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過去に漫画クラブと漫画クラブ以外にブログなどで書き連ねた「放言」を集めてみました。
的外れのことを書いていたり、予想や妄想が当たってしまったりと、まさに放言ですが、その時代を振り返るのも面白いかと思い、ここに再録することにしました。

−2011年−


日    付
2011.1.14 「記者会見という茶番」

6時からのNHKニュースを見ようとテレビをつけたら、菅直人の顔が視界に飛び込んできた。
しょうがないのでしばらく見ていたのだが、内輪で予め取り決めしていたとしか思えないTV・新聞の記者たちの質問と、空疎な菅の回答に、すぐに飽きてしまった。
どう見ても、記者たちの質問にまともに答えてなんかいないのだが、1社1回限りの質問では、どう答えようと首相の勝手気まま。
次に指名された他社の記者は、自分が予定していた質問をするのみで、はぐらかされた質問については放ったらかし、記者同士の連携は全くゼロ。
だから内閣改造の記者会見などと言っても、まったくただの形式で、ほとんど何も新しい情報も政権担当者の見解も得られはしない。
ただのなれ合いの記者会見など、いっそやめてしまえと言いたいけれど、ああいう奴らは、それが仕事だと思っているのだろうから、なんともいたしかたない。
政権が代わろうと日本が変わるはずもないのも当然だと、今さらながらに思う。
政権を代えるには、かろうじて選挙の一票という手段があるけれど、マスコミを変える手段は、まったくないということが、ちょっと悔しい。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.1.30 「東京都民だけど渋谷区民であるとは思ってない」

大阪府知事のタレント弁護士が「大阪都」構想なるものを打ち出している。
大阪府民じゃないので、別に大阪市が大阪府と一体になろうとなるまいとどうでもいい。
だが東京都民であるボクには、今の東京都の行政区割りについては、どうにも共感できないものがある。
他の府県ならば、たとえば県民意識というものがあるだろうし、それに併行して市町村民意識というものもあるだろう。
ボクには、県民意識に相当する都民意識はあるのだが、市町村意識に相当するものがない。
渋谷区民だから、区民意識というものがあるだろうと言われば、「全くない」と答えるしかない。
もう40年も渋谷区に住んでいるとはいえ、渋谷の繁華街よりも新宿駅周辺のほうが地理的に近いので、若い時からはるかになじみのある街で、住所のことさえなければ新宿区民であると自称したいくらいだ。
情報処理の進んだ今は、住民としての手続等も、ほとんど出張所で済ませられる時代なのに、こんな狭い土地をちまちまと23の行政区に分けられているのは、はなはだ迷惑でさえある。
23区制などやめて東京市に統合してもらいたいと、つくづく思う。
そういう意味でボクは東京都民ではあるのだが、東京都(市)民ではないという今の状態が不満だ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.1.31 「確定申告なんて簡単だ」

そろそろ確定申告の準備を始めようと思う。
もう5回もやってきたから、手順も必要書類もいちいち確かめるまでもないと思っている。
たぶん1日で作業は終わるだろう。
自営業じゃないし、年金以外の複雑な所得もないから、実に簡単だ。
民主党政権は、ようやく年金と税金とで共通番号制度を、実現することに踏み出すらしい。
情報処理化の時代にあって、遅きに失した感もあるけれど、何もしないでいるよりはましだ。
消費税増税を具体化する前に、ぜひ共通番号制度の導入で、脱税・インチキ節税の芽を摘み取ってもらいたいと思う。
共通番号制度が拡大定着すれば、サラリーマンの源泉徴収制度を廃止して、全国民が確定申告することも容易になるから、税金の使われ方に対する国民の意識を飛躍的に高められるはずだ。
預貯金利息の一律課税を総合課税に改めることも可能になるから、株式所得への課税も含めて、金持ちほど有利な今の税制を改善することもできるだろう。
まあそこまで一足飛びに実現するはずはないけれど、少なくともその端緒になることだけは期待できそうな気がする。
だから共通番号制度が実施されるその日までは、とりあえず民主党政権を支持しようか。
(あくまでも心情的に支持するという意味で、選挙で投票してやるかはまた別の話)

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.2.11 「ドイツではナチズムを憲法で禁止したというのに」

