吉行淳之介「童謡」論

          今井洋一

一.はじめに


 吉行淳之介は1950年代半ばから1960年代半ばにかけて、自身の幼少年期を材にした短編小説をいくつか発表しているが、それらの作品に登場する少年について、来生えつこ氏は次のように言っている。

 出てくる少年が外の世界を見渡す時、それはもう大人の世界であり、同じ子供とのかかわりも、疑似大人の関係になっている。元気溌剌、爽やかというのでなく、時に残酷、暗く垂れ込める憂鬱という氏ならではの世界になっている。ことに女の媚などはもう見事に少年は見抜く。はっきり言って可愛くない、ひねこびた子供なのだが、早熟で感受性の強い子供が誰でもそうであるように、大人になっていくわずらわしさ、哀しみも含む。
 一般的な少年論という枠ではくくれず、あくまで氏個人の世界で、最大公約数の男性に共通しない。(註1)

 しかし、本当にそうなのだろうか。吉行淳之介の描く少年の世界は、本当に「氏個人の世界で、最大公約数の男性に共通しない」ものなのだろうか。河原和枝氏は『子供観の近代』(中公文庫 1998年)の冒頭で次のように言う。

 われわれはなぜ、子どもに対して、純粋とか無垢とかいったイメージを思い浮かべるのだろうか。現実の子どもたちは、学校や塾での友だち関係や家庭環境のなかで、大人と同じように悩み、そして狡猾に立ち回ったり、ときには思わぬ世知を発揮したりもする。自分の子ども時代をふりかえっても、ただ無垢な存在であったとはとうてい思えない。多くの人がそう感じているはずなのに、われわれが子どもを見るとき、心のどこかで子どもは純粋無垢であるという観念が働いてしまい、それはなかなか拭いきれない。(註2)

 子供とは、そもそも残酷さ、狡猾さ、屈託といったものを全て持つ「ひねこびた」存在なのだ。だが、大人たちは、わけても児童文学者たちは、このことから目を背け、子供を純粋無垢な存在として見ようとしてきたのである。例えば、大正期の児童文学の中心的な存在だった小川未明は、次のような考えに立って作品を書いていた。

真に美しいもの、真に正しいこと、また悲しい事実といふものは、直覚力の鋭い、神経の鋭敏な子供にも、分らない筈はないのです。よく分るやうな文字を使つて書いたならば。そして、子供に分ることは、もとより大人にも分らなければならない筈です。しかし、子供に分つても、稀には、ある種の大人に分らないものがあります。それは、その人達がたしかに堕落したことによつて純真な感情をなくしてしまつたからです。(註3)

 また、未明を否定することで1959年に成立した現代児童文学も、本質的には未明らがつくり上げた子供のイメージを払拭することはなかったように思われる。古田足日は童話伝統批判の最も重要なプロパガンダとなった「さよなら未明 日本近代童話の本質」(註4)の中で、次のように言っている。

 子どもがそれ(エネルギーと基本的行動への欲求および飛躍的な想像力−引用者註)を求めており、ぼくたち自身のうちにもそれを要求する芽ばえが多少なりともある以上、ぼくたちはその芽ばえを育てて子どもの要求に合致するものを作りだし、作りだすことによってまた子どもをエネルギッシュな人間にしなければならぬ。

 童話伝統批判は、未明らの童心主義を大人のノスタルジーとして葬り、現実の子供に目を向けようとしたが、そこには「子どもをエネルギッシュな人間にしなければならぬ」という意識があった。童話伝統批判を経て生まれた新しい児童文学が、ノスタルジーとしての子供の代わりに生み出したのは、将来大人になるために望ましい成長をする子供だったのである。新しい児童文学は向日性、理想主義に立脚していたのであり、子供を全的に肯定する点においては、小川未明と何ら変わるところがなかった。
 もっとも、大正期の童話も現代児童文学も、ただ明るく素直なだけの馬鹿みたいな子供を描いていたわけではない。子供が真剣に悩み、傷つくこともある。しかし、それは「大人は分かってくれない」的な子供の純粋さを示すものであったり、望ましい成長のための試練であったりすることがほとんどだ。また、「赤い鳥」
(1919年6月)に掲載された北原白秋の童謡「金魚」などは子供の残酷さを見事に表現しているが、その残酷さもやはり純粋さゆえのものである。
 私は、童話の求めた童心も現代児童文学の理想主義も、悪いものだとは思わない。それらは子供たちの読む文学に必要なものであり、それぞれに意味をもっている。だが、純粋さや望ましい成長にばかり目を向けた児童文学は、子供の持つ重要な一面を隠してしまったのではないだろうか。その結果(と言ってよいと思う)、日本の児童文学は1980年代に入ってから破綻を来し、現在、従来タブーとされていた自殺や家庭崩壊といった暗い問題をも取り込みながら新しい道を模索している。これは、子供が変わったとか社会が変わったとかいうだけの問題ではなく、ずっと隠されてきた子供の持つ性質を、もはや隠しきれなくなったということなのだろう。
 吉行淳之介は、子供の「ひねこびた」面を早くから捉えた。もちろん、吉行淳之介の作品は児童文学ではないので、児童文学が担うべき役割は果さないだろうが、その代わりに児童文学がなかなか描くことのできなかったところを描いたのだ。それは、児童文学が観念としての、あるいは他者としての子供を描いたのに対し、彼が自らの子供時代をモデルにしたことによる。そして、このようにして描かれた子供の世界は、吉行の個人的な世界ではなく、本当の子供の世界なのである。「子供の領分」や「崖下の家」、それに今回問題にする「童謡」などは、いずれもそのことを踏まえておかなければ読めない。


