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過去に漫画クラブと漫画クラブ以外にブログなどで書き連ねた「放言」を集めてみました。
的外れのことを書いていたり、予想や妄想が当たってしまったりと、まさに放言ですが、その時代を振り返るのも面白いかと思い、ここに再録することにしました。

−2007年−


日    付 初期掲載
2007.1.6 「恥をかくために就任した総理の座」

発足して丸3ヶ月の安倍内閣だが、佐田行政改革相の辞任についで、今度は松岡農相が出資法違反容疑のNPOの認証に関与、とあいかわらずドタバタ劇が続いている。
外交や教育、財政などの政策面での稚拙さもさることながら、人事面ではわざわざスキャンダラスな事態を招いて政府・自民党の信頼低下を招いている。
この3ヶ月で安倍おぼっちゃま総理がかいた恥と残した汚点を一つ一つ数えていくのが、楽しくなってくるほどだ。
なぜなら、この調子でやってくれれば次の参議院選挙での自民党の惨敗が確実になるからだ。
その先は自民党内で総裁更迭論が沸きあがって、あわれ1年足らずで恥と汚点だけを残して安倍退陣ということになるだろう。
もっとも、これは小泉内閣当時のような民主党のドタバタ&醜聞がこの先に起こらなければ、という前提での話だが。
何はともあれ、本間税調会長辞任について、10分足らずの記者会見で「一身上の都合」を12回も連発するしかないほど『言語能力』の乏しい人物を総理大臣にしておくのは、日本の「恥」と言うものだろう。

漫画クラブのコラム
2007.1.9 「防衛省が発足してどうなるのか」

どうなるのか知らないが、いろいろな見方があるだろうから列記してみたい。
1.この際自衛隊の呼称も国防軍に変えるべきだ。
2.憲法(9条)を早く改正するべきだ。
3.徴兵制を復活したらいい。
4.武官から防衛大臣になれるように憲法を改正しよう。
5.集団的自衛権を行使できるように憲法を改正しよう。
6.防衛関連産業での官民癒着体質が促進されるだろう。
7.周辺国に脅威をもたらして東アジアで日本が孤立化し領海問題が深刻化するだろう。
8.軍備拡大が促進され軍需産業が肥大する一方で国民負担が増すだろう。
9.海外活動の拡大により文民コントロールが次第に利かなくなっていくだろう。
10.戦争への道を突き進むだろう。
見方に過ぎないから、どれが現実的であるのかさっぱり分からないのだが、政治に対して無気力で無関心な大多数の日本国民には、防衛省が発足したからと言って景気が良くなるわけでも悪くなるわけでもなさそうだから、どうだっていいことかもしれない。

ブログ「斜真館」
2007.1.10 「偏狭な愛国心ならごめんこうむる」

まだ新幹線も高速道路もなかった頃、転勤サラリーマンの子ども達は今で言う帰国子女なみの戸惑いを覚えたり差別を受けたりすることが多かった。
たとえばかつて日本で3番目の大都会とされた中部地方のある都市では、東京の公立中学校から転校してきた中学生が、東京の学校で標準とされていた学帽をその都会では「不良」がかぶる形だと言われたり、授業中に標準語のイントネーションで朗読しただけで同級生から嘲笑を浴びせられたりしたものだった。
今ならとても信じられないような話だが白い綿のソックスをはいたり、ワイシャツの袖をまくって学校に行くだけで校則違反の「不良」呼ばわりをされたりもしていた。
その都市ではお国自慢がさかんで、たとえば東京タワーができた後でもわが街の真ん中に立っているテレビ塔こそが日本一立派だと子ども達は信じて疑わなかった。
東京からわずか2・300kmしか離れていない都会であっても、郷土自慢、郷土愛は偏狭でいびつなまでに強かったのだ。
テレビ文明の発達のおかげで日本国中の文化がある程度の共通性を持つようになったので、「お国なまり」の転校生を笑うなどということ自体があってはならない、と言える時代になっているが、かつてはそれが当たり前で学校の教師でさえそれを是認していたのだ。
ところで最近言われているところの「国を愛する」心とか態度の話は、かつての日本の各地域ごとの排他的愛郷心にどこか似ている。
自分の国を愛することが他の国を蔑んだり、ことさらに彼我の差異を強調することに結びついてはならない、ということに異を唱える人は表面上はあまりいないだろう。
だが子どもの頃に偏狭な「愛郷心」に悩まされたことのある人は、今の日本で唱えられている「愛国心」に危惧を感じているのではないだろうか。
ことわっておくが、「愛郷心は偏狭」であるとも「愛国心は偏狭」であるとも言っているのではない。
ただ偏狭な「愛国心」や「愛郷心」は間違いなく存在するし、声高に言われるものほどその傾向が強いということだ。
漫画クラブのコラム
2007.1.18 「返したから無罪放免の自民党品川区議団か」

品川区議会の自民党区議団がスナックなどでの飲食代計769万円を政務調査費から支出したことが違法かどうかが争われた訴訟の控訴審判決が1/17、東京高裁であった。
区議団側が全額を返還したことを受け、東京地裁判決を取り消し原告の区の住民らの請求を棄却した。
結果的には住民側の勝訴なのだが、なんとも後味が悪い。
泥棒が盗んだものを返したから刑務所に入らなくてもいい、なんて話を聞いたら誰だって怒るだろう。
この問題は会計処理上不適切だった、というような性質のものではなく、明らかに公費の使途として認められない私的な遊興飲食にこっそりと公費を使ったのだから横領と見なすべきものだろう。
公務員の横領が発覚した場合はたとえ発覚後に返還したとしても刑罰が適用されるのではないか。
まったく、泥棒になりたくて区議になったような連中に票を投じた選挙民は、とんだバカを見たというものだ。

ブログ「斜真館」
2007.1.18 「学校教育を見直すのはいいけれど」

「教育再生会議」の第1次報告の中でゆとり教育の見直しを取上げ、週5日制も見直すよう提言するらしい。
官庁は週5日しか業務を行なわないし民間企業の週休2日制が定着してきている中で、公務員身分であるはずの公立学校の教員は土曜日も就業せよというのは、どういう感覚なのか不思議な提言だ。
子どもたちに合わせて教員も夏休みなどを取ることで年間ベースで週休2日が確保されるからそれでいいというのだろうか?
就学児童を抱えながら働いている母親たちは、せっかくの土曜休日でも早起きして子どもを学校に行かせなければならない。
「その程度は子を持つ母親として当然」といえる時代は、もう2・30年昔の話だ。
娯楽産業・観光産業はどうなるのだろう。
小中学生を抱える家庭は外出レジャーも子ども中心になるのが普通だから、家族連れの遊楽客は日曜祝日に集中することになるだろうが、それでいいのだろうか。
それでなくとも少子化の影響で家族連れの遊興客自体が減少してきているのにだ。
と言うところで問題は肝心の子どもたちだ。
上昇志向の高い子どもであれば、むしろ進学塾に行く時間が減ることのほうが心配だろう。
理解力が及ばなくて授業に身の入らない子どもたちは拘束時間が増えることでストレスが強まることだろう。
さらに言えば、教科内容を濃くして授業を充実させるためには十分な教員数を確保しなければならないはずだが、国も自治体も赤字体質であるのに教育者の人件費を拡大するだけの予算をしっかり組むことができるのだろうか。
ここで改めて振り返ってみると、ゆとり教育の見直しのために週5日制の見直しが必然なのかという疑問が出てくる。
さて教育再生会議はこうした問題点にどう答えを見出していくのだろう。

ブログ「斜真館」
2007.1.20 「残業代ゼロ法案提出は見送りって、そんなこと当たり前だろう」

残業代ゼロ法と形容された「ホワイトカラー・エグゼンプション」法案の今国会の提出を政府が断念したそうだ。
参議院選挙を控えているのにマズイと、与党内からも反対の声が上がったかららしい。
だが、もともとこんな法案自体がおかしいのだから、当然の結果なのだ。
そもそも雇用者と労働者とで合意が成立すれば、企業単位で特定身分の社員についての残業代を廃止することは可能であるのに、わざわざ法律で定めるということに偏利的な意図があるものといわざるを得ないだろう。
また管理職待遇の適用レベルを下げれば、組合のない(雇用者側にとっての交渉相手のいない)企業でも簡単に残業代ゼロを制度化することが可能だ。
現に大企業の多くは部下を持たない管理職を作ったり、処遇上の管理職と職制上の管理職とを分けたりして、実務上は平社員と同じでありながら残業代ゼロの社員を雇用している。
営業社員にだけ定額の「営業手当」を支給して就業時間管理を行わないというやり方もあるし、フレックス・タイム制度を導入して深夜残業以外は認めないというやり方もある。
であるのに日本経団連がこんな法律の制定を要求するとは、社会全体に責任ある人間としてまともな感覚ではない。
こんなことは個々の企業がそれぞれの組合や従業員代表と協議して、経営上必要であると双方が認めるのならば導入すればいいことなのだ。
れっきとした経営者がまるで子どもみたいに「お国が決めてくれないとボクたちではできないもん」などと言うとしたら笑止千万だ。

漫画クラブのコラム
2007.1.26 「政治家に清潔を求めるのははじめっから無理」

政治家の不正行為の報道が多いのは昔っからだけど、最近は国会議員、知事、区議会議員と立て続けに大小取り混ぜての不正行為が暴き立てられている。
法的に犯罪行為と見なされるものからモラル上の問題まで内容は様々だが、共通しているのは既得権益がらみという点だ。
領収書無しで飲食代を請求するのも、使ってもいない経費を事務所費につけてしまうのも、公費での視察旅行に家族を帯同するのも、公共事業に家族を参画させるのも、前々からそうした慣行があったから後ろめたいという意識もなくてしたことだろう。
談合に加担していたのも業者が守っている自治体の公共事業についての既得権を保護するためと言えるだろう。
しかしよく考えてみれば、こんなことが起きるのも当然だ。
そもそも政治というもの自体の大きな目的が国民間で対立する利害の調整にあるからだ。
既得権益を持つ者と新規に権益を求める者とが対立する場合でも、既得権者同士が争う場合でも、頼る相手は役人か政治家なのだ。
既得権と言っても良いもの悪いものさまざまだが、選挙で誰に投票するかの基準は自分自身の既得権を守ってくれるかどうかが第一だろう。
役人が既得権者の代弁者であることを標榜することによってその職を得るわけにはいかないが、政治家はまさにそうでなければ大概の場合その地位にはつけないのだ。
その意味でまさしく既得権益の権化である政治家が自分自身の既得権をフルに使おうとするのは全く当然のことであるし、自ら既得権を狭めるようなことを好むはずがない。
だからこそ政治に対しての監視の眼は厳しくなければならないのだが、その点この国の多くの人々は自分自身に夕張市のような災厄がふりかかってくるまで、実に甘いようだ。

ブログ「斜真館」
2007.1.27 「大企業は東京から出て行け」

法人2税(法人事業税、法人都民税)の伸びが大きいおかげで、都税収が過去最高を超える見込みだという。
有力大企業の大半が東京に本社を置くものだから豊富な税収入があるので、政府も東京都からこれを掠め取って地方の財政を助けたいらしい。
なにしろ地方は(東京都内の自治体も含めて)夕張市のあとを追いそうな超赤字財政の自治体ばかりだ。
これと言うのも地方経済が建設関連産業に依存しがちなことが大きな要因だろう。
そのために官民癒着の談合体質、過剰公共投資、自治体の借金増加と連鎖的に財政悪化が起きている。
その元をたどると地方に地域経済を支えるだけの産業が育っていないことにたどり着く。
地方発の有力企業でも全国的規模になると本社を東京に移転してきたりするし、しかも生産や原料調達は海外移転させたりするから、ますます地方経済は先細りになる。
欧米諸国ではこんなに首都に有力企業が集中しているのだろうか。
日本人が良く知っているような大企業の本社が、その国の首都や人口最大の都市にない例はけっこう多い。
ちょっとあげるだけでもインテル、ウォルマート、マイクロソフト、ボーイング、デル、フォルクスワーゲン、ダイムラー・ベンツ、ロイヤル・ダッチ・シェル・・・
だったら日本も大企業の本社を地方の都市に置かせて税収を地方に分散させてもよいではないか。
恒久的に法人税を大企業だけ東京は高く地方は低くするか、東京に本社を置く大企業にだけ特例法人税を課すことにすれば良い。
特例法人税ならば登記上の本社だけではなく機能上の本社にも課したらもっと良い。
大企業が移転するというだけで莫大な建設費とその後の安定的な税収入が地方にもたらされるし、東京の過度集中が少しは緩和されるだろうし、こんなにいいことはない。
きっと地方の選挙民は大喜びするから、こんな提案をした政党は国政選挙に勝つのは間違いないことだろう。
大企業を東京から追い出そう。

漫画クラブのコラム
2007.2.1 「自民党の人権軽視の体質は女性蔑視以前の問題」

アホな失言を繰り返して柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言問題が尾を引いているらしい。
女性蔑視だといきまく向きもあるようだが、元々の発言の内容をよく読むと「お国の将来のためにもっと出産を」という主旨のようだ。
自民党の女性差別体質は安倍おぼっちゃま首相の「ジェンダー・フリー」抹殺推進でも明らかで、今に始まったことではないし、それでもアホな女性有権者が見てくれだけで小泉→安倍と支持し続けているのだからしょうがない。
しかし、しょうがないとばかり言ってられないのが自民党の人権軽視の体質だ。
今回の柳沢発言にしても問題の本質は、出産という人間の原始的で崇高な行いを「国」という存在の下に位置づけていることにあるのだ。
女性うんぬんではなく人が子を生す(なす)行為は人の尊厳に関わる行為であって、いかなる場合でも当事者以外の第三者が立ち入るべき問題ではないはずだ。
出産が多すぎて国が貧しくなるのも出産が少なすぎて国が滅びるのも、結局は国が人の尊厳をどれだけ尊重できているかによるだろう。
「国のために産めよ増やせよ」では日本は戦前の昔とちっとも変らないと言われても仕方がない。
柳沢の首を取ればそれでおしまい、というような問題ではなく、自民党の持つ人権軽視の体質をもっと直視しなければ、なにも良くはならない。
なによりも今回もっとも問題にするべきなのは、こういう政治家たちを支持する選挙民がいまだに絶対多数を占めていることなのだ。

