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過去に漫画クラブと漫画クラブ以外にブログなどで書き連ねた「放言」を集めてみました。
的外れのことを書いていたり、予想や妄想が当たってしまったりと、まさに放言ですが、その時代を振り返るのも面白いかと思い、ここに再録することにしました。

−2009年−


日    付
2009.1.27 「老害都知事によるオリンピック招致活動のあやしさ」

昔々はじめて参議院選挙に出て30代の若さでトップ当選を果たした時、石原慎太郎はちょっとした流行作家だった。
作家としては落ち目になっても、弟裕次郎のおかげで選挙では(都知事選で美濃部に敗れた以外は)ゆうゆうと勝ち続けてきたが、自民党内で主流派にはなれなかったから、総理総裁になるという野心は満たされなかった。
しょせん「お山の大将」になりたいという程度の幼稚な政治的野心にすぎなかったから、満たされぬ思いは東京都知事になって、1200万都民の上に君臨し、国を相手に大見得を切ることで満たされた。
見栄っ張りでも真面目に行政を務めていればいいのだが、この男の関心はそんなものになくて、かつて時代の寵児のようにもてはやされた流行作家の頃の華やかな生活と、権力者の座に注がれているから、ろくに都庁に出勤もせず、公費を使って海外に取り巻きを引き連れて遊興にふけっている。
1期目で、こんな男の正体に気づいてもよさそうなものだが、たいがいの東京都民はていよくだまされて3回も都知事選に勝たせてしまった。
今また東京オリンピック誘致という愚にもつかないことに(この経済苦境の時代に)途方もない公費をつぎ込んでいるし、「黒い霧」が立ち込めている豊洲に築地市場を無理やり移転させようとしているし、(大手都銀に対しての私怨からとしか思えない)新銀行東京には、やはり「黒い霧」に包まれた1000億以上の巨額の公費を捨て金にしようとしている。
どれひとつとっても、それだけで並みの知事なら失脚しそうな失政をやらかしておいて、なお君臨し続けようとするこんな男を評して「老害」と言わずになんと言おう。
こんな欲ボケの老人とその取り巻きには、ぜひバカのレッテルを貼ってあげようと思う。

ブログ「バカ印」
2009.2.10 「悪口攻撃しかできない前原議員の軽薄さ」

民主党の前原という男は、自身が代表だった時に国会で起きた「偽メール事件」の永田元国会議員が自殺したばっかりだというのに、自分の軽佻浮薄さに何の反省もなく、また衆院予算委員会で麻生総理をつかまえて「やるやる詐欺」常習犯と呼んだりして、民主党内からもひんしゅくを買っている。
自身の政策で国民を引きつけることができないものだから、国会という晴れの舞台上で威勢のいい言葉を並べて、国民の人気取りをしようと思っているのだろうが、こんな猿芝居に今どき踊らされる政治家も国民もいるわけがない。
こんな知能水準だから、「偽メール事件」のような恥さらしを起こしたりしているのに、まだ自分に政治的生命が残っているなどと錯覚している。
民主党もこんな男を副代表などに抱えていたら、せっかくの世論調査での支持率アップが、いつか台無しになることぐらい分からないのだろうか。
というわけで、自分が見えてない前原議員と、それを切れない民主党首脳陣にバカのレッテルを貼ってあげよう。

ブログ「バカ印」
2009.2.13 「メクソ小泉がハナクソ麻生を笑う」

小泉元首相が自民党本部での集りで、郵政民営化を巡る麻生首相の一連の発言について「怒るというよりも、笑っちゃうぐらい、ただただあきれている」と批判したそうだ。
この報道を読んで「目くそ、鼻くそを笑う」ということわざを思い浮かべた人も、さぞ多かったことだろう。
「劇場型政治」の熱に浮かされた過去を忘れた有権者たちの多くは、今の国政の乱れと権威の失墜、そして「郵政事業資産の叩き売り」を招いたのが当の小泉純一郎であると、もう気づいているというのに、まだ「劇場」の看板役者のつもりでいる小泉「奇人」元首相に、バカのレッテルを貼ってあげよう。

ブログ「バカ印」
2009.3.5 「福田康夫陰謀家説(笑)」

小沢一郎の公設第一秘書逮捕で、次の総選挙での政権交代が怪しくなってきた。
なるほど、これを麻生自民は待っていたのか、と今までの一見展望のなさそうな解散引き延ばし戦術に、納得してしまった。
まあたしかに、ピカレスクドラマじゃあるまいし、与党や政府が検察を利用して政敵追い落としを図ったとは、考えにくい。
けれど、少なくとも西松建設裏金疑惑の捜査の最終ターゲットについての情報提供ぐらいは、行われていたんじゃなかろうか。
「ちょっと我慢して待っていれば有利になりまっせ」と、検察関係者から与党関係者にリークされたとしても不思議はない。
となると、西松建設の裏金捜査がいつ頃から核心に迫っていたかという時期が気になるところだ。
こっから先はドラマ仕立ての空想世界だ。
客観的には次の総選挙が負け戦になること確実だった昨年の9月に、何の成算もなしに、麻生太郎が福田康夫のあとを受けて総理総裁になるはずがない。
(もしそうだとしたら、よほどのアホだ)
これはやっぱり「半年も我慢してれば、いいことが待っているよ」というアテがあったのだろう。
となると、このドラマの筋書きを書いたのは、やっぱり福田康夫がふさわしい。
田中角栄直系の弟子といっても良い小沢一郎と、福田赳夫の息子の福田康夫の、因縁関係がついにここまで来た。
というのが、いちばん面白そうなストーリなのだが、これなら、まだまだこの先も続きがありそうじゃないか。
これだから政治の世界は面白い。
今回の事件で「政治不信が高まって、選挙無関心層が増える」なんて論評する向きもあるようだが、こんなに面白いものに関心がなくて、いったい何に興味があるというのだろう。実に不思議だ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.3.9 「やっぱり黒幕はいた」

西松建設スキャンダルについて、数日前にこの日記欄で勝手な空想を書いたばかりだったが、このときは「自民党には波及しない」という問題発言の主である政府高官とは誰かということにまで関心がなかった。
しかし、河村官房長官が昨日のテレビ番組で、これが漆間巌官房副長官の発言だったことを明らかにしたということを知り、この男が麻生太郎によって警察庁長官退官後の天下り先から官房副長官に起用されたという事実を知って、「な〜んだ、やっぱりそうか」と納得してしまった。
まあ政府与党による検察操作があったかどうかまでは知る由もない。
だが、麻生内閣誕生と西松建設捜査と漆間起用と解散引き延ばしが一つのセットになって動いていたのだけは、ただの空想では終わらなかったようだ。
しかし、こんな言わば「禁じ手」まで使ったあげく、もし次の総選挙で政権が代わったら、韓国や台湾なみに新政権による前政権「不正」追及という泥仕合を繰り広げることになるかもしれない。
そんなことになると、ずいぶんみっともない話だから、民主党には紳士的な振舞いを期待したいところだが、あいにくそんな品の良い連中ではなさそうな気もする。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.4.15 「傍聴するだけの価値もない国会審議」

衆議院の厚生労働委員会の質疑を傍聴に行った。
以前、本会議を傍聴したときは、あまりにも緊張感のないやり取りにうんざりした。
委員会のほうなら少しはましかと思い、昨日FAXされてきた某衆議院議員事務所からの国会傍聴の案内に応じたのだ。
現在、一般人は衆議院議員の紹介がなければ衆議院の傍聴はできないから、その事務所に国会傍聴希望者として登録してある。(参議院は議員の紹介がなくとも傍聴できる)
別にその議員の支持者ではないが、こうでもしないと傍聴できないのだから仕方がない。
委員会室に入ると、民主党の山井議員が「国民年金の保険料納付率が今後も現状並みの65%だった場合、将来の厚生年金の給付水準が、政府が約束した現役世代の手取り収入の5割を割り込む」という問題で、えんえんと舛添厚労大臣に食い下がっていた。
(今日の質疑前に、すでに今朝の新聞でこの問題は報じられていた)
聞いていて、つくづくこの山井議員という男はバカだと思った。
こんな奴を代表質問に立てるほど、民主党にはろくな人材がいないのかとも思った。
これではとても政権交代した後のことが安心できない。
そうは言っても、やっぱり次の選挙では政権交代が実現してほしい。
でなければ、今の緊張感のない(欠席者だらけの)国会が、いつまでたっても変わらないだろう。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.4.16 「韓国だって宇宙ロケットぐらい打ち上げるのだもの」

韓国でも7月に国内から国産ロケットで人工衛星を打ち上げる具体的段階に入ったと報道にありましたね。
「北のテポドンに対抗」という見方があるようですから、となれば、これもミサイル実験と読んだ方がいいのでしょうか、面白いですね。
ところでこれを打ち上げる韓国の羅老宇宙センターのある外羅老島は、緯度的には広島、岡山あたりと同じくらいのようです。
今のところ、どのような打上げコースをとるのかが明らかになっていませんが、人工衛星打ち上げの常識的な方法では地球の自転方向の反対側へ向けるのが有利とされていますから、韓国もその通りに実行すると、日本の四国、近畿地方と、その南海部がコースの下に入るかもしれません。
で、もしそうなるとしたら、7月も日本政府は落下物を迎撃するために、ミサイル防衛システムを働かせることになるのでしょうかね。
それとも韓国の技術水準は北よりも高いと信頼して何にもしないでしょうか。
日本政府の対応が見ものだとは思いませんか?
外羅老島の位置をGoogleマップで見ると、いろんな面白い想像ができますよ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.4.18 「イチロー、張本の持つ日本プロ野球最多安打数記録を超える」