(1)『子供の領分』(集英社文庫 1993年)巻末の「鑑賞」。
(2)河原氏は、知識社会学的な視点から「赤い鳥」などの童話を見て、「子ども」についての社会的な「知」がどのように形成され、定着したかを論じている。児童文学における童心主義の是非を論じているわけではなく、児童文学から生まれた童心主義が時代精神として、社会にどういう影響を与えたかを問題にしているのだ。後に続く私の論から、河原氏が童心主義を批判しているように誤解されては困るので、注記しておく。
(3)「私が『童話』を書く時の心持」(「早稲田文学」1921年6月号)。
(4)『現代児童文学論』(くろしお出版 1959年)所収。


二.作品の成立と背景、従来の研究

 「童謡」は、1961年「群像」(1月号)に発表された。吉行淳之介は十六歳のとき(1940年)、腸チフスのため半年のあいだ隔離病室に入院しており、その体験がもとになっていると思われる。但し、「童謡」は飽くまでも創作である。例えば、吉行の入院中、父エイスケが死亡しており、父親に対して複雑な感情を持っていた吉行(註1)にとってそれは大きな事件だったはずであるが、そういったことは「童謡」には全く出てこない。また、1940年という時代を感じさせることも、「少年」の病気が腸チフスであるということも書かれていない。吉行淳之介の個人的な事情は、この作品では徹底的に削ぎ落とされているのである。その理由は、鳥居邦朗氏が吉行の文学と病気との関係について言った次の言葉にあるのだろう。

生涯の多くを病気の中で過ごした作家は少なくないが、それらの文学と比べても、吉行の病気を扱った作品はやはり個性的である。まず病気があって文学があるという形ではなく、吉行の文学があってそこに病気が素材として働いているというような形になっているらしい。(註2)

 余談ながら、私は恋愛とか病気、貧困といった個人的なことをくだくだしく述べる小説が嫌いである。論理的な理由はないが、生理的に受けつけないのだ。だから、娼婦との交渉や病気のことばかり書いているらしい吉行淳之介にも最初は興味がなかった。だが、稲垣足穂が吉行のことを「本物」と言っているので不思議に思い(足穂はいつも生活を書く作家を徹底的に罵る)、この春休みに何冊か読んでみて、いっぺんに好きになった。別に足穂が認めているから点を甘く付けたというわけではない。私が吉行の文学に好感を持ったのは、それが鳥居氏の言うようなものであるためなのだと思う。
 鳥居氏の言葉だけでは少し分かりにくいので、川村二郎氏の、吉行の恋愛小説『闇のなかの祝祭』に対する評言を挙げておこう。

(前略)物語の中に定着される一つの情景のイメージは、作者にとって切実な何らかの経験に支えられていると考えなくては理解できぬほど、熱っぽく、またなまなましい。しかしそれは、反復されて全く異なったシチュエーションに組み込まれることによって、経験の持つ一回的な性格を喪失し、いわば音楽的なモチーフと化する。(中略)その幾つかをモザイクのように組み合せ、はめこむことによって、私的な経験のぬくもりをとどめたまましかも堅牢な工芸品へと、作品を仕立て上げる点に(吉行氏の独特な秘密は−引用者註)ある。(註3)

 経験がその「一回的な性格を喪失」し、作品が「堅牢な工芸品」になっているというのは、『闇のなかの祝祭』だけでなく吉行淳之介の文学全体の特徴であり、それはもちろん「童謡」についても言えることである。
 もう一つ、この作品の成立と背景を考える上で重要なのは童謡のことだ。「童謡」という題名について、西郷竹彦氏は次のように言っている。

 『世界童謡集』という一冊の本の中の童謡の文句に触発されていくつかの短編を書いたというのが作者の創作の動機です。童謡というものは、作者もいうとおり、子どものためにおとなの書いたものです。まさにそのことのなかに、子ども自身の歌でもなく、おとながおとなのために歌ったのでもないという性格があります。子どもからおとなへの成長の端境期にあるこの主人公の姿はまさしく童謡のこの性格によって象徴されているともいえましょう。(註4)