ブログ「斜真館」
2007.2.1 「スポーツにアマとプロの区別は必要か?」

かつてアマチュアスポーツとされていた競技の選手たちのプロ化が目立つ時代になった。
芸能・芸術の分野にプロ・アマの区別はある。
芸能・芸術ではトップレベルのプロ・アマが同じ土俵で競うことは極めて限られているのだから、これは当然だ。
しかしスポーツではどうだろう。
トップレベルの競技会ではオープン化が当たり前のようになっている。
となると、もはやトップレベルの競技者にプロ・アマの区別をつける必要がどこにあるのだろう、という疑問が起きてくる。
プロ野球や大相撲のように閉鎖的な一種の「座」を組んで「興行」として競技を行なっているのなら別だが、むしろ今やそうしたスポーツのほうが特異な存在になっているのではないだろうか。
大半のスポーツでは、もはやその競技で「メシ」を食っているかどうか、などでいちいち競技者を区別するような時代ではなくなっているように思われる。
ラグビーでもバスケットボールでも全日本選手権は実業団・クラブ・学生のトップ団体が覇権を争うようになっている。
個人競技であれ団体競技であれ、トップレベルの競技会に参加するほどの選手であれば、プロかアマかを区別したがったり区別されたがったりするような時代ではない、と言えないだろうか。
もちろんこれはあくまでも「トップレベル」に限った話で、甲子園野球にプロ選手が参加してもいいとまで言っているわけではないが、あいにく高校野球選手のほうが「野球留学」とか「特待生制度」のおかげで既に「プロ化」していたりするのは滑稽としか言いようがない。

漫画クラブのコラム
2007.2.8 「”成長力底上げ戦略構想チーム”でどうにかなるのか」

本来、保守中道政党である民主党が政策的に国民に訴えるものがあまりにも少ないものだから、「自民党が日本社会の格差を拡大させた」などと、まるで社会主義政党みたいなことを主張している。
政府・自民党は「格差はどの国にもある。成長によって社会全体の底上げを図ることが望ましい」と心にもないことを言って反論し、内閣府に「成長力底上げ戦略構想チーム」を発足させている。
さて、自民党の言うところの「成長」とはなんだろう?
経済成長のことを言っているのは間違いないのだが、ではその経済成長とはいったいなんだろう。
GDPの拡大を言っているのだろうか?
それとも財界がしきりに言う「国際競争力の拡大」のことなのだろうか?
「経済成長」なるものによって国民生活が全体としては向上する、というのでは昔も昔、1960年に池田勇人内閣がぶちあげた「所得倍増計画」と少しも発想が変っていないではないか。
(40年以上もたったから国民の大半は「所得倍増計画」のことなどもう忘れているか知らないかのどちらかだろう)
なるほどたしかに「所得倍増計画」はそれなりの成果を挙げて日本国民は平均的に豊かにはなったが、日本社会も国際環境も60年頃と今とでは全く事情が違う。
それに「所得倍増計画」にはきちんとしたストーリーができていたが、安倍おぼっちゃま首相率いる政府・自民党は小泉内閣時代の格差拡大を攻撃されたための対抗策として、いわば付焼き刃のように「成長力底上げ」なんて言い出したに過ぎない。
こんな泥縄的なことしかできないような内閣が、このあと1年も持つようなら日本の議会制民主主義の底の浅さがわかろうと言うものだ。

漫画クラブのコラム
2007.2.8 「”成長力底上げ戦略構想チーム”でどうにかなるのか」

本来、保守中道政党である民主党が政策的に国民に訴えるものがあまりにも少ないものだから、「自民党が日本社会の格差を拡大させた」などと、まるで社会主義政党みたいなことを主張している。
政府・自民党は「格差はどの国にもある。成長によって社会全体の底上げを図ることが望ましい」と心にもないことを言って反論し、内閣府に「成長力底上げ戦略構想チーム」を発足させている。
さて、自民党の言うところの「成長」とはなんだろう?
経済成長のことを言っているのは間違いないのだが、ではその経済成長とはいったいなんだろう。
GDPの拡大を言っているのだろうか?
それとも財界がしきりに言う「国際競争力の拡大」のことなのだろうか?
「経済成長」なるものによって国民生活が全体としては向上する、というのでは昔も昔、1960年に池田勇人内閣がぶちあげた「所得倍増計画」と少しも発想が変っていないではないか。
(40年以上もたったから国民の大半は「所得倍増計画」のことなどもう忘れているか、知らないかのどちらかだろう)
なるほどたしかに「所得倍増計画」はそれなりの成果を挙げて日本国民は平均的に豊かにはなったが、日本社会も国際環境も60年頃と今とでは全く事情が違う。
それに「所得倍増計画」にはきちんとしたストーリーができていたが、安倍おぼっちゃま首相率いる政府・自民党は小泉内閣時代の格差拡大を攻撃されたための対抗策として、いわば付焼き刃のように「成長力底上げ」なんて言い出したに過ぎない。
こんな泥縄的なことしかできないような内閣が、このあと1年も持つようなら日本の議会制民主主義の底の浅さがわかろうと言うものだ。

ブログ「斜真館」
2007.2.13 「少子化高齢化を抱き合わせに論じていいのか」

日本の国土の生産力から考えると今の日本の人口が多過ぎるのは誰が見ても明らかだろう。
それなのに食料自給率が低いことを問題にする論者は多いけれど、食糧生産量に対して食料消費量が多過ぎると言う人がいないのはどうしてだろう。
そういう見方があっても良い筈だ。
日本の人口は8000万人くらいが適当だと言う経済専門家もいるらしいが、あまり日本全体の議論はそうではないらしい。
しかしどう考えてもこの国の産業構造の在り方から見て、将来的には日本の人口は逓減していくのが自然だろう。
サービス産業ばかりが発展しても国の経済は成り立たないのだから。
第1次産業、第2次産業の発展が望めないこの国の未来には1億数千万の人口を支えるだけの経済力は無いし、第3次産業でさえ国際競争力では中国・インド等に凌駕されることになるだろう。
となると柳沢大臣のような保守頑迷の輩が何と言おうと少子化はむしろ大いに望ましいのだ。
問題は高齢化のほうだが、高齢化の一番厄介なことは働かない(だから税金を納めない)人間が多くなる半面、公共福祉のコストはどんどん上がっていくという点だ。
しかしこれも社会保険と税金とを区別するから、社会保険が成り立たなくなるなどとバカみたいな議論になるのであって、国民の負担(公共の収入)と受益(公共の支出)という単純な見方で考えれば、社会保険と税金と区別することのほうが、よっぽど不自然なのだ。
公共の支出全体を適切に配分し直せば全く問題はない。
福祉のコストが上がるということは、それだけ福祉事業に関する需要が高まるわけだから、例えば土木建設関連の公共支出が減少しても、日本の社会全体としては経済的損失は無いはずだ。
産業構造が変ればいいだけの話で、いつまでも公共事業といえば土木建設に頼るような時代ではないのだ。
少子化と高齢化を抱き合わせに論じて、いたずらに国民負担の増加が必然であるかのような議論をあおるのは、要するに無駄な公共支出に関与する既得権者たちを保護し、税と社会保険とが分離されていることによって不当な利益を享受している者たちを守ろうとするだけの、いわば「為にする議論」に過ぎないだろう。

ブログ「斜真館」
2007.2.13 「文化を経済性で論じるのは愚かな行為か」

石原慎太郎は東京都知事になったばかりの頃、鈴木元都知事が残した巨大ハコモノ行政の垂れ流している赤字について「文化をコストだけで論じるのはいかがなものか」みたいなことを言って、鈴木元都知事の失政を擁護した。
慎太郎はいちおう小説家であるから文化人の端くれとしては当然のことを言ったつもりだったのかもしれない(善意に解釈しての話だが)。
しかしトーキョーワンダーサイトにまつわる人事や、東京都の文化事業に自身の四男を個人的な意向で関与させたという事件の暴露で、慎太郎の文化の擁護者としてのメッキもすっかり剥げてしまったようだ。
と、ここで都議会の共産党の真似をしてもしょうがないから、そのことはおくとしても「文化をコストで論じる」ことの是非が問題だ。
そもそも一口に文化と言っても公共がコストを負担してでも守るべき文化であるのかどうか、という問題がある。
国民大衆が必要としないがゆえに滅んでいくことが必然である文化というものもあるはずだ。
ごく少数の人が支持するだけの文化を守るために、それに無関心な圧倒的多数の人から集めた税金を次ぎ込むことが許されるのかという問題もあるはずだ。
たとえば東京都庁ビルの周りには奇妙キテレツな巨大オブジェがあしらわれているのだが、あんなものにまで巨額の税金を費やしたことをいったいどれだけの都民が納得するのだろう。
また文化を守るにしても形や器や方法はいくらでもあるだろうが、たとえば江戸東京博物館のような馬鹿げた構造の建造物でなければ、江戸文化を視覚的に残すことができなかったなんて、いったいどれだけの都民が了解するだろう。
「文化を経済性で論じない」のは、たとえば超巨大な金色のウンコを本部のビルのオブジェとしているアサヒビール(浅草の地元民はうんこビルと呼んでいる)のように民間人の仕事で、政治家の考えるべきことではない、とまで言ったら言い過ぎになるだろうか。

ブログ「斜真館」
2007.2.15 「なりますは板橋区にあれば十分だ」

接客業界の「マニュアル語」の弊害が言われるようになってから久しいが、一向に改まらないどころか、むしろ一般的に広まる傾向にあるようだ。
そのもっとも目立つ例が「・・・になります」というやつだ。
なにしろ請求金額を告げるときでも、注文を繰り返すときでも、注文の品物を出すときでも、場所を案内するときでも、みんな「・・・になります」と語尾につければいいと思っているらしいから始末が悪い。
たぶん「おこしになります」とか「おいでになります」といった動詞の敬語表現の誤用が広まってしまったのだろうが、本来は「・・・でございます」と言うべきもので、「・・・(名詞)になります」では敬語にならない。
面白いことに「ございます」という言い回しは、最近では「おはようございます」と「ありがとうございます」以外にはめったに耳にすることがない。
「ございます」と語尾につけるのは相手にへりくだりすぎているようで嫌われているのだろうかとさえ思われるくらいだ。
そう言えば芸能界や水商売では昼でも夜でも「おはようございます」と挨拶をするのも、「こんにちは」「こんばんは」では「ございます」がつかないから相手に失礼だ、とでも思われているからなのだろうか。
そんな風に考えると「マニュアル語」というやつは、お客に対してあまりへりくだりたくないけれど、うわべだけはへりくだっているように思わせるための用語なのかと納得してしまう。
漫画クラブのコラム
2007.2.19 「都知事選は事実上の不戦勝か」

前宮城県知事の浅野史郎氏が民主党からの要請も市民団体からの要請も断わって、都知事選に出る意志がないことを明言した。
支持率の低調な民主党に推されても当選はおぼつかないから、この判断自体は正しいと言えるだろう。
ただ報道の中に「出馬する状況にない」という主旨の浅野氏のコメントがあるのが気になった。
これは男として卑怯未練な言い訳だろう。
正直に「自分では石原氏に勝てない」と言うべきだ。
それはそうとして選挙公示までもう幾日もないのに、民主党は全く慎太郎ファシスト知事に対抗できる候補者を人選できないでいる。
実際の勝ち負けはともかく、ここできっちりとした対抗馬が出せないようでは、夏の参議院選挙で不利になることは間違いないだろう。
なにより国民は今の民主党の主体性のなさ、統率力と一貫性のなさにウンザリしているのだから。
たとえ慎太郎の支持者であっても、今のような状況で都知事選が事実上の慎太郎の不戦勝になってもいいとは思わないのではなかろうか。

ブログ「斜真館」
2007.2.19 「ハコモノ行政の代わりにイベント行政か」

第1回東京マラソンがにぎにぎしく開催され新聞テレビなどでは概ね好意的に報道していたようだ。
テレビ中継を見ているとランナーと言うよりは単なるお祭騒ぎが好きなだけとしか思えない多数の一般人がへらへらと笑いながら走るでもなく歩くでもなくダラダラと行進していた。
自分で走ることには興味がないので、あんなへらへらした連中のために数千人の警察官を動員し7時間も都心に交通規制をかけていたのかと思うと、ムカムカしてしまった。
しかしそれ以上にむかついたのは石原慎太郎による都政の私物化だ。
既に歴史を築いてきた東京国際マラソンというレースを、ほとんど個人的な一存で時期も名称も内容も変えさせてしまったのだが、市民参加という意義以外にいったいどれほどの大義名分が認められるというのだろう。
東京オリンピック招致のためでもあるとも言われているが、トウキョーワンダーサイトと言い、実にイベントの好きな都知事殿であることだ。
諸方面からの反対があって実現こそしていないが、これら以外にも臨海副都心にカジノ創設とか、東京ドームで競輪開催とか提案していた。
結局のところ鈴木都政時代のようなハコモノ行政を推進できない代わりにイベント行政を進めているだけのことではないか。
鈴木元都知事がゼネコンなどとの官民癒着で財源バラ播き行政を推し進めたように、慎太郎もマスメディアやイベント産業との官民癒着を図っているのだろうが、その美味しい果実を口に入れるためには次の都知事選で三選を果たしたいというわけだ。
あいにく有力な対抗馬がいないし、民主党なんかはハジメっから腰が引けているから慎太郎の思惑どおりになることだろう。