新記録だそうだ。
もうあと4・5年はメジャーリーグで活躍できるとしたら、MLだけでヒットがあと600〜700本。
その後も、日本でなら、また5・6年は活躍できそうだから、日本でもヒットがあと500〜600本。
となれば、4000本安打も、ピート・ローズの最多安打記録も超えられそうな気がする。
いや、超えてほしい。
別に彼のファンじゃないけれど、記録は破られるためにあるのだから。
ところで、プロ野球の個人通算記録で大多数の人が偉大な記録だと認めそうなものとなると、バッターなら、安打数と本塁打数、ピッチャーなら勝利数と奪三振数というところだろうか。
これに打点数と通算打率と、セーブ数、防御率を加えてもいいかもしれない。
これまでの、記録保持者は、安打数が張本勲、本塁打数と打点数は王貞治、打率はリー、勝利数と奪三振数は金田正一で、セーブ数が高津臣吾、防御率は藤本英雄。
王、金田は現役中に帰化したとはいえ、日本のプロ野球の大記録保持者の実に半分以上が外国人。
別にボクは国粋主義者ではないけれど、そんな記録の一つをイチローが塗り替えたのは、何となく楽しい。
まあ、甲子園野球で東京代表チームが優勝すれば、やっぱりうれしいのと同じようなものだ。
とは言え、張本の記録が日本のプロ野球公式記録であり、偉大な記録であることはなんら変わらないとも思うし、今でも張本は尊敬に値する選手だったと思っている。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.4.21 「政治家のプロパガンダの片棒を担ぐな」

麻生首相が靖国神社の春季例大祭で、「真榊(まさかき)」を「内閣総理大臣」の肩書で奉納していたという報道があった。
「またかいな」である。
肩書がどうだろうと、しょせん麻生個人の宗教的な私事である。全国新聞が芸能誌のようにいちいち書き立てるようなことではない。
靖国神社が「国の英霊を祭っている」などと称しているにしても、一宗教法人が勝手に主張しているだけのことを、あたかも国民的関心事のように、取り上げること自体が時代錯誤だ。
むしろ麻生や自民党を支持する日本の守旧派に、麻生の個人的デモンストレーションを、来るべき総選挙に備えて、宣伝してやっているようなものだ。
こんなことをいちいち報道するから、中国だって韓国だって立場上、政府要人が遺憾の意を表明しなければいけなくなるし、そうなれば日本の韓中ぎらいの連中だって反発したくなるというものだ。
いったい今の時代にわざわざ隣国同士でことさらに対立的国民感情を煽りたてて、何のいいことがあるというのだ。
こんなこともわからずに、麻生個人の「私事」を「報道」する報道機関に、バカのレッテルをはらないわけにはいかないだろう。

ブログ「バカ印」
2009.5.7 「大和民族の国という幻想」

最近はテレビを見ながら、よくニョーボとうんちくを交わす。(他に交わす相手がいないのだからショーがない)
今日はNHK−BSの兵馬俑の蔵出し映像放送を見ていて、「秦」の話から、日本の「秦」「波田」姓や安曇族の話に及んだ。
司馬遼太郎が日本の渡来人や渡来文化についての考察をいくつも残しているが、歴史的教養として、日本人の成り立ちについて語られているものを目にする機会が極めて乏しいようだ。
わざと、あいまいなままボカしているように思える。
伝統的と言われている日本文化のほとんどは、南方と大陸の折衷だし、関東武士団や部民(べのたみ)の多くが渡来人の子孫だということも分かっている。
原日本人ともいうべき採集文化民族に、渡来した海洋民族と大陸農耕民族と騎馬民族が入り混じっているらしいというのは、ほぼ間違いないだろう。
文化の痕跡だけじゃなくて、日本人の顔立ちを見たってそう思える。
そんな多民族国家の統一王朝が、たまたまヤマトの地に誕生したというだけで、日本という国を大和民族の国家と呼ぶのはどうだろう?とつくづく思う。
朱子学的正統思想と、西欧流の民族主義国家思想とが、「大和民族国家」などというフィクションを作り上げたのだろう。
明治時代の近代国家化という価値観がそうさせたのだろうけれど、もういい加減そういう幻想を捨ててもいいような気がする。
いや、むしろ19世紀的民族国家観など、今の日本にとって有害だ。
多民族で多様性、おおいにけっこうではないか。
世界の広い文化を受け入れる多様性がなければ、たったの100年間で西欧近代国家に追い付き追い越せなかっただろうに、何も好き好んで偏狭な民族国家観に閉じこもる必要はない。
地デジ切り替えのためにテレビを(世間並の)大型に買い替えてから、それまであまり見なかった文化的な番組をニョーボと二人して見る時間が増えた。
高精細画面のおかげで今まであまり気にしなかったものまで、はっきりと見えるようになった。
と、同時にニョーボ相手に歴史の幻想を語って何が悪いと思うようにもなっている。
幻想があろうとなかろうと、奈良京都の歴史的興味は少しも損なわれることはないのだから。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.5.26 「目に余るNHKのニュース素材の使いまわし」

時間があるから、NHK中心にニュース番組をよく見る。
朝夕ともに6時前から7時過ぎまで見ていると、使い回しのニュースと頻繁に出っくわす。
映像の断片ならしょうがないのだが、一つのニュースがまるまるそっくり何回も繰り返されたりする。
朝ならば5時台から8時台までに2回同じことを繰り返すのは当たり前、夕方でも6時台と7時台とでは番組タイトルが変わっていても、同じ内容を流していることがある。
これはひどいと思うのは、全国ニュースと首都圏ニュースとで、読み上げているアナウンサーが違うだけで、同じ内容を繰り返すことだ。
時間帯が違えば、見る視聴者も違うという言い分かもしれないが、15分や30分の違いで見る人はそうは変わらないだろう。
ましてほんの数分の違いで繰り返されれば、番組制作者間でなんの調整もないのかと、たいがい腹が立ってくる。
有料放送であることを忘れてるんじゃないかと思ったりする。
ニュースワイド番組の中でのルポネタの使い回しも、非常に目につく。
これは放送会社間でも、放送と新聞との間でも、しょっちゅうやっている。
たぶん、どこかの局(新聞)で流したのを見て「これ、いただき」と安易に同じネタで内容を作っているのだろう。
あるいは制作の下請け会社がやっていることなのかもしれない。(もしかしたら同じ制作会社で作っているんじゃないかとさえ思う)。
まあ、民放なら無料放送だからしょうがないと思うのだが、有料のNHKと新聞で、コスト削減のために安易にニュースとネタの使い回しをするのはやめてもらいたいものだ。
と、こんなことを考えたりするのも、自分が「ノンビリこういうものを見たり読んだりすることができるという、実にお気楽なご身分だからさ」と、誰かに皮肉られるかもしれない。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.6.17 「自虐的と非難して封じ込めようとしているもの」

「足利事件」の菅家さんが、警察や司法関係の当事者の謝罪を求めている報道を見ていて、ふと思った。
国の過ちを認めることを「自虐的」と言うのは、大きなごまかしがあると。
足利事件についての報道を見聞きしていると、日本という国は、よほどのことがない限り、犯した過ちを認めない国だとつくづく思う。
第2次大戦の敗戦に至るまでの、この国が犯した過ちは何も外国に対して向けられたものばかりではなく、国民そのものを過ちの犠牲にしている。
周辺諸国への過ちを認めることに対して、それを「自虐的」と非難して覆そうとするのは、実はそれによって、日本の国民の多くが眠らせたままにしていた、国に対しての怒りが目覚めることを封じようとしているのだろう。
半世紀以上も昔でも今でも、たとえ憲法が変わり、政治制度などが表面上変わっていても、国家というものの素生は、そうたいして変わるものではないような気がする。
まあ、あくまでも「気がする」だけのことだから、誰かに「そんなことはないよ」と言われても、「ああそうですか」としか言いようがないけれど。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.6.24 「行政経験がなくてもなれる行政の長である総理大臣」

東国原宮崎県知事と自民党の古賀選対委員長との会談が、ちょっとした波紋を起こしているらしい。
ことの是非についての議論に、別に興味はないが、知事がいきなり国政の最高権力者の地位を望むという話は、なかなかもって新鮮には違いない。
これまでも知事から国政への転身の例は多いけれど、記憶にある限りでは総理大臣にまでなったのは細川護熙ぐらいなものだ。
彼とて参議院議員、大蔵政務次官を経て熊本県知事となったのだから、言ってみれば国政Uターン組だ。
ちなみにアメリカの歴代大統領を見ると、フランクリン・ルーズベルト以来、レーガン、カーター、クリントン、(バカ)ブッシュと州知事出身者がけっこう多い。
しかも最後の2人は州知事から上院議員を経ないで大統領に当選している。
日米のこの違いを政治制度の違いのせいにするのは簡単だし、議院内閣制と大統領制の優劣を論じてみても、大した意味はない。
しかし、行政の最高権力者が選ばれるプロセスにおいて、行政的能力の有無やキャリアがほとんど問われることがないという、今の日本の総理大臣の選出の実態は、はっきり言って「クソ面白くない」状態ではある。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.7.15 「栄光の座からの転落が近いシンタロー」

