復活記念第一弾♪


三国志演義人物伝

劉備玄徳
161〜223。タク郡出身。
漢王朝衰退に嘆き黄巾賊討伐の義勇軍を関羽・張飛と共
に起こす。討伐終了後は流転を繰り返し不遇の時代を過
ごし続ける。荊州守護・劉表の客分時代に諸葛亮孔明を
三顧の礼で臣として迎えてから彼の人生は一変する。小さ
な勢力で時代の中では脇役的な存在から一気に主役級
に踊り出て、蜀州・荊州・漢中を平定した事で蜀帝と僭称
するまでに至る。
だが、関羽・張飛と立て続けに失った事で自分を見失い無
意味な復讐戦を夷陵にて呉に挑むが、ここでも数多くの将
兵を大都督・陸遜の火計によって失ってしまう。この敗戦
で白帝城に退いた劉備は、ショックの余り病に伏せそのま
ま臨終を迎え孔明に蜀を託す。
劉禅公嗣
207〜271。南陽郡出身。
劉備と甘夫人との間に産まれた蜀2代目皇帝。幼名は阿
斗。
長坂の戦いの折、曹操軍の追撃に遭った劉備軍は連れ
て来ていた民衆と共に惨殺されていった。この時阿斗を抱
えて逃げていた麋夫人は、助けに来た趙雲に阿斗を預け
自らの命を絶つ。
無事に連れ帰った趙雲の姿を見て劉備は、感情の昂ぶり
故に愛する我が子を放り投げ趙雲にだけ涙を見せた。物
心がつく前に動乱期が終わったせいもあって、この男には
時代に対する緊張感とか焦りとか言う物が一切なかった
ように見える。即位して40年、トウ艾の襲撃を受けてあっ
という間に魏に降伏し、晋王朝の庇護の下何不自由ない
生活の中生き恥を晒し天寿をまっとうする。
関羽雲長
?〜219。河東郡出身。
劉備に仕え張飛と共に艱難辛苦を乗り越えた忠義の人。
上には忠実、下には平等だが同僚に驕りがあったと伝え
られる。青龍偃月刀を持ち数多の戦場を駆け、大抵の者
は彼に一刀のもとに斬り伏せられた。又、呂布、黄忠との
一騎討ちは名勝負に挙げられる。
曹操軍に敗走した劉備に置いて行かれた関羽は、一旦降
伏するが劉備の所在が分れば何を置いても彼の下に向
かう事を条件に出した。これは義の人として評価されるエ
ピソードの一つ。
荊州の守護を任じられた関羽は、呉の大都督・呂蒙と当
時まだ無名だった陸遜の謀略にはまり養子・関平と共に
生け捕られ処刑された。
張飛翼徳
?〜221。タク郡出身。
関羽と共に長年劉備に付き従い、蛇矛を武器に暴れまわ
った豪傑。関羽に「武では益徳には勝てぬ」と言わせる程
の豪の者。上には従順で同僚には気さくだが下には非常
に厳しかったと伝えられる。酒に溺れると言う致命的な欠
点を持ち、このおかげで主君・劉備を窮地に何度も追い込
んでいるが何故かその都度さらりと許される。呂布、馬超
との一騎討ちで豪傑振りを見事に発揮したり、曹操軍に単
騎で挑み大軍の足を止めると言う武のみの面が目立って
いたが、益州攻略辺りから策を用いて厳顔を生け捕りに
する事に成功したりして頭脳戦を展開するようになる。
関羽の復讐戦に備え部下に無理難題を言った為に逆恨
みされて寝首を掻かれる。
趙雲子龍
?〜229。常山出身。
若い頃から主君を求め放浪していた趙雲。公孫サンの客
分として迎えられた劉備と出会い、真の主君だと惚れ込む
がこの時は断られる。その後、曹操から離れた関羽と劉
備の一行に出くわして再会を果たし、ようやく臣下として迎
えられる事となる。
槍の使い手で劉備に付き従い数多くの戦に参戦する。敵
味方問わず彼の戦い振りに感嘆した者は多い。劉備の長
子・阿斗を抱え曹操軍を一騎で駆け抜けた時は、曹操に
「あんな部下が欲しい」と言わせる。命令に対して一番忠
実に行動する将であった趙雲が亡くなった時、丞相・諸葛
亮は泣き伏せショックからなかなか立ち直れなかったと伝
えられる。
黄忠漢升
?〜220。南陽郡出身。
長沙の韓玄に仕え不遇の時代を過ごしていたが、劉備軍
が制圧に来た際に関羽と一騎討ちの後、劉備に諭されて
臣従を誓う。
蜀将・厳顔との老将コンビで武勲を重ねるも、自分自身は
決して「老人」と思っておらず若い武将にライバル心剥き
出しになると言う大人気ない一面を持つ。
法正を軍師にして定軍山で夏候淵を討ち取り、漢中制圧
に成功し劉備を漢中王に即位させた。
劉備が関羽・張飛の復讐軍を起こした際、関興、張苞を前
にして「若い者が出て来た」発言に過敏に反応してしまい、
僅かな兵を率いて夜襲をかけるが重傷を負いその後に死
去する。
馬超孟起
176〜222。扶風茂陵出身。
西涼太守・馬騰の長子。曹操に謀殺された馬騰の復讐に
燃え西涼軍を率いた馬超は、計略にはまり韓遂と仲違い
をしてしまい張魯の下へ敗走する。その後、張魯から益州
攻略の先手として派遣された馬超は、当時援軍としてやっ
てきた劉備軍と対峙し張飛と一騎打ちを展開。その後、劉
備と対談し「真の盟主に出会えた」と嘆息し臣従を申し出
る。
劉備が突如反転し益州攻略に乗り込んだ際、馬超は益州