ブログ「斜真館」
2007.2.27 「憲法違反を争点にすることの是非」

日野市立小学校の入学式で「君が代」のピアノ伴奏を拒否して戒告処分を受けた音楽教諭が、都教委に処分取り消しを求めた訴訟の上告審において、最高裁小法廷は2/27「職務命令は合憲」との初判断を示し、教諭側の上告を棄却。教諭の敗訴が確定した。
例の公立校式典における「君が代」「日の丸」強要問題の一つなのだが、まあはじめから結論が分かっているようなものだった。
だいたい国が定めた方針に従って学校責任者が下した命令が憲法違反かどうか、なんて争うこと自体が間違っていたのだ。
職務命令で「内心の自由」を侵されるとか主張しなければ良かったのだ。
たかが式典のピアノ伴奏を断わったぐらいの取るに足らないことが、懲戒処分に値するほどの重大な職務違反だったのか、を争うべきだったのだ。
そうであれば、裁判の結果もまた違っていたはずだろうし、だいいちたかが「君が代」ごときを伴奏する命令くらいで、内心の自由だの思想信条の自由を侵された、などと軽々しく言って欲しくない。
その程度の個人の自由などは「志が低い」と言えなくもない。
今のアホウな教育委員会を相手に子どもの喧嘩みたいなことをして、もっと大切な子どもたちに「教育者としての自分の志を伝える」ことができなくなることのほうが、よっぽど馬鹿げている。

ブログ「斜真館」
2007.3.2 「年金受給者激増の時代は不幸か」

リタイアを迎える団塊の世代は堂々と年金生活を享受しよう。
日本の年金制度が後の世代が古い世代の人たちの年金生活を保障する形になっていることは事実なのだが、しかし年金制度の本旨はあくまでも老後の生活保障の基金を自分で積み立てることにある。
後の世代の負担が重くなっているというのは、今の年金制度を創設したときの姑息なやり方を改善する努力を国が怠っていたからだし、たまたま今の日本の年齢別人口構成と経済成長がそのような結果を招いているだけのことで、時代が変わればまた異なる理由で問題を起こすことを繰り返すだけだろう。
(そうならないためには、選挙民全体が政治にもっと関心を持たなければ、、、)
政策上のことを抜きにすれば、年金受給者は言ってみれば過去の蓄えを取り崩して消費するだけの存在。
流通小売業、レジャー産業などの第3次産業にとっては願ってもないお客さまだ。
しかも今や日本の労働者の大半は第3次産業の従事者なのだから、現役世代の収入源の多くを年金生活者の財布が担うことになるという現実は否定しようがない。
だからリタイアを迎える団塊の世代が現役世代に「年金保険料の負担が重い」などと恨みがましいことを言われる筋合いなんてない。
堂々と年金生活を享受しよう(享受できるほどの年金を受け取れる人たちは幸せなほうなのだが)。

ブログ「斜真館」
2007.3.4 「定年後は家事をする」

「2007年問題」とか命名して団塊の世代のサラリーマンが大量に定年を迎えることをマスメディアが面白おかしく取上げています。
そもそもわれわれベビーブーマーのことを「団塊の世代」とひとっくくりにしてしまうような呼び方が気に入りません。
「少子化高齢化時代を迎えて大量のお荷物世代ができる」から迷惑だとか、「技術の伝承が絶える」から困るとか、勝手なことを言う識者もいます。
金融機関は莫大に支払われる退職金を目当てに、あの手この手で「老後の生活設計」のためとか称して各種の金融商品を売り込んでいます。
団塊の世代のヒマと金を目当てにレジャー産業も健康産業も、実にうっとうしいほどマス宣伝だの折り込みチラシだのを投入しています。
もういい加減にして欲しいといった感じです。
「第2の人生をどうするか、なんて人のことはほっといてくれ」と言いたくなります。
テレビの取上げ方もステレオタイプなものばかりだから、新橋の駅前などで会社帰りに一杯やって酔っ払った団塊サラリーマンをつかまえて「定年後をどうするつもりですか」なんてバカな質問をします。
本当はもっといろいろな回答があるはずなのに「何も考えてない」とか「まだ働きたい」とか「奥さんと旅行でもしたい」などと答える映像ばかり流したりしています。
ただ、そんな中にひとつだけ気に入ったものがありました。
「奥さんにまかせるだけだった家事を自分もする」と答えた人がいたのです。
暇のつぶし方や経済的な不安や自分の健康面のことなどを語りがちな中にあって、家の中で自分が何がするべきかを口にできるというのには共感しました。

漫画クラブの不定期日記
2007.3.6 「子どもにもっと学ばせろ」

安倍おぼっちゃま首相などに言われなくとも、日本の教育をどうにかしなくてはならないことぐらい国民の多くは感じているだろう。
「いじめ問題」にしても教育そのものはともかく教育体制の在り方に原因の一端がありそうだ。
しかし今議論の対象とされている「ゆとり教育」や「総合学習」や「受験偏重」はたまた「教員の資質」よりももっと重要な教育の問題点がある。
今の子どもは勉強が足りないのではないだろうか。
そう言うと「これ以上子どもを抑圧するのか」と猛烈に非難されそうだが、よく考えて欲しい。
教育(学問と呼んでもいい)は時代が必要とするものを踏まえているはずだが、今の日本の学校教育は現代の情報発達と技術進歩の社会的背景を踏まえているものだろうか。
子どもたちに多くの知識と教養を習得させることが、たとえどれほど過酷であるとしても、習得しないまま現代社会に放り出されることのほうが、むしろ不幸な将来を与えることになるのではなかろうか。
現代人の多くは仕事の量や忙しさ以上に、ただ社会生活を営んでいるだけでストレス過多になっていると言われているが、ストレス過多の原因のひとつに現代人が昔の人とは違う知識・情報の過大な流量にさらされていることをあげられるだろう。
そう考えれば、もっと大人になったときに必要とされるものを身につけさせるべきであるのに、おざなりに旧い教育だけを与えて若者を社会に送り出してきた結果が、今の荒廃した日本の世相を作り出したと言えないだろうか。
昔とは比較にならないほど幅広く深く多大な知識・情報をこなしていけるだけの人を育てるような教育を与えるのは、国などの公共と親たちの当然の責務だろう。
今の子どもたちの進学偏重の勉強は極端な言い方をすれば、大昔の子どもたちがメンコやビーダマやベーゴマに勝つために払った工夫や努力と大して変らない。
しょせん同年代の中の競争に勝つだけのためのものでしかない。
そんなものは勉強でも学問でもない。
ひとりの大人として社会の中で生きていくために必要なことを身につけることが勉強であり学問であるはずだ。
だから、今の子どもたちはもっと「勉強」する必要がある。
ゲームだのケータイ・メールだのにイジメだのにうつつをぬかしている暇があったら、もっと学べ。

ブログ「斜真館」
2007.3.10 「大企業に雇用水準維持の義務感なし、でいいのか」

自社さえ良ければこの国がどうなってもかまわない、という企業が一向に減らないと思わせる報道があった。
3/10の報道で、松下電器産業がグループ企業も含め5000人規模の人員削減を計画していることが明らかになった、とある。
なんでも、「コスト削減のために利益率が低い製品を人件費が安い中国など海外生産にシフトしており、人員の余剰感が高まっていた。早期退職の希望者を募ることで削減するが、リストラ原資を用意しやすい好況時にスリム化し、収益力の向上を図る狙いがある。」のだそうだ。
ということはつまり、不況時だけでは飽き足らず、好況時にも人減らしをしておこうということか。
それほどまでに企業としての利益と存続だけが大切なら、いっそ会社そのものも経営者たちの居住もタックス・ヘイブンの国にでも移せばいいだろう。
何も日本という国に執着しなくてもいいだろう。
日本という国に存在して、何万何百万何千万という日本人の従業員、株主、愛用者のおかげで、企業として存続しているのであれば、この国の社会に対しての責任というものがあるはずだろうが、そんなものは関係ないと言うのであれば、とっととこの国を出て行けばいい。
これは何も松下だけでなく、偽装請負という違法行為が明るみに出ても依然として企業姿勢を改めないキャノンのような企業に対しても言えることだ。

ブログ「斜真館」
2007.3.14 「ケータイは18禁にしよう」

子どもたちからケータイ(携帯電話)を取上げよう、と提案したら、今どきの親たちは猛反対するだろうか、それとも大賛成するだろうか。
なぜケータイを子どもたち(少年)から取上げる必要があるのか、というご意見があるのなら、その前に逆に質問したいのだが、なぜ子どもたちにケータイを持たせる必要があるのだ。
たぶん、誰にも「絶対に」必要だと言うだけの根拠はないだろう。
筆記具でもノートでも教科書でもお金でも、まして弁当でもないものを、毎日子どもたちが学校に持って行く必要が、いったいどこにあると言うのだ。
いや、家に居たって同じことだ。
と、ここまで極端なことは置いとくにしても、ケータイを持つことの害が十分に議論されないまま子どもたちにまで放縦に与えてしまったことには大いに問題がある。
「ケータイ依存症」と呼ぶものまでいるケータイなしでは1日として過ごすことのできない若者たちの存在、出会い系サイトでの少女漁りをやめない大人の男たちの存在、教室内外での行為からケータイを通じての行為がイジメの問題を根深くしている現象、どれひとつとっても、ケータイの携帯(言葉としてはおかしいが)に問題なしとはできない筈だ。
ひるがえって考えてみよう。
大人たちには許されても、未成年に有害とされているものは法律的に禁止されているではないか。
飲酒、喫煙、ギャンブル、R指定映画。
ケータイの持つ麻薬性は誰が見ても明らかなのに、これを問題にしないのは今の大人たちの子どもたちに対する無責任さゆえだろう。
時代遅れと言わば言え。
それでもやはり、子どもがケータイを持つ必要なんかない。

ブログ「斜真館」
2007.3.18

「ホリエモンに味方するわけではないけれど」

東京地裁の実刑判決には驚きました。
この種の経済事犯で実刑判決が出ることは極めて異例だし、老舗企業の有力財界人の場合のこれまでの例に比べて、著しく重い刑罰のように思えたからです。
やはり30代の若さで「権威」にたてついたから見せしめにされたのでしょうか?
それにしても無罪を主張している被告に対して、裁判長が付け足した説諭というのが滑稽です。
いったいいつから日本の裁判官は桃太郎侍気取りの正義の味方になったのだろうと思いました。
やはり裁判官はあくまでも法の番人であって、良くも悪くも公平でなければならないと思いますし、自身が有罪と断定したからといって勧善懲悪ドラマの主人公のように振舞ってはダメでしょう。
こんなだから「それでもボクはやってない」という映画が作られたりもするのでしょう。

漫画クラブの不定期日記
2007.3.20 「女性の再婚禁止期間は必要か」

4/4の報道に、自民党の法務部会と民法772条見直しプロジェクトチームは、女性の再婚禁止期間を現行の離婚後180日から100日に短縮する民法改正案の今国会提出を了承した、とあった。
しかし党内に慎重論もあるらしくて、そう簡単には民法改正と行くかどうかは分からないそうだ。
そもそも女性だけに再婚禁止期間があること自体がおかしいのに、期間短縮にさえ横槍を入れようという自民党の体質はいったいどう評すればいいのだ。
同じく民法の、女性が離婚後300日以内に出産した子は前夫の子とするという規定とともに、父性推定の混乱を防ぐ目的によるものとされているのだが、この法律ができた当時には「推定」できないとされているものが今はそうではない。
DNA鑑定というほぼ確実な父性証明の方法がある。
なにより前夫と現夫と妻とで合意することが最も出生児のためになると思われるのだが、そのような話し合いさえ法律で認めないことのほうが、よっぽど公序良俗に反するというものだろう。
そう考えていくと、自民党の政治家には頭の中身が前世紀どころか前々世紀から大して進歩していないのがいるように思える。

ブログ「斜真館」
2007.3.31 「都教委の反君が代教員処罰は誰のためにやっているのか」

3/31に都知事選を目前にして今年はあまり刺激的なことを控えるかと思っていたが、あいかわらず都教委は今年の公立校卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったなどとして、教員35人を懲戒処分したとの報道があった。
都教委には慎太郎の再選の確信があったのだろう。
ところで今回の処罰の中で気になったのは「今回初めてだった20人が戒告」という点だ。
毎年処罰が繰り返されているにもかかわらず、今年初めて都教委の命令に反する教員が20人も出ている、というこの現実をいったい教育行政の幹部はどう考えるのだろう。
一番問題なのは、子どもたちに「公」に従わないものは罰せられるという脅迫を与えていることだろう。
都教委は公的な指示命令に服さないから処罰するのは正当であるという立場をとっているようだが、こんなことは単なるうわべだけの理屈であることぐらい子どもでも分かる。
「君が代」「日の丸」に敬意を払わなかったから処罰したのだ。
教員を見せしめにして、恐怖でこどもたちに「君が代」「日の丸」に敬意を払わせようとすることが都教委の狙いであることぐらい、子どもでも分かる。
さもなくば、たかが歌と旗ぐらいの問題で「処分」「処罰」と大人げなく大騒ぎする理由がないというものだ。
せいぜい校長が「まあいいかげんしとけや」と言えばそれで済む程度の規律違反に過ぎない。
別に右翼でも保守でもこの際どんな思想的な背景があろうとかまわないが、都教委もせめていいかげんで大人になって欲しいものだ。