毎年、建国記念日の時期になると、全国各地から右翼団体の街宣車が東京に集まってきて、繁華街や主要道路を野良犬のようにうろうろしている。
物騒ないでたちのクルマがうろうろしているだけでも不愉快極まりないのに、法令無視の馬鹿でかい音量で、意味不明のアジ演説だの、下品な演歌だのをスピーカーで流すのだから、たまったものではない。
野良犬と一緒で、うかつに手を出したら、こっちが大けがをするから、無視を決め込むしか手がない。
どうせ怪しげな資金稼ぎをして、あんな活動をしているのだろうが、まったく、いい若いもんが、くだらんことばっかりしないで、もっとまじめに働けと思う。
これというのも、日本が敗戦した1945年の戦後処理の際に、皇国思想や軍国主義を徹底的に、この国から排除しなかったからだ。
ドイツがナチズムを憲法上で禁止したことと同じことを、なぜ占領軍は日本にも強いらなかったのだろう。
たぶん市民社会というものが成立していたドイツやイタリアに比べ、日本という国の市民社会化があまりにも未成熟だったから、旧体制を緩やかに変革させたほうが、戦後統治に都合よいと考えたのだろう。
ムバラクのエジプトをはじめ、民主主義未成熟国家に対しては、アメリカは基本的に民主化よりも国家体制の安定を望むというのが、伝統的な国策であるようだ。
そんな風に考えると、あのクソみたい街宣車がウロウロするのは、アメリカの占領政策のせいかと、腹立ちの矛先が変わってしまう。
まあ、厚木基地周辺や沖縄本島に住んでいるわけじゃないから、同じ騒音でも、年に数回聞く程度の街宣車のほうが、年中とどろく軍用機の爆音よりはまだましか。
それにして、建国記念日というのは、あんまりいい日じゃないなあ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.2.25 「いつまで臣下のつもりでいるのだ」

夕刊を読んでいたら、「寛仁さまが退院」とかいう記事が目に入った。
アル中のひげの殿下の記事だ。
皇族の誰それがすべったのころんだのなど、別にどうでもいいのだけれど、記事の文章に「寛仁さま」とあるのが気に入らなかった。
今どき、日本国民で自分たちが皇族たちの臣下であると思っている人などいないだろうに。
では臣下でない国民が皇族を「××さま」と呼ぶ理由は、いったいなんだろう。
皇族を国民が尊敬しなければならない法的な根拠も、道徳的な理由も、今の日本には存在しない。
皇族の長である「天皇」について、日本国憲法に「国の象徴であり、憲法の定める国事を行う」存在であると規定されているだけであって、皇族全般を「うやまえ」という定めは、どうひっくり返したって出てこないはずだ。
敬称を付ける必要があるのなら、「さん」か「氏」で十分だし、皇族は一種の世襲役職のようなものだから、肩書として「親王」と付ければいいだろう。
それとも、国民全般は皇族の臣下ではないけれど、マスコミの人間は、相変わらず臣下のつもりでいるのだろうか。
それとも右翼だの頭のおかしな政治家だのに、妙な難癖をつけられるのを恐れているのだろうか。
どっちにしても、無責任で後ろ向きの考え方だ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.2.27 「大迷惑な東京マラソン」

昨日、都庁周辺を歩いたら、ずらーっと並んでいた簡易トイレに圧倒されてしまった。
今日は、朝っぱらから都庁の上空を中継用らしいヘリコプターが舞って、2km以上も離れたわが家でも、その爆音がやかましい。
競技時間中は、都心を何時間も交通規制が敷かれているらしいが、自動車はおろか、場所によっては歩行者も普通に道を歩くことが許されない。
ボクは、市民マラソンや競技マラソンを否定する気持ちはないし、むしろトップクラスのレースのTV中継は面白いとも思う。
だが東京マラソンは違う。
ただの巨大商業イベントだと思う。
コースを考えればよくわかる。
そもそも参加料1万円也を納めた3万人余の人々が都心を走るだけのために、なぜ一般都民が何時間も交通規制を我慢しなければならないのだろう。
こんなイベントをしないと困る事情なんて、東京都民には観光事業上も、文化上も、はたまた健康管理上も全くないじゃないか。
地域イベントとしての市民マラソンの意義とはわけが違う。
正直言って、実に迷惑なイベントだと思う。
だいたい、ただ都内でマラソン競技をやりたいのなら、東京には昭和記念公園や葛西臨海公園などの広大でかつ一般道から閉鎖された空間がいくつもあるのだ。
1周数kmの周回コースぐらいは確保できるはずだから、それを何周か走れば、なにも都心の幹線道路を何千ものボランティアと警官を動員して交通規制しなくとも済むじゃないか。
そんなコースではやる意味がないというのなら、もう、それはマラソンという名前の付いた単なるお祭り騒ぎにすぎないという証拠だろう。
あの傲慢不遜な知事が退いたら、次の都知事には東京マラソン中止を公約に掲げる人を選びたい。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.3.14 「大震災だのというチェーンメールなどをばらまく馬鹿者」