 西郷氏の言うことも間違いではないかもしれない。しかし、やはり西郷氏の理解は少し足りないように思われる。「作者もいうとおり」というのが何を指しているのか分からないが、吉行淳之介は「白い半靴」(「別冊文芸春秋」1967年6月号)という作品の中で、童謡について次のように語っている。

作者は、例外はあるにしても、みな大人である。その大人たちは、子供たちのために歌や話をつくっているのだろうか。そうではあるまい。自分自身の底に澱んでいる幼年時代の中に、作者は潜って行くのだろう。それならば、童話や童謡は、大人のためのものか。そうもいえる。しかし、子供というものは、そこにある残酷さに、十分耐え得るものに間違いない。

 一つには、吉行は西洋の童謡の「残酷さ」を意識しており、それが「ああ、ああ、この身はわたしじゃない」と「少年」を苦しめる残酷さにつながっているのである。また、吉行の考える童謡の性格が「童謡」という作品の性格にも共通しているのだが、それについては後述する。
 ところで、本作品に関する研究は非常に少ない。文学研究としては発田和子氏の「吉行淳之介『童謡』の成立−
或る虚構への軌跡(註5)があるだけである(未見)。吉行淳之介の研究は比較的盛んに行われているのだが、「暗室」や「砂の上の植物群」など、性を通じて人間存在の根源を抉り出すような作品ばかりが注目されているらしい。また、国語科教材としての研究の方はあまり真面目に探さなかったが、先にも引用した西郷竹彦氏の「題名と主題・思想」及び井上敏夫氏の「叙述を正確に読み取る力」(註6)だけが見つかった。しかし、西郷氏の論は客体化とか反射視点とか言うばかりで作品分析はあまり緻密でないし、井上氏の論文は「童謡」について述べている部分は一ページにも満たない。
 そこで今回のレポートでは、西郷・井上両氏の考えには必要に応じて触れるが、あまり従来の研究を気にせず、作品を物語の展開に沿って叮嚀に読むことだけ心掛けることにする。


(1)「砂の上の植物群」「夏の休暇」などには、父親に対する複雑な意識が表れている。
(2)「吉行淳之介研究案内」。鑑賞日本の文学28『安岡章太郎・吉行淳之介』(角川書店 1983年)所収。
(3)「闇の中のユートピア」。山本容朗編『吉行淳之介の研究』(実業之日本社 1978年)所収。
(4)「題名と主題・思想」。『西郷竹彦文芸教育著作集』第二十巻(明治図書 1978年)所収。
(5)「国文目白」第19号(1980年2月)。
(6)「教育科学国語教育」228号(明治図書 1977年1月)。


三.作品分析

 「童謡」は、一行空きの形で六つのパートに分けられている。それぞれの部分ごとに、詳しく見てゆくことにする。

1.少年の発病
 入院した少年を、友人が見舞いに来る。友人は「君は、蒲団の国へ行くわけだな。あそこはいいぞ。」と、慰めているとも本当に羨ましがっているともつかない調子で言い、饒舌になって童謡を口ずさんだりする。何ということもない情景だ。しかし、「童謡」を通読した後でこの部分を読むと、私には吉行淳之介の「目玉」
(「小説新潮」1988年10月号)の中の、次の部分が思い出された。

 白内障という眼の病気があって、私は五十一年の末に両目に発病した。そのときから、私は埴谷さんの白内障の後輩になった。ゴルフとは私は無縁のままだが、後輩ができると嬉しいものらしい。いろいろ講釈したり、用具の世話をしたり、プレイについていじめたりして、喜んでいる。白内障にも同じようなところがあって、埴谷さんからときどき電話がかかってくる。

 埴谷さん(埴谷雄高)は電話で「(コンタクトレンズを嵌めたままで寝ると−引用者註)角膜に傷がついて、これが痛い。夜中に寝床の上に起き直って、痛いのを我慢しなくてはならないんだぞ。わははは」と怖がらせたり、「君の眼は、手術までにあと七年はもつよ」と慰めたりする。
 この「私」と埴谷さんとの関係は、「童謡」の少年と友人との関係にそっくりだ。つまり友人には最初から、少年に「この友人は、自分を憎んでいたのかな」と感じさせる要素があったのだと、私は思うのである。もしかしたら、初めて見舞いに来た時の友人にも、立つことができなくなった後の少年なら不快に思うような態度があったかもしれない。あるいは、少年がすでに「自分だけ生きている人間の平面からずり落ちかかっている」と感じていれば、「あそこはいいぞ。」という友人の言葉にすら「うらやましがる実感」ではなく、悪意を感じていたかもしれない。
 物語の展開のなかで変わっていったのは、友人の態度ではなく、少年のものの感じ方なのである。「1」のパートでは、少年は友人の言葉を聞いて素直に「そんなものかな」と思うが、「2」以降では、少年の感じ方、大げさに言えば世界観が変わってゆく。