ブログ「斜真館」
2007.3.31 「また国が歴史改ざんか」

文部科学省が3/30に公表した06年度の教科書検定で、地理歴史・公民では、沖縄戦の集団自決をめぐって、「日本軍に強いられた」という内容に対し修正を求める意見が初めてついたことが分かった。
強制性を否定する資料や証言を根拠に、従来の判断基準を変えたためだそうだ。
今さらどんな証言が出てこようが、集団自決の手段に日本軍から渡された手榴弾などが使用された事実は変えようがないし、非戦闘員が手榴弾を渡されたということは戦闘か自決のどちらかしか意味していないことぐらい議論の余地もない。
ことさらに言葉の定義を厳密にして日本軍=日本政府の責任をあいまいにしようという姑息なやり方は、「従軍慰安婦問題」における安倍おぼっちゃま首相の態度に通じるものがある。
おそらくおぼっちゃま首相の意向を反映してのことだろう。
既に起きてしまった歴史を変えることはできないのに、人の見聞きする「歴史」を変えようとする。
こんなことが「戦後レジームからの脱却」の本質なのか。

ブログ「斜真館」
2007.4.5 「農業が地球に優しいというのは単純すぎる」

最近サラリーマンだった人がリタイア後に田舎で農業を始める例が多いらしい。
離農傾向が続く中で、逆に農業を見直す人々が多くなっていることは、たいへん喜ばしい。
ただ一つ気になることがある。
メディアや物書きがそれを取上げるときに、まるで農業回帰が地球環境保全・自然保護に沿うがごとき礼賛をしていることが多い点だ。
なるほどたしかに一部にはそうした傾向もなくはない。
自然が保護されないと農業も成り立たないような場合はそうだ。
しかし地球全体から見たら農業は決して地球に優しくはない。
農地よりも原野、原生林のほうがはるかに土にも空気にも水にも生き物にも優しい。
それどころか時に農業は自然を破壊・改造しなければ成り立たない。
自然河川を改修し、灌漑用水を引き、土地を平らに切りならし、林野を切り開き、雑草と呼び捨てられている植物を絶やし、害虫と見なした虫たちを殺し、牧草によって他の植物を排斥し、ハウス栽培のために大量の炭酸ガスを産み出し、畜産動物の排泄物とおならとゲップによって温暖化の原因となるメタンを大量に放出してもいる。
日本人が原風景だと思っている緑溢れる田畑の広がりにしても、すべて自然の地形を切り開いた人工物で、単に昔から続いていたから、それこそが自然風景だと思い込んでいるにすぎない。
たしかに地球規模で考えれば、アジアやアフリカで農地が砂漠化していることは大問題だし、日本でも一体となっていた山と農地との保全が崩れているのは大いに問題だ。
だが今、帰農をすすめるのであれば、自然破壊型農業ではないほうが望ましいことだけは強調しておきたいところだ。

ブログ「斜真館」
2007.4.5 「赤ちゃんポストを古い家族観で考えてもどうにもならない」

4/5、熊本市の慈恵病院が提出していた「赤ちゃんポスト」の設置申請について、市が許可することを」決めた、との報道があった。
安倍おぼっちゃま首相は、これに対して不快感を表明しているとのことらしい。
そりゃそうだろう、日本国民の下層階級を労働力という単なる資源としてしか見ていないような連中にとって、子どもを育てられない人たちが育児放棄するのは当たり前、という社会的風潮でもできたらとんでもないことだろうから。
今の政財界人の多くが経済の活性化のためには社会的格差の拡大は当然で、再チャレンジの機会さえ与えれば問題はないなどと考えているようだが、そんな発想がいったいどこから出ているのかと言えば、要するに国民一人ひとりの人としての尊厳を守る気持ちがないからだろう。
人の尊厳を守る立場であれば、個々にハンデの差があろうと競争に敗れる者が出るのは致し方ない、などと平然とうそぶけるはずがない。
人として認められない国民は、国(と言うよりは力を持つもの)にとってただの資源でしかない。
資源でありながら役に立たない無価値資源がこれ以上増えるのは許せないのだろう。
安倍おぼっちゃま首相はそんな思想を「美しい国」とかで化粧して不可視にしているが、美しい国の古い家族観では「棄児」問題は解決できっこないことぐらい、今の世の中をよく見ていれば分かりそうなものだ。

ブログ「斜真館」
2007.4.13 「今さら温家宝首相の演説など聴けない小泉」

来日した中国の温家宝首相が4/12に国会で演説した時、小泉元首相は欠席していたそうだ。
首相在任中にあれほど歴史問題でケンカ腰だっただけに、この欠席についてもさもありなんとも思える。
しかし欠席した事情はどうあれ「やっぱり小泉のすることは大人げない」と評する向きもさぞ多いことだろうから、ここは何食わぬ顔の君子を気取って出席して拍手の一つぐらいしておくべきだった。
さもないと諸外国の一般市民から日本という国は実に子どもじみた性格の首相が人気を集める不思議な国だと思われてしまう。

ブログ「斜真館」
2007.4.13 「キャノン商法は悪徳か」

キャノンをはじめとするパソコン用のプリンターの価格は、その優れた機能からすると驚くほど低価格だ。
その代わりにインクは(メーカー純正プリント用紙もそうだが)高価格で、ヘビーユーザーにはバカにならないコストがかかる。
これを悪徳商法と評する向きもある。
だがよく考えると、インクを大量に消耗するということは、それだけプリンターを使用しているわけだから、プリンターの使用価値は高いということになる。
その反対にめったにインクの交換を必要としないようなユーザーにとっては、プリンターの使用価値は低いのだから、プリンター単体の価格は低くて当然だ。
となるとユーザーにとっての使用価値を反映した商品価格構成としては適正と考えるべきだろう。
キャノンなどのメーカー自身がそこまでのことを意識しているとまでは考えにくいが、モノの価値と価格のバランスという点ではキャノン商法を悪徳と決めつけるのはむずかしい。
さて商売のやり方は悪徳ではないとして、キャノンにはもう一つ偽装請負という「悪徳雇用法」の問題が残っている。
こちらのほうは告発後も姑息な対応に終始しているようで、挙句の果てに現状に合わせて法律を変えるべきだとまで主張している。
こそ泥が警察に捕まった後で「盗むことを法律で禁止するのがおかしい」などと言ったって通用しないだろう。
盗っ人の開き直りみたいなまねは日本のトップ企業としては、かなり恥ずかしい。

ブログ「斜真館」
2007.4.13 「改憲ギャップを埋める有権者はどうするのか」

4/12の衆議院特別委を通過したことで国民投票法の今国会の成立は確実になり、いよいよ自民党は改憲に向けての既成事実を積み重ね始めた。
今の国政選挙の仕組みでは有力政党は有権者の過半数をちょっと超えただけでも、うまくすれば国会の議席の3分の2以上を占めることは可能だ。
ということは、有権者はこれからの国政選挙では常に「改憲」を念頭において投票する必要があるということだ。
まして、現憲法を支持するが政党は自民党公明党支持という国民は、よくよく考えないと自分の一票が「改憲賛成」の一票に直結することになる現実に目をつむることになるのだ。

ブログ「斜真館」
2007.4.22 「アメリカ人はともかくアメリカという国家はバカか」

アメリカという国家はバカか、と改めて思わせられたのが、4月にバージニア工科大学で起きた銃乱射事件だ。
ご丁寧に事件の直後に銃規制反対の団体が「大学が学内への銃持込を禁止していたから多くの犠牲者が出た」という主旨の声明を出したりして、それにあおられたのかどうか、護身用の銃を買い求める人が増加したのだそうだ。
全米ライフル協会という巨大な圧力団体と銃器製造・販売業者はこの手の事件が起きるたびに、銃さえ持っていれば反撃して身を守れると主張しているが、一般人が携帯用の小型拳銃で正しく加害者の攻撃能力を奪うことができるか、など実に疑わしい。
なまじな反撃をして、周囲の人を流れ弾で傷つけるのがオチだろう。
狂気で乱射する加害者は標的が近くである必要はないが、標的側が小型銃で確実な反撃を与えるためには至近距離で発砲しなければならないからだ。
今回の事件では凶器はたまたま拳銃だったが、過去の多くの類似事件で使われているライフル銃には護身用の拳銃で太刀打ちできるわけがない。
しかしそんな理屈はどうでもいい。
年間3万人(実にアメリカ人の1万人に1人以上)が銃で死んでいるのに、圧力団体とロビイストのおかげでアメリカの政治家と役人は手をこまねいているだけだ。
これでは単なるバカの集まりに思われてもしょうがない。
他の先進国の銃犯罪状態と比較することもできないくらいの知能水準なら、バカとしか言いようがない。
ところで「なまじな反撃をして、周囲の人を流れ弾で傷つけるのがオチ」というのはイラクやアフガニスタンへのアメリカの軍事行動を思い出させる話だ。

ブログ「斜真館」
2007.4.22 「日本の地方自治の実態は単なる国の事業の肩代わり」

06年度の東京都のある自治体の年度予算を見ると、一般会計の歳出約732億円の内の42%を民生費が占めていた。
民生費とは,地域住民の中で所得あるいは医療保障等を必要とする人に対し、一定の生活水準の維持ないしは向上を目的として計上された経費で、老人福祉費生活保護等、一般的には福祉費用とされているものだ。
ところで福祉にはこの他に健康保険や年金といったものがあるが、こちらは一般会計ではなく特別会計とされており、この自治体の場合は同年度の予算は466億円だった。
この自治体の会計トータルで見ると、歳出の実に65%弱を福祉関係費用で占めている。
しかもこの自治体は全国平均で見れば、住民所得水準が高く現役世代の多いほうだ。
ここで改めて考えてみると、国民の福祉というものは自治体に責任のあるものだろうかという疑問がわいてくる。
福祉費用を必要とする住民が多いことは、その自治体の責任なのだろうか。
明らかに国民の福祉は国の責務であり、福祉事業は単に自治体が実行者としての役割を与えられているのに過ぎない。
ところが現在問題になっている地方自治の拡大や自治体権限の拡大と財源の移譲では、この点について深く論じているものがあまり見当たらない。
これはどう考えてもおかしいだろう。
立派な文化施設や健康促進施設や道路や橋をどれだけ必要としているのかは、たしかに自治体によって事情が違うから、自治体に権限も財源も移譲するのが当然だろう。
だが国民の生活水準・医療水準に自治体による較差があっていいものだろうか。
国民の命や健康の重みが住んでいる地域によって差があっていいものだろうか。
そう考えると、自治体の予算の3分の2を福祉が占めるというのは、どう考えてもまともではない。
予算の3分の2、ということは自治体の事業の3分の2を国が行なうべき事業が占めているということなのだから・・・。
このような地方自治を「自治」と呼べるものなのかという議論を置いて、福祉財源のために消費税率を上げようとするような、そんな歪んだ国と自治体の事業のあり方を、国民全体が今まで放置しておいたことを反省してみる必要があるだろう。

ブログ「斜真館」
2007.5.10 「よってたかって高野連を悪者にすればそれで済むのか」

野球特待生問題で高野連がとうとう緩和措置に踏み切ることになった。
高校野球ファン・マスコミから袋叩きのようにされた挙句に、現状に歩み寄った形だ。
もちろん高野連に問題がなかったわけではないし、緩和措置で今回明らかにされた問題が抜本的に解決されるわけでもない。
だが本当に問題にされるべきなのは高野連の態度なのだろうか。
高校野球界のスポーツ特待生の存在など、マスコミ界いや高校野球関係者にとっては周知の事実ではなかったのか。
知っていながらあえて誰も問題提起しようともしなかっただけなのではないのか。
「日本学生野球憲章」なるものがあまりにも時代離れした非現実的なものだから、そんなものに違反していようといまいとどうでもいいと思って無視してきただけではないのか。
今年、プロ野球界のプロアマ協定違反行為が発覚して、プロ球界にもの申したのはいいが、プロ野球側(とそのシンパのマスコミ)からのしっぺ返しで高校野球側のアマ精神違反を暴かれて、ヤブヘビになったのは高野連のほうだった、というのが結局今回の縮図だろう。
臭いものにフタをしていたのは高野連よりも、むしろNHKと大新聞を中心としたマスコミのほうだったのに、今はまるで高野連ひとりが悪者であるかのような大合唱だ。
(語弊があるのは承知の上であえて言わせてもらえば)たかが「子どものボール遊び」を国民的行事か何かのようにしてしまったイビツさに本当の問題があったのにだ。

ブログ「斜真館」
2007.5.10 「まず改憲ありき、はおかしい」

とりあえず国会で「改憲」の手続法を定めるために国民投票法を成立させたのは、まあいいとしよう。
「憲法変更」の必要があるのにその手続きが定められていないのはおかしいという言い分も、いちおう正しいとしよう。
しかし、どうにもおかしい議論がまかり通っているのに、それが指摘されないのはどういうわけだ。
@今の憲法は押し付け憲法だというが、今の憲法案は大日本帝国憲法にのっとって帝国議会(衆議院)および枢密院で可決して成立した憲法だ。
手続き上は国の代表がきめたものであって、占領軍によって交付されたものではない。
これを押し付け憲法と呼ぶのであれば、当時の衆議院議員と枢密院議員を占領軍の言いなりになった売国奴と呼ばなければならないだろうが、どうしてそのことには押し付け憲法と呼びたがる連中は触れないのだろうか。
A諸外国では時代に合わせて憲法はたびたび改正されているのに日本の憲法が半世紀以上も手を加えられないのはおかしいというが、そもそも諸外国の憲法の成立自体が2・3世紀も遥か昔であったりしているのだから、近代化に従ってほころびが次々に出てくるのは当たり前だ。
それに比べると日本の憲法は20世紀の近代的な人権論や国の責任論や平和論を当初から織り込んで設計されているのに、いったいどうして18世紀に成立したアメリカ合衆国憲法などのように民主共和制の萌芽期に成立した憲法と一緒くたにできるのだろうか。
こんな些細なことよりも、憲法変更が必要なのかどうかは、あくまでも憲法の条文の条項一つひとつについての是非を論じてからにするべきだろう。
今の民法は日本国憲法の成立にあわせて改正されたとは言え、明治時代に成立したもので、基本的な精神において今の憲法の定める人権の考え方に沿って作られたものではないが、そのことを理由に「民法改正」と包括的に主張する政治家やジャーナリストの声などめったに聞いたことがない。
民法においてそうなのに、どうして国の基本法である憲法について、具体的な条項の是非を後回しにして「改憲」を大合唱する必然があるのだろう。