善意であれ、悪意であれ、この時期に徒に人を踊らせるようなチェーンメールを送るなんて、とんでもない話だ。
と、チェーンメールについての新聞報道で憤慨していたら、趣味人倶楽部でもお知らせが入っているとは、、、
関東大震災などの時代と比べると、情報伝達手段が格段に進歩しているので、単なるデマで暴動やリンチなどの騒ぎにまではならないだろうと期待したい。
しかし新聞テレビだって、徒に人を不安に駆りたてている面がないとも言えない。
たとえば、地震学者や原子力の専門家たちのコメントを見聞きしても、憶測の域を出ていないような話が多いように感じる。
事態が発生してから、まだ多くの観測データや解析結果が出ていない段階で、かなり多くの「推定」だの「恐れ」だのの弁が多かった。
これは科学者としてありうべき態度だろうか?とはなはだ疑問に思う。
本来、科学者は実証に実証を重ねて物事を論じるべきであって、マスコミ側から見解を求められたからといって、データもろくに集まっていない段階で、個人的な推測を全国の人々に伝えるべきではない。
実際、マグニチュードの値だって、当初から2回も訂正されているように、観測データの解析など、そう短時間で徹底できるはずがない。
国民に警戒を呼び掛けたいというのなら、地震については気象庁、原発については政府から、すでに十分に念を押した注意喚起や避難指示などが出されている。
であるのに、公的な立場にないものが公的機関の発表以上の推測を発言するなど、まさに出過ぎたマネというほかはない。
そんなことはSF作家にでも任せておけばいいと思う。
特に原発については、国民が過敏に反応するのが当然であるだけに、実証に基かない推測を「専門家」やマスコミが垂れ流すのは、デマで人を踊らせる行為とたいして変わらない。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.3.15 「大震災を天罰などと言えば怒られて当然」

夕刊によると、慎太郎ゴーマン都知事閣下は、「天罰」発言を撤回して謝罪したらしい。
震災と原発一色に塗りつぶされた感のある今朝の新聞に、あの発言の件だけは3段抜き見出しの5段記事で報じられたのだから、いくら慎太郎がアホウでも、選挙を前にして、さすがにマズイことを言ってしまったと思ったのだろう。
たぶん選挙前でなかったら、撤回しなかったと思われる。
もちろん前後の文脈があっての「天罰」という表現であることは、理解できるし、あの男が何を言いたいかという主旨も分かる。(賛同も共感もしないが)
アホな都知事閣下にだって言論・表現の自由というものはある。
だが時と場合の見境のつかないことは、論外だ。
発言の内容も問題だが、それ以上に問題なのは、その程度のわきまえもないほどの非常識なアホウが、この東京の行政最高責任者でいることだ。
まさに東京都の恥、東京都民の恥以外の何物でもない。
都民の一人として、まことに恥ずかしいし、塗炭の苦しみに直面している方々に、実に申し訳ないと思う。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.3.20 「大震災の被害者にかける言葉は?」

「がんばる」という言葉が好きな人は多いけれど、嫌いだという人も少なくない。
ボクもその一人には違いない。
がんばるのが嫌い、というわけではないが、「がんばる」という言葉が嫌いだ。
この言葉、そもそも意味不明なところがある。
辞書で引いてみると、どうやら元の意味とはかなり違う意味で使われているような感じもある。
いかにも健康そうな顔をした人から、「毎日の仕事にがんばっている」なんて聞くと、「おいおい、ちょっと待てよ。ほんとうに毎日がんばっていたら、過労死しないまでも早死にするはずだぞ」と、その言葉に真実性があるのかを疑ってしまう。
毎日だったら、せいぜい「精を出す」というのが妥当なところで、「がんばる」というのは「ここ一番」というときの話だろう、と思う。
(自分自身も含めて)現代人の語彙が貧しいのは仕方がないとしても、あまり安っぽく「がんばる」とか「がんばれ」なんて言って欲しくない。
大震災に見舞われた今、ほんとうにがんばっている人たちには、心から声援を送りたいと思う。
今が、ここ一番の時だと思うからだ。
でも「がんばって」とは言いにくい。「これ以上どうがんばればいいのだ」いう声が返って気はしないかと思ってしまうのだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.3.21 「批評家のいらない時期に限って批評家だらけ」

