薄板界の哲学−稲垣足穂
今井洋一
はじめに
西欧の二十世紀芸術に触発されて誕生した新感覚派のモダニズム文学は、結局のところニセモノだった。稲垣足穂は戦後、横光利一について「何かを感じて苦闘を続けながら、ケレン的空転に終ったかのようである。」、「誠実ではあったが、その方法は書生的衒気を出なかった。」と回想している(註1)が、それは横光利一のみならず新感覚派全体に対する評言として的を射たものだと言えるだろう。新感覚派の本質は「ケレン」「衒気」でしかなかったのである。
ところで、新感覚派に対するこのような評価は、横光に誘われて「文藝時代」の同人に加わった稲垣足穂自身にも、そのまま跳ね返ってくる可能性をもっている。横光は「旅愁」(1937年)を書かざるを得なかった−モダニズム文学の敗北を宣言せざるを得なかった−わけだが、足穂もまた、第二次大戦中に「彌勒」(註2)を執筆しているのだ。この作品は、それ以前の足穂の幻想的な〈童話〉とは全く傾向の異なる心境小説風の作品だった。一見すると、足穂も横光と同じ挫折を経験し、方向転換したように見えるのである。
しかし、白川正芳は『稲垣足穂』(冬樹社 1976年)の中で「足穂は第二次世界大戦および敗戦に本質的な影響をうけていない作家である。彼の文学はつねに未来派に属しており、一貫してシュールレアリストである。」と述べ、「シュールレアリスムの世界」と「私小説風の世界」とを併せ持つ「彌勒」がその根底に「強靱な哲学、思想」を有していると指摘する。白川のこの言葉は、「彌勒」が足穂の転向宣言ではないという主張であり、同時に、初期の作品が転向を迫られるような脆い文学ではなかったということをも意味するものだろう。また、高良留美子も「彌勒」を次のように評している。
この作品の、ことに前半は、一読してわかるようにかなりモダニスティックな作風を持っているが、戦争期にはいってたちまち崩れ去った多くのモダニストのものとちがって、自由奔放に書かれながら、固有の思想と想像力にもとづいた、しっかりした構成をもっている。(「『存在』と文学」註3)
さて、僕も白川や高良の考えに全面的に賛成なのだが、「彌勒」のことはまた別の機会にゆずるとして、ここで考えたいのは足穂の初期作品のことである。「彌勒」が白川や高良の言うようなものであり、足穂の転向宣言でないのだとすれば、それ以前の作品も一時的な流行から生まれたものなどではなく、「強靱な哲学、思想」あるいは「固有の思想と想像力」を内に秘めているはずだ。本稿では、そのことを確かめるため、『ヰタ・マキニカリス』(註4)に収められた作品の中から《薄板界》という奇妙な世界を描いた「タルホと虚空」「童話の天文学者」、それから「うすい街」を取り上げて論じてみたい。
なお、これらの作品はいづれも『稻垣足穗大全』全六巻(現代思潮社 1969−1970年)や現代思潮社版『ヰタ・マキニカリス』(1974年)に最終形が収められている。しかし、初期の足穂について考える際、これを用いて論じては正確を期すことができない。そこで本稿では、それぞれ次の雑誌に発表された初出形をテクストとしたい。
「タルホと虚空」…「G・G・P・G」(1925年7月 註5)
「童話の天文学者」…「新青年」(1927年1月 註6)
「うすい街」…「セルパン」(1932年1月 註7)
註
(1)「新感覚派前後」(「作家」1958年9月)。『稻垣足穗大全』第六巻所収。
(2)「新潮」(1940年11月)に第二部のみ発表の後、1946年8月、第一部を加えて小山書店より刊行。
(3)全集・現代文学の発見・第七巻『存在の探究 上』(學藝書林 1976年)解説。
(4)初期短篇を集めた作品集。1930年代に家郷の明石で浄書され、1948年5月、書肆ユリイカから刊行された。