都・成都に向かい降伏勧告をして無血開城させると言う功
績を残す。それからは国境警護の任に就く事が多く、諸葛
亮が北伐を起こした際に西姜軍の進軍を食い止める。そ
して、武勇を惜しまれつつも病没。
諸葛亮孔明
181〜234。陽都出身。
司馬徽が語った「伏龍、鳳雛のどちらかを得れば天下は
取れる」に出てくる伏龍を俗名に持つ。
劉備から三顧の礼で迎えられた諸葛亮、寡兵で大軍を打
ち破り続けた事で猛将達を心服させる。呉と同盟を結び当
時の大都督・周瑜を動かし赤壁にて曹操軍に壊滅的なダ
メージを与える事に成功する。その後、勢いに乗じて荊
州・益州を手中に収め主君・劉備を蜀帝に即位させた。
劉備崩御の後、丞相として蜀を一身に背負い小さな事項
も自ら判断していた為に、寿命を縮めながらも終生のライ
バル魏の大都督・司馬懿を相手に戦い抜く。陣中で没した
彼は「死せる孔明生ける仲達を走らす」と言う伝説を最後
に残す。ただ、彼のエピソードはマユツバ物が多い。
ホウ統士元
178〜213。襄陽郡出身。
鳳雛の俗名を持つ。赤壁の戦いで魏陣営に乗り込み曹操
に「鉄鎖連環の計」を進言する、このシーンで登場した彼
は劉備の配下に加わるも閑職を与えられ酒浸りとなる。だ
が監査役として派遣された張飛の目の前で自分の才能を
存分に見せつけた事で一気に副軍師となる。
益州救援軍を起こした劉備の軍師として従軍したホウ統
は、劉璋暗殺を何度となく主張するが信義を重んじる劉備
に断られ続ける。その結果、劉璋からあからさまな嫌がら
せに遭い怒り心頭に達した劉備は益州攻略を宣言する。
二手に別れて進軍する事にしたホウ統と劉備だが進軍前
にホウ統が落馬。劉備の馬を与えられた彼は落鳳坂で劉
備と間違われ蜀兵の弓矢に当たり死亡する。
姜維伯約
202〜264。天水郡出身。
魏の天水太守・馬遵の配下だった姜維は、北伐を起こし
た諸葛亮軍を相手に一歩も譲らぬ戦いをして孔明の策を
看破し、趙雲との一騎討ちでも互角に渡り合い蜀軍にそ
の名を轟かせた。
後継者を捜し求めていた諸葛亮は姜維の才覚に惚れ込
み、南安にいた魏軍都督・夏候楙を術中にはめて姜維が
裏切ったように仕向けた。この策が見事に当り姜維は、両
軍の間で進むも退くも出来ない状況になった所で孔明に
諭され降伏した。これ以降、孔明の軍略を叩き込まれ陣
中で没した諸葛亮の後を継いで蜀の軍事面を担う事にな
るのだが、結果が出せないまま無念の降伏を受け入れる
事になる。その後、魏内で鐘会と共にクーデターを起こす
が敢無く戦死。
魏延文長
?〜234。義陽郡出身。
黄忠と関羽の一騎討ちの顛末に不満を持った韓玄は黄
忠の処刑を宣告する。この時、処刑を中止させ韓玄を討
ち取ったのが劉表の下から去り韓玄の配下となった魏延
だった。
劉備の前に現れた魏延を見て諸葛亮は「反骨の相をこの
者は持っているので斬るべきだ」と主張するが、劉備は魏
延の自分に対する気持ちに打たれて主張を退ける。この
件以来、諸葛亮と魏延の間には見えざる亀裂が生じるの
だった。
北伐を繰り返す丞相・諸葛亮のやり方に明ら様な不満を
抱き、時には命令無視までやってしまうもその武勇惜しさ
に命を取られないでいた。孔明没後遂に馬脚を現すが馬
岱に討ち取られる。
法正孝直
176〜220。右扶風ビ県出身。
劉ショウに見切りをつけ劉備を新しい益州の主にしようと
した法正、孟達、張松らは直接自身で使者として劉備の下
に赴き自分達の思いをぶつけた。これに目を付けた諸葛
亮とホウ統は彼らと協議を重ね益州に向けて行軍を開始
する。
見事益州の主となった劉備は法正を参謀とし蜀郡太守に
任命した。参謀として参加した定軍山の戦いで黄忠に夏
候淵を討ち取らせる事に成功するなどの勲功を重ね劉備
からの篤い信頼を得る。
益州の人民保護に心を砕いた法正。彼の死後劉備が夷
陵の戦いを起こした時に諸葛亮は「法正が生きていれば
止められただろう」と嘆いたと言う。
馬謖幼常
190〜228。襄陽郡出身。
馬良を長兄とする馬家の5人兄弟は皆秀才と噂されてい
た。その中の一人である馬謖は若い頃からその才能を孔
明に愛され目を掛けられていた。
北伐を起こそうとする諸葛亮の頭痛の種である魏の司馬
懿に謀反ありの噂を流させ、一時期失脚させる事に成功
させるなどの策を進言した事で更に諸葛亮は馬謖を後継
者にと強く思うようになった。その後復帰した司馬懿は要
所・街亭に向かい進軍するが、この時守備に就いたのが
初実戦の馬謖だった。彼は補佐役として付いて来た王平
の「狭道に陣を張りましょう」と言う進言を退け、兵法書通
りの布陣を敷く。司馬懿により孤立した馬謖は街亭を放棄
し孔明の下に逃げ帰る。この事を重く見た諸葛亮は私情
を捨てて彼を打ち首にしたのだった。
周倉
?〜219。平陸出身。
