その多くが日本などの外国に食肉として輸出されているらしい。
ところがそのことに抗議するアメリカ人達がいるらしい。
死んだ後に他の生命体の役に立つことこそが生命体としての本望のように思うのだが、「輪廻」という宗教観のない白人文化にはそうした生命観はないのかもしれない。
役に立たなくなったおもちゃを大切な記念としていつまでも保管する心理のようなものに思える。
生命体と無生物とを一緒くたにして愛玩するのなんて、くだらないし愚かしいと思うのだがどうだろう。
逆に見れば、生命体と無生物とを一緒くたにする文化だから、イラクで当然のようにテロリストの掃討のために一般市民をまきぞえにできるのだろう。
愚かな文化としか言いようがない。

漫画クラブのコラム
2006.7.8 「酷税を恨む相手は国でいいのか」 

今年から所得税・住民税の徴税額が激増した年金生活の老齢者が、新聞の投書欄に恨み節を寄せているらしい。
弱者へのいたわりのかけらもない国の収税政策に対して恨みつらみを述べ立てる声が多い中にあって、次の選挙でこうした政策の推進者に思い知らせてやるべきだという冷静な意見の投書もあった。
まったくそのとおりで、今までの政権担当者たちの政策の進め方を見ていれば、このような事態は予想できたことなのだが、年金生活者たちは国政選挙でいったい自分たちの一票をどのように使い、周囲の人たちと選挙についてどのように語ってきたのだろうか。
なるほど確かに政策について語るときに対象を「国」と表現するのは一見分かりやすいし、政治家と官僚と団体とを総括して「国」と呼んでも間違いではない。(現に小欄でもそのように表現している)
だが、恨み節を述べる相手としてなら「国」と言うのは間違っている。
これまでの国政選挙で弱者の立場に立った政策を訴える候補者・政党を差し置いて、現在の政権担当者を選んだ選挙民をこそ恨むべきだろう。
朝日新聞による6月の世論調査では今でも45%もの国民が小泉政権を支持しているらしい。
恨むべきはこの45%の国民であって、もしその中に恨み節の当人が入っているとしたら、これほど笑える話はない。

漫画クラブのコラム
2006.7.12 「恥ずかしい首相はいつまで続く?」

今から5年前、わが国の船舶がアメリカの原潜に沈没させられたという報告を受けながら、なおゴルフに興じていたようなアホウを日本国民は内閣総理大臣と呼んでいた。
今は、北朝鮮が着々とミサイル発射準備を進めていたときに、プレスリーの故地を訪ねて派手なサングラスをかけ「ラブ・ミー・テンダー」を口ずさんでいたような軽薄なお調子者を日本国民は内閣総理大臣と呼んでいる。
諸外国の識者、ジャーナリストたちからは「ブッシュに尾をふる犬」と嘲笑を買っているらしい。
どうしてわが国の首相はこうも恥ずかしい人物が多いのだろう。
こういう首相を選んだことは日本国民の恥でもあるのだが、あまりそこまで触れているテレビ、新聞は見たことがない。
そりゃそうだろう。
そんな政権を許してきたこの国のジャーナリストの恥でもあるのだから、触れたくないのは当たり前だ。

漫画クラブのコラム
2006.7.15 「ヘリコプターにも騒音規制が必要だ」

首都東京の密集地の上空を毎日多数のヘリコプターが飛び回っている。
報道ヘリ、自衛隊ヘリ、遊覧ヘリ、米軍ヘリ、何ヘリだか知らんがあれで最低高度の規制を守っているのか疑わしいほど実にやかましい。
屋内にいても窓を開けっぱなしていると会話が聞こえないくらいだ。
自動車については厳しい騒音規制が敷かれているし、街のそこかしこに「騒音計」が設置されて、騒音を撒き散らす自動車をいかにも悪者扱いしているのに比べると、1台で自動車10台以上は騒音を出していそうなヘリコプターを放置しているのは全く理不尽な話だ。
エアコンの効いた静かな閉鎖空間で仕事をしている為政者たちは、首都の密集地の民衆に平和で安らぎのある生活を保障することを自分たちの義務だとは思っていないのだろう。
いや思っているはずがない。
住宅地に取り囲まれた横田基地を民間飛行場にも利用しようという人間が都知事をやっているくらいなのだから。

漫画クラブのコラム
2006.7.19 「食糧自給率40%で安全保障か」

日本の食糧自給率は40%ぐらいだそうで、もっと自給率を上げるべきだという議論が盛んだ。
もっともな話だが、滑稽なのは「安全保障上の大問題だ」とまで言う人間がいることだ。
軍事戦略的なことはさておき、戦争状態になって海外からの補給が絶たれたら食糧だけいくら自給できたって日本は自活できないのだが、資源全体の自給率を十分に引き上げるとなると、それこそ海外に領土を拡張しない限り不可能なわけで、明治以降の日本の軍国主義的膨張政策の復活にまで飛躍して考える人間が出ても不思議ではない。
「食糧安保論」なんて、周辺諸国の疑心暗鬼をますます煽って日本をアジアの中で孤立させるんじゃないだろうかと、そっちのほうがよっぽど心配になってしまう。
いやむしろ日本はもっと諸外国から食糧を輸入するべきじゃないかな?
世界最大の食糧消費国になれば、日本を侵す国が現れても食糧供給国が黙ってはいないだろう。
いっそ安保条約を廃止して、アメリカと食糧保障条約でも結んだほうが、今の日米安保体制よりもよっぽど安心のような気がする。
なにしろアメリカは税金をつぎ込んででも自国の農産物を輸出しなければならないほどの「農業大国」なのだから、「防衛」以上に「食糧」対米依存を徹底すれば、アメリカの官民も大いに喜ぶかもしれない。

漫画クラブのコラム
2006.7.22 「公務員の政治活動禁止はなんのためか」

前横浜市港北区長の石阪丈一・町田市長が政治資金パーティーで横浜市幹部職員にパーティーへの参加者と献金の取りまとめをさせておきながら、自分に責任はないと開き直っている。
つい最近の裁判で、休日に共産党のビラをポストに配っただけの公務員に刑罰が下されたばかりなの、自分が所属していた組織を選挙に利用した公務員が無罪であって良いわけがない。
法律上の議論以上に道義上許して良いことではないのだが、昔から日本の選挙では自治体の職員を動員しての選挙運動がまかり通っていて、21世紀にもなって未だにそれがなくならないことにうんざりさせられる。
例によってこの石阪市長も自民党・公明党の推薦で当選したのだが、この人物を推したのが耐震設計偽装事件で有名になった元国土庁長官の伊藤公介衆議院議員だという噂を聞いては、なるほど「類は友を呼ぶ」ものか感心させられてしまう。

漫画クラブのコラム
2006.7.25 「とりあえず増税されてから考えてみる」

自民党と政府は財政改革のためには消費税率アップは必至であると懸命になって国民を納得させようとしている。
800兆円もの国の借金を抱えているのだから仕方がないように言う。
この程度の金額は特別会計の支出の4年間ゼロにすればいいのだからどうと言うことないように思えるのだが、自民党も官僚も特別会計を残すことにこそ彼らの旨みがあるものだから、こちらには手を付けたくないらしい。
マスコミの論調はと言えば、税率アップはやむをえないとして税の無駄づかいはやめるべきだ、という程度の消極的肯定が大半のようだ。
しかし、この際いっそ消費税率を20%ぐらいにして、向こう20年くらいは再引上げを検討せずに済むようにしてはどうだろうか。
どうせいつかはそのぐらいにはなるのだ。
税負担が重いことを一般庶民が思い知れば、税金の使われ方にも、政治家の唱えるところの政策にも、公共団体が行なう国民へのサービスにも、もっと強い関心を持つようになるだろう。
自分たちの納めている税や社会保険で自分たちの未来が保障されているのか、戦争や災害やテロから守られるのか、真面目に考えるようにもなるだろう。
それに実質所得の捕捉率の低い高額所得者の所得税や課税逃れだらけの法人所得税に比べると、消費税のほうがよっぽど公平性が高いというものだ。
自民党と政府がなぜ消費税率をたかだか2%上げる程度しか提案できないのかと言えば、高い税率に国民が反発することよりも、国民の政治意識が目覚めてしまうことのほうを恐れているからだろう。
多くの国民が低い引上げ率に目をくらまされてしまうことのほうがよっぽど心配だ。

ブログ「斜真館」
2006.7.25 「今さら昭和天皇を担ぎ出しても」

昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に不快感を持っていたことが明らかになったと7/20にTV・新聞で大々的に報道されていた。
合祀以後には昭和天皇が靖国神社を訪れるのをやめたことから言われていたことが、新たな資料が出て裏づけされたに過ぎないのだが、昨今の小泉首相の人騒がせなパフォーマンスのおかげで大げさな報道になった。
当の小泉はそんなことは個人の問題として意に介さないようで、報道の空回りに終わりそうだ。
それも当然の話だ。
戦前の人間ならいざ知らず、戦後育ちの人間には天皇に対する忠誠心などなく、国家をまとめるための機関としての天皇観があるのみというのが普通なのだから。
まして個人的な政治ショーとして靖国を参拝しているような連中に、昭和天皇の意志など全くなんの意味もないのだ。

漫画クラブのコラム
2006.7.29 「敵基地攻撃論の危険性」

北朝鮮ミサイル発射問題で閣僚の中から敵ミサイル基地の攻撃を検討する必要があるという発言が出てちょっとした問題になった。
批判的な意見の中に「全面戦争を招く」と言うものあがったが、これはちょっと違うと思う。
国の中枢部に打撃を与えるものでない限りは、ミサイル攻撃の応酬はむしろ局地的な戦闘と言えるもので、直接的に全面戦争に結びつくものではないことは中越紛争などの過去の例が示している。
むしろミサイル攻撃論は限定戦争に道を開く危険性があると言うべきだろう。
今は国対国の全面戦争が行なわれる時代ではなく、外交的な手段としての限定戦争を想定するほうがはるかに現実的だ。
ミサイル攻撃論の危うさは、限定戦争が外交的な駆け引きとして利用されることで、平和的な外交交渉の道を閉ざし、長期にわたっていたずらに一般市民をまきぞえにする恐れがあることだ。

漫画クラブのコラム
2006.7.29 「レジ袋とゴミ用の袋のどっちがムダか」

「レジ袋を有料化しよう」「買物袋を持参しよう」とレジ袋が眼の敵にされている。
しかし我が家ではレジ袋を家庭ゴミを出すのに有効利用しているおかげで、わざわざ東京都推奨とか言う専用ゴミ袋をまったく使用しないで済んでいる。
そもそも専用ゴミ袋は我が家程度の小家族には大き過ぎて、あんなものでゴミ出ししようとしたら10日分くらいゴミを溜めなければならなくて冗談じゃない。
家の中にそんなにゴミを溜めていたら臭くってしょうがないし、外に出しておいたら野良猫やカラスに荒らされてしまう。
だいたい少子化、核家族化が進んで平均的な世帯の家族数は減ってきているはずなのに、あんな大きな袋が標準サイズで売られていること自体がおかしい。
いやあんな袋にいっぱいゴミを出すのは、よっぽど資源の浪費をしているか、こまめにゴミの片付けもしていないズボラさの証拠だろう。
毎度のゴミ収集日に出す限りではレジ袋程度で十分だ。
それなのにあんな大きな袋を家庭ゴミ用に売っているというのは、適当なサイズにすると無料で手に入るレジ袋との差別化ができないからだろう。
レジ袋という便利なものがあるのに、なんでわざわざ有料の専用ゴミ袋を買わなければならないのか、納得できる説明なんて見たことがない。
コンビニの小さなレジ袋だって台所の流しの生ゴミを入れるのにはちょうどいいから、生ゴミ専用袋など買わなくても済むのだ。
おおかたワンルーム・マンションのサラリーマンや学生とか、若い共働き世帯の生態だけを見て「レジ袋はムダ」だなんて言ってるのだろうけれど、専用ゴミ袋のほうがよっぽどムダだし、自治体によっては指定以外の袋しかゴミ出しができないとか自治体推奨品とかが決められている裏側でどんなことが行なわれているか、全く妖しい限りだ。
レジ袋がムダなのではなくて、レジ袋の使われ方にムダがあるのだが、生活スタイルを改善することが省資源の本道であることを理解している人の何と少ないことか。

ブログ「斜真館」
2006.7.29 「差別的表現と決めたのは誰だ」

大相撲の名古屋場所のテレビ中継で解説の親方がうっかり「びっこをひいて」と言ったことに対しすかさずNHKのアナが「不適切な表現がありました」と断わって、親方をたしなめるということがあった。
NHKの放送用語の基準がどうなっているのか知らないが、「びっこ」を肢体不自由者に対しての差別的表現として放送禁止にしているのだとしたら実に疑問だ。
他人を差別する言葉だというのなら、昔から「びっこをひく」とは自分自身についても言うのにおかしいではないか。
自身について使う表現まで差別用語だとするのなんて、どう考えてもおかしい。
不自由な体になった自分をさげすんで言う言葉ならともかく、「びっこをひく」なんて自嘲の意味さえないではないか。
「ちんば」が差別用語にされたおかげで「かたちんば」も使えなくなってしまったが、おかげで日本語から靴や下駄を片脚だけ履いている状態を表現する適当な言葉がなくなってしまった。
世の中から人間同士の差別はなくすべきものではあるが、だからと言って言葉の文化を狭めることが無批判に行なわれていいものなのかどうか、もっと国民全体の総意を受けて真剣に議論されるべきではなかったのか?
いったん追放された言葉は二度と返ってこないということを考えると、放送禁止用語だの差別用語の決定が一般庶民とは縁遠いところで行なわれてきたことを反省する必要があるだろう。
もっと根本的な問題を挙げれば、差別的表現を日本語から追放することが日本から差別をなくすのに必要だという論理に、科学的な裏づけがあるのかが疑問だ。
かつて日本は「欲しがりません勝つまでは」とか「鬼畜米英」とか言葉で国民の心をしばりつけていたが、「言葉を封じること」と「言葉で封じること」とは実は表裏一体の思想ではないだろうか。

