| 「童謡」(少年) | 「オツベルと象」(白象) | 備考 |
|
1 友人の言葉に、素直に「そんなものかな」と思う 2〜3 友人の言葉の裏に悪意を見たり、自虐的な気持ちになったりする 4 「これで、生きている人間たちの世界に戻ることができた」 5 再び災難に遭う。 6 欠落したものと新たに付け加わったものとがあるのを感じる |
騙されているとも知らず、働くことの楽しさに酔う 「赤い竜の眼」 「いま助けるから、安心しろよ」と声をかけられたときの喜び 象どもがオツベルを殺す さびしく笑う |
もともとある性質の表出 「6」を導き出す事件 性質の認識 |
「1」の少年が「2」から「3」にかけて変化してゆくように見えるのは、白象の「赤い竜の眼」と同じように、もともとある性質が表れ出ただけなのだ。白象が「赤い竜の眼」を全く自覚していないのに対して、少年の方は痛みを感じているという違いはあるが、少年にしてもやはり、自分の痛みの原因が何であるかを知ることはできない。少年は「2」、「3」に見られる感じ方や考え方が、自分のもともと持っている性質だということを認識していないのである。だから「4」で体重が元に戻ったとき、「これで、生きている人間の世界に戻れた」と安心する。この安心は、「子供の領分」の結末でA少年が感じることと同じ意味を持っている。A少年はB少年に対して何度か純粋でない感情を抱くのだが、道端に落ちていた雀の仔のことでB少年と争ったあと、彼は次のように感じるのである。
取残されたAは、坂道の途中で棒立ちになっていた。Bに烈しく振払われた手の甲は、赤く腫れていた。口惜しさが、Aの心の中で疼いた。と同時に、その赤く腫れた肉は、Bに対して償いをした跡のように、Aの眼に映ってきた。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言えば言い過ぎだが、「4」の少年の喜びもA少年の感情も、目の前にある具体的な問題が一応解決することによって、自分の持っている暗い面のことを過去のものとして意識の外に追い出してしまう働きをしている。
ここまでの部分では、「童謡」の少年は「子供の領分」のA少年と同じレヴェルにいるわけで、「酒でも飲んで見せたい年齢」の少年、すなわち大人になりかけている少年の、本質的な「変化」はない。
少年の本当の変化は、この後に起こるのである。「子供の領分」のA少年が「それが何か、たしかめようと考えながら」も結局は確かめられないのに対して、「童謡」では、「5」の事件を経験することで、少年は「もう高く跳ぶことはできないだろう」と考え、「自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきりと形の分らぬもの」があるのを感じるようになってゆく。白象がさびしく笑ったのと同じように、自分の中にあった性質に気づいたのだ(註2)。少年は自分の性質に戸惑い、哀しみを感じるが、それでも自分というものの性質をある程度客観的に認識するようになってゆくのである。
ところで、この変化を良い大人になるための好ましい成長と言って片付けてしまうのは誤りである。この変化を経ても、その後の少年が良い大人になるかどうかなどということは全く分からない。例えば、「少年はこの変化によって、これからは病弱な友人をねじ伏せたりはしなくなる」と考えてはいけないのだ。だが、私はこの変化はやはり意味のあるものだと思う。少年はこれからも、友人をねじ伏せるようなことをするかもしれないが、悪意を持たずに平気で友人をねじ伏せる無神経な人間にはならないはずである。友人をねじ伏せるときには必ず、はっきりと自分の悪意を認識するはずだ。やっていることは同じでも、その違いは大きい。
少年の「内部から欠落していったもの」とは、自分の性質を認識しないことによる幸福であり、無神経さであった。そして「新たに付け加わっ」たものとは、自分の性質を認識した上で自他を見る眼であった。扨、この変化は「童謡」の少年にだけ起こった特殊な変化なのだろうか。確かに、この作品では少年を最も弱い立場に追い詰めた特殊な病気が変化をもたらす大きな原因になっている。しかし、「酒でも飲んで見せたい年齢」も大きく関係しているのである。程度の差はあっても、この変化は大人になってゆく過程で、誰にでも訪れるものなのだ。
註
(1)全文参照 www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/2951/otuberu.html
(2)この点がなかなかうまく説明できないのだが、少年と友人との関係に絞って言えば、少年にとっては、友人の言葉の裏に悪意を見たことよりも、友人の言葉の裏に悪意を見る性質が自分にあるということを認識したことの方が本質的な変化であったということになる。
五.おわりに
本稿のはじめに私は、吉行淳之介の描く子供の世界は本当の子供の世界であると述べた。しかし、「童謡」などの作品を読んで子供が簡単に共感できるかと言うと、そんなことはないと思う。吉行は、自身の子供時代をモデルにした作品について次のように言っている。
それまでの沈澱蓄積型(生きてゆくうちに、なにやら躯のなかに沈澱してくるものができる。それがしだいに蓄積してゆき、もやもやと重苦しくなってくる。それを吐き出さないではおられない心持になってくる。−引用者註)の場合は、「現在」に場面を設定することになっていた。しかし、そのような悠長な方法、時間をかけて発酵するのを待っている方法では、間に合わない。したがって、すでに発酵している筈の題材を探すことにした。すなわち、過去のなかにも題材を探すことにしたのである。(註1)
吉行淳之介にとって、作品を書くためには「発酵」が不可欠である。子供時代のことも、それが十分に発酵しているから書けるのだ。本稿で引用した「白い半靴」の言葉で言えば、「自分自身の底に澱んでいる幼年時代の中に、作者は潜って行く」ということになる。このような作品を、今まさにその時代を生きている子供が読めば、やはり違和感を覚えるだろう。だが、「子供というものは、そこにある残酷さに、十分耐え得るものに間違いない」(「白い半靴」)のである。なぜなら、その残酷さが、子供の本当の世界だからだ。
「童謡」は、三省堂『現代の国語 中学3』(昭和四十年文部省検定済)に初めて教材として登場し、途中から高等学校の教科書に掲載されるようになった。現行教科書では、尚学図書『新選現代文』がこれを採用している。教材としてこの作品を扱う際、最も読み取りの難しいのは最後の場面である。だが、この場面があるから「子供の領分」などより理解しやすいとも言える。この場面は、少年のこれからの「発酵」の第一段階なのである。そこを読み取ることで、まだ「発酵」しきっていない生徒にも作品を理解することができるだろう。
なお、「白い半靴」には「童話や童謡は、大人のためのものか。そうもいえる。」とも書かれていた。今のところ、私には教材として「童謡」を読む興味はないので、こちらの方が重要である。吉行淳之介は、子供の世界と大人の世界とを断絶したものとして考えていない。「童謡」の子供の世界を大人として読むということは、過ぎ去った別世界の話を読むということではなく、自分の一番根っこの部分を見つめなおすということなのである。
註
(1)「小説の処方箋」(1959年12月 掲載誌不明)。『自家謹製小説読本』より引用。