もとは黄巾賊の将だった周倉。己の行く末を案じ信奉する
関羽の部下となるべく臥牛山で兵を集めていた。関羽が
近くを通っていると聞いた周倉は、部下を引き連れ関羽の
前に跪き臣従を申し込む。関羽からの許しを得た周倉
は、それから常に関羽の傍でその武勇を振るった。
荊州の太守となった関羽が魏の曹仁と戦っている最中、
呉の呂蒙の策略により荊州は陥落してしまい関羽軍は麦
城に退散する。益州に援軍を求める為に関羽・関平親子
のみで強行突破しようとするが呉将・馬忠に捕らえられ関
羽は打ち首となった。この報を聞いた周倉は剣を抜き自ら
首を刎ねたと言う。彼は演義のみに記されており実在しな
いとされている。
馬岱
?〜?。扶風郡出身。
馬騰が曹操の罠にはまり殺された時、馬騰の息子馬休・
馬鉄も共に命を落とすが一族の馬岱だけが命からがら逃
げ延びる事に成功。これが切欠となり馬超の復習戦が始
まるが失敗に終わる。
常に馬超と共に行動しその武勇を轟かせていった馬岱だ
が、張飛を相手にした時は完敗し子供扱いされてしまう。
その後馬超と共に劉備配下となり欠かせぬ将の一人にな
るまで成長する。
魏延反乱を予期していた諸葛亮は、馬岱を魏延の部下と
させて監視役にした。この時諸葛亮から「絶対に魏には走
らせるな」と指示を受け、蜀へ反乱を起こすと言う方向に
導き丞相代理・楊儀の前で魏延の首を刎ねて見せた。ま
た、諸葛亮が「忠義の士」として真っ先にその名を挙げた
と言う。
リョウ化元倹
?〜264。襄陽郡出身。
黄巾賊の残党時代劉備の甘・麋両夫人を攫っている。こ
の時二人の素性を知ったリョウ化は残党を殺した上で関
羽に返還する。その後劉備が蜀への進軍を開始した際、
再び現れ臣従を申し出て許される。関羽の下で数々の戦
に参加し武勲を重ねるが、関羽が捕らえられた折にやむ
を得ず呉に投降。それでも劉備の下に戻ろうとしたリョウ
化は夜陰に紛れて脱出を図る。この時劉備は呉に向けて
復讐戦を仕掛けるべく行軍していた。シ帰で再会を果たし
た事に喜んだ劉備はリョウ化を宜都太守に任命する。劉
備崩御の後も出世を重ね中郷候に封じられるまでに至
る。
蜀滅亡後、洛陽に移住する為の行程中病没する。
麋夫人
?〜208。東海郡出身。
麋竺の妹で富豪の家に生まれる。
呂布が劉備の留守を襲い劉備の母と甘夫人、阿斗を捕虜
にした事を聞いた麋竺が劉備に妻として与えたのが彼女
だった。この時に軍資金と二千人の人足も一緒に提供し
ている。
放浪続きで苦労が絶えなかった麋夫人と甘夫人は非常に
仲が良かったらしく、阿斗の事も実母である甘夫人と同じ
位愛情を注いでいたらしい。
長坂の戦いで負傷しながらも阿斗を抱えて逃げ続け、救
出に来た趙雲に赤子を託した後自分が足手惑いになって
はいけないと井戸に飛び込み命を絶つ。
孫夫人
?〜?。呉郡出身。
孫権の妹で呉国太に甘えられて育った為に、とんでもない
御転婆娘に育つ。武芸を好み薙刀の使い手で、自分につ
いている女中達にも武芸を仕込む。劉備との婚礼の際に
も女中達に薙刀を持たせ、彼女が待つ寝所に向かう劉備
がそれを見て「落ち着かん」とボヤく。だがこの二人は直に
仲睦まじくなり劉備が戦乱を忘れるほどに彼女に溺れる
が、諸葛亮と趙雲の働きによって二人は蜀に無事帰還を
果たす。この後荊州をめぐり同盟関係にあった呉・蜀は完
全に仲違いを起こし、孫夫人は孫権が派遣した密使から
呉国太が危篤だと嘘を教えられ無理矢理帰国させられ
る。
劉備が白帝城で病没した報を聞いた孫夫人は、長江へ白
帝城の方角に向かって投身自殺する。
曹操孟徳
155〜220。沛国出身。
「治世の能臣、乱世の姦雄になる」と評されたと言われる。
若い頃からその才能を発揮し続け、与えられた地位で常
に名を知らしめて行った。また、人の才能を愛し常に人材
を求めた。
董卓軍崩壊後逸早く皇帝を助け都の復興に尽力した曹操
は、強力な後ろ盾を武器に自らの野望を果たす為に邁進
する。官渡の戦いで圧倒的な戦力差をひっくり返した事で
勢いをつけ、一大勢力となり魏を建国するまでにいたる。
赤壁、漢中と大敗を経験しながらも三国間の国力差を保
たせた能力は流石の一言。関羽が荊州で討たれた後に
持病の頭痛が悪化し病没する。
曹丕子桓
187〜226。沛国出身。
曹操孟徳の長子。曹操の死後魏王となり、その後献帝か
ら禅譲され魏王朝を設立する。曹操は後継者を決めか
ね、曹丕・曹植どちらにするかで迷っていた。文才に秀で
た曹植を愛する傾向にあった曹操は買クにこの事を相談
した際、「袁紹の子息の事を考えてください」の一言で曹丕
に決定する。この後、即位式に来なかった弟達を理由を
付けていびるのだが、特にライバルだった曹植には厳しく
あたった。散々いびった挙句、平民に落とし権力の座から
追い落としている。
こんな冷たい面を持った曹丕だが在位期間中は、人材登