ブログ「斜真館」
2006.7.30 「野良猫を駆除して罰せられるのは正しいのか」

断わっておくがボクはペットとしての猫が大好きだ。
ペットとして飼われている限りはネズミだって蛇だってカエルだって動物愛護法で愛護される対象になっているが、猫や犬は飼育されていなくても愛護の対象になっている。
面白いことには牛もそうなのだが、そのことはさておき、問題は飼育されていない猫や犬も法律的には愛護の対象であることだ。
犬は狂犬病の予防のためとか言われて公共機関が野犬狩りなどを行なっていたものだが、野良猫について公共機関が捕獲や駆除をしているというのはあまり聞いたことがない。
それどころか自分の敷地内に入り込んだ野良猫でも個人が勝手に捕殺すれば動物愛護法と関連条例で罰せられるらしい。
昔はともかく今は猫エイズと呼ばれる厄介な病原体をはじめ、未知・未解明のウィルスや細菌を媒介している恐れもある野良猫を個人では駆除できないというのはまことに不都合な話だ。
これがネズミだったら殺鼠剤を町内会で配ったりするのに比べたら、何と猫が大事にされていることか。
もちろんかつてはペスト菌、今はサルモネラ菌を媒介する害獣であるネズミと猫を一緒にするのは乱暴な話かもしれないが、それならそれで野良猫の健康管理や生息調査を公的に行なうべきだろうし、ましてところかまわず糞尿をまきちらす行為や無制限な繁殖を抑えることぐらい当然公共の保健機関が責任を持ってやるべきだろう。
かつて日本で野良猫が人間の乳児を食い殺した事件があったのに、その後日本全国の野良猫を駆除しようという動きは起きなかった。
BSE問題でアメリカ産牛肉を輸入させないようにしたり、テロを警戒して駅からゴミ箱が撤去されたりしたことと比較するのは無理な話なのだが、日本社会の危機意識はどこかピントが狂っているように思える。
猫に始まった話ではないが、害を撒き散らすことを野放しにしておいて、被害に耐えられなくて駆除しようとする人間のほうを取り締まるなんて、どこか逆さまのような気がする。
ペットとしての猫と野良猫と区別するのがおかしいと言うのなら、牧場で牛を見てかわいいと思う人間がすき焼きやビフテキを食えるという心理もおかしいということになると思うのだがどうだろう。
命あるものといっても所詮人間以外の動物は時と場合によって食料にもペットにも駆除すべきものにも愛護すべきものにもなるのだ。

ブログ「斜真館」
2006.8.2 「天皇の政治的な発言は封じるべきか」 

靖国神社についての昭和天皇の発言のメモが発見されたことから「天皇の意見を政治的に利用するべきではない」という意見が保守政治家からも靖国批判派からも出ているようだ。
日本国憲法の精神からも天皇は政治的な発言を控えるべきである、との意見もある。
しかし日本国憲法のどこをどうひっくり返しても、そのような言葉は出てこない。
「象徴だから人格も基本的人権も認められない」とも「天皇は日本国民ではない」とも書かれてはいないのだから、こんな意見は我田引水に過ぎないだろう。
単に左右両派ともに天皇の発言が政治的に利用されることを好まないだけのことであるに過ぎないように思える。
天皇の発言によっていたずらに世論が左右されて政治が動くのだとしたら、それこそ日本の民主主義が未成熟であることの証なのだから、むしろ民主主義の確立を目指すよいきっかけになろうというものだ。
その意味で天皇の政治的な発言は別に積極的に促す必要もないが封じる必要もないだろう。

漫画クラブのコラム
2006.8.3 「粗暴さが売り物になるような文化でいいのか」

亀田興毅が負けるのを期待して先日のボクシング中継を見ていた人はたぶん多いだろう。
演出なのか、ほんとうに亀田本人の性格が粗暴なのかは別として、あれほどまでにメディアに粗暴で下品な言動を露出して人気取りをするのは全く見苦しい限りだ。
まるでチンピラヤクザのようだと思いながら見ていた人も多いだろうが、一番悪いのは本人よりもあれを売り物にしたメディアのほうだろう。
ファンが多ければ何を放送してもいいというのでは、日本の文化に対しての責任を放棄しているのも同然ではないか。
たとえ演出であったとしても、ああした粗暴なスポーツ選手が青少年たちの憧れのヒーローになるようでは、日本社会の暴力化は促進されるばかりだ。
東映ヤクザ映画が大いに流行った以後、日本の若者たちの言葉や行動がどれほど粗野で暴力的なものになったかを考えれば、粗暴さが売り物になるような文化の恐ろしさがわかろうというものだ。

ブログ「斜真館」
2006.8.3 「高額所得者の海外移住大歓迎」

朝日新聞の特集コラムで日本の高額所得者が税金逃れのために海外移住している実態を紹介していたと思ったら、「ハリー・ポッター」シリーズの翻訳で大もうけした松岡佑子が国税局から35億円を超える申告漏れを指摘されていたとの報道があった。
年金生活を海外で豊かに暮らしたいという程度のつつましやかな人たちを云々するつもりはないが、何億もの税金逃れとなるとそんな可愛げのある話ではないようだ。
数十億の所得が1年でもあれば、あとは一生遊んで暮らせるだろうと思うのが一般人の感覚だが、どうもああいう人たちの感覚はそうではないらしい。
日本の累進課税が厳しいというのは、もう昔の話で、所得税・住民税以外の税金と社会保険料等を加えた国民負担率はかなり平準化されている。
企業でも個人でも社会的成功者とされるような存在は、それなりの社会貢献をするのが欧米では当たり前のようだし、昔の日本でも現在に比べると階級格差が甚だしかったとは言え、多くの資産家が人材育成や文化保護などで社会的な貢献を果たしていた。
だからといって別に社会貢献の意識が低い高額所得者が悪いとは言うつもりはない。
欧米だって税金逃れのための資産家の祖国脱出は珍しくもない。
だが納税で社会貢献をするのもいやだと思うような人たちが日本にいても、社会にとって納税以外には大してプラスにはならないし、むしろ圧倒的多数の才能も運もない一般庶民が真面目にこつこつ働くことへの妨げになったり目障りになったりしそうだ。
だから日本から出てってもらうのは大いにけっこうな話だ。
一般庶民の眼の届かない世界でせいぜい好き勝手な暮らしをしてもらいたい。

ブログ「斜真館」
2006.8.5 「新幹線新駅凍結の民意」

新幹線新駅建設凍結を公約にした嘉田滋賀県知事が当選したのは良いが、県議会や栗東市長やJRの抵抗が相当強そうだ。
仮に新駅凍結には成功したとしても、それ以外の県政の運営では相当な嫌がらせにあうことだろう。
このことは「都市博中止」を実行した青島都知事や「脱ダム」を推進した田中長野県知事の例を見ても容易に想像できるというものだ。
地方議会の議員たちという存在ほど民意を反映していないものはないのではないかと思えるくらい、改革派の首長たちは議会の抵抗にあうようだ。
面白いのは必ずといってよいほどこうした抵抗勢力に民主党の議員が含まれていることだ。
今回の滋賀県知事選挙でも滋賀県の民主党は新駅推進派に回っていた。
国政では野党かもしれないが、地方ではそうではないところに民主党の基盤の弱さが表れているというものだが、同時に民意を反映しないような地方組織を抱えているからいつまでたっても政権交代が実現できないのだとも言えそうだ。

漫画クラブのコラム
2006.8.7 「もとの田沼のにごり恋しき」

田中長野県知事の3選が阻止された。
この結果を見て「水清ければ魚住まず」ということわざを連想した。
連想しただけのことで、別に長野県民が清流を好まない県民だなどと言うつもりはない。
つもりはないが「白河の清き流れに住みかねてもとの田沼のにごり恋しき」という松平定信の改革を皮肉った狂歌も連想してしまった。
江戸幕府の三大改革者である徳川吉宗、松平定信、水野忠邦は当時いずれも実に人気がなかった。
ついでに言えば「田沼のにごり」とまで言われた田沼意次も実は幕政の改革者であって、彼自身は賄賂を取って政治を曲げるような人物ではなかったのに、当時の腐敗政治の根源であるような言い方をされているし、やはり失脚してもいる。
田中康夫は政治理念・政策の方向性は評価されているのに、「やり方」に問題があるとして、県民から退けられた。
テレビ・新聞を見ても「やり方に問題があった」ので県民の心が離れたとしか言っていないようで、彼が6年間に県知事として重大な失政や不正を行なったという評価は見つからないのが不思議なほどだ。
それ以上に不可解なのは、選挙に敗れたとは言えそれでも県民の半分近くが支持していたというのに、県庁職員の大半と、長野県の市町村の(為政者の)ほとんどは田中康夫を支持していなかったとの報道だ。
県民の心は田中知事から離れたかもしれないが、長野県の役人と政治家たちの心も県民から離れていると言ったら言い過ぎか。

ブログ「斜真館」
2006.8.9 「うさんくさいほうが人をだませるのはどういうわけか」

最近テレビでは、聞いたこともない化粧品のCMで創業社長と思しき女性が「わたしが証明です」とかなんとか言ってるのが流れている。
一体なんの証明になるのか分からないようなマズイ顔をしているのだが、テレビCMを流すほどに成長する以前からああやって宣伝してきたのだとしたら、女性消費者などちょろいものだと誰しも思うだろう。
他にもこの手のCMはけっこう多いが、どれもみんなうさんくさそうな人物が「信頼」だの「実績」だの「安全」だのと言っているのがおかしい。
うさんくさい人物と言えば、新興宗教の教祖とかネズミ講商法の類のインチキ投資勧誘の連中もそうだ。
まともな神経をしている人間なら、まず近づくはずがないような妖しげな人物にころりとだまされてしまう人間が何と多いことか。
オーム真理教の麻原なんかはその典型だった。
今、得意の絶頂にありそうな女占い師やスピリチュアルカウンセラーとやらも、その類にしか見えないのだが、世の中にはかくもうさんくさいものにだまされたがっている人間が多いということなのだろうか。
まあ政治家でも真面目で誠実そうな顔をした人間よりも、ひとくせもふたくせもありそうなうさんくさい奴のほうが多いのだから、これはもう民衆病とでも言うべきものなのか。

ブログ「斜真館」
2006.8.9 「限りなく人命の軽い国」

人間を大量に殺すことは歴史上絶えることがないが、今の地球上でそれを最も堂々と行なっている国はイスラエルではなかろうか。
もう毎度のことで今さら驚きはしないが、イスラエルのアラブ人パレスチナ人への報復的軍事行動は必ずと言ってよいほど民間人を無差別かつ大量に殺戮するもので、今回のヒズボラ軍事拠点攻撃を名目にした爆撃でも簡単に数百人の命を奪った。
もちろんイスラムの武闘派組織が民衆に紛れ込んで組織員と非組織員とを区別できないようなやり方で武力闘争を続けていることに問題無しとはしない。
だがいつもイスラエル側の犠牲者の10倍以上の殺戮を行うのを見ると、イスラエルという国が望んでいるのは平和や停戦ではなくジェノサイドのみではないのかと疑ってしまう。
たしかにイスラム側とイスラエルとで殺戮の応酬を繰り返しているように見えるのだが、応酬と呼ぶにはあまりにも一方の犠牲者のほうが多すぎる。
人数の問題ではないという声も傍観者的にはあるかもしれないが、犠牲者の多少を無視するような政治的な価値基準が幅をきかせている限り、イスラエルによる殺戮がやむことはなさそうだ。

漫画クラブのコラム
2006.8.12 「企業利益のために雇用構造を腐らせていいのか」

7月末に朝日新聞が松下、日立、キャノンなどの大手企業グループで行なわれている偽装請負による派遣労働の実態を一面トップで連日報道していた。
松下の子会社などは兵庫県から約二億五千万円の雇用補助制度の適用を受けておきながら、地元採用の派遣労働者を「請負」に切り替えて補助金を着服し、偽装請負が発覚するや社員を出向させて偽装をさらに巧妙にするというあくどさだ。
正社員を減らし、契約社員を減らし、派遣社員に雇用をシフトして人件費を圧縮してきたのに、それでもまだ足りずに偽装請負という違法行為にまで手を染めるとは、これが日本のトップ企業の一員のすることか。
いや、日本のトップ企業とは、かくも社会責任を放棄する存在なのか。
これというのも国際競争力維持のお題目を唱えて、人件費を削減するために日本の企業が雇用構造を多層化、複雑化させてきたのを政府が放置してきたからだろう。
小泉改革のおかげで企業は日本の雇用水準の維持向上という社会的責任を放棄し、格差社会への流れを促進してきたと言えるだろう。
それなのに政府は正社員だけの統計を取上げて日本の格差は欧米に比べて小さいなどと誤魔化したりしてきた。
生産現場でも流通業界でも、日本の経済活動を担う産業の大半は労働力を非正規雇用に依存している、というこの国の姿は先進国と呼べるものなのだろうか。

漫画クラブのコラム
2006.8.16 「皇族のアルカイックスマイルは気持ち悪い」

第3子誕生で話題の秋篠宮紀子さんだが、若かった頃は育ちの良い素直そうなかわいいお嬢さん風だったのに、最近はすっかり皇室の女性らしくなった。
何が皇室の女性らしいかと言うと、あの不気味なアルカイックスマイルだ。
今の皇后もそうだが、皇室に入る以前はごく普通の笑顔を見せていた人が、長年あの世界で暮らしていると、まるで白鳳天平期の仏像の顔のように目は細く湾曲させ口角をきゅっと上げた、いかにも人工的な笑顔を見せるようになってしまう。
年がら年中あんな義務としての笑顔を作っていたら、顔の筋肉も妙な具合にこわばって、だんだん表情が人間離れしたものになっていくのだろう。
だからどこか気持ち悪い笑顔に見える。
広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像のアルカイックスマイルは仏像だからいいので、あれを生身の人間がやっていたらやっぱり気持ち悪い。
不気味なアルカイックスマイルを上手に作れない皇太子妃の雅子さんが病気になったのも、当然のような気がする。