2.衰弱した少年と友人
 少年は痩せこけて、一人で起き上がることもできなくなってしまい、再び見舞いに来た友人は、少年に「ずいぶん痩せたな。見ちがえたよ。」と言う。
 しかし、少年にとってショックだったのは、そのことではない。「少年の眼にも、その友人は別人のように見えた」ということだ。


心細くなった。相手の眼に、自分が別人のように映るのは当然のことだ。しかし、病弱な友人がこのように眼に映ってくることが、少年を脅かした。生きている人間の世界から、ずり落ちかけている自分を感じた。

 病弱で青白い友人に「若々しい生命力」を見たとき、少年は自らの衰弱しきった醜い肉体を強く意識せざるを得ない。それは「彼自身の肉体が対象化され、客体化されたものとしてある」(西郷竹彦氏)というようなことではなく、強い劣等感によるものだ。だからこそ少年は、周りの人間の目を恐れるようになってゆくのである。西郷氏は、少年の肉体の客体化というコードを用いて作品を読み、その結果「〈自分とは何か〉と問いつづけられていくところ」に「童謡」の主題があると結論付けているが、これは乱暴な話だ。重要なのは、肉体の客体化ではなく、肉体を客体化(意識)せざるを得ない少年の心理の方だろう。
 医師とのやりとりを見ていた友人は少年を慰めるが、「君の家の犬が、君をみたら吠えるかもしれないな。しかし、君はやはり君なんだ。元気を出さなくてはいけない」という言葉には、慰め以外のものが混じっているように少年には思われた。友人に慰め以外の気持ちがあったかどうか、実際のところは分からないが、劣等意識をもつ少年は、その裏返しとして友人の優越感を見たのである。そして、友人の口ずさむ童謡を聞いた少年は、「この友人は、自分を憎んでいたのかな」と疑い、「自分の健康な肉体を憎んでいたのだろうか」と、かつて友人をねじ伏せたことがあったのを思い出す。この部分を読むと吉行の「鳩の糞」
(「小説新潮」1988年11月)の一節が思い浮かべられる。作品中、「私」は友人に「君はこれからの大空襲のあいだに、死ぬことはない。しかし、なにかひどい怪我をするような気がする。焼夷弾で焼け爛れるとかね」と言われるのだが、その後、次のように続くのである。

私は笑ったが、(友人の預言が当たることよりも−引用者註)相手の言葉にこもる陰湿さのほうが気になった。自分では気付かなかったが、その友人がそんなことを言い出すような振舞いが重なっていたのだろうか。
 こういうことは、戦後にも時折あった。友人だとおもっている相手が、不思議なことを言い出す。それは、極端な罵言にも聞える。
 そういうときには、聞き流す。相手にたいする怒りは起らない。呆気に取られた気分になり、とりあえず自分を咎めてみる。

 ところで、少年に「この友人は、自分を憎んでいたのかな」と思わせる友人は残酷である。西郷竹彦氏は「自分を憎んでいたのかな」というのは少年の主観によるのだから「友人の友情か悪意かということの詮議」は無意味であると言っているが、友情か悪意かを詮議しなくても、残酷であるというのは確かなことだ。悪意があったとしたら、もちろん残酷なのだし、なかったとしても「自分でないみたいだ」と痛感している少年に「ああ、ああ、この身はわたしじゃない」と歌って聞かせるのは残酷である。無邪気さというのは無神経さでもあって、人を傷つける。その最も極端な例は『グリム童話』に収められた(初版のみ)「子どもたちが屠殺ごっこをした話」だろう。この話は、子供たちが屠殺ごっこをやって、肉屋役の子が豚役の子の喉をナイフで切り開いて殺してしまうというものである。肉屋役の子には悪意があったわけではなく、無邪気さゆえに友人を殺してしまうのだ。吉行は「私は『童謡』という作品を書いて、子供の残酷さにも触れてみた」(註1)と言っているが、こういったことも考えていたのではないだろうか。

3.少年と少女
 ようやく一人で歩けるようになった少年は、ポケットからキャラメルを取り出す。この場面について、井上敏夫氏は次のように言う。

少年は、「酒でも飲んでみせたい」という大人ぶってみたい心理にいるのであって、「酒を飲んでみたい」という生理にあるのではない。逆に「キャラメルを欲求している」のは、少年の生理であって、心理ではない。とすると、少年は心理的には大人をよそおいたくなりながら、生理的には少年の域にとどまっている、という矛盾した状態にいることになる。