ブログ「斜真館」
2007.5.23 「社会保険庁のずさんさが露呈して」

ずさんな社会保険庁のおかげで、年金収納記録が消失して厚生年金の一部をもらい損ねている人が莫大な数に登るらしい。
請求した人に対して自分らが記録を紛失しておきながら、年金を納めた証明をしろと門前払いを食わせているというのだから、これは一種の居直り強盗のようなものです。
平均的な国民はまさか国が詐欺・強盗を働くとは思わないから、今さら証明することもできないで泣き寝入りする人もさぞ多いことでしょう。
昨日の国会質疑での安倍首相の答弁を聞いていてそんなことを考えてしまいました。
ところで自分について言えば、サラリーマンにとっての厚生年金の納付証明である給与支給明細を入社以来全部保管してあります。
先日社会保険事務所から年金支払い期間の照合表が送られてきましたが、幸いなことに記録消失は全くなかったので、30数年分の給与支給明細の出番はたぶんないでしょう。
もし記録消失があったら、社会保険事務所の窓口にその分厚い束をどんと置いて「これでもか」と言えたのに・・・
まあサラリーマンにとって生きることとは給料をもらうこと、のようなものですから、日記をつける習慣のなかったボクが給料の記録ぐらいはちゃんととって置こうと思っただけのことですが、平気で国民をだますような国に住んでいるのだから結果的には正解でした。
他に、残業代が誤魔化されていないだろうか?とか、会社を信用していなかったというのも保管しておいた理由の一つでは在ります。
何にしてもこうした公的な記録は保管しておいたほうが後々のためになるみたいです。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.5.23 「えげつない自民党のテレ朝への意趣返し」

安倍首相から出馬要請を受けていた元テレビ朝日アナウンサーの丸川珠代が5/22自民党本部で記者会見し、今夏の参院選に東京選挙区から同党公認で立候補することを正式に表明したのだそうだ。
「元」とあるが同月16日に退社したばかりで、しかも直前まで上司にも相談していなかったそうだ。
何かと自民党と対立しがちと見られているテレビ朝日(と系列の朝日新聞)としては「飼い犬に手をかまれ」「面目をつぶされ」たようなものだ。
もともと東大卒の高学歴を誇る丸川嬢が政治に転進したかったのかどうかの真偽はともかく、テレ朝が丸川嬢の出ている場面を急遽カットして放送する羽目になったと言うから、今回の丸川嬢と自民党のやり方はあまり筋を通したやり方ではないようだ。
自民党としては前々からテレ朝には煮え湯を飲まされたつもりもあるのかもしれないが、丸川嬢に社会的なマナーを逸脱させてまで意趣返しをするとは、相も変らぬ大人気なさだ。
いっそテレ朝も辞表など受理しないで「解雇」にしてもよかったのにと思うが、自民党よりは大人だから円満退職にでもしたのだろうか。

ブログ「斜真館」
2007.5.25 「民法改正要求を行き過ぎた人権保護などと呼ぶ時代錯誤」

離婚後300日以内に生まれた子供を一律に「前夫の子」と見なす民法の規定の特例として、離婚後の妊娠が確認できれば実父の子と認める新制度が5/21より始まった。
この措置では現民法の規定に悩む当事者の一部しか救われないが、問題を根本的に解決するための民法の改訂に自民党の一部は強固に反対している。
その理由というのがふるっている。
「日本の家族制度を崩壊させる」「不貞を是認する」「不貞行為は許されない」などと明治時代かと思わせるような意見を恥ずかしげもなく言うし、挙句の果てに「ごく一部の特例を救済するために法を改正するというのは、人権保護の行き過ぎ」なのだそうだ。
不貞行為を許さないのなら、かつての自民党の大親分だった田中角栄がパトカーに先導させて堂々と愛人宅に通ったことについての意見も、今の自分が所属している政党がそういう人物らを党首としてきた歴史を持っていることについての意見もぜひ聴きたいものだ。
たぶんこの連中は「行き過ぎた人権保護」とかが日本の公序良俗を冒すという理屈で、不幸な扱いを受ける子どもらが誕生するのは当事者たちのせいであって国や法のせいではないとでも言いたいのだろう。
自分たちが今の時代に既に化石となりつつある封建的・身分制度的価値観の殻を被っていることには触れようともしていない。
なぜならこうした化石的価値観を尊ぶ国民層こそが彼らの支持者・政治基盤だからだ。
経済の構造が変われば、人の職業構造も労働構造も変わる。人の生活基盤の構造が変われば人の価値観もまた変るし、家庭の在り方も変る。
時代の移り変わりともにまたモラルも変るのだ。
そのことの良し悪しを論じても、まったくなんの意味もないことぐらい、地球上の出来事を見ていれば分かりそうなものだ。
むしろどのように変っていくのが人々の幸せを実現するのかを考えるべきなのに、化石人たちは変ることそのものに抵抗する。
所詮化石人だからいつかは絶滅する運命にあるとは言え、彼らの身勝手な論理のせいで理不尽な民法の規定から救済されない人々はたまったものではない。

ブログ「斜真館」
2007.5.27 「ゴミ収集の有料化と分別推進で社会が良くなったか」

昔は家庭で出すゴミの量自体が少なかったが、今ならゴミとされる新聞・雑誌・古着・ガラス瓶・空き缶等々を買い取ってくれる廃品回収業者が、定期的に各家庭を回ってきたりしたから、それだけでも(家庭でも社会でも)ゴミを無駄に捨てずに済んだものだった。
今はゴミを出すことに手間も金もかかるのが当たり前になり、自治体の行政サービスであるはずのゴミ収集そのものを有料化しようという時代になった。
省資源・環境保護のためにはこれが当然だと言うが、ほんとうにそうだろうか?
最近の世相を見ても、家庭ゴミ産業ゴミを問わず不法投棄が全国に蔓延し、廃棄物の再資源化が遅々として進まない一方で、ステンレスなどの金属製の公共物の盗難が横行することをいったい国民はどう見ているのだろう。
ゴミ収集の有料化と厳密な分別収集の推進で世の中が良くなったのかと言えば、むしろまったく逆になっているとしか言いようがない。
増える一方の不法投棄のゴミの始末は、あろうことか投棄された土地の管理者・所有者の負担になるとは、被害者をムチでたたくようなものだ。
ややこしいゴミルールがもたらしたものは、美しい環境でも省資源でもなく、醜いエゴの露出だったというのが現実だ。
だったらいっそゴミの分別などやめて何でも毎日でも収集して、分別も再資源化も焼却も最終処理もみーんな大規模施設で一括して効率的に実施したほうが、社会全体のためになるのではないか。
小さな自治体単位ではできないのだから国家的な大規模事業としてやればいいのではないか。
道路や河川を国家が管理できて、ゴミが管理できないなどということがあるはずがない。
例えばガソリンを例にとれば、原油を精製してガソリンを作り出す施設は日本全国で数え切れるほどの数しかないはずだが、その製品であるガソリンたるや全国津々浦々にあるガソリンスタンドに供給されているではないか。
その逆のことができないなどという理屈があってたまるものか。
まして民間や自治体ではまともにできない事業なら、軍事防衛と同じように国家がその責任を担うのが当然というものだ。
分別の大半は手作業になるから、当然、国家事業として全国的な雇用創出が行なわれてそれ自体が社会福祉になる。
今の資源の再利用化でバカな堂々巡りみたいな議論の対象になっている「誰がコストを負担するか」という問題だって、国の予算そのものに組み込んでしまえば「犯人探し」みたいな真似をせずに済むというものだ。
その結果、税金などの国民・企業の負担が多少増えたとしても、醜いエゴでこの国を汚してきたツケが回ってきたのだと思えば、我慢しなければならない範囲だろう。

ブログ「斜真館」
2007.6.4 「王子サマ」

最近の芸能・スポーツマスコミはスポーツ選手の人気者に勝手に変なマスコットネームをつけたがって、まことに苦々しい限りです。
ところで、その変なマスコットネームを付けられた六大学野球の斎藤投手と高校生ゴルファーの石川クンの2人の「王子」サマをよくよく見てみると、どこかで見たような印象です。
ふと思ったのは2人とも韓流スターの印象に近いということでした。
ジャニーズ系やお笑い芸人の人気タレントによくあるような、しつこいほどの濃い顔とは違います。
あっさりとして整った目鼻立ち、涼しげな目元、歯並びの良さ、太すぎない鼻筋、媚びたところのない笑顔。
どこか韓流スター的です。
こういう男性がキャーキャー言われるようになっているということは、やっぱり日本の女性の嗜好性が変ってきた証拠じゃないかと思います。
まあ不良っぽくて個性的な顔よりも、まじめそうで清潔そうな顔のほうが女性に持てる、というのならそれはそれでいいのかもしれません。
あいにく当方はそのどちらでもありませんが。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.6.9 「自民党が菅氏批判ビラを修正した理由には嘘がある」

自民党は6/7、「公的年金保険料の納付記録漏れ問題の責任は民主党の菅直人代表代行にある」とした参院選向けのビラについて党内から異論が続出したため修正版を作成した。
「民主党との泥仕合をすべきでない」との意見があったらしいが、これは嘘だろう。
なぜなら、年金番号統合を閣議決定したときの厚生大臣は菅氏だったが、この時の首相は橋本龍太郎であるし、統合を施行したのは橋本内閣下の小泉厚生大臣時代だからだ。
いくら屁理屈を並べても当時の責任者の名前を出していったら、数からいっても権限の面でも自民党のほうが分が悪い。
泥仕合ではなく負け試合になるものは避けようというのが本音だろう。
泥仕合と言っておけば、いちおう相手と五分五分のような印象を国民に与えられるとでも思っているのだろうが、毎度のこととは言いながら国民も舐められたものである。

ブログ「斜真館」
2007.6.9 「薄気味悪い自衛隊の情報収集活動」

久間防衛相は6/7の参院外交防衛委員会で、イラクへの自衛隊派遣に反対する市民活動や報道機関の取材を、陸上自衛隊の情報保全隊が広範囲に情報収集・分析をしていた問題の質疑に対し、違法性はないと答弁した。
デモの状態、抗議行動の写真を撮ることは差し支えない。マスコミの取材の場合はよくて、自衛隊ならだめだという法律の根拠はない。「年金改悪反対」や「消費税増税反対」など自衛隊の活動とは無関係な分野の情報を集めていた点についても問題ない、との考えらしい。
一般論的には自衛隊法や国家公務員法で、そのような活動を禁じているわけではない(らしい)から、そんな答弁をされても追求することは難しい。
ところでこの質問をした緒方靖夫議員といえば、数十年前に警察に組織ぐるみで違法な盗聴活動をされていた共産党幹部である。
この時はなんと違法な活動を組織ぐるみで行なっていたにも拘らず、現場責任者だけが罪を問われ、警察庁と政府は公的にはまったく罪を問われることがなかった。
今回のこととその事件と結び付けて考えるのは不自然なことではないだろう。
国の組織が不正な活動をコソコソやっているのがばれても、「違法性がない」と言い切れるうちは良いが、そうでなくなったときは、また現場の関係者の処罰だけで済ませるのだろうか。
自分たちはこそこそと怪しげな謀議の下に諜報活動をやっておいて、(たとえ本気じゃなくとも)犯罪的活動を座談にしただけでも逮捕されかねない共謀罪の新設で国民の活動は縛り上げようとたくらんでいるのがこの国の政府だ。
また暗い時代を繰り返そうとしているのかどうか、まったく薄気味悪い話だ。

ブログ「斜真館」
2007.6.25 「もうライトアップの時代じゃないのでは?」

ライトアップばやりだ。
大はレインボウブリッジなどの巨大建造物から、小は寺院や植物園の夜間観賞用まで、最近は何かとライトアップしたがるようだ。
ライトアップすることで、観光資源としての可能性が高くなったりするものだから、京都などの雅(みやび)な庭園までが、無粋な証明設備をあちらこちらに忍ばせていたりするようになった。
観光収入が増えたり、娯楽提供の機会が増えたりするのは、まことにけっこうなようだが、その一方で、地球温暖化防止や環境破壊防止を熱心に訴える声は空しいものになっている。
ライトアップに要する電力を供給するためにどれだけの資源を消費するのかを考えると、せっかくの美しい夜景も鼻白むものに見えてはこないだろうか。
それとも、現代日本人はもはや人工的な景色にしか美を感じなくなっているから、やむを得ぬ出費だと割り切れるのだろうか。
日本を離れた異国ではじめて夜空に天の川が流れているのを見た人であれば、日本の夜空に同じ天の川が見えないことを、おかしいとか残念だとか思って当然なのではないか。
それとも日本では見られないものを、お金を出して外国まで行って眺められることのほうに、むしろ価値があるのであって、日本でも見えたらかえってつまらない、とでも思っているのだろうか。
夜空に映える人工建造物を眺めて、夜空そのものを眺める楽しみを捨てるのが、文化の進歩と言うものだろうか。
ライトアップは娯楽としてはトレンドの一つかもしれないが、地球温暖化防止という面では、もはや流行遅れと言わざるを得ないのだが。