先日の都議選の自民党敗北は、ひさしぶりに気分が良かった。
石原3選を圧倒的に支持した都民までが、自公を見限ったのだから。
築地市場移転と新銀行東京の2点で民主党は、見直しを求めているわけだから、いくら国政が影響していると言っても、石原都政の批判が民主党の勝利に結びついていることは否定できない。
あー気持ちいい。
願わくば選挙向けのポーズだけでなく、民主党がこの後しっかりと石原ゴーマン知事と対決してほしいものだ。
それにしても慎太郎という存在は、若かったころはともかく、この数十年は弟裕次郎あってのものにすぎなかった。
慎太郎の息子たちの時も含めて、選挙となると石原軍団が大いにバックアップして、亡き裕次郎のご威光を仰いでいたことは、多くの都民が知るところだろう。(見かけとは裏腹に石原兄弟は愚兄賢弟の典型であると言われていたこともだ)
慎太郎の議会運営の命脈がかかっていた都議選と、その息子たちの当落が問題になっている総選挙の両方を前にして、あきれるばかりに大がかりな裕次郎の二十三回忌を催した仕掛け人は、いったい誰なのかは知らない。
だが、せっかくの壮大な石原ファミリーバックアップ作戦も、すでにその狙いの半分は外れてしまったというわけだ。
いつまでも亡き裕次郎のご威光をかさにきて、独裁者であり続けることはできないぞ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.7.19 「道路財源はもういらないのか」

道路特定財源はもう不要とかで、一般財源に繰り入れろだの、財源が要らないのなら道路関連税を廃止しろだの、いや炭酸ガス税的性格の税は国際的にみても必要だとか、立場の違う人間が勝手なことばかり言っている。
だが、本当に道路特定財源はもういらないのかという議論が聞こえてこない。
たしかに地方の道路は良くなった。
山奥にも立派な道路とトンネルと橋ができて、日本中どこへ行くにも不自由はなさそうだ。
だが、どこでもクルマで走れるということは、道路の充実を意味していないということを、国民はもっと意識するべきだろう。
都市の道路の大半は相変わらず狭くて曲がりくねった道が多いし、歩行者の安全やバリアフリーが確保されている道路など、日本中の道路の中のほんの一部にすぎない。
ライフラインの共同溝化などほとんど進んでいないようなものだから、日本中どこへ行ったって、道の上に電線が張り巡らされているし、ところかまわず不細工な電柱が立っていて、景観もへったくれもない上、年がら年中道路工事をして、つぎはぎの道路だらけだ。
こんなことぐらい、ちょっとクルマで走り回ってみれば、すぐ分かるはずなのに、それでも道路財源は必要ないという議論に夢中になっている連中には、やっぱり馬鹿のレッテルを貼るしかないだろう。

ブログ「バカ印」
2009.7.21 「食料自給率論のあほらしさ」

日本の食料自給率が40%にすぎないことを、大いに問題であると主張する人たちがいる。
ようするに、日本の農業漁業牧畜業をもっと保護し、農産物等の貿易障壁を高くすべきだと言いたいらしい。
ところが、この食料自給率なるもの、農林水産省が計算しているのだが、日本以外には主要国では韓国くらいしか採用していない「カロリーベースの自給率」で、しかも厳密な計算方法は非公開という、わけのわからん代物らしい。
しかも計算の分母とされている国内供給の食糧の全熱量合計とは、日本国民が必要としている食糧とは、ほとんど無関係に近い数字だ。
と言うのも、日本の食糧のうち、実際に消費されているのは、6割にも満たないと推定されているからだ。
こういう得体の知れない統計データで、国の食糧事情を云々すること自体が問題であるのに、それに踊らされたり、まして我田引水の術にしたりするような人たちには、やっぱりバカのレッテルを貼っておきたいものだ。

ブログ「バカ印」
2009.7.21 「もう相手にするな」

北朝鮮は「手に負えない子ども」のようなものだから、関心を払うべきではない、とアメリカのクリントン国務長官が発言したらしい。
まことに常識的な見方であり、当を得た発言だと思う。
アメリカにとっては、北朝鮮など少しも軍事的な脅威ではないから、そんなことを言えるのであって、近隣国にとってはそうではない、と反発する向きもあるかもしれない。
まして、拉致被害者関係者にとっては、北朝鮮を相手にしないなんてもってのほかで、アメリカはおおいに圧力をかけて欲しいだろう。
だが冷静に考えれば、北朝鮮の一連の挑発的行動は、経済的利益供与を得んがための外交的駆け引きにすぎないことは、素人目にも明らかだ。
あいにく日本の有力者には、クリントンのような責任と勇気のある発言ができる人間は見当たらないようで、「拉致問題の早期解決」を念仏のように唱える人間ばかりが目につく。
常識はあっても勇気がないのか、常識がないのか、どっちだろう。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.7.23 「気持ち悪くなる一方の日本人の風俗」

男女を問わず、いまだにピアスというアクセサリーを好きになれない。
せっかく五体満足に生まれながら、いったいなんだってわざわざ体に穴をあけてまで、オシャレをしなければいけないのか、まったく共感できないのだ。
親不孝の最たるものだと思っているから、自分の子どもには小さい頃から「親に養ってもらってる間は、ピアスは絶対禁止」と申し渡していた。
結果的に、子どもは成人した今でもピアスをしていないのだけれど、未成年の子のオシャレに制限を加えるくらい、親としては当然の特権だ。
耳のピアスでも好きになれないのだから、鼻だの口だの眉だの(その他、口にするのをはばかるような個所まで含めて)のピアスなんか、とんでもないである。
鼻にピアスなんかしてたら、鼻をかむときにピアスの穴から鼻汁が飛び出るんじゃないかと、あらぬ想像までしてしまうので、電車などで隣に鼻ピアス野郎が座ったりすると、あまりいい気もちはしない。
まあ、好きな人は勝手に体じゅう何十何百でも穴を開けたらいいのだが、ピアスは文化が退廃している一つの典型だ、と個人的には思っている。
でも、自分の子以外に「ピアスなんかやめろ」と言ったことはない。
そういう自分を、リベラルと言うのか、分別臭いと呼ぶのか、自分でもよく分からない。
妙なオシャレをしているのは若者だけじゃなく、オッサンたちも似たようなものだ。
「クール・ビズ」とかが提唱された時、服飾関係者が「ノーネクタイだと襟元がだらしなくなるから、シャツは襟高のものを選ぼう」などと、わけのわからんことを言い出した。
「これはあやしいぞ」と思っていたら案の定、いまや夏のビジネス用のシャツは、襟高でしかも襟ボタンが2つ以上などという代物が主流になった。
ようするに、ネクタイの代わりに新しいシャツを買わせようという業界の魂胆だったのに、バカなオッサンたちは、まんまと流行に乗せられ、襟元を暑苦しくして、なんともチグハグな格好で闊歩している。
いったい世の中で、どういう人種がいちばんキライかと言えば、不合理なものをありがたがる連中を置いて他にない。
見た目にも暑苦しいクール・ビズ・シャツ(それも悪趣味なカラーボタン付きだったり)なんかを着て、それがオシャレだとか、マナーだとか思っているようでは、およそ頭の中身が知れようというものだ。
あいにくテレビで見ていると、この国の有力者たちがそんな恰好をしているのだから、実に困ったものだと思う。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.7.29 「嫌がらせを受け続ける日教組にも問題あり」

昨日、東京地裁は、日教組がプリンスホテルなどに対し、損害賠償などを求めた訴訟の判決で、ホテル側に請求全額の支払いと全国紙への謝罪広告の掲載を命じた。
まあ当然の判決だろう。
だいたいこの事件にはホテル側の対応として、一般常識的には非常に不可解な点があった。
元もと日教組の全国集会がたびたびこの手の問題を起こしていたのは周知の事実で、宿泊客や周辺への迷惑を考慮するというのなら、ホテル側はそもそも会場使用の契約を結ぶべきではなかった。
にもかかわらず契約した翌月になって一方的に使用拒否を相手方に通知したとなると、ホテル側に何らかの意図があったものと疑わざるを得ない。
時期的に都内で代替会場を手配することが不可能であることを見越した上でのことだったろう。
そう考えると、会場を使わせるよう命じた裁判所の仮処分命令の決定に従わなかったのも、はじめからそのつもりだったものと納得できる。
ようするに日教組に対しての業務妨害を当初から意図していたということだ。
当然、その裏には自民党系の政治家などの働きがあったはずだ。(中山某とかいう議員のことを思えば、この推量も当然だ)
百歩譲って、そのような悪質な意図がなかったにせよ、当初から会場使用の契約を結ばないとの判断はできたはずで、ホテル側はその点での落ち度を責められてもしょうがない。
まして仮処分決定に従わなかったとなると、法治国家においてれっきとした著名企業の行為として許されるものではない。
だから、まあ2億円程度の賠償を課せられてもしょうがないところだろう。
だがよく考えると、果たして今回の事件に日教組側にも責任はなかったのだろうか、という疑問もわいてくる。
毎年毎年、会場施設側や周辺に迷惑をかけてまで、全国集会だの全体集会だのを行うべきものだろうか。集会の自由は憲法に保障された権利かもしれないが、公共の福祉に反して行使するべきものではないはずだ。
そう言うと必ず「右翼が悪い」「警備は警察の責任」と反論があるのだが、なかば右翼とのゲームのようにしている日教組にも、大いに問題はあると思う。
まあ一番悪いのは、こういうことをメシのタネにして、いい若い者が日中働きもせず、装甲車まがいの街宣車に乗って、世の中に迷惑をふり撒いている右翼に決まっているのだが。
まったく、あの街宣車が大音量で鳴らす品のない演歌と軍歌は、どうにかならんもんだろうか。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.3 「原爆投下の責任は日本の戦争指導者たちにある」