ブログ「斜真館」
2006.8.16 「靖国報道にはもううんざり」

予定どおり小泉ゴーマン首相は8月15日「敗戦記念日」に靖国神社に参拝した。
そのことはもういい。
その意味についても意義についてもさんざん語りつくされているのだから、今さらこの日に実際に参拝するかどうかなんていうのは、14日目に優勝が決まっている朝青龍の千秋楽の一番がどうでもいいのと同じようなものだ。
それよりもこのどうでもいいような個人的政治ショーをNHKと民放キー局4局が生中継して一斉に似たような映像を流すことのほうが、よっぽど問題だ。
なるほどたしかにテレビ放送にとっては国民的関心事だから中継するのが当然だという理屈もあるかもしれない。
しかし一歩下がって考えれば、マスコミが一斉に国民に似たような情報を流して良いのか、という問題に突き当たる。
マスコミが国民の思想操作をしかねない危険性がそこに見えるではないか。
いや危険性どころか政権から退くことが予定されている人間の靖国神社参拝にばかり国民の関心をひきつけて、もっと重要なこれからの日本の政策について目をそらさせているという事実があるではないか。
極端に言えば靖国なんかどうでもいい。
国民にとって今大事なことは景気、雇用、社会保障、外国人犯罪、異常犯罪、公金浪費・横領とどれをとっても、半世紀以上も昔に死んだ人たちの霊を祀ることよりも優先するべき課題ばかりではないか。
こうしてくだらないバカ騒ぎを繰り広げる限り、小泉の後継者は深刻な負担から解放されるばかりで、また似たような劇場型政治を繰り返せば済んでしまう。

漫画クラブのコラム
2006.8.19 「女性は被害者で女は犯人なのか」

犯罪や事故の報道で実名の代わりに「男性」「女性」と呼ぶようになったのはそう昔の話ではない。
マスコミが実名報道を自粛する基準のようなものも最近できた。
ところで犯罪の被疑者を「男」「女」と呼ぶのはどうしてだろう。
「男性」「女性」ではどうしていけないのだろう。
被害者と被疑者とで差別化しなければいけないからなのだろうか。
これはどうもおかしい。
これでは「男」「女」という言葉を悪い意味でしか使えなくなってしまうではないか。
古典文学では「昔、あるところに女ありき」といった表現が平易に使われていたのに、今では「女らしい」などと言うと何か侮蔑的な意味でもあるようになってしまた。
「男と女」というクロード・ルルーシュの名画があったが、今の時代だったらこんな題名をつけたら、犯罪者か不倫のカップルの物語のように受け取られてしまいそうだ。
本来、良い響きも悪い響きもなかった言葉に、マスコミが悪い響きだけを持たせてしまうようなことが許されるのだろうか。
人間の性別を明らかにするだけの言葉に、それ以上の意味を持たせて使い分ける必要がどこにあるのか、全く理解しがたい。
被害者も被疑者もみんな「男性」「女性」と呼ぶべきだろう。

漫画クラブのコラム
2006.8.22 「霊を信ずるのは宗教ではないのか」

宗教というのは「神的なもの」「聖的なもの」を信じそれを奉る営みをなすことを指すもので、「霊」とか「魂」を祀ったり信じたりするのはあくまでも宗教の一派だ。
そのことを前提におくと、今議論されている靖国神社を国営化するとか、靖国神社に代わる慰霊施設を国が作るというのは、特定宗教の営みを国が行なうということになって政教分離の日本国憲法に違反する。
いや憲法がどうあれ国家は政教分離であるべきだ。
いくつかのイスラム国家の現実を見れば政教分離が最高善の国家原理だということは明白なような気がする。
もともと「慰霊」などという宗教的な行為を明治政府が国家として推進したから今のような、くだらん、わけの分からん論争の原因なったというのに、少しもそれについての反省がない。
だいたい靖国神社支持者たちはふたこと目には「国のために命を犠牲にした人の霊が祀ってある」と言うのだが、そもそも日本人の大半は「死んだら仏になる」として「霊」も「仏」も一緒くたにしてお墓に祀っているではないか。
そう言うと「いや死んで何代もたつと仏から神様になるのが日本人の先祖観だ」と、いったい見たことも訊いたこともないような屁理屈まで持ち出す知識人まで出てくる始末だ。
まったく、ああ言えばこう言う式できりがない。
だから過去の戦争の犠牲者について国家が何かを残す必要が仮にあるとしても、宗教的ないっさいの意味を持たせなければいいのだ。

ブログ「斜真館」
2006.8.22 「悪事に関与してやましいことがないと言う自治体の首長たち」

石阪丈一・町田市長も梶原前岐阜県知事も、悪事に加担したり黙認したりしていたのに、「自分はやましくない」と主張しているらしい。
たぶんああいう人物は人殺しをしても「自分はやましくない」と平気で言えるのだろう。
恥ずかしい事件を起こした首長はこの1年間だけでもこの二人だけではなくまだ何人もいるのだが、これ以外にも世間に露見していないだけで、まだまだこの手の人物が自治体の首長たちの中には大勢潜んでいることを想像させる。

ブログ「斜真館」
2006.8.22 「A級戦犯無罪論は公務員の業務上過失の免責と同じか」

行政の過失もしくは怠慢に因る被害についての訴訟のほとんどは、行政側の責任を認めた場合でも行政担当者個人の責任はないとされる結果に終わっている。
日本では昔から公務員は業務上の過失について個人的な責任を問われない、ということになっているらしい。
ちょっと考えるととてもおかしい。
まず第1に民間の企業だったら個人の過失は企業と個人の両方が訴追され、実際両方が罪を負っていることが多い。
第2に責任を問われそうな業務の多くを公益法人や民間企業に請け負わせて、万一の事故が起きた場合に請負業者に責任を負わせていることが多い。
第3に過失もしくは怠慢の多くは重大な被害が起きる以前に、その危険性を予め客観的な情報によって知りえた場合が多い。
人間は基本的にミスを必ず犯すという前提なのかも知れないが、過失責任が問われないことを当然だといわれて一般国民の何割の人が納得するだろうか。
いわゆるA級戦犯無罪論はこれに似ている。
なるほどたしかに彼らは共謀もしくは独断で日本をアジア侵略と他国民の殺戮・虐待に駆り立てたわけではないかも知れない。
だが首謀者でなくとも、政権の中枢にありながら「過失」もしくは「怠慢」によりそのような事態に陥ることを傍観もしくは賛同していたことは否定できないだろう。
だから彼らは無罪。
だから彼らは有罪。
法と理屈ではなく倫理と良識で考えるべきことだろうし、ここで言う倫理と良識までが「時代によって違う」と唱えるのなら、もう何を論じても始まらない。

漫画クラブのコラム
2006.8.26 「自虐的歴史観とはなんのことか」

「自虐的歴史観を正す」と唱える連中がいる。
安倍晋三なんかもその一人らしい。
自虐でも他虐でもなんでもいいが、そもそも今の平均的な日本人が近代以降の日本の歴史についてどれだけ知っているのだろう。
最近の高校生は大学受験科目に日本史・世界史を選択しない限り、ほとんど一般教養程度の知識さえないというのが現実ではないか。
ほとんどの日本人は今の歴教科書は自虐的歴史観に基づいていると言われても、その当否の判断もできないだろう。
日本の中国大陸侵出は「侵略」ではなく自衛のためだった、などといくらデタラメを並べ立てても、逆に最近になって旧日本軍が隠蔽していた毒ガスが掘り出されて、侵略的性格を持った軍事活動であったことの裏付けが明らかになったりしている。
「自虐的歴史観を正す」と唱える連中実際にあったことに触れない、語らない、なかったことにする、そんなことで戦後60年間ひたすらほとぼりが冷めるのを待っていたのだろう。
当事者たちがみんな死んで、いつか歴史的事実ではなく単なる噂話やデマに過ぎなかったということになってしまうのを待っていたのだろう。
自虐的かどうかなんてことはどうでもいいのだ。
ただ、アジアで旧日本軍が、いや日本人が何をしていたのかという事実をありのままに、語り伝えるべきだろう。
靖国神社に祀られている「英霊」とかの死因の多くが、実に莫大な割合が「餓死」だったことも、そうだ。

ブログ「斜真館」
2006.8.26 「宗教の不思議」

「摂理」なる韓国の新興宗教が問題になっているらしい。
オーム真理教の信者集めと同じように、日本のエリートとされる大学にも入り込んで初めは布教活動と思わせない巧妙な手口でウブな青年をだましているようだ。
不思議なのは、21世紀にもなっていまだにこうした新興宗教の教えにあっさりたぶらかされる人たちの心理だ。
話は飛ぶがイギリスでアメリカ行き旅客機の爆破テロ未遂事件が摘発されて大騒ぎになっているらしい。
こうしたテロの実行者たちは必ずしも中近東の紛争地域でテロリストたるべく教育された人たちではないと言う。
初めっから熱心なあるいは狂信的なイスラム教徒だったわけではないのに、西欧社会にとけ込めなかったり受け入れてもらえなかったりしているうちにイスラム原理主義的な過激思想に囚われてしまうようだ。
アフガニスタンではあれほどタリバンの圧政に苦しめられたというのに、もうタリバンが勢力を強めているようだし、イスラム圏の中でもっとも先進的なはずのトルコでも保守的なイスラム教徒の勢力が強くなっていると言う。
いったいイスラム教の教義のどこが21世紀の世界で人々の心を捉えているのだろう。
コーランなど1行たりとも読んだことがない人間にはさっぱり理解できない。
いや、アメリカで「進化論」や「地動説」を間違っているとか、学校で教えるなとか主張しているキリスト教徒たちも、やはり理解の範囲外だ。
コーランや聖書やあやしげな新興宗教の教義書を読破したら、少しは理解できるのだろうとも思うが、教義を理解したからといって現在の信仰に名を借りた殺戮行為も詐欺行為も婦女暴行も容認できるものでもないだろう。
まったく「宗教」とは不可解以外の何物でもない。

漫画クラブのコラム
2006.8.30 「暑苦しかったNHKのニュース」

”クール・ビズ”が提唱されて2年目の夏だったが、今年もあいかわらず「省エネルギーなど知ったことではない」と言わんばかりの暑苦しいドブネズミ色のスーツ姿が街を闊歩していた。
日本の風土に適した仕事用の正装として、西欧服飾文化の猿真似に代わるべきものを創出しなかった先人たちも悪いのだろうが、たかだか一世紀足らずで定着した保守的スーツ文化に拘泥する人々の多さにも呆れてしまう。
そうした人々の中にNHKという「国営放送会社」も入っているのだから全くどうしようもない。
NHKのニュース・キャスターもやっぱりスーツにネクタイだ。
女性キャスターだって襟付き長袖のスーツかジャケットで登場していた。
まるでクール・ビズに対するあてつけかとさえ思う。
まことに苦々しい限りの話で、やっぱりNHKという集団は公共放送の責任を果たすこととは何かを分かっていないのだと断定せざるを得ない。

漫画クラブのコラム
2006.9.2 「中韓の謝罪要求は時代遅れ」

靖国神社の問題を巡っての中韓両国の政府と国民の発言に「日本は未だに過去を謝罪していない」と言うものが多いようだ。
小泉我儘首相のスタンドプレーのおかげで、そうした発言に理があるかのように日本のマスコミや知識人までが言う。
だが公式には日韓、日中の国交回復の政府間交渉で決着しているはずの問題を、一般人が言うのならともかく政府までが発言する中韓両国の態度はおかしい。
それを言うのなら国交回復後のODAなどの援助もいったん白紙に戻して欲しいと反駁したい日本人も多いことだろう。
半世紀以上も昔のことについて謝罪ばかり一方的に求められても、現代の「戦争を知らない」日本人の心には響くものがないから、小泉の靖国参拝を過半数の日本人が支持するのも当然と言える。
中韓両国が警戒するべきは、日本が過去を引きずっていることよりも、むしろ最近の右傾化だろう。
既に分析が進んでいるように、今の日本の右傾化はかつての皇国思想や国家主義の復活ではなく、ヨーロッパでも見られるような社会的閉塞感が若者を現状否定的な保守回帰に駆り立てていることが大きな理由となっている。
しかもこの傾向は日本だけではなく、中韓両国でも似たような事情を抱えているのだ。
韓国はIMFが悪者にされている金融通貨危機による経済危機から脱し切れていないし、中国はほんの一部の高度成長するものと大多数の取り残されるものとの格差が拡大していくばかりのようだ。
中韓の突出的な反日感情の若者たちと、日本の反中、反韓の若者たちと背景的には大差がないだろうが、問題なのは相手が攻撃的になればそれだけ反発的感情が増してお互いの溝が深まるということだ。
そうした意味で日中韓3国が今もっとも警戒すべきことはお互いの右傾化ではないだろうか。
今は3国の政府が自国民の右傾化をむしろ好都合としているようだが、国民同士が相互に嫌悪を抱くようになって東アジアの将来に良いことなど何もないはずだ。

漫画クラブのコラム
2006.9.3 「東京五輪誘致 巨大利権」

2016年夏季五輪の立候補地が東京都に決まった。都は競技会場を都心に集め、財政負担も少ない「世界一コンパクトな大会」をブチ上げている。しかし関係者からは「ヒドい皮算用」という声が圧倒的。それでも都が五輪招致をゴリ押しした裏には、ベラボーな利権が見え隠れする。
既存施設の利用を掲げる都の計画では、五輪に使用する36会場のうち既設は22、仮設は12、新設はメーン五輪スタジアムなど2会場だけ。施設整備費4956億円を見込んでいるが、都の負担はたったの453億円だ。残りはほとんどを国や民間資金で賄ってもらう計画。大会運営費2943億円も国や民間にオンブにダッコで、都の負担はゼロ。石原都知事は「民間の協力を得ながら努力を重ねる」とか言っているが、すべて絵に描いたモチだ。
「資金集めはあくまで見込みで、国や民間の協力が100%得られる保証はありません。節約のために既存施設の改修も打ち出していますが、駒沢オリンピック公園などは老朽化が著しく、新設と変わらないくらいカネがかかる。日本武道館は使えても、近くに練習場がないので、新たに仮設の建物が必要です。最終的に都の負担がどれだけ膨れあがるかも分からない。都の計画では五輪が開催されなくても16年夏までにすべてを完成させる予定です。最初から再開発ありきとしか思えません」(都関係者)
04年のアテネ五輪も開催費は当初予算の倍近い約1兆2000億円に達した。それを見越してか、都は今年度から五輪準備基金を毎年1000億円ずつ、4年間積み立てると言いだした。この4000億円は都民の税金から賄われることになる。使い道は「五輪に関係の深い事業や都市戦略の中で必要なものに充てる。交通整備などインフラ投資も考えられる」(都五輪招致本部)というから、ドサクサ紛れで何に使われるか分からない。
それでなくても、今回の招致には“怪しいにおい”がプンプンする。
「昨年8月の石原知事の五輪招致宣言後、日本体育協会会長でJOC理事の森前首相が『体協として話がある』と石原知事を訪ねています。代々木公園周辺の大規模再開発について話をしたようです。再開発構想には五輪の競技会場に指定された国立代々木競技場や東京体育館のほか、周辺の道路整備なども含まれています」(政界関係者)
石原都知事は30日、早くも3選への出馬宣言をした。安倍官房長官は最大限の努力を約束した。都市開発利権で太った森派だけに、監視が必要だ。