震災から10日たった。
この間のテレビ・新聞を見聞きしていて、つくづく感じたのは、事実の情報量の少なさだ。
こんなに必要ないと思う情緒的な映像や記事は、実に豊富に垂れ流されている。
登場する専門家や識者にしても、事象の説明だけすればいいのに、余計な個人的見解を付け加えないでほしいとも思う。
記者会見の記者たちの中にも、質問だか批判だか区別のつかないようなことを言う分別知らずがいる。
批評家はいらないんだ。批評家なんて今はまだいらない。
だが今、いちばんそう言いたい相手は、実はマスコミ関係者や学者たちではない。
与野党問わず、国会議員たちだ。
こんな時期に政治家が批評家になってどうするんだ。
しょせん政策や行政は官僚の頭脳におんぶしていただけで、自分らはろくに頭を使っていなかったから、未曽有の事態に対処する能力も知力もなく、ただの批評家にしかなれないのだろう。
お気楽なご身分だと思う。
と、こんなことを書いている自分自身だって、やっぱり批評家に堕していると、反省する必要があった。
今は批評家はいらないのだから、もう震災にまつわるコメントを書くのはやめにしよう。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.3.21 「震災が心配なら備蓄の量と内容を見直そう」

この10日間で何回か買物に出かけて感じたことがある。
スーパーで品切れになった商品についてだ。
牛乳やパンが品切れになったのは、製造上の理由があって品薄になってしまったから納得できる。
トイレットペーパーなどのかさばるものは、家庭のストックがもともと少ないから買っておきたいという心理も分かる。
どうにも非合理的だと思ったのは、お米や即席麺類の買いあさりだ。
もし、さらなる震災に備えてのことだとしたら、ちょっとおかしい。
電気もガスも水道も止まってしまったら、いったいどうやって湯を沸かし、米を炊くのだろう。
カセットコンロとガスボンベのストックか、それ以外の加熱器具の備えもあるのだろうか。
ライフラインの復旧が、そんなに簡単に実現できる程度の災害ならば、食糧補給だってそうたいして困難にはならないだろうに。
と、そこまで考えてふと思った。
自治体の行っている災害備蓄品の内容についてだ。
たとえばわが町の指定避難所である小学校の備蓄品の中にある加熱器具は、炊き出し用の大釜と灯油バーナーと灯油タンクが2セット、カセットコンロが10個にカセットボンベが20個、かまどが2セットに薪2組だけだ。
これは小学校が受け入れられる1500人の避難者のためのものに過ぎないのだが、仮に1500人しか避難者がいないものだとして、ライフラインの復旧までに必要なだけあると言えるのだろうか。
被災地以外からの支援が、3日程度で届くという想定のもとの備蓄らしいのだが。
被災時に備蓄品を必要とするのは、避難所に収容される人だけではないことは明白だと思うのだが、そこまでの想定はされていないらしい。
わが町東京は道路こそ網の目のようにあるとはいっても、避難所の数と被災者数はべらぼうに多いはずだから、救援が行き届くことにあまり楽観的にはなれない。
さて、そこまで考えると、公共の備蓄品も家庭の備蓄品も、3日分という想定を考え直す必要があるんじゃないかと思えてきた。
ふとしたことから、町会の自主防災会の役員を引き受けたばっかりに、公共の災害備蓄品の内容を知ってしまって、かえって心配になった。
とりあえず、わが家にはカセットコンロの他に、炭・練炭用のコンロはあるのだが、正月の餅焼に使って炭のストックがなくなってしまったぞ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.6.21 「マスコミがヒステリックになっても何も生まれない」