ブログ「斜真館」
2007.6.28 「従軍慰安婦問題を謝罪しろなどと第三国から言われたくはない」

安部首相はやはり馬鹿だと思う。
首相になったらもっと自分の発言に責任を持たなければいけないのに、「国や軍隊が強制徴用した証拠がない」などと軽率な発言をするものだから、アメリカの下院でみょうな決議をされたりする。
たぶん本人にすればアメリカの下院議員が悪いとでも思っているのだろうが、種を播いたのは自分だ。
首相になる以前からネオ保守主義者面して歴史問題や女性問題で目立つ発言をしていたのだから、内外の政治マスコミが首相就任後の発言に注目するのは当然で、揚げ足取りをされるような発言は現に慎まなければ、一国の政治の舵取りなんか危なっかしくって任せられたもんじゃない。
もう少し頭が良ければ、首相になったらあっさり変節して、以前の発言などなかったかのように振舞うほうが、万事うまくことが進むということぐらい気がついているだろう。
首相を辞めたらまた個人的な好き勝手なことを言えばいいので、周囲が揚げ足を取ろうと虎視眈々としているときには、白と思っても黒と言っておけばいいのだ。
政治家に変節は付き物だ。
その点、安倍は馬鹿で政治家の生き方もろくに分からないくらいお坊ちゃん育ちだから、自分の信念を曲げるとかえって支持を失うとでも思ってるらしい。
まったく個人的な信念と政治的な責任のどちらを優先するべきかも分からないような大馬鹿をこの国の首相にしてしまった。
下院決議のおかげで、それでなくともブッシュに屈従する自民党外交で不愉快さがつのっていたのに、ますます嫌米感情があおられそうだ。

ブログ「斜真館」
2007.7.4 「アル中皇族の公務復帰」

アルコール依存症で宮内庁病院に入院していた三笠宮寛仁さんが公務に復帰した、と7/3の新聞の見出しにあったから、何かと思えば自分の名前が冠された競輪の記念トーナメントの表彰式に出席したのだそうだ。
6/19に入院したときの宮内庁発表では、重度の不眠だの嚥下障害だのとかなり重そうなアル中だったのに、半月足らずでもう公務に復帰だ。
なんと軽い「公務」だろう。
いや、そもそもギャンブルである競輪の表彰式に出席することが皇族の「公務」とされることが、無性に腹立たしい。
まったく皇族たちの公務ときたら、なんとか植樹祭だの、なんとか開通式だの、開館式だの表彰式だのと、どうでもいいような行事の権威付けに利用されるようなものが多くて、こんなことを仕事としている連中に税金が使われているのかと思うと、納税意欲もそがれてしまうというものだ。
つつましい老後生活を営んでいる人たちは、財源移譲と恒久的減税の撤廃による住民税の増額に頭を抱えているというのに。
こんな下らん「公務」が自分の務めだとされたら、普通の感覚の人間なら頭がおかしくなるだろう。
(たとえそれが原因ではないとしても)皇太子妃が病気になったのも無理はないと思う。

ブログ「斜真館」
2007.7.4 「これでは冤罪事件は無くならない」

富山県氷見市の男性が婦女暴行・同未遂容疑で県警に誤認逮捕されて服役した冤罪事件で、男性を無罪にする再審の公判が6/20から始まったが、地裁も地検も警察が自白調書を捏造して署名を強要したことに関しては不問に処する考えらしい。
弁護側から出された自白を強要した取調官に対しての証人尋問要求も裁判官が却下し、「真犯人が分かったから無罪」という判決だけを急いで出して、事を片付けようとしているようだ。
まったく、検察はともかく、どうして裁判所までがぐるになって警察の不始末(というよりは恣意的に行われた違法行為)を覆い隠そうとするのだろうか。
公務員同士の身内のかばいあいとしか思われない。
これでは、たとえ裁判員制度が導入された後でも、冤罪事件は無くならないだろう。

ブログ「斜真館」
2007.7.6 「従軍慰安婦の強制徴用はなかったということにしておこう・・・か」

従軍慰安婦の強制徴用なんてなかった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ということにしよう。
うん、なるほど、そうしたいのはよくわかる。
誰だって、酔っ払って帰り道で立ち小便したことなんてなかったことにしたい。
誰だって、酔った勢いで部下の女性社員のおっぱいを揉んじゃったことなんかなかったことにしたい。
誰だって、勢いあまって女性の下着を脱がせて押し倒してしまったことなんかなかったことにしたい。
誰だって、押し倒した女性を強姦してしまったことなんかなかったことにしたい。
誰だって、口封じのために強姦した相手の首を絞めたことなんてなかったことにしたい。
誰だって、証拠さえなければ何もしなかったことにしたい。
誰だってそうだ。
だから、その気持ちはよく分かる。
だけど共感も同情も弁護もする気にはならないし、まして疑いを晴らすなんて言い分には全然共感しない。

ブログ「斜真館」
2007.7.6 「むさくるしいクールビズなんてやめてほしい」

クールビズ2年目で、政府首脳や与党幹部の夏の服装が少しはましになったかと思ったら、あいかわらず暑苦しくてしかもダサイ。
ワイシャツの第1ボタンを外してネクタイさえしてなければクールに見えるという、その服装感覚の貧しさがそもそも全然ダメ。
クールな生地なのかどうか分からないが、見た目に暑苦しそうな紺だのダークグレーだのの上着を着てることが全然ダメ。
まるで会社に着て行く服以外に外出着を持ってないサラリーマンみたいな格好に見えるのがまったくダメ。
だめな格好をして平気で国民に姿をさらけ出していられる無神経さが、そもそもダメ。
自分が他人からどのように見られているかが分かっていないことが、もう取り繕う余地のないほどまったくダメ。
やっぱりダメだ、日本の政治家は。

ブログ「斜真館」
2007.7.6 「正義の味方でお金儲け」

昔はプロスポーツの分野がごく限られていたから、大半のスポーツ競技では一流選手といわれても、それだけでお金を稼ぐことはたいへんだった。
オリンピックで取ったメダルを質屋に入れた選手もいたらしい。
オリンピック自体が金儲け選手を締め出していたし、日本でもロスアンゼルスオリンピックの体操鉄棒競技で金メダルを取った森末選手が、その後テレビのバラエティー番組に出演しただけで公式競技には参加できない引退選手の扱いとなった。
そんな話も今はもう昔話となり、実力と恵まれた容貌とがあれば、スポーツ選手はお金儲けが出来る時代になっている。
プロ契約なんかしなくとも金儲けが出来る競技もある。
時代は変った。
ところで昔っから「正義の味方」はボランティアだ。
月光仮面も仮面ライダーもウルトラマンも悪党を退治した後に、成功報酬なんて受け取っていない。
現実世界では、最近やっと警察が犯人逮捕の情報提供に対して賞金を出すことになったものの、警察官か麻薬取締官などの職業人でない限り、正義の味方になって悪人を告発したり捕まえたりしたって金銭的な報酬なんてない。
報酬どころか「内部告発」という正義の行為の報いは、首か左遷かハラスメントか、何にしてもあまりろくなことはない。
そうでなくとも、弱気を助け強きに敵対する人たちは、村八分にあったり、色つきメガネで見られたり、「市民運動家」「左翼」などと勝手にレッテルを貼られたりすることが多いようだ。
これでは困る。
世の中で何が一番良くないといって、正義と悪のけじめをしっかりつけられないことぐらい良くないものはない。
時代は変った。
もうそろそろ正義の味方がお金儲けしてもいいのではないだろうか。
今までだったらお金儲けの出来る正義の味方といったら、「社会派弁護士」などの職業人(プロ)だけだった。
もうアマチュアの正義の味方でもお金儲けが出来てもいいのではないだろうか。
どんな悪事でも世間に露見する前に告発した人には国から報奨金を出そう。
でなければミートホープ社みたいな会社や官民癒着の談合なんていつまでたっても減らないぞ。

ブログ「斜真館」
2007.7.11 「日米安保は虚構の軍事同盟」

純粋な軍事的見地に立てば、日米安保必要論も、諸外国の軍事外交政策と比べて著しく合理性を欠いたものとは言えないかもしれない。
ただし現在の日米安保体制は、日本がアメリカの服属国(合衆国内の自治領)である事実を隠蔽するための虚構に過ぎない。
もしこれが虚構でないならば、日本の軍事外交政策と対外経済政策とはまったく矛盾していることになる。
ソ連崩壊後の日本にとっての最大の脅威は中国の軍事力強化にあると言われる。
しかし中国のちょっと前までの軍事力は非近代的な装備であることが世界的に有名で、台湾侵略(台湾は独立国であるとする立場からあえて侵略と言う)もままならない状況のはずだった。
ところがいまやミサイル原潜、核弾頭超長距離弾道ミサイル、近代航空戦の可能な戦闘機・・・と近代化が著しい。
これだけの整備が進む背景には、諸外国からの中国投資と中国産品の世界的流通とがある。
日本が中国の対外収支に占める比率の多寡はさておき、日本の消費財に占める中国産品の比率と、日本企業の中国への資金投下と生産移転は、日本経済全体に甚大な影響力を持つほどの規模になっている。
日中間の収支関係と今なお継続している援助とが、中国軍事力強化に寄与していることは火を見るよりも明らかで、言ってみれば中国の軍事的脅威は日本自身も一緒になって作り出しているようなものだ。
もし日本政府がほんとうに中国の軍事的脅威に対処するつもりがあるのならば、それは日本の軍事力強化に対してではなく、中国軍事力強化の原資を絶つことに向けられなければならないはずだ。
つまり中国へのドル、円、ユーロの流入阻止と、中国の外貨準備高の削減を図るべきだ。
日中間の本質的な問題は、軍事的な対立にではなく、経済的功利関係にこそあるのだ。
であるのに、いったい日本政府は、対中投資企業、中国産品買い付け企業への行政的指導・抑制を行なっているだろうか。
たとえばほんの一例だが、少なくともこうした企業からの政府調達(トヨタからの自衛隊車両の調達)を停止するなどして、日本企業の中国功利姿勢を抑制しなければならない。
対中援助などにいたっては、いまや継続する理由さえない。
ところが日本と中国との経済関係は高まる一方で、政府は何の対策もとろうとしていない。
その点はアメリカ政府もまったく同罪だろう。
この事実を見ても、日米両政府の言う中国軍事的脅威論は、単に日米安保体制の維持・強化すなわち日本の対米服属関係の強化と、軍事支出増大のための方便に過ぎないことが分かるというものだ。
こうした構図は東西冷戦時代の米ソの経済的関係と軍事的対立とでも見られたことで、結局、周辺国は両国の覇権主義に利用されていただけだった。
それなのに、軍事通や反共中国嫌いが、こういう日米安保体制の虚構に気づかないふりをしているのも実に困ったものだ。
重ねて強調するが、中国の軍事的脅威に対処する道は、中国の経済成長の抑制を図ることしかない。
日本にできることと言えば、対中投資と中国産品輸入とを強力に抑制することと、人民元の為替レート引き上げ圧力を国際的に高めること以外にはないし、対中外交の有効な切り札もこれぐらいしかないだろう。
仮に日本の軍事力をいくら強化したところで、日本の将来の国際的経済力を、中国経済にゆだねてしまったら、まったく何の意味も持たないだろう。
国際経済を踏まえないで軍事外交を論じることなど、百害あって一利無しだ。

ブログ「斜真館」
2007.7.23 「改憲論議の前に憲法全文を読んでみよう」

今回の参院選挙では、安倍おぼっちゃま首相の目論見が外れて、改憲を争点にできませんでしたが、政局が安定を取り戻せば、再び改憲が政治的課題になるでしょう。
ところでそれはそうと、日本人の何%が日本国憲法全文を読んだことがあるのしょう。
改めて読み直すと、いろいろな考え方はあるでしょうが、この憲法は間違いなく「市民革命というプロセスを経て市民の権利が王権=国家に優先する原則を勝ち取った」憲法の流れを汲んだものであることがはっきりします。
あいにく日本では、市民革命を経ずに敗戦によって成立した市民革命思想の憲法だから、革命嫌いの連中がよろしく思わないはずがない。
改憲派が言うところの「この憲法には日本の国の持つ伝統的精神が盛られていない」との意見は、外れてはいません。
しかし憲法の性格は「法の基準である法」「法が国民の守るべきものであるのに対し、憲法は国が守るべきもの」です。
そう考えると、この国固有の精神的風土が憲法に盛られる必然性を認めることができません。
さらに言えば、精神的風土を法によって守るという考え方自体が、われわれ一般的な日本人には、なじみのある考え方ではありません。(全体主義の国や専制的宗教国家なら別ですが)
まあ、そうした議論はともかく、日本国憲法全文を改めて読んでみて、この憲法のどこに問題があるのかを、他人の意見によってではなく、自身が見定めることが、改憲論議を判断する上での前提でしょう。
もちろん近現代の欧米の政治史を、今一度ざっとおさらいしておきたいと思いますが。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.7.24 「ケータイの形態は今のままでいいのでしょうか」

そんなことをふと考えたのは、先日観た映画「ダイ・ハード4.0」の中で、話の展開の鍵となる道具(ツール)にPDAが使われているのを見たからです。
この映画の中で、PDAは携帯電話として使われ、またインターネットと接続して事件解決の重要な情報を引き出す情報端末として使われていました。
ちょうど、つい最近の新聞で、ケータイ所有者がケータイで通話することは、メールの送受信やネットの利用に比べて、極端に少ない、という記事を読んだばかりでした。
通話が主、通信が従、として作られている今のケータイの形態が、実際に使われている用途にふさわしいものなのか、疑問になってきました。
いくら慣れの問題と言っても、今のケータイは、やはり絶対的にキーの数が少なすぎて使いにくい。
同時に「ワンセグ対応」とか称して、わざわざ縦長に折りたたんだ画面を、横に90度曲げたりするのは、いかにも苦しい設計のように思えます。
ケータイの通信画面の標準が横長に規格化されていれば、こんな苦しいことをする必要がなかったでしょう。
そう考えると、ケータイの形態はまだまだ変わっていくのか、それともPDAなどと統合されていくのか、分からないような気がします。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.7.30 「党の危機でも、やっぱり料亭で会合」