ブログ「斜真館」
2006.9.4 「国家は悪者と思うのは間違っているか」

自民党総裁選を巡る発言の中に「国家悪者論を正したい」といった主旨の発言があったらしい。
しかし単純に見れば国家は悪者だ。
人間誰だって自分の財産あるいは働いて得た報酬としての金を無条件に奪われれば、奪ったやつは悪者と考えるのが当然だ。
国家は無数の形で国民から税金を収奪しているが、払った税金に見合うだけの対価を国家から得ていないと感じている国民のほうが、そう思わない国民よりも多ければ、「国家悪者論」が成立するのは当然と考えるべきだろう。
ところが今の日本の為政者たちはその逆に国が与えるサービスに対して国民は十分に義務を果たしていないと考えている。
だから提案したいのだが、「国民悪人論を正す」必要があると。
安倍晋三にはたぶん理解できないだろうが。

ブログ「斜真館」
2006.9.5 「またオリンピック招致で恥をかくのか」

2016年のオリンピック開催都市の日本の候補地が東京都に決まったようだ。
メーン・スタジアムなどの新しく作る施設は国立施設というのだから、はじめっから国を頼りにしている、いわば人のふんどしで相撲をとるような提案で福岡市に勝ってしまった。
しかも競技施設の集中する都有の埋立地は交通手段がろくにないのに、現在の国立競技場を改築または建て直して使おうとはしないという理由がさっぱり理解できない。
まあそんなことはともかく、来年の都知事選挙にまたもうろくお坊ちゃま都知事が出馬するらしいから、ミーハーの都民の支持で三選されることは確実だろう。
となれば東京が2009年のIOC総会でオリンピック開催都市から落選して、名古屋大阪に続いて国際的な恥をかくのも確実だろう。
なにしろあのお坊ちゃま都知事の他国蔑視発言には韓国中国は言うに及ばず、他の国も相当不愉快な感情を抱いているだろうから、そんな首長の都市を支持するはずがない。
候補地決定のその日にも下品な外国人蔑視発言を連発してマスコミを呆れさせたくらいだから、あの男に今後3年間くだらない失言を控えるなんて期待しないほうがいい。
招致運動だけでも莫大な費用をかけることになるから、都民税を無駄に浪費されるのがなんとも腹立たしい限りだが、それもこれもあんなバカな都知事を選んだ都民が多いのだから、なんとも致しかたがない。

漫画クラブのコラム
2006.9.9 「警察の怠慢と勤勉の落差」

共産党のビラをまくためにマンションに立ち入ったことで住居侵入罪で起訴された住職に対して、東京地裁が無罪判決を出したら、やっぱり9/2に検察は控訴した。
たったの住居侵入容疑だけで即逮捕の上、23日間も拘禁して送検する警察の勤勉さには実に感心した。
これからは政党のビラだけではなく、アルバイト募集や宅配ピザの広告や不動産売り物件の募集などのビラまきも、是非とも即逮捕、送検してもらいたいものだ。
マンション暮らしの住民で宅配ビラにウンザリしている人たちは、110番してどんどん警察に逮捕を要請しよう。
電話口でつべこべ言われたら「政党ビラで逮捕して広告ビラで逮捕できないのは業者から賄賂でももらっているのか」と怒鳴りつけよう。
それともこう言ってはどうだろう。
「桶川の女子大生殺人事件みたいに警察は怠慢でも何も責任を問われないからサボってもいいとでも思っているのだろう」

漫画クラブのコラム
2006.9.12 「格差社会の是正に取り組むはずがない世襲政治家たち」

自民党の総裁選挙を通じてはっきりしたことは、日本の政治を担う連中には格差社会を是正する気がないということだ。
彼らの言うところを要約すると、「格差の固定化は望ましくないが個人の格差があるのはやむをえない。地域格差は是正しなければならない」といったものだ。
いわゆる「勝ち組・負け組み」あるいは「富者・貧者」に分かれるのは仕方がないことだと言っているのだ。
しかしこの言葉にはごまかしがある。
今の日本で自民党政府が推し進めている「改革」「規制緩和」の実態は、心身にハンデのある者や貧者の負担をより重くするかまたは競争からの保護を取り去り、強者にはますます弱者を打ち倒す機会を与えるものであって、格差はやむをえないどころか格差拡大と固定化を進めるものでしかないということを、多くの国民が思い知らされた。
彼らにこういう人非人的な発想が出るのも当然だ。
彼らこそ世襲議員という格差固定化の権化だからだ。

ブログ「斜真館」
2006.9.13 「美しい日本とは笑わせる」

安倍晋三は自民党総裁選の出馬表明で「21世紀にふさわしい美しい日本をつくる」とか言ったらしい。
まことにけっこうなお話で、ありがたくて涙が出てきそうだ。
ではめでたく首相になったらまず、美しくない政治家を国政から退陣させてもらいたいものだ。
次に汚れた官民癒着の当事者たちを全員刑務所送りにしてもらいたい。
その次に市民に傲慢で怠慢な警察を国民に従順で勤勉にしてもらいたい。
その次にゴミゴミとしてケバケバしい都市景観を清潔で整然とさせてもらいたい。
その次にただでも狭い日本の道路をますます狭くして歩行者の安全を脅かし、犬の小便にまみれて不潔で不細工な日本中の電信柱を路上から追放してもらいたい。
その次に毎朝ゴミあさりをして路上を汚すカラスを駆除してもらいたい。
さて安部晋三にはこの内の一つを実現するだけで何年、いや何十年の猶予を与えたらいいだろう。
だが「美しい日本」と言うからには、こんなことの一つや二つは朝飯前にできないようでは困る。

漫画クラブのコラム
2006.9.16 「17億円もちょろまかせる県財政とは何だ」

岐阜県庁の裏金問題で県が設置した弁護士3人で構成する「プール資金問題検討委員会」の調査結果によると、1992年度から12年間で捻出された裏金は総額約17億円に上るのだそうだ。
さすが、岐阜県はかつて東海道新幹線が開通するときに田園地帯のど真ん中に「岐阜羽島駅」を作らせた大野伴睦という超大物利権政治家を産んだ土地柄だと、昔のことを思い出させてくれる話だ。
「まあ県民約210万人の頭数で割れば、たったの800円!ぐらいだからたいした金額ではない」とでも考えて、県民も大目に見てあげることだろう。
とは、まともな人間なら誰も考えたりはしないだろう。
もっとも、裏金を私的に使い込んだ連中はそう期待しているかもしれない。
いや、岐阜県以外の自治体で今でも裏金作りをやめられないような連中は、案外そう考えているような気がする。
県民一人当たり800円くらいなら、ちょろいもんだと考えていそうな気がする。

漫画クラブのコラム
2006.9.19 「ホリエモンは無罪?」

予想どおりホリエモンは公判で全面的に無実を主張。
単純な構図では宮内元ライブドア取締役以下の元部下とホリエモンとの間での責任のなすりあいのようになった。
たぶんこういう印象を持たせることがホリエモンの狙いなのだろう。
だいたいこういう経済事犯の多くは罪の立証のほとんどが当事者の証言によるもので、殺人事件のように物証を巡って争われることがあってもあまり世間には目立たない。
今回のライブドアの事件にしてもトップが総括的に判断・命令したというのが報道による限りでは全部証言によるものばかりだ。
メールなどの電子記録も押収されたようだが、本人しか使用し得ない電子認証の入ったメールとかでない限り、誰が発信したかを断定することは不可能だから証拠能力がない。
純粋に法律的に判断するのか社会正義の立場で判断するかで全然違った判決が出てくることだろう。
マスメディアでよく目にする今回の事件の教訓のようなものの典型は以下の2つ。
1.証券取引などの経済行為のルールが日本ではまだ未整備な点が多い。
2.戦後教育あるいは経済成長最優先が産んだ「拝金主義」の表れだとする。
どちらも嘘だろう。
日本に限らず人類社会は成長し続けているのだから、経済行為に限らずルール整備が後から追いかける形になるのは必然で、それを恐れていれば規制だらけの55年体制への逆戻りになる。
「拝金主義」はなにも戦後教育の特産物ではなくて、大正昭和の時代にも「成金ブーム」などがあったように、歴史上いつでも見られた現象で、原因を特定したからといって次に起こることまで防止できるものではない。
カネボウのように破綻が明るみにでてから初めて摘発に乗り出したのを見ても明らかだが、日本の官憲は老舗の大企業の経済事犯を摘発することには及び腰のくせに、社会の進歩の先端を行くものとなると簡単に「ルールを破るもの」として罰したり抑圧したりする。
こんな国家権力の行き方のほうが、よっぽど問題があるかもしれない。

漫画クラブのコラム
2006.9.22 「教育委員会が違憲行為と断じた東京地裁判決」

基本的人権を無視することが大好きな石原都知事の意向を受けて、都教委があまりにも突出した教育統制を行なったものだから、とうとう東京地裁から「違憲」という判決が下されてしまった。
入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして、東京都立の高校や養護学校などの教職員が都教委などを相手に、起立や斉唱義務がないことの確認などを求めた訴訟の9/21の東京地裁の判決は、都教委の通達や職務命令は違憲・違法とし、都側の全面敗訴となった。
どうせ高裁では逆転判決が出るだろうと、都教委はさっそく控訴するらしい。
これまでの例から見れば高裁で逆転、最高裁で控訴棄却または原告敗訴となることだろうが、それまでいったい何年かかることやら。
全くばかげた話だ。
都教委の言い分は公務員である都立校教員が、職務上の命令に違反したから処分するのは当然だ、と主張していたその命令自体が違憲だったのだ。(と東京地裁は判断した。)
都立校の卒業式に多数の都職員を派遣して、通達どおりに君が代斉唱と日の丸掲示が行なわれているかを監視させたことの異常性を考えれば、憲法違反の判断が下されるのは当然だ。
まるでファッショを連想させるやり方ではないか。
都教委は教員の反日の丸反君が代的行動があったからだと言っているが、彼らをそうさせたのはどの都立校でもその校独自に培った伝統にのっとって行なってきた式典を一方的に否定した都教委ではないか。
教育現場の自主性を破壊しておいて何が「教育委員会」なのだ。
よくよく頭を冷やすか、さもなくば頭に血を上らせすぎて脳卒中にでもなってもらいたい。

ブログ「斜真館」
2006.9.23 「国家は悪者と思うのは間違っているか」

自民党総裁選を巡る発言の中に「国家悪者論を正したい」といった主旨の発言があったらしい。
しかし単純に見れば国家は悪者だ。
人間誰だって自分の財産あるいは働いて得た報酬としての金を無条件に奪われれば、奪ったやつは悪者と考えるのが当然だ。
国家は無数の形で国民から税金を収奪しているが、払った税金に見合うだけの対価を国家から得ていないと感じている国民のほうが、そう思わない国民よりも多ければ、「国家悪者論」が成立するのは当然と考えるべきだろう。
ところが今の日本の為政者たちはその逆に国が与えるサービスに対して国民は十分に義務を果たしていないと考えている。
だから提案したいのだが、「国民悪人論を正す」必要があると。
安倍晋三にはたぶん理解できないだろうが。

漫画クラブのコラム
2006.9.24 「団塊の世代は儲けの対象」

最近テレビでも新聞でも団塊の世代の第2の人生の送り方をネタにしたものを実によく目にする。
銀行などの金融機関も、団塊の世代が定年を迎えて貰うはずの退職金を目当てに、新しい金融商品だの資産運用を任せろだのと、あの手この手で売り込んでくる。
政府までが、勤労所得者の特別減税を完全撤廃したのは、日本全国では莫大な金額に上るはずの定年退職金からしっかりと税金をむしりとるためにタイミングを合わせたようだ。
これを逃したら、もうリタイアした連中からまとまった金額の税金を取ることはむずかしくなってしまうのだから。
若い頃は安月給でこき使われ、ベテランになった頃には能力主義・成果主義の導入で昇給にも昇進にも苦労し、リストラに脅かされ、やっと定年までたどり着くと今度は福祉水準の切り下げと増税いう目に遭う。
まったく団塊の世代とは使い捨て世代のことかと思う。
その上、第二の人生の生き方まで官民両者から金儲けの対象にされて、退職金も年金もハゲタカのような企業や団体が甘いエサでだまして奪い取ろうとしている。
おせっかいな新聞・テレビが紹介するような「素晴しき第2の人生」などに、うっかりだまされないように、第2の人生ぐらい自分でしっかり生き方を決めたいものだ。