菅も東電も悪くない。
などと言うと、今どき袋叩きになりそうな感じだが、実際そうひどく悪くはないと思っている。
別に間違っていないとも思わないけれど、マスコミがヒステリックに煽り立てるほどのことはないんじゃないかと思っている。
まったく最近のマスコミはいったいどうなっているのだろう。という思いのほうが、むしろ強い。
昭和の前半を通じて、国家におもねり、国民を戦争へと煽り立て、敗戦となったら、自分らの責任をあいまいにするために、あの戦争の責任は国と国民全体にあるというようなうやむやな態度を取り続け、「二度と戦争を許さない」という、いったいどこの誰に向かって言ってるのだかわからない無反省な態度を取り続けたのがマスコミであり、知識人たちだ。
今だって、基本的には変わらないようにしか見えない。
そんなマスコミに踊らされて、「菅じゃダメ」だの「東電は責任を取れ」だのと、ボクは言いたくない。
あえて言うけれど、菅じゃダメでも谷垣や石原伸晃じゃもっとダメだし、小沢一郎などは問題外だし、原発は国策として推進したのであって、それによるうまみは政官財と地方自治体がさんざん味わい尽くし、そのうまみを享受するためにあらゆる異論をみんなで寄ってたかって封じ込めたのだから、一エネルギー供給企業の責任で済まされる問題ではないと思うのだ。
もちろん当事者責任というのは免れられるものではないから、「それなり」の始末は、菅にしても東電にしてもつけなければいけないけれど。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.6.25 「鉄腕アトム世代の人生観」

歌謡曲&ポップス育ちだから演歌は嫌いだ。
全共闘世代というよりもロック世代だ。
ジャズよりもロックだ。
健康のために野菜中心の食生活なんてまっぴらごめんだ。
親分子分の人間関係なんて縁がない。
浪花節だの義太夫だのの義理人情の世界は肌が合わない。
えらそうなやつを見るとからかいたくなる。
お世辞を言うのも嫌いだけれど、言われるのはもっと気持ちが悪い。
仕事は生き甲斐ではなくて食うための方便である。
仕事することと働くことはイコールではない。
著名人の教訓や格言は信用しない。
結果は大切だが結果がすべてではない。
結果がすべてでも結果にこだわると進歩がない。
オリンピックは見るものであってやるものではない。
メダルの数よりも体育施設の数のほうが大切だ。
我慢は人間を鍛えるかもしれないが社会の進歩を遅らせる。
他人よりも楽をしたいという動機が仕事を能率化する。
汗と涙なんか流したくない。
おいしいご飯よりもおいしい食事が好きだ。
給食がパンの世代でほんとに良かった。
米と味噌汁がなくても何も困らない。
ネクタイとスーツが日本の実業界をダメにした。
偉人に悪人は含まれない。
清濁併せ呑むのは、しょせん心の濁った悪党だ。
負ける喧嘩をするのは、しょせん思慮と知恵と腕力が足りないからに過ぎない。
同情よりも金。
日本の伝統的な家は日本の気候風土に合っていない。
奈良京都が日本人の心の故郷だとは思っていない。
団塊の世代という呼ばれ方は好きじゃない。(だいたい名づけた堺屋太一という人物が、そもそも嫌いである。)

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.6.26 「最近の××がきらいだ」

昔は自分もそう言われていたのだから、「最近の若いやつは・・・」なんて言いたくない。
でも良い悪いを論じるのではなく、好き嫌いを言うくらいは自由だろう。
最近の・・・
鳥の巣みたいな頭(の男)。
妙なカッコの細眉にカットする(男)。
耳たぶならまだしも、鼻だの目蓋だの口だのへそだの、まして舌なんかにピアスする。
腰パン。
地べたに尻を下す。
人から煙たいことを言われて「いやいやいや」でごまかす。
赤ん坊を乳母車に乗せたまま強引にどこへでも行く。
「やばい」を連発する。
自分の子どもにペットか漫画の主人公みたいな名前を付ける。
「まじ」を連発する。
育てることに責任感もないのに子どもを作る。
マクドナルドを「マクド」と呼ぶ。
ビジネスの場で自分サイドのことを「うちら」と言う。
ふり仮名がなければ読めないような名前を子どもにつける。
匿名性をいいことにウェブサイトで他人を口汚くののしる。
やまんば。
政治にも社会問題にも国際関係にも関心を持たない。
地球上のどこにあるかも知らないのにプーケット島に行く。
というのは、やっぱり嫌いだなー。
昔の若いやつが最近の若いやつよりも立派だったとは思ってもいないし、好きでもないけれどねー。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.6.29 「民主党はノータリンの悪ガキたちの集まりか」