用、学問奨励を行いなかなかの名君であったと言われる。
その後、病床に伏せていた彼は司馬懿らに後事を託して
世を去る。
曹植子建
192〜232。沛国出身。
曹操の三男。文才に秀でており彼が作った数々の詩は今
現在も詩集となり読む事が出来る。
曹操自身も詩を愛してやまなかったせいもあり、後継者候
補No.1とする傾向があったが、買クの一言で曹丕を後
継者とした。この事がこの人にとって後の悲劇を生む事に
なる。
彼を後継者として推していた楊脩達は、常に曹操の問い
に答えられるよう「即答問答書」を作成し曹丕を出し抜き
常に曹植を優位に立たせた。これが曹植を堕落させる結
果を生み、曹操の出兵に泥酔して寝過ごすと言う不始末
を起こす。これで曹丕が後継者たるに近付く事となった。
曹丕の即位式に出なかった事で呼び出されるが詩で難題
をクリアする事で死なずにすむ。
曹洪子廉
?〜232。沛国出身。
曹操の従弟。曹仁と共に若い頃から曹操を支える。
董卓討伐を行った際、袁紹らが及び腰の中曹操軍だけで
戦いを挑んだが徐栄軍に打ちのめされ敗走する事にな
る。この時曹操は弓矢で射られて身動きが取れないでい
たが、曹洪が自分の馬に乗せ危機を脱した。また、馬超
軍と対峙した時も曹洪の失敗で一敗血に塗れるが何度も
続く襲撃を耐え切った事で曹操の信頼を回復させている。
彼はケチだったらしく曹丕が若い頃に借金の申し出を受け
たが断った。後に魏帝となった曹丕に疎まれ獄に繋がれ
てしまう。
曹仁子孝
168〜222。沛国出身。
曹操の従弟。曹操挙兵以来の古参の将。
軍の統率に秀でており劣勢を良く挽回させている。張繍軍
に追撃された時も士気が落ちる曹操軍の中にあって曹仁
軍だけが奮迅して劣勢から脱却させた。
そして何より一番の功績は樊城死守である。関羽によって
水攻めにあった曹仁は兵糧も尽きかけなのにも関わら
ず、将兵を励まし援軍の到着をひたすら待ち続け決して樊
城を明渡さなかった。
そして遂に徐晃の救援が到来し曹仁軍は関羽を退かせる
ことに成功した。この間曹仁軍の中から脱走する者は一
人もいなかったと言う。
夏候惇元譲
?〜220。沛国出身。
曹操の従兄弟で数多くの戦を曹操と共に駆ける。呂布と
の戦いで高順と一騎討ちをした時に逃げる高順を見た曹
性が夏候惇目掛けて弓矢を放つ。その矢は夏候惇の目
に当たるが、彼は眼球ごと引き抜きその目を喰らったと言
う。この後彼は「盲夏候」と呼ばれる。
新野での大敗、赤壁での敗走等彼が赴いた先は敗戦の
文字が目立つが、曹操の身内と言う事もあって失敗しても
周りが曹操の怒りをおさめたりするので何のかんのと言っ
て天寿を全うしている。
曹操が病に倒れ召し出された際、門前に現れた董承らの
霊を見てその場で昏倒。その後病に犯され曹操の後を追
うように死去した。
夏候淵妙才
?〜206。沛国出身。
夏候惇の従弟。曹操の妻の妹を妻とした。
急襲に秀で敵の不意を衝く様を見て「三日に五百里、六日
で千里」と言われる。
曹操から西の守りを一任されて長安に赴き、宋憲、馬超、
韓遂らの反逆を討ち隴右に版図を広げる事に成功する。
その後漢中をも占拠し劉備の北上に備えた。
定軍山で劉備軍と対峙した夏候淵は、法正の策で山上に
布陣した黄忠軍の襲撃を受け混乱を起こす。しかもこの
時の襲撃で黄忠に討ち取られてしまうのだった。
曹操からは常に「勇気だけでは将は務まらぬ」と言われて
いたはずなのだが・・・。
許チョ仲康
?〜?。沛国出身。
典韋亡き後曹操の親衛隊を任じられる。朴訥で忠実な人
柄から「虎痴」と呼ばれた。
馬超軍との戦いで敗走する曹操を馬の鞍でかばい敵の弓
矢から防いだ。
その後両者の会見の際、隙あれば斬ろうとする馬超を睨
みつけ身動き取れないようにし曹操の命を救っている。
公私の分別がハッキリしていた彼は、曹操の身内の者か
ら話し掛けられても勤務中は沈黙を保ったと言われる。官
渡の戦いで勝利に導いた許攸の態度の大きさに腹を立て
た曹操から「次に大口を叩いたら斬れ」と言われ「私がい
なければここの門を潜れなかった」と言った許攸を一刀の
下に斬る。また、その人柄を愛された彼は曹操、曹丕、曹
叡に仕え死後「壮候」と諡される。
張遼文遠
169〜224。雁門郡出身。
呂布の臣として騎馬隊を率い武名を轟かせる。呂布が処
刑される時に一緒に首が飛ぶはずだった張遼の為に親交
のあった関羽が曹操に助命を嘆願し曹操の臣となる。こ
の縁で関羽が曹操に降伏した際、交渉等の窓口になった
のが張遼であった。
合肥の戦いでは太史慈を討ち取り、逍遥津では大軍を率
いてきた孫権を散々に打ち破る事で張遼の名を兵士だけ
ではなく敵方の民衆にまで知らしめる事となる。
曹叡軍が呉と戦をしている時に、諸葛亮が趙雲を先手とし
て魏領侵攻を開始した。兵を返す曹叡に呉軍は火計で追