ブログ「斜真館」
2006.9.26 「国政選挙の選挙区制はもう古い」

国会議員が地域代表である必然性は、アメリカや一部のヨーロッパの国々のように国家が邦(くに)の連合体として成立した場合にはあるかもしれない。
しかし日本のように近代国家として出発した時点で既に強力な中央集権性を持っていた場合にはその必然性はかなり薄くなるといわざるを得ない。
日本のような場合、地域利害の調整の役割は行政府が担うべきものであって、立法府はあくまでも国全体の利害についてはかる場であると考えるのが効率的だろう。
と、まあかたい理屈はさておいて、今のように国会の議席の多くを二世議員が占め、しかも首相をはじめとする政府の中枢でその占有度がより高くなっている現実を見てみよう。
安倍晋三などのように世襲議員の多くは選挙区に住んでさえいない。
その地域に暮らしていないものが地域代表になるのはいかにも不自然で、地域資本・地域有力者とだけの結びつきを想像させる。
その逆に都道府県知事は、その行政区域の出身者や生活者でなくとも、行政者として有能でありさえすれば良い。
現に高い評価を受けた知事に、その地域の生活者でも出身者でもなかった人物である例がいくつもある。
となるといったい国政選挙の選挙区制にどんな意味があるのだろうという疑問が湧いてくる。
もう一つの疑問がある。
選挙民が自分の選挙区の立候補者に投票したい人物が一人もいない場合、国政参加権を行使することができない。
そんな場合に他の選挙区の候補者に投票したい人物がいたとしても投票できないのは、よく考えると理不尽な話だ。
たとえば山口県出身の新宿区民が山口4区の安倍晋三に投票したくともできないのだ。
つまり選挙区制とは国政参加権を制限する性質を持っている。
だから日本にはもともと選挙区制は必然性がなかったし、あったとしても今やその合理性は崩れ、むしろ国民の国政参加の意味を薄めるような働きさえあると言わざるを得ない。
地域代表でなくとも産業代表、職業代表、年代代表といくらでも国民の利害代表の分け方はあるのに、どうして今までそうしたことを真面目に議論しなかったのだろう。
これからの時代は少なくとも、他の選挙区の候補者にも投票できる「自由選挙区制」ぐらい導入してもいいのではないだろうか。
そうすれば比例代表制なども当然不要になって選挙制度も随分と簡素化されるだろう。

ブログ「斜真館」
2006.9.26 「靖国問題でごまかされてはいけないこと」

自民党総裁選の前の朝日新聞の世論調査によれば、次の首相に一番力を入れて取り組んでほしい政策は48%の回答者が「年金・福祉の改革」と最も多かった。
次いで、「財政再建」17%、「格差の是正」10%、「地方の活性化」と「アジア外交の改善」がともに9%、「憲法改正」2%の順。
不思議なことに、次の首相に安倍晋三を挙げた人でも、安倍晋三が重視する「憲法改正」は2%にとどまった。
実は、こんなふうに首相に期待する人物と、首相に期待する政策との乖離は今に始まったことではない。
その人物がやってくれそうな政策によってではなく、印象や言動だけで首相としての期待を持つというのは、それだけ一般国民が政治に期待していないことの表れというべきだろう。
そういう安倍晋三のような人物にとってもっとも好都合なことは、靖国問題のようにもともと国論が半々に分かれている問題に世間の関心が集まることだろう。
その逆に世間の誰もが改善を望んでいる課題が首相となったときの最大関心事になることぐらい不都合なことはないはずだ。
だから安倍自身はむしろ靖国問題をマスコミが云々することを望んでいることだろうが、彼にとって都合のいいことに日本のマスコミはいつもこうした自民党お得意の「争点隠し」のお先棒かつぎをするものだから、日本の民衆にとってはまことに始末が悪い。

漫画クラブのコラム
2006.9.29 「ソニーの独りよがりはもう通用しない」

ソニー製のパソコン用リチウム充電池の製造不良が大きな問題になりつつある。
不良品交換に要するソニーの費用は600億円以上にのぼるとも言われ、せっかく液晶大画面テレビで大攻勢をかけて持ち直していたソニーの業績に暗い影を落としそうだとも言われている。
日本の技術力全体の国際的な信用を落とすと酷評するものまでいる。
まったく「技術のソニー」という看板が泣こうというものだ。
しかしソニーという企業はこの手の独りよがりの「目玉技術」で何度も失敗してきた。
たとえばカラーテレビではトリニトロンで高画質を売り物にしていたが、結局一般的なシャドーマスク方式でも十分な画質が実現されて独自技術が市場での優位性には結びつかなかった。
家庭用ビデオでもベータ方式を支持したソニー愛好者はバカを見る羽目になった。
第3世代のウォークマンとも言うべき携帯オーディオでも、第2世代ウォークマンのMDプレイヤーからパソコン連動機へと移行する際に、WindowsパソコンのデファクトスタンダードとなっていたWMA形式の音楽ファイルや既に一般的になっていたMP3形式の音楽ファイルをそのままでは聴けない独自システムに固執する失敗を犯して、後発でしかも独自性を守ったアップルに市場を席巻された。
機械としての質の面でもソニー製品は長持ちしないとよく言われているが、実際に私が使用した3台のカセットウォークマンは3年も使用すると故障するものばかりだった。
結局ユーザー無視の独りよがりの企業だったということだろう。
もっともユーザー・顧客無視の体質は大手保険会社にしても、JR西日本にしても、パロマにしても、三菱自動車にしても、今はなき雪印食品にしても皆似たようなものなのだが、「ソニー」ブランドの信用があまりにも高かったので、今回の大失態が際立つのだ。

ブログ「斜真館」
2006.10.1 「教育改革はおおいにけっこうと言いたいが」

安倍晋三は自分には子どももいないのに教育改革にえらく熱心らしい。

教育には実際に自分が親になって苦労してみないと分からない問題が無数にあるのだが、まあ真面目にやってくれるのならけっこうな話だ。

ただ、いままでの教育改革など、まともに行われたためしがないから眉に唾しないと聴く気にはならない。

大学のセンター試験にしても、ゆとり教育にしても、総合学習にしても、ほんとうに教育を受ける者たちやこの国の将来のためを考えて導入されてなどいないからだ。

結局は私立学校を含む教育関連産業に莫大なビジネスチャンスを与えるための方便に過ぎなかったではないか。

例えばゆとり教育導入で一番得をしたのは進学塾であり第2次ベビーブーム終焉後を模索する私立の小中学校だった。

国ではないが、東京都の古い例を挙げれば、都立高校に学校群制度を導入して、伝統的名門校を再起不能なまでに貶めて、都民の子弟が東大などの難関大学に進む道を狭め、中堅以下の私立高校と予備校を大喜びさせた。

もっとも政治家や行政者が「改革」などと言い出したときに、なんらかの官民癒着的な利害関係が働いているのは何も教育だけではないから、これを言い出すと国や公共団体がやることはほとんど全て当てはまって切りがないのだが。

なにはともあれ安倍晋三がいったい教育関連産業からどんな便宜供与を受けているのかは知らないが、また過去の教育改革と同じようなことを繰り返すのだけはやめて欲しいものだ。
ブログ「斜真館」
2006.10.1 「単純な正義感は古いのか」

半世紀前の子供たちの娯楽は、たまに見る映画、ラジオの連続ドラマ、少年雑誌や貸本の漫画、原っぱや公園での遊びなどだった。
男の子は当然のように冒険活劇ものが大好きだった。
冒険活劇の主人公は決まって弱いものを助ける正義の味方であり、遊びでもドラマでも「いいもの」対「わるいもの」にはっきり色付けしていた。
そうした子供たちが高校生・大学生となり大人になり世の中に入って知ったのは、暴力に勝るものこそが正義であり、弱いものを助ける正義の味方などいないし、水戸黄門も大岡越前も月光仮面も現実世界には存在しないということだった。
ちょうどそんな頃に流行ったヤクザ映画は現実世界に失望し、理屈ぬきに強いヒーローを求めていた若者たちに大いに受け、暴力に勝るものこそが正義というあり方を美的なものに仕立て上げた。
次の世代の子供たちの娯楽世界では、既に単純な勧善懲悪のヒーローは息をひそめ始めていた。
鉄腕アトムは自分の信じる正義とは何だと自問するようになり、サイボーグ戦士たちは悪の組織から守っているはずの人たちから存在さえ認められていない孤独な戦いを強いられていた。
娯楽の作り手たちがベトナム戦争や70年安保闘争などの現実世界を前にして、「正義対悪」の虚構の構図を描くことに疑問や虚しさを持つようになったからだろう。
子供たちの親もまたそうだった。
かくして「荒れる中学校」が全国に蔓延し、やがて「正義」を失った世代が世の中の大半を占める時代になった。
最近の日本では毎日のように残虐か悲惨な事件がニュースになっている。
親殺しも子殺しも殺傷事件も酔っ払っての轢き逃げも昔からあったが、今ほど簡単な事情で起きたり残虐な内容が当たり前であったりしただろうか?
かつては日本人の大半は「法」を畏怖し、法や秩序を犯すときには心のどこかで恐れを抱き周囲をはばかり目こぼしを願う気持ちを本能的に抱いていたはずだった。
今では一般市民がまるで暴力映画のヤクザ並みの粗暴で冷酷な事件を簡単に起こすようになった。
正義を過去の遺物のようにし、良いことと悪いことのけじめをつけるのを避けてしまうようになったことが、こうした「法」を畏怖する本能を失わせる時代を招いた一因ではないと誰が言い切れるだろう。
「正義」を古臭くて陳腐で嘘くさいものにしてしまったことの代償はあまりにも大きい。

漫画クラブのコラム
2006.10.4 「国会の会期制の廃止はまだか」

日本の国会は会期が決められていて「通常国会」は基本的には150日間だ。
この他に「特別国会」「臨時国会」が召集されることがあって、またそれぞれ会期の延長が議決できるようにはなっているから、例えば2000年から2005年までの5年間の国会の実際の会期の平均は227.5日あった。
これだけ見ると多そうだが、土曜日曜祝日は定休だから実質的には約153日で、週平均では3日に満たない。
もちろん国会で審議ばかりしていれば良いわけではなく、審議に必要な検討・研究・諮問の時間も考慮してやる必要はあるかもしれない。
だがそれにしても週平均3日未満は少なすぎる。
ろくな審議日数も取らないものだから、国会の代表質問なんかはあんなにも中身の薄いものになってしまうのだろう。
それでいて国会議員たちは忙しい忙しいと言いたがるのだが、忙しいというその中身がほんとうに国政を預かるものとして必要な業務なのかは実にあやしい限りだ。
要するに非会期を利用して次の選挙のための事前運動と資金作りに精を出したいだけなのだろうと疑ってしまう。
国会議員は1年を通して国政に専念するのが職務の本分であるし、制度として専念している形式をとるべきだろう。
土日祝日の定休以外に所定の非審議活動日は設けるにしても、やはり国会は通年開催し国会議員は毎日登院するべきだ。
給与だけで年収2200万円以上、その他の個人経費が2000万円も保障されている国会議員なのだから、そのぐらいは当然じゃなかろうか。
何も憲法を改正しなくとも、現行法規の中で実質的に通年開催とするくらいのことはできるはずだ。

漫画クラブのコラム
2006.10.7 「不服従の権利と当為」

日本国民の権利と義務は憲法>法律>政令>条例の順に規定されているはずだが、教育委員会の通達はいったいどの辺に位置するものなのだろう。
都立校教員が起こした君が代・日の丸に関する都教委の通達・命令の無効を求める訴訟は、まるであたかも教員の思想・信条の自由のみが争点であるかのように取上げられているが、これは本質から外れているというべきだろう。
問題の本質は教育の名の下に生徒に君が代・日の丸への服従を強制することが許されるかということにあると断じるべきだ。
生徒に不服従をそそのかした教員を処罰しただけことではなく、招かれもしないのに東京都の職員を厳粛なる式典に送り込んで服従の程度を調べ上げて、不服従の生徒が多い学校の校長以下の教員の責任を問わんとしたことにこそ、一般国民が断じて許してはならない公権力の専横がある。
いわば恩師を人質に取った強要とも言うべき恥ずべき行為を東京都が行ったのだ。
これを服従の強制と呼ばずに何といえばいいのか。
たとえ法令がどうであれ、国民は正しくない国(や公共団体)の命に服する義務はない。
その場合に国が服従しない国民に与える処罰とは、刑罰に名を借りた復讐である。
時代が変われば処罰されるのは国のほうになることもある。
国の不当行為に対する不服従は国民の権利であるし、義務とまでは言えないにしても当為ではある。
第2次対戦中の日本の報道機関はその逆の事を行なって、今日その罪を認めている。
最近ではブッシュのイラク侵略を巡って同じような過ちをアメリカの官民が犯してもいる。
都教委通達訴訟は国民の不服従の権利について気づかせてくれるきっかけに過ぎない。

漫画クラブのコラム
2006.10.10 「安倍首相はついている?」

バカブッシュが大統領になったとき、前評判どおりのバカぶりにアメリカの国民がそろそろ気がつき始めた頃に、実にタイミングよくアルカイダによる(と言われている)9/11同時多発テロ事件が起きて、ブッシュは指導者っぽく振舞うことができ、おかげで再選までされた。
安倍晋三は「人柄が良さそうだから」というなんともあいまいな理由で多くの国民が期待したものだから、キャリア不十分、実力不明瞭、政治姿勢の懸念大なのに自民党が首相に担ぎ上げてしまった。
日本の場合どんなに長くてもアメリカ大統領のように8年も国政最高責任者が代わらない例はめったにないから、まあいいのだけれど真面目に考えたらこんな選出基準でいいのかと大いに不安になる首相誕生だった。
にもかかわらず、安倍にとって実にラッキーなことに北朝鮮がかねて予想されていた核実験をこの時期にやってくれた。
北朝鮮に対して強硬姿勢の政治家という印象が一般的に持たれている安倍にとってこんな好都合なことはない。
安倍の望む教育改革も憲法改正も歴史認識の歪曲も守旧的倫理観の巻き返しも、望まないにしてもやらなければならない消費税の引上げも年金健保などの福祉水準のさらなる切り下げも、ぜーんぶまとめて北朝鮮核実験のおかげで、国民の関心を高めないで片付けられるかもしれない。
いや、そもそも「人道的見地」から北朝鮮が経済支援と軽水炉の支援を受けたときから、こんにちあることは予想されていたわけだから、6カ国協議が中断している今の時期に首相になると「良いこと」が待っていることぐらい安倍とその周辺は分かっていたのであろう。
もし分かってなくとも親切なアメリカ共和党政府が「今がいい」と教えてくれているはずだ。
安倍首相がついている、と書いたのは結果的にこうなった、という意味ではなく、いい時期に首相候補になれたという意味だ。