 確かにその通りだ。しかし、少年がキャラメルを欲求する自分の生理を面映いと感じるのは、「心理的には大人をよそおいたくなりながら、生理的には少年の域にとどまっている、という矛盾した状態にいる」という理由だけによるのだろうか。そうではない。井上氏が言っていることは、この場面が成立するための必要前提条件であるが、それだけではこの場面には大人ぶって振る舞おうと背伸びする少年の子供っぽさ(大人は、大人ぶって振る舞おうなどとはしない)しか描かれていないことになる。もっと重要なのは、少年の生理が「危うい足取り」でしか歩けない彼の惨めな肉体の生理であるということだ。

いや、ベッドに寝そべってキャラメルを頬張るのは、恥ずかしいことではない。危うい足取りで歩いていた自分が、立止って、みどり色のガウンのポケットからキャラメルの箱を取出した、そのことが子供染みて面映いのだ。

 少年が自分の生理を恥じるのは、彼が自分の肉体を恥じているからだ。だからこそ、少年は「自嘲の笑いをもらした」のである。また、少年は、キャラメルの粒を箱から出そうとしただけで傾ぐ自分の躯から「ピエロの格好をして、わざわざ危うい足取りで綱を渡ってみせる芸人の姿」を思い浮かべる。西郷竹彦氏は、このことについても「自分の肉体がままならぬものとして客体化されて」いると説明するが、この場面はそんな生易しいものではない。ここに見えるのは、少年の自虐的な態度である。
 少年にとっては、キャラメルを食べるのが子供っぽくて恥ずかしいということよりも、キャラメルを食べたいと思ったり、キャラメルを食べようとしたりすると、必ず自分の肉体を強く意識させられるということが大きな問題になっている。少年の自嘲の笑い、自虐的な態度は全て、自分だけが「生きている人間の世界から、ずり落ちかけている」という劣等感の行き着いたところなのである。
 そこへ少女が見舞いに来る。少年は、自分の最も見られたくない姿を最も見られたくない相手に見られてしまう。少年は、友人が「この少女を愛していたのか」と考えるが、それは少年が少女を愛していたからである。「時折、ぎこちなく言葉を交したこともあった」とあるのは、少女に想いを寄せていたためだろう。「崖下の家」
(「別冊文芸春秋」1957年12月)には、このように書かれている。

 若い娘たちと接触の多い幼年時代を過したにもかかわらず、私は女性にたいして大そう物怯じする子供だった。
 同じ年頃の少女に気軽に口をきくことなど、思いもよらぬことであった。それは、相手を異性として意識しすぎるために、緊張したあげく口のあたりが硬化してしまうのである。

 少年は、「少女の居たたまれない素振り」に、「あらためて友人の悪意を感じ」る。そして、少女が去ったあと、一人で「ああ、ああ、この身はわたしじゃない。」と呟いてみる。自分を憎んでいる友人(少年はそう思っている)の口ずさんだ歌を、自ら口にするのである。ここにも、少年の自虐性が窺える。

4.少年の退院
 少年は病院を出て、転地療養することになり、親戚の家の土蔵の一室にこもる。そこには、少年を憎んでいる友人の眼も、医師の咎めるような眼も、怯えているかのような少女の眼も届かない。そのことは、少年の劣等感を和らげた。翌日から、少年は目覚ましい回復をみせ、わずか十日間で元の体重に戻り、自由に歩けるようになる。
 体重計にのった少年は、「眼の前の体重計に現れている目方を、そのまま両腕の中に抱き取りたい」、「大切な、毀れ易いものを抱き取るように、自分の元通りになった目方をそっと腕でかかえたい」と思う。体重計の針が示す数字は、少年にとって、彼が友人や医師や少女と同じ平面上に生きていることの証明だった。
 ところが、どこか変なのである。少年は、「少女を体重計の上に載せることを夢想」し、彼女の目方を自分の目方と同じように抱き取ろうとするのだが、うまくゆかないのだ。少女の目方は、「よそよそしい顔つき」で少年を拒絶する。少年は少女と同じ世界に戻ってきたはずなのに、やはり違和感を覚えるのである。


5.増え続ける体重
 体重が元に戻ってからも少年は肥り続け、土蔵に入ってから二十日目、少年の体重は初めのニ倍にまで増えた。親戚の人は「まるで手品をみているようだね」と驚き、「別の人物ではありませんよ」と笑う。
 親戚の人の言葉に慰めや軽蔑の意味は見えず、少年は自分でも「別の人物である筈がない」、「自分は自分だ」、「やはりこれは自分にちがいない」と、繰り返し確かめるように考える。しかし、ニ倍に増えた体重計の目方を見ても、少年にはもはや、それが生きていることの大切な証明とは感じられない。少年は「一つの異常な状態から、べつの異常な状態に移行しただけのような気持」になる。
 扨、この「5」の部分はあまり重要でないように見えるかもしれない。「4」から直接「6」に移っても、物語は成立するように思われる。吉行淳之介は、なぜこの部分を書かなければならなかったのだろうか。少年の異常な体験を強調するためか。あるいは実際に吉行少年が体験したことだからか。そうではないはずだ。短編小説において、その程度の意味しか持たない無駄な文章が書かれることはあるまい。吉行淳之介がこの部分を書いたのは、次の一文を書くためだったのだと、私は思う。