い詰める。張遼が彼を助けるもこの時の矢傷が因で死
ぬ。
徐晃公明
?〜227。河東郡出身。
楊奉に仕えた後に曹操に臣従する。曹操に本当に惚れ込
んでいて「真の主君に出会えたのは幸せな事だ」と常に語
っていたと言う。
馬超と戦った時は徐晃の献策により撃退する事に成功し
たり、関羽が樊城を包囲した際救援に赴いて勝利へと導
いた事で曹操の信頼を得る。
関羽が降伏した時に親交を持っていたが、樊城で再会し
た時に世間話をした後味方に討ち取った者には褒美を出
すと言って士気を上げた。徐晃軍はいつでも整然としてい
たと言う。
演義では再び寝返った孟達に殺されるが、曹叡の代まで
生き病没している。
于禁文則
?〜222。泰山郡出身。
張繍が反乱を起こした為に混乱状態に陥った曹操軍。こ
の時に青州兵(元黄巾賊)が民衆に略奪を働いたと知った
于禁は鎮圧に向かう。逃げ延びた青州兵が曹操に「于禁
裏切り」と訴え出る。その頃于禁は敵の襲撃に備え、陣容
を整えるだけに留まり曹操に謁見しようとしない。部下から
の催促に于禁は「敵は後ろから来る。曹操殿はでたらめ
な噂を聞き入れるはずはない」と言い切り、その後追撃し
てきた張繍軍を撃破した事で曹操に「古の名将も及ぶ所
ではない」と言わせた。
関羽が樊城攻略を行った際、曹仁を救う為ホウ徳と共に
援軍に向かうが長雨により船戦となった事で退路を絶た
れやむなく降伏する。その後自分が関羽に降伏する像を
見て恥入り自殺する。
司馬懿仲達
179〜251。河内郡出身。
幼少の頃から聡明と噂された司馬懿は、曹操からの招き
を一度断るのだが半ば脅迫的な扱いによって呼び出され
臣下となる。だが曹操の下にいる時はそんなに重用され
ていない。
司馬懿がいきてくるのは曹丕の代になってからで、この時
に丞相長史に任じられ権力を握る。
この後終生のライバル・孔明の北伐を退け続けた事で2
代皇帝・曹叡から篤い信頼を得、緊急事態に兵を動かす
時は皇帝の許可を必要としないと言う特権を手にする。
孔明没後我が世の春を謳歌する司馬懿は、3代皇帝曹芳
の補佐役となり実権を握るが同じ補佐役を務める曹爽の
暗躍を察知して逆にクーデターを起こし権力を独り占めす
る。
楊脩徳祖
175〜219。
人材を求め才能を愛していた曹操からその才故に殺意を
起こさせたと言う稀有な人。宮殿完成の報を聞いて視察に
来た曹操は帰り間際、門に「活」と書いてその場を後にし
た。意味が分からない職人達は楊脩に事の次第を継げて
教えを乞うと「「門」に「活」は「ひろい」と読むから庭を少し
狭くしなさい」と告げ職人が庭を修正すると曹操は大いに
喜んだが見抜いたのが楊脩だと聞くと顔が曇ったと言う。
その後楊脩が後継問題にまで首を突っ込み、曹植に「即
答問答書」を作った等の話を聞いた曹操は殺意を覚える
のだった。撤退準備を始める兵達に驚き曹操が聞いてみ
ると、楊脩が「鶏肋」と曹操が言った為に判断したと判明。
これにより殺意が行動へと変わり楊脩は処刑される。
鐘会士季
225〜264。頴川郡出身。
魏太博・鐘ヨウの子。博学と呼ばれ宮中で秘書郎に任ぜ
られる。
カン丘倹が反乱を起こした時に司馬師の下で活躍し手柄
を立てた。それから司馬昭に仕え諸葛誕反乱の鎮圧に参
加する。
蜀を平定しようとした司馬昭から兵十数万を与えられトウ
艾と共に制圧に向かうが、実は鐘会はこの機会を利用し
て蜀で独立しようとしていた。ところが別ルートでトウ艾が
蜀都・成都を陥落させた為に鐘会は対峙する姜維を謀略
によって降伏させ、一気にトウ艾を急襲して捕らえ洛陽に
送る。
この動きを司馬昭が怪しんでいる事を知った鐘会は姜維
と共にクーデターを起こすが失敗に終る。
トウ艾士載
197〜264。南陽郡出身。
若い頃家が貧しかった事もあり役所で農業の雑役をやら
されていた。そんな時、灌漑工事を着手する人材を求めて
いた司馬懿に見出され、運河を切り開いて見事に成し遂
げて見せたのに感心した司馬懿に引き抜かれる。
姜維の北伐を幾度と無く撃退し、魏領が犯される事を防ぎ
続けた事で司馬一族の篤い信頼を得て征西将軍に任じら
れる。
鐘会と共に蜀制圧に向かったトウ艾は、別ルート・剣閣よ
り成都を衝き劉禅の降伏勧告を受諾する。その後鐘会の
野心によって捕らえられ洛陽へ護送されている途中に殺さ
れる。
孟達子慶
?〜228。
益州太守・劉ショウを見限り法正らと共に劉備に益州を任
せる事に尽力する。
関羽が荊州守護となった時に魏将・曹仁と呉将・呂蒙と戦
を起こし、孤立状態になった関羽からの救援要請が孟達
の所に届くのだが、兵を出そうとする劉封を諭し使者をそ
のまま蜀に向かわせる。
その後関羽が処刑された事を聞いた孟達は難を逃れる為
に魏へ走る。そこで曹丕からは厚遇されたものの、次代皇
帝・曹叡から冷たい仕打ちを受け続けた事に憤り、諸葛亮