(5)『稲垣足穂詩集』(思潮社 1989年)所収。
(6)『びっくりしたお父さん』(人間と歴史社 1991年)所収。
(7)註6に同じ。
1 「タルホと虚空」
「タルホと虚空」は原稿用紙3枚にも満たない短篇であるが、足穂はこの作品の中ではじめて《薄板界》のことを語っている。その部分を全て引用してみよう。
「−一体僕が考へてゐるのに、この世界には無数のうすい板がかさなつてゐるんだ。それは大へんにうすく、だからまつすぐに行く者には見えないが、横を向いたら見える。しかしその角度は最も微妙なところにあるからめつたにわからぬ。そして、この現実は吾々が知つてゐるとほり、何の奇もないものだが、薄板界は云はゞ夢の世界といふもので、そこへはいりこむと、どんなふしぎなことでも行はれる。僕の月世界旅行はこの別の存在をとほつて行くのだから、おそろしい明暗のギラギラとかゞやいたヘロドロタス山も虹の入江もすぐおとなりだ。一たい、こゝに僕と君といふ二人が、このかぎられた時間と空間のなかにゐるのがほんとうであつたら、同じやうに、同じ僕と君とが、又別の時間と空間とのなかに存在することも可能でないか−もしそれが夢なら、こゝにこの僕たちが歩いてゐるのも夢だよ。ねえ、でなけりや不合理」
これでは《薄板界》がどのようなものなのかよく分からないし、あまり面白くもないかもしれない。特に、最後の「一たい、こゝに僕と君といふ二人が」云々という理屈は、四次元論だか老荘思想だかを聞きかじって無理やり付け足したように見える。幼稚な結末である。しかし僕は、この幼稚な理屈が足穂の文学を発展させてゆく原動力になっているのではないかと思うのだ。
発表されなかったので読むことはできないが、1920年代に足穂は「果して月へ行けたか?」という作品を執筆し、その中には《薄板界》のことも書かれていたという。この作品について、足穂は後に「私の宇宙文学」(註1)の中で次のように振り返っている。
私が考えた発信装置(人間の体を薄板界に入るのに適した形にする装置−引用者註)以外に、元の人体への復元がなければならぬが、其処までは手が及ばなかった。「ぼんやり光った月らしいものが、頭上に拡大されてきた……」これをお終いにするのが精一杯だった。私は佐藤春夫先生の前に持出して、意見を聴くことにした。「それでよかろう」と気むずかし屋が頷いた。「−気が付くと自分の部屋のベッドの上に寝ていた、とするんだね。然し卓上には招待状が載っているので、昨夕天文台へ出向いたのは夢では無い。(後略)
二十年以上昔のことについての記憶なので、このやり取りがどこまで正確なものであるかは分からない。しかし、ここには二人の作家の幻想空間に対する姿勢の違いがはっきりと表れているように思われる。佐藤春夫は淡い幻想空間を構築し、文学作品を書くための基本的な手法を教えようとしているのだが、足穂が気にしているのは、飽くまでも現実問題としての「元の人体への復元」という理屈なのだ。このことは、佐藤春夫が芸術の中にのみ存在するものとして眺め楽しんだ幻想空間が、足穂にはそのような余裕をもっては捉えられなかったということを意味する。先に引用した「タルホと虚空」の中で「夢」という語の持つ意味が非常に微妙なものになっているが、それもこのことと無関係ではないだろう。
おそらく、佐藤春夫の方が作家として普通なのであり。足穂はパラノイア的と言われても仕方ないかもしれない。だが、もし足穂が佐藤春夫に教えられた通り書くような作家であれば、彼もまた、一時は斬新な夢を紡ぎながら次第に才能を枯渇させて消えていった他の同時代作家と同じ運命を辿っただろう。足穂にとって、幻想の世界は創造するものではなく、探究すべき現実世界だった。だからこそ足穂は、理屈を考え続けなければならなかったのである。
さて、子供たちが一様にふしぎなものに惹かれる心理とは?