 蒲団の上に横たわり、あちこちの筋肉を動かして、少年は二十日前の自分を思い出そうと試みた。

 元の二倍の体重になってしまった少年は、「これは回復といえるのだろうか」と考える。普通なら、ここで思い出そうとするのは、元の体重の自分だろう。しかし、そのとき彼が思い出そうと試みたのは「二十日前の自分」だったのである。病気になる前の自分でも、十日前の自分でもなく、痩せこけて骨だけだった自分を思い出そうとしたのだ。少年はここで、最も忌むべきものである「一つの異常な状態」を「自分」というものを考える際の一つの基準として、更に言えば「自分」というものの本質として、無意識のうちに認めたのである。
 「これで、生きている人間たちの世界に戻ることができた」と喜んでいる少年には、少女の目方が「よそよそしい顔つき」で自分を拒絶したことの意味が全く分からなかった。このような状況で、そのまま「6」に物語が進めば、少年は「もう、高く跳ぶことはできないだろう」などと思わないのではないだろうか。「一つの異常な状態から、べつの異常な状態に移行」し、「二十日前の自分を思い出そうと試みた」ことによって、少年は、ぼんやりとではあるが、自分の内部の変化を意識するようになってゆくのである。作品の結末を導き出すためには「5」の部分が不可欠なのだ。

6.少年の帰宅
 少年の体は「発熱する以前の形」、「元通りの形」に戻り、彼は漸く自分の家に帰る。しかし、少年には一月前(土蔵に入って十日目)のような喜びはない。ここで殊更に強調されているのは、元通りになったのが少年の「形」であるということだ。これは裏を返せば、元に戻ったのが「形」だけだということなのである。中身(心)は元に戻らなかったのだ。
 少年は久しぶりに学校へ行き、走り高跳びに挑戦するが、以前のように跳ぶことはできない。そんな少年に向かって、友人は「すぐに高く跳べるようになるよ。長い間、寝ていたのだからムリないさ」と言う。それは嘘ではない。「そう考えるのが当然」である。だが、少年は「もう、高く跳ぶことはできないだろう」と考える。なぜだろうか。恐らく、「前は、高く跳べたのに」という友人の囁きに残酷さを感じる自分に気づいたためだろう。あるいは、そのような自分が、以前のように無心に走り高跳びの練習をすることはできないと感じたのかもしれない。ともかく少年は、「自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっっきりと形の分らぬもの、そういうものがあるのを」感じる。
 この少年の内面の変化は、成長といえば成長なのだろう。しかし、そこには望ましい成長を果した清清しさといったものは微塵も感じられず、ただ、少年の戸惑いと鈍い哀しみだけが残る。
 蛇足ながら付け加えておくと、少年の戸惑いや哀しみは多分、これから薄らいでゆくだろう。大人になるというのは、そういうことである。少年は哀しみの上に幾重にも膜を被せ、次第に図々しくなってゆくのだ。だが、大人になっても何かの拍子に、その膜に亀裂の入ることがある。吉行淳之介が他の作品で描いている大人の男は、しばしばそういった存在なのではないだろうか。


(1)「童謡と私」(1969年5月 掲載誌不明)。『自家謹製小説読本』(集英社文庫 1991年)より引用。


四.「童謡」の主題

 この作品の主題は、もちろん少年の内面の変化にある。しかし、その内面の変化とは、一体どういったものなのだろうか。このことを考えてみなければならない。
 少年が「酒でも飲んで見せたい年齢」であることを考えれば、素直で無邪気な子供の心を失い、次第に大人びて、友人の言葉の裏に悪意を読み取ったりするようになってゆく変化であるとも考えられる。だが、吉行淳之介は、子供の世界は純粋で大人の世界は不純である、というような二項対立の形では考えていなかったようだ。「子供の領分」
(「群像」1962年4月号)に出てくる少年は小学五年生だが、この少年でも「童謡」の少年と同じくらいに大人びた感情を持っている。例えば、次のような一節がある。

 あらためて、AはBの笑顔を眺めた。「Bが喜んでいてくれる」というよろこばしさと、「Bに恩恵を施した」という気持とが、Aの心の中で混じり合って動いた。しかし、そのとき心で動いたものは、その二つの感情だけではないようにAにはおもえた。それが何か、たしかめようと考えながらBの笑顔に相変らず眼を向けていると、Bの顔が笑顔のままかすかに強張ったようにおもえた。