の北伐に呼応して新城郡で反乱を起こそうと画策するが
司馬懿に見抜かれる。諸葛亮は「司馬懿が見抜くだろうか
ら軽率に動くな」と孟達に念を押したが聞き入れず、結局
司馬懿の急襲を受けて討たれる。
孫堅文台
156〜192。呉郡出身。
兵法家・孫子の末裔だと言われ、17歳の時に海賊退治を
した事で名を知らしめる。
黄巾の乱で鎮圧に参加した功績によって長沙太守に任じ
られる。その後董卓討伐連合軍に参加し、董卓によって
火の海にされた洛陽に一番乗りを果たしここで玉璽を手
にする。袁術の入れ知恵によって味方からの兵糧攻めに
遭い、連合軍に見切りをつけていた孫堅はこれを幸いとし
て長沙に帰ってしまう。
荊州の生産力に目をつけた孫堅は進軍を開始し、荊州守
護・劉表の配下・黄祖と対峙して撃破するが追撃中に矢を
受けて絶命する。
孫策伯符
175〜200。呉郡出身。
袁術の客分だった孫策は、董卓討伐の際に父・孫堅が手
にした玉璽を担保に兵を得る。そして連戦連勝して自分の
地盤を固め、楊州から会稽一帯を手中にした事で「小覇
王」と呼ばれるようになる。その後、皇帝を僭称した袁術
から援軍を求められた際にはっきりと絶縁宣言している。
曹操から袁術討伐の詔を受けた孫策は、袁術を追い詰め
る事などに成功した功績で呉候となるが、孫策が大司馬
になる事を望んだ事に曹操から疎まれだす。これに反応し
た呉郡太守・許貢が曹操に内応を打診。これを知った孫
策は逆撃を加えるが許貢の食客の襲撃に遭い短命の人
生の幕を下ろす。民衆を惑わす于吉仙人を討った事で彼
の呪いによって死んだと演義では記す。
孫権仲謀
182〜252。呉郡出身。
孫策の突然の死により10代で呉を背負う重責を担う。早
い内から苦労してきた経験故か、人物を見る目は確かで
あった。実際に会った事のない魏延の人柄をずばりと言
い当てるなどの逸話を持つ。
赤壁の戦いで曹操と戦う決断をした彼は周瑜を大都督に
任じて水軍を指揮させる。この戦いで見事に勝利した孫権
は、同盟相手だった劉備と荊州をめぐって対立し遂に関
羽を討ち取って荊州を手中にする。その後、蜀丞相・諸葛
亮と再び同盟を結び対魏に備える事となるが積極的に行
く度に大敗を喫する。晩年は我が子可愛さ故に臣の忠言
も聞けない愚帝となってしまう。
周瑜公瑾
175〜210。盧江郡出身。
若い頃から孫策の友となり断金の交を結ぶ。孫策が袁術
から兵を借りて一本立ちしようとした時に真っ先に駆けつ
け臣となり、彼の手足となって存分な働きを見せる。一時
期孫策の命で忠誠度の低い者達の目付け役として彼の傍
から離れるが、周瑜の働きによってその者達は反逆行為
が出来なかったと言う。孫策急逝の後、孫権の良き相談
相手となり軍事面で呉を支え続けた。赤壁で勝利した勢い
をかって荊州奪取に挑むが諸葛亮の策略にはまり断念せ
ざるをえなくなる。魏・呉・劉備軍が荊州を求めて戦った際
に受けた毒矢と、諸葛亮が周瑜に送った彼を愚弄した書
状を読んだ事で憤り吐血の後に死去。実際は周瑜存命
時、諸葛亮は何一つ手を打てずにいたと言う・・・。
魯粛子敬
172〜217。臨淮郡出身。
資産家の息子として生まれた魯粛は、食糧の提供を求め
た周瑜に気前良く倉一つ分け与えたのを切欠として友情
を深める。
周瑜の推挙で孫権配下となった魯粛は、諸葛亮よりも早
い時期に三国鼎立を提唱し孫権の感心をを得て重用され
る。曹操軍から逃げる劉備に追いつき同盟を持ちかけた
魯粛は、軍師・諸葛亮を呉領へ招き孫権の信頼を得る。
オロオロするだけで無能な印象が強い人として描かれて
いる彼だが、実際は義侠心熱く軍略に富んでいたと伝えら
れる。
陸遜伯玄
183〜245。呉郡出身。
孫権に仕えてすぐに派遣された任地で民生安定に励み、
賊を討ち取った事で信頼を得て孫策の娘を妻に迎えた。
呂蒙と共に関羽を討ち荊州を手中にするが、まさかの呂
蒙の急死と劉備の復讐戦の報を受け大都督に任じられ
る。劉備軍と対峙したまま何も行動せずに耐え続け、敵の
緊張感が解けた時に一気に攻勢に出て火計を用いて劉
備軍を散々に打った。だが、魏の動きを警戒した陸遜は
兵を返すと、魏侵攻の報が届き味方将兵からの篤い信頼
を得る。
その後丞相となって呉を支えるが皇太子問題に巻き込ま
れ、疑われた事に憤りを発して死去。
張昭子布
156〜236。彭城国出身。
孫策が袁術から離れる時、張絋と共に孫策自ら赴いた事
に打たれ臣となる。
孫策が死ぬ間際「内政は張昭に聞け」と言った通り、呉の
柱となった孫権は内政に関して張昭に良く相談した。
軍略家ではなく政治家であった張昭は、先を読む事が出
来ず曹操が荊州を抑え呉領侵攻の噂が立つと逸早く降伏
を唱え呉の世論の大半を占め、降伏派のリーダーとなっ
てしまう。
だが、結果は魯粛が独断で進めた劉備との同盟を機に、