最近、原爆投下に対するアメリカ国内の謝罪批判についての記事を、立て続けに2件見た。    
謝罪したいとする立場の人は、純粋に人道的な気持からであるように思えるが、謝罪に反対する人たちはナショナリズムがそうさせているように見える。
なんだか大日本帝国の過去に対する謝罪の問題と似ている。
日本の謝罪否定論者の多くは、謝罪を自虐的であると、一般人には理解できないような不思議な議論を展開している。
こういう人たちは、アメリカ国内の原爆謝罪反対について、どんな感想を持つのだろうか?
「けしからん、絶対に謝罪すべきだ」と思うのだろうか。
それとも「ジュネーブ協定などに違反しているのではないから、謝罪には及ばない」と思うのだろうか。
それとも「勝てば官軍、負ければ賊軍」だから仕方がない、とでも思っているのだろうか。
ところで、原爆投下の責任は、ポツダム宣言を無視した当時の日本の指導者にあると考えるのが妥当だろう。
原爆被害者に対しての補償と救済に、いまだに決着がついていないことから見ても、この国の戦争被害に対しての責任感のなさは明明白白だ。
ポツダム宣言に対する態度にしても、「拒否」でもなく「検討」でもなく、単に「聞いてはいるが、あえてコメントしない」という実にあいまいなものだったという。
歴史的な常識から見て、戦争の終結が見えてきた時期の降伏勧告は、最後通牒のようなものであるから、それを無視したら、その結果として国民のジェノサイド、国家解体の憂き目を見ても文句は言えないのだ。
アメリカがあれほど日本の各都市に大空襲を浴びせながら、それでもなお皇居直撃と京都空襲だけは避けていたことを、いったい当時の日本の指導者はどのように理解していたのだろう。
まったく救いようのないほど愚かであり無責任だった。
この「なんでもあいまいにして責任を取らない」という国と(軍人も含めた)官僚の体質は、明治時代から連綿として続いて、現代に至っている。
こういう巨大悪に比べたら、原爆投下を決断したアメリカの指導者も、これにたずさわった元アメリカ兵の人々も、謝罪しなければならないほどの罪を犯しているとは思えないのだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.6 「貧乏な日本を支えてきたのは高い教育水準だったのに」

狭い国土で資源も乏しく、近代化に立ち遅れた日本が、明治維新後の数十年で欧米列強と背比べをするほどになり、第2次大戦の敗戦を経ながら、世界第2の経済大国と自称するまでになったのは、ひとえに日本人の教育水準の高さと労働力の質の良さのおかげだったということに、異論のある人はいるだろうか。
かつて、日本人の識字率の高さは世界トップクラスと言われた。
労働者が勤勉で向上意欲が高かったからこそ、大昔の殖産興業も近現代の高度成長も成り立ったようなものだ。
ところが今や日本の教育水準は、年々低下する一途のように見える。
教科別の理解力の国際比較ばかりが問題なのではない。
子供の自立を実現することこそが、親の義務であり、教育の本旨のはずなのに、少子化と並行して、子供の幼稚化を親と公共と関連業界が寄ってたかって推し進めてしまっている。
偏差値の高い学校に進学することや、まして形ばかりの高学歴などなど、子供の自立にも、社会の生産力向上にもほとんど役に立たないのに。
「子供はもっと自由に育つべきだ」というのは、世の中に氾濫する情報量が、今の1%にも満たなかった半世紀以上も過去の話だ。
昔は子供自身が育っていく中で、自由に遊びながらでも、情報を知識として自ら蓄積していくだけの時間的なゆとりがあった。
今はそんなことをしていたら、あふれる情報のうちの偏ったほんの一部を知識とするだけで、あっという間におとなになってしまう。
もっと子供に勉強させなければだめだろう。
子供には大人が勝手に思い込んでいる以上の可能性があるのに、学ばせる量が少なく質も低いから、頭の良い子は学校教育では不十分になり、勉強が好きでない子はさぼりたい放題になって、その親たちは学校が悪いなどと言う。
もっと子供の可能性を発揮させなければ。
さて、そんな時代に教育の無償化とは、いったいどんな意味を持つのだろう。
いや、これは子供にもっと勉強させることと引き換えの条件として必要だろう。
親も子供自身も、社会がそれだけの負担をしていることに対し、学問することが国民としての義務だと思わなければだめだろう。
教育は義務なのだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.9 「歴史的景観保存の推進はいいのだけれど」

この春にテレビを買い替えてから、BSハイビジョンの紀行番組をニョーボと2人して、よく見るようになった。
ほとんどいつも、ヨーロッパの景観(がよく保たれていることに)に感心するのだ。
それに比べて日本の景観保存(古いものを保存するという意味ではない)のひどいことについても、2人でよく嘆いている。
「紙と木と藁でできている家だから」とか「地震と台風の国だから」とか「戦災があったから」と、言い訳の弁のようなものを見たこともあるが、どうにもこれは国民性の違いに寄るものらしいから、なんともしょうがない。
最近になって、日本国中あちらこちらで「歴史的景観保存」に力を入れているようだが、今さら取り返しのつかない状態になっている所だの、哀れなほどに狭苦しい限られた空間だけを「保存」して、その周囲に思いっきり俗物を配置したままにしてある所だのが目立つ。
生活感が乏しくて、ただの陳列物のようになっているのを見るのも、なんとも心貧しいものがある。
繰り返して言うが、そのことは日本人の国民性に寄るものだからしょうがないだろう。
だが、もっと問題なのは、仮に上手に保存された歴史的景観が、この先に残ることがあるとしても、それをボクらが日本人の原風景として感じるのだろうか?ということだ。
例えばボクは、千枚田にも近江地方の水田風景にも北山杉にも茅葺き家屋にも、(たしかに美しさを感じるにはしても)自分の日本人としての原風景を見る思いは湧いてこない。
そこで感じるのは、ノスタルジアではなく、エトランゼとしての感傷なのだ。
考えてみれば、当然のことだ。
戦後の焼け野原の後に建った典型的な昭和の住宅で育ち、日本的田園も山野も、遠足でしか見たことがなかった。
テレビっ子として育ったから、生活スタイルのベースの半分以上はアメリカ流だ。
もっと始末が悪いのは、残った半分の日本的なベースも、ほんの百年ちょっと前の明治時代以後に、和洋ごった混ぜの中から生まれたものが大半を占めていることだ。
ちょっと振り返ってみても、今のわれわれの生活に密着しているもので、懐かしくて伝統的なもののほとんどが、明治以降に出来上がったものばかりだ。
そのせいだろう、ボクがなつかしいと感じる風景は、ただ一面の草原であったり、赤レンガの洋館だったりする。
日本人の原風景と呼ばれるものは、ただ名前だけの存在でしかない。
だが、自分の来し方が日本的であるかどうかということとは関係なく、たぶん、ボクは愛国心は人一番強いほうだろう。
日本の風土がこれ以上すさんでしまうことも、まして日本人の心が貧しくなることも、望んでいないし、なにより日本人である誇りを失いたくない。
日本はボクの家だからだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.10 「ヘアヌードが解禁になって出生率は低下(笑)」

篠山紀信が樋口可南子と宮沢りえのヌード写真集を出してから、日本国内では俗に呼ばれるところのヘアヌード写真が解禁になったようなおもむきがあった。
最近はすっかり男性向けの雑誌でも、その手のグラビアは下火になっているらしい。
(らしいというのは、もう何十年も下世話な男性向け雑誌なんぞろくに読んでないからだが、雑誌の新聞広告だけはいちおう丹念に見てはいる)
これ自体は大いにけっこうな話だと思う。
別に「ヘアヌード」はよろしくないと言うつもりはないが、なにも毎日のように発行される大衆雑誌に、これでもかと言わんばかりに掲載する必要はなかろうと思っているからだ。
見たい男性はちゃんとした美しいヌード写真集を買ったらいいのだ。
女性の裸体を表現すること自体は、太古からの自然な人間の欲求であるし、なにも「ゲージュツ」などと理屈っぽく言い訳しなくとも、美しいものを賛美し愛好することは人間の感情感覚としては、実に健全でまっとうなものだ。
そこに陰毛が写っていようといまいと、美としての価値に関係なんぞ無いと思う。
下世話な雑誌が、いかにも卑しげに提供するから、「ヘアヌード」が卑しげなものになってしまったし、下品に撮る写真家がいるから下品なものになってしまうだけのことで、そういう事情はなにもヌード写真に限らず、文学だって演劇だって陶芸だって報道だって料理だって、およそ文化と言われるものは少しも変わらない。
で、まあヘアヌードが下火になって、一般女性がむやみやたらと胸を露出する時代である。
ただ露出するだけならいいが、寄せて上げて、ないはずの乳房をあるがごとくに、見せなければ気が済まないという時代だ。
せっかく口説き落とした彼女とベッドに入った彼氏が、目にするのはまん丸に見えたバストが、ぺたんこになっているか、あるいは、だらしなく垂れさがっている姿というわけだ。
今どきの男性なら、そんなことはあらかじめ承知の上であるか、さもなくばたとえ大いに失望したとしても「きれいだ」と心にもない嘘をつくやさしさが必要だろう。
それがいやなら、はじめっから嘘いつわりのない豊満バストのない女性を口説けばいい。
ヘアヌードが下火になって、「寄せて上げて」いる女性に男性がやさしくしなければならない時代。
別にそれが悪いと言う気はないが、なんだか子供が減っているのも当然のような気がする。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.11 「東京住民を抜きにした首都機能拡大論」