 このような一種どろどろした感情は、一般に子供らしくないと受け取られるが、実際にはどんな子供も持っているものではないだろうか。本稿のはじめにも述べたように、純粋無垢でなどないというのが、本当の子供の姿なのである。純粋さの喪失というのは「童謡」の少年の変化とは言えない。
 ただ、吉行淳之介の考え方や「子供の領分」など他の作品のことを考えなければ、やはり「童謡」には純粋さの喪失が描かれているようにも思える。それはどういうことなのか。これを説明するために、私がかつて宮沢賢治の「オツベルと象」について書いた文章を紹介してみたい。私はこの作品のなかの「時には赤い竜の眼をして、じつとこんなにオツベルを見おろすやうになつてきた」という一文に注目し、次のように書いた。

 オツベルを殺したのは、山の象どもであった。しかし、その象どもを呼んだのは他ならぬ白象である。「ぼくはずいぶん眼にあつてゐる、みんなで出て来て助けてくれ。」と手紙を書いて、赤衣の童子にことづてたからこそ、山の象どもは助けに来たのである。つまり、オツベルの死刑を執行したのは象どもであったとしても、その死刑執行を決定したのは(本人にその意志がなかったとはいえ)白象自身だったということになる。
 白象が助けに来た象どもに感謝の言葉を述べる場面は、二度ある。一度目は「今助けるから安心しろよ。」という優しい声に「ありがたう。よく来てくれて、ほんとに僕はうれしいよ。」と象小屋の中から応える場面であり、ニ度目はオツベルが死んで助け出されたあと「ああ、ありがたう。ほんとに僕はたすかつたよ。」と言ってさびしく笑う場面である。この二つの言葉には大きな意味の違いがあるように思われる。一度目の言葉は、心からの感謝だろう。だが、ニ度目の言葉はそうではない。「さびしそう」なのである。このさびしさは、助けに来た仲間たちがオツベルを殺してしまったことへの批判ではない。自分自身に向けられたものだ。
 白象は自分の中に赤い眼のあったことを知ってしまったのだ。白象というのはalbinoであるから、その眼はもともと赤いものであった。オツベルの酷い仕打ちに反応して赤くなったわけではない。ただ、白象はこれまで自分の中に「赤い竜の眼」があることを知らずにいた。それが白象の純粋さを保っていたのである。白象は自分の中に人をも殺しうる一面があるということを知り、さびしく笑うのである。
 畢竟するに、この作品はオツベルを批判するためのものではなく、誰もが「赤い眼」、つまりオツベル性を自分の内に持っているということを知る、その哀しみを扱っているのではないか。白象は自分の中にもオツベルと同じ性質があり、自分もオツベルも結局は他人を踏み付けてしか生きられなかったのだ、ということを悟ったのだ。(註1)

 もちろん「童謡」と「オツベルと象」とでは主題が異なる。しかし、作品の構造は全く同じである。

「童謡」(少年) 「オツベルと象」(白象) 備考
1 友人の言葉に、素直に「そんなものかな」と思う

2〜3 友人の言葉の裏に悪意を見たり、自虐的な気持ちになったりする

4 「これで、生きている人間たちの世界に戻ることができた」

5 再び災難に遭う。

6 欠落したものと新たに付け加わったものとがあるのを感じる
騙されているとも知らず、働くことの楽しさに酔う

「赤い竜の眼」


「いま助けるから、安心しろよ」と声をかけられたときの喜び

象どもがオツベルを殺す

さびしく笑う



もともとある性質の表出




「6」を導き出す事件

性質の認識

 「1」の少年が「2」から「3」にかけて変化してゆくように見えるのは、白象の「赤い竜の眼」と同じように、もともとある性質が表れ出ただけなのだ。白象が「赤い竜の眼」を全く自覚していないのに対して、少年の方は痛みを感じているという違いはあるが、少年にしてもやはり、自分の痛みの原因が何であるかを知ることはできない。少年は「2」、「3」に見られる感じ方や考え方が、自分のもともと持っている性質だということを認識していないのである。だから「4」で体重が元に戻ったとき、「これで、生きている人間の世界に戻れた」と安心する。この安心は、「子供の領分」の結末でA少年が感じることと同じ意味を持っている。A少年はB少年に対して何度か純粋でない感情を抱くのだが、道端に落ちていた雀の仔のことでB少年と争ったあと、彼は次のように感じるのである。

 取残されたAは、坂道の途中で棒立ちになっていた。Bに烈しく振払われた手の甲は、赤く腫れていた。口惜しさが、Aの心の中で疼いた。と同時に、その赤く腫れた肉は、Bに対して償いをした跡のように、Aの眼に映ってきた。