周瑜が徹底抗戦を孫権に提唱し勝利を収める事に成功。
これがもとで孫権の不興を買い宰相となる事が出来なか
った。
程普徳謀
?〜?。右北平郡出身。
孫堅の下で黄巾賊、董卓軍との戦いで活躍する。董卓が
焼いた洛陽の中で見つけた印を玉璽と鑑定する。孫堅の
死後、孫策の下でも長江以東平定に参加し功績を立て呉
郡・都尉に任じられ統治に当った。
孫権を張昭と共に良く補佐して会稽・呉・丹陽の都を支配
化に置く事に成功している。赤壁の戦いでは都督となった
周瑜とイザコザを起こすがその指揮振りに感心して蟠りを
捨て、二人で上手く兵を率いて勝利に導く。荊州で周瑜が
負傷した時も後詰となって軍の崩壊を防いでいる。
周瑜死後、南郡太守となり荊州分割後は江夏を統治し
た。
黄蓋公覆
?〜?。零陵郡出身。
孫堅の挙兵と共に臣下の列に加わり孫家3代に仕える古
参の名将となる。
赤壁の戦いで火攻めを成功に導くために密かに周瑜と打
ち合わせ、軍議の最中将兵達の目の前で激論を展開し棒
罰を受ける。これを策だと気付いた甘寧・カン沢が後押し
をして曹操に黄蓋が投降しようとしていると信じ込ませる。
そして、霧が包む長江を渡り一気に曹操の旗艦に寄せて
火矢を放ち奇襲をかけるが、張遼が放った矢に当り落水
する。だがこれを見ていた同じ古参の将・韓当によって無
事に引き揚げられて九死に一生を得ている。
徐盛文キョウ
?〜?。瑯ヤ郡出身。
男気の人として知られる武将。黄射が数千の兵で攻め寄
せてきた時、200足らずの手勢しか持っていなかった徐
盛だが、敢然としてこれを迎え撃ち勢いに乗じて城から撃
って出て追撃を加えた。これによって黄射は二度と侵攻し
てこなかったと言う。
魏に臣従を申し入れた孫権の下に返礼の使者として派遣
されたケイ貞の尊大な態度に怒る呉の重臣達の中で、唯
一徐盛だけが「臣が無能な為に主君に恥をかかせた」と
言いながら泣いていた。これを見たケイ貞は「徐盛のよう
な者がいる限りいつまでも臣従はしないだろう」と嘆息した
という。
秀吉よろしく俄か仕込みの櫓を長江沿いに建て曹丕を退
却させた事で知勇兼備である事を証明。
太史慈子義
166〜206。東爽郡出身。
孔融が黄巾賊に包囲された時、老母が受けた恩を返す為
に救援に駈け付ける。その後自らが使者となり劉備の下
へ救援要請に行き孔融を救出する事に成功した。
劉ヨウの臣となった太史慈は攻略に来た孫策と一騎討ち
を展開し決着がつかなかった。劉ヨウが討たれた後も城
内に留まり奮闘するが遂に捕らえられる。縄目を受けてい
る太史慈の姿を見た孫策が、兵士を叱り付け縄を解き礼
を持って接した事に心を打たれ臣従を誓う。
合肥で張遼軍と戦った際、単身城を落とそうとするが張遼
に看破され、弓兵の餌食となり数本の弓を全身に受け撤
退する。だが傷は深くそのまま死去する。「大功もなく死ぬ
とは!」が最期の言葉。
呉国太
?〜?。
孫堅の第二夫人で孫夫人の実母。第一夫人は彼女の姉
だと言う。
孫権は荊州を手中にする為、妹を劉備の嫁にしたいと言
って呉に来させ、そこで劉備を討とうと周瑜と共に画策す
るが諸葛亮の機転によって呉国太の耳に入れる事に成
功。呉国太は劉備の人柄を見て婿にするか判断すると言
い出し、刺客が隠れ潜んでいる中劉備と対面すると一目
で気に入る。そこで劉備から「至る所に殺気を感じます。
殺す気ならばせめて戦わせてください」と彼女に訴え、呉
国太は孫権を叱り兵士を去らせる。結婚が無事に終り娘
の幸せが来たと安心していたのだが、再び荊州問題が勃
発し孫夫人は呉に戻って来た。そして孫権を叱った後物
語から消える。
董卓仲頴
139〜192。隴西郡出身。
黄巾の乱で官軍として参戦。そこで度々義勇軍としてやっ
て来た劉備達に救われている。だが、身分に重きを置く董
卓は劉備達の事を報告せず、全て自分の功績として美味
しい論功行賞にありつく。何進が討たれたのを好機と見た
董卓は王朝に入り宦官に圧力を掛け実権を握り、皇帝を
代替えしようとする。これを成功させた董卓に各地の群雄
達は憤り、連合軍を結成して立ち向かった。だが、丁原の
養子だった呂布を配下にした董卓は彼を先手として討伐
に向かわせる。
勝手に空中分解してしまった連合軍に一安心の董卓に王
允の罠が迫る。美女貂蝉を側に置かせて呂布との三角関
係を作らせる。まんまと騙された呂布が詔勅を受け宮内で
討ち取られる。
呂布奉先
?〜198。五原郡出身。
丁原の養子であった呂布は、董卓の配下・李粛に唆され
て丁原を殺し董卓に降る。喜んだ董卓は呂布を養子にす
る。彼は赤兎馬と呼ばれる真っ赤な馬に乗り天下無双の
豪勇だったので「人中の呂布、馬中の赤兎」と呼ばれた。
王允の暗躍によって董卓を討った呂布だったが董卓残党
によって都を追われる羽目に。その後各地を転々として、