先月の参院選後のTVニュースの中で気になるものがあった。
自民党大敗の事後策を協議するため、自民党の派閥の会合が行なわれた模様を報じていたので、どんな具合かと思ってみれば、あいかわらず料亭での会合だ。
まったくあの連中はこういう党の危機についての相談でも、料亭で美酒美食を並べながらでないとできないのか。
料亭以外にしかるべき場所もないのか。
いや、人と会ったり話し合ったりすることが商売の人間が、小人数の会合を随時できる場所ぐらい確保していないはずがない。
他に場所がないからではなくて、美酒美食を口にしながらでないと、大事な相談はできないのだろう。
立派な会議室でないと重役会議なんかやりたくないと思っているアホな経営者と同じだ。
こんなやつらが今の政治、今の社会を良くすることなんてできるわけがない。

ブログ「斜真館」
2007.7.30 「財界はいつも反省がない」

先日の参院選直後の記者会見で、日本経団連の御手洗冨士夫会長、参院選で自民党が惨敗を喫したことについて「安倍内閣の政策そのものは間違っていない」と、まるで他人事みたいなコメントを述べていた。
これはちょっとおかしいだろう。
御手洗会長は「構造改革を続けて欲しい」とも言っているが、今回の選挙結果は小泉以来進めてきた構造改革路線に対しての不信任でもあることを受け止めていない発言だ。
財界が望んだ規制緩和のおかげで、社会的格差は拡大され、社会的弱者の保護は縮小された。
それに対する国民の不安を払拭する政策が、なんら講じられていないことの責任の一端は、財界にあるはずではないか。
それでなくとも選挙で与党が敗北・苦戦するたびに、財界は「国民の理解が足りない」みたいな発言を繰り返して、国民の与党・政府批判の声をまったく無視してきた。
政治にあれこれ口出しをしておいて、結果については知らぬふりを決め込むのはあまりにも国民に対して財界は無責任だ。

ブログ「斜真館」
2007.8.1 「夏には非実用的な男性下着」

今日の昼のテレビ番組で、暑い季節の服装について取上げていました。
木綿よりもポリエステルの肌着のほうが、汗を吸い取るのも乾かすのも早くて良いと言います。
スポーツ選手のアンダーウェアも、昔は木綿でしたけれど、今はポリエステル系の繊維を使用します。
夏の肌着にはポリエステルがいいのは分かるのですが、あいにく男性にはその選択肢はほとんどありません。
一般的に売られているのは、シャツもパンツもコットン100%か、コットン主体のポリエステル混紡ばかりです。
Tシャツにはスポーツウェアの技術を取り入れたポリエステル100%のものが、出回っていて、これを肌着として着用すると、外出時などまことに具合がいい。
ところがパンツではポリエステル100%のものはあるにはあっても、まだスーパーの衣料品売場などではあまり見かけません。
(ステテコなんかにはあるのですが)
どうも男性用の肌着は保守的な傾向が強いようです。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.8.3 「広島の原爆記念館には行ったことがないけれど」

小学5年生の頃、父が「もう学習雑誌でもないだろう」と、それまで毎月買い与えてくれていた小学館の「小学○年生」の代わりに、大人向けのグラビア科学雑誌をくれました。
今のMOOKの走りのような本です。
その何刊目だったかに、核兵器とミサイルの巻がありました。
男の幼年時代ですから、当然のように兵器や軍隊というものをかっこいいものと思っていました。
期待して開いた頁の一つに、広島の被爆女性が死産した原爆嬰児の写真がありました。
無残な死骸でした。
人間の子どころか、地球上の生物とは思えないような、奇怪ともグロテスクとも哀れとも言いようのない姿でした。
恐ろしさで、幽霊や化け物を見た以上のショックを受けたのです。
もし神というものが存在するのなら、何万回神をののしっても足りないと思うほど、神の行いは残酷で無慈悲なものだと、今でも思います。
それ以来、核兵器を信奉するあらゆる人間を憎むようになりました。
もう理屈ではありません。
人間がしてはいけないことを1945年の8月にアメリカ軍はやったのです。
広島に行けば、同じような悲惨で無残な写真を見ることができるのかもしれませんが、ボクには生涯でただ一枚のその写真だけで十分です。
同じ写真を見て、それでも核武装は必要だと言えるような人を、ボクは人間であるとは思えません。
「核兵器でより残酷な殺戮を防げるのだ」「核武装には核武装で対抗する」という理屈も絶対に認めません。
遠い記憶ですけれど、深くてあまりにも強い記憶です。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.8.3 「労使対立時代のほうが日本の経済は良かった」

1950年代から70年代までは労使は対立しながらも、企業の多くが成長し、日本経済も高度成長を遂げた。
高度成長時代が終焉すると、組合は賃上げよりも雇用優先に走って、大勢は労使協調の時代になった。
バブル時代で一見景気が良かったようでも、国内総需要は伸びなかったから、虚構の好景気が終わると、たちまちどこの企業も苦しくなって、労使協調時代に温存していた雇用確保の取り崩しで赤字減らしを図るようになった。
長い不況が一段落しても、経営者たちは自分らの無能な経営が産んだ赤字を減らすために、労働コストの切り下げをまるで打ち出の小槌のように使い続けた。
こうして日本全体の一般大衆レベルの消費水準は下がったままの低空飛行が続くこととなった。
組合は正社員=組合員が減りに減って、期間従業員が第2第3組合を作るに及んで、ようやく事の重大さを悟って、内需拡大のための賃上げと雇用格差の是正を唱え始めたが、遅きに失した。
労使協調によって企業が成長し、株主と経営者と労働者の誰もが良くなることなど、所詮幻影に過ぎないことに気がつくのに、20年以上もかかった結果、日本の経済は21世紀の世界経済の波にさらされて、新たな困難の時代を迎えようとしているのに、なんら打開策のない危機的状況に陥っている。
行過ぎた円安によってようやく企業は黒字を確保しているが、原油高、金属原材料高、穀物高の進行は、円安との相乗効果で、デフレ安定に慣らされていた日本に、コストインフレの嵐をもたらそうと迫っている。
こんなにも企業経営者の無能さが露呈する時代に、なぜなったのかといえば、労使対立の緊張が無くなったからだろう。
かつての経営者たちは、その時代にいくら成長条件が揃っていて国の産業保護政策があったとは言え、春闘によって高騰を続ける労働コストを上回るだけの成長を確保するために、あの手この手の戦略をめぐらし、工夫を凝らしてきたはずではなかったか。
企業が利潤を外よりも、内からひねり出すことに頼るようになったら、その時点で企業の生命力は終りだろう。
今の時代を見ると、労使対立の昔のほうが良かったとしか見えない。
日本が直面している経済危機については、財界に責任があるのは当然だが、民主党と組して良しとしている連合あたりにも大いに責任はあると言わねばならない。

ブログ「斜真館」
2007.8.3 「何でも左翼でひとっくくりにするな」

2チャンネルあたりでは、左翼アレルギーの言いたい放題連中の罵倒ぶりには、唖然とさせられるものがある。
それだけならいいのだが、たまに新聞テレビに名を出す程度の評論家などから無名のライターだの研究所主催者までの、知識人らしい人たちが書いているブログにもかなりひどいものがある。
素人ならともかく、なまじっか変に情報通だったりするものだから、自分が見聞きした情報を元に一見論理的に、自分の意にそぐわない連中を徹底攻撃する。
特にひどいのが最近の歴史認識問題だ。
第2次大戦終了時に、日本の軍隊をはじめ官民あげて占領軍に差し押さえられたら都合の悪い資料を焼却処分した事実は知らぬふりをしておいて、特定の資料や証言を根拠に、起きてしまったと推定されることを、無かったことにしようと論じている。
もともとこの問題は、刑事事件の審理と同じで、事実が起きた直後に黒白をつけておくべきだったのに、半世紀以上もたってから、事実関係を争うこと自体が無理なのだ。
つまり「歴史」になってしまってから「黒」だの「白」だのと論じるのは、まるでブルータスはシーザーを刺したのかどうかと論じるようなことだ。
こうなってしまったおおもとは、朝鮮戦争を顕著な例とする東西対立の激化のために、戦争中の日本の官民の不当行為の責任と賠償問題を棚上げにして、1951年に占領軍側が拙速に講和条約を結んで日本の再軍備を図ったことにある。
それなのに、断片的な資料や証言を持ち出して、あたかもそれで事実の全てが立証できるかのように論じる連中が多いのは実に嘆かわしい限りだ。
まともな学者なら全体像が割り出せるだけの資料を得なければ、歴史の真実を「想像」とか「推定」と断わりもしないで論じることはない。
なぜそんな論理を押し通すのかと言えば、彼らが学者ではなく単なる論者だからだ。
真実を追究することよりも自らの旗色を鮮明にし、相手を圧倒することが目的だからだ。
灰色は灰色であって黒でも白でもない。
相手が「黒」だと言ったから、こちらは灰色ではなくて「白」と言わねば気が済まないなど、まるで子どもの喧嘩と一緒だ。
と、その辺のところは、まあいいから本論に入る。
この黒白論者たちの相手に対しての決めつけ方が問題なのだ。
とにかく何かと言えば「左翼(サヨク)」。
左翼にして親中派。
朝日新聞なんかは、もう完全に左翼にして親中派と罵倒されている。(大戦前から中国大陸駐在員などの消息通が多かったから中国関係の情報は今でも多いが、情報が多いというそれだけでもう非難の的になる)
まるで左翼と共産主義と社会主義とマルクスレーニン主義と毛沢東主義と市民運動と親中と護憲と平和主義と反核運動と革新と、みーんな一緒くたに見なしているかのようだ。
あいにくどれもイコール関係のものなんて一つもない。
半世紀前の日本では、「あいつはアカだ」のひとことで、自分の気に食わないヤツをひとっくくりにして悪者扱いしている人たちが多かった。
なんのことはない、日本には半世紀たっても頭の中はたいして進歩していない人たちがいる。

ブログ「斜真館」
2007.8.4 「アメリカにとって戦争は新製品の試験場」

原爆と言うとすぐに「世界唯一の被爆国である日本」と言いたがる人が多いのだが、そうした反原爆平和活動賛同者のうち、アメリカが投下した原爆の詳細について知っている人はどれくらいいるのだろう。
広島に投下された暗号名「リトル-ボーイ」(Little boy)と呼ばれた原爆は「ウラニウム爆弾」、長崎に投下された暗号名「ファット-マン」(Fat man)と呼ばれた原爆は「プルトニウム爆弾」だった。
このことはいったいどのように解釈すればいいのだろうか。
アメリカの政治家・ジャーナリストの多くは今でも、「原爆投下は戦争の早期終結に寄与した」との主張を曲げないが、それは結果としてそうなったというだけのことだ。
広島と長崎2ヶ所への異なるタイプの原爆投下は、まさにアメリカ軍が最も非難の少ないであろう機会を利用して、既に露骨になっていたソ連との対決に必要な戦略兵器の開発実験を行なったことに他ならないだろう。
このことについては他に多くの論者がいるからもういい。
原爆に限らずアメリカという国が、他国の国土を実験場にして、最新兵器の実用試験を繰り返してきた、そのことを忘れないようにしたい。
ナパーム弾、ジェット戦闘機、枯葉剤、パイナップル爆弾、トマホークミサイル、劣化ウラン弾、スティルス戦闘爆撃機・・・素人が数えられるだけでいったいいくつあるのだろうか、きりがないくらいだ。
アメリカという国にとって、力の外交のための軍事力の維持という基本姿勢は別にしても、軍事産業は今でも国家的に重要産業であることに変わりはない。
対テロ、対イスラム勢力というお題目に乗せられてばかりいる日本だが、アメリカの兵器開発のお先棒かつぎをやっていることも見過ごすことはできない。

ブログ「斜真館」
2007.8.4 「エノラ・ゲイのスミソニアン航空博物館展示」

第2次世界大戦で広島に原子爆弾を落としたB29爆撃機エノラ・ゲイの実物は、今ワシントンのスミソニアン航空博物館に行くと目にすることができます。
日本だけではなくアメリカでも物議をかもして一度は展示が延期になったりもしましたが、結局今は展示されているのです。
純粋に航空技術的な面から見れば、レシプロエンジン(ピストンエンジン)の大型機としての頂点に位置するだけの性能を持つ航空機です。
スミソニアン航空博物館の展示物としてふさわしいし、その機体(エノラ・ゲイ)についての歴史的な意味においても記念物として残しておくべきものでしょう。
たとえ原爆投下についての資料を同時に展示しなくとも、原爆投下の歴史的事実の遺物として保存して置いて欲しい。
もし、原爆投下が文書や写真でしか伝え残されることがないとすれば、いつかは他の歴史上の悲惨な出来事(大量虐殺)の中に埋もれてしまうでしょう。
外国だけでなく、日本でも今や原爆投下を知らない若者たちが増えているとか。
アウシュビッツの施設が歴史的保存物となっているように、実物が現存してこそ伝えられる事実があるというものです。
ワシントンにエノ・ゲイが展示され、広島に原爆資料館がある、展示物を見た人の受け取り方は様々でしょうが、そのどちらもが必要であるような気がします。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.8.5 「妙なものが流行する時代」

夕食を終わって、女子バレーボールの日本対キューバ戦をしばらく見ていました。
アテネオリンピックの頃に、アイドルタレントなみにキャーキャー言われていた某選手の容貌がすっかり変わっていたのに、興ざめでした。
大人顔になったこともありますが、それ以上に印象が変わったのは眉カットのせいです。
いったい日本ではどうして、いつまでもあの不自然な細い眉毛が流行っているのでしょう。
まあ流行だからいつかは下火になるのでしょうが、それにしても長く続いてます。
個人的な趣味の問題だから、あまり言いたくはないけれど、眉カットして、その人の顔に似合っていると思えるのは、ほんの一握りもいません。
眉をカットしてるだけなら、まだいいのだけれど、抜いていると確実に生えなくなるから、将来細い眉が流行らなくなっても、もう元には戻せません。
同じことはタトゥーにも言えます。
染料やシールならいいけれど、本物の刺青を取ろうと思ったら、刺青ごと皮膚を剥がして自分の体の他の皮膚を移植するしかありません。
若いうちはいいのでしょうが、容色衰えてだぶついた皮膚のタトゥーなんて、みっともないだけです。
そういう将来のことなんて、きっと考えていないのでしょうね。
自己責任で、何でも好きなようにやってください、としか言いようがないのですかねえ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2007.9.10 「武道とダンスを中学校で必修?」