 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言えば言い過ぎだが、「4」の少年の喜びもA少年の感情も、目の前にある具体的な問題が一応解決することによって、自分の持っている暗い面のことを過去のものとして意識の外に追い出してしまう働きをしている。
 ここまでの部分では、「童謡」の少年は「子供の領分」のA少年と同じレヴェルにいるわけで、「酒でも飲んで見せたい年齢」の少年、すなわち大人になりかけている少年の、本質的な「変化」はない。
 少年の本当の変化は、この後に起こるのである。「子供の領分」のA少年が「それが何か、たしかめようと考えながら」も結局は確かめられないのに対して、「童謡」では、「5」の事件を経験することで、少年は「もう高く跳ぶことはできないだろう」と考え、「自分の内部から欠落していったもの、そして新たに付け加わってまだはっきりと形の分らぬもの」があるのを感じるようになってゆく。白象がさびしく笑ったのと同じように、自分の中にあった性質に気づいたのだ
(註2)。少年は自分の性質に戸惑い、哀しみを感じるが、それでも自分というものの性質をある程度客観的に認識するようになってゆくのである。
 ところで、この変化を良い大人になるための好ましい成長と言って片付けてしまうのは誤りである。この変化を経ても、その後の少年が良い大人になるかどうかなどということは全く分からない。例えば、「少年はこの変化によって、これからは病弱な友人をねじ伏せたりはしなくなる」と考えてはいけないのだ。だが、私はこの変化はやはり意味のあるものだと思う。少年はこれからも、友人をねじ伏せるようなことをするかもしれないが、悪意を持たずに平気で友人をねじ伏せる無神経な人間にはならないはずである。友人をねじ伏せるときには必ず、はっきりと自分の悪意を認識するはずだ。やっていることは同じでも、その違いは大きい。

 少年の「内部から欠落していったもの」とは、自分の性質を認識しないことによる幸福であり、無神経さであった。そして「新たに付け加わっ」たものとは、自分の性質を認識した上で自他を見る眼であった。扨、この変化は「童謡」の少年にだけ起こった特殊な変化なのだろうか。確かに、この作品では少年を最も弱い立場に追い詰めた特殊な病気が変化をもたらす大きな原因になっている。しかし、「酒でも飲んで見せたい年齢」も大きく関係しているのである。程度の差はあっても、この変化は大人になってゆく過程で、誰にでも訪れるものなのだ。


(1)全文参照 www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/2951/otuberu.html
(2)この点がなかなかうまく説明できないのだが、少年と友人との関係に絞って言えば、少年にとっては、友人の言葉の裏に悪意を見たことよりも、友人の言葉の裏に悪意を見る性質が自分にあるということを認識したことの方が本質的な変化であったということになる。


五.おわりに

 本稿のはじめに私は、吉行淳之介の描く子供の世界は本当の子供の世界であると述べた。しかし、「童謡」などの作品を読んで子供が簡単に共感できるかと言うと、そんなことはないと思う。吉行は、自身の子供時代をモデルにした作品について次のように言っている。

 それまでの沈澱蓄積型(生きてゆくうちに、なにやら躯のなかに沈澱してくるものができる。それがしだいに蓄積してゆき、もやもやと重苦しくなってくる。それを吐き出さないではおられない心持になってくる。−引用者註)の場合は、「現在」に場面を設定することになっていた。しかし、そのような悠長な方法、時間をかけて発酵するのを待っている方法では、間に合わない。したがって、すでに発酵している筈の題材を探すことにした。すなわち、過去のなかにも題材を探すことにしたのである。(註1)

 吉行淳之介にとって、作品を書くためには「発酵」が不可欠である。子供時代のことも、それが十分に発酵しているから書けるのだ。本稿で引用した「白い半靴」の言葉で言えば、「自分自身の底に澱んでいる幼年時代の中に、作者は潜って行く」ということになる。このような作品を、今まさにその時代を生きている子供が読めば、やはり違和感を覚えるだろう。だが、「子供というものは、そこにある残酷さに、十分耐え得るものに間違いない」(「白い半靴」)のである。なぜなら、その残酷さが、子供の本当の世界だからだ。
 「童謡」は、三省堂『現代の国語 中学3』
(昭和四十年文部省検定済)に初めて教材として登場し、途中から高等学校の教科書に掲載されるようになった。現行教科書では、尚学図書『新選現代文』がこれを採用している。教材としてこの作品を扱う際、最も読み取りの難しいのは最後の場面である。だが、この場面があるから「子供の領分」などより理解しやすいとも言える。この場面は、少年のこれからの「発酵」の第一段階なのである。そこを読み取ることで、まだ「発酵」しきっていない生徒にも作品を理解することができるだろう。
 なお、「白い半靴」には「童話や童謡は、大人のためのものか。そうもいえる。」とも書かれていた。今のところ、私には教材として「童謡」を読む興味はないので、こちらの方が重要である。吉行淳之介は、子供の世界と大人の世界とを断絶したものとして考えていない。「童謡」の子供の世界を大人として読むということは、過ぎ去った別世界の話を読むということではなく、自分の一番根っこの部分を見つめなおすということなのである。


(1)「小説の処方箋」(1959年12月 掲載誌不明)。『自家謹製小説読本』より引用。




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