注意すべきは、このふしぎなものが、そんな言葉で云い表わされこそすれ、原則的には、好奇心の満足や、感覚の刺戟を目標とするものではないということである。そういう架空や作為やは子供たちの魂を毒する以外何の働きをするものでもない。云わんとするところのふしぎは、現実を超えた現実。刻々に変転推移していっこうに拠るべのない日常生活の背後に匿くまわれた「恒久の領土」因果律の上位にあるところの本体界。(「子供たちと道徳」註2)
「タルホと虚空」には「理屈つぽく夢想的な人々のための小品」という副題が付けられていた。この「理屈」は、「童話の天文学者」において完成することになる。
註
(1)初出は『悪魔の魅力』(若草書房 1948年)。「作家」(1957年2月)掲載の改訂版が『稻垣足穗大全』第一巻(現代思潮社 1969年)に収録された。引用はこれによる。
(2)初出は『悪魔の魅力』。引用は『がんじす河のまさごよりあまたおはする仏たち』(第三文明社 1975年)より。
2 「童話の天文学者」
この作品では、《薄板界》を発見するための資質と条件が次のように明かされている。
吾々があるいているとき、ショーウインドーや音楽や人や自然物などに気をひかれてふいと首をまげさせられるのも、かく説く人の意見をもってすると、春の野べに立つ糸遊のごとくにデリケートな薄板がそれら物象をかりての誘惑ときめられる。そんなとき吾々の目が適当な角度に止ったなら、吾々はその音楽なりうつくしい顔なり花なりを中つぎとしてはてもしられぬ美の領域にはいるを許されるはずだが、大ていの場合は顔をまげる運動にかすめる切線においてのみ黒板をみとめるだけであるから、その奥にそんなものが存在しようなどとは気ずかないですぎてしまう。そうかと云って全く知らないのでもない。よくわき見をしたがる人は、黒板がチラッと網膜をかすめる瞬間だけにおいてもすでにある種の気持があたえられるので、何云うともないその夢心地を求める素質をもっていると説明される。それと云うのも、吾々がそのために本然の意義をくらまされているかの実用性に逆行する注意があたえられるということに他ならぬが、一つに黒板はそれほどの魔力をそなえたもので、かかる作用はまた近来霊怪現象研究家の説くところと一致して白昼より夜間により強く行われる。
《薄板界》を発見するためには「わき見」をする才能がなければならない。この発想は衝撃的である。僕たちは幼い頃から「危ないから前を見て歩きなさい」「ちゃんと前を向いて先生の話を聴きなさい」と叱られ、大人になっても「目の前の現実を直視しなさい」「前向きに生きなさい」と諭されている。手話では「一生懸命」という語が視界の両側を遮り前だけを見る動作で表現されるのだそうだが、僕たちはそういう生き方が最良のものだと教え込まれてきたのである。しかし、足穂の「わき見」論は、そのような価値観を根底からひっくり返してしまう。前だけを見る「実用的」な生き方によって、人は「本然の意義をくらまされている」と言うのだ。そして、この「わき見」の才能を持った人に対して、《薄板界》の方からは「夜間により強く」作用してくる。
これは、徹底した非実用の思想なのである。では、この《薄板界》とはいったい何なのだろうか。「童話の天文学者」には、《薄板界》を形成する薄板「夢の板」が「古い書物に示されているように現実界にもまださまざまな不思議が起っていた頃、空気にまじってひろがっていた夢の結晶したもの」であり、「その昔、電気のようにあたりにみちみち、木や人や水に作用していた夢がかたまったものであるそれらの黒板のなかには、今もって吾々にはうかがい知るを許されぬ驚異が起るはずである」と記されている。そして、この世界では「国家や人種の区別はむろん、かかる一切の外形的条件については何の制限もなく、ただある基本的原理以外は、各人の自由にながるる心の色合、趣味性とも云わるべきものによるさまざまな区別が行われるのみである」、「変幻自在な薄板界はそれに働きかける個性のそのときの傾向にしたがって千万にかたちをかえる」というのだ。
足穂は、「アラビアンナイトやアンデルセンなどという荒唐にして優婉な物語の作者たちは、あるいはその秘密は薄板状の世界を見得たのみか、みずからある程度まで侵入し得る能力をもっていたのではないか」と考える。では、足穂自身の「傾向にしたがって」現れた《薄板界》は、どのような世界であったか。それは「うすい街」で語られている。
3 「うすい街」
足穂はこの作品で、人間的なものを全て排除した世界をつくり出した。この世界の住人は「何か光を包んだ少量の物質だという感じ」で、「男か女か、子供か大人かを全く判らせない」、「菫色の人々」である。「菫色」とは足穂の作品の中によく出てくる色だが、たとえば次のような用例がある。