学習指導要領の改訂を検討している中央教育審議会の専門部会が、中学の保健体育で武道とダンスを男女ともに、1・2年生で必修とする案をまとめた、と9/4の報道にあった。
これを聞いて「なぜ武道(ダンス)が必修に?」と思った人は多いことだろう。
武道には柔道、剣道、相撲が、ダンスには創作ダンス、フォークダンス、現代的なリズムのダンス、ヒップホップなどが教えられることになりそうだともある。
いかにも日本的なものと、グローバル的なものとセットにしてどちらの側の人間からも文句が出ないようにしているという感じだ。
しかし体育の時間そのものはこれまでと変わらないのなら、逆にどちらの側からも不満が出そうだし、従来の履修対象スポーツの関係者からも異議が出そうな感じだ。
門外漢から見ても、義務教育の家庭で学ぶべき体育は、もっと基本的な運動能力を養うことに充てられるべきだと思う。
いたずらに履修内容の巾を広げて、ほんとうに子どもたちのためになるのか、その視点がはっきりしてこない。

ブログ「斜真館」
2007.9.10 「外国人研修・技能実習制度は違法雇用推進事業?」

9月はじめの報道に、外国人技能実習制度を進めている国際研修協力機構が実習生受け入れ先の事業主から調査した結果では、一部の事業主が実習生に違法な就労を強要していることが分かった、とあった。
しかしこの調査には、受け入れ時の約束と相違した就労をさせていることに対して、改善などを強制することはなく、しかも調査は予め受け入れ先に伝えられているので、違法な就労実態を示す資料を改ざんしていることなどが裏で行われているのだと言う。
もっと呆れたことには、こうした実態を当の国際研修協力機構は承知していながら、事業主たちの不法行為を野放しにしているらしい。
要するに、法規定で定められた最低賃金や就労条件以下の劣悪な条件で外国人を働かせるために、事業主たちと国際研修協力機構とがグルになって外国人研修・技能実習制度を悪用しているということなのだ。
さすがに一部の監督官庁から行政指導らしきものがされていると言うのだが、いくつかの事例を見聞すると、あまりにも悪どいやり口に、これが現代の日本で実際に行なわれていることかと、空恐ろしくなる。
こうした実態を知ってか知らずか、中国やベトナムなどの国では、研修生送り出し機関があって、せっせと日本へ研修生を送り込んでくる。
まったく、いったいどこが大もとのワルなのか分からないが、とにかくこんなことで、日本の恥と嫌日感情とを諸外国に輸出しないで欲しい。

ブログ「斜真館」
2007.9.25 「歩行車道と車道の区別は白線では無理」

小泉構造改革の中にはいろいろおかしなものがあったが、ドライバーとしてカチンときたのが自動車関連諸税の一般財源化提案だった。
日本の道路は今でも十分に整備されてはいない。
特に遅れているのが都市部の道路整備だ。
今まで道路財源問題は非都市部の道路整備についてばかり、やれもう十分だの、不必要な整備だのと言われてきた。
しかしこの国では道路の整備について、今まで質の問題、中でも安全性が真面目に取上げられたことがない。
たとえば都市部と人家閑散地区とでは道路に求められる安全性のレベルが違いすぎるが、敷かれている道路の規格は似たようなものだ。
たとえば日本の道路で人道と車道が段差とガードレールとによって完全分離されているのは、ほんのごく一部だ。
人口密集地だろうと、学童通学路だろうと、大半の道路は人道と車道の区別はタダの白線一本だ。
いや、ひどいところは、その白線さえ引いてはいない。
ドライバーのほんのちょっとしたミスで大勢の子どもたちの命を奪うような事故を、こんな欠陥道路がいとも簡単に引き起こしているのに、マスコミも有識者も自動車側を責めるばかりで、根本原因をなくす努力を要求しないのは一体どういうわけだ。
人間のやることでおよそ100%完璧なことなどありえないのに、道路管理には航空管理のようなフェイルセイフの考え方が少しも取り入れられていないことを、もっと国民もマスコミも行政に対して強く訴えるべきではないか。
飲酒運転も脇見運転もたしかに運転者に責任があるけれど、それによって引き起こされた被害の大きさには、道路行政者の責任がないとは言えないだろう。
事故を起こして人を殺傷した人間だって、多くは自動車関連税を負担しているのだ。
その税が正しく使われずに、欠陥だらけの道路を放置しておいて、個人責任ばかり追及されたのではやってられない。
せめて人道と車道の分離の徹底ぐらいは済ませてから「道路整備はもう十分だ」といって欲しいものだ。

ブログ「斜真館」
2007.9.28 「営利団体と非営利団体の区別をやめたら」

政治家に政治資金の管理を法制化させるなんて、泥棒・強盗に刑法を決めさせているようなものだ。
と言ったら言い過ぎになるだろうとは思えない。
この1年間を見たって事実がこうした比喩が当たっていることを証明している。
現に今だって自民党の中では政治資金管理団体の会計報告の領収書添付に対して、1円以上からには反対の声が消えない。
無理なのだ。
泥棒に窃盗罪を決めさせようとしても。
さてそこで問題を、もっと原則的なことに立ち返って考えて見たい。
もっと団体と金の問題という根本的なことを考えてみたい。
政治団体に限らず、およそ団体に営利団体と非営利団体と区別する必要がどこにあるのだろうかということだ。
非営利団体ということは利益が目的ではないのだから、もし年度会計で利益が出たらそれに対して法人税がかけられても不都合はないだろう。
宗教法人も財団法人も独立行政法人も利益追求が目的でないのならば、万一利益が出た場合にその利益を税金として国庫に収めることに何の不都合があるのだろう。
もう大概で会社法人とその他の法人・団体と区別するのはやめよう。
だっておかしいじゃないか。
個人だったら、非営利的個人と営利的個人などという区別をつけるか。
所得があれば必要経費を控除して国税と地方税を納めることに、個人と団体とで条件が違うことなんて、どう考えてもおかしいじゃないか。
利益追求を目的に生きている人間なんていないはずだ。
生きるために金を儲ける、必要以上に儲けすぎた分は税金で納める。
個人も団体も同じに考えることに、何の不都合がある。
何もない。
政治献金もパーティー券の売上も団体の所得だ。
政治資金を規制管理する機関なんて必要ないから、国税庁にみんな任せよう。

ブログ「斜真館」
2007.10.1 「”集団自決強制”削除の教科書検定に抗議する沖縄の集会の意味」

9/29に太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた住民の集団自決を「日本軍の強制」とする記述を削除した教科書検定をめぐり、超党派の「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が、沖縄県宜野湾市の宜野湾海浜公園であった。
沖縄戦に関する国の歴史認識に異議を申し立てる大会の参加者は11万人(主催者発表)に達し、72年の沖縄の本土復帰後で最大の集会となった。
歴史を反省する時代から、小泉・安倍政権による歴史を反省しない時代への国の姿勢の転回に、沖縄県民の怒りが爆発したということだ。
同時に、この問題が沖縄県以外では同じ国内でほとんど重大視されていないことに対しての怒りの表明でもある。
日本国民の中で、沖縄県民だけが地上戦に巻き込まれ、場合によっては軍によってスパイと疑われて虐殺され、ついには軍による手榴弾や毒薬の配布によって非投降を強要された歴史的な事実を忘れてほしくないという、精一杯の抗議でもあろう。
不都合な歴史を葬り去ろうとする勢力がいる限り、こうした抗議の活動を継続しなければならないということは、とりもなおさず、日本という国にとっての恥であるのに、そのことを強調するマスコミ人や知識人は少ない。
国(軍)が自国民を犠牲にした恥を隠そうとして、さらに恥を重ねるというのは、まるでどこかの相撲部屋で起きた事件のようだ。
恥を清算する覚悟も意気地もないような連中が「美しい日本」だの「国を愛する心」などといくら言ったって、そう思いどおりには行かない国民も大勢いるのだ。

ブログ「斜真館」
2007.10.2 「正式な会社名ぐらい表示して欲しい郵政民営化」

民営化されたと言っているが、その結果何という会社名になったのか正確に知っている利用者は全国に何人ぐらいいるのだろう。
10月1日に代々木郵便局に行ってみた。
今年民営化移行についての新聞全面広告を郵政公社で出したらしいのだが、最近の新聞・テレビを見ても発足した郵政事業の各社の正式な社名が全然分からなかったからだ。
ところが郵便局に行っても「郵政事業は次の各社が分割継承しています」という表示が見当たらない。
さらには窓口の前でガイドをしている女性職員に聞いても、正確に会社名が言えないときた。
こんなことでは新会社グループの総称「JP」の名刺を持った社員が訪問セールスに来ても信用もできないし、JPロゴ入りの制服を着ていたって本当にJPグループ会社の社員かどうかも疑ってしまうと言うものだ。
1・2回新聞広告を出しただけで、あとは「郵便局はJPに変わりました」とだけ言えばそれで済むだろうとでも思っているのだろう。
まったくお役所根性から全然抜け切れていない、民営会社にあるまじき利用者無視の姿勢だ。
資金量だけを頼りにこんな殿様みたいな商売をしていたら、早晩経営が行き詰まって巨大外国資本の食い物にされるのがオチだろう。
もっとも郵政民営化を実現させた連中はそれこそが本来の狙いなのだから、今の「利用者不在」の姿勢は既定の路線なのかもしれないが。

ブログ「斜真館」
2007.10.12 「”責任者出て来い”が通用しない官の世界」

沖縄での県民集会の盛り上がりに政府があわてて、「集団自決強制」記述削除の教科書検定を見直す動きが出てきたようだが、新聞等ではその後の進展が見られない。
10/3に陳情にやってきた沖縄県の仲井真弘多知事らに対し、具体的な対策のほうはともかく、渡海紀三朗文部科学相はぺこぺこと一見低姿勢だった。
しかしこの構図はどこかおかしい。
「集団自決強制」に疑問ありとして記述を改めさせたのはあくまでも教科用図書検定調査審議会であり、その中立性を犯すことができないとするのが文部科学省のこれまでの姿勢だからだ。
この審議会の委員及び臨時委員は、大学教授や小・中・高等学校の教員等の中から選ばれていて、審議会の審査に先立ち検定申請のあった図書については、文部科学省の常勤職員であり、大学の教職の経歴等をもつ教科書調査官の調査が行われ、また、専門の事項を調査する上で必要があるときは、審議会に専門委員が置かれ調査に当たることになっている。
したがって文部科学省が中立を楯に検定結果に関与できないのであれば、実際に検定を担当した審議会委員、教科書調査官及び専門委員が、検定結果不当を訴えるものに対して答える義務があるはずだ。
ところが、今まで歴史問題などで教科書検定の不当性が論議されたときでも、検定当事者は一向にその名が表面に出てこない。
今回の「集団自決強制」の削除は審議会委員の意見ではなく、文部科学省に所属する教科書調査官の意見によるものだという。
これは明らかに無責任であるし、文部科学省の中立性云々の見解は明白な嘘だろう。
明らかに政府機関そのものが検定意見を出しておいておきながら、自分たちはあずかり知らぬと言い、しかも当事者の名は出さないとは、国家的な検閲を隠蔽していることに他ならない。
仮にその責任が教科書調査官個人に帰せられるものだとしても、役所の窓口の応対とはわけが違う、一国の教育に関する問題であるのに、その責任を担っているものが名前も顔も出さずに済むとは。
こうしたこともこの国の官僚の基本的特権、すなわち職務上の瑕疵の結果は個人の責任ではないという伝統的慣例によるものには違いない。
だから世の中で批判されるような検定を平気で出したりするわけだ。
沖縄県知事らも文部科学大臣らの閣僚に陳情する前に、今回の検定を下した連中の非常識を、その本人と世間に訴えるべきだった。

ブログ「斜真館」
2007.11.1 「学習しなくなったら名門も老舗もおしまい」

人間が他の動物に比べて圧倒的に優れていると言えるのは学習能力だろう。
何しろ人間は生まれてきたときに持っている本能的な能力と言えば、母親のおっぱいを吸い、腹が減ったら泣くぐらいのことしかない。
それが1年で言葉を理解してしゃべるようになり、2年も経てばもう人の感情を推し量ったり嘘までつけるくらいになるのだが、これ全部学習によって身についたものだ。
大型獣の中で最も身体能力の劣っていそうな人間が地球上で最も繁栄する大型動物になれたのは、おそらく学習能力あってのことだろう。
人間社会の中でも当然強くたくましく生き残って繁栄する人間は学習能力が高い。
逆に仮に能力があっても学習しない人間たちは繁栄していてもいつか没落することが多い。
そのいい例が赤福の経営者たちだと言えそうだ。
つい数年前には雪印乳業という名門企業があっという間に瓦解するのを世間の人間は目撃した。
今年はこれも洋菓子メーカーでは老舗の不二家が似たような事件を起こし世間から指弾されたばかりだ。
同じ食品産業に身をおき、老舗の暖簾を誇りながら、こうした事例を見聞きしておいてな〜んにも学習しなかったとすれば、欲に眼がくらんだただのアホウだ。
利益を守りたいというのは誰でもどの企業でも同じはずだが、学習するかしないかでこうも違ってくるものなのかとあきれるしかない。
これでは老舗といえども事業解体の憂き目を見ることになるかもしれない。
学習する気のない企業をいったい誰が救ってくれるのだろうか。

ブログ「斜真館」
     

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