ブログ「斜真館」
2006.10.15 「イライラの種をまいたのは誰?」 

安倍ボンボン首相は10/5夜、国会記者団に「予算委員会では現在の問題や未来の問題について語り合うべき」と、自身の歴史認識について野党からの質疑が集中したことへのイライラをぶちまけたらしい。
やはりお神輿に乗っただけのボンボンらしい本音が出ている。
追求されているのが安倍個人の歴史認識であるだけに、安倍ならずとも高い報酬を得て活動している国会議員や首相が「こんなこと」に時間を浪費することは実に腹立たしい限りだ。
しかし「こんなこと」は首相になる前から予想できたことで、本来なら自民党の総裁に選出される前に、国会でのくだらない時間の浪費を回避するための対処ぐらいしておくべきだったのだ。
安倍にとっては質問した野党議員に対して不快に思うだけのことで済むだろうが、高い報酬を保障するために税金を浪費されている国民は「不快」だけで済むような気分ではない。
ほんの少し先のことも読めないようでは、国政の最高責任者としては失格というほかはない。
やはり首相になるには早すぎたようだ。
もっとも何年たとうとそのボンボン的性格が直るとも思えないのだが。

漫画クラブのコラム
2006.10.20 「中国人名の音読みはもうやめては?」

最近の韓国の若い世代は自分の名前を漢字で書けない人が多いらしいから、日本の新聞が韓国の政治家の氏名を漢字で表記してあるのを読めるのだろうか?
ルビつきだったりカッコ内にカナ表記したりしてあるから、カタカナさえ読めれば誰のことかわかるだろう。
放送ではハングル読みだから日本語の発音さえ理解していれば韓国人も自分の国の政治家のことをいっているのだと分かるはずだ。
それにひきかえ中国人名はいまだに放送では音読みだ。
新聞雑誌だって中国人名は日本の漢字で表記していて、現在の中国の簡体字ではない。
日本人が日本国内で話したり読んだりする分にはこれでも一向に構わないのだが、一歩国外に出たら中国人名を聞き取ることも話すこともできなくなる。
「相互主義」とやらで中国では日本人名を無理やり中国語読みしているから、日本でも中国人名を日本の漢字で表記し日本式に呼んでいるらしいのだが、これでは国際化時代にふさわしいとは言えないだろう。
日本が技術大国であったのはもう昔の話となり、いまやインド・中国などの後発国になどにも遅れをとりそうな時代だ。
こんな風になった原因に英語教育や理科教育の問題も挙げられているが、根本的には日本の一般大衆がいまだに国際交流という感覚では鎖国状態にあるからではないだろうか。
いつまでも中国の首相を「おんかほう」などと呼んでいるようでは、この国の将来が思いやられる。

ブログ「斜真館」
2006.10.20 「汚い言葉遣いが世の中を悪くする?」

マジ、ブッチャケ、ヤバクネ、チクッタ、フクロニシテヤッカ、と中学生、高校生ぐらいの年代で仲間内で言ってるぐらいなら、まだ良い。
社会全体ではきちんとした言葉遣いが守られているのなら、若者たちも社会に出て言葉遣いを正していくことができるからだ。
その親の世代も、テレビ放送の出演者たちも若者たちの汚い言葉遣いを当たり前のようにするようになってしまった。
かつてはヤクザとか不良(と呼ぶのは昔式だが)が使っていたような汚い言葉を、かっこいいから、或いは若者の実態像に近いからか知らないが、大人たちまで一緒になって使うようでは困ったものだ。
今のように若者たちの言葉遣いが汚くなったのは、元をたどれば1950年代に石原裕次郎が国民的大スターになって当時の不良少年たちの言葉遣いで映画のスクリーンで大暴れした頃に始まっているようだ。
それ以前は青少年、特に子どもたちが目にする映画や漫画の世界で主人公が「○○だぜ」「てめえら」などと言うことはほとんどなかったように思われる。
日活の青春(チンピラ)映画全盛時代の後に東映ヤクザ映画全盛時代が来て、70年安保闘争と学園紛争の時代を経て、日本の世の中全体が暴力もしくは暴力的なものに対する免疫が失われていったようだ。
今の教育現場の荒廃やイジメの蔓延、児童虐待などのすさんだ世情を汚い言葉遣いのせいにするのは論理の飛躍があるかもしれないが、言葉の乱れが進むのと世情がすさんでいくのとが軌を一にしていることだけは否定できないだろう。

ブログ「斜真館」
2006.10.20 「人間の体はただの器か?」

とうとう日本の国内でも代理母出産が行われていたことが明るみに出た。
なんとしても実の子どもが欲しいというのは人情だろうが、そこまでするかとの感想を持たざるを得ない。
臓器移植にしてもそうだ。
たしかに人命は尊重するべきだ。
「死にたくない」「死なせたくない」というのは誰だって当然のことだ。
死んだ人、死んだも同然の人、自分の臓器を分けてあげられる人から臓器を移植して助かる命ならば助けてあげたいとも思う。
しかしそれでも自分がその当事者にはなりたくないとも思う。
代理母にしても臓器移植にしても一番気になることは、人間の体を命を収めるただの容器のように扱っていることだ。
そのことは代理母を認めない側も認めるように求める側もさして変らないように思える。
人格の根源をただ大脳にのみ帰することが正しいことなのか人類はまだ結論を得ていないはずだ。
医科学的に可能であるからと言って人の体の各部を機械のパーツのように扱うことの結果は眼に見えている。
子宮も心臓もあらゆる人間の臓器がただの「もの」として扱われれば、「もの」を買うことのできる人だけができないはずの子どもを授かり、死病から免れることになるのだ。
現にドナー不足の日本から、既に臓器売買がなかば公然と行なわれている国に行って、大金で自分の命を購おうとする人たちがいる。
「地獄の沙汰も金次第」というのは昔も今も変らないが、これ以上人間の命に金で格差をつけていいものなのか、一般大衆はともかく為政者は真面目に考えるべきだろう。

ブログ「斜真館」
2006.10.20 「歴史問題以外にも忘れてはいけない朝鮮問題」

いわゆる自虐的歴史観を正したいと言う人々の多くは日本の朝鮮半島支配の歴史を民俗抑圧の歴史とすることに反対している。
朝鮮人労働者の強制徴用も従軍慰安婦も、そんな事実は無かったことにしたいらしい。
安倍首相などは後世の歴史家の判断するべきことだと実に無責任なことを言っている。
しかし歴史家に判断を任せなくとも、今の日本人が恥としなければならない過去の事実がある。
言うまでもなくそれは今も一部では根強く残っている「朝鮮人差別」の問題だ。
戦前育ちの世代は言うに及ばず、戦後世代の中にも「部落民と朝鮮人とだけは結婚してはだめだ」などと言う人たちが多いし、今でも自分の出自が在日朝鮮(韓国)人であることを明らかにすることは勇気がいることだとされている。
だが「自虐的歴史観を正したい」とか言う人々は現在も残る「朝鮮人差別」については素知らぬ顔をしているようだ。
それどころか「わが日本は大和民族の誇りある単一民族国家である」として、まるで異民族がこの国に市民として居住していること自体を否定せんばかりの発言まである。
石原おぼっちゃま都知事にいたっては国際都市東京の首長でありながら、在日朝鮮(韓国)人をはじめとする外国人差別発言を繰り返して「何が悪い」と開き直っているのだから、実に困ったものだ。
全く時代離れしたあきれた話だ。
こんな連中が「自虐史観を正す」などと言っても、なんの説得力も持たないことぐらい自分で気づいて欲しいものだが、あいにくそれほど頭が良くないようだ。

ブログ「斜真館」
2006.10.21 「行政区域と地名とは別」

平成の市町村大合併のおかげで日本中に妙な名前の「市」が出現しただけではなく、山間僻地や寒村が近くの市に吸収合併されてしまって、やたらに広い「市」ができたりしている。
おかげでNHKのニュースなどを聞いていて「○○市に住む○○才の男性が・・・」などと言うので、どんなところかと見てみると、とんでもない山奥のことだったりする。
地方色豊かな伝統行事が昔から良く知られているその土地の名前ではなく合併後の市名で「○○市で戦国時代から続く○○が華麗に行なわれました」などと紹介されたりすると、なにか別のことを言っているような錯覚さえしてしまう。
これはやっぱりおかしい。
市町村合併はあくまでも行政上の話で、古くから伝わった土地の名前をなくしてしまった訳ではないはずだ。
一つ例を出せば、上高地は信州安曇の上高地であって、安曇村が松本市に吸収合併されたからといって、河童橋を「松本市の河童橋」と読んだら河童橋を知るものは誰だっておかしいと思うに違いない。
渋谷駅前の忠犬ハチ公像を東京都の忠犬ハチ公像などと誰も呼んだりはしないのと同じことだ。
東京都の住居表示変更のように古来から続いていた由緒ある地名そのものを、東京出身ではない行政者たちが行政的な都合だけで野蛮にも消滅させてしまったような愚挙と類似したことが、全国規模で行なわれているようなものだ。
行政が文化を滅ぼしていく。
少なくともNHKのニュースでは、そんな愚挙の一端を担っている。

漫画クラブのコラム
2006.10.24 「実の母親の定義」

代理母の問題が相次いで起きた。
生物学的には完全な母子関係がありながら、代理母に産ませた子の出生届を品川区が受理しなかったのは実に不当な措置だった。
法が想定していなかった事態が起きた場合にはその事実そのものがなかったことにする、というわけだからこんな理不尽な話はない。
長勢法相は「我が国では、母子関係は分娩(ぶんべん)の事実で発生することになっており、(高裁決定には)問題が残る」と述べたらしいが、それでは逆に他の女性の卵子に夫の精子を体外授精させてから子宮に着床させて分娩された子どもは実子として良いのか、という問題を提起しているようなものだ。
長野県の病院の例のように、実の孫を出産した祖母が戸籍上の実母になった、という事実を肯定することになってしまうが、それでいいのだろうか。
品川区の対応といい、長勢法相の発言といい、いかにも日本の陋習的家族観男女観をあらわしていて、いやらしい限りだ。

漫画クラブのコラム
2006.10.28 「高校未履修偽装問題で生徒は果たして犠牲者か?」

高校未履修偽装問題で政府は救済措置を検討していると言う。
安易な救済によって公平であるべき大学受験が不公正に行なわれる結果となって、いったい他の高校の生徒たちが納得するだろうか。
そのことも考えなければならないし、それより前に対象となる生徒たちを一方的に不正を行なった学校の犠牲者と決めつけていいのかという問題がある。
校長たちが学習指導要領に違反してまで受験優先のカリキュラムを組むように追い込んだのは他ならぬ生徒とその父母たちではなかったのか。
進学実績本位で学校を評価することに落とし穴があったのだ。
履修しない科目の教科書を買わされたり、履修していないはずの科目に成績が付けられていたりしていたのを生徒が「変だ」と感じていただけだったことに落ち度がないとは言えまい。
少なくとも父母と相談するぐらいの知恵が働かなければならないし、父母はそれを学校に正すくらいの思慮が必要だった筈だ。
「補習がたいへんだ」とか言っているようだが、国公立の大学の試験が終わった後の3月に2週間ぐらい毎日ぶっ通しでやればできる程度の範囲だ。
そのために必要ならただの儀式に過ぎない卒業式などやめてしまえばいいのだ。
社会に出ればもっとひどい修羅場をくぐり抜けなければならないことがあると思えばたいした試練ではないし、学習指導要領どおりの授業をきちんと受けた他の学校の生徒たちのことを考えれば当然の義務だとも言える。
学校も生徒も父母も甘ったれてはいけない。

ブログ「斜真館」
2006.10.28 「教員免許更新制度よりも校長免許制度の導入が必要だ」

政府は教員免許の更新制度の導入を検討しているらしい。
たしかに問題教師は多すぎる。
しかし問題校長も多いことが最近の「いじめ隠し」や「高校未履修偽装問題」で露骨になった。
しかも校長は学校運営の最高責任者であり、最近の文部科学省の方針では校長は職員会議等による教員の意見を全く聴く必要のない独裁的権限が保障されているのだ。
どちらを優先するのかと言えば、問題校長を減らすことを採り上げるのが当然だろう。
となると自治体の首長と教育委員会さえ気に入れば教員免許を持たない人間でも学校長に任命されてしまう今の制度が良いのかということになる。
これはやはり公立私立の別なく学校長資格の国家試験を行なって合格したものだけに免許を交付し、学校長に登用されるようにしなければなるまい。
もっとも学校長を選任する側の教育委員も免許制にしなければ片手落ちというものだが。

ブログ「斜真館」
2006.10.28 「イジメ隠しは学校と教育委だけが悪いのか」

イジメが原因の児童生徒の自殺が問題となっている。
毎度のことだが学校や教育委員会の対応に問題があると、マスコミは彼らのお役所体質をここぞとばかりに叩いている。
だがそれが本当に問題の本質を突いていることなのだろうか?
山形県のマット死事件の真相も闇の中のままだが、イジメ事件では真相が明らかにされないままであることが多いようだ。
実は「地域ぐるみ」でのイジメ隠しがあったのではないかと思わせる節がうかがえることがママあるのだが、マスコミは学校や教育委などの眼に見える相手しか取上げようとはしていない。

漫画クラブのコラム
2006.11.4 「教育バウチャー制度導入なんてとんでもない」

ボンボン安倍首相は教育バウチャー制度の導入とやらを提唱しているらしい。
小中学校を対象にしてるらしいが、そんなものを導入したらどんな結果を招くか、という参考になりそうな事例が全国の高等学校で起きていたことが今まさに明らかになっている。
例の学習指導要領違反の未履修問題だ。
高校がカリキュラムを誤魔化した理由は言うまでもなく受験対策にある。
だがその受験対策を望んだのは他でもない生徒とその父母たちなのだ。
まさか国の定めた高校卒業要件を無視してまで大学受験を優先しろとまでは言わなかったにしても、教育を受ける側の要望があったから高校側も進学実績を上げるために「悪の道」を選択する羽目になった。
教育者のそのまた指導者である学校長と言っても所詮この程度の人間たちなのだ。
これで教育バウチャー制度などを導入したら、小中学校では履修科目選択の問題こそないものの他の学習要件で似たようなことが行なわれるのは目に見えている。