われわれ一般人はこの虹色配列の一端に過ぎぬ赤色部に置かれて、赤外部にはみ出しながら、ホモエコノミックスとして右往左往している。彼らはドアをあけるどころか、眼前に赤以外の多種多様なドアが並んでいることにさえ気が付かない。唯物論的弁証法だって要するに食うだけの世界を出ない。古来からの各戦争は領土拡張、即ち食糧戦であった。この食うことをセックスに結び付けたのがフロイトである。(中略)フロイト派はVとPとのトリコになって、VとPを支えている無限界へは踏み出すことが出来なかった。欠けているのは、スペクトルの「赤色」とは対極関係にある「菫色」への憧れである。(註1)
さて「うすい街」は、頭の「対蹠点の文明」である。これはフロイト派のVとPに対立する文明である。フロイトの文明が自然な文明だとすれば、足穂の築こうとした文明は反自然の文明と言えるだろう。だから「うすい街」からは人間的なものが排除されているのである。では、なぜ足穂はそのようなことをしなければならなかったのか。
昇華された生殖行為の余剰エネルギーが文明を築く、というのがフロイトの考えらしいが、これは上手く行かないと傾城の恋ということになってしまう。クレオパトラの鼻の高さで歴史が変わってしまうのだ。このような文明は、男と女がセックスを媒介としてもたれ合っているだけのものに過ぎない。そして、傾城の恋ならまだロマンチックにも聞こえるが、一般にはこのようなもたれ合いは、次の状況の下に成り立っている。
一箇のPと交渉を生じたVの上には社会的制約が加えられ、子孫の誕生を予想する全注目を引受けねばならないし、未だ何ら交渉を有しないVに対しては、多くの男性の獲得的追跡がかけられるか、あるいは一種の侮蔑を蒙り、恰も該女性の全身がVであるかのような扱いを受けざるを得なくしている……(註2)
もたれ合いと言っても、それは女性の犠牲によるものなのである。また、このことは女性のみの悲劇ではない。男性も、もし彼が「女性の全身がVである」と思っているような人でなければ、個性として扱われないことに慣れ切った女性と接していて、どこが面白いだろう。足穂はこの状況に対して、「きわめて皮相なものにしかすぎない男女性別」(註3)を超越するものとしてのA感覚を提示するのだ。「うすい街」には、「人間は何人も両性であってこの互に相反すると考えられがちな二傾向が合一完成したときに、すべて吾々に於けるうつくしきものが出現したのだ」とある。
後期の足穂のライフワークとなったA感覚論、少年愛論の基礎が、「うすい街」を書いた時点ですでにあったのである。これは驚くべきことだ。ところで、ここで注意しなければならないのは、A感覚は性の一形式などではなく、もっと精神的なものであるということである。
「VP両感覚が代表している自然性」に対するA感覚的レジスタンスは、きわめて抽象的なものであって、卓上のカードの城から数学的宇宙模型に到るまでのあらゆる系列をそれぞれに成就しようとする。これら有形無形の機械学的工作に対して、そのおのおのが少年的ヴィジョン即ち「幼な心」の展開だと云ってよいならば、其処に一般大人の原理が、まして女性的心情などが参加しているわけはない。
(中略)A感覚は、(V感覚と違って)もともと「セックス以前」へのノスタルジーであるから、P的伴侶を必要としない。(註4)
「卓上のカードの城から数学的宇宙模型に到るまで」の「機械学的工作」とは人工的で硬質なメルヒェンや『宇宙論入門』(1947年)に相当するが、PとVのもたれ合いから解放されたA感覚は、それらを生み出す原理としての「幼な心」、「ノスタルジー」を一つの形にしたものである。そして、このA感覚を最も純粋に精神化できるのは、まだ「自然性」に縛られていない少年だ。「すべて私たちにおける高貴な仕事は、七歳から十四歳まで即ち余り情慾に智能を乱されない期間において為されてきた」のである。
足穂は少年の精神を基調とする理想郷をつくり上げようとした。それは、やはり実用性に逆行する世界である。
註
(1)『男性における道徳』(中央公論社 1974年)。
(2)「異物と滑翔」。「異物と空中滑翔」として「群像」(1955年10月)に発表の後、改訂され『稻垣足穗大全』第三巻(1969年)に収録。
(3)「ヴァニラとマニラ」(「南北」1968年3月に発表)の中の言葉。引用は『ヴァニラとマニラ』(仮面社 1969年)より。
(4)『増補改訂 少年愛の美学』(角川文庫 1973年)より引用。