そこでも裏切りを繰り返した為遂に孤立無縁となる。曹操・
劉備連合軍によって徐州城を囲まれた呂布軍は、兵糧が
尽き士気も落ちたせいもあって遂に兵が裏切り、呂布は
捕らえられて曹操達の前に引き出され吊るし首の刑にさ
れる。
貂蝉
?〜?。
王允の下で育てられていた貂蝉。養女との説もある。
董卓の暴虐無人の行動に日夜嘆く王允を見て、「日頃の
御恩返しがしたいので、私に出来る事でしたら何でもしま
す」と申し出る。それを聞いた王允は董卓と呂布の間を上
手く立回り二人を貂蝉の魅力で仲違いさせる事を思いつ
く。この策を受け入れた貂蝉は呂布の嫁になる約束をした
後に董卓の側に仕えるようになる。
これにより二人は憎しみ合うようになり、遂に呂布の反逆
が起こり董卓は宮中へ出仕する最中に討ち取られる。自
分の仕事が完遂した事を知った貂蝉は自らの命を絶つ。
でも彼女は実在しない。
王允子師
137〜192。太原郡出身。
予州刺史の時、黄巾軍を平定している。その後董卓が洛
陽から長安への遷都を行う時に司徒になる。この時、書
物や記録を無事に運び出した為火の海になった洛陽から
守る事に成功している。
表面的には董卓に従っていた王允だったが、内心では憎
んでいた。そこで曹操を刺客にして暗殺を企るが失敗に終
る。この後曹操は連合軍を組織して董卓討伐に邁進する
がこれも成功しない。そこで彼は養子でありながら暴虐の
限りを尽くす董卓を快く思っていない呂布に目をつけ、密
かに董卓暗殺計画を打ち合わせる。これに乗せられた呂
布は見事に董卓を討ち取るが、董卓残党によって敗走す
る。進退極まった王允は献帝の眼前で城門から飛び降り
て自殺する。
袁紹本初
?〜202。汝南郡出身。
四代に渡って三公を輩出した名門の家柄に育つ。曹操と
は幼馴染。
董卓の少帝廃立案に反対し、曹操が受けたと言う「董卓
討伐令」の偽詔勅を読み挙兵を決意。連合軍の軍議の結
果総大将に任じられる。だが、優柔不断の性格のおかげ
で勢いがあったのは最初だけで呂布が陣頭に立つように
なると敗走を続けた。その後連合軍は空中分解する。
董卓が討たれた後、群雄割拠の時代に入り袁紹は公孫
サンを討って冀州を掌中にする。献帝の後ろ盾を持つ曹
操に反発した為、官渡で両軍は激突するが烏巣にある食
料庫襲撃と張コウらの裏切りも重なり袁紹は敗走を余儀
なくされる。その後失意の内に病となり死去。
公孫サン伯珪
153〜199。遼西郡出身。
幽州に本拠地を構えていた時に放浪中の劉備と出会い彼
を平原国の相とした。
そして冀州を手中にしたい袁紹は冀州の牧・韓馥に使者
を送り、公孫サンが冀州を狙っていると伝える一方で、公
孫サンには同時に攻めて冀州を分割しようと切り出す。こ
れに乗せられた公孫サンは冀州に侵攻を開始するが、彼
を恐れた韓馥は袁紹に領地を譲ってしまう。これにより両
雄は激しくぶつかり合う事になる。会戦当初、戦況は拮抗
していたが劉備達が徐州太守・陶謙の応援に向かったの
を境にバランスが崩れ公孫サン軍は次第に押され出す。
城に撤退する際早く城門を閉めて味方を見殺しにした事
で裏切り者が続出し、遂には城に火をかけられ自害して
果てる。
劉ショウ李玉
?〜219。江夏郡出身。
益州の牧で皇族の血筋を持つ。
益州は漢人が少なく少数民族への差別から、将兵の乱暴
狼藉が一向にやまず民衆は苦しみ続けていた。そんな状
況にも関わらず、劉ショウは漢中太守・張魯との小競り合
いを続け民衆の声に耳をかそうとはしなかった。益州の将
来を案じた張松達は劉備を招き入れて劉ショウを追い出
そうと計画するが、張粛に密書を見られて劉ショウに露見
してしまう。それを知らない劉備は張魯軍と戦い物資の補
給を要請する使者を出したが老兵と僅かな兵糧しか送っ
てこなかった事に怒り、そのまま兵を返して馬超を使者に
して降伏勧告を行う。劉ショウは素直に聞き入れ成都を開
放した。
張松永年
?〜212。蜀郡出身。
張魯が益州に侵攻してくると言う報せを受けて困った劉シ
ョウは、張松を使者に立てて魏に応援要請を依頼したの
だが、客人をもてなす態度に怒った張松は曹操にわざと
悪態をつく。一旦退出した曹操の代わりに応対した楊脩の
目の前で、「孟徳新書」と呼ばれる曹操が記述した兵法書
を一回読んだだけで一字も違わず記憶している事を見せ
付けた。その後再び曹操と謁見するがやはり悪態をやめ
なかった為に棒罰の刑にされて帰される。
だが、益州の未来を案じる張松は法正、孟達を抱き込ん
で劉備を益州の主にしようとするが兄・張粛によって密書
を発見され処刑される。


掲載している写真は「三国志ショップ・赤兎馬」でも販売されている「三国志トランプ」です

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