漫画クラブのコラム
2006.11.11 「鳴り物入りのスポーツ応援にはウンザリ」

スポーツの魅力はなんと言ってもナマで見るのに限るのだが、プロ野球とバレーボールとプロサッカーだけは高い入場料を払ってまで見に行く気がしない。
言うまでもなく、あのやかましい応援のためだ。
バレーボールの国際試合なんかはテレビ観戦でさえスティックバルーンを打ち鳴らすバンバンいう音が気になって肝心のプレーへの感興を著しく損なう。
ジャニーズ系のタレントなどを使っての白痴的応援にしても、テレビ観戦なら他のチャンネルにその時間だけ替えていれば済むが、ナマではそうもいかない。
テレビ観戦では、集音マイクでわざわざ応援の音を聞かせるプロ野球やバレーボールでは、カメラがいくら選手の表情をアップにしても生々しさが伝わってこないから、まるでコンピューターゲームでも見ているかのような錯覚に陥ってしまう。
その点、ラグビーなどの観戦なら鳴り物も組織的な応援もないから競技そのものに集中して見ることができるし、遠く離れていても選手の体のぶつかり合う音や選手同士が交わす声や息づかいまでが聞こえてきて実にリアルだ。
かつては好カードともなると国立競技場が満員になったラグビー人気が下火になって、騒々しいプロ野球やサッカーやバレーボール人気が持ち直したのは、たぶんテレビなどが一緒になって派手な応援劇を演出したことも要因となっているだろう。
しかし、それ以上に今のスポーツファンがスポーツ競技をコンピューターゲームと同じような感覚で見るようになって生身の人間がやっているものだということを忘れてしまっているというのも大きな理由のような気がする。

ブログ「斜真館」
2006.11.11 「拉致被害だけが国際的人権問題ではない」

人権問題を扱う国連総会第3委員会は11/17、北朝鮮による外国人拉致を「他の主権国家の国民の人権侵害」と非難する人権決議案を賛成91、反対21、棄権60で採択した。
日本では最近また新たに北朝鮮による拉致被害者と認定された女性がいる。
こうした国家的犯罪は実に腹立たしいし、被害者とその家族には強い同情を覚える。
全く北朝鮮には国家としての品格もなければ人権も無いのかと言いたくなる。
しかしふとわが国の外国人に対する扱いを省みると、他国を非難するだけでよいのかと考えさせられる。
外国人就労者の問題だ。
最近では東京の街を1日歩いていて外国語を耳にしない日がほとんどないぐらい巷にはアジア系の外国人があふれているが、その大半は観光客ではない。
新聞やテレビで知る限りでは、合法的な就労者も無論多いのだろうが、不法就労者もしくは違法すれすれの就労者が実に多いらしい。
中にはだまして来日させて研修名目でただ同然の賃金で外国人をこき使っているあくどい企業や団体もあるらしいがそれはひとまずおいておく。
もちろん不法就労者自体に問題は大いにあるのだが、だからと言って彼らを不当な労働条件で働かせている雇用者が許されるわけではないし、国内の労働賃金相場を不法に押し下げるようなことも許されるはずがない。
日本国民であれば保障されるべき最低賃金や労働災害救済などを約束されない外国人就労の実態は、既に何年も前からマスコミがたびたび取上げているのだが、わが国の政府は一貫して不法就労者の国外退去処分以外の対策を考慮しないようだ。
雇用者も不法就労であることを知っているからこそ劣悪な労働条件で働かせているというのにこれではおかしいだろう。
既に外国人労働者無しではやっていけないサービス業者もあるほどになってしまったのにだ。
現状のまま外国人の人権を保障せずに不法就労者が増加し続け、その2世たちまでが日本で成長するようにでもなれば、日本に警察などの国家権力が及ばぬ巨大な裏社会が成立するなどして社会不安の元となることは明らかだ。
そう考えれば外国人の人権を守ることは日本国内の安全を守ることでもあるはずだということに気がつく。
比較するべきことではないかもしれないが、今の政府が本腰をいれて取り組むべきなのは数十人の拉致被害者の人権なのか数十万とも百万以上とも言われる外国人就労者の人権なのか、どちらを守ることが日本の安全につながるのか難しい問題だ。

ブログ「斜真館」
2006.11.11 「悲惨な事故多発、それでも道路整備はもう十分と言えるのか」

小泉前首相が言いっぱなしのまま安倍政権に引き継がれた格好の「道路特定財源」の一般財源化を具体化しようという動きがあるらしい。
これには、@社会福祉財源確保のために推進A道路整備に特定を継続B目的が果たされているのなら減税、と3様の考え方があるようだ。
ところで今年は飲酒運転撲滅がまるで全国キャンペーンのようになっているが、飲酒のためばかりではない悲惨な交通事故も多発していることを国民はどう考えているのだろうか。
それらの多くは道路の狭さ、歩行車道の未分離、曲がり角・カーブの見通しの悪さといった道路事情に原因があることが、事故現場の映像で見て取れる。
地方での就業事情による自家用車利用の発達と、大都市での自転車利用者の増加に、いったい道路整備・駐車場駐輪場の整備が追いついていると言えるのだろうか。
たしかに道路を「作る」のはもう十分かもしれないが、道路の「整備」はまだまだ遅れているのが実情だ。
高級住宅地に住み丸の内や日比谷で仕事をして、道路と言えばほとんど大都会の幹線道路しか利用しないような人種には、一般大衆が日常的に道路を利用して感じている危険など別世界の話だから、「道路整備はもう十分」などとアホなことをのたまうのだろう。
道路特定財源を一般財源化するなど、殺人道路という野獣を野放しにするようなものだが、バカは自分の身内でも犠牲者にならなければ気がつかないのだろう。

漫画クラブのコラム
2006.11.16 「嘘つき教育こそ日本の教育改革の目標か」

11/15衆院教育基本法特別委員会で与党が教育基本法改定案を強行採決に持ち込み、衆議院本会議で可決させてしまった。
審議が長引くほど、タウンミーティングのやらせ問題や教育委員会や学校長が一体となっての全国のイジメ隠蔽問題や高校の未履修問題などの不利な材料がさらに暴き立てられて不利になるからだろう。
政府・文部科学省が悪質なのはこうした問題点を数年前から把握していながら何一つ対策を講じないで、むしろ組織的に隠蔽を容認もしくは推進してきたことにある。
教育改革の推進者こそがまさに大嘘つきだったわけだ。
大嘘つきが提唱する教育改革なのだから、当然教育の現場では「嘘」こそ最善の美徳とされるようになるのだろう。
もっとも、これも日本の現状では当然なのかもしれない。
かつて日本の発展を支えてきた製造業は空洞化し、勤労者の安定雇用は失われる一方で団塊の世代の大量リタイアで労働者の質は見る影もなく低下していく。
技術立国も過去の話となり、今では先端技術産業で韓国に遅れをとる始末だ。
対外収支の黒字も貿易によるものではなく資本収支が支えている。
資源もなく労働の質も技術も低下した日本が成長を維持するものは「口八丁、手八丁」のサービス産業しかないとさえ言われている。
これでは嘘つき教育を推進したくなるのも当然というわけだ。

ブログ「斜真館」
2006.11.16 「自治体の首長を見たら泥棒と思え・・・か」

石原都知事が海外出張名目で2億円以上の官費を使い5年間に15回の海外豪遊をしていたことが明らかになった。
かと思えばほんの数ヶ月の間に福島県知事と和歌山県知事と二人も「談合疑惑」で逮捕された。
それより下の小物の自治体首長でも、あいかわらず今年も汚職だの選挙違反だので逮捕されたり醜聞をまいたりという話題が尽きない。
これというのも日本の地方自治にオンブズマン制度などのようなチェック機能が組み込まれていないせいなのだろうが、もっと大きな原因はやはり住民の「市民意識」の欠如にあるのだろう。
つまり政治・社会への住民参画の意識が不足しているということなのだが、そこまでの意識を持たなくとも、せめて権力が膠着すると腐敗することぐらいは平均的な認識として持っていてもいいだろう。
自治体の首長を見たら泥棒と思って、まず疑いの目で見るようにしよう。

ブログ「斜真館」
2006.11.16 「国民の声を偽装しておいて何が教育改革か」

政府主催の教育改革タウンミーティング(TM)で「やらせ質問」があったことが明らかにされた。
それも政府も「やらせ」があることを承知して開催していたという実にたちの悪い内容だ。
要するに政府は県教委などに国民の声を偽装させていた、ということだ。
「嘘つきは泥棒のはじまり」と昔から言うが、では泥棒の卵たちが日本の教育改革を推進しようとしていたわけか。
小泉前首相が提唱し、安倍現首相が推進している「教育改革」の中身とその裏に秘められたものなど推して知るべしだ。

漫画クラブのコラム
2009.11.22 「野良犬救出生中継というおかしさ」

四国で断崖にさまよいこんだ野良犬を救助するために、11時間も消防隊員が奮闘したらしい。
西欧流の文明国は人間にとって身近な動物を大切にするらしいから、こんな事件で日本も白人国に劣らぬ文明国であることを証明した、ようなもんだ。
保健所によって捕獲され引き取り手がいない場合は扼殺処分されるはずの野犬を救うために消防署が駆り出されたという誠に奇妙な美談だ。
たまたまこの時期にこの地域で火事だの何だのの大騒ぎがなかったのだろうか?
もしそうなら、いろんな意味でこの消防署が野良犬を救出するような暇があって、まことに良かった。
せっかく助けた野良犬の後始末がどうなるのか、そのあたりも報道して欲しいものだ。

ブログ「斜真館」
2006.11.24 「どっちでもいい復党問題」

今年のいわゆる「郵政選挙」で自民党を離党させられた政治家たちの復党問題がマスコミをにぎわせていた。
「復党を認めることは国民に対する裏切り」だとかあれこれやかましい。
自民党が国民の信頼を裏切るのはお家芸のようなものだから、今さら騒ぐほどのことでもないし、そもそもそれほど自民党が国民から信頼されているとも、郵政民営化が支持されているとも思えない。
もともと思想的にも政治的にも考え方も立場もバラバラなくせに、権力の座に近いというだけで烏合の衆が集まった集団なのだから、選挙という戦いの都度、戦国武将よろしく裏切り寝返りを繰り返すのが当然なのだ。
だいたい政権安定のために国会の採決でなんでもかんでも党議拘束すること自体が古臭くもあり非民主主義的でもある。
そういう意味で復党問題なんか国民の大多数にとってはどうでもいいことなのだ。

ブログ「斜真館」
2006.11.24 「都知事が海外出張名目で海外豪遊」

共産党都議団が石原傲慢都知事の過去5年間の海外出張の実態を公表した。
これまでに計19回の海外出張をしており、共産党の調査では、記録が残っている過去5年の15回分で、同行職員分も合わせて出張費の総額は約2億4350万円に及んだ。
というのが主な内容だが、その内で詳細な記録を入手し公表できたものを読むと、出張とは名ばかりで側近と奥さんを連れての豪遊に過ぎなかったとしか思われない。
慎太郎は例によって、自分が差配したわけではないと、まるで自分に責任がないかのように記者団に言ったようだが、本人の意を汲まないで都庁の部下たちが勝手に規定違反の出張を手配するわけがない。
落ち目の流行作家で印税収入も乏しくなり、自民党を離れて政治資金にも事欠くようになったのに、かつての高額所得作家時代の優雅な生活が忘れられなくて、こんな都民への「たかり」のようなことをする羽目になったのだろうが、実にブザマとしか言いようがない。
貧すれば鈍する、とはよく言ったものだ。

漫画クラブのコラム
2006.11.29 「防衛省昇格のついでに自衛軍に改名しては」

今国会で成立するのかどうか分からないが防衛庁を省に格上げする法案を政府が用意しているらしい。
もう既に憲法9条を公然と無視しているのだから、何をどうしようと自衛隊が実質的に軍隊であるという事実が変わるわけではない。
であればいっそこの際、自衛隊の名称も自衛軍に改めてはどうだろう。
ついでに軍隊用語も復活させたらいいのだ。
隊員ではなくて「兵」と呼び、階級呼称も上は元帥から下は二等兵までに変えよう。
もちろん天皇陛下サマが大元帥サマだ。
当然下士官の下級兵に対してのビンタだの新参兵へのシゴキだのも復活することにしよう。
それで、ほんとうにいざ戦争が起きたときに軍隊が日本国民を守ってくれるのならいいじゃないか。
ほんとうにこの国を守る気があるのなら・・・の話だが。

ブログ「斜真館」
2006.12.3 「教員が不足していたのに必修にしていたとは」

高校の未履修問題で2003年度から必修になっていた「情報」の補習をするための教員が全国的に不足しているらしい。
資格を持たない教員に「情報」を教えるために「免許外教科担任」の申請が全国の高校から続出していると言う。
全くあきれた話で、もし今回の未履修問題が明らかにならなければ、必修科目を教えるだけの教員が確保されない高校が全国的で放置されていたという事実も明らかにならなかったわけだ。
足りないはずの教員の補充を要求しなかった学校も悪いが、区域内に必要なだけの教科別の教員が配置されていないことを把握もせずにほったらかしにしていた行政側もあきれた怠慢さだ。
特に公立校側の責任は重い。
子どもたちを育てる側がこれほど無責任でいて、いったいどうして真面目で良識ある卒業生を世に送り出すことができるというのだろう。
かつて教員の聖職者意識を問題にされたことがあったが、教育行政に携わるものたちの職業意識はもっと問題にされる必要があるというものだ。
安倍おぼっちゃま首相の言う「この国を愛する心」がもっとも欠けていたのが、教員よりも生徒よりも行政担当者だったとは実に皮肉な話だ。