TVニュースで民主党の議員総会だかなんだかの議員の発言を聞いていて思った。
要するに、やめる予定の首相が物事を決めることが許せないということらしいが、今になってそんなことを言うのなら、なぜ不信任案決議の時に賛成投票しなかったのだろう。
菅氏はやめるとは言ったけれど、具体的な時期は明言していなかった以上、「だまされた」だの「ぺてん」だのと非難すること自体おかしい。
「具体的な言質を取れない限り不信任案に賛成するぞ」という駆け引きをするのが当然であって、そうしなかった彼らが「バカ」だったのだ。
だいたいこの手のあいまい決着というのが、昔っからの日本の政治社会の常套手段だったではないか。
そんなこともわかってないような政治の素人が、国会議員のバッジをつけている。
少しは自分自身の見苦しさと馬鹿さを恥じたらどうだろう。
もっともそんなまともな人間性を持っていたら、とても国会議員なんぞになれないというのも、また日本の常識ではある。
バカでも世のため人のために働いているのなら、まだ救いようがあるのだが、彼らの脳中にはそんな殊勝な心がけや志は、猿の脳みそほどもない。
親分小沢をひたすら担ぎ上げて一家の隆盛の一翼に位置したいか、党代表という首のすげ替えで民主党政権を少しでも維持し、次の総選挙でも自分だけは生き残るためにふるまいたいというだけのことだ。
別に彼らと知り合いじゃないけれど、TV画面で見聞きする我田引水の発言と下卑た表情を見るだけで、そのぐらいのことは手に取るようにわかる。
そりゃなぜかって言ったら、今まで世の中でさんざんそういう人間とお付き合いもしたし、そばで見たりもしてきたからだ。
しかしボクの知っているサラリーマン社会と国会と、決定的に違うことがある。
実業社会では、トップが変わらなければ何事も決められないし、自分らのやってることに責任も取れないなんて、甘ったれた考えは通用しないということだ。
トップがどうであっても、果たすべき義務は整然として果たさなければならない。
そうできないというのは、自分らにそれだけの政策理念も能力もないと、自ら公言しているものだということが、なぜわからないのだろう。
いやバカだからわからないのだろうが。
今の民主党は、まるで気に食わないガキ大将を担ぐことになってしまったノータリンの悪ガキ連中のようだ。

SNS「趣味人倶楽部」の日記
2011.7.22 「なでしこジャパンだなんてやめてくれ」

男子よりも先に女子の日本代表チームが世界一になってしまった団体競技種目は、バレーボールに次いで2つ目になるのだろうか?
これで女子サッカー選手の競技環境が改善されれば大いにけっこうなことだと思う。
ところでボクは最近の日本代表チームにみょうな愛称をつける傾向は全然好きではない。
いや愛称をつけること自体はいいのだが、それなら普通にチーム名らしいものをつければいいと思う。
いや正しく言えば「なでしこ」という名前が気に入らない。
これはどう考えても「大和撫子」から「やまと」を取った名前だろう。
大和魂では女子らしくないから大和撫子で、そこから「やまと」を取ったという印象で気持ち悪いことこの上ない。
もういい加減、サムライ魂だのヤマト魂を、日本人の勇気だの根性だのを象徴することばにするのは、やめてもらいたいと心底願う。
だいたいほとんどの日本人の先祖は侍階級じゃないし、大和民族などという固有の民族などなかったというのは、ちょっと歴史をかじれば分かる話で、こういう言葉が生きていること自体が、悪しき戦前の思想がいまだ生き残っていることの表れで、すこぶる気持ちが悪い。
こんな国民性だから、政権が変わっても、世の中がなんにも変わらないのだ。
もっとも、今の日本人の主流の世代は、こういう語感について「かっこいい」というぐらいしか思っていないだろうし、まして戦前のあのいやらしくも忌まわしい皇国思想などを連想することはないから、こんなことを書いても「わけわからん」かもしれない。
まあそれはともかく、女子サッカーそのものの人気が高まって、実力よりミーハー人気が先行している女子バレーボールを脅かすほどになってくれれば、スポーツ観戦の楽しみがまた増えるというものだ。
ロンドンオリンピックを楽しみに待てることを祈りたい。
がんばれ「サッカー女子日本代表チーム」。

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