両親は東京大空襲で焼け出されたクチなので、東京では生まれなかった。
だが成長期に暮らしたのは新宿だったし、結局、今までの人生の半分以上は新宿駅からほど遠くないところで過ごしてきた。
東京の「空気」を吸って生きてきた。
別に東京が良いところだなどと言うつもりはない。良くても悪くても自分のふるさとであることに変わりはないからだ。
石原なんとかというおぼっちゃま育ちの都知事が、東京の首都機能を維持拡大したいと、10年以上も奮闘していらっしゃる。
大きなお世話だと思うし、機能だけで都市を論じてなんか欲しくない。
むしろ首都機能も経済中枢の機能も、東京から分散して欲しいと思う。
わが家の周辺の商店街も、年々歯抜け状態になっていく。
「シャッター通り」はなにも地方都市だけの問題ではないのだが、おぼっちゃま知事の政策では、足元の住民の生活空間のことは一顧だにされていない。
そこに「住む」という意識のない人間が、生活感のない空間をひたすら拡大していったら、その先にいったい何が残るのだろう。
ふるさと東京が失われたその先は、ふるさと日本の喪失が待っているだけのことだろう。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.18 「群馬県民の選挙好き」

サラリーマンだった頃、群馬県は前橋市で数年間勤務していたことがある。
群馬県人は選挙好きと土地の人に言われ、実際、国政選挙のたびに、取引先の商店主たちが「忙しい、忙しい」と言いながら、ごひいきのセンセーの応援に駆け回っているのを見たりもした。
上州博徒のお国柄だから、なのだと言われた。
上州がなぜカカア天下で博徒が跋扈する土地になったのかという事情については、遠い昔に大学の日本経済史の講義の中で聞いていた。
だから、「選挙好き」と言われることも、元首相と現首相が隣同士の選挙区で勢力を競ったり、ろくに間をおかず首相を何人も輩出したりしたという土地柄であることも、なんだかやたらと納得したしまった。
念のためにことわっておくが、これはボクが勝手にそう思ったのではない。
れっきとした経済史の教授と、他ならぬ群馬県人のご卓説に共感したという話なのだ。
ところで今回の選挙では、この「選挙が大好き」という人たちは、いつもの選挙と比べて熱が入るのだろうか。
「センセーがあぶない」から、いつも以上に応援に駆け回るのだろうか。
それとも真の「博奕打ち」は、勝てそうにない目には張らないものなのだろうか。
群馬の選挙結果がとても楽しみだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.19 「解散時期を読み違えた麻生首相」

内閣府が17日発表した4〜6月期の国内総生産(GDP)速報値は、実質で年率換算では3.7%増、プラス成長は5四半期ぶりなのだそうだ。
いささか眉唾ものの数字ではある。
麻生「への字口」首相が解散をダラダラと先延ばしにした理由の一つが、これだろうということは想像していた。
麻生内閣の決めた追加経済対策の効果が出て、多少なりとも景気浮揚の希望が見えれば「不況時には、やっぱり自民党が頼り」という投票者が増えるだろう。
GDPの速報だけではなく、ある程度上向きの実感があれば、そうなったかもしれない。
だから小沢献金問題の直後の5月に解散すればいいものを、それを「への字口」が見送ったのを知って、追加経済対策の効果にそうとう期待しているな、と思った。
あいにく遅すぎた感が否めない。
なによりまず、追加経済対策をまとめるまでに時間がかかり過ぎた。
その上、他の条件が悪くなり過ぎで、都議選の敗北で自民党のダメージは決定的になってしまった。
「への字口」はたぶん「他人が思っているほど自分は馬鹿じゃない」と考えているのだろうが、福田「元サラリーマン」首相から解散含みで引き継いだはずなのに、時機を読み違えたとしか言いようがない。
まあ、漢字を読み違える人だから、時機を読み違えても、別に何の不思議もないのだが。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.20 「階級格差」

つい最近、歩行中の女性をバイクで追い抜きざまに、自分の大便を投げつけた大阪府の男が逮捕されたという報道があった。
仕事でイライラしていてやったのだそうだ。
女性に大便を投げつけたらイライラが解消されるなどと、どうして考えたのか、理解に苦しむ話だ。
これもやっぱり若者の持つ(この犯人は39歳だから、もう若いとは言えないが)現代的閉塞感が背景なのだろうかと想像してみる。
秋葉原や茨城の無差別殺人の犯人と、どこか通じるものがあるのだろうか。
なんでもかんでも閉塞感のせいにするのは考えものだが、この20年足らずの間に、日本の雇用構造と産業構造がガラガラと崩れて、安心して働ける職場が失われてきたことのツケが、回ってきているのは間違いない。
現代的な身分制社会と呼んでもよいような今の社会で、いったん下層階級に置かれてしまったら、よっぽど運が良くなければそこから抜け出すのは容易ではないだろう。
ツケは弱い人間のほうに回される。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.21 「小泉内閣と財界がもたらした経済のマイナスの循環」

日本の雇用構造が今のように多重多層になって、現代的身分制度社会を形作ってしまったのは、小泉奇人(元)首相に一端の責任があるだろう。
規制緩和の推進で、企業にとって都合のよい状況を作った結果、日雇い派遣などの雇用形態の矛盾が深刻な問題になったのだから。
もう一端の責任者である企業の側からすれば、小泉内閣の時代に企業の健康保険負担の(実に不当な)引き上げがあったから、一方で社会保険非適用の労働力を拡大しなければやってられん、という事情もある。
だがこれは日本経済に限りなくマイナスの循環を生んでいく。
日本企業の高い生産性を支えてきた質の高い労働力の維持は、今後おそらく深刻なまでに難しくなるだろう。
夫婦2人が働いても年収400万円以下という勤労世帯では、子供2人以上を育てることも、まして2人の子供にまともな高等教育を受けさせることも難しい。
住宅建築や自家用車といったすそ野の広い高度高額消費は、もはや望めないものになり、少額大量低級消費ばかりの社会へと落ち込んでいく。
そうした消費財の供給では、中国に太刀打ちできないから、日本の製造業の将来はますます暗くなる。
社会保険非適用の労働者が増加すれば、国の社会保険制度の運営が悪化し、結果的に企業の社会保険負担の増加を招くことは、先の健康保険問題を見ても明らかだ。
勤労者の実質所得は低下し、企業の保険料負担は増加する。
負担の増加に耐えかねた企業は、健康保険組合の解散や正規従業員減らしを選択せざるを得ない。
今まで政府のやっていた規制緩和とは、結局のところより不公平な社会的再分配を進めただけで、日本の国際競争力はいっこうに強化されたようには見えない。
こんなバカな政策を受け入れている財界人の頭の中身も、小泉ライオン頭(元)首相と同様、やっぱりどこかネジが外れているのだろうか。
「国際競争に勝ち残るために」を金科玉条のように唱えているだけじゃ、軍事と経済と次元が変わったというだけで、また太平洋戦争の二の舞になるだけだ。
どうにもこの国の指導者たちは、歴史から正しい教訓を得ていないらしい。
この際、向こう百年くらいは「国際競争に勝つ」というお題目を封印するくらいでないと、この歪みは是正できそうないような気がする。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.26 「善と悪という価値観を低下させた結果は」

善悪という価値観は人間にとって大切なもののように思うのだが、今の時代、そんなふうに思うのは少数派なのだろうか。
覚醒剤にしても、飲酒運転にしても、悪いことであるという認識がないとは考えられないのだが、あいかわらず事件があとを絶たない。
ということは、「悪いこと」=「やってはいけないこと」ではないという人間が多いからなのだろうか。
これは教育とか躾けとかで解決できる問題ではなさそうだ。
もっと本能的に「悪」を忌避するようでないと。
しかし世の中は、悪そのものではないにしても、なんと悪徳の魅力があふれているのだろう。
テレビ(いや映画だろうが雑誌だろうがそうなのだが)を見れば暴力と汚い言葉があふれている。
「てめえら、ぜったいにゆるせねえ」
って、これは悪役側のせりふじゃなくて、正義の(側らしい)主人公のせりふ、それも子供向けのアニメの主人公のタンカだったりする。
昔の「鉄腕アトム」はこんな汚い言葉は使わなかった。
「わるものどもめ、ぼくがゆるさないぞ」である。
だから、鉄腕アトムのアニメは最近まで何回か復活したが、昔の人気は取り戻せなかった。
強さとは暴力のことであり、強いヤツとは暴力的で悪徳の臭いのするヤツのことである、という時代になってしまったからだ。
青春映画が人気だった時代、加山雄三が石原裕次郎の人気の足元にも及ばなかったことを思い出してみると、真面目さや清潔さよりも、暴力的で破壊的で悪徳と背徳のにおいがするほうが、若者にとって魅力的なものになっていったのは、時代の流れかもしれない。
覚醒剤を使用する有名人はたしかに罪が重い。
だが、善悪という価値観を、かくも薄めてしまった社会では、いくら容疑者個人を悪者に仕立てても、何の見せしめにも、他山の石にもなりっこないような気がする。
学校で道徳教育をしたらいい、というようなノンビリした話ではない。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.28 「安月給の再雇用中高年者が若者の就労機会を奪う」

「厚生労働省が28日に発表した7月有効求人倍率(季節調整値)は0.42倍で、前月比0.01ポイント低下し、過去最低を更新した」という報道があった。
だからといって、単純に、働こうにも職がないというわけでもないだろう。
仕事は何とかあるにしても、家族を養ったり、生活に見通しが立ったりするだけの待遇が得られないという事情が、(特に東京あたりでは)現実には多いように思う。
ところで最近は国の政策のおかげで、定年後の再雇用契約で働いている中高年が多くなった。
自分の学校時代の同期連中を見ても、けっこう多い。
個々の事情というものがあるだろうから、今まで、あまりそれをウンヌンしたことはなかった。
だが、先の報道を見て、やっぱり「もう働かなくてもいい」境遇の人間はリタイアするべきではないかと、改めて思った。
定年延長とか、再雇用契約とか言っても、たいがいの場合、それまでの手取りの給料の半分以下になると聞く。
企業の側からすれば、改めて教育する必要のない経験者を、新人以下のバカ安賃金で雇用できるのだから、昨今の情勢からすれば、国から勧められなくたって、むしろそうしたいかもしれない。
しかしこれでいいのだろうか。
ゆとりのある中高齢者が、ゆとりのない若年者の就労機会を奪っていることになるのではないだろうか。
あるいは若年就労者の賃金相場の押し下げに、ひと役かっていることにならないだろうか。
仕事しか生きがいがないのなら仕方ないが、中高齢者が若年者の足を引っ張ってどうする?と思う。
そりゃまあ、経験者を本当に必要としている企業も、中にはあるかもしれないが、多くは甘言を持って安い賃金で中高齢者を働かせたいだけ、というのが実情だろう。
就労機会の創出は社会全体の責任だ。
自分自身の子どもが就労機会に恵まれないでいるとしたら、どうだろうか?

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.8.31 「民主党を政権につけて、それで終わりではない」

選挙が終わって、さっそく結果についてのコメントが新聞テレビに集められている。
お笑い芸人までがコメントしてるのは無視するとして、まあいちおう政治・社会評論家として売っている連中のなかにも、ずいぶんバカなコメントをするのもいる。
「前回は「郵政民営化」で小泉自民党に大勝させ、今回は「政権交替」で民主党に大勝させ、どちらも単純な争点だけで、こんなに簡単に政党を選んでいいのか?」というような発言をするヤツもいた。
バカもここまで来るとつける薬がない。
議会制民主主義という制度は、国民が学習しないと政治が進歩しないという宿命を持った制度であるということが、ちっとも分かっていない。
こんなことぐらい、市民革命以後の西欧近現代史を真面目に勉強していたら、常識として理解していなければいけない。
欧米の国民は日本の国民の何倍何十倍も学習して、今の政治社会体制を作ってきたのだ。
今回の政権交代の結果がどう出るかは全然分からないけれど、それが良くても悪くても、日本の選挙民は前回と今回の選挙で、実に大きな学習をすることになるだろう。
そのために多少の混乱が起きるとしても、民主主義の先進国が何百年かかけてきた進歩を、ほんの数十年かでやり遂げようとしているのだから、しょうがない。
それを無責任に「混乱」だの「振れ」だのと論評するから、バカだと言いたくなる。
ところで、話は変わるが、欧米でも市民革命を経ないで近代化した国家を見れば、二度もバカげた戦争を引き起こして、自国と周辺国に悲惨な災いをもたらしたドイツのような国が見つかるのだ。
日本は一度しか敗戦を経験せず、市民革命の「し」の字も経験せず、いわばお仕着せで議会制民主主義を本格導入しただけの国にすぎない。
その議会制民主主義といっても、明治憲法下の立憲君主制の殻あるいは亡霊から、やっと抜け出しつつあるという状態だ。
嘘だと思うなら国会議事堂の議場を見てみるがいい。
旧貴族院議場だった参議院に、国会召集者である天皇の席が議長席の後方上段に位置している。
では衆議院の議場には天皇の席はないのかと言えば、今でもあるのだ。
ただし、参議院と違って、議員の席と階段でつながる「同フロア」にはない。
議長席の後ろの壁からバルコニーのように突き出た「御座所」が天皇の席で、「衆」たる者どもとは席を同じくしない形になっているのだ。
臨場すれども臨席せずだ。ただし、その衆議院の「御座所」には戦後、天皇は一度たりとも坐したことはないらしい。
日本憲政上の歴史的遺物であるという理由で、今でもそのままにしてあるのだろうが、天皇がまさに議会に君臨していた形を今も残していることを、亡霊と呼ばずして何と言おう。
二世三世の国会議員が跋扈する現状にしても、そうだ。
神輿をかつぎたがる取り巻き連中がいるのは当然であるとして、一般人がいったいどうして二世三世をありがたがるのか。
その理由とまでは言えないが、そうした日本人の心の源流を理解したければ、国会議事堂の2つの議場の在り方を、実際に眼にしてきたらいいと思う。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.1 「日本全土に同じ情報が行き渡っているわけではない」

先日の総選挙のことだけれど、小選挙区で自民党が議席を独占することになった県がいくつかあった。
具体的には、福井県、島根県、鳥取県、高知県だ。
これはちょっとした驚きだった。
その反対に自民党が小選挙区で1つも勝てなかった県は、13県もあったから、その意味では、全国的にはバランスがとれていると言えるのかもしれないとも思う。
だが個人的には、この4つの県のことはよく憶えておこうと思った。
首都圏に長年暮らしていたせいで、新聞は全国紙を読み、全国ネットのテレビを見ていると、日本中どこでも社会的情報の中身は変わらないように、勝手に思い込んでいた。
だが全国紙を読んでいる国民の率は、実はそれほど高くない。
ちょっと古いデータでは読売、朝日、毎日、産経、日経の合計で約2700万部。
地方紙との合計では約4700万部だし、全国紙は一世帯で2紙を購読している(日経+1紙が多いだろう)場合も少なくないから、全国紙を読んでいる国民はざっと約半分ちょっとという程度ではないだろうか。
ところが新聞を読んでいる国民は90%を超えている。
それに比べると、テレビは全国ネットのニュースの視聴率は一桁台しかない。
たしかに全国ニュースやニュースワイド番組では、全国同一の放送を流しているかもしれないが、見ている人が少ない。
となると、政治や社会問題についての情報の広がり方は、全国均質ではないと考えるのが正しいような気がする。
ボクは今から8年前に、日本の漁業練習船が、面白半分の操船をしていたアメリカの原潜に沈められたという事件が起きたときに、官邸に帰らずにゴルフ場で続報をのんびり待っていたという首相が、森ナントカという愚物だったということを、今でも記憶している。
その森ナントカは先にあげた4県の選挙区ではないが、先日の総選挙でも、また小選挙区で勝った。
その地元で読まれている新聞は、圧倒的に県内紙であるそうだ。
もっともな話だと思った。
狭い国だけれど、日本の国内は同質でも均質でもない。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.2 「オリンピック招致運動の成否は?」

今日の未明に東京へのオリンピック招致運動の成否が分かるらしい。
リオデジャネイロあたりが良いなと、個人的には思う。
正直言って、金満大国の独占事業のようになってしまったオリンピックが、どこで開催されるかには、あまり興味はない。
たとえ日本で開催されようと、これはと思う試合をなまで全部観戦しようとしら、チケットを手に入れるのもたいへんだし、それだけの金もないし、それに厳重な警備の中を小さくなって入場するために、警官だらけの東京のあちらこちらに出かける気にはなれない。
結局テレビで観戦するのなら、どこの国でやろうと構わない。まあ、中継の時間によって、多少の寝不足にはなるだろうが。
南米でもアフリカでも極東以外のアジアでも、まだオリンピックは開催されたことがないのだから、日本で2度目の開催をするのは、世界の大陸を一巡してからでいいように思う。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.3 「敗れるべくして敗れた東京都」

大阪も名古屋もオリンピックを呼べなかったが、東京もやっぱりダメだった。
昨日「リオデジャネイロがいいのでは」と、この日記に書いたら、そのとおりになってしまった。
さっそく新聞には敗因についての見方が紹介されていて、関係者の「傷口に塩」を揉み込んでいる。
ところで、今までマスコミはあまり論評していないように思えるのが、東京招聘の責任者たる石原「世間知らず」都知事の舌禍についてだ。
選考の前日に、日本の記者団のインタビューに対して答えた内容を、もしIOCの委員が聞いていたら、きっとさぞ憤慨することだろうと思っていた。
「技術的な側面が冷静に評価されれば、必ず東京が勝てると思っている」とは、選んでもらう側の立場にいる人間の言葉にしては、あまりにも傲岸不遜だろう。
だいたいこの「おぼっちゃま」知事は昔っから傲慢で、自分の意にそぐわない人間を「頭がおかしい」などと決めつけることが多かった。
こともあろうに世界的なセレブリティーで人一倍自尊心の高いはずのIOC委員に「冷静に評価」しろとは、時期も立場も全然分かっていない愚かな人間でなければ、とても口にできないような言葉だ。
まあ東京開催には反対だったから、選考に敗れたこと自体は、個人的には満足だが、ずいぶんと恥ずかしい人間を世界の晴れ舞台に立たせてしまったものだとも思う。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.21 「道州制の必要性はどこにある?」

民主党に政権が代わって、地方自治拡大の機運が増しているらしい。
同時に、数年前から議論が進められている道州制検討の具体化も、進みそうな様子だ。
ところで、この道州制なるもの、いったい一般国民はどの程度に必要性を感じているのだろう。
少なくともボク個人は、まったく必要だとは思っていない。
都道府県でも国でもできないことがあるというのなら分かるのだが、日本のように狭い国の行政を細かく分けることが、国民の暮らしにとって、いったいどれほどの役に立つというのだろう。
都道府県ではできないというのなら、いったい国の役割はなんなのだろう。
国の役割は、国防や外交などに限定するのが良いと、まことしやかに言っている連中は、いったい何を持って根拠として言っているのだろう。
だいたい今の都道府県制と市町村制の2層構造でさえ、行政の無駄の最たるものだと思っているのだが、この上、屋上屋を重ねて、どんな良いことがあるのだろう。
と、この話題はまだまだ続くのですが、今日はこの辺まで。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.23 「都道府県性は良い制度なのか?」

都道府県のほとんどは、江戸時代まで続いた六十余州と呼んだ令制国をそのままか、統合あるいは分割して出来上がったものだ。
その元をたどれば、大化の改新以前にいたる。
だから今の日本地図を眺めてみると、例えば長野県などは一つの県であることが、なんとなく納得できるのだが、静岡県のように伊豆、駿河、遠江の三国が一緒になった県などは、実に不思議な形をしている。
よくこれで静岡県人は一つの県民でくくられて我慢しているものだと思う。
東京の町田市は神奈川県にデベソのように突き出しているのだが、ところが神奈川県側から見れば、麻生区と青葉区はやはりデベソのように東京都に突き出ている。
この状態で住民に不満がないのだとすれば、都民あるいは県民であることよりも、町田か横浜か川崎の市民であれば、それでいいのだという話になってしまう。
公共事業の問題を傍観者的に眺めてみると、県の存在など邪魔でしかないと思うことがある。
政治システムとしては中央集権制のほうが効率的であることは、昔から指摘されているそのとおりの事情は今でも変わっていない。
「おらが国」意識は、文化としては大いに尊重されるべきだと思うけれど、行政単位としては、もはや前近代的であるとしか言いようがない。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.24 「アメリカ(兵)は日本(民間人)の敵」

アメリカが日本の敵国、などと言ったら「いったいなんのこと?」とか「戦前じゃあるまいし」と嘲笑を浴びせられそうだ。
でも「アメリカ軍」が日本人の生命・財産を脅かしている存在であるということは事実だ。
たしかに、事故あるいはアメリカ兵の個人的な犯罪による被害かもしれないが、アメリカ軍が占領時代から今日に至るまで、日本人に与えた被害は、ずいぶんなものがある。
しかも与えられた被害に対して、アメリカから国家的な賠償を受けたことはない。
北朝鮮による拉致の被害も、小さなものとは言えないが、半世紀に及ぶアメリカ兵による暴行・殺人・傷害の被害と比べたら、どっちが大きいと言えるだろう。
国家的な行為によるものではないからといって、単純にアメリカのもたらした被害を許容できるのは、よっぽどおめでたい人だと、個人的には思う。
現在でも日本の敵国は、依然として中国、北朝鮮、ロシアだと認識しているのが日本人の大半だろうが、これらの国の軍用機やミサイルが日本に被害を与えたという事件をいまだ聞いたことはない。
もちろん、これらの国が日本の漁船を拿捕したり銃撃したりということはあるのだが、領海侵犯や漁業協定違反といった口実が、いちおう相手にもある事件だ。
(もちろんそういう口実だって許容できないものが多いのだが)
平和に生活している人間がいきなり強姦されたり、家もろとも母子が焼き殺されたりするほうが理不尽であるように思える。
数年前に沖縄の大学構内に米軍ヘリコプターが墜落した時も、アメリカ軍が駆けつけて真っ先にやったことは、大学の私有地である墜落機周辺からいっさいの日本人を追い払うことだった。
アメリカが日本の敵国であるというのは、むろん冗談である。
だが(どこかの)敵国から、国を守るために味方になってもらっている国のほうが、現実的に日本人の生命財産を奪っているというのは、なんとも皮肉な話だ。
ボクはそういう目で、民主党政権になって沖縄米軍基地再編問題がどうなるのかを見ている。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.10.29 「女と女性の区別は言葉の差別」

最近ある女性が結婚詐欺と連続殺人の容疑者として、毎日のように新聞テレビでとり上げられている。
その呼び方なのだが、新聞でもテレビでも「女」であって、決して「女性」とはされない。
もちろん男性の場合でも、事件の容疑者は「男」と呼ばれるから、別に男女差別というわけではないが、どうにもこのマスコミ用語には引っかかるものがある。
例えば交通事故の加害者も、「男」とか「女」と報道されている。
被害者は「男性」であり「女性」なのだ。
まるで個人の氏名で言えば、呼び捨てと「さん」付けのようだ。
だが、これってどこかおかしくないだろうか。
容疑者、犯人、あるいは裁判の被告は「女」で、女性とは呼ばれない。
一方、刑務所の受刑者になると「女性」と呼ばれているのだ。
いったい、いつから「女」(「男」)とは犯罪者を指すようになったのだろう。
これではそのうち、伊勢物語の「昔、男ありけり」も土佐日記の「男もすなる、日記といふものを、女もしてみむとて、するなり」も、いちいち注釈を付けなければ、 犯罪者のお話になってしまうことだろう。
まして「男らしい」などと言ったら、褒め言葉なんかどころではなくて、いかにも悪いことをしそうな奴という侮蔑用語になってしまうだろう。
だいいち、容疑者として「男」と呼び捨てのようにしていた人が、裁判で無罪になったら途端に「男性」になってしまうなんか、おかしいじゃないか。
みょうな「言葉狩り」のおかげで、むかしは別に差別的な意味で使ったわけではない言葉も、一部に差別的に使用する場合があるからといって、多くの言葉が使われなくなってしまった。
あえて言うが、「びっこを引く」などはその例だ。
頭のおかしい人権主義者が言うのなら、しょうがないと聞き流すこともできるのだが、れっきとした新聞テレビが「言葉による差別」と「言葉の差別」を、いっしょくたにして推進している今の風潮は、このまま放っておくと、タダでも貧しくなりつつある日本語のボキャブラリーを、ますます寒々しいものにしていくだろう。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.11.3 「天皇誕生日」

今日という日を「文化の日」と呼ぶよりも「明治節」と呼ぶ方がなじんでいるという人たちが、昔はけっこういた。
さすがに11月3日が文化の日になって、もう60年以上たったから、今さら明治節と言ったって「何のこと?」という人のほうが多いだろう。
もちろん古い人たちは、何で明治節が文化の日に変わったかという事情くらい、よく知っているはずだ。
しかし4月29日が「みどりの日」から「昭和の日」に変わったのは、これとは逆行するような感覚をおぼえる。
天皇誕生日からみどりの日に変わって18年もたって、すっかり国民に定着していたはずの祝日を、何で今さら「昭和」の日にしなければいけなかったのか。
まあ過ぎたことを蒸し返してもしょうがないけれど、いまだに納得できない。
ところで今の天皇誕生日である12月23日は、将来どうなるのだろう。
天皇が代われば、当然天皇誕生日も(このままいけば2月23日に)変わるはずだが、「昭和の日」を先例にして「平成の日」という名の祝日として残されるのだろうか?
そこまではいいとして、同じことを天皇が代わるたびにやっていったら、そのうち一年中「なんとかの日」とやらになってしまう。
ざっと1万年も経ったら、1年のほとんどが旧天皇誕生日の祝日ってことになるけれど、まあそんな時代まで、日本という国が存続するとも、まして天皇制が続くとも考えられないから、別に今から心配する必要もないのだが。
実際には在位何十年以上とかなんとか大枠での条件が決められることだろうし。
それにしたって、亡くなった後に自分の誕生日が国民の祝日として残されない天皇(大正天皇がそうだ)となってしまったら、いかにも影が薄い存在だったってことになりそうで、ちょっと気の毒ではある。
さて「平成の日」という日ができるのかどうか?
たぶんその頃まで生きているだろうけれど、知ったこっちゃないなあ。

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2009.11.5 「日本の技術力神話の崩壊」

F1レースの世界で、中島悟が日本人最初のフルタイム・ドライバーとして、参戦した1987年から、ずっとF1をテレビ観戦してきた。
深夜の放送が多いので、全部は生で見られなかったから、ビデオ・デッキをはじめて買った。
以来、HONDAとTOYOTAという日本企業か、中島親子、鈴木亜久里、片山右京などの日本人ドライバーが、必ずF1レースの世界に存在してきたのを見続けてきた。
それが今年で途切れてしまう。(たぶん中島ジュニアと小林可夢偉には来季のF1シートはないだろう)
あの巨大企業TOYOTAでさえ、今の自動車業界を取り巻く環境の変化に逆らうことはできない。というのが新聞での論評だったが、ボクの見方はちょっと違う。
なるほどたしかにレースの専門家から見れば、TOYOTAの参戦の仕方は、チャンピオンシップを獲るだけの目的からすると、はなはだ非効率的なものだったかもしれない。
だがF1参戦以前からドイツに拠点を置いて、モータースポーツに取り組んでいたTOYOTAである。
有り余るほどの資金と技術者を投入しながら、チャンピオンになれないまま撤退せざるを得なかったことを、環境変化のひとことで片づけていいとは思えない。
あるいは昨年限りで撤退したHONDAにしてもそうだ。2009年からのレギュレーションに合わせて、昨年のシーズンをほとんど捨ててまでして開発したクルマを、ブラウン・チームが走らせて今年のチャンピオン・シップを獲ってしまった。
この結果を見て、早すぎた撤退の決断を惜しむ声もあるのだが、ボクはそうは思わない。
他のチームに比べて、資金力も技術的な体制も経験も劣っていたはずのないHONDAが、2000年の(3度目のF1)参戦から昨年までの9年間で、たったの1勝しかできなかった。
あまりにも勝てないので、HONDAは昨年のシーズンを新レギュレーション向けのクルマの開発に傾注せざるを得なかった。
他のチームが当面のレースに傾注している間に、先駆けて開発したから、ブラウン・チームが継承した元HONDAのクルマは、今シーズンの前半までは早かったというだけのことで、シーズンも後半になったら、他の有力チームに追い付き追い越されてしまった。
TOYOTAもHONDAも、ろくに勝つことができないまま、F1から撤退せざるを得なかったのは、なぜだろう。
日本の技術力の神話が崩壊していることの表れだろうか。
いや、たぶんそうだろう。
もちろんレースの専門家の見方は違うかもしれないが、ボクには技術立国日本の現状を象徴しているようにしか見えない。
これまでは燃費や信頼性といった日本企業のクルマの品質の高さが、欧米市場での成功をもたらしてきたかもしれない。
だけどそうした優位性が今もあると、いったい誰が信じられるのだろうか。
団塊の世代が、大量にリタイアしていく時代を迎え、技術の継承が問題になっている企業が多いらしい。
そんなことまで考えると、日本の未来は、はなはだ心もとない。
いつまでも日米同盟だの少子化対策だの政権交代だのと、目先のことばっかり言ってられる時代じゃないだろう。

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2009.11.19 「ビートルズ世代とか全共闘世代とか言われたくない」

ビートルズの人気が絶頂だった頃、大きらいだった。
今だってあまり好きじゃないし、ミュージシャンとしても、ソングライターとしても、たいして評価していない。
ロックじゃないし、要するにポップスターとしてしか見ていない。
ミュージシャンとしてなら、他にもっと高く評価しているグループがある。
だがキライだという最大の理由は、あの長髪だった。
日本でもビートルズを売り出した頃のマッシュルーム・カットなんて、実にひどいものだったと今でも思うが、その後はもっとひどくなった。
60年代の後半から男性のロング・ヘアが流行ったのも、ビートルズがひと役買っていると思っている。
(今でも男性のロング・ヘアは好きじゃない。)
同世代のオッサンたちの多くは、今でこそカラオケで演歌なんか歌ったりしているが、かつてはロング・ヘアにすそ広がりのパンツをはいて、ギター抱えて反戦フォークだのビートルズの曲なんかをガナッていたのだが、、、
昔のそういう同世代の行き方がキライだった。
どうせ流行を追っているだけのことで、年を取ったらみんな変節するだろうと思っていた。
革命だの反戦だのと叫んでロング・ヘアにヘルメットかぶって機動隊に石を投げているのも、ただの流行に乗っているだけの行動だとしか見ていなかった。
結局、今あらためて思いなおしてみても、やっぱりそのとおりでしかない。
そんなわけで、かつて自分の世代をビートルズ世代だの全共闘世代だのと呼ばれることが、いやでしょうがなかった。
今でこそ堺屋太一のせいで「団塊の世代」などと呼ばれるのが当たり前になったが、もちろん団塊の世代と呼ばれるのだって好きではない。
それはともかく、昔のロング・ヘアのほうが、最近の若い男性俳優の「鳥の巣頭」なんかよりは、まだましだと思うようになったということは、それだけ自分が年を取ったということだろうか。
もっとも長髪が好きだの嫌いだのと言っても、今の自分の頭には、長く伸ばしてどうにかなるほどの髪の毛はもうないのだが。

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2009.11.30 「参議院は無駄の象徴」

最近は連日のように国の事業仕分けがニュースになっている。
国の政策や制度の無駄についての意見も、あちらこちらで目にする機会があって、たしか民主党のマニフェストの中には、衆議院議員の定数削減も入っていたような記憶もある。
たしかに今の衆参両議院合計で722名の国会議員というのは多すぎるような気がする。
こんなに多数いると、そりゃ中には政策に関与することもない、議決のための数合わせのような議員だって多くなるだろうから、定数をもっと減らせだの、国会議員の報酬が多すぎるだのという意見だって出てきて当然だ。
だが、議員定数の無駄を言うのなら、日本の国会の二院制の無駄のほうが、もっと採り上げられていいんじゃないだろうか。
だいたい今の日本の参議院なんて、戦前の貴族院が変わっただけの身分制社会の名残りのようなものではないか。
戦後の日本の社会体制を構築したアメリカが、自国が二院制を敷いているから、そうしたのだろうが、議会制民主主義にとって二院制なんて、民意反映の即時性を損なうものでしかない。
だいたい、総理大臣に解散権という強力な権限を握られた衆議院が、解散のない参議院に対して国会議決においての優越性を持つなどという二層構造なんて、いったい民主主義的立法制度として、どれほどの意味があるというのか。
身分制議会からの流れをくむ英米の二院制を、いつまでも形だけ真似するのなんて、たいがいでやめたらいいと思う。
まあ参議院の廃止となると、憲法を改正しなければ実現できないわけで、憲法改正というのは事実上タブーになっているのから、現状を変えるのはむずかしいかもしれない。
だが逆に、こういう問題から憲法改正の必要性を訴えてもらうと、もう少し憲法問題の議論も前向きになるのじゃないだろうか。

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2009.12.5 「政府首脳はどこの国から給料をもらっているのか」

「キミは誰から給料をもらってるんだ!」とは、かつての上司から叱責された時の言葉です。
取引相手との交渉が順調でないことを説明していただけだったのですが、上司にしてみれば、こちらがクライアントであるのに、相手の立場でモノを言ってるように聞こえたのでしょう。
その時は「自分にとって不都合なことは聞きたくない」という上司の態度に、ずいぶん不愉快な思いをしました。
「少なくともあんたからじゃないよ」と腹の中でつぶやくしかない自分が、情けなかった。
しかし最近この言葉をボクも言いたくなっている。
普天間基地移設問題についての、政府首脳(中でも岡田、北沢氏)の国民と沖縄県民に対する弁を聞いての話だ。
言ってみたいなあ、彼らに面と向かって。
「アメリカと日本のどっちがあんたらの給料を払ってるんだ」って。

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2009.12.11 「政権が交代しても止まらない歳出膨張」

今年の国の税収は予算を7兆円も下回りそうだという。
それなのに、この国は8兆円もの第2次補正予算を組もうとしているし、来年度は税収の2倍をはるかに超える歳出予算を編成しつつある。
まあそのことはいい。
これも国民の選択の結果なのだから。
家庭や企業の会計だったら、もうとっくに破綻してるような財政なのに、一般人の関心はそんなところにない。
いや一般人どころか、政治家も専門家もマスコミも、数字的なことは口にするが、国家財政の破綻へのシナリオについてはいっさい口をつぐんでいるように見える。
新規国債の引き受け手がなくなれば、日本の経済そのものが破綻するはずなのだが、そういう想像するだに恐ろしいことには触れたくないらしい。
だが国の財政が破綻しないなどというのは、神話にすぎないことは、すでにいくつかの国で実証済みだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.12.19 「宮内庁長官は政府機関の一部署の長なのに」

天皇陛下と習近平・中国国家副主席との会見についての宮内庁長官羽毛田某の記者会見の発言は、実に不愉快だった。
そもそも宮内庁は内閣府の下に置かれている政府機関にすぎないのに、その責任者が上司である首相からの指示について批判すること自体が、おかしい。
懲戒免職にしてもいいくらいだと思う。
宮内庁の役人は、いまだに明治憲法下の宮内府と同じ意識なのだろうかと疑ってしまう。
こんなことがまかり通ることこそ、役人が大臣をなめていることの表れであるとも思う。
いっそ宮内庁を廃止して、内閣府の部局の一つにしてしまった方がいいのではないだろうか。
会見の相手は次代の中国国家元首と目されている人物なのだ。
(諸外国から見れば)日本の国家元首である天皇と会見することぐらい、当然と言うべきだろう。
1か月前までに予定することが慣例であると言うが、その慣例とはいったい誰が誰のために作ったものか、国民にちゃーんと説明できるのだろうか。
つい数日前、夕方のTVニュースを見ていたら、天皇皇后が都内の百貨店で催されていた「2009年報道写真展」を鑑賞したとの報道があった。
公的な行事として行ったのか、私的なものだったのかはニュースでは分からない。
だが「1か月ルール」だか何だか知らないが、国家元首クラスの要人と会見することと、写真展を見物することとが、同じルールの上で取り扱われているような印象で、実に不愉快だった。
まあ、羽毛田という人物は、以前から皇太子一家に対して何かと(個人の人格を否定するような)批判的な発言を繰り返したりという問題人物だから、この際、罷免しておくのが良いかもしれない。
そうでないと、くだらん騒ぎに巻き込まれる天皇が、むしろ気の毒だ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2009.12.22 「ややこしい減税話」

道路関連税の暫定税率のうち、ガソリン税に関しては実質的に存続させるそうだとか。
わが家の使用するガソリンだけに限って言えば、この1年で約400リットルだから、1リットル当たり25.1円の暫定ガソリン税の負担は約1万円。
クルマの用途はほぼレジャーだから、レジャーの費用が1万円かさんでいるだけというわけで、廃止されようと存続しようと、直接的には家計にさしたる影響はない。
だが、ガソリン車を何台も使用している事業者にとってみれば、あてにしていた大きな減税がパーになってしまうということだ。
密集住宅地の都市生活者には、クルマのあるなしは大きな意味を持たない場合が多いが、仕事にも買物などの日常生活にもクルマなしでは済ませられない世帯にとってみれば、やはりせっかくの減税のチャンスがパーになったということだ。
クルマなしではパート仕事にも出られない地域は、都市生活者には想像できないくらい多いのだが、、、。
ただし重量税の暫定税率は下がるというから、減税ゼロというわけではないらしい。
子ども手当の一律支給や高校授業料無償化のいっぽう、所得税の扶養控除は大幅に削減になる。
(今日23日のニュースでは配偶者控除の廃止は見送りになるらしいから、そう大幅な削減にはならないようだ。)
一見すると、プラスマイナスゼロみたいな話だが、世の中にはけっこう「いい暮らし」をしていながら、「節税対策」と称する実質脱税で、ろくに所得税も住民税も払っていない世帯も多い。
こういう連中は負担増はなくて、取り分だけが増える。
その半面、節税対策もへったくれもない源泉徴収のサラリーマンの世帯では、平均以上の所得であれば、おそらく実質減収になることだろうから、来年の給与明細を見て嘆く人たちはさぞ多いだろう。
(23日のニュースで見た試算では、手取りが増えるケースばかりだった。所得控除廃止をかなり後退させたからそうなるのだろう。)
いろいろ議論はあるだろうが、「パイ」の大きさは政権が代わろうと代わるまいと変わらないのだから、こういうことになってもしょうがない。
誰かが得をした分、誰かが損をするだけのことだ。

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