ブログ「斜真館」
2006.12.3 「弱いものを傷つけずにいられない、という若者は?」

11月の話だが岡崎市のホームレスの男女が連続して若い男性グループに襲撃され、そのうち女性一人が死んでいたことが報道されていた。
社会の中でもっとも弱い人々を傷つけることがそれほど楽しいことなのか、そうでもしなければいられないほどムシャクシャするような何かを抱えていたのか、或いはそんな深い理由もなくただの気まぐれだったのか。
たとえどんな理由があったにせよ、理解したいとも共感したいとも納得したいとも思えない行為だ。
そんなことにまで「物分りのよいおとな」何ぞにはなりたくないし、物分りのよい社会にしたくもない。

漫画クラブのコラム
2006.12.9 「財界の言うとおりにしていたら景気が良くなるのか」

最近は「週40時間労働制の見直し」だの「残業手当の廃止」だの「派遣社員の直接雇用義務条件の撤廃」だのと企業の業績が回復している割りに、労働条件の引き下げを求める声が財界に強いようだ。
しかし90年代から続いた日本経済の長期低迷の理由についての反省が全くない財界リーダーたちのこんな発言をまともに聞いていたら、日本の将来はますますダメになってしまう。
日本経済がバブル崩壊後の回復にあれほど時間がかかったのは、別に金融業界の不良債権のためでも円安のせいでもなく、国内消費が冷え切ってしまったからではないか。
デパート業界をはじめとする小売業界が何十ヶ月と売上の前年割れを続け、国民全体の購買力の低下を示したのは、直接的な給与所得の低下によるものだけではなく給与所得者の雇用保障を削減して生活不安を煽ったからではないか。
末端の消費を軽視して国際競争力の維持・強化、業界での生き残りばかりに夢中になっていたつけが長期不況になっただけの話ではないか。
有力企業がこぞって労働コストの切り下げに走った結果、国内消費を基盤とする産業全体がお互いの商品の一般的な購買力を失わせることになった。
労働組合の力を失わせて民主党という保守政党の下に組み込むことで、春闘をはじめとする労働者の権利確保の運動を弱体化させて、日本の産業界は自力で不況を脱出する能力を失うほど悪くなった。
かつては旺盛だった国内消費力を衰退させるだけではなく、団塊の世代が一斉に社会の第一線を退く時期を迎えて産業を担う熟練労働力にも事欠く始末になり将来の経済発展の基盤さえ失いつつある。
まったく日本経団連をはじめとする財界団体は何のために存在しているのか。
このまま財界の言うとおりにしていたら日本に22世紀という時代は来ないだろう。

漫画クラブのコラム
2006.12.15 「議員宿舎は独立法人にしよう」

衆議院議員宿舎が新築されて、その家賃の非常識な安さが問題にされている。
一般庶民には高嶺の花の都心の一等地に超豪華マンションのようなものを建てて家賃が9万円ときたら、税金を払うのがバカバカしくなると言うものだ。
問題なのは家賃が安いということではなく国民の税金で俸給を得ている議員がそんな贅沢をして良いのか、ということだから解決方法がないわけではない。
議員宿舎を独立採算の法人にしてしまえば良かったのだ。
新議員宿舎は地上28階建てだそうだが56階建てくらいにして、半分を民間人の賃貸マンションにして、建設費から維持費まで一切合財を家賃収入でまかなうようにすれば良かったのだ。
当然民間人使用部分の家賃は周辺相場よりもむしろ高いものになるだろうが、六本木ヒルズなみの高級一等地を売り物にすれば、「ヒルズ族」に憧れているようなバカなIT長者だのウヌボレとプライドの高い外国為替ディーラーだのの中には喜んで入居したがるようなのが多いだろうから、たぶん入居希望者は殺到することだろう。
なんと言っても議員宿舎ともなればセキュリティにも期待できるから、それだけでも付加価値があると言うものだ。
ついでに議員と民間入居人との交流のサロンでも作って妖しげな官民癒着の場を提供すれば、ゼネコンなどの財界の有力者も喜んで入居することだろう。
こうして国有地を有効活用すれば一般庶民もきっと納得する(かどうかはわからない)。

ブログ「斜真館」
2006.12.16 「イジメはなくならない」

「イジメの防止、根絶には加害者に対する罰も必要だ」などと、何を今さらというような意見が出てきているらしい。
当然だ。
他人の人格や身体を傷つけたり将来を歪めてしまうような行為をしておいて、何食わぬ顔をして大人になったらいっぱしの社会人づらしようだなんて、いくら子どもだからと言って虫がよすぎる。
しかしそうは言っても、罰がイジメの特効薬にはなりそうもない。
むしろ加害者を特定しにくいような陰湿なイジメが増えるだけだろう。
イジメは一種の病気だ。
予防や治療のことばかり議論しても病気はなくなるわけがない。
やはり健全で丈夫な子どもたちを大人たちが育てなければ。
そのためにも、まず大人たちが健全にならなければ、イジメはいつまでたってもなくなりはしないだろう。

漫画クラブのコラム
2006.12.20 「誰が青島都知事を孤立させたのか」

12/20青島幸男元東京都知事が亡くなった。
― 95年の東京都知事選は、最有力だった各党相乗りの官僚出身候補を相手に〜「損得ではない。青島は約束を守れる男か、守れない男か、信義の問題だ」と語り、都民を喝采させた。でも、威勢がよかったのはそこまで。巨大な官僚組織、オール野党の議会、山積する課題を前に、青島色はかすんだ。「官僚の言いなり」「公約違反の無責任男」と厳しい批判を浴び、一時は意欲を見せていた2期目への立候補を断念した。 ―
と、これは朝日新聞が都内版社会面トップで青島氏の死を報じた記事の結びである。
これがいったい30年以上も独自の市民性を盾として既成の政党と戦って、既成権益と癒着もせず、選挙違反もせず、国政都政に貢献してきた人の最後を飾る言葉だろうか。
呆れたことに朝日新聞は一面でも青島氏の死を大きく扱ってその末尾に似たような文言を連ねている。
このこと一つをとっても朝日新聞の良識のなさが分かるというものだが、何より許せないのは、この記事で問題にしている青島氏が都知事として都庁に巣食う既得権の亡者たちと妥協せざるを得なかったということに、朝日新聞をはじめとするマスコミの責任がないとは言えないことにある。
孤立無援の青島都知事をことさら都庁都議会におけるピエロのように書きたてて批判したのは、都民よりもむしろ他ならぬ朝日新聞だったではないか。
記者クラブ優遇をやめて新聞を敵に回した田中康夫元長野県知事のときもそうだったが、結局朝日新聞は既得権者側の立場に立ってしか記事を書いていない。
何はともあれ、不正を行なわず良心に従って30年以上も活動した清潔な政治家の死に贈る言葉として、著しく不適切な文言を社会に流布するようなジャーナリストになんの信頼も置くこともできない。

ブログ「斜真館」
2006.12.22 「自治体の首長の多選を禁止しないのはなぜ?」

官製談合問題に絡んで「知事多選の弊害」があちこちで指摘されているのだが、自治体の首長の多選禁止の実現は難しそうだ。
12/21にも神奈川県議会で松沢知事から提出された多選禁止条例案が自民や公明などの反対で否決された。
多選された首長たちの不正が相次いでいるにもかかわらず全国的にも多選禁止には反対の声が大きいらしい。
反対する知事の意見の中には「1期2期では成果が出ないから。」などと、もっともらしいことを言う奴がいる。
2期と言えば8年間だ。
民間企業だったら8年間も成果を上げられない社長は首が飛ぶどころの騒ぎではないが、自治体というのはそれほど悠長なのか。
それほど悠長だから夕張市のように財政再建団体に落ち込んでしまうようなことが起きるのだろう。
まあ、金もつぎ込み汗水たらしてやっと手にした権力(というより権益)の座に少しでも長く居たいと思うのはごく普通の人情だ。
ごく普通の人情だからこそ法令で禁止しなければ多選の弊害は防げないというものだろう。
国の最高責任者である内閣総理大臣が自民党という一政党の内部事情で長くてもせいぜい5年で交代しているのも随分とおかしな話だが、同じ自民党が自治体の首長ではなるべく長く勤めさせようとしているのはもっと奇妙な話のように思える。

ブログ「斜真館」
2006.12.22 「道路整備は遅れたままでほったらかし」

12/7自動車関連税の一般財源化問題についての自民党と政府との調整は予想どおり自動車使用者にとっては最悪とも言うべき決着となったらしい。
いくつか道路整備を優先するための条件をつけたものの、揮発油税までも近い将来一般財源に組み込むための法制化に合意したというものだ。
国民の意向に沿って一般財源化するのならまだいいのだが、郵政民営化のときとは違って国民の意向がどこにあるのかさえ不明瞭なまま「安倍構造改革政策」の柱として進められるのでは、自動車に依存する事業者や勤労者はたまったものではない。
もっとも問題なのは肝心の道路整備について国としての指針や基準が一向に具体的に明示されないまま、この論議が進んだことだ。
一般財源化の論議以前に、わが国の道路整備の量と質が、欧米先進国との比較や統計資料の分析などによって客観的に十分であるのかという検証を済ませていなければならないのに、道路財源が「余っている」という現象だけで安易に国の財政改革に使ってしまおうという為政者の姿勢の無責任さには呆れるのを通り越して怒りさえ覚えようというものだ。
寒村僻地に必要以上に立派な道路を造ることばかりが道路整備であるかのように言われているが、国の経済力の成長性の確保と国民生活の福祉と安全とを向上させることが道路整備の最も重要な目標であることをマスコミはもっと強調するべきだし、道路財源が現象として余っていることよりも、本当に必要な用途に使われていないことのほうをもっと問題にするべきだろう。
適切な道路整備さえ行なわれていたら、いくら酒酔い運転や脇見運転が事故を招いていると言っても、歩行者まで巻き込むような悲惨な死傷事故が頻発するような事態はもっと抑制できていた筈なのだ。

漫画クラブのコラム
2006.12.24 「国会も独立法人にしよう」

財政危機を唱えながら自分たちの恵まれた処遇についてはだんまりを決め込んでいる国会議員が多い。
国民に痛みを要求しておきながらなんという厚顔無恥な連中だろう、と腹を立てている一般国民はさぞ多いことだろう。
そこで国民の不満を解消させる名案がある。
国会を独立採算制の行政法人にしてしまうのだ。
テレビ中継の放映権も傍聴も有料にし、議事堂内の本会議場と委員会の会議場の壁には広告を掲示する。
もちろん傍聴席は1万人くらいを収容できるようにして入場料を稼ぐ。
ついでに「みずほ衆議院」とか「新日鉄参議院」といった具合に衆議院と参議院の命名権も売ってしまおう。
もちろん国会の維持運営は議員職員の給料も歳費も含めて、国会の上げる収益の範囲で行なうのだ。
各政党はスポンサーと契約してロゴ入りのユニフォームを所属議員に着せることはもちろん、議員個人もF1レーサーのように個人的にスポンサーと契約して、背中や胸や袖やネクタイにスポンサーのロゴを追加してもいいようにする。
つまらない国会討論などをすると入場料(傍聴人)が稼げないから、当然白熱した議論を展開するようになるだろう。
視聴率稼ぎのために時には場外乱闘劇などを演出するのもいいだろう。
無論、国会の審議はテレビ放映と傍聴人の便宜を優先して土曜日曜を中心として行なうのだ。
そうやって自分たちで稼いだ収入を山分けするぶんには、国民から国会議員優遇に対しての不満の声もなくなるというものだ。
まあ、そのぐらいの改革をやってもどうってことないくらい今の日本の国会は愚劣な存在になっている。

ブログ「斜真館」
2006.12.28 「カタカナ語には気をつけよう」

一定の年収以上の会社員を1日8時間の労働時間規制から外し、残業代をなくす「ホワイトカラー・エグゼンプション」について、労働政策審議会(厚生労働相の諮問機関)は12月27日、導入を適当とする報告書をまとめた、との報道があった。
正社員から契約社員・派遣社員への労働力シフトとリストラが進められた結果、今だって既に1日8時間以上労働しているのに残業代がもらえない勤労所得者が無数にいることぐらい常識だ。
「何を今さら」と歯ぎしりする会社員もいるだろうし、「とうとうわが身にも及ぶのか」と恐れおののく会社員もいるだろう。
「実力」とやらで高ポスト高収入を得ている人なら「当然だ」と鼻先でせせら笑うかもしれない。
どちらにせよ「ホワイトカラー・エグゼンプション」で喜ぶ人数よりは嘆く人数のほうが多そうだ。
そう言えば、安倍おぼっちゃま首相がご執心の「教育バウチャー制度」も、抱負として語った「戦後レジームから新たな船出」も、給料一部返上の原因となった「タウンミーティング」もカタカナ語だ。(適当な日本語がちゃんとあるのに)
民間企業のトップはなにかとカタカナ語を使いたがるものだが、政府や自民党も同類らしい。
官でも民でも、もともと保守主義の人間がカタカナ語などを使うときは何か良からぬことが起きる、と思っておいたほうが良さそうだ。

ブログ「斜真館」
2006.12.29 「教育再生会議という茶番劇」

安倍晋三おぼっちゃま総理の目玉政策である教育改革だが、召集された教育再生会議で早くも委員と事務局との対立が鮮明になっているらしい。
だいたい日本の総理大臣のように短い任期中に、教育という大きな課題でまともな結論を出そうということ自体が無茶な話なのだが、安倍総理のシナリオではそうではないようだ。
と言うのも、教育再生会議での紛糾の理由が委員の意見が少しも反映されない原案を事務局がいきなり出してきたことにあるからだそうな。
どうやら小泉構造改革のときの道路公団民営化推進委員会や「やらせ」が明らかになったタウンミーティングと同じように、有識者・国民の声を取り入れたかのように偽装することだけが教育再生会議の目的らしい。
どちらかと言えば自民党寄りの人間主体に選ばれたと思われるメンバーでさえ、憤懣やるかたなしという感想を洩らすほどなのだから、その内情たるや一般国民はおして知るべしだろう。
どうせ最後には国会強行採決という荒っぽいことを平気でやるのなら、もっともらしく諮問会議の類などやらなければいいのに